21

「……なんでラチェットがいないんだ?」

隣の会議室にもどって最初に感じた違和感は、それだった。

部屋には妻と犬、エドの息子であるマキ・サンクタムがくつろいでいたが、他には誰もいない。妻はぼんやりと窓辺から外を眺めていたようだが、振り向くと、

「あら。娘を管理できなくてごめんなさい。食事に薬を入れるとか鎖でつなぐ案も考えたけど、姉ふたりと同じように好きにさせるよりましなことを思いつかなくて」

そんな皮肉を言ってくる。

不機嫌かどうかを推し量る意味もない──ここ数週間では特に。彼女が怒っていないのは分かっていた。長年、ともに頭の痛い問題を支え合ってきたが、最難関の試練はやはり娘たちだった。原大陸の魔王にも、その妻にも手に余る問題だ。

疲れた身体を引きずって、ソファに寝そべった。目を閉じてつぶやく。

「帰ってきたらお仕置きだ」

「あなた、あの子が十歳になったあたりから叱ったこともないでしょ」

妻の声は少し笑っていた。

しばらくまぶたの裏を眺めていたが、眠れなかった。うとうとしかけたところで妻が言ってくる。

「今なら止められるわよ?」

目を開けた。

身を起こして、妻のいる窓辺に寄る。

馬車が一台、庭を進んでいた。マヨールが動かしている。荷台に積んだ木箱の隙間に隠れるようにして、ラチェットやサイアン、ヒヨの姿が見えた。

「ぼくだけおいてけぼり。いつものことだけど」

不満そうにマキがうめく。

妻が答えた。

「あなたになにかあったら、エドは自制しないでしょ」

「俺だってどうだか」

オーフェンはつぶやいて、ソファにもどった。

「叱らないのは、叱った分だけ大人になっちまう気がするからだ」

その後、ようやく眠りについた。

数分か……もう少し経ったか。曖昧な夢見の中、突然、激しく扉の開く音がした。

いつもならもっと先に気配を察して身体が起きる──裏庭にきつねが迷い込んでも目が覚めると言い張っているのに妻と娘には信じてもらえない(まあ嘘なのだが)──が、目が覚めなかったのはかなり深刻に疲労していたのだろう。

部屋に飛び込んできたのはシスタだ。困惑が形を作ったような顔をしている。

「偵察から連絡が!──あの、アキュミレイション・ポイントの」

泡を食った様子で言葉もまとまっていなかった。

「船です! ガンズ・オブ・リベラルが動き出したと、報告があって」

「沖に動かすのは想定内だろ。だが砲の射程より遠くには出ないはず──」

なんだと思って言い返すのだが。

シスタは引かなかった。

「沖にじゃ……ありません」

普段小生意気な女がすっかり動転したその様はそこそこ見物ではあったのだが。

どうもそういった状況ではなさそうだと察して、妻と顔を見合わせた。


四時間後、浮遊するガンズ・オブ・リベラルはラポワント市上空に差し掛かったところで、ゆっくりと高度を下げてきた。

可能ならば街に入ってくる前に撃沈したかったが、アキュミレイション・ポイントの海を離れてラポワント市まで、雲にかかるほどの高度まで上昇し、まったく手がとどかなかった。空の彼方かなたから黒い要塞船が降りてくるその姿はある意味、騎士団を壊滅させたドラゴンよりも衝撃的だ。船はまだ乾いていないのか、下にはぱらぱらと海水が降ってくることがあるという。

要塞船が降りてくるのは恐らく、スウェーデンボリー魔術学校の正面、二キロほどの街中だ。こちらに舷側を見せているのは、砲撃してくるつもりだろう。

言うまでもなく市内はパニック状態だった。学校の中も、そう変わらない。ガンズ・オブ・リベラルは黒い船体に白い魔術文字を輝かせ、光の翼か帆のように広げている。

オーフェンは第一教練棟の屋上に立って、それを眺めていた。風が吹いて教員ローブをはためかせる中、すべてを見渡す。足下で騒ぐ人々も、防護壁の上に並ぶ魔術戦士たちの後ろ姿も、傍らに控えるディープ・ドラゴンと、エド・サンクタムも。

ひとまず、妻やマキも比較的安全と思える後方の校舎に移した。避難民たちもだ。それでも都市戦くらいまでしか想定していない壁や校舎が船の火砲にどれだけ耐えられるか分かったものではない。

風に逆らうように前のめりに、オーフェンは要塞船を睨み据えた。うめく。

「こーう来たか。さっすっがっにこれは予測してなかったからって責められないよな」

「責められるだろう」

愛想のないエドのつぶやき。オーフェンは首を振った。

「まあそうか。どうせ一番うまくいってる時でも責められるしな」

「で、どうする?」

「こっちも学校を飛ばして対抗するか」

「飛ぶのか?」

「飛ばねえよ」

否定した。エドは歳を取ってもいまだにこういったことを真に受ける癖が残っている。

オーフェンは横目で彼を見やった。

「向こうから来たってやることは変わらん。手を伸ばして叩き潰すだけだ」

市内の騒ぎは、単に市民がパニックになっているだけでもない。

報告がいくつか入っていた。市に潜伏していたヴァンパイアが学校に向かって集まりつつあると。どれだけ連携しているのか分からないが、ガンズ・オブ・リベラルの攻撃に合わせて乗り込んでくるつもりだろう。

アキュミレイション・ポイントではなくここが戦場になる。

「騎士団はここに残す。お前が指揮して守れ。あの船は俺がやる」

「空間転移か?」

それが二番目に手っ取り早い。が。オーフェンはかぶりを振った。

「やるなら甲板上にか。だが下からは死角だ。罠が用意されてるだろうな」

「ならここから破壊するか」

一番手っ取り早い。しかし、やはり同じく、

「あれをこの距離から、魔術文字をも貫いて爆砕するほどの術を使ったら、ここもニューサイトの二の舞だ」

彼らは要塞船の切り札を、街と学校を人質にすることに使ったのだ。

かがんで、犬の首を撫でた。ディープ・ドラゴンはこちらを見上げて黒い瞳を輝かせている。

「奴ら、パフォーマンスでの戦いは放棄したな。あれを見せつけられたらもう、魔術士が魔術を独り占めしているとは言えなくなる。大統領邸に交渉を打ち切られて、強攻策に切り替えたか」

つぶやくオーフェンに、エドが訊ねてきた。

「打ち切ったとどうして分かる?」

「証拠をテーブルに並べて知性を呼び起こし洞察すれば自ずと──」

ゆっくり手を振って言いかけてから。

相手のしらけた眼差しを見て、オーフェンは言い直した。

「大統領邸の人間に会った。だから知ってる」

砲声がとどろいた。

空を潰すような衝撃が街を揺るがす。が、それはまだ着弾ではない──要塞船の舷側に火と煙が見え、学校の防護壁に並んだ魔術戦士たちが一斉に防御障壁を展開する。

ヒィィィ……ンと、耳鳴りを思わせる飛来音と。死を予感させる緊迫。その後にようやくの、爆発。

砲弾の多くは術に阻まれたが、一、二発がすり抜けた。術の発動が間に合わなかった。撃ち抜かれた壁が崩壊し、土煙をあげる。別の弾は高く、左側の校舎第四棟の屋根を破壊した。棟に穴が開いて窓ガラスが砕け散る。悲鳴があがった。第四棟に人はいないが、奥の第八棟からだろう。砲声と爆発音に怯える声。

続けての砲撃は一分後。今度は慣れがあり、すべての弾を魔術戦士が防いだ。だが街のほうから新たな騒ぎが聞こえてくると、状況は悪化するのが明らかだった。ときの声だが、半分は獣の咆哮ほうこうのようでもある。革命闘士が攻め込んでくる。街に入り込んでいるキルスタンウッズの雇われ兵が対抗するだろうが、彼らもここが主戦場になるのは想定していなかったはずだ。

「……なら、さっさと行かないとな」

オーフェンは犬の背を叩いた。レキは砲声にも、爆発にも、そして街の混乱にも無頓着だった。空飛ぶ要塞船にも。ディープ・ドラゴンはシンプルだ。生来の戦士であり、己の機能もその限界も知っている。人間と違って、ありもしない幻想を求めもしない。生きるも死ぬも、ただそれだけのことだ。

レキは頭を上げ、空に向かってえた。この犬が最後に鳴くのを見たのはもう二十年近く前のことだ。砲声よりも小さいが鋭く、煙を裂くように遠吠えする。同時に巨大化を始める。大型犬のサイズだったものが人より大きくなり、数メートルにまで膨れ上がる。

それだけ巨大化しても物音ひとつ立てない。咆哮以外には。オーフェンは大きくなったレキの背に、毛を掴んでよじ登った。校舎の屋上からさらに高く、ディープ・ドラゴンの首の上から。街を見る。そして遠方の要塞船を。

ついでに足下のエドも見て、告げた。

「あとは頼む。俺がしくじったら──」

「ああ。この学校ごと空間転移する」

それだけ莫大ばくだいな術を使えば、ひとたまりもなくエドは死ぬ──そもそも成功する確率も高くはないだろうが。それでも言い切った。この黒い犬とあの殺し屋は似たところがある。

レキが跳んだ。

第一教練棟から飛び降りて、前庭へ。さらに走って正門に。砲撃の三波目が鳴り響き、着弾する中をも速度を落とさず。ラポワント市へと躍り出た。

オーフェンはその背に乗って、高速で流れる景色に意識を払った。正門の前には反魔術士団体が築く途中だったバリケードが立っている。だがもはや誰もその場に残っていない。街の人間も、派遣警察隊も。

だが建物の隙間から身を乗り出して、半身を異形に変化させたヴァンパイアが学校に乗り込もうとしているのが見えた。次あたりの砲撃で、胸壁の魔術戦士に隙ができたら攻め入るのだろう。

「我は放つ光の白刃!」

横手に撃ち込んだ光熱波がヴァンパイアの頭を吹き飛ばした。余波が建物ごと爆発して火焔かえんを散らす。そして。

「我は砕く原始の静寂!」

反対側、左に面した一帯に空間爆砕を仕掛ける。屋根の上に潜んでいた、狙撃拳銃を携えた数人をまとめてバラバラに引き裂いた。

レキは意にも介さず突き進んでいく。走りやすい大通りを駆けたかと思えば音もなく屋根に飛び移り、大きく跳躍する次の瞬間には軒先ぎりぎりをすり抜けていく。巨大な黒い獣に乗って魔王が出陣したことは革命闘士の側にも動揺を与え、慌てたヴァンパイア闘士が次々に飛び出してきた。オーフェンは一発ずつの魔術でそれを仕留めていく。

攻撃術の軽快さにすり替えるように、心は硬く塗り潰す。魔術士が機能だけを突き詰めればどれだけの殺戮が可能か。少しでも軽く見ていたというのなら、その敵どもの甘さを憎む。

翼を広げたヴァンパイアが後方から追いかけてくる。オーフェンは叫ぶと、火焔の渦に巻き込んだ。行く手から飛び込んできた新手の敵は、レキが首を振って頭突きで叩き落とす。

学校を出てからまだ、目標までは半分も進んでいない。街に入り込んだ革命闘士の数は予想以上だ。

(いちいち見込みが甘いんだ。まあそんなもんか)

魔術士と違って、革命闘士は潜むと見破れない。というより、誰が突然革命に目覚めるかも分からない。リベレーターの宣伝で、ラポワント市に協力者が増えているということもあるのだろう。

砲弾が頭上を通り過ぎていく。学校の様子は気になったが、ならばなおさら立ち止まっていられなかった。意を汲んでか、レキは速度をさらに速めた。