17
ベイジットの傷がいきなり全治したことについて、メアリーは当然驚いたし、疑った。だがなにを疑うというのか──傷が治ったふりをしているのか、そもそも怪我をしていたふりをしていたのか。だが事実、傷はあったし、今は確かにない。彼女は観念してベイジットの解放を認めた。
部屋から出られるとしても、心は躍らない。ベイジットは穴が開いて血で汚れた元のシャツを捨て、メアリーの服を借りた。だぼだぼでサイズはまったく合っていないし、煙草の臭いが染みついている。これまでずっと辺境をさすらうのに使っていた装備に比べれば明らかに実用的ではない。だがきちんと洗って清潔だったし、やはり借りた
あれだけ願った外出だったが、部屋から出るのに一時間ほどかかった。メアリーはがさつなくせに家の中は片付いていて居心地が良い。それでもメアリーに促され、踵を引きずるようにして外に出た。
愛の村は静かだった。
村をというより空を見て、ここがどういう場所か感じた。山は遠い。広い荒野の、
開拓地は当然、土地だけならばいくらでもある。問題は水と、街からの補給路だ。手のとどく場所は既に登記され、何者かの持ち物になっている。金のない者が好きに手に入れられる土地は森の中か、
愛の村にはどれもなかったのだろう。根気はあったのかもしれないが、彼らはそれを、荒れ地に煙草や粗末な畑を開墾するのに費やしていた。歩いていける場所に沼があるようだが、虫の発生や獣も立ち寄るためそこに村を作ることはできず、毎日の水運びはかなりの重労働だろう。人口は多くはなく、見たところ年寄りが多いようで余計にだった。
基本的には自給自足で、煙草や野菜を捌いて収益がないわけでもないらしい。旅人が迷い込んでくるのでもなければ来客はほとんどない。街からのみならず開拓地からも、誰もこの村に興味はない。
「村ができて十年ほど経つね。住人はみんな、その時からの付き合いさ」
メアリーはそう語った。
新しく増えた住人はいない、ということなのだろう。ベイジットは声に出さずに解釈した。
「ドンナ人が集まったの?」
「色々だろうよ。その時はお互い、初対面だった。過去になにがあろうと問わないことを約束したね。愛は過去を引きずらないって、腹をくくったんだ」
言いながら煙を吐き出す。
「あんた、こっちの人間じゃないね? 十年前ってのは、こちらの大陸も多少は落ち着いてきた頃合いでね。それまでのことを忘れたい、やり直したいって連中が大勢いた」
「じゃあ、犯罪者もいたんじゃナイ?」
「さあね。救われるには愛しかないって思い知るには、ヤバイことのひとつふたつは必要だったろう。愛ってのは、甘ったれには過ぎた薬さ」
古傷でも撫でるように、煙を
「あっ」
声がして、ベイジットは心臓を縮ませた。
振り返る。近くにある小屋の玄関からビィブが出てきたところだった。彼は話し声を聞いて顔を出したのだろう。ベイジットを確認し、目を丸くした。
ベイジットはただ、その目を見ていた。どう変化するのか。怒りか、嘆きか。感情はその両者の中間を取り、なにも映さなかった。だがその無表情をなんと呼ぶかは知っていた。憎悪だ。
ビィブに
どん! とひときわ大きい音を立てて、また外に転がり出てきた。というより、背中から地面を転げて飛び起きた。自分から出てきたのではなく、蹴り出されたようだ。
開いた戸口を睨んで、ビィブが叫んだ。
「
「ああ、そうだな」
中から出てきたのは老人だ──太ってまぶたもたるんだ、くたびれた風貌の。
重い足取りで外に出てくる。手には拳銃を持っていた。それをひっくり返しながら、ぶつぶつと続ける。
「これは誰のもんでもない。持つべきものでもない」
「そんな話じゃねえ! 俺のものなんだから返せよ!」
「昨日食ったものも返せん子供に言われてもなあ」
「あんな不味い飯! つか、大事なことなんだ! あいつは──」
ビィブの指に射竦められて、ベイジットはまたたじろいだ。
「魔術士なんだ! 殺すべきだ!」
「この村では誰も殺されるべきじゃない。あの娘っ子がオーフェン・フィンランディだろうがエドガー・ハウザー大統領だろうがな」
老人はあっさり言って、ベイジットのほうを向いた。
「魔術士なのかね? おかしな話に聞こえるが」
「……ッテいうと?」
「この坊やは革命闘士だという。あんたはわしらが見つけた時、この子をかばって戦おうとした」
「…………」
答えるべき言葉を思いつけず、ベイジットはビィブを見やった。少年の目は……変わらない。
「そんなこと言われたって変わらねえ! こいつは魔術士だったんだ! 俺たちを騙してた!」
「アタシは……」
縮こまった喉を声で押し広げたものの、続く言葉はなかった。
「尋問する気はないよ。過ぎ去ったものに愛はない。あんたが何者だろうと気にはせん」
「魔術士だったのかい」
メアリーは多少、気にしたようだった。
「なんだよ。なら傷くらいは治せるんだね」
「いや、アタシにはそんな」
できないと言おうとしてまた言葉が尽きた。そうじゃないとすれば傷が治った理由が分からず、またややこしくなるだけだ。なんの得もない。
「お前ら開拓民だろ!? 資本家と魔術士は敵だろ!」
わめくビィブに。
老人は、一拍ほど置いて顔を向けた。
「なあ、お前」
その声は落ち着いてはいたが、ビィブを黙らせるくらいに力がこもっていた。
「開拓民などという生き物はおらん。わしらは家畜ではない。これがどういうことか分かるかね?」
「いや……」
「話を聞かせたいなら聞く耳を持て、ってことだ。既に言ったことを何度も繰り返させるんじゃない。ここはわしらの村で、愛の村では誰も殺させん」
「…………」
ビィブはとうとう黙り込み、ベイジットをひと睨みしてから小屋にもどっていった。
重苦しい空気が残る。当の老人は涼しい顔だったが、それ以降なにを言うでもなかった。質問の続きもしてこない。
仕方なく、ベイジットは口を開いた。
「アノ、お爺さん──エエト、名前訊いていい? アタシはベイジット」
「わしはバックルだ。愛の村のバックル」
手に持っている拳銃を見せて、
「これはお前さんのだな? 返したほうがいいか?」
「ウウン……ていうか、アタシのか分かんない。アタシのはなくしたはずだし。チョット見せてもらっても?」
「ああ」
ベイジットは近づいて、拳銃を受け取った。裏返して確かめると、覚えのある傷とグリップの癖がはっきりする。
「アタシのだ」
ということはこの拳銃は、あの最後の戦いの場からベイジットと一緒に持ち出されたものだ。が。
「オジサン、預かっててヨ。なんていうかコレ……ケチがついててさ」
「ケチが?」
「大事なコトをしくじったんだ」
「ふうむ。まあ、構わんが」
バックルはそれも問い質してこなかった。もどされた拳銃をズボンに押し込む。
そんなことよりベイジットの視線は自然、小屋のほうを
中には聞こえないように、ベイジットは囁いた。
「……ビィブは、起きた時からズットあんな感じ?」
「うん? まあ最初は状況が分からんようだったが。しばらくして……まあ、ああなったな。お前さんは何処だと訊いて──」
「捜したのはアタシだった?」
「ああ」
「アタシのことしか言ってない?」
「そうだな。そうだったと思う」
「…………」
頭の中に渦巻くものに身を委ねて。
ベイジットはバックルに向き直った。
「お願いがあるノ──あります」
「なんだね」
「次にあの子がその銃を欲しがったら渡してあげてください」
「……だが、さっきの話ではな」
バックルもメアリーも、揃って多少面食らったようだが。
ベイジットは深々と頭を下げた。
「お願いします。村に悪いことはしませんカラ」
ふたりの返事が遅れる。と、また別の村人が通りかかった。
「よう! ああ、あのお嬢ちゃんか。元気になったんかい」
また老人だ。バックルと同じ髪型と髭で、兄弟のようでもあるが顔は違う。こちらを見つけて駆け寄ってきたが、歩いてきた方向を見ると、村の外から帰ってきたようだった。
「リーランド」
バックルが名前を呼ぶ。
「片付いたのか?」
顔をしかめて、なにか忌むように。リーランドも綻びかけた表情を曇らせた。
「ああ、まったく、愛の日が明けて最初の仕事がこれじゃなあ」
「愛の日?」
ベイジットは気になったが、それよりも老人たちの顔色が引っかかった。
「ナニカ悪いことが?」
「人が死んだんだよ」
と、メアリー。火の点いた煙草を手のひらで揉み消し、
「バクラって猟師がね。見回り中に、獣に襲われた。ひどい有様でね……」
「ほとんど食われとったから埋葬は楽だったがね」
リーランドが笑えない冗談を口走る。
不敬を
「村の外だが、かなりの近所だ。弓矢を補充しないとな。まあ、肉食獣ってやつには愛も通じんよ」
「その現場って、見れル?」
そんなことを急に言われて、村人たちは今度は三人で目を丸くした。
「なんでまた」
問うバックルに、ベイジットは告げた。
「アタシ、力になれるカモって。ほら、アタシ……魔術士だし」
え、そうなのか? というリーランドにまた一通り、メアリーが説明して。
「ああ、まあ、それなら」
という話になった。
村から出て、歩いて十数分という距離。確かに近所だ。
バクラという猟師が外を見回っていたのは──リーランドは話を濁したが──ベイジットらのことがあって、革命闘士が近くを
ついでに獲物のひとつも見かければという目論見で、深い意味があったわけでもなさそうだ。それが逆にやられてしまった。
現場はリーランドが半日かかって片付けた後だったが、まだそこかしこに血痕と、もっとぞっとするような痕跡が残されていた。あとは風がやってくれるさ、とはリーランドの言葉だった。
「こんな事故はよくあるノ?」
というベイジットの質問に、彼は、いやあと首を振った。
「沼のほうには獣もいるがね。人を襲うような捕食獣はそうそう来ない。バクラは手練れの猟師だし……よほど油断してたか、運が悪かったか……」
「これ、足跡じゃナイ?」
よほどの乱闘だったのか、現場は滅茶苦茶に踏み荒らされていた。足跡ならそこら中にあったが形を保っていたのはこれひとつだった。
「でけえなあ」
リーランドがうめく。
大きかった。鋭い爪が土に刻まれ、深々と
「指が五本ある。ネコだとすりゃあ、前脚だな。前脚でこれってんじゃ、どんだけの大きさなんだ」
あたりを見回して身震いした。
ベイジットはかがみ込み、その足跡に指先を触れた。指一本だけでベイジットの手のひらよりも大きさがある。大きい……本当に。ベイジットは目を閉じて。そして。
「泣いてんのか?」
気づいたリーランドが、不思議そうに訊いてきた。
ベイジットはかぶりを振った。
「イイヤ。ちょっと、さすがに驚いてサ」
「そうだなあ。この大きさじゃなあ」
分かりやすい嘘に触れて、また勘がもどってくるのをベイジットは感じていた。未来はまだ分からないままだが、それでも数日以内にやらねばならないことがはっきり見えて、ベイジットはその夜また、部屋で泣いた。
泣き疲れて寝ていたが、眠りは浅かったようだ。
目を開けてすぐに意識がいつも通りまでもどるのを感じながら、ベイジットはそう思った。というより、来るだろうと予想していた。ベッドから足を下ろして窓を見た。物音は窓から聞こえていた。
ガタガタと家の外で、足場でも用意しているのだろうか。高い窓でもないのですぐ入ってくるだろう。ベイジットは待った。
カーテンを押しのけて小さい人影が転がり込んできた。部屋に灯りはない。ベイジットはベッドに腰掛けて侵入者が起き上がるのを待ったが、向こうは立ってようやく、標的が起きているのに気づいたようだ。
灯りはないまま、暗がりに目が慣れるのを待った。ベイジットがというより、相手がだ。数秒の沈黙を挟んで、ビィブはこうつぶやいた。
「魔術士」
ベイジットは答えなかった。
ビィブはなにかを抱えていた。目を凝らして確認する。拳銃ではない。棒のようだった。すりこぎか孫の手か分からないが。
「決着をつけるぞ……俺が始末して」
憎しみに満ちた眼差しを見返して、ベイジットもベッドから下りた。
棒きれを振り上げてビィブが突進してくる──ベイジットも身をかがめて腕で頭を守り、踏み出した。
戦闘訓練など真面目に受けなかったし、これも兄のように上手くはやれないが。生かじりの素人を制する方法ならひとつだけ知っていた。目を閉じ、歯を食いしばってがむしゃらにぶち当たり、一歩も
声もあげずに真正面から体当たりした。もつれて転倒する。殴られたし、転んだ拍子に頭をどこかにぶつけたようだが、構わず続けた。わめき、怒鳴り、引っ掴んで噛みつく。相手の身体だか床だか(ついでに自分の身体だかも)わけの分からないままぶん殴り、口の中に広がる血の味にむせた。
大騒ぎののち、ビィブの身体を掴んで突き飛ばした。編み籠に埋もれて倒れるビィブに、ベイジットは叫んだ。
「決着だって!? コレが!?」
血と唾を吐き捨て、腕で拭う。
「なんにもできやしないジャんか!」
「これから……やるんだ!」
ふらふらになりながら、ビィブ。持ってきた棒ももうなくしていたが。散らかった家具からなにか武器になりそうなものはないかと左右を見ている。
「なんだいなんだい!?」
騒ぎを聞きつけて扉が開いた。メアリーだ。
ベイジットは手を振った。視線はビィブから外さず。
「邪魔しないデ!……ええと、まあここはアンタの家だけどサ」
「でも……」
呆気に取られた様子のメアリーの声に、ベイジットは続けた。
「アタシらの、大事な問題なんだ。本当に。お願い」
話は通じたようだ。メアリーは立ち去りこそしなかったが、それ以上は割り込んでこなかった。
ビィブは空の鉢をひとつ拾い上げ、飛びかかってきた。といってももう力もなく、ベイジットは力任せにはね除けてまた突き飛ばした。ビィブが尻もちをつく。今度はもうなにも持たずに殴りかかってくるが、それも同じように押しもどした。
何度か繰り返してくたくたになってから。
床に座って息を荒らげているビィブに、ベイジットは怒鳴った。
「男になれヨ! 魔術士だから殺す……? アンタ今、そんなこと大事じゃないんダロ!?」
どんと胸を叩いて、また声をあげる。
「銃はドーシタよ!」
ビィブが目を逸らした。
「あの爺さん、変に隙が──」
「頼んできたら渡してやってクレって頼んどいたヨ! ソレも試さなかったんだ。ちゃんと頼むにはちゃんと話さないとなんないもんナ!」
叫ぶだけ叫んで。
ベイジットも疲れ果てて、しゃがみ込んだ。
ぜえはあと息を整え、引っ掻くように床に爪を立てる。怒りが止まらなかった。
だがビィブへの怒りではない。剥げそうになる爪の痛みがかえって心地良い。傷んでトゲだらけの床板が全身に突き刺さってくれるならそれでもいいのにと思う。
引きつって固めた拳を叩きつける。
「考えたくナイんだろ! 本当に一番マズイことを思い浮かべたくもないから、簡単なコトに飛びついてンだ!」
「お、俺……」
「アンタとアタシ! ふたりでサ! 目の前で──」
「やめろ!」
やめる気はなかった。どれだけ痛みに竦もうと、これは吐き出す覚悟でいた。
「アタシがもっとうまくやれれば──」
頭を抱えたビィブが口走るのも聞こえた。
「俺がもっと強けりゃ──」
床を叩き続けて、叫ぶ。
「レッタは助けられた! その怒りでなら、アタシは殺されてヤルよ!」
「うわあああああああ!」
泣きわめいて転がるビィブを見つめて、ベイジットは唇を噛み締めた。噛み切ろうとも構わない。涙はこらえた。もう泣きはしないと決めていた。少なくとも、ビィブの前では。
それがせめてもの償いだ。償いなんてことが叶うのなら。この子の前では、強い奴でいてやる。
「泣き終わるまで待つヨ」
どうにか声が出せるようになってから、ベイジットは告げた。ビィブはまだ泣いている。激しさが収まると、身体を抱えてただすすり泣きを続けていた。
「そン時まで、待つヨ。アンタがどうしたいか決めるまで」
泣く夜は、もうこれで終わりなのだから。
あとは──
窓を見た。夜の暗がりが広がる外を。