10
「大丈夫? のど渇いてなあい? お姉ちゃんになんでも言いなさい。あれがなんとかしてくれるから」
あれというのはマヨールのことだ。多分。
とりあえず聞かなかったことにして、マヨールは車椅子を抱えて階段を下りていった。先に下について見上げると、イシリーンがマキを抱きかかえてついてきている。首にしがみついた少年に額をこすりつけながら、猫なで声で話し続けていた。
「うふふ。そうね。うん……あれは優しさのカケラもないカネアリクソヤロウっぽいけど、嫌わないで構ってあげて。金はあるのよ。そうね。ちょくちょく自慢げ成分が
「お兄ちゃん、ぼく、誰にでもできることが一番大事なことなんだって思うんだ」
「なんでかこっちに来てから、日に日に生きづらくなってる気がする」
マヨールはぼやいて、車椅子を床に置いた。マキを座らせるのを手伝っていると、
「あ、いたいた。もたもたといた」
ラチェットだ。それとサイアンとヒヨ・エグザクソン。廊下を小走りに駆けてくる。
「会議は終わったの?」
マキの問いにラチェットはうなずいた。
「うん。くだらなーい話だったけど。クレイリーいないほうが話は早いね」
「ってことは、こっちの話し合いはまだ済んでないわけか」
マヨールは廊下の向こうを見やった。校長室の扉がある。
「なんか静かねー。
物騒にイシリーンが言う。馬鹿なことだが、いつものイザベラの剣幕なら怒鳴り合いになっていてもおかしくないとは思っていたので、あながち的外れとも言い切れない。静かな話し合いを続けているというほうが不気味だ。
「あっちは午後中かかると思う」
さらりと、ラチェット。え? とマヨールは疑問を浮かべた。
「校長室のほうにも行ってたの?」
「なんで、ふたつの場所に同時にいられるって思ったの?」
まったく素の顔で問い返されて言葉を失う。やっぱりこの子は苦手だな……と改めて噛み締めながら、マヨールは話を変えた。
「それで、ようやく話ができるようになったんだ。なんやかや、事情を説明してくれるんだろうね?」
「え? それやだって言ったら省けるの?」
「……無理」
「じゃあなんでわざわざ訊いて……」
ぶつぶつふて腐れながら、ラチェットはうつむきかけたが──
いきなり、はたと顔を上げた。ぎろりと窓のほうを睨み、駆け寄っていく。窓の外に身を乗り出してなにを見たのか振り返って、
「こっち! 見て!」
と窓の反対の、壁のほうを指さした。
「…………?」
「見たけど?」
「うん。見えないね。窓ないから」
ラチェットは人を
「どゆこと?」
マヨールとおんなじ格好で首を傾げるイシリーンにラチェットは、
「えーと、窓からじゃ前庭のほうは見えないの」
「そうね。向き的にね」
「見て欲しいのは前庭なんだけど、壁だね」
「そうだね」
「痛し
悔やんで唇を噛んでいるラチェットに、マヨールはかぶりを振った。
「いや痛し痒しでもないし。オール駄目だし。じゃあ君はさっきなにを見て慌てたの」
「え? 見てないです。だってこっちじゃ見えないじゃん」
「じゃあなにを見せたかったんだよ!」
「見てみないと分かんないです。なに言いたいの」
「あーもう!」
わめくマヨールを見てラチェットは、なんでかしみじみと同情の眼差しなのだが。
ぽんと手を叩いて、
「あ、こっちから見ればいいのか」
ぴょんと車椅子の後ろに回って、一気に発進する。廊下を一直線だ。サイアンとヒヨも、軽く視線を見交わしてからついていく。
マヨールとイシリーンも後を追うが……
「まさか、あそこには入らないよな」
予感はもちろん──と言うべきなのだろう──的中した。
「耐衝撃姿勢ー!」
「りょうかーい!」
ラチェットは車椅子を急旋回し、校長室の扉に突進していった。
確かに校長室からは前庭を一望できる。そうなっていた。マヨールも以前、庭を通って来た時に校長室からラッツベインの襲撃を受けた覚えがある。だがそれは他の会議室の窓からでも同じだ。使っていない部屋もあったろうし、寝泊まりしているラッツベインらの部屋でも良かったはずだが。
校長室に車椅子が入っていった後、ものすごい激突音がした。これも根拠はないがマヨールは──もちろんと言うべき──直感が働いた。イザベラがはねられた。きっと。
「ほら、あそこ!」
窓枠に登ったような格好で、ラチェットは外を指さしている。車椅子は完全にイザベラの背中に乗り上げ、教師を押しつぶしていた。しっかり身を固めたマキは無事だ。机の奥でクレイリー校長はぽかんとしている。
どんな顔をして入室すれば良いものか、マヨールは迷いながら一応、愛想笑いで入っていった。そして他にどうすればいいのかという理由で、そのままラチェットの指し示す窓の外をのぞき込む。
そこには。
「……なにもないけど」
「あれ。終わっちゃったのかな。もう。グズいから。行ってみよう」
そんなことを言ってラチェットはマヨールの服を掴み、窓から飛び降りた。
「…………!」
不意を突かれた。予想していればラチェットの体重に引っぱられることもなかったろうが、足が滑って一緒に落下する。校長室は最上階だ。第一教練棟の玄関まで真っ逆さまに落ちていく。
「翼よ!」
迫り来る地面に叩きつけるように、叫ぶ。
重力中和して、墜落寸前に速度を殺した。ラチェットはまるで最初からそうなると分かっていたような足取りで、ふわりと着地してみせた。こちらを気にもせず、とてとて走っていく。
マヨールもなんとか起き上がって後を追った。ラチェットは慌てているわりには速くない。後ろを見やるがまだ誰もついてきていなかった。ふたり並んで、マヨールはうめいた。
「いったい、なんなんだ!」
が、ラチェットは落ち着いたものだ。
「だから、これからそれを見に行くんだって、何度訊くの」
「順番がおかしいだろ!?」
「おかしくないです。飛び降りて、地面について、走ってる。右足と左足を交互に」
「普通に外に出ればいいじゃないか!」
「だからそれじゃトロいっていうのも言ったはず」
「なにに間に合わないんだよ。なにがあるのかも分からないのに」
「あ。そっか。これから来るのか」
ラチェットが急停止したので、マヨールも一歩先を行ってから足を止めた。
そこに馬車が突進してきた。
開いた正門から全速力の馬車が。猛烈な勢いで入ってきている。ガタガタと左右に揺れながら、明らかに暴走していた。御者が横向きに倒れている──起き上がりそうにはない。首に矢が刺さっている。
馬車は荷を満載していた。補給車だ。学校の前庭は広く、こちらに到達するには(一応)まだ余裕がある。今は堀を越えようというあたりだ。馬車が到着してから門を閉じようとしていた魔術戦士は、馬車の異常に警戒の声を発した。馬は首を振り、狂乱していた。
馬車はこのままだと校舎に激突する。
問題は。
頭に浮かんだのは、なにが問題なのかということだ。荷は主に食糧だ。馬車が校舎に激突しても拾えばいいだけだ。壊れた馬車も魔術で修復すればいい。だが馬が重傷を負うか死ねば、治せないかもしれない。輸送手段を失うのは死活問題だ。
暴走する馬を無傷で止める。
(できるか……?)
転倒させるだけで脚を折る可能性は高い。
集中して構成を編む。と。
別の手による構成がマヨールの視界を塗り替えた。
「デイドナフォール!」
男の声だった。右手だ。背の高い、体格もがっしりした中年の魔術士が呪文を叫んだ。速く強力だ。相当な手練れなのは構成だけで分かった。
魔術戦士だ。恐らくは。男が放った爆発は四頭の馬を一撃で横倒しにし、吹き飛ばした。馬車も横転して荷が散らばる。馬は地面を転がってから、ショックで動きを止めた。
幸いにも怪我はなかったようだし、無事に済んだ。地面に転がった荷の中には死んだ御者の姿もあった。男は首を伸ばしてそれをのぞき込み、舌打ちしてつぶやくのが聞こえた。
「ついに手を出してきたか。無能力者が」
マヨールが呼び止めるより素速く、男は正門のほうへと向き直って、
「さっさと閉めんか!」
一喝する。遠い門までしっかりとどくような怒声だ。
門に詰めている門番の係が、びくりと身体を引きつらせてから、慌てて門を閉じにかかる。ガラガラと音を立てて重い扉が道を閉ざしていった。
ぶるる、と首を振る馬たちはなかなか起き上がろうとしない。ひとまず死んだふりを決め込んだように。この魔術戦士の一番近くに立っていて、マヨールもなんとなくはその気持ちが分かった。まるで猛獣だ。牙を剥いているわけでもないのに怒りが漲っている。
その魔術戦士に。
「まだこの馬車の護衛が帰ってきていないです」
男もラチェットの存在には気づいていたようだ。眉ひとつ動かすことなく答えた。
「馬車から振り落とされたならいつ帰ってくるか分かりませんし、勝手に壁でも飛び越えて入ればいい。無能力者相手に後れを取るような輩は帰ってこなくても良いですがね」
言葉面こそ丁寧だが、嘲っているような口調だった。それが失敗した護衛に対してなのか、話している相手に対してなのか、あるいは誰彼構わずそうなのかは分からないが。
ラチェットは答えなかった。だからといって臆するのでもなく、ただじっと男を見つめている。対照的に、彼女の目には怒りもなにもない。
気まずさから、マヨールは発言した。
「もし馬が死んだら……」
最後まで言わさず男は即答してくる。
「可能性の問題だな。これだけ魔術士が集まっている場所なら大抵の負傷は治せる。通常術で治せないなら魔王術もある。もはや隠す意味もないのだからな」
と、今まさに閉ざされようとしている門を見やって、
「市内に出向いて新しい馬を奪ってくるほうが楽だがね。柔軟に考えることだな」
「…………」
マヨールも言葉を失っていると、男は首を振り御者の死体に視線をもどした。
「ついに死人が出ました。時間の問題でしたが、こうなると甘いことは言っていられないでしょう?」
ラチェットに向けての言葉だ。ラチェットは静かに答えた。
「そうだね、もう甘いこと言ってられない」
認めてから男を指さして、
「こいつは戦術騎士団のビーリー・ライト。さあ、ぶちのめして四角く折りたたんでやって」
「え? 俺が?」
マヨールが
「ああ、あの場にいたので一番とろいの連れてきちゃった……」
「いや、誰だったらやると思ってるの」
「あのおばさんならやります。でもなんでか、マキが車椅子の下敷きにしちゃってたから連れ出せなかった」
「君がやったんだろ! それに先生だってやらないよ。味方を──」
「そう。内輪もめを
男──ビーリー・ライトとかいう魔術戦士は、冷たく言い放って背中を向けた。大股で機敏だが、だからといってこちらに余裕を見せつけないほどではない落ち着きで、校舎にもどっていく。
しばらく間を置いてから、ラチェットがつぶやいた。
「味方?」
こちらを見やって、
「それってなんの基準? 魔術士かどうかってこと?」
今までもマヨールには冷淡な彼女だったが。
以前にも一度だけ見た。その眼差しは、思わずたじろぐほどに本物の侮蔑が込められていた。鋭い