「平穏な愛。糧なき皿は平らなだけ。盛りつけよう、この手で愛を」

この挨拶を毎日毎回しているわけではない。

一年のうち五日の間。この愛の五日間だけだ。村の理想を表すこの挨拶を普段しないのにはふたつの明白な理由がある。ひとつには長いからだ。向かい合い、相手の顔をしっかり見て両手を組み、お辞儀する手順までやっていては、道もすれ違えない。もうひとつの理由はもちろん、馬鹿のように見えるからだ。

だが、やったっていいじゃないか。と思うことはあるのだ。

少なくともバックルはそう思っていた。手間を惜しみ、恥を恐れて成し遂げられないのなら、それこそなんのための愛の村だ……

伝統はまだ守られている。いやとにかく少なくとも、滅んではいない。愛の五日間、村人はこの挨拶を必ずする。仕事はすべて休み、酒と煙を飲み、みな思い思いの愛の詩を歌い、哲学を語らい、下半身にはなにもはかず(ただし風邪をひかないため、子供は毛布を一枚持って歩くことが許される)、愛の訪問は滞りなく行われ、去年一年で起こったすべての問題やいさかいは翌年に持ち越されないという合意を村全体で取り交わす。

もともと大きな問題は起こらないのだ。資産はすべて共同だし、村人全員が家族であり夫婦であるから恋のさや当てもない。

なにか起こるとすればそれは大抵、村の外が関わることだ。その場合、村人は一丸となって問題の解決にあたる。

不満も持ちながらも、バックルはおおむねは満足してひげでた。胸まで伸びた長い髭だ。十数年切っていない。職場にいた時はそうもいかなかった。髪はたまに切る。しかし年に一度くらいだ。頭が禿げ上がってきたので、これからは二年に一度でいいような気がしてきている。

村の全員がほとんど同じ髭、同じ髪型だった。顔つきも似ている、とみな思っている。人殺しどもが躍起になって取り組んでいる争いや、どうせ解決するわけもない益体もない問題に取りかれた外界から隔絶されて十年以上、穏やかな愛のサークルを営んできた。みなが家族だ。守られている。

玄関前の椅子に腰掛け、ぼんやりと遠くの空や山々を眺めている。優しい風が髭を揺らし、顔に触れ、き出しの股間を通り抜けた。やや涼しくはあるが日差しの暖かさを余計に感じる。誰ともなく奏でる弦の調べや、歌声が漂う。テーブルに置いた発泡酒はすっかり気も抜けていたが、さほど構わずにバックルはまた口をつけた。喉を潤した酒は丸くなった腹を満たし、血管を流れて脳まで温める。これが愛だ。

目を上げると通りの向こうから、若い女がやってくるのが見えた。若い?……二十代だったか、三十代だったか? もはやそのあたりのとしが見分けもつかなくなって久しい。酔った頭ではなおさらだ。バックルはうっすらと記憶の中から女の名前を思い起こした。メアリーだ。気さくないい女で、美味いナッツパイとキシンの漬け物をよく作って、振る舞ってくれる。だが年齢は思い出せなかった。

裸の腰を振るようにして、メアリーはバックルの前で立ち止まった。

「ハイ、バックル。平穏な愛。糧なき皿は平らなだけ。盛りつけよう、この手で愛を」

「平穏な愛。糧なき皿は平らなだけ。盛りつけよう、この手で愛を」

挨拶を交わす。メアリーが神妙に頭を下げた時の、髪の分かれ目を見るのが、バックルは好きだ。

「煙、ある? うちは切らしちゃって」

「ああ、持ってけ」

バックルはぼんやりと、玄関を指さした。戸は開いている。この村に鍵のかかる扉はない。というより、扉のある玄関もそれほどない。

彼女は鼻歌交じりに家に入っていくと、どたばたと棚を探る物音を立てながら(行儀が悪い? いや、音も立てずなにをしているのか分からないようなやからこそ、こそこそ怪しい奴だろう)、大声で話しかけてきた。

「そういえば、聞いてるー? リーランドが、用があるって捜してたわよ」

「ああん?」

奇妙な話だと、バックルは思った。

「愛の五日間だ。用事なんかないだろう」

この五日間には、誰もなにもしないのだ。やらなければならないのはただひとつ、長い挨拶をすることと愛を感じることだ。ひとつではなかったが、どちらも同じことだから、やはりひとつだ。

「でも」

と、声が近くなったので振り向いた。メアリーは乾いた良い香りのする煙草たばこを紙包みに詰める途中で顔を出してきたのだ。これも奇妙なことだ、とバックルは振り向いたまま首をかしげた。メアリーが、煙草集めを中断してまで話を優先するなど。

メアリーは呑気のんきで柔らかい顔の肉に、珍しく怪訝けげんしわを混ぜて言ってきた。

「本当に困ったことみたいよ」

「ふうん?」

バックルはとりあえず、残った酒を飲み干した。

メアリーが帰っていった後もさほど気にはしなかった。村には愛があふれている。問題など起こるはずもない。酒とそよ風、煙の芳香に音楽。揺られているうちにまた意識が薄れかけ──

「おい、バックル」

没入を邪魔されて、バックルは顔を上げた。

「なんだ?」

話しかけてきたのはリーランドだ。同年代で、バックルと同じ髭を生やしている。

「平穏な愛。糧なき皿は平らなだけ。盛りつけよう、この手で愛を」

挨拶の終わりには、リーランドのため息が混じった。

「すまないな。ちょっと問題だ。村の外で」

「外?」

愛の五日間、村の外に出ることは禁じられている。リーランドもそれは承知で、びてきた。

「ああ、分かってる。だがハッダの奴が煙草の吸い過ぎではしゃいじまってな……で泳いで魚になろうって。それで沼のほうに……」

「別にわしに詫びるようなことじゃないさ」

リーランドのような分別のある男が大事な決まりを破ったことに不快を感じなかったわけではないが、言っても仕方ない。それが分別というものだ。

「それで?」

と改めてリーランドを促す。彼はまた詫びると、話を続けた。

「道の途中で、死体を見つけちまった」

「死体だと? 村の者じゃないだろうな」

「ああ、それは違う。余所者よそものだ」

「だったらほうっておけよ。外じゃあコロコロと人が死んでる」

「それで終わりそうにないんだ。武装してた。革命闘士なんじゃないか……」

「こんなところで?」

三度目の奇妙に、うめく。

「カーロッタがここいらに興味を持つとも思えん。革命闘士なら、あぶれ者だろう。かかわらんほうがいい」

「あー、しかしだな。子供たちなんだ。せめて埋めてやらんと」

「たち? ひとりじゃないのか」

「ああ、ふたりだ」

「ひどいもんだ」

開拓地をもにぎわせている、争いのうわさはこの村にもとどいていた。

人が争う理由は単純だ──愛がないからだ。愛の枯渇を、彼らは暴力で紛らわす。まず愛を満たすということを思いつけない。傷つけ合う行為がさらに愛を遠ざけ、戦いは過酷さを競うようになる。ついには女子供が死ぬようになるわけだ。

「ひどい。まったくひどい」

繰り返して、バックルはようやく腰を上げる気になった。その気になっても、めり込んだかのように重い尻を椅子から持ち上げるにはまだ時間がかかった。げっぷを二回して、ようやく身体が動くようになった。

「じゃあ、行くか。子供の死体を埋めるのは、むしろ愛の日に相応ふさわしいかもな」

連れ立って村を出る。愛の満ちた村を離れ、音楽と酒から離れて、会話はどうしても暗い気配へと引き寄せられた。

「戦争の噂は本当かね。あちこちで、魔術士と革命闘士が殺し合っとるというが……」

「そんなのは毎度のことさ。奴らは殺しに飽きやせん。そいつはもう、分かっとる」

「好きでやってるんかね。いまいち、理解できんが」

「愛を知らんのだ。あの連中が歌ってるのを見たことがあるか? 愛の詩を入れ墨したり、贈り物を手作りしたりするのを? 奴らにあるのは愛なき奪い合いと、健康なきダイエットと、満つるを知らん預金残高ばかりだ」

沼のほとりの生け簀に着くまで何度も嘆き、首を振った。

「ナマズどもは平和だな。俺たちとおなじだ」

生け簀をのぞき込んで、リーランドが言う。バックルは顔をしかめた。

「頭の足らんことを言うなよ」

「なにがだ」

「おんなじってとこがさ。こいつらは、切って焼いて食われるんだろうが。わしらに」

だがリーランドは言い負かされた様子もなく、にやりとする。

「愛に身をささげてるのさ」

「ふうむ」

返されると思っていなかったので、つい感心してしまった。だが、それはともかく。

「死体ってのはどこだ?」

「ああ、こっちだ」

案内されて脇道に入る。

やぶをまたぐのが厄介だったが、進んでいった。木の陰に子供がふたり、倒れているのが見えてからは小走りになった。駆け寄る。ひとりは十歳ほどの少年、もうひとりは……女のようだった。歳はもうひとりより上だ。服は血まみれで、傷は胸と肩の間あたりのようだ。

「武装ってのは?」

リーランドに問うと、彼は少し離れた場所から金属の塊を拾い上げた。

「こいつだ」

「狙撃拳銃か」

「ああ。弾も入ってる」

「ふむ……」

拳銃を受け取った。間違いなく狙撃拳銃だ。リーランドには玩具おもちゃとの見分けもつかないだろうが。

「本当に、こいつらのか?」

「どうだろうな。ここに置いてあったが」

と、木の陰を示す。

「なんだかおかしな話じゃないか」

バックルはうめいた。

「落っことして転がったというわけでもなさそうだ」

「そうかもな」

「露でれないようにそこに隠したんだろう」

「この子らが?」

「自分で隠したんなら、もっと分かりにくくするだろ。この子たちが起きたら気づくように、誰かが置いたんじゃないか?」

「……起きたら?」

呆気あっけに取られたようなリーランドに、さっきのやり返しで、バックルはにやり顔を見せつけてやった。

「生きとるよ。ふたりとも」

「おお……愛の日の奇跡か」

リーランドは感じ入ったようだが、バックルはもう少し冷静だった。

「というより、お前さんの早とちりだ」

少女の怪我けがは重傷だったが、手当てはしてある。出血もひとまずは止まっていた。痛むのだろう。うなされている。

「うう……ん」

見ているとゆっくりまぶたが震えて、目を覚ました。

こちらを見上げ、しばし動きを止める。眼球の動きだけでゆっくりとあたりを見回した。そして。

「っ!」

猫のような素早さで手を伸ばした。バックルの手の上から拳銃をひったくり、構えようとして──足が立たずに尻から転んだ。が、銃口だけはこちらに向けたまま、

「近づくんじゃないヨ!」

いかにも子供っぽい──とはいえ実際の年齢よりも幼い口調に思えたが──言い方で、少女は叫んだ。

「ビィ……その子からも離れナ! さもないと──」

「離れるのは構わんよ」

バックルは両手を挙げ、降参のポーズで告げた。

「だが、忠告と思って聞いてくれ。銃を置くんだ。わしらに敵意はない」

「……パンツもはかずに?」

険悪に、少女。

言われてみれば、じゃっかん怪しくは感じられたかもしれない。が、バックルは言葉を続けた。

「わしらは愛の村の者だ。分からんかな。今日は愛の日で……」

「ナニ言ってんだヨ!」

「ああ、まあ知らんのなら説明するのも無駄かな。ともかくだ。銃を置けというのは君のためだ。時間がないからよく聞きなさい」

バックルは少女の目を見返した。銃口は見ない。肩を負傷して地べたに座り込んでいる若い娘が構えた銃など、まともに警戒しても意味がない。

指を立て、んで含めるように話しかけた。

「目が揺れとるのがここからでも見える。傷の痛みで、君はまた気絶する。あと何秒か。銃を持ったままだと倒れた時に暴発するかもしれない。いいから置くんだ」

「…………」

催眠術にでもかかったように、ぐらりと頭を傾げかけてから──少女は短い葛藤を挟んで、拳銃を近くの足下に置いた。

そしてそのままうつ伏せに倒れた。急いで駆け寄り、抱き起こす。

「ふむ。随分ときのいい」

「どうするんだ。村に運ぶのか?」

銃で脅されたせいか、疑わしげに、リーランド。

「そうさなあ」

バックルは思案した。少女の傷は恐らく銃創だ。今の行動、まったく迷わずに銃を手に取って、怪我さえなければ使ってもみせただろう。扱い方を知っているということだ。となれば十中八九、革命闘士だろう。

ここ最近のきな臭い噂。戦争の気配。ずっしりと重い影の音。革命闘士を村に入れれば村人の反発があるだろう。ことはそれで済まないかもしれない。魔術戦士まで来るようなことがあれば村は戦いに巻き込まれる。全員消されることもあり得る。

だが。

バックルは少女を抱きかかえた。

「わしらは愛の村の者だ。不安や恐れよりも、愛は強くあるべきさ」