天才少女は、自分のことを天才だと思っていなかった。
木多淑恵は、メギス神の大司祭である父の下で働きながら、趣味である数学とゲームとプログラミングに没頭する生活を送っていたが、年齢はまだ十七歳にすぎなかった。
八歳で物語の本を読まなくなり、詩と数学の本に興味を示すようになったのだが、それらの著名な作をすべて読み尽くしてしまうと、多種多様な言語の詩を読むために、雑多な書物を使った独学で多くの言語を学び、十歳までには七つの言語を習得していた。その過程で読んだ本によって、学校の授業で習う程度のことはすべて頭に入っていたため、飛び級制度のない帝国の学校を嫌って海外へ留学。十五歳で大学卒業資格を持って帰ってくると、大司祭の職を希望したが、それには魔術学院の卒業資格を必要とすることに、ここでようやく気づいた。
しかし、学院へ再入学することを時間の無駄と考えた彼女は、父に頼み込んで助手としての職を希望すると、自らの望みである〝誰もが趣味に生きていくことができる理想的な社会建設〟については、政府への参画とは別の方法によって成し遂げることとした。
とりあえず、淑恵はネットの政治的な掲示板に偽名を使って書きこみを行い、論争を仕掛けるという活動をはじめた。多くの論争は不毛な罵り合いに終わることを彼女は知っていたが、それによって名を上げるという狙いは達成できた。
淑彦という男性名が、彼女のネット上での名となった。
どれほど通信技術が発達しても、プライバシーは神以外には開示しないというのが、この帝国での人間のあり方である。それを望まない者が、個人情報をさらすことと、映像により素顔をさらすことはタブーであり、淑恵はそれを最大限利用したのだ。
一年ほどで、淑彦の運営するページは政治的な発言力を持つようになり、彼の主張と、そこで行われる研究はよく知られるところとなっていった。
淑彦の主張は「みんなでやる気無く生きるための社会建設」という極端なものだったから、それ自体はナンセンスなものとされたものの、それを達成するための研究は、その筋の人々から注目を集めるものとなっていた。
それは『仮想異空間』の研究である。
仮想異空間は、俗には四次元空間と呼ばれているくらいで、研究者にすら「なぜかはわからないが、いくらでも広い空間が我々の次元に隣接している」と理解されてきた。そして、その中にとどまることは危険とされ、一時的にそこを通過しての転送、あるいは拠点防衛におけるパニックルーム的な使い方が主たるものだった。
淑恵=淑彦は、その仮想異空間を制御できるのではないか、と考え、研究を続けていたのである。事実、その空間は、人間の意志によりいくらでも変化するのではないかと疑われるデータはいくつか報告されていた。
そのため、軍事、政治、経済など、各界からその研究は注目を集めていた。空間が有効利用できるならば、その利益は計り知れない。だが、その研究も、淑恵にとっては目的達成の手段であった。彼女の信念は、「そこで生活すれば一生寝て暮らしていてもいい。国民全員寝て暮らそう」というものだった。
その重要度を認識していなかったこと。そして、彼女が自分自身を天才だと思っていなかったこと。このふたつの原因が相まって、その後、かなり思い切った行動を彼女にとらせることになるとは、このとき誰も気づいていなかった。
その日、淑恵は政府関係者から訪問を受けていた。
それ自体は珍しいことではない。彼女の表の顔は、メギス神に仕え雑務を執り行う事務員なのだから。
仕事用の多目的ゴーグルを乱れ気味の髪にかけ、いくぶんぼんやりとした顔で、淑恵はメギス神の神殿内部にあるカフェに座っていた。内装は、ギリシャ風、バロック風、イスラム風のごった煮とでもいうか、多くの人が宗教的と感じるであろう最大公約数的に壮麗に作られている。メギス神の神殿とはそういうものなのである。
淑恵の前に座っているのは、いかにもサラリーマンとしか形容できない男だった。グレーのスーツに横分けの髪。顔は別れてしばらく歩いたらすっかり忘れていそうだ。淑恵は名前を聞いたはずだが、それすらすでに忘れていた。
しかし、簡単な挨拶の後、彼が切り出した話題に、淑恵は目を見開いた。
「仮想異空間を制御するプログラムを作成して欲しいんですよ」
淑恵は淑彦であることを公表したことはない。確かに淑恵は神のプログラムについての仕事に従事してもいたが、海外で留学していたこともあり、彼女がその道の天才であることを知っている者は少ない。プログラムについて彼女に依頼する者などいないはずなのだ。淑彦としての彼女の正体に気づいた者でなければ。
「それってメギス神殿への正式な依頼?」
淑恵はとぼけて答えた。この会合は政府からの仕事の予備調整と聞いていた。その依頼が自分宛のものでなく、神殿宛のものだと解釈するのは当然だった。もっとも、相手の声の調子にはそんなニュアンスはまるでなかったのであるが。
「いえ。淑彦さんへの依頼です」
駆け引きをする気はないらしく、サラリーマンはあっさりと言い切った。
淑恵もあっさりと観念した。元来、面倒くさいことが嫌いな性格なのである。
「ふぅん、それなら公式、非公式をはっきりさせてよ。最初は政府からの依頼と聞いて来たんだからさ」
「公式です。政府、つまり、内閣府の仕事です。えー、極秘なのは間違いないのですがね」
「極秘? そういうわかりにくい言葉は避けてほしいなぁ。つまり?」
「政府の非公式プロジェクトです。淑彦さんがあなただと気づいたのは私個人です。これでよろしい?」
サラリーマンはにやりとした。
淑恵は感心してうなずいた。
「おおお、すごいなぁ。気づいちゃった人いるんだぁ。んじゃ、あなたの正体を教えてくれる? その笑顔が不自然だからさぁ、何かを隠しているっぽいよね」
直接的で遠慮しない性格の淑恵はずばりと言った。これにサラリーマンはさらに笑みを深め、両手でふたつのVサインをつくった。一般にはかなりふざけているとみなされる態度だったが、淑恵は面白そうに笑った。
「あ、大抵の人はこれをやると怒るんですけどね。あなた、珍しいですね」
「いや、いいんじゃない? 単に面白いからだけどさ」
「そう言ってもらえたのは嬉しいですね。いや、そんなのははじめてだ。ところで、こいつはコードネームです。2V。そう呼ばれているんです、私」
「内閣調査室の2V。聞いたことあるなぁ」
淑恵にはその名に聞き覚えがあった。もちろん政府関係者の噂話として。だが、2Vの顔が少しでも表に出たことはない。
「そうです。コードネームで失礼。ですが、まぁ、その名前で大概の場合、通じるから問題ないっしょ」
2Vの口調が砕けたものになる。淑恵に似たもの同士という感覚を得たのだろう。
「それでいいけど、どうやって私のことを知ったの?」
「通信している場所を特定させてもらったんですよ。内閣魔術情報調査室関係者だけが使える荒技ってやつ」
「ふうん。でも、そこまでするからには、私を必要としているんでしょ? 何かおいしい話を持ってきているって理解して構わないわけ?」
「もちろん。いい話ですよ。普通ではどうだかわかんないっすけどね」
「私のこと普通じゃないって言い方はショックだなぁ」
「失礼。しかし、事実でしょ? で、いい話というのは、これです」
2Vはマナスクリーンを滑らせてきた。淑恵はそれを顔の前に展開し、中に表示された文章に目を通す。
それは、コンスタン魔術学院に潜入しているスパイからの情報だった。いや、スパイと言っても、正式な手続きで入学した正式な生徒である。ただ、卒業後の就職先を約束され、学院内部の情報を報告しているだけだ。
「ふおぉお。これは……!」
淑恵は驚きの声をあげた。
曽我けーなを媒介として、仮想異空間の中に複数の人間を閉じこめ、しかも、仮想異空間内を自由意志で改変したという事件の報告を読み、淑恵はそれが何を意味しているかを瞬時に悟ったのである。
「これは、すごいね。すごいよねぇ」
何度も「うんうん」とうなずく淑恵である。
「仮想異空間を制御できる方法があるらしいってことだ。そして、そのやり方も、わかりつつある」
2Vが言うと、淑恵は即座に反応した。
「この、曽我けーなという人物。彼女に特有の波動がこれを生じさせているというわけか」
「そのようだ。彼女は仮想異空間を改変することができるらしい。彼女の波動をコピーすることができれば……」
2Vは言ったが、淑恵はすでに頭に載せていたゴーグルを下ろし、2Vの用意した報告を手に、思索にふけっている様子だった。なにやらぶつぶつとつぶやいている。
「ふぉおおぉ、これは面白くなるぞぉ。アイデアばりばり浮かんじゃう。プログラムを反映させて、みんながごろごろ寝ころんでいられる空間だって作れるんじゃないかなぁ……」
2Vは肩をすくめ、自らの連絡先を書いたマナスクリーンを淑恵の前に滑らせた。
「やる気はもうあると思うけれど、念のため連絡よろしく」
そして2Vはその場を去った。
いや、正確には2Vは、淑恵の前を去ったのではなかった。
複数の人形に乗り移るかのごとくに自らの意識を飛ばせる2Vは、別の人形に意識を移したのである。
複数の人形――つまり最初から意識のない人造人間――を操るのは2Vの得意とする術であり、自らの意識を移していない人形にそれほど複雑でない自律動作をさせておくことも可能であった。
今、2Vが意識を移した人形は、帝国大学の研究室で立ち尽くしていた一体である。白い冷蔵庫のような四角い機械と、その間に置かれたスチールのラックに囲まれた狭い空間で背中を丸めている白衣の男が言葉を発すのを待っているのだ。
白衣の男は冷蔵庫のような機械のスクリーンに表示された数値を読み取り、振り返らずに声をあげた。
「で、2V。こいつが魔王の身体の細胞だって?」
「そういうこと。本物だと思うよ。そいつが発する波動に気をつけて、ってのは前にも言った通り」
2Vは言った。この人形の顔も、ほとんど特徴のないサラリーマン風のものである。
魔王の細胞というのは、以前の戦いの際、内閣魔術情報調査室、通称『CIMO8』のメンバーであるラバーズというコードネームの男が、魔王であるとされる紗伊阿九斗の培養された細胞を盗み出し、それを保管していたものである。
「波動は魔獣を使役するためにしか役に立たないだろうな。だが、面白いことがわかったよ」
白衣の男は振り返り、マナスクリーンを2Vに向かって投げた。
彼もCIMO8の一員である。彼が投げた映像には、地図とデータが記されている。
「この波動のパターンに見覚えがあったので調べてみた」
「それで、どうして地図なんだ? データを読めばわかるってのかい?」
「相変わらず横着な奴だな。データくらい読め。だが、解説がないとわかりにくいのも事実だな。そこが魔王の生まれた場所、だ」
「生まれた場所? あいつも人間だったってか?」
「そういう意味じゃない。一番最初の魔王ということだ」
それを聞いた2Vは、口笛を吹いた。
「わお。あれって世襲制だもんな」
「茶化して不正確なことを言うな、腹の立つ」
「いや、わかってる。わかってる。つまり、あいつは誰かの作った兵器だってことだ」
「そういうことだ。現行の魔王というのが、遺伝子の中に仕組まれた爆弾なのか、人工授精の産物なのかはまだわからないが、あの波動を発するように作られている初代の化け物が生まれた場所がそこなんだ」
「なるほどね……。今もそこにいるってのか? え……と、その地図の場所に」
2Vが聞くと、白衣の男は首をひねった。
「おそらく。初代はそこで生まれた。ま、そうとしか言えないな。メギス神殿のファイルにはあるかもしれない」
「へぇ。そいつは面白くなってきたなぁ」
「金になりそうな香りがするかい? 結局、目的はそこなんだろ?」
「いやいや、もうちょっと面白いことになりそうだ。何にせよ、もうちょっと待ってくれ。面白い成果が出せそうになってきた」
2Vはにやりとした。