Prologue: 平成5年 6月某日 千雨: ……すっかり、景色が変わっちまったな。 かつて村の神社があったところを訪れた私は、視界いっぱいに広がる光景を見つめてそう呟く。 本殿から少し離れたところにある、展望台。少なくとも「10年前」は、ここから眼下に村のほぼ全景を見渡すことができた。 千雨: (前時代的な長閑さを感じさせる佇まいが、わりと絵になってて好きだったんだが……今となってはもう、全て湖の底か) 赤坂さんに連れられて、この有様を見た時は思わず我が目を疑った。 ひょっとして、ここは#p雛見沢#sひなみざわ#rではなく……私は全く別の土地に連れてこられたのでは、と訝ったほどだ。 だけど……遠くに映る山の端には確かに見覚えがあり、なにより……。 千雨: (……ここに来る途中で、神社の本殿やら境内やらをこの目で確かめちまったからな……) 置き捨てられ……人の手が入らなくなったことで建物や石畳は荒れ果てて、雑草が四方に生い茂る廃墟と化していたが……。 残された当時の面影は私の記憶にあるものと忌々しいほどに合致していたので……嫌でもここが「あの」古手神社なのだと、認めざるを得なかった。 魅音:25歳: ねぇ……千雨、覚えている? 背後からかけられた声に振り返ると、長い髪を1つにまとめた年上の女性が周囲に目を配りながらそう尋ねかけてくる。 彼女は、園崎魅音。あの「世界」にいた時は1歳違いの年上の先輩で、クラスのまとめ役を務めていたが……。 今は十以上も離れた、立派な大人の女性。……そんな彼女にタメ口をきくのはかなりの違和感があり、自分が体育会系出身だということを思い知らされる。 千雨: 覚えてるって……何をだ、魅音。 魅音(25歳): あの「世界」での、正月前のことだよ。確か本殿に降り積もった雪を、あんたたちに片付けてもらったことがあったよね。 千雨: あぁ。軽い除雪作業程度ならともかく、雪下ろしなんて母さんの実家でも経験がなかったからな。どうやればいいのか、結構難儀させられたよ。 魅音(25歳): ……あれっ、そうだったんだ?2人ともわりと手慣れているように見えたから、てっきり経験者だと思っていたよ。 千雨: 美雪のやり方を、見よう見まねでやっただけだ。……ただ、あいつも雪下ろしは未経験だったはずなんだが。 千雨: いったい、どこで覚えたのやら……。まぁ、あいつはコツをつかむのが上手かったし、TVか何かで見たのを参考にしたのかもな。 あるいは、ガールスカウトでそういったカリキュラムでもあったのだろうか。……今となってはもう、確かめようがない。 千雨: にしても、魅音が車を出してくれて助かった。私ひとりだけだったら、ここまで来るだけでも相当苦労させられただろうしな。 魅音(25歳): これくらいはお安いご用だよ。まぁ、雪が降る冬期に来たいって言われたらさすがに拒否っていたかもしれないけどね。 千雨: ……やっぱり冬だと、ここまで運転するのは難しいのか? 魅音(25歳): 難しいというより、通行禁止。ぐるっと裏側から回ってくる山道が凍結して、スケートリンク状態になっちゃうからね。 魅音(25歳): 以前は駅があった場所から、#p興宮#sおきのみや#rを抜けていけば冬でもなんとか通れなくもなかったんだけど……今はもう湖の底に沈んじゃったからさ。 千雨: ……。確かにな。 魅音の言葉を受けて私は再び湖面へと顔を戻し、恨めしい思いをぶつけるように軽く舌打ちする。 日差しを反射して、キラキラと輝く水面は見る人によっては綺麗だと感じるものかもしれないが……私にとっては自身の無力感を示す象徴でしかなかった。 千雨: なぁ……魅音。 魅音(25歳): ? なに、千雨。 千雨: 私たちが最初、平成5年に雛見沢を訪れた時……ここにダム湖なんてものはなかったんだ。 魅音(25歳): その話だったら何度も聞いたよ。自分で言ったこと、もう忘れちゃったのかい? 千雨: ……一応、確認だ。何かのきっかけで、私たちの記憶が「変わってる」可能性もあるからな。 魅音(25歳): …………。 呆れたように苦笑する魅音の顔がその一言で固まり、神妙な表情へと置き換わる。 私と彼女の記憶は、同じ過去の時間軸で共有できているはずなのに……いくつかの点で重なり合わない。 その顕著な例が、雛見沢の末路に関するこの「認識」の違いだった。 千雨: 私の記憶だと、ここから見えていたのは……かつて村があったという廃墟だけだ。湖どころか、ダムも建設されてなかった。 千雨: そして、あの「世界」でお前たちから聞いたのはダムの建設計画が中止になり、雛見沢は村として存続が決定したという事実だった。 魅音(25歳): ……違うね。私はそんなこと、一切言っていない。数年後、村がダム湖の底に沈むことになったから……。 魅音(25歳): 新しい場所に移住するまでの短い間だけでも、残った仲間たちと楽しい時間を送っていこう……あんたたちには、そう言ったはずだよ。 千雨: ……なるほど。こうしてダム湖があるのだから、お前の認識こそがこの「世界」の常識なんだろう。 千雨: 私だけが、間違ってる……あるいは別の「世界」から飛ばされてきた、と考えたほうがよさそうだな。 魅音(25歳): ……。環境も存在も同じなのに、少しずつ何かが違う平行世界……ってやつか。まったく、薄気味の悪い話だね。 魅音(25歳): ここと似た世界がたくさんあって、それぞれに私が存在する……なんて理屈ではわかるけど想像するとなんだか、嫌な気分になってくるよ。 隣に並んだ魅音は、そう言って苦々しく吐き捨てる。その彼女の反応を当然だと思いつつも、私はさらに続けていった。 千雨: で……魅音。お前の記憶だと、ここの神社は誰が管理してたんだ? 魅音(25歳): あんたも知っての通り、梨花ちゃんだよ。雛見沢御三家のひとつ、古手家頭首のね。 千雨: そうか。……ちなみに今は、どこが管理してる? 魅音(25歳): 西園寺家だね。確か……絢って名前だったと思うよ。 千雨: 西園寺……絢……。 魅音(25歳): 西園寺家ってのは、古手家の分家筋らしい。今は神奈川県のどこかに分社を構えて、その中にご神体や神器を移管して祀っているんだって。 千雨: ……そいつの年齢は? 魅音(25歳): 年齢? いや、書類で名前を見ただけだからそこまでは知らないな。 千雨: そっか。……その名前の字、どう書くか覚えてるか? 魅音(25歳): こうだよ。「糸」に「旬」と書いて「あや」って読むんだ。えっと、なんか書くもの……あ、あったあった。 言葉だけでは足りないと思ったのか、魅音は地面に枝で「絢」の漢字を書く。 千雨: ……っ……。 私はその文字を見下ろして少しの驚きを覚え、しばらく気を静めてから……口を開いていった。 千雨: ……すまんな、魅音。別に、嘘をつくつもりはなかったんだが。 魅音(25歳): ……? 千雨: 私が昭和58年の雛見沢で見てきた話と、この平成の「世界」でお前から聞いた話に……もうひとつ、大きな齟齬がある。 千雨: ただ、どうしてそうなったのかがわからないから今まで言えずにいたんだ。 魅音(25歳): 言えずにいたこと……?それって、千雨のお父さんが亡くなった事件に関係しているのかい? 千雨: ……関係してると言えば、してる。美雪の親父さんに絡んだ話だからな。 千雨: ……美雪は、生まれる前に死ぬはずだった。けど、あいつの親父さんはその人の忠告を受けて東京に戻り、……一家は難を逃れた。 千雨: だからある意味、美雪の命の恩人というわけだ。 魅音(25歳): ……そうだったんだ。 千雨: だが……その恩人はどういうわけか、私たちがいた昭和58年の雛見沢にいなかった。というより、存在が消えてたんだ。 魅音(25歳): それって……誰のこと? 千雨: ……古手梨花。さっき話に出てた、古手家の頭首だ。 魅音(25歳): えっ……? 千雨: 私が行った昭和58年だと、彼女はいなかった。代わりに別の子が、古手家の頭首を務めてた。 千雨: で、そいつはこういう名前だった……。 私は魅音から枝を受け取り、地面の「絢」の横に一文字を書き加える。 魅音(25歳): 「花」……ってことは、絢花……? 千雨: あぁ。確か年齢は、私と同じくらいだった。だから10年経って普通に大人になったら……。 魅音(25歳): 今の私と、同い年くらい……? Part 01: 昭和58年 1月2日―― 千雨: ……つっ、かれた……! 正月の三が日に行われる初詣の手伝いを終え……私たちは脱力して、境内の石畳の上に座り込んでいた。 美雪(冬服): おぅ、珍しいね。体力自慢の千雨が疲れた~なんて言い出すなんてさ。 千雨: 体力というか、身体はまだ元気なんだがな。なんというか……気持ちが疲れた。MP切れだ。 菜央(冬服): 気疲れ、ってやつかしら。あたしは気持ちより先に、体力が尽きたけどね。 美雪(冬服): いやー……やっぱりお正月ともなると、結構な人数の参拝客が押しかけてくるよねぇ。 菜央(冬服): そうね……って美雪、そんな雪が残ってる地べたに直接座らないの。身体が冷えちゃうでしょ? 菜央(冬服): ただでさえあんたは寒がりなのに、風邪を引いても知らないんだから。 美雪(冬服): ちょっと休憩で腰を下ろしただけじゃんか。今日は明け方から、ずっと立ちっぱなしで働きづめだったんだしさー。 美雪(冬服): だいたい、私に文句を言うならあっちで大の字になってる一穂にも何か言ってあげてよねー。 そう言って美雪が指さした先には、新雪の上で大の字になって寝転がる一穂の姿。 一穂(冬服): はぅぅ……。 彼女はすっかり疲れたのか、目をとろりと潤ませて……今にも眠ってしまう寸前の顔をしていた。 一穂(冬服): んみゅぅ……雪が冷たくて、気持ちいい……。 美雪(冬服): ちょっ……おい一穂、寝るなー!寝たら死ぬぞー?! 千雨: いや、氷点下の雪山とかじゃあるまいし、さすがにこの程度でくたばったりはしないだろ。……風邪は引くかもしれんがな。 美雪(冬服): そうだね。……って、千雨?!なんでキミ、せっかく借りた上着を脱いでるのさ?! 千雨: 私は暑がりなんだから、これで十分だ。 千雨: そもそも、こんなもの最初からいらない、って言ったのに……レナがどうしてもって言うからとりあえず着ただけだ。 菜央(冬服): 押し付けるなんて、またそんな言い方して……レナちゃんのせっかくの優しさをそんなふうに言わないでよね。……天罰が下るわよ。 千雨: わかったわかった、あとで着る。 というより、神様じゃなくて菜央が何らかの罰を私に下すかも……なんて恐れも少しあったので、彼女には冗談を控えめにしておく。 美雪(冬服): まぁ、菜央はともかく……千雨。そうやって不用心に振る舞ってて、この前みたいに寝込んでも知らないからね。 千雨: あれは季節の変わり目で、油断しただけだ。身体を動かした後だから、少し涼ませてくれ。 千雨: ……それより、一穂の方はほっといていいのか? 美雪(冬服): 大丈夫だよ。あの子はちゃんと自己管理できる子だからさ。 千雨: なんだ、その謎の信頼感は……あいつが自己管理できてるのって、腹の空き具合ぐらいだろうが。 美雪(冬服): ……いや、そっちの方はむしろ管理が全然できてないと思うよ。なんせブレーキなしで、燃料タンクにも穴が空いてるからね。 千雨: それはただの故障車だ。すぐ車検に出せ。 菜央(冬服): はいはい、漫才はそのくらいにして……そろそろ帰りましょう。 菜央(冬服): ほら、起きなさい一穂っ。置いてくわよ! 一穂(冬服): うぅ……。 菜央が声をかけても、一穂はぴくりとも動かない。こうなったら仕方ない、担ぐか引きずって運ぶか……なんて考えていると。 美雪(冬服): 家に置いてるおせちの残り、私たちで全部食べちゃうよ~? 一穂(冬服): おせちっ……?! 美雪の囁きを聞いた途端、一穂は飛び上がるように覚醒。そして、トビウオのようにぴょこぴょこ、と跳ねながらこっちにやって来た。 一穂(冬服): あ、あれ……?おせちは、どこ……? 千雨: いや、外にあるわけがないだろうが。いい加減地球に帰ってこい。 一穂(冬服): そういえば、お腹がすいた……うぅっ。 本領を発揮した台詞に、思わず表情がフラットになる。……美雪の言う通り、タンクに穴が空いているようだ。 千雨: ……さすが食い意地に関しては、天下一品ってやつだな。 美雪(冬服): 千雨……それは絶対に褒め言葉じゃないね。一穂のこと、結構馬鹿にしてるよね? 千雨: 素直な感想を言ったまでなんだが……。 まぁ、疲れていても食欲がなくならないのは体育会系の私から見れば、ひとつの才能だと思う。食の細いやつは、成長も遅くなるからだ。 ……フォローになっているかな、この言い方って。 千雨: いずれにしても、今日の夕食はおせちの残りか。好きなものは大概食べ尽くしたしなぁ……。 美雪(冬服): こらこら、作ってくれた菜央とレナに感謝して文句を言わずに残さず食べきりなさいって。 千雨: なんだよ、お前もそろそろ餅じゃなくて白米が食べたくなってきただろ? 千雨: それに、残ってるおせちってほとんど煮物だからご飯と一緒に食うのはちょっと辛くないか? 美雪(冬服): いや、そういう問題じゃなくて……作った人への感謝が必要だってこと。というか、作った本人がここにいるからね? 菜央(冬服): 別にいいわよ、気を遣ってくれなくても。あたしも正直に言うと、ちょっと飽きてきたしね。 菜央(冬服): 確かに千雨の言う通り、ご飯のおかずってことを考えて肉や魚をもっと多めにしておくべきだったかも……かも。 一穂(冬服): えっ……? 煮物と白いご飯、おいしいよ? 千雨: お前は白米あればそれで満足なんだから、別にいいだろうがなぁ……。 美雪(冬服): え? 一穂はこう見えて結構グルメだよ? 一穂(冬服): こう見えて? こう、見えて……こう、ってどう? 菜央(冬服): 一穂。そこ深く考えちゃダメよ。でも美雪が出すパンはもう少し普通の顔で食べなさい。 一穂(冬服): えっ? そ、そんなに普通じゃない顔を私ってしてるのかな……? 千雨: あぁ。米や餅の時と全然違うぞ。 これは全然自覚してなかったな、と首を傾げている一穂を見つめながらやや呆れた思いでため息をつく。と、 魅音:冬服: おーい! 千雨: ん……魅音とレナか。 振り向いて目を向けると、着替え終わったのか魅音とレナがこちらに向かってくるのが見えた。 レナ(冬服): 待たせちゃったかな? かな? 美雪(冬服): ううん、ちょっと休憩してただけだから……あれ? 2人とも私服にもう着替えちゃったの? 魅音(冬服): うん。いくら神社での正装だとはいえ、あの巫女服のままだと身体が冷えるからねぇ。 レナ(冬服): あははは……下に着込むのも難しいからね、巫女服って。 魅音(冬服): #p雛見沢#sひなみざわ#rの寒さは、カイロ数個じゃどうやっても太刀打ちできないからさ。 菜央(冬服): そうなんだ……残念ね。 菜央(冬服): あとでレナちゃんの写真をいっぱい撮らせてもらおうと思ってたけど……早めにお願いしておけばよかったわ。 そう言って菜央は、あからさまにがっかりと肩を落とす。レナの撮影を、よっぽど楽しみにしていたようだ。 レナ(冬服): は、はぅうう……ご、ごめんね菜央ちゃん!あとでもう一度着るから、その時でもいいかな……かな? 菜央(冬服): ほわぁ……も、もちろん!巫女服レナちゃんを独り占め~♪ 魅音(冬服): あはは、レナは元気だねぇ。私はもう疲れたから、今すぐ家に戻ってごろごろくつろぎたいよ……っと、そうだ。 ふいに何かを思い出したのか、レナと話していた魅音は私たちに顔を振り向けてきた。 魅音(冬服): 美雪たちってさ、この後の夕食……もう決まった? 美雪(冬服): いやー、ちょうどその話をしてたところなんだよ。おせちはまだ残ってるんだけど、千雨が米を食いたいって言い出してね。 千雨: とはいえ、ご飯のおかずになるヤツは大半食っちまってな。何か買い出しに行こうかと思ってたんだ。 魅音(冬服): おっ、ナイスタイミング!実はさ、この後もう少しだけ付き合ってもらいたいんだけど……いい? 菜央(冬服): 別にいいけど……まさか、バイトのダブルヘッダー?さすがにそれは、ちょっと遠慮したいわね……。 魅音(冬服): 違う違う、そうじゃないって。まぁ、手伝ってほしいと言えばある意味でそうかもしれないけどさ……。 一穂(冬服): ……? Part 02: 魅音の誘いに乗った私たちが連れて来られたのは、彼女の自宅である園崎本家だった。 千雨: 相変わらずデカイ家だな……にしても、静かだな? 魅音(冬服): 今年の正月の新年会は、#p興宮#sおきのみや#rの方でやることになったからねー。お手伝いさんたちもみんなそっちに行っちゃったんだよ。 菜央(冬服): 魅音さんのお祖母さんが最近入院したから、そういう変則的な開催になったって聞いたけど……具合の方は大丈夫なの? 魅音(冬服): もちろん、平気平気!とっくに退院してピンピンしているよ! 魅音(冬服): けど、万一のことを考えて興宮の病院から近い場所で新年会やることになったのは、本人にとってはすっっごく不満だったみたいだけどさ。 レナ(冬服): はぅ……お正月だと、病院もやっているところが限られるもんね。 美雪(冬服): 医療関係者だって、お正月くらいは休みたいだろうにねぇ……。まぁそれは、警察も同じなんだけど。 千雨: イベントとかで人が集まると、犯罪も増えるからな。男手が家にいるやつの方が珍しかったぞ。 魅音(冬服): へー、そうなんだ。じゃあ、美雪と千雨のところってお正月とかはどう過ごしていたの? 千雨: 似たような家庭が集まってたから、そいつらと総出で餅つきとか凧揚げとか……まぁ、親父や旦那抜きで盛り上がったよ。 美雪(冬服): 初詣は後日にして、屋台にだけは友達で集まって繰り出したりしてね。あれはあれで、楽しかったな~。 なんて、私たちの正月の思い出を和やかな気分で話していると……。 一穂(冬服): あれ、なんだか中からいい匂いがする……? そう言って門をくぐる一穂に続いて、中に入る。すると、どこからともなく美味しそうな匂いが漂ってくるのを私も感じた。 菜央(冬服): ほわぁ……空きっ腹にはこたえるわね……。でも、夕食にしてはちょっと早いような気がするんだけど……えっ? 奥の座敷に入るなり、私たちは目を大きく見開いて驚く。 一穂(冬服): す、すごい! ご馳走がたくさん……! 美雪(冬服): こ、これはまた、和洋中と入り交じった豪勢な料理が……! 魅音(冬服): お正月のバイト、引き受けてくれてありがとう!明日が最後だから、今夜は英気を養うってことで盛大にお腹いっぱい食べていってね! 魅音(冬服): もちろん余った分は、あとで持って帰ってくれてもいいからさ♪ 美雪(冬服): いや、それはすごくありがたいんだけど……これ、いいの? 美雪(冬服): どう考えても、バイトのご褒美にしてはとてつもない贅沢さだよ? 美雪の言うとおり、色とりどりのご馳走が所狭しとばかりに並べられている光景は、壮観というか……圧巻だ。 TVの情報番組や、ドラマの中でしか見られないような豪華さがそこにあり、喜ぶよりも先に驚きと戸惑いがあった。 千雨: (正月バイトは確かにきつかったが……その対価をはるかに通り越してるぞ、これは) レナ(冬服): はぅ~、おっきくてかぁいい海老さんがいるよ~! 千雨: 海老って……伊勢エビか?おいおい、こんなサイズは見たことないぞ?! 千雨: 市場だと値段は……って、想像したら目眩がしてきた。 菜央(冬服): ほ、ほんとに食べていいの? 詩音(冬服): えぇ、私たちの気持ちですから遠慮なく召し上がってください。 そう言って奥の間から現れたのは、詩音だった。人気がないのに室内が暖まっていたのは、おそらく彼女の気遣いだろう。 一穂(冬服): 詩音さんは、旅館のアルバイトだったよね。そっちの方は終わったの? 詩音(冬服): えぇ、つつがなく本日で終了です。臨時かつ緊急の増員ということで、しっかりガッツリ稼がせていただきましたよ♪ 詩音が満面の笑みで、手で○を作る。……チャリン、とお金の落ちる音が聞こえた気がした。 詩音(冬服): ……あと、がっかりされるかもですが種明かしをしますと、実はバイト先の温泉旅館で団体のキャンセルが出ちゃいましてね。 詩音(冬服): ぶっちゃけ、それで余ったのを運んで貰ったんです。……ということで、遠慮なく食べてくださいね! 千雨: なるほど……そういうことか。 それを聞いて、少しだけ気が軽くなる。自分たちのためにわざわざ、と言われたらかえって腰が引けていたところだ。 あるいは、それも私たちに気を遣わせまいという魅音と詩音の配慮かもしれないが……あまり勘繰っても仕方がないので、言葉通りに受け止めておこう。 美雪(冬服): じゃあ、遠慮なくいただいちゃおうっかな! 一穂(冬服): わーいっ! 菜央(冬服): ありがたいけど、この量は凄いわね……。 千雨: だったら、沙都子たちも呼んだらどうだ?この甘そうな菓子なんて、羽入が好きそうだしな。 そう思って私は、この場に居合わせていない沙都子と羽入の名前を出す。……しかし魅音は苦笑して肩をすくめ、首を横に振っていった。 魅音(冬服): あー、うん。私もそう思って、神社を出る直前にレナと一緒に誘ってはみたんだけどねぇ。 魅音(冬服): 沙都子と羽入には、「梨花ちゃんが食べられないのなら、遠慮する」って断られちゃったんだよ。 千雨: ……そうか。 ……私たちが正月三が日にかり出されたのは、梨花ちゃんが風邪で体調を崩してしまったことが原因だった。 しかも、神事を手伝ってもらうはずだった臨時バイトの都合がつかず……かと言って適当な人間を置くわけにもいかず。 そのため沙都子と羽入ちゃんは、入江先生とともに彼女の看病と世話に専念し……巫女役は魅音とレナ。 裏方仕事や参拝客の誘導は私たちといった具合に体制を再編し、なんとか乗り切ることができたのだ。 千雨: (まぁ、そんな理由でもなかったら園崎家の新年会に次期頭首様が欠席なんざ許されるわけがないもんな) 血縁で強く繋がっている組織において新年会がどのような意味を持つか……警察官の娘として、よく知っている。 それでも、梨花と気心が知れた魅音に代役をさせたということが……現・園崎頭首による古手家へのいたわりを感じさせた。 美雪(冬服): 梨花ちゃん……具合、良くなってないの? レナ(冬服): 悪くはなっていないみたいだから、心配いらないって。ただ……今年の風邪は長引くって、監督がね。 菜央(冬服): ……だったら、あたしたちも遠慮したほうが良さそうね。あの子たちを差し置いて、美味しいものを食べるなんて不公平だもの。 一穂(冬服): う、うん……そ、そうだよね……ダメだよね……っ! 一穂が必死の形相で、ご馳走から目を反らす。……頭ではダメだと理解しても、後ろ髪を引かれているのが見え見えだ。 千雨: (本当にわかりやすいな、コイツ……) レナ(冬服): ……あははは、それなら大丈夫だよ。 そう言ってレナは、微笑みながら首を横に振っていった。 レナ(冬服): 沙都子ちゃんと羽入ちゃん、それに梨花ちゃんも……みんなでぜひ食べてほしい、って言っていたから。 菜央(冬服): ……そうなの? レナ(冬服): うん。みんなのおかげで、お正月の行事も明日を残すだけだし……。 レナ(冬服): 沙都子ちゃんと羽入ちゃんも、梨花ちゃんの看病に専念できたって喜んでいたよ♪ 千雨: ……そういうことなら、断るのはかえって彼女たちに失礼だな。よし、いただくとしよう。 そういって私は、近くの席にどっかと腰を下ろす。……が、すぐに美雪の手で襟首をつかまれてしまった。 美雪(冬服): 手洗いとうがいが先でしょ?そういうところは、きっちりしなきゃ! 千雨: 美雪……お前なんか、所帯じみてきてないか? 菜央(冬服): 千雨にまた、風邪引かせるわけにはいかないからでしょ?……ほら、一穂も行くわよ。 一穂(冬服): うんっ! 詩音(冬服): はいはい、手洗い場はこっちですよー。 魅音(冬服): はい、じゃあいただきまーす! みんな: いただきまーす! ……手洗いうがいを終えて、いただきますの号令を終えた私たちは早速各々の箸を延ばす。 園崎直営の旅館の料理は見た目だけでなく、味も一級品で……。 私たちは他人のキャンセルという、とんだおこぼれにより豪勢なご馳走を存分にいただくことができた――。 Part 03: 千雨: ……ん……? ふいに、まっ暗な中で目を覚ました私は……夢うつつの気分で、しぱしぱと目をしばたたかせる。 普段だと、掛け布団を頭から被って眠っているので周囲は見えないが……どうもシーツの感覚や匂いが違うようだ。 千雨: ここ、どこだ……って、あ……。 千雨: (確か、飯を腹一杯食って、それで……) 一穂(冬服): はふぁ……お腹いっぱい。 床に寝転んだ、というより文字通りに食い倒れた一穂を見下ろして、美雪が「……おぅ」と声をあげた。 美雪(冬服): どうしよう……一穂がアザラシになっちゃった。 一穂(冬服): ごろごろ~。 千雨: サイズ感的には、シロワニくらいだろ? レナ(冬服): う、うーん。シロワニよりアザラシの方がサイズ感がわかりやすいかな……かな? 千雨: そうか……? そうかぁ?そうでもないと思うがなぁ~。 詩音(冬服): ……なんですか、その謎の張り合い方は。 そんな私たちの足元で構わず寝転ぶ一穂を見て、魅音があちゃあと声をあげる。 魅音(冬服): みんなの分の着物を用意したから、それを着せて写真でも撮ろうと思ったんだけど……この様子だと、一穂はもう寝ちゃいそうだねぇ。 詩音(冬服): だから言ったじゃないですか、お姉。サプライズをするなら、早めにバラしたほうがいいって。 美雪(冬服): 着物かぁ……そういえば、ずいぶん前から着る機会がなかったなー。 魅音(冬服): そうなの? 初詣とかに着たりしなかった? 千雨: ここに来る時にも言ったが、私たちは基本的に日にちをずらしての初詣だったからな。平日に晴れ着姿は、さすがに目立ってキツい。 美雪(冬服): それに屋台巡りの時は、万一汚したりしたらお母さんたちのお目玉が怖かったしねー。 詩音(冬服): あー、確かに……。晴れ着のクリーニング代って、すっごい額を要求されたりしますしね。 美雪(冬服): だから、着てみたいとは思うんだけど……残念ながら梨花ちゃんたちも今日はいないし、また今度じゃダメかな? レナ(冬服): はぅ……そうだね。レナも梨花ちゃんたちと、一緒に着物を着て写真を撮ってもらいたいかな、かな。 魅音(冬服): じゃあ、次の機会ってことで。……あ、そうだ。美雪たち、このままうちに泊まっていきなよ。 美雪(冬服): えっ、いいの? 魅音(冬服): いいのいいの、うちは他に誰もいないしね。それに明日のバイトも、朝が早いからさ。 詩音(冬服): ここから行ったほうが近いですしね……それじゃ、私はそろそろおいとまします。 レナ(冬服): はぅ……? 詩ぃちゃんはお泊まりしないの? 詩音(冬服): 私、明日はエンジェルモートのバイトなんです。ここから行くのはちょっと遠いですし、もうすぐ葛西が迎えに来てくれることになっています。 美雪(冬服): おぅ、稼ぐねぇ。さすが勤労学生。 詩音(冬服): 稼げる時に稼ぐ、に越したことはありませんからね。人生、いつ何が起きるかわかりませんし。 菜央(冬服): なにかって……例えば? 詩音(冬服): そうですね……駆け落ちのチャンスを金銭不足でフイにしてしまう、とか。 千雨: それはさっき見た、映画の内容だろ。確かに駆け落ちは、有り金が生命線になるだろうがな。 詩音(冬服): そういうことです。何が生命線になるか、わかりませんからね。 魅音(冬服): ……あ、レナは泊まっていくよね?家に電話するんだったら、今のうちがいいよ。 レナ(冬服): はぅ……じゃあ、今夜は魅ぃちゃんに甘えちゃおうかな……かな。 詩音(冬服): では皆さん、良いお年を……って、これは2日前の挨拶でした。 魅音(冬服): っていうか、それ大石さんの口癖でしょ?変な想像しちゃうから、やめてよね。 詩音(冬服): くっくっくっ……確かに。では、今年もよろしくお願いします。 千雨: (あ……そうだ。なんてやり取りがあって、園崎本家に泊めてもらったんだった……) 私は暗闇の中で目尻をこすり、再び掛け布団にくるまって身を縮こまらせる。 暖房が効いているはずだが、少し寒い。……暑がりな私がそう感じるほどなのだから、実際の室温はかなり低い気がした。 千雨: (まぁ、あと数時間もすれば朝のバイトだからな。しっかり寝ておこう) 体力仕事に、寝不足は禁物だ。そう内心で呟きながら私は、目を閉じて……。 千雨: ……ん……? 何か、奇妙な音が聞こえた気がした。 ……雪は音を吸収する。ゆえに白銀の世界は基本的に静かで、ちょっとした物音が異音に聞こえる。 千雨: 気のせいか……? そう思い直して、再び布団に包まり……再び目を閉じかけた――その時だった。 梨花:私服: …………! 千雨: ……っ……?! 目を見開き、布団を蹴っ飛ばす。 千雨: (なんだ、今の……?女の子の……声? いや、悲鳴……っ?) 慌てて立ち上がり、耳を澄ませて……。 今も微かに何かが聞こえてくる方向へと、ウツボのように素早く足を進める。 千雨: (ひょっとして、幽霊か……?) 幽霊が全然怖くないかと問われれば、どうだろう。殴れるなら平気だが、物理攻撃が効かなければ……少し怖いかもしれない。 だが、今もなお微かに感じるその声にはどうにも聞き覚えがあるような気がして……。 雨戸を開け、縁側へと出た私は雪の中に…視線の先にあるものを見て……思わず、息をのんだ。 千雨: なっ……っ?! 月明かりが辛うじて辺りを照らす中、雪が降り積もった庭……人が倒れていたのだ。 千雨: お、おいっ! 裸足であることも忘れて、庭の方へと駆け出す。 慌てて人影に駆け寄り、あまりにも軽く冷たいその身体を抱き起こしながら顔をのぞき込んで――。 千雨: ど、どうしたんだ梨花ちゃん……?! 梨花(私服): っ……ぅ、……ぁ……。 元々私は暑がりな上に、さっきまで室内で寝ていたから身体は全然冷えていない。 そんな私が、手を当てただけでわかるほど……額が熱い。 千雨: すごい熱じゃないか?! 梨花(私服): ……っ、……く……。 千雨: おい、しっかりしろ! 大丈夫か?! 必死に声をかけると、息も絶え絶えに梨花ちゃんが虚ろな目を開けようとするが……その動作すら苦しいようだ。 明らかにただごとではない彼女を抱え、私は屋敷の中に向かって大声で呼びかけた。 千雨: 誰か……誰か来てくれっ!梨花ちゃんが、大変なことに……?! …………。 千雨: ……って、……おい、聞こえないのか……?! 困惑を覚えながらも続けて必死に叫び続けたが、なぜか屋敷からの反応はない。 千雨: くっそ……! 私は梨花ちゃんを抱きかかえて立ち上がり、縁側に駆け寄るとそこに横たえる。 状況は全く理解できないが、グズグズしている場合じゃない。思いつくことを少しでも早く、実行に移さないと……! 千雨: 待ってろ、梨花ちゃん!すぐに魅音を叩き起こして、入江先生を呼んで……、っ?! 魅音の部屋と案内された場所へ向かおうとした私は、弱々しくも腕を引かれて振り返る。 千雨: 梨花ちゃん……? 梨花ちゃんは、私の腕を必死に掴み……苦悶の表情を浮かべながら、懸命に首を横に振っていった。 梨花(私服): ……入江は、……ダメ……。 梨花(私服): 入江は……彼は……私の知る、入江じゃ……ない。 梨花(私服): あいつら、の手に……落ちた……っ! Part 04: 千雨: っ……? 何が、ダメだって言うんだ?あいつらってのは、いったい何だ?! 慌てて身体を揺さぶるも、梨花ちゃんは苦悶の顔で目を開けるのが精一杯といった様子で喉を引きつらせる。 梨花(私服): わからな……った……、信じて……いいか…………でも……間違い……だった。 ぽたぽたと、彼女の目から涙がこぼれる。熱いほどのぬくもりを帯びた滴が私の手に落ちて……。 梨花(私服): しん……じ、れば……よかった……。あなたたち……美雪、を……なのに……。 梨花(私服): ごめ、……なさ……っ……。ひな……わ……関係ない、……ぁなたたちを、巻き……で……。 梨花(私服): ごめん……なさい……。 そんな言葉を絞り出すと、梨花ちゃんは気を失ったように崩れ落ちた。 千雨: お、おいおい?! しっかりしろ! 千雨: 美雪を信じればよかったって……なんのことだ?! 千雨: っ……もしかして梨花ちゃん、知ってたのか?!あいつの親父さん……いや! 千雨: 美雪が、梨花ちゃんが予言して助けた赤坂刑事の娘だって……?! 肩を揺さぶるが、反応は既にない。 千雨: くそっ……っ……?! と、その時……気配を感じて背後を振り返る。 暗闇の中、目を凝らすと……庭の奥から明らかに怪しい人影が近づいてくるのが見えた。 千雨: (何人だ……? ひとり? いや、複数?) 千雨: (くそっ……雪がまた降り出してきやがって、人数すらまともにわからなくなった……!) 正体どころか、数もわからない敵……それらが潜む夜の闇に向けて、気を飛ばす。 千雨: 何者かは知らんが……。 梨花ちゃんを抱きかかえる。こうなった理由も原因もさっぱりで意味不明だが……今やるべきことだけは、はっきりしていた。 千雨: (#p興宮#sおきのみや#rまで逃げられるか……? いや、逃げないと。じゃなきゃ、他に手段がない……!) 正直……私は、彼女のことをよく知らない。全ては美雪から聞いた断片的な情報と想像で、真実はどうだったのかは確かめようがない。 ただ、わかっていることは……この子がいなければ、私の親友は生まれてくることができなかったという事実だけだった。 千雨: (……だったら、命がけで守る理由は、ある!!) 千雨: 来るなら来い……一切、容赦はしないぞ! 千雨: 美雪の「梨花お姉ちゃん」をこんな目に遭わせて、タダですむと思うなッッ!! 美雪(冬服): 千雨……ねぇ、千雨ってばっ! 千雨: ……っ、……ぁ……? 強い口調で呼びかけられながら、身体を揺さぶられる感触を覚えて……私は目を開けた。 千雨: はっ……?! 慌てて起き上がり、周囲を見渡して……異様な身体の冷たさに身震いする。 千雨: な、なんだ……何があった……? 美雪(冬服): なんだって、それはこっちの台詞だよ!布団の中にいないから探したらキミ、縁側で腰を下ろしたままで寝てたんだよ……?! 目をつり上げた美雪に叱られる中、私は自分の腕の中を見下ろす。 千雨: …………。 当然のように、空っぽだ。何も抱きかかえてなんていない。 でも、私の腕は高熱にうなされた少女の形を……重みを、まだ覚えている。 千雨: (夢なんかじゃない……確かに、あった……) 美雪(冬服): 大丈夫、千雨……?どうしてこんな寒いところで寝てたのさ? 黙り込む私に何か異様なものを感じたのか、口調を和らげた美雪が覗き込んでくる。 千雨: …………。 だけど、それでも何も言わない私の額に……横から小さな手が押し当てられた。 菜央(冬服): ……熱はないみたいね。けど、風邪を引かなかったのはただ運が良かったからでしかないわ。 菜央(冬服): まさか、トイレに行く途中で心霊現象に遭遇して気を失ったー……とかじゃないわよね? 一穂(冬服): ち、千雨ちゃん……? 純粋に心配する美雪と、その横で菜央ちゃんは怒りながらも安堵したように息をつく。 そして一穂は、おろおろと困惑した表情でこちらの様子をうかがい見ていた。 千雨: っ……梨花ちゃんは?ここにいた、梨花ちゃんはどこに行った?! 思考が戻ってきた私は、真っ先に彼女の行方と安否を尋ねる。 ……だが、それを聞いても美雪と菜央ちゃんは怪訝な表情で顔を見合わせた様子だ。 そんな2人の反応に、まさか……と嫌な感じを覚えた予想は的中し、彼女たちは口を揃えるようにしていった。 美雪(冬服): 梨花って……えっと、キミの知り合い? 菜央(冬服): あんたをそこで見つけた時、他には誰の姿も見当たらなかったんだけど……。 千雨: そ……そんなわけがあるかっ! 千雨: なぁ一穂! お前は知ってるよな?!お前、耳も勘もいいだろ?! 夜中に声を聞かなかったか?! 最後のよりどころとばかりに一穂に迫ると、彼女は呆然とした瞳をパチパチとしばたたかせて――。 一穂(冬服): ごめんなさい……。 泣きそうな顔で、首を横に振った……。 千雨: 一穂が……一穂までもが、何も覚えてないだと……?! Epilogue: 平成5年 6月某日―― 旧#p雛見沢#sひなみざわ#rのダム湖を高台から見つめながら、私は語り終え、大きく息をつく。 千雨: ……その後だ。古手絢花と会ったのは。 魅音(25歳): えぇ、えっ……と。 私の話に、魅音は周囲に視線をさまよわせる。 千雨: わかってる。困惑するのも当然の話だ。だから……黙ってた。 千雨: この話をしたのは、魅音にも似たような記憶があるかって聞きたかったからなんだが……どうだ? 私が問いかけると、魅音は必死に頭を回しているのか「うぅっ……」と唸り声をあげて。 魅音(25歳): ……正直、似たような記憶はあるよ。 戸惑いと怪訝を含みながらも、なんとか言葉を絞り出すようにしていった。 魅音(25歳): けど、私が覚えている限り……あんたたちは泊まらなかった。 魅音(25歳): で、美雪と菜央と一穂に着物を着付けてやって、写真を撮って、それで……それで……! 魅音(25歳): うん、そうだった……そうだったと思う……! 千雨: ……。そうか。 魅音(25歳): そうか……って。あんたが聞きたいの、そこじゃなかったの……? 弱々しい声による指摘に、私は何も答えずに口を引き結ぶ。 やはり私と魅音には、記憶に齟齬がある……それだけわかれば、十分だった。 魅音(25歳): ひとまず本当かどうかの判断は置いておくけど、今のあんたの話をかみ砕くとさ……。 魅音(25歳): あんた以外の私たちの記憶の中から、梨花ちゃんのことが綺麗さっぱりと消え失せていたってこと……? 千雨: あぁ……翌朝目が覚めた魅音もレナもそう言ってた。「梨花って誰だ?」ってな。 千雨: 事実を知った時は、耳どころか頭を疑ったよ。ついに私はおかしくなっちまったのか、って。 魅音(25歳): まぁ……実際、あんたの事情を知っている私でさえ正直言って半信半疑ってところだね。 魅音(25歳): 頭がおかしなやつの妄言だって切り捨てた方が、よっぽど楽ってもんだよ……。 千雨: だよな。わかってる。 本人の言う通り頭のおかしなヤツだと切り捨てられないだけ、魅音はいいヤツだ。それだけは確信できる。 千雨: ……ただ、大きな矛盾があるんだよな。 魅音(25歳): もう矛盾だらけだと思うけど……その中でも最上級レベル? 千雨: あぁ、極上……そして、至上レベルだ。 千雨: なにしろ、梨花ちゃんがいなければ……必然的に私と美雪は雛見沢と一切関係を持たないことになっちまうんだからな。 魅音(25歳): ……? それは、どういう意味? 千雨: 赤坂美雪がこの世に生まれたのは……全て古手梨花という存在がいたからだ。 千雨: 赤坂衛さんという東京から来た刑事と、その家族の運命を変えたのは……古手梨花だ。 千雨: 古手梨花の予言がなけりゃ、彼の妻の赤坂雪絵さん……そしてお腹の子は死んでた。病院の階段で、足を滑らせてな。 魅音(25歳): なっ……?! 千雨: そして、私が雛見沢に関わるのは……美雪が言い出したからだ。一緒に調べようってな。 千雨: じゃなきゃ私は、おそらく関わらなかった。というより、自分みたいな小娘に何ができるかって勝手に諦めていたと思う。 魅音(25歳): つまり……千雨は、美雪がいなかったら雛見沢と接点がなかった……? 千雨: あぁ、そうだ。……なのに、あの「世界」では美雪は消えずに存在してた。ついでに私も一緒にいた。 千雨: それがどういう意味を持つのか……私は知りたい。だからここまで連れてきてもらったんだ。 魅音(25歳): そういうことか……でも、わざわざここまで来て収穫ゼロはキツイね……。 千雨: いや、ゼロじゃない。次に向かうべき場所も会うべき人物もわかった。 魅音(25歳): えっ……? 千雨: 魅音が教えてくれたからな……だから私もこの話をする気になったんだが。 そう言いながら、私は湖を背景に魅音へ向き直る。 千雨: 今も存在するという、古手神社の分社……それを管理する西園寺絢って女性。 千雨: そいつに会いに行く前に、知ってる話を聞かせてくれ。……頼む。