「女性の顔を殴るなんて……」
金髪の女性が、怒りの表情もあらわに進んできた。
目にも止まらぬ速さで、リウイの頬に右手が飛んでくる。リウイはその手首をなんとか掴むと、そのまま彼女を引き寄せた。
端正な顔が目の前に迫ってくる。リウイがその気なら、上品な唇を奪うことだって可能だろう。
女司祭ははっとなり、全身を硬くさせた。青い瞳が怯えたように揺らぐ。
「男を殴るような女ならな……」
リウイはまず、彼女の抗議に対して律儀に答を返しておいた。
それから声を落として、
「衛兵が来ている。この場に残っていると、牢屋に入ることになるぜ」
と続ける。
「衛兵が!」
金髪の女は驚いたように、入口を振り返った。
どうやら、喧嘩に集中していて、外の野次馬の声が聞こえなかったらしい。
衛兵は店の外までやってきたが、権力嫌いの野次馬たちと揉みあっているらしく、店のなかにはまだ入ってきていない。
「逃げるのなら、今のうちだぜ」
リウイはそう言って、女司祭の手首を離した。
そのときには、女戦士と少女も立ち上がっていて、殺気に満ちた目で彼を睨んでいた。
「聞こえないのか? 喧嘩は終わったんだよ」
納得できないという顔をしながらも、三人の女たちは店の裏口に向かって、走り去っていった。
それを見届けて、リウイはほっと一息をついた。
不意をついたからなんとかなったものの、まともに喧嘩をしていたら、勝てたかどうか分からない。
そして、リウイは騎士見習いのほうに向き直る。
よろめきながらも、彼らは起き上がろうとしていた。
そんな二人の前に悠然と立ち、
「おまえたちを叩きのめしたのは、オレだからな」
と、リウイは言った。
騎士見習いたちは、惚けたような顔で見あげてくる。だが、戦意はもう失せているらしく、荒く息をつくだけだった。
リウイはもう一度、同じ言葉を繰り返し、
「誇りと名誉を大切にしたいのならな」
と続けた。
その瞬間、衛兵たちがようやく野次馬たちを押しのけて店内に入ってきた。
「何事だ!」
背後から肩を掴まれ、リウイは強制的に衛兵たちのほうに顔を向けさせられた。
「見れば分かるだろ。ただの喧嘩さ……」
リウイは衛兵に答えると、手近なテーブルに置きっぱなしにされていた葡萄酒の壷を掴み、ぐいっと呷る。
「酔っ払いが!」
衛兵がリウイの顔面を殴りつけようとした。
力のない一撃だったので、リウイはそれを避けもしない。拳が頬に当たった瞬間、ふらふらと後ろによろけたのも芝居だった。
衛兵たちは、当然のように二人の騎士見習いの正体に気づいた。そして、目配せをしあうと、リウイ一人を連行しようとする。
不公平きわまりない処置だが、リウイの狙いどおりでもあった。二人の騎士見習いの名誉は守られるし、あの娘たちも王国から追われずに済むだろう。
後ろ手に縄をかけられ、リウイはオーファンの王城にある地下牢へと連行された。
馬鹿な真似をしたとも思うが、今夜の事件は十分、刺激的だった。
まだ飲み足りないことだけが、リウイの唯一の不満だった。
3
リウイが釈放されたのは、翌日の昼前だった。
牢屋に放り込まれるとき、養父カーウェスの名を出していたから、この結果は予想どおりだった。
「酔っ払って喧嘩とは、な」
宮廷に出仕し、リウイが牢屋に入れられたことを聞いたとき、カーウェスはひどく慌てたらしい。
だが、リウイと対面しても、意外なことにそれほど怒らなかった。短い説教をしただけで、かえってリウイは拍子抜けした。
「国王には会っておるまいな?」
説教を終えると、カーウェスはそんな質問を投げかけてきた。
「王様は、地下牢によく来るのかい?」
養父の質問の意図が分からず、リウイは戸惑いながら答えた。
養子であるリウイが牢屋に入れられたことが国王に知られたら、立場上まずいのは間違いない。だが、それぐらいでカーウェスの評価が変わるとも思えない。
「会っておらなんだらいいのだ」
安堵のものとおぼしき溜息をついて、カーウェスは会話をうち切った。
そして執務があるからと言って、去っていった。
そんな養父の態度を怪訝に思いつつも、リウイは深く詮索をしなかった。
汚れた身体を湯で洗い、牢番が差し入れた新しい服に着替えて、裏門から出てゆく。王城がそびえ建つ丘の斜面を一回りして、王都ファンの市街に向かう。
すでに昼なので、ひどくお腹が空いていた。どこかで食事でもして、それからゆっくりと魔術師ギルドへ帰ろうと、リウイは思った。
飯屋を探して街路をぷらぷら歩いていると、突然、路地から人影が飛び出してきた。それも三つ。
現れたのは、昨晩、会った三人組の娘たちだった。
「おまえたち……」
リウイの目に警戒の色が浮かぶ。
彼女たちは殺気にも似た異様な雰囲気を漂わせている。
(それほどの恨みを買うとはな)
意外に思ったが、売られた喧嘩から逃げるのはリウイの流儀ではない。
三人の娘は、しかし完全武装であった。女戦士は両手持ちの大剣。神官戦士は、小振りの戦鎚。そして、小柄な少女は細身の小剣。
リウイはと言えば、護身用に短剣を帯びているだけ。武器を使った戦いになれば、勝ち目はない。そもそも喧嘩なら慣れているが、武器の扱いには慣れていないのだ。
どう考えても逃げたほうが利口だった。最悪、殺されるかもしれない。だが、リウイの心に恐怖感は湧いてこなかった。むしろ気持ちが高ぶっている。
(オレは狂ってるのかもしれない)
心のなかで、リウイはつぶやいた。
魔術師として異端なだけではなく、人間としても異端なのではないかと思う。
娘たちは、どう見ても戦い慣れている様子だ。大柄な女性は傭兵経験がありそうで、本物の戦場にも出ているだろう。
金髪の女性は戦神マイリーの神官戦士であり、戦いの訓練を受けているだけでなく、神の奇跡たる神聖魔法も使う。
そして小柄な少女は、昨晩は気づかなかったが、おそらく盗賊だ。独特な足の運びからそれと分かる。
そんな三人が一緒に行動しているのは、不自然と言えば不自然だ。だが、たったひとつの言葉で、その疑問は霧消する。
彼女らは、冒険者なのだ。
それもかなりの経験を積んだ冒険者だろう。
そしてすべての冒険者が、善人とは限らないのである。
人気のない路地にリウイを誘い、広まった場所に来てから、娘たちは振り返った。
リウイは、無言で三人を見つめ返す。
彼のほうには、言うべきことはない。愛想笑いを浮かべる気もないし、慈悲を乞うつもりもない。なるようになれという気持ちだった。
「おまえ、リウイって言うんだってな」
小柄な女性がリウイの全身をじろじろ眺めながら言った。
どうしてそれをなどと、お決まりの台詞をリウイは言うつもりはなかった。同時に、彼女が盗賊であることを確信する。盗賊ギルドなら、人の素性ぐらい簡単に調べがつく。
「オーファン魔術師ギルドに属していて、最高導師カーウェス様の養子なのですね?」
金髪の神官戦士が、ゆっくりとした口調で言う。
訊ねているのではなく、確認している感じだった。
答えるまでもないので、リウイは無言でうなずいた。
「魔術師なんかに殴られるとはな……」
赤毛の女が地面に唾を吐いた。彼女の右目には昨晩、リウイが殴った痕が、見事な青痣となって残っている。
「不意をついたからな」
「それぐらいで殴られるなら、わたしは戦場で十度は死んでいる」
たいした自信だと、リウイは思った。
だが、自信なら彼も負けない。武器を使って戦った経験こそないが、殴りあいなら負けたことがない。ほとんどの相手を、拳一発で倒してきた。
「用があるから、誘ったんだろう。オレだって、それほど暇じゃないんだ」
どうやら喧嘩は避けられそうにもない。
リウイは覚悟を決めて、三人の動きに油断なく注意を払った。
「昨日の続きといきたいのは山々なのだがな……」
リウイの気配を悟ったらしく、女戦士がそう言って、金髪の神官戦士の肩を叩いた。
促されるように、彼女は一歩、進みでてきた。
「わたしの名前は、メリッサと言います。ラムリアースに生まれました」
メリッサと名乗った女性は、優雅な動作と丁寧な言葉遣いで挨拶を送ってきた。
間違いなく騎士階級の出身だと、リウイは思った。
おそらく上級騎士──貴族の出身だろう。
ラムリアースはアレクラスト大陸最古の歴史を誇る王国である。宮廷儀礼も洗練されている。オーファンの宮廷に出入りしている女官では、とても彼女の真似はできまい。
「不本意ながら、あなたが勇者であるとの啓示を神から賜りました。本日から、あなたに仕えさせていただきます」
「はあ?」
思いもかけぬ言葉に、つい間の抜けた声が出た。
「オレが、勇者だって……」
言葉を失って、メリッサという名の神官戦士の端正な顔を呆然と見つめる。
「啓示を受けたからには、勇者に仕えるのがわたしたちの信仰ですから……」
リウイの視線から逃れるように、金髪の神官戦士はそっぽを向く。
「仕えるなんて言われてもな……」
なんとか落ち着きを取り戻して、リウイは言った。
「いろいろと悪さはしているが、オレはこのまま魔術師を続けるつもりだ。それに魔術師が勇者になったなんて話は聞いたことがない。爺さんのように、勇者を助けることならできるかもしれないが……」
それにしても、今の実力ではとうてい無理だ。
「わたしだって、戸惑っているのです。しかし、神の啓示は絶対ですから」
よく見れば、メリッサは何かを耐えるように拳を握りしめている。あいかわらずリウイの顔を見ようともしない。どう考えても、好意は感じられない。
「残念だが、あんたの期待には応えられないな。オレは勇者になるつもりなんてない」
「いいえ、応えていただきます」
メリッサという女性は強硬だった。
信仰の問題だから、それは仕方ない。だが、突然、勇者だと言われてもどう振る舞えばいいのか考えもつかない。
予想もしなかった展開に、リウイはただ混乱するばかりであった。
「わたしたちは冒険者さ」
そんなリウイの様子を見て、女戦士が溜息まじりに言った。それから、思い出したように、ジーニと名乗った。
「わたしは、見てのとおりの戦士。メリッサは戦神マイリーに仕える神官戦士、そしてミレルは盗賊」
ミレルという名の小柄な女性が、不機嫌そうな顔で会釈した。
リウイの予想は、完全に当たっていたわけだ。
「そして、わたしたちは仲間を探していたんだ。魔術師か精霊使いのね」
その事情も、リウイには分かる。
冒険者はあらゆる状況に対処する必要がある。そのため、魔法使いは仲間として欠かせないのだ。神聖魔法の使い手たる司祭も魔法使いには違いないが、治癒呪文が主で攻撃呪文や補助呪文は充実していない。危険な仕事を成功させるつもりなら、魔術師か精霊使いが必要なのだ。
「女の魔法使いを探していたんだけどね」
ミレルという名の盗賊の少女が、吐き捨てるように言った。
少女の言葉に、女戦士のジーニが不承不承というようにうなずいた。
「ところが、おまえが勇者だという啓示をメリッサが受けてしまった。彼女はおまえに、仕えねばならない。だから、選択の余地がなくなってしまった……」
そこまで言われれば、彼女らが言わんとしていることが、リウイにも分かった。
「オレに仲間になれ、というのか?」
「不本意ですけれど……」
ようやくリウイの顔に目を向けて、神官戦士のメリッサが言った。
「オレが冒険者に?」
リウイはうつろな声で繰り返した。
冒険者になって古代王国の遺跡を探索する。頭のなかにはそういう考えもあった。
魔術師ギルドの同期生たちが期待したように、研究材料を探すためではない。リウイが欲しているのは遺跡に眠る報酬ではなく、待ち受ける〝危険〟のほうだった。精巧な罠や恐るべき怪物。
命懸けの冒険。だが、リウイにはそれがたまらなく魅力的に思えた。
仲間がいないだろうとあきらめていたのだが、その仲間たちが向こうからやってきた。
リウイは運命という言葉など信じていない。
だが、不思議な偶然というのは時にあるものだ。今がまさにそうであるように……
この偶然に乗るかどうかは、リウイ次第だった。それに、目の前の三人の表情を見る限り、断っても認めるつもりはなさそうだ。
脅迫されて従うのは、リウイの流儀ではない。だが、生まれて初めて、彼は脅迫されてもいい気分になっていた。
「しかたないな……」
リウイはたっぷり時間をかけてから、渋々と言ったように答えた。
恩というものは売っておいて損はないのだ。
三人の女たちは互いに顔を見合せたあと、複雑な面持ちでうなずいた。
安堵しているような、それでいて悔しそうな表情。彼女たちのほうも、リウイを歓迎しているわけではないのだ。
だが、彼女らの気持ちなど、リウイにはどうでもよかった。自分の心の奥底で燻っていたものが、ようやく出口を見つけだしたような気がした。酒でも、女でも、喧嘩でも、完全には得られることのなかった充足感……
冒険によって、それが得られるかどうかは分からない。
それは実際に試してみるしかないのだろう。そしてその機会を、リウイは手に入れた。
そう、リウイは冒険者になったのだ。