「珀蓮さん?」
音声のみだったが、その声は珀蓮のものだった。彼女と通信しているのならば、変なトラブルに巻き込まれたのでは無い、そう判断した西南は、安堵のため息を吐いた。
「了解。後はよろしくね」
その女性は通信を切ると、少しムッとしたように西南を見た。
「そう安心した顔をされると、ちょっと腹が立つわね」
「えっ?」
「だってそうでしょう? 部屋に私と二人っきりというのは変わらないのに、そんな緩んだ顔されたんじゃね」
その女性は乱暴に西南の横に寝転がると、西南を挑発するようなポーズをとった。
「さあ、どうする?」
(しまった! これがもしアイリさんだったら、絶対にヘソを曲げる状況だ。その同類の人なら、同じ反応をしてもおかしくないんだった)
その時、西南は自分のミスに気付いた。しかもこの場合、ちょっと子供っぽい反応をするアイリと違って、彼女の色香はまさに〝匂い立つ〟という表現がピッタリなのだ。それは砂漠で何日も水無しで放浪し、意識が朦朧とした時に見えたオアシス、と言った感じである。
「あああああ……あの……」
水を求めて突進したい───そんな衝動を必死で堪える。
今まで西南にこの手の仕掛けをした人間は、その行動に、どこかからかっている部分が見えていたが、彼女の場合は、その部分が天然で、西南の危機回避の本能を鈍らせてしまう。恐らく彼女が寝ている体勢の今なら、ドアまで逃げ出せるのだが、西南の頭にはその考えが浮かんで来ない。
「フフッ。その顔に免じて許してあげましょう」
赤面し、汗びっしょりとなった西南の顔を見て満足したのか、その女性はスッと起き上がると、そのまま部屋を出て行った。
「……ふうっ」
よく分からないが危機が去った事だけは確かだった。だが西南の中には、安堵すると同時に、残念に思う気持ちも混在していた。
自分を落ち着かせようと西南は大きく深呼吸をした。そしてようやく気持ちが落ち着きかけた時、西南は自分が置かれた状況が、まったく分からない事に気付いた。
「俺は、これからどうすれば……」
先程の女性が出て行ったドアの方へと向かおうと、西南が顔を上げた目の前に、いつの間に居たのか、翠簾がちょこんと座っていた。
「うっ! うわっっっっっっ!」
驚いて飛び退く西南は、そのままの勢いでベッドから落ちてしまった。幸い、床にはふかふかの毛皮状のカーペットが敷かれていたため、多少の衝撃はあったものの、痛みは感じなかった。
「大丈夫ですか?」
ベッドを乗り越えるようにやって来た翠簾は、心配そうに西南を覗き込んだ。
「あっ、いや大丈夫です。ちょっと油断……じゃない、突然だったもので……」
「すみません、驚かしてしまって。何度か声はおかけしたのですが……」
「いいんです。俺もいろいろとよく分からない状態で、動揺していたものですから。それより翠簾さんはいつからここに?」
「西南様がお目覚めになった時からずっと」
「ずっと?」
西南はここで目を覚ましてからの記憶を何度も辿ったが、そこに翠簾の姿を見出す事は出来なかった。
「……ずっと?」
「はい、ずっと……その……」
翠簾は少しはにかむように、折り畳んだ西南の制服を見せた。
「浴室の方で洗濯をしていましたので……」
それを見て初めて、西南は自分が浴衣のような物を着ている事に気付いたのだった。
「その……少しでも楽な方が良いとの事でしたので……。制服は、機能に少し障害が出ていたらしく、アイスや埃や血や汗や、コロンや整髪剤とか、諸々の物で汚れていましたので、簡単ですが洗濯をいたしました」
翠簾は恥ずかしそうに言うと、折り畳んだ制服をそっと西南の前に置き、洗面所の方へ入ってドアを閉めた。
× × ×
(ふう、危ない危ない)
先程まで西南と一緒にいたその女性は、逃げ込むように別の部屋へ入ると、大きく息を吐き出しながら壁にもたれ掛かった。その顔は紅潮し、玉のような汗が滲んでいた。その動揺は先程の西南より強い反応だった。
「この女ァ、私をのけ者にして何をしていた? さあ吐け、吐かないか~~!!」
アイリ声のNBは、その女性に突進して来ると、顔をくっ付けるように耳元で怒鳴り声を上げた。
「何もしていませんよ」
「噓よ噓! 何が『でも、それは霧恋さん達の役割でしょう?』よ! 皆さ~~~ん、九羅密美守は若い身体なのをいい事に、生徒に手を出す放蕩教育者なんですよォ」
部屋の奥で聞き耳を立てているであろうオペレーター達に向かって、NBアイリは大声で叫んだ。
「ええい! 言い付けてやる! 瀬戸様にも、美兎跳ちゃんにだって、アンタの弟にだって霧恋ちゃんにだって、みんなに言ってやる!」
(どうせなら、我慢しないで行くところまで行っちゃえば良かったのかしら?)
彼女『九羅密美守』は、まだ残り火のように燻っている、心と身体の疼きに酔いしれながら思った。それはちょっとした好奇心で面会した、あの『ウィドゥー』に〝感染〟させられた、西南に対する疼きだった。
美守の場合、それをちゃんと認識しているため、精神の専門家に治療を受ければ、すぐにでも無くなってしまうものだが、ウィドゥーに興味本位で面会した自分への罰、それ以上に、ウィドゥーという存在を消したくないという思い、そして何より『心地よい』という想いから、彼女はあえて自分の中にあるそれをそのままにしているのだ。
「……美守様~~~」
美守が意識を他に向けている間にNBの声は、弱々しいモノへと変わっていた。一瞬、アイリの罠かとも思ったが、変形を始めたNBに気付いた美守は、慌ててシークレットフィールドを張った。
「よくアイリ様の接続を遮断出来たわね? でもその姿をあまり人前にさらしちゃまずいわよ、キルシェさん」
涙を溜め、すがるような目で見上げているのは、キルシェの人型をしたNBだった。
「本当に西南さんと……西南さんと…………」
「なるほど、アイリ様がさっさと交代したはずだわね」
つまり『押してもダメなら引いてみな』である。アイリはキルシェ相手なら、美守が本当の事を話すと思ったのだ。実際キルシェの仕草と表情は、犬猫好き人間の前に居る子犬子猫のそれと同じだからだ。
「大丈夫よ、安心なさい。何もやましい事はしていませんからね」
美守は優しくキルシェの頭に手を置いた。その瞳は校長時の、あの優しげで穏和なモノだった。
「……はい」
キルシェは美守の言葉を素直に信じ、安心した子供のように頷いた。そのあまりの可愛らしさに、美守はキルシェの頭をしばらく撫でていた。
(でもキルシェ……今は西南君の争奪戦に参加するつもりはないけど、その争いに決着がついたもっと未来において、彼と道が交わる事を避けるつもりは無いのよ)
そう心の中で呟いた。
(おそらく西南君なら、私やアイリ様のような、高レベルの調整を施されるのは間違いないでしょうしね……)
そうなれば、少なくとも数万年という途方もない時を生きる事となる。その時の積み重ねの中で、人との繫がりの形態はいろいろと変化する。もちろん別離も有り得るが、恋人から夫婦、そしてそれ以上の結びつきを持つ事もある。一心同体となり、互いを確認する事が不要になってしまう事だってあるのだ。それは天女が、西南に説明しようとしていた事だった。
(どちらにしろ、今はこの状況を見物する側だしね)
と、そんな事を考えてる美守を、キルシェはまだ涙の滲んだ目で見上げ、
「あの、美守様。実は少しご相談があるんですが……」
困惑気味に話しかけて来たのであった。
× × ×
「おのれ、あの女狐~~~!」
アイリは理事長室の机を叩きながら怒鳴った。
「キルシェ如き小娘に期待した私がバカだったわ!」
苛立たしげにモニターを覗き込んでいる母親を横目で見ながら、水穂は赤面しつつ鷲羽と通信をしていた。
『ふむ、なるほどねえ。西南殿を使った囮捜査で隙を作っておいて、入り込んでいるであろうスパイに、西南殿の家族情報をリークさせたわけね』
ちょっと批難めいた口調で鷲羽は言った。それはアイリが計画が早まった事を鷲羽に伝え忘れていたからだ。しかも本来ここで鷲羽と通信をして、平身低頭しているのは、水穂ではなくアイリであるべきなのだ。
『ふん』
鷲羽は右の親指を立てると、それを下に向けた。
ゴンッ! と、どこから出て来たのか、大きな音と共にアイリの頭に、釣り鐘ほど厚みのある重そうな金タライが直撃し、そのままアイリは気を失って、机に突っ伏した。
「お手数をおかけします」
水穂は一礼した。
『うむ、スッキリ♡』
「……そういうわけですので、申し訳ありませんが、西南君のご家族の警護と、敵の迎撃をお願いしたいのです」
『そいつはちょいと手加減が難しそうだね。一気に叩き潰しちゃう方が、よほど簡単なんだけど……。魎呼は使わない方がいいかねえ?』
「人選はお任せいたします」
『フッ、まあせいぜい楽しませてもらうわよ』
「……そういえば、肩に居た子はどうしていますか?」
水穂は以前、鷲羽が肩部分をクリスタルに変質させ、ウィドゥーのアストラルを封じていた事を思い出した。
『ああ、卵殻の中で最終段階に入っているよ』
「早いものですね、この前まで鷲羽様の肩に居たのに」
『彼女と相対するのは骨だったけど、でももう少し話していたかったわ……滅多に出会えないサンプルだったしね』
鷲羽は残念そうに、クリスタル化していた肩を撫でた。
『本体の方も、培養槽の方で第三段階の成長が終わっているからね。例の試作艦のテストデータが出揃い次第、最終調整を加えれば……いつでも引き渡し可能よ』
「!!」
水穂は全身に鳥肌が立つのを感じた。伝説の哲学士、白眉鷲羽の新造艦───樹雷の皇家の船と同等の力を持ち、単艦で樹雷本星に侵入し暴れ回った『魎皇鬼』の姉妹艦が生まれようとしているのだ。
「本当に大丈夫なんですか、瀬戸様ァ?」
水穂はため息混じりに独りごちた。
『ククク、最高の船を造ってちょうだい、って言ったのは瀬戸殿だからね』
『みゃあ!』
と、鷲羽の肩に乗って顔を出したのは魎皇鬼だった。
『何だ? どうしたんだい?』
『ミャアミャア!』
魎皇鬼は何やら嬉しそうに、鷲羽に一生懸命話しかけていた。
『ふんふん……そうかい、あの子に挨拶をしてたの』
「あの子?」
『ん? ああ例の卵殻だよ。魎皇鬼にとっちゃ、妹にあたるからね……さて、どういう子に育つのやら』
魎皇鬼を抱きかかえながら、鷲羽は笑った。
「できれは、素直ないい子に育ってくれると嬉しいのですが……」
『素直な、いい子ねえ』
それはつまり、樹雷にとって都合よく動いてくれる、という意味だ。鷲羽はちょっと嫌みも込め、意味ありげに微笑んだ。
「エエッ!? だって西南君、ただでさえいろいろトラブル引き寄せるんですもの……これで船が暴れん坊なんかになったら……」
『瀬戸殿、喜び宇宙駆け回り、水穂殿は尻ぬぐいで、てんてこ舞い♪ ってとこ?』
童謡の韻を踏んだ、的確な喩えを言われ、水穂は小さく頷いた。
「ますますお嫁に行けなくなっちゃいます」
『不思議だよねぇ。本当に嫁に行きたいと思っているのかい?』
水穂は鷲羽から見ても良妻賢母の資質を持っている女性だ。有能で気だても良く、柔らかな物腰で男性にも女性にも好かれるタイプだ。だがやはり瀬戸の副官という立場がネックとなって中途半端な男は近付けず、有能な男からは尊敬の念を持たれてしまい、一人の女性として見られないのだ。とはいえ水穂の方から近付く事は出来るはずなのだが……。
「もちろんです! 暇な時はちゃんと婚活をしていますし」
『で、暇な時ってあるのかい?』
「…………ありません」
鷲羽の問いに、水穂は小さく呟いた。
『でも五千年、嫁がなかったのも居るんだしさ』
「そんな特殊な例を出されても、慰めにはなりません!」
『アハハハ、それもそうだ。でもそろそろ水穂殿の後継も育ってるんじゃない? 何も一人で瀬戸殿の面倒を見る必要もないんだし、辞めるって言って放っぽり出しゃ、瀬戸殿の方で何とかするだろ?』
「後継の娘達の苦労を考えると、そんな無責任な事は……」
『それを迷惑がるようなのは、ハナからあそこへは入れないだろ? まあ、それくらい気楽に考えればいいって事さ』
「玲亜ちゃん家に男の子が出来たら、貰えませんかねえ?」
『その子は人柱に決定しているからねぇ』
「うっ、そうでしたね……申し訳ありません、何だか愚痴になってしまいまして。西南君がアカデミーに来て、本当に激変というのがピッタリの状態なんで」
『敵さんの処理はちゃんとやっておくから、まあ、元気をお出し』
『ミャア』
鷲羽は魎皇鬼の前足を摘んで、バイバイの仕草をさせ通信を切った。魎皇鬼に今までの会話が理解出来ているとは思えないが、その満面の笑みは水穂のちょっと沈んだ心をほんのりと温かくしてくれた。
× × ×
先程の部屋では、キルシェの形をしたNBと美守が、ソファーに向かい合うように座っていた。
「そう、お父さまから公開メールがね」
公開メールというのは、伝言板のようなモノだ。通信先が分からない時などに、本人しか分からないようなプロテクトをかけて掲示するのだ。
「はい。〝もう自分の好きに生きろ〟と……だから……」
「だから?」
「一度お会いして謝った方がいいかと思いまして」
神妙な口調のキルシェを前に、美守は視線を逸らしつつ考えていた。
「公開メールにプロテクトはかかっていたの?」
「いいえ、オープンのままで、父のHPにありました」
「なるほど」
アイドルだったキルシェが失踪してから、巷では多くの憶測が流れ、その原因について大論争が巻き起こっていた。だがほんの数日を待たずして一つの結論が導き出された。それはキルシェのマスター、父親が『自分の嫁』にしようとして逃げられた、である。オープンのメールは、世間の批難をかわすための所有権放棄宣言であった。
(アイリ様の情報では、また新たなAIの構築を始めたみたいだから……)
チラッとキルシェを見る。
───世俗にまみれ、純粋でなくなった……つまり他人に奪われた女には興味が無くなったって事よ───
アイリが笑いながら言っていたのを思い出す。もちろんそれがそのまま、キルシェのマスターの人間性全てを表すものではない。大いなる成果と、愛する対象を失った故の、彼なりの精神安定を図る方法でもあるのだ。
とはいえ、事実をありのまま伝えるのは良くないと判断した美守は、言葉を慎重に選びつつ、
「キルシェ……。子供はね、いつか親元から離れて行かなければならないの。貴女のお父さまの言葉は、もう二度と戻って来るなという意味よ」
「えっ!?……父は、私の事をまだ怒っている、という事ですか?」
「一度巣立ったからには、自力で生きて行かなければならないわ。すぐに挫けて戻って来るようじゃ、ダメって事よ。もちろん貴女のお父さまも、貴女が出て行った事に納得出来ているわけじゃない。それを受け入れるのはものすごく時間のかかる事なの。だから貴女はお父さまの気持ちを乱さないように、ふり返らずに前だけ見ていなさい」
美守の言葉を受け、キルシェは長い間考えていた。そして……、
「……分かりました。ありがとうございます」
何か吹っ切れたような、意志のある口調でそう言った。
「ところでキルシェ、今度はこっちから質問したいのだけど、いいかしら?」
「は、はい。何でしょうか?」
キルシェは緊張した面持ちで顔を上げた。
「西南君との生活はどう? 今は何をしているのかしら? まあ、ちょっとした興味だから、言いたくないのなら無理をしなくてもいいのよ」
「あっ……えっと……今は、毎晩お付き合いしていただくのは止めてるんです」
「何かあったの?」
「いえ、西南さんはいつも優しくして下さいますし、私も本当に楽しくて……でも」
「でも?」
「それは西南さんにとって無駄な時間なんじゃないかって、思うようになって……」
キルシェは少し考え込むように下を向き、そして意を決したように美守を見た。
「私は西南さんのNBでもあります。西南さんの為に、もっと他にいろいろする事があるんじゃないかって、思い始めたんです。幸い、このNBはとても高性能なので、資料も充実していますし、高度な資料を保存している場所へもアクセス出来ます。だから……」
「西南君のためにいろいろと勉強している、と?」
それは将来、西南と現実世界で生きて行こうと行動しているという事だ。
「それにちょっと、ずるいような気もして……も、もちろん、時々お会いしてお話ししていますけど……」
キルシェは恥ずかしそうに言った。
「それは、とてもいい考えよキルシェ」
美守は西南との道が交わる地点が遠くなったと感じつつも、感心したように頷いた。自分に無い愛らしさを持つキルシェに、ちょっぴり嫉妬を感じた美守は、それ以上の会話を避けるかのように、作戦の進行状況をチェックした。
西南に引き寄せられて来た目標は、全部で三十五名。その全員が確保されていた。
「丁度いいタイミングね。じゃあキルシェはそろそろ西南君と一緒に、外周リングのドックへ戻ってちょうだい」
「はい、了解しまし……ああっ!!」
と、キルシェが起動した監視モニターには、抱き合う翠簾と西南の姿が映し出されていた。次の瞬間、キルシェと美守は部屋の外へと駆けだしていた。
× × ×
「だ、大丈夫ですか?」
何かにつまずいて倒れ込んで来た翠簾を、西南は受け止め、そのまま一緒にベッドに倒れ込んだ。キルシェと美守が見たのはこの瞬間だった。
先程の美守とは違い、今回は意図ではなく事故である。普通であれば、お互いが慌てて離れてお終い───のはずだった。しかしこの時は、球体へと変形したNBと美守が乱入して来た後でも、二人は……正確には、翠簾は身をすり寄せるように西南を抱き締めたままだったのだ。
「だっ、旦さん! ワイの居ないところで何ちゅう羨ましい事を!」
NBが叫んでも、西南は顔を赤くしたまま翠簾をじっと見ていた。
「?」
美守はいきなりNBを摑むと、ポイッと軽く西南と翠簾の間に放り込んだ。と、いきなり正気に戻った西南は、慌てて翠簾から離れようとした。だが翠簾の腕や足が絡み付き、身体を離す事が出来ない。
「翠簾……さん?」
その時になって西南もNBも、そして美守も翠簾が恥ずかしさのあまり、気を失っている事に気付いたのであった。
「やれやれ、とりあえず彼女のことは任せて、西南君はそろそろ戻りなさい」
「あ、あの……翠簾さんの事、よろしくお願いします」
西南は美守に一礼すると、NBと共に部屋を出て行こうとした、が……
「そうだ! あの、貴女のお名前を……伺っていないんですが」
西南は急に振り向くと、美守に向かってそう言った。
本心を言えば、もっと色気のある状況で、思いっきり西南の反応を楽しみつつ教えたかったのだが、ここで名前を言わなければ、アイリやキルシェ、それに今この部屋を監視しているであろう者達、場合によっては情報を手に入れた霧恋達に、妙な疑念を抱かせる事になる。美守は少し迷っていたが、ニッコリと西南の方を見て、
「どうせならもっと面白そうなタイミングで言いたかったんだけどね。……私の名前は九羅密美守よ」
美守はごく明るい雰囲気でそう言った。
「九羅密、美守!? で、でもそれって……」
「こちらが私の本当の身体なの。アイリ様や瀬戸様を見れば分かるでしょう?」
手を広げ胸を張り、美守は自分の肉体を、誇るかのように西南に見せつけた。
「あ、いや、そうなんですが……」
西南は真っ赤になり狼狽した。美守の言動は、普段の穏和で理性的な、理想とも言える教育者、あの美守からは想像もつかないものだった。
「がっかりしたかしら?」
「そんな事は……ありませんが、その……それを言うんだったらアイリ様だって」
それは公務とプライベートは別だという意味だった。それを聞いた美守は嬉しそうに、大声で笑った。
「アハハハハ~~~、そう思ってくれるのならありがたいわ。ねえ、西南君は生体強化した時、以前の身体と比べてどう思ったかしら? 病気や怪我をして治った時は? それと同じでね、年寄りの身体からこの身体になると、どうしてもテンションが上がっちゃうの」
「何となく、分かります」
「フフッ、でも、この事はみんなには内緒よ」
美守は自分の口に人差し指を当て、ウインクをした。それは魅入られるほど艶やかな姿であった。
「ほら旦さん。行くで」
「う、うん」
西南は美守の艶やかな姿に、後ろ髪を引かれつつ、NBに押されて部屋を出た。
NBと共に、気を失った公園へ帰って来た頃には、もう陽は傾きかけていた。そしてベンチでは、ケネスとラジャウが疲れ切った表情で夕日を見つめていた。
「その様子やと、ナンパ失敗玉砕状態やな」
無神経な口調で、NBは二人の傷口に塩を塗りつけるような言葉を吐いた。
「西南君はいいよな……麗しきお姉様とお楽しみで」
夕日を見たままケネスはトゲのある口調で言った。いつもならば、何があったかを根掘り葉掘り聞くのだろうが、よほど疲れているのか、ケネスだけでなく、ラジャウも無言のまま力なく座り込んでいた。
「別に何かあった訳じゃないよ。ずっと気を失ったままだったんだから、なあNB」
「まあ、そういう事や。せやから元気だし」
NBがそう言った時、街全体に鐘の音が鳴り響いた。それはこの地区が夜の部へと突入した合図だった。この瞬間からゆっくりと、夜のお祭り騒ぎが始まるのだが、今日の西南達にとっては、休日の終わりを意味していた。
「ああ、せめて西南がもう一晩、休暇を取れさえしてたら、俺達の外泊の理由になったのになあ……」
艦長である西南が申請すれば、寮の方もケネス達の外泊許可を出す。しかし西南の休暇は今日の夕方まで。当然、ケネス達は寮へ帰らなければならない。
「仕方ありませんよ。次は西南君がもう少し長く休める事を願いましょう」
「下手すりゃ研修期間が終わってから、なんて事になったりな」
街灯の灯り始めた街を見上げながら、西南達は駐車場へと向かった。朝来たのとは逆のルートを使い、西南は一時間もしない内に外周リングの宿舎へと戻って来た。
居間に入るとブラインドが自動的に開き始め、西南は光に照らし出されたソファーに倒れ込んで、大きく伸びをした。何気なく見た時計は、まだ夕方前だった。
「……食事にはまだ時間があるな」
「時差があるよって、調整するか?」
「いいよ。もともとこちらの時間で慣れてるんだから」
上半身を起こした西南の目には、ブラインドが完全に開き、明るく照らし出された広い居間が映っていた。それは雨音の家には劣るものの、それでも豪華で広い空間だった。
「……何だこの部屋? NB、ここって俺の部屋で間違いないのか?」
「旦さんは艦長やさかいな。これ位、普通やで」
「俺……こんな贅沢して大丈夫なのかな?」
今の艦長職は、あくまで研修中の特例だ。普通に考えれば、GPアカデミーを卒業すれば、一兵卒からやる事になるのは間違いない。
「一般隊員の部屋にしてもらった方がいいかもな」
「守蛇怪はテスト機密艦や。監視に護衛も必要やからな。まあ旦さんを他の人から隔離しとるとも言えるわ」
「贅沢な檻だよな」
「そない気になるんやったら、狭い所へ行っても大丈夫なように、出来るだけ、物を増やさんようにしぃ」
「……そうだな。とりあえず、夕食前にお風呂に……!!」
ソファーから立ち上がった西南は、シャッターが開いた窓の景色を見て絶句した。
前日泊まった時は、窓のシャッターを開ける事もなく、そのまま寝室へと直行して眠っただけだったため、自分にあてがわれたのが、どんな場所なのかを認識する余裕も無かったのだ。
「え、SFの世界……」
真っ暗な宇宙に巨大な外周リングが交差し、眼下には階層状の建物や、水路に滝、多くの木々や花が咲き乱れていた。一体どれほどの時をかければ、地球にもこのような景色を造り出せるか想像もつかなかった。西南がアカデミーへ来た時は、都市の巨大な構造物を見上げる感じだったが、今度は一種、理想的な宇宙での生活の場を、高い山の頂上から見下ろす感じであった。
もちろんその絶景は、広い浴室からも眺める事が出来たため、思わぬ長湯をしてしまった西南は、ガウンを羽織ったままベッドに突っ伏した。
「大丈夫か、旦さん?」
「……うう……贅沢酔いだ」
「どういう酔いやねん」
「でも今日はいろいろとあったな……まさか美守校長があんな……」
西南はベッドに仰向けに寝転がりながら、美守の姿態を思い出した。若く美しく生気に満ちた姿と、いつも見慣れた校長の姿───年齢のまったく違う姿に共通点は無いも等しいが、思い起こせば、僅かに微笑んだ時の瞳がよく似ていた。
「美守はんも言うてたやろ? 旦さんの生まれた星とは違って、ここではあまり外見というのは、歳とは関係ないさかいな。望めばどんな容姿にも、性別だって変えられる。もっともここ数百年は、生まれたまま成長するというのが、流行というか一般常識になっとるさかいな。若年固定するんは、美守はんやアイリはんのような仕事で必要か、変態か田舎モンだけや」
「ふ~~~~ん。そうなのか……」
「旦さんもそのうち若年固定の話があると思うで」
「俺が?」
「判断や行動、戦うのに向いた年齢というのがあるやろ」
「ああ、なるほど……」
「それより旦さん、翠簾はんと抱き合うたとき……何考えてたんや?」
「えっ!?」
翠簾が倒れ込んで来た後、西南が動けなかったのは翠簾が手足をからめて来たからだけではなかった。もちろん翠簾があのような行動を取る事自体、意外で面食らったが、西南が驚いたのは他に理由があった。
翠簾というのは驚くほど存在感が無い。影が薄い、というのとは違い、そこにいるのは認識出来るが、人の気配や熱と言ったものが無いのだ。まるで見ていない、点けっぱなしのテレビのような感じだ。
(……だけどあの時)
西南はジッと自分の手を見つめた。
(あの時に感じた手触りとか、熱とか息づかいとか心臓の音とか、匂いとかは……)
西南の手に残る感触はまさに人間のものだった。普段、あまりにも希薄であるが故に、その不意打ちは途轍もなく生々しく衝撃的だったのだ。しかもさすが瀬戸の女官だけあって、他の娘達に負けないプロポーションの持ち主だったのである。
「ええ身体やったんか?」
赤くなってモジモジし始めた西南を見て、NBはポツリと言った。
「う、うるさいな。お前には関係ないだろ!?」
「まあええわ。詳しい事は後で聞けるさかいな」
「後でも今でも言うつもりはないぞ!」
ガバッと起き上がり、NBを睨み付けた西南の目の前に、モニターに映った霧恋が表示された。
『西南ちゃん。そろそろ夕ご飯の時間だけど……その前にちょっと聞きたい事があるんだけど、いいかしら?』
ニッコリと微笑む霧恋の後ろには、困惑顔でソファーに座っている翠簾が居た。
「あ~~~~…………ちゃんと説明させていただきます」
西南は観念したように答えた。