そして──

 咆哮に共鳴したかのように、波動もまた空へと駆け昇っていく。

 ディネルースの背のほうから、あの波動が頻浪とも狂濤ともつかぬ激しさで逆流してきて、グスタフ王の立つ場所を中心に、空へと昇っていく。

 どこまでも。

 どこまでも。

 気づけば──

 あれほど空を覆っていた曇天が晴れ上がり、太陽の光が差し、あちらへこちらへとその光柱が降り注ぎ。

 まぶしいまでの蒼穹が広がっていた。

 地平線の上空あたりでは、まだ灰色をした雲があったが、それは信じられないほどの速度で流れ去りつつある。

「…………」

 ディネルースは立ち尽くしていた。

 肩が震え、崩れ落ちそうになり。しかしながらそれは恐怖からのものなどではなく。いつの間にか、ぼうの如き涙を流していた。同族たちを殺され、あのシルヴァン川を越えたときでさえ、涙など流さなかったというのに。

 何だ、これは。

 何だというのだ。

 馬鹿な。

 そんな馬鹿な。

 こんな。

 こんなことがあってたまるか。

 魔術力とは、五感を鋭くしたようなもので。他者へと直接影響を及ぼせるようなものではなく。

 ましてや、天候を、天を操れるようなものではない。

 そんなものは、もはや魔術ではない。

 魔術力などではない。

 神のものだ。

 この世にそんなものがいるとして、それは神のものだ──

「……王が。我が王がこのような真似ができると気づかれたのは、あのロザリンドの会戦のあとじゃ」

 シュヴェーリンが言った。

「我らは、さんざんに打ち負かされ、撤退をはじめた。だが夜通し歩き、這い回り、夜が明けたころにはもう、みな言葉もなかった。あの年は酷い日照りでな、もともと飲み水がなかったんじゃ。おまけに水場ではお主らの待ち伏せにあった」

「…………」

「誰かが言った。雨でも降ればいいのに」

「…………」

「すると。まだうんと若く、一兵士で、少年といってもよかった王が、半ばうつろに、あの言葉を呟かれた。そして、信じられんことに雨が降ったんじゃ。大雨じゃ。みな喜んでそれを集め、飲み、そうして帰還に成功した。あの慈雨がなければ、我が種族は本当に滅んでおったかもしれん。ご自身は、自らがそのようなことを成したとは思われてもおらなんだ」


 ──おじちゃん……おじちゃん……おいらが雨を降らしてくれるよう、天にお願いしてみるよ。

 ──なんじゃ、ボウズ。おもしろいことを言うのう……ふふふ、やってみせい。やってみせてくれ。


「昨日のことのようじゃなぁ……初めは周りも、まさかそのようなことをあの御方が成されたとは思わず。だが何度か同様のことが続き、これは本物じゃとわかった」

「そして、我らはあのお方を王にした。懇願して、王へと迎えた」

「お主がそう言いだしたんじゃったな、ゼーベック」

「ああ。それから王は、日照りがあれば雨を降らし、雨が降りすぎれば太陽を呼ばれ。北で実成りが悪いと聞かれれば北に赴かれ、南で大地が乾いた報せがあれば南へ」

「どの年じゃったかな……飢饉に襲われかかったときは、魚の群れを降らしてくださったこともあったな」

「あった、あった。あれには度肝を抜かれたな、ふふふ」

 なんということだ。

 雨だけではない。

 天より降るものは、全てを操れるというのか。

 神の悪戯か、何処かの地で天より魚が降る摩訶不思議が起きたと耳にしたことはあったが。

 ──グスタフ王が為したというのか!

「さきほども言うたが。お主らも、もう御恩恵を受けておるはずじゃぞ。黒殿らがシルヴァンを渡るとき、雨や雪は弱められたと聞いた」

「ああ。王は、本当は雨など晴らしてしまいたかったらしい。だがあまり強く使うと、この波動だからな。エルフどもに気づかれる。だから薄くにしか使われなかったのだ」

 ──あ。

 渡河の際に、弱くなった雨。

 天の慈悲だと思っていた。

 あれも。あれもだというのか。

「ともかくも。それからじゃな。王は、あれこれ様々なことを思いつかれるようになり。そうして我らを導いてくださった。この国を豊かにしてくだされた」

「うむ。農業も、科学も、なんなら参謀本部も。多くは陛下の思いつかれたことよ」

「ゆえにあの御方は我らの王……我が王なのじゃ」

 シュヴェーリンが駆けだした。

 グスタフが、ふらふらとした足取りで戻ってこようとし、それを助けに向かったのだ。

「……シュヴェーリン。コボルトたちを動員しろ。魔術で捜索だ」

「わかっております、わかっておりますとも。ですから、どうか……」

「アンダリエル少将!」

「……はい、はい!」

「君も協力してくれ。君の部下も」

「……はい、もちろんです。仰せのままに」

「私は……すまんが、ちょっと寝る」

 そうして。

 グスタフは意識を失ったように崩れ落ちると、彼にはたいへん珍しいことにたかいびきをたてはじめた。

 ──結論からいえば。

 ディネルースたちは事故現場へ駆けつける必要はなかった。

 浮橋周辺の停滞状況を視察しようと、青軍兵站駅から現場へ向かっていたリア・エフィルディスが一報を聞きつけ、自発的に捜索に加わっており、河岸の葦草の下に半ば沈みかかっていたタウベルトをこのとき既に発見していたからだ。

 高い魔術力を持つダークエルフ族の彼女が現場にいなければ、タウベルトは助からなかったかもしれない。いや、きっと助からなかった──少なくとも現場の者たち、なかでもコボルトたちはそう信じた。

 リア自身は、「雨が上がらなければ見つけられなかった」ときっぱり断言していた。集団が相手の魔術探知ならともかく、たった一頭のコボルトの気配など、雨は散らしてしまう。水嵩が増し続ければ、溺死していた可能性もあった。

 タウベルトは低体温症により加療三日の診断が下ったものの、軍病院に入院ののち、無事恢復。

 その後、軍務に復帰。

 除隊任期を迎える前に、この国に勃発した戦争に参加することとなり。

 ──そこで戦死した。



 師団対抗演習は、その日のうちに完全な中止となった。

 そちらの統制部は大荒れ。半ば事故調査委員会じみたものになっているらしい。

 天幕の、参謀本部演習のほうは、講評に移った。

 グスタフは夕刻近くになって彼が移されていた別天幕で目を覚まし、気遣う周囲に対し、救助捜索の結果を聞くと微笑み、このままここにいる、討議を続けろと命じた。

「本当に、よろしいのですか?」

「ああ、構わん。これがいちばん面白いんだ。疲れさせるだけ疲れさせて、仲間外れにする気か?」

「……ふふふ、わかりました」

 それでは──そう答えて、ゼーベックは場を取り仕切る。

「つまるところ、どのような努力を重ねても、兵站には停滞が起きる、ということです。鉄道からの荷下ろしに起こる停滞、兵站拠点における停滞、輜重車補給線における停滞、一線部隊の機動による追従困難、天候による停滞……」

 あちこちから、うーん、という呻き声。

 とくに参謀本部の認識では、輜重馬車縦列の補給線における停滞が深刻だ。

 オルクセン陸軍による検証によれば、輜重車による輸送は、既存の街道を利用でき、天候等が悪化せず、滑らかに行われたとしても、兵站拠点から一日最大約四〇キロ。

 これは即ち片道輸送であって、往復輸送させるならその半分の約二〇キロが限界となる。

 つまり軍は、「尾っぽ」を引きずっていく限り、兵站拠点からそれだけの距離しか進撃できないことになる。そこから先に進むには、前線部隊が進撃を停止して縦列が追いつくのを待ち、翌日また追従という反復運動が必要となる。

 理論上は輜重車縦列を幾つかの集団に分け、各集団にそれぞれ一日分を輸送させることで進撃距離を延ばすことは可能とされていたが、かなり危なっかしい真似であることは今日の演習結果だけを見ても明らかだった。

 軍が街道から逸れれば最後、即時追従は事実上困難。そう判断せざるを得ない──

むを得んじゃろ。止むを得ず前進を続ける場合には、そのための携行口糧。兵士には一日乃至ないし二日分。各大隊行李に一日乃至二日分。その四日のうちに追いついてもらうしかない」

 シュヴェーリンが、何を今更といった顔で述べた。

 しかしながら、この方法にも問題がないわけではない。

 オルクセンの制度でいえば、兵たちは、一日当たりに支給されるべしと定められた携行「糧食」のうち、主食たる乾パンと牛肉の缶詰しか所持していない。これが携行「口糧」だ。

 副食や調味料の類は、各大隊付属の「行李隊」と呼ばれる補給物資輸送部隊が預かっていて、加熱調理するにしろそうでないにしろ、兵たちには日に一度別に供給されることになっている。

 一方、「給食」と呼ばれる本格的な食事供給に要する食糧は、連隊の行李隊と、師団の補給縦列隊が担当、輸送する。

 この連隊行李以上が追いつかなくなったら──

 兵たちは乾パンと牛缶、水だけで進撃することになる。

 オークの軍隊が。

 あの、オークの軍隊が。

 二日や、四日は耐えられるだろう。

 だがそれ以上は、たちまち活動に必要な栄養熱量を失ってしまう。

 シュヴェーリンが「四日が限界」だと述べたのには、そういう意味がある。

 彼は決して兵站や補給を軽視しているのではない。

 戦場にはどうやっても無茶をせざるを得ないときが必ずある、そのときはそれが限界だと言い切っているのだ。

 ゼーベックは頷いた。

「そこで、戦場における古来からの習い、天に命を任せるしかないわけです。やれるだけのことをやった上で、本当にやれるだけのことをやりつくした上で、現地調達は止むなし、というのが私の結論です」

「あくまで調達じゃろう? 徴発ではなく」

「当然です。徴発は禍根を招く。デュートネ戦争の失敗を繰り返すことになる」

 非常に、面倒くさい話だが。

 補給品をオルクセン軍が展開地域現地で調達するとき、そこには現地「調達」という場合と、現地「徴発」と表現する場合の二通りがある。

 前者は、補給品の調達に対し、軍が認め正当とするところの対価を支払うケース。オルクセン軍がこれを実施する場合、軍公式の領収証は発行されるし、それが支払済か、あるいは未払いか、そういったことも全て記録される。最終的には必ず精算するよう、努力を図る。

 後者は、乱暴だ。対価など支払わない。いってみれば、軍そのものが強制的に物資を奪い取る。領収証が発行される場合はこちらにもあるが、その相手に対し補償する意思など更々ない。

 ──それは、いわゆる略奪ではないのか。

 何故わざわざ徴発などという、分かりにくい言葉を使うのか。

 なんとも迂遠な表現に思えるかもしれないが、実はこれにもちゃんとした理由がある。

 徴発もまた、一般的な言葉でいうところの「略奪」とは、軍の規定上異なるのだ。明確に。まるで違うもの。

「問題はこれをどの区所段階で実施させるかです。兵一名一名には、もちろん不許可。略奪罪の対象です」

 なぜか。

 部隊展開地域において兵一名一名に徴発を認めてしまうと、あっという間にこれは個による暴力行為に変じてしまう。

 風紀のびんらん、暴力、暴行──

 おぞましいばかりの様へと成り果てる。

 軍は軍でなどなくなり、兵もまた賊徒そのものに陥ってしまう。

 オルクセン軍の場合厳禁で、この段階をこそ軍紀規定上の用語として「略奪」と呼ぶ。野戦憲兵隊による摘発と懲罰の対象で、その執行方針ははっきりとしていた。

 ──銃殺刑。

「では、小隊ならいいのか。中隊ならいいのか。あるいは大隊なら? こちらも望ましいとはいえません」

 オルクセン軍では、これらの部隊規模は個に近すぎ、今度は組織的犯罪の温床になると見なしていた。集団で略奪を働き、それを隠蔽、より悪質に行う危険性がある、と。

「やはり行李、段列を持っている部隊規模以上か」

「そうなりますな」

 段列──自前の兵站組織を持っている部隊以上に限り、「調達」を認める。

 現地から食糧等を取得する場合、明確にこれを会計上記録し、対価を支払うことができ、そしてそのように取得した物資を必要各所に配布可能な規模の部隊にのみ行わせる、ということだ。

「また、この実施は軍もしくは軍団、あるいは師団の兵站監による許可が下りた場合にのみ限る、ということで──」

「当然だな」

 グスタフが頷いた。

 彼らは、以前のディネルース・アンダリエルなどからすると、あるいはかなりえんな議論をやっているように思えたかもしれない。

 ──現地調達はどこの軍でも当たり前。今更なにを。

 だが今の彼女には、この議論は明確に異なると、きっぱりと認めることができた。

 要するにオルクセン軍は、従来通り最大限の兵站努力をし、その上で生じる兵站停滞上の解決に用いる場合にのみ、現地調達を認める、というのだ。しかも、徴発については慎重で、個の略奪については厳禁とした上で。

 最初から現地調達及び徴発に頼る軍隊と、やむを得ずこれを実施するという軍隊では、例え外部からの見た目は同じでも、これは確かに明瞭に異なるものだ。

「部隊での徴発を禁じはしないのじゃな?」

「そのあたりは、軍法上かなり微妙な問題をはらみますから、上級大将」

 例えば───

 この演習でも行われたような架橋作業が前線で実施されたとき、現地に所有者不明の小舟が繋がれていたとする。

 架橋を行うには迅速さが肝要で、そのような小舟があれば現地指揮官は間違いなく利用する。

 ただちにためらいなく使用して、架橋作業に必要な兵員・器材の第一陣を、あるいは警戒に要する兵員を対岸に渡すだろう。

 この小舟は、厳密にいえば調達ではなく、徴発されたことになる。ただし、略奪されたとは見なされない───そういった扱いになった。

 このような行為まで罰するわけにはいかず、徴発は部隊規模において行われる分には、禁止事項にするまでは至らない。そんなことをすればあまりに杓子定規となる。

 では、その工兵隊が敵地において発見した農家納屋で休養をとり、そこにあった食糧や酒類の類を所有者の許可なくかっぱらい、全員で飲み食いした。代価は払わなかった───これもまた徴発で、そうなるとかなり怪しい。略奪ともいえる。

 一概に禁ずるわけにもいかず、また過度なものは見逃すわけにもいかない。

 このあたりは憲兵による調査と、軍紀による是非の判断による、という運用に委ねるしかないだろう。

「次に、新戦術の実験結果ですが───」

 天幕内の軍幹部たちは積極的に討論した。

 コボルトの魔術通信、探知は有用である。

 また、大鷲による空中偵察は高い効果を及ぼすこと。

 これらは更に錬成し、大々的に取り込み、来るべき戦役に活用すべきであること、等々。

「如何でしょうか? 他に何かご意見は───」



 ディネルース・アンダリエルは、目頭を揉んでいた。

 このとき彼女は、オルクセンの軍隊や、彼らが言うところの新戦術の幾つかに、重大な欠陥があることに気づいていた。

 それも、昼間のうちに。

 指摘のために発言をしたものかどうか、迷っていた。

 彼女は正式にいえば視察将官に過ぎない。シュヴェーリンもまた同様だが、彼とは立場が違う。ダークエルフ族は、現状、軍での足場も不安定だ。部下たちの風当たりも考えてやらねばならない。

 だが、この雰囲気なら───

 ええい、構わん。

 エトルリアの詩人も、「物事は為したあとで後悔したほうが、為さずに後悔するよりずっとましだ」と言っているではないか。

 慎重に言葉を編んでから、手を挙げる。

「少将」

「はい。魔術通信及び魔術探知の使用法について、僭越ながらご提案があるのですが」

「よろしい、伺おう。貴公らはその道の先達だ」

 ありがたいことで。

 立ち上がるとき、ちらりと見ると、通信局長のシュタウピッツ少将は若干嫌そうな顔をしていたが。

 オーク族向けの椅子の上に何枚もクッションを置いて席に着いた状態で、小さな体躯で精一杯、胸を反らしている。

 彼にしてみれば、ケチでもつける気かと警戒する一方、種族の者をダークエルフ族に救ってもらったばかりなので、何とも表現のしようのない表情だった。

「黒板をお借りしてもよろしいですか?」

「ああ、構わんよ」

 チョークを手に取り、一箇所に兵科記号を描く。擲弾兵の、大隊を示すもの。

「これが魔術兵を含む大隊。コボルト族の魔術力は素晴らしいですから、彼らは本日の演習で大いに魔術探知を実施し、成功させているのを拝見しました──」

 表情を緩めるシュタウピッツ。

 我ながらおべっかを使うとは。嫌な真似だ、まあ成功させていたのは事実だからな。

 ディネルースは若干の自己嫌悪に陥りつつ、大隊の前方へと直線で一本の線を引く。

「魔術探知の可能距離は、術者の体力及び能力、体調、天候等にもよるでしょうが概ね五キロ。〝この方向に何かがいる。なかなかの数らしい〟そんな感じ方、また現状の探知方法だと思います」

「そうだな」

「私がご提案したいのは、その精度を上げる方法でして──」

 頼む、気づいてくれ。

 そう念じながら、さきほどの大隊の横並びに更に二つ、大隊を加える。

「戦線に展開したこちらの大隊二つからも、あるいは連隊本部系からも、対象が五キロ圏内なら気配は感じるはず。その方向を追加すると──」

 各大隊から、直線を書き加える。

 一本、二本──

 最初の一本とそれらは交差し、一箇所で交わった。

「これが。かなり正確な探知対象の現在位置になるはずなのです」

 場がざわめく。

 当然だろう。「あの方向に何かいますよ」と「この場所に何かいます」では、たいへんな違いだった。

 なぜこんな単純なことに、誰も気づかなかったのか。

「……三角測量か! 魔術による三角測量。そう言っていいのかどうかわからんが……」

 兵要地誌局長のローテンベルガー少将が叫んだ。

 職務柄、地形を測量、計測する部局の長である彼は呑み込みが早かった。三角辺を利用した、そんな測量方法があるのだ。

「その通りです」

 ディネルースはにっこりと微笑んでやり、そうして、願うような気持ちで付け加えた。

「三箇所にこだわる必要はなく、最低でも二か所。ただしこの方法は、探知報告箇所が多ければ多いほど、正確となります。これは、魔術通信の逆探知も同様。仮想敵が魔術通信を使用し、我が軍がこれを傍受した場合、この方法でおおよその相手位置は掴めます。魔術通信の傍受は、かなり遠方からやれますから。大いに活用できるかと」

 魔術通信を逆探知することは、ちょっとややこしい話だが、対象の通信間距離より長い。

 魔術通信とは、少し離れた距離で並んだ者が大声で怒鳴り合って会話しているのだと例えてみよう。

 互いの会話がはっきりと聞こえる距離が「通信間距離」。

 これが現状、最大で約二キロ半。

 一方、この会話をはっきりとまでは聞こえないものの、どこかで大声でどなっているやつがいるなぁ、という距離ならそれより遠くからでも「耳」に入る。

 これが魔術通信逆探知の「最大探知距離」。

 その距離は、魔術位置探知と同じ、約五キロといったところ。

 なるほど、おお、やるべきだ、などといった声が天幕内に満ちるなか──

「ふふふふふ。ふふふふ、ふはははははははは!」

 グスタフが笑いだした。

 心底おかしそうにしている。

 何事かと、全員が視線を向けるほどの哄笑だった。

 ひとしきり、腹を抱え、涙を流さんばかりに笑ったあと、彼は告げた。

「しょ、少将。少将、少将! 気を遣ったなぁ。つまり君が本当に指摘したいのは、この方法を用いれば、我が軍における現状の魔術通信及び探知の使い方では、エルフィンドに筒抜けになるに違いないというのだな! そうだろう? なにしろエルフ族は、軍はおろか、どこの誰でもこれがやれるからなぁ……」

 天幕内の空気が、一瞬でねっとりと淀んだ。

 誰しもがその可能性を理解し、呆然、愕然、唖然とした。

 ──エルフ種族は、その全員が強力な魔術力を持っている。

 たしかに、そうだ。それなら。しかし、いや、そんな。

「そ、そんな馬鹿な……」

 シュタウピッツ少将が、いちばんの衝撃を受けていた。

「いやいや、シュタウピッツ。君と君の種族の為してきた努力に、怠りはないよ。私もこんな方法までエルフィンドが使い得るとは思ってみてもいなかった。私にも魔術力はあるが、天候が操れるだけであとは療術魔法が少し、通信や探知はまるで苦手だからなぁ……」

 天候が操れるだけ、というのもどうかと思うが。そのほうが、よほど凄い。ディネルースは呆れながらも、王が全てを理解してくれたこと、シュタウピッツ少将への配慮までやってくれたことに感謝した。

「はい、我が王。これをご覧下さい。おそらく、概ね合っているはずです」

 彼女は自身が書付に使っている手帳を取り出した。

 軍用の、頁に蝋引きがされた防水手帳だ。

 鉛筆を使って、彼女自身が探知し、また彼女の部下たちの探知した情報を元に予測した、この演習の彼我両軍部隊配置が記されていた。

 グスタフはそれを受け取り、眺め、またげらげらと笑ってから、ゼーベックに手渡す。

 ゼーベックは一瞥してから──

 どさりと、椅子に座り込んだ。

 頭を抱え込んでいる。

 それはディネルースの言葉通り、ほぼ正確に成功していた。

「じい。そう弱ることもあるまい。対処法はそれほど難しくないだろう?」

「……そうですな。作戦発動前には、徹底した魔術通信封止エニグマテイツク・ミツシヨン・コントロールを実施。通信は電信に限定。それと魔術通信封止に関する規定を定めて、野戦においては会敵まで魔術探知と魔術通信逆探知を主流に使用。その結果は電信及び伝令でやり取りして、封止解除後にはじめてこちらの魔術通信を使用。そんなところですか」

「うん。そうだな。もちろんこれはアンダリエル少将の言う通り、我がものとすれば軍の大いなる武器にもなる。そのための運用法も考えるように。とくにラインダース少将──」

「はっ」

「おそらく、我が軍でいちばんこの探知方法に向いているのは君たちだ。魔術力の点ではコボルトたちも素晴らしいが、君たちなら高空からこれをやれる。二羽、三羽と上げて三角測量をやるのだ。おそらく精確な地図とコンパスを持って上がる必要がある。ぜひ一つ研究してみてくれ」

「はい、我が王」

「やれやれ、また空に携えていくものが増える、そんなところか?」

「ふふふ、まぁそんなところです」

 くすくすと笑いつつグスタフは頷き、

「シュヴェーリン。お前もよかったな。昔話が聞けて。少将は約束を守ってくれたぞ」

「……は?」

「わからんか? これがおそらく、一二〇年前、我らがロザリンド渓谷で負けた理由だな。あのとき我らは何度も待ち伏せにあった。それも嫌になるほど正確に、側面や後背を突かれて。撤退中まで。あのころ我らに魔術通信はなかったが、探知の三角測量をやられていたなら納得だ。そうだろう、少将?」

「はい、我が王。ご慧眼のとおりです」

「ふふふ、ご慧眼ときたか」

「──あ」

 上級大将はがたりと椅子を鳴らして立ち上がり、そして彼もまた座り込んだ。

 シュヴェーリンが実に彼らしかったのは、大声で笑いだし、それはグスタフの哄笑以上の音量、時間だったことだろう。

「なるほど! なるほど! 今夜は一二〇年ぶりにぐっすり眠れそうですわい!」

「ふふふふ、結局寝るのか!」

「ええ、もちろんですとも!」

 彼はそんな牡だった。

 いい牡だといえた。

「少将。まだ何か昔話があるようなら、この際、せっかくだからシュヴェーリンたちに聞かせてやって欲しいな」

「はい、我が王──」

 この王も大したものだ、本当に。

 この場が針のむしろにならずに済んだことに感謝しつつ、ディネルースは続けた。

「いまからお話しすることは、一二〇年前、我らがとった戦法の一つですが──」

「うん」

「エルフィンドの軍隊は、相手の指揮官、将校を狙い撃ちにします」

 流石に、天幕内の雰囲気が剣呑なものになった。

 彼らの価値観でいえば、たいへん卑怯な真似といえたからだ。

 ほんの一〇〇年ほど前まで。デュートネ戦争で国民軍が生まれる以前には、星欧大陸の戦争にはむしろ様々なたががはめられていた。一種の芸技だったとも表現できる。

 各国の王や領主は、職業軍人や傭兵で構成された軍隊を率い出征しても、正面決戦を避け、運動戦を多用し、如何にして相手を無力化しようかと知恵を絞ったものだ。

 そのような中で、意図的に指揮官を狙うという行為は禁忌に等しかった。

 日常生活においてさえ、一騎打ちや決闘が重視されたのは、明確なルールのなかで正々堂々と戦える手段であるからだ。不意打ちなどで、それを破ることは騎士道にももとる真似──そういうわけだ。その精神だけは未だに生きている。

 グスタフは軽く手を挙げてざわめきを制し、

「なるほど。それも納得だ。おそろしく効果的ですらある。シュヴェーリンやゼーベックのじい、それとほんの僅かしか、当時の将軍や幹部たちは生き残らなかったからなぁ……」

「……は、恐縮です」

「しかし、どうやって見分けた?」

「一つには旗印。当時はたいへん派手でしたから」

「うん」

「それと、兜のかたちです」

「……なるほど」

 当時のオルクセンの軍勢は。

 将軍たちは、独特な形状をした、スパイク付きの兜を被っていた。

 そしてそれは。

 ──現在の軍用兜の意匠の元になっている。

「つまり少将。君は、軍用兜は危険だというんだな?」

「はい。軍用兜は、いまでは一兵士まで被っておられますが、将校以上のものは飾りがたいへん派手です。おまけにサーベルを帯びていますので」

 演習初日の昼間に見た、あの兜やサーベルの鞘の煌めき。

 ──私なら、間違いなく、撃つ。

「……よし。軍用兜は止めよう。全将兵、動員時には略帽を被って出征だ。サーベルの鞘には布か何か巻かせる」

 元々、オルクセン国軍は制帽扱いの軍用兜と、日常用の略帽の両方を使わせている。

 彼らの、とくに兵たちが軍用兜ばかり被っているのは、見栄えや誇り、着用規定上の問題もあるが、フェルト製の略帽は背嚢の中にしまっておけるものの、硬革と金属製の軍用兜は被っておくのがいちばん運搬しやすいからだ。

 軍の予算上の負担は最小限で、すぐに対処できる問題だ──

「王! 我が王!?

「シュヴェーリン。不満か?」

「当然です!」

 指揮官を狙う者が卑怯なら。

 一線に立つ指揮官にとって、逃げ隠れするという感覚もまた卑怯だ。国家への崇高な義務への、不忠ですらある──

 これは彼らのみならず、世界の軍隊、その将校たちなら誰でも首肯した感覚に違いなかった。例え、表面上だけでも。

「こんにちの戦闘は複雑怪奇。指揮官が斃れれば、部下将兵を無用に殺してしまう。これを回避するためのもの、そう心得よ。シュヴェーリン」

「……しかし」

「納得できんか。略帽とて、兵たちのものは鍔無しだが、尉官以上は鍔ありだろう? 程度差問題というところだ」

「は……はい」

 幸か不幸か、そのほうが戦場では活動しやすくもなる。軍用兜は、着用感としてもどうにも堅苦しい。

「うん。此度の演習は実に有意義だったな。もし他になければ、食事に移ろう」



「アンダリエル少将。明日朝帰るのか?」

「はい、王。我が王」

 その夜ばかりは兵食ではなく、立派な夕食が出て。

 解散となった午後八時。

 すっかりよい心持ちとなっていたディネルースは、部下たちと宿舎の演習地庁舎へと戻ろうとしたところを、グスタフに呼び止められた。巨狼のアドヴィンを伴っている。

 食事は素晴らしかった。

 とくに、オルクセン南部風だという、牛肉のスープ煮が最高だった。

 これは、大きな鍋に野菜でとった出汁を作り、牛肉の良いところを塊のまま煮て、丁寧に灰汁あくを取り、薄切りにする。そして、ワインヴィネガーや、ホースラディッシュや、カレーのソース三種類を添えて供すという、結構なものだったのだ。

 この出汁をそのまま利用したという、深い滋味のある、大麦のスープもよかった。

 天幕内の歓談も盛況となり、また各将官たちともすっかり打ち解け、ディネルースとしては実に有意義な演習視察だったといえよう。

 ──王の、あの魔術を拝覧できたことも含めて。

「ご苦労なことだな」

「部下たちも待っておりますので」

「……そうか。実は見てもらいたいものがあってな」

「はい……?」

「いつまでも、仮称ダークエルフ旅団では締まらん。軍の書類上もよろしくない」

 彼はそういって、この演習中によく弄繰いじくり回していたあの手帳を取り出した。

 頁を繰り、彼女に掲げて見せる。

 それは、大きな、くっきりとした文字で書かれていて、二重丸で囲ってあったので、夜目の効くディネルースには、もちろんしっかりと見えた。


 アンファングリア旅団


 アンファングリア。

 古典アールブ語で、「巨大なるあぎと」を意味する。

 あるいは「血の顎」とも訳せた。

 エルフィンドの神話伝承に登場する、巨大極まりない巨狼族の始祖の名だ。

 伝承によれば、いまの巨狼よりずっと大きく、鋭い牙を持ち。

 そして。

 ──神話上の、白エルフ族の女王を食らい尽くした巨狼の名。

「どうだろう?」

 ダークエルフ族旅団戦闘団アンファングリア。

 ──素晴らしい。実に素晴らしい!

 ディネルースは胸のうちでかいさいした。

 なんと素晴らしい名だ。

 まさしく我らに相応しい。

 グスタフが、少なくともこの演習の最中、閑さえあればそればかり考えていたのだともわかり、嬉しくもなった。

 きっと彼のことだ、膨大な知識の棚のなかから、あれを考え、これを候補にし、選びに選びといった具合に、練っていたのだろう。

「謹んでお受けします」

「そうか、ふふふ」

 王に対する敬語というより、芝居がかった騎士の口調で、ディネルースはその新たな旅団名を拝領した。

 しかし──

 ふと気になることがあり、王の傍らに控えていたアドヴィンを見つめる。

 彼らからすれば、自らの種族、その祖の名だ。

 それを、彼らを狩った過去を持つ、ダークエルフ族が使うのは……

「……気後れする必要は、微塵もあるまい」

 じっとディネルースを見つめたあとで、アドヴィンは言った。

 それは、彼女が初めて聞く、彼女へと向けた、この巨狼の声であった。

「貴公らは誇り高い。そして強い。我らはおそらく、それをどの種族より知っている。我らに勝るとも劣らぬ。そして貴公らもまた、我らと同じ運命となった」

「…………」

「我らが祖の名、存分に使うがよい。そして、白エルフどもを──」

「…………」

「その顎にかけよ」

「……謹んで」

 きわめて真面目に、ディネルースは片膝をつき、頭を垂れた。

「ふふふふ。なんとまぁ。私もそんな真似はしてもらったことはないなぁ」

「あら、そうでしたか?」

 やはりこの演習は。

 彼女とその種族にとって。

 実に成果多きものだった──