第五章 雨にとなえば


 グスタフ・ファルケンハインの言葉通りだった。

 大鷲軍団からの天候予測も届き、アネロイド式気圧計の指針は下降を示した。そして夜半より、演習地を含む首都周辺に雨雲が西方から訪れ、降雨が始まった。

 気温も一気に低下。真冬へと逆戻りしたかのようだ。

 しかも雨脚は強かった。

 星欧大陸の土壌の大部分は、総じて細かな砂状の風積土が折り重なって出来上がったもので、一度雨が降ると泥濘になりやすい。

 そのぶん河川の水分が地中深くに広く浸透しており、肥沃で、基本的には灌漑がなくとも作物が育つという利点もあったが、軍隊にとっては最悪だった。

 演習地でもそれが起こった。

 長い年月をかけて踏み固められた、あるいは石畳で舗装の施された街道から少しでも逸れると、歩兵でさえ足をとられる。重量のある騎兵や、軍用馬車なら何をかいわんや、である──

 ダークエルフ旅団で兵站を担当するリア・エフィルディス大尉は、演習場北部の青軍兵站拠点たる、軍用鉄道引込線の駅舎を訪れていた。

 肩丈までの亜麻色の髪。

 栗色の瞳。

 彼女の属する種族のなかでは、少しばかり背丈が低い。

 前日は、演習地兵舎近くにある赤軍側兵站拠点を見せてもらった。

 オルクセン軍の兵站拠点は実に整然としていて、とくにその管理手法には目をみはるものがあり、ずいぶんと勉強になった。

 ただ、どこの国の演習でも起こる、演習ゆえのそつのなさというものも感じられて、その点が不満ではあった。

 北側──青軍側拠点のほうが面白いものが見られるかもしれないと勧めてくれたのは、案内役を務めてくれたオルクセン国軍将校だ。

 ──ああ、あちらは色々混乱もあるかもしれませんね。ええ、なにしろ北部から長距離をやってきて、鉄道からの荷下ろし、集積、管理、追送というところからやっていますから。ご希望でしたら、手配しましょうか?

 リアは、ありがたくそれを受けることにした。

 前日夕刻前に、赤軍側を出発。

 乗馬を巡らせて演習地縁の統制部指定連絡路を行き、夕闇が迫る前には青軍側兵站駅に着いた。

 そのころまだ降雨は訪れておらず、むしろ昼間のうちに乾いた大地を騎行したため、顔も軍装もすっかり土埃にまみれてしまっている。

 オルクセン軍の将校は、赤軍側でも親切だった。兵站基地の責任者であるオーク族の少佐は、彼女を温かく迎えてくれた。

 ──なんと、そりゃたいへんだ。お疲れ様です、すぐに夕飯と仮宿舎の用意をさせましょう。なんですと、携行食をご持参? いえいえ、ご心配なく、ここは兵站駅ですぞ。街の食堂並とはいきませんが、一食くらいどうとでもなりますよ。駅舎にひとつ、部屋が空いております。今夜はそちらにお泊りいただければ。おいそこの兵卒、お部屋に水盆を。湯にしてな。大尉は戦塵にまみれておられる……

 格別の配慮として、個室まで用意してくれたほどだ。

 食堂並とはいかない、というのは謙遜だったのではないか。リアにはそのように感じられた、充分に立派な夕食も調えてくれた。

 軍用ライ麦パンが呆れるほどの量。

 リンゴ入りのラード。

 茹でたヴルストが二本。大振りなキュウリのピクルスがたくさん。

 戦地加給食の、燕麦のスープ。

 コーヒーと、赤ワインもたっぷり。

 元々オルクセンでは、日の三食のうち昼食をいちばん多く摂る。

 夕食はそれより少なく質素なもので、軍の日常給食ではスープ類をつけない「冷食」と呼ばれる形態になっていた。

 これはエルフィンドの習慣とは真逆であって、この国に来た当初は若干の戸惑いもあったものの、いまではすっかり慣れた。

 残念だったことといえば、あのまま赤軍側拠点にいればそちらで宿泊する予定になっていた旅団長ディネルースたちと合流でき、夕食や朝食、歓談をともに出来たであろうことぐらいか。

 夜、眠りに就く前、遠く雷鳴のようなものが聞こえた。

 窓外に閃光の気配もある。南のほうだ。

 天候がそこまで悪化したのかと思ったが、どうやら照明弾らしい。

 よほど緊迫した想定戦場があるのか、演習は夜になっても続いていたのだ。

 実は、平然と、しかも降雨下において夜戦がやれるというのは、人間族諸国家の軍隊からすればその一事を以てしても大変な脅威だったのだが、リアはさほど不思議には思わなかった。

 オーク族も、ダークエルフ族も夜目が利く。

 戦況が緊迫しているなら当然のこと、その程度にしか感想はなかった。



 翌朝視察を始めた青軍側兵站拠点には、確かに赤軍側にはない混乱と疲労と喧噪とがあった。どうも、夜半のうちにそれが深まったらしい。雨が降り始めたからだ。

 兵站駅は立派だった。

 駅舎そのものこそ簡素であったが、三つも屋根つきのプラットホームバーンシユタイクがある。レンガ材をコンクリートで包み込むようにして造り上げた構造だ。

 リアを感心させたのは、そのうちの一つ、駅舎と反対側、三本のうち端にあって貨物用とされたホームの大部分が、非常に高さがあるように設計されていたことだ。

 ちょうど、貨車の床面と同じ高さである。

 つまり、とても荷積みと荷下ろしがしやすい。このホームは、巨大な扉をもった幾つもの貨物庫に隣り合わせていて、そちらの床面まで高さは同じ。荷は直接搬入搬出できる。そしてこれは──

 軍用ちよう馬車の荷台床面と、同じ高さなのだ。

 倉庫の反対側には、やはり巨大な扉による搬出口があって、輜重馬車の荷台にそのまま荷役者の負担少なく荷物を載せることが可能だ。

 一度目にしてしまえば極めて単純なことだが、これほど効率のよいことはない。

 がいの平貨車に載せられてきた火砲は、そのまま横へ出すことだって出来る。

 こんな駅舎は、エルフィンドでは見たこともない。

 大したものだと感心した。

 この構造は赤軍側の兵站駅にもあって、つまりオルクセンは何処でもこのような真似をしているらしい。

 信じられないことに、これは兵站拠点駅としては小規模であり、軍団規模ともなると貨物用ホームは複数とり、その造りもホームの並びから変えるという。

 兵站将校必携を見ると、野戦においてもそのような構築をするのが望ましいとあった。鉄道路線の任意の点に、兵站駅をいちから作り上げる場合だ。

 どうやってそんな真似をするのだと首を傾げ、頁をめくると、これもまた極めて単純な方法であった。まず予定地の土をならし、鉄道隊に予備の鉄路用砕石と枕木を運ばせて、それを固め、積み上げ、床板を敷いて組み上げるのだそうだ。

 可搬式傾斜路というものもあった。

 これは、いってみれば木製の滑り台。

 どこもかしこもこれほどプラットホームの高さを確保できるわけではないから、この巨大な滑り台を横づけして、荷を下ろす。

 重い火砲などどうするのかと思えば、この場合、起重機車を配して下ろすのだという。

 倉庫の搬出口側を見せてもらうと、これほど早朝だというのにもう何両もの軍用輜重馬車が並んでいた。

 何処か、大規模な常設市場を思わせる光景だ。

 砲弾や銃弾といった物騒な代物もあるが、小麦粉やライ麦粉、生野菜などの食料も扱うから、あながち間違った見方とも言えないだろう。

 荷役を担う輜重兵たちの喧噪。

 軍馬のいななきと、白い呼気。

 荷台や車輪、板バネのきしみ──

 オルクセン軍の輜重部隊には、一・五トンの積載量がある四頭曳き重輜重馬車と、一トンの積載量の二頭曳き軽輜重馬車の二種類がある。

 そのどちらも前後輪それぞれの車輪の大きさや、荷台床面の高さは同じ。

 つまり、そんなところまで考えて規格化されていた。

 車体の長さが違うだけで、馭者台や前車輪、後車輪、板バネ、車軸、そういったものの多くが共有可能なように作られている。

 つまり、故障車両が生じたとしても、修理が容易なのだ。

 そしてこれは、輜重馬車の設計及び部品をもとに製作され軍に配されている、重野戦炊事車や軽野戦炊事車も同様である。

 更にいえば、軍で使い古された軍用荷馬車は非常に低価格で民間に払い下げられているから、農家などが使う馬車もこれらの型が多い。

 すると、何が起こるか。

 小規模に営まれている街の馬車修理工、鍛冶工などに、軍規格の修理部品や予備部品がふんだんに存在するのだ。もちろん、扱い慣れている者も。ついには民需向け馬車を製造販売する企業もこれに乗っかり、ほぼ同じような製品を送り出しているから──

 これらはもし不幸にして国内が戦場となったとき、貴重な調達対象にもなる。

 ──なんともはや!

 軍隊が使う馬車の規格化という発想は、もうずっと以前からあるが、ここまで他の過程との兼ね合いをも考慮し、徹底して行っている国も珍しい。

 兵站担当のリアにはそれがよくわかる。

 現場の労苦も軽減できるなら、後方にあって会計上の処理を行う際にもたいへん楽だ。荷物別の積載量が簡単に出せるし、これはつまり、例えば三〇トンのライ麦粉を運ぶ、そういったとき何両の馬車が必要か、そんな答えが迅速に求められるということでもある。

 兵站作業には、軍用馬車自体の予備品を手配することも含まれるが、これもまた容易になる。

 前輪なら前輪、後輪なら後輪。板バネ。車軸。

 それがあちらの馬車はA、こちらの馬車にはBと何種類も軍に存在したら、それぞれを運搬、集積、管理しなければならなくなる。実際に修理を行う野戦馬車廠なども苦労の連続になるだろう。そういった心配のないことが、どれほど素晴らしいことか!

 規格化は、兵站物資そのものにも及んでいた。

 食糧、弾薬、医薬品……これら物資のそれぞれが、極力同じ大きさの木箱やかますに納められている。

 叺の大きさはもちろんのこと、木箱も板厚まで揃えられていて、一五ミリか二〇ミリ。

 後者は、弾薬箱などの重量物運搬用である。

 僅か五ミリの差が、八割増しの強度を生むと、これは工学的に検証まで為されていた。

 これら木箱は補給先で解体することも出来たし、再利用することも可能だ。

 野戦炊事車の薪になることが多いという。

 二〇ミリ厚のほうは、馬車の荷台床にすることだって出来た。

 まったく配慮が微に入り細に入っている。もちろん、兵站拠点へと引き返してくる軍用馬車が空き箱を回収していってもいい。

 兵站倉庫には、手押し軽便軌条もあった。これもまた作業効率を上げるためのもの。

「そーれ、そーれ!」

 掛け声が響き、木箱を載せた軽貨車を押す輜重兵たち。

 リアは邪魔にならないよう気遣いながら、端からこれを見学した。

 オルクセン軍輜重科には、コボルト族の兵が多い。

 むろんオーク族の兵もいて、力仕事を要する場所は彼らが引き受けるようだが、輜重馬車の馭者役にコボルト兵の姿がとくに目立つ。

 種族全体が高い魔術力をそなえたダークエルフ族からすれば意外なことだが、コボルト族はその全てが魔術力を持っているわけではなく、そういった魔術力の低い者たちが配されている。

 理由は幾つかあった。

 ひとつには、歴史的に彼らの種族の多くが商業及び金融業を営んできたこと。

 デュートネ戦争当時は、オルクセン国内のコボルトたちが経営する商社に、多くの兵站業務が委託された。今でも連隊単位で契約され出入りしている兵士向け売店───酒保の殆どを営むのも彼らだった。

 またひとつには、彼らの種族がそのような歴史的背景の結果、非常に識字率が高く、経理会計に要する数学や簿記も得意としていたこと。

 種族の習慣として、国家制義務教育の入学を迎える年齢以前から家庭教師を雇い子弟を教育することは、いまだ彼らのなかで一般的なものだ。

 また、国内においてオークに次ぐ頭数を誇るのは、彼らコボルト族であること。徴兵対象者の重要な構成層である。

 そして───

 ここでも、オーク族の巨体が理由に関わっている。

 体重の大きなオークたちが輜重馬車の馭者を務めると、彼らの重量そのものが輜重馬車の積載量を圧迫してしまう。

 馭者には二名が就くことが理想的だから、オーク族がそんな真似をしたら、下手をすると軽輜重馬車など積載量の半分までが彼らの体重で占められてしまうことになる。また馬車は構造上、車体の前部を重くすると進みにくくなる───

 そこでコボルト兵のうち魔術力をそなえていない者、あるいは魔術力が低く通信や魔術探知に適さない者たちを輜重科に配し、主に馭者役としているのだ。

 彼らの多くは馬車を操ることに元からけてもいたから、適材適所といえた。かなり高い位置にある馭者台や荷台への上り下りには、側面に設けられた踏み台を使う。

 では、極めて重労働となる積み卸しはどうするのか。

 そこはオーク兵が受け持つ。

 兵站基地ではそのように配置が考慮されていたし、補給物資を受け取る部隊側では「オーク兵のうち手すきの者は積極的に荷役作業に参加すべし」という教育がなされている。

 このような制度の大筋がオルクセン軍に取り入れられてからは既に久しく(コボルトの魔術通信兵が採用される以前からだ)、オーク族の兵士を怒鳴りつけるコボルト族の下士官や将校などという様子も、珍しい光景ではなかった。

 リアが様子を見計らいつつ声をかけた相手も、そんなコボルト族出身の曹長だ。コボルト族としては体格の大きいほうになる、真っ黒のグレートデン種。

 曹長という階級は、オルクセン軍の場合、兵士から叩き上げた下士官としては最高位。

 二等兵あたりからすれば、下手をすると直接関わることは少ない将校たちよりよほどおっかない存在である。

「少しよろしいかしら、曹長さん」

「あ? ああ、視察の大尉殿ですな。これは失礼致しました、小官に御用でありましょうか?」

 リア・エフィルディスには物怖じしないところがあり、しかもそれを表裏のない朗らかな性格が裏打ちしていたので、彼女に相対した者は種族の違いや歴史的経緯など、すっかりどうでもよくなってしまう。

 そんな得な性格をしている。

 ダークエルフ族としては可愛らしくさえ思える見かけだが、実際にはかなり年嵩があったから、他者の心の機微を掴むのも上手い。

 曹長のほうでは、おうおう何とこのお嬢さん大尉殿か、よくこんなおっかない顔の俺に話しかけられたな、などと思っている。

「ずいぶんと慌ただしいように見えるけれど。何か兵站に影響を与えるような事情が?」

「ああー……一つには前線の部隊がちょっと無茶な機動をやっちまったせいですな。昨日の渡河が街道筋からそれていたので、現地で渋滞が起こってしまい。輜重馬車を送りだすのはいいんですが、まるで戻ってこんのです。工兵器材やそこらも送りださねばならんので、大わらわですわ。おまけにこの雨ときた。酷いことにならんといいのですが……」

「なるほど」

 確かに、木材や砕石の類を積んだ輜重馬車がいる。

 おそらく、泥濘地の補修用資材だ。

「あちらは生鮮食料ね?」

「ええ──」

 工兵器材を積んだ馬車の更に向こう、生のジャガイモを梱包した木箱を満載した輜重馬車のことを言っているのだとわかり、曹長は頷く。既に荷台に幌を被せたやつだ。

「しかし、よく一目でわかりましたな。弾薬箱や医薬品箱辺りとはさすがに大きさも違いますが、何しろ糧食系の見た目は生鮮も乾燥も同じなので、私らでも側から記載を見んことには見分けがつきませんのに。混ざらんように管理するのが私らのいちばんの仕事です」

「あら、それは簡単よ。冷却系刻印魔術のざんがあるから。気配でわかるわ。あれは食料貯蔵庫に入っていたのでしょう?」

「ほう」

 そんな方法が。

 俺には魔術力はないから、そんな方法があるなんて思いもよらなかったぜ。

 ──待てよ。

 待て。

 待て待て。

 じゃあ何か? どんな簡単なものでもいい、何か乾燥野菜と生鮮野菜の木箱にそれぞれ異なる刻印魔法を通してしまえば───

 魔術力の弱いコボルトでも、気配を感じ取ることくらいは出来るだろうから──


「大尉殿。失礼ですがそのお話、いま少し詳しくお聞かせていただけませんか?」

 このとき、リアも曹長も気づいていなかった。

 たったこれだけの会話と半ば児戯めいた思いつきが、のちにオルクセン軍の兵站機構はおろか、市井社会の物流機構に至るまで更なる一大改革をもたらすことになる、刻印魔術式物品管理法MIMSを生み出してしまうことに。



 フロリアン・タウベルト一等輜重兵は、第七擲弾兵師団の輜重段列のうち補給大隊に属している。大隊に六つある縦列隊一つにつき二四両いる、Hf.四型重輜重馬車のうちの一両の担当。

 コボルト族、ビーグル種。

 隊では馭者を務めている。

 オルクセン北部メルトメア州地方都市の、商家出身。

 商家といっても大きな商会などではなく、街の金物屋だ。台所用品を主に取り扱う家で、心根の優しいばかりの両親のもとに生まれた。

 徴兵検査を受け、いちばん適性のあるとされるA分類で合格し、徴兵に応じた。

 彼にとって、軍隊はよいところだった。

 入ってすぐのころは大変だったが、いまではそれなりに楽しく過ごさせてもらっている。

 ──上官の曹長さんは一見強面こわもてで、職務にも厳しいひとだけれど、実は優しいひとだ。

 月に一五ラング二〇レニの給金は決して多いとはいえない。でも技能兵の資格をとったから、もうすぐ少し増える。そうすれば母さんに仕送りだって出来る。除隊までに少しずつ給金を貯めて、それを学資に、商業大学に入ろうと思っている。

 この国はいい国だ。

 年齢がうんと高くなっても、その気にさえなれば誰でも大学に入れる。年齢が重なっても死なない魔種族の国だから出来る真似かもしれないけれど、こんな国は他にはない。

 大きな演習は、ちょっとした旅行みたいでもある。

 見たこともない街に、あっという間に鉄道で行ける。

 この演習が終わったら、隊のみんなで首都見学に連れて行ってもらえるらしい。楽しみだ。

 昨夜から、少したいへんだ。

 師団の擲弾兵連隊が、浮橋を架け、川を越えたらしい。

 敵の陣地に殴り込みをかけたのだとか。

 夜間になっても戦闘は続き、でも第七擲弾兵師団はその戦闘に勝ったと聞いた。うちの師団は強い。首都の師団に勝ってしまったのだから、本当に強い。

 でも、街道から逸れた場所に橋を架けてしまうなんて、ちょっと無茶だと思う。

 大砲は置き去り。

 連隊の補給隊も置き去り。

 おまけに、敵は撤退するとき、たった一本残っていた橋を吹き飛ばしてしまったんだそうだ。もちろん演習だから、そういう想定になったというだけなのだけれど、その橋は通っては駄目だという。

 補給は、浮橋からやるしかない。

 夜の戦闘は、うんと弾を撃つ。

 昼の戦闘より撃ってしまうことが多い。去年の演習もそうだった。

 オークの兵隊さんたちは、鉄砲の弾はたくさん持っているから大丈夫だとしても、大隊砲にはもう弾がないという。砲弾自体はまだあるそうだけれど、試射に使う弾と効力射に使う弾は違う種類なんだという。照明弾ももう無い。砲兵さんは複雑だ。

 外套を着ていてさえ、こんなに寒いんだ。出来れば、温かいご飯も届けてあげたい。この荷台に載せている、ジャガイモが必要だ。

 でも、縦列はなかなか進まない。

 怖い顔をした野戦憲兵さんたちが、行けといってくれない。みんな、この橋のたもとで渋滞している。

 工兵さんと、川のこちら側に残った歩兵さんは昨夜からたいへんだったらしい。

 元々、街道から逸れた場所。

 特に橋の近くの河岸は泥だらけのぬかるみ。

 僕にはよくわかる。馬車は簡単に動けなくなってしまう。

 あちらで穴を埋め、こちらで砕石を入れ、あっちで木材を被せる。そんなことが方々で行われていた。もちろん、川のあちら側でもやらないといけない。でもずっと雨は降っている。気づけばまた何処かで馬車が埋まっている。

 連隊の補給隊は殆どそんな目に遭ってしまったから、師団段列の僕たちが荷を移し替え、直接届けることになった。

 僕の馬車が動かなくなってしまったら、どうしようか。

 いつもは横に乗っているクヴァンツのやつは風邪をひいてしまって、今日はいない。

 オークの兵隊さんに助けてもらうしかない。

 湿った雨と、重い泥の匂いが、鼻の奥に残って消えてくれない。

 僕たちコボルトの、よく利く鼻が恨めしい。

 あ。

 憲兵さんの、行けの仕草。やっとだ。

 三台ずつ?

 ああ、そうか、浮橋は一度にたくさん渡れないから。

 大丈夫、僕ならやれる。こう見えて、馬車の扱いは縦隊一なんだ。

 ──タウベルトは正しい。

 だから、このあと起こった出来事に対し、彼に罪や過失はなかった。

 一つには、降雨による増水のため水位が上昇し、浮橋を連結する索縄が緩んでしまっていたこと。

 浮橋を恒常的に使用する場合、工作設置が望ましいとされていた補強木杭がまだ穿たれていなかったこと。

 また一つには、彼の前を行く重輜重馬車の車輪のひとつに一塊の泥が付着し、滑りやすくなってしまっていたこと。

 また、その馬車の荷台にあった荷物が僅かに片側へと寄ってしまっていたこと。

 そして、この日タウベルトが、いつもは大切にその手に嵌めていた、母からの贈り物である手袋を兵站拠点に忘れてしまい、すっかり指がかじかんでいたこと。

 まず彼の目の前で、川面のゆらめきにより浮橋がわずかに揺れ、本来ならその程度のことでは何ともなかったはずの重輜重馬車が平衡を失い、そのまま一気に転落。

 居合わせた誰もが呆然とする中、周囲をも巻き込んで、橋上にあった重輜重馬車三台ごと実にあっけなく浮橋は倒壊した。

 兵たちの怒号と、悲鳴と、状況を把握しようとする将校の号令とが飛び交い、上部部署へ事態を報告する魔術通信と伝令が放たれ──

 救助活動が開始されたが、橋上に計五名いた兵士のうち一名が見つからない。

 ──タウベルトだった。



「師団対抗演習中止! ただちに中止だ!」

 統制部天幕。

 一報を知らされるなり、それまで呑気に巨狼と戯れ、周辺と談笑していたグスタフ・ファルケンハインは刹那のうちに笑顔を消し去り、立ち上がって、大喝一声した。

 ディネルース・アンダリエルはその場に居合わせていた。

 彼のあまりの豹変ぶりに、半ば呆然とした。

 グスタフのこんな様子、怒気を発したところを見るのは初めてだ。

「我が王、しかし……」

 ゼーベックが、彼の職責としても側近の立場としても当然の直言を試み、その先を呑み込む。

 この演習がどれほど重大なものか。

 また、戦時においてこのような事態は、往々にして起こりえる。

 平時においてさえ。

 現地ではもう救助活動が始まっているのだ。いっそ、演習内容に組み込み、他の方面では演習を続行してはどうか──

「参謀本部演習は続けたければ続けても構わん! だが師団対抗演習は中止だ。周辺全部隊をかき集め、捜索せんか! 戦時は戦時! 平時は平時! 戦時になれば私は兵たちに死ねと命じねばならん。ならなおのこと、そうであればこそ! 平時において軍の誠意が足らずもし兵を失うようなことがあれば、私は我が臣民に向けどの面下げて王などやれるか! ただちに中止だ!」

「はっ、ただちに……」

 もはや否応はない。

 ゼーベックは頷き、シュタウピッツへと王の勅命を全部隊へ発するよう指示した。

 ──なんてこと……

 あるいはこの演習の全期間において、ディネルースが最も強く衝撃を受けたのはこの瞬間だったかもしれない。

 この王は強い。

 強く、慈悲深い。

 どこまでも慈悲深く、強い。

 だが続く彼の言葉と、その後の行動もまた、彼女に強い影響を与えた。その人生観の一部までを、完全に変えてしまう事になるほどのものだった。

「ゼーベック。この雨は止めるぞ? 構わんな」

「はい、仰せのままに……」

 雨を……止める?

 何のことだ……?

 何か単語や文法を聞き間違えたか……

 がいが疑問符ばかりで占められたが、王はそのまま天幕外へと飛び出した。

 シュヴェーリンが立ち上がって続き、ゼーベックもまた。

 ディネルースも衝動のままに、彼らに従った。

 いったい、何を……?

「……久しぶりだな。我が王があれをなさるのは。年甲斐もなく拝覧しとうなった」

「まったくだ。ここしばらく、必要とはされておらなんだからな」

 何だというのだ。

「何じゃ、黒殿はまだ知らんのか? お主ら、おそらく御恩恵はもう受けておるのだぞ?」

「……いったい、何のことです? 王はいったい何を……」

「まぁ、見とれ」

 彼女たちの眼前で、豪雨のなか丘の一隅に立ち尽くしたグスタフは、あっという間にずぶ濡れになりながら、しかし微動だにせず、天を見上げていた。

 よく見ると、僅かに口元が蠢いている。

 何かを呟いているらしい。

 囁いている、というべきだろうか。

 魔術の詠唱だというのは、どうにかわかった。

 ディネルースは魔術上の感度をあげ、聞き耳をたてた。

 ──なんだ、これは。

 それは、いままでの生のなかでまるで耳にしたことのない言葉だ。

 いや、正直なところ言詞かどうかもよくわからない。少なくとも、低地オルク語でもなければ、ましてやアールブ語でも古典アールブ語でもなかった。

 何か節がついている。

 どこか悲しげな響き。

 帰りなんとするも寄る辺のない、孤児がさめざめと泣いているような。

 初めて聞くものだというのに、そんなせきばくがある──


 オテントサン オテントサン

 コノアメハラシテオクレ

 オテントサン オテントサン

 コノアメハラシテオクレ


 ぶわり。

 彼の四肢から魔術力の波が滲み出て、それはとめどない奔流、しおさいとうとなっていく。

 丘を走り、天幕に達し、ディネルースたちを包み込んでなお止まず、大地の全てを覆っていく。

 呆気にとられ、その波動に身を委ねるしかない。

 ──温かい。たまらなく温かい。

 もし魔術力が可視化できるものなら、それは黄金色をしているように思われた。

 さんさんきらめくが如きである。

 何かに似ている。

 麦だ。

 そう、麦畑だ。

 大地の豊穣。

 大地一面に麦が実り、そこを一陣の微風がかけていくような。豊穣の波となって、ゆらめいているような。そんな黄金色。

 やはり波動に包み込まれてしまったらしい巨狼たちが、天に向かって一斉に吠える。