第二章 豊穣の大地
──翌、星暦八七六年。
春を迎えようとしている。
オルクセン王国首都、ヴィルトシュヴァイン。
低地オルク語で「猪」を意味するこの都に、ディネルース・アンダリエルは到着していた。
この天体において、人間族や魔種族の多くが寄り集まるように生を営む文化圏のひとつ、
森林と河川、湖沼が点在し、なだらかな起伏の平原が広がり、大陸の過半を占める広大で平坦な低湿地帯の東端近くに位置する。
これより東方には世の成り立ちのころに形成された幾筋もの源流谷が走り、その一つを流れてきた河川の一本を南北に挟み込んだ、美しい都だ。
華麗さや豪奢さよりも、質実にして剛健、堅実の趣がある。
在住知的生物の数は、約一〇〇万。
数百年前からオーク族の中心地として形成されはじめた西部の旧市街と、ここ五〇年ほどの間に造り上げられた東部の新市街、そして近年の市民数増加により市域に取り込まれはじめた外周の郊外とに分かれる。
郊外には広大な平野部を利用した農地と農村とがあり、旧市街には木と漆喰、石材を用いた前星紀からの伝統建物の数々が居住街と職工街を造り、新市街には鉄骨と大理石、彫刻による大規模建築が官庁街や商業区を形成していた。
とくに後者には、
歩車道の別があり、よく整備された広い石畳舗装の道路網と、水運路、そしてオルクセンの各地方へと伸びる鉄道があり、市内へも国内各所へも交通の便は良い。
秋には呆れるほど大きなドングリの実をつける常葉樹マテバシイの街路樹がふんだんに植えられていて、公園、噴水の類も多い。
街のどこもかしこもが、たいへんな繁栄の下にあった。
──信じられない……
ディネルースは何度思ったことか。
人間族の国々にも、これほどの首府はそうあるものではないだろう。
彼女には大都市に思えていたエルフィンドの首都ティリアンでさえ、ヴィルトシュヴァインと比べればまるで田舎街だ。
これがかつてエルフ族や人間族をして「暗黒の森」と呼ばしめた、あのオーク族の支配領域、その都だとは。
巨狼も、ドワーフも、コボルトも、大鷲も住んでいた。
頭数の七割まではオークが占めていたが、残りの三割は他種族。
彼らが種族の違いを理由として争うこともなかった。
優れた行政統治、公正な税制と平等な教育、統一された言語、国民全てに保証された職業選択の自由、明確に制度化された徴兵制がそれを成しているという。
驚くべきことに、人間族の国々の幾つかの、公使館まであった。
彼らの過半が信じる宗教、この星欧大陸に絶大な影響を持つ
オーク王の言葉通り、彼ら人間族とさえ交流しているらしい。
そしてこのような都市は、規模こそ首都のそれに劣るものの、オルクセン各地に存在し、街道や内陸水運、鉄道網で結ばれていた。
現に残存ダークエルフ族は、北部からこの都までただの一度も乗り換えることなく、またさほどの期間を要することもなく、毎日のように何編成も用意された特別仕立ての鉄道でやってくることができた。
──ロザリンド渓谷の会戦から一二〇年。
これが本当に、僅か一二〇年前まで周囲の土地を侵し、暴虐の限りを尽くした、あのオークの国なのか。
だが、たとえどれほど信じられなくとも、ディネルースと、彼女の種族もその繁栄の恩恵を受けようとしていた。
「汝らは我が民だ」
オーク王の言葉に偽りはなかった。
新市街北西外縁、郊外の地ヴァルダーベルクに、新たに形成されることになった一区画を彼の勅命により与えられ、まずは同地に纏まって住まうことになったのだ。
元々はオルクセン陸軍の首都第三演習地と、隣り合わせて王立農事試験場の一つが存在した、ふんだんな森と湖沼、農地転用可能な放牧地に囲まれた場所である。そこへダークエルフ族のために煉瓦と漆喰、木材、鉄骨、石材などを用いた小さな町が、国家予算を財源に慌ただしく建てられつつあった。
脱出行以降、その演習地用兵舎に治療と療養を受けつつ仮住まいしていたが、この用地ごとダークエルフ族に下賜された格好である。
ダークエルフ族はヴァルダーベルクの兵営で一つの纏まった陸軍部隊を新たに編成、これを錬成しつつ、農事試験場と周辺用地の一部を一種の共同農地として与えられ、軍に属さぬ者の経済的な自立も目指す──
軍部隊としての被服や装備、火器、果ては僅かばかりとはいえ当座の生活資金まで援助金のかたちでオルクセン持ち。
軍に入ることになる者の給金も、オルクセン陸軍将兵と全く同じ水準で支給される。
非正規部隊ではなく、正規の国軍部隊なのだ。
既にオルクセン陸軍省は部隊を仮称ダークエルフ旅団として、年度予算とは別にプールされている臨時軍事会計から予算措置も終わっていた。
望外に過ぎる扱いだった。
これもまた驚いたことのひとつだったが、オーク王がそのようなダークエルフ族への処遇を決断すると、まるで抵抗もなく国家及び地方行政や国民はそれを受け入れ、実行した。
この国の誰も彼もが、王に従うことは当然だと思っているのだ。
オルクセンに行政省庁や軍中枢、州自治体はあっても、議会は存在しない。
王への助言や提言はあるが、一度決断が下されれば異論や不平はない。
グスタフには、統治権、兵事大権、外交権、立法権、司法権があり、この国の主要な憲法及び法令は彼が定めたものだ。
全てを王が決する、強力な中央集権。
そこが人間族の国々からみればやや時代遅れな統治体制だが、魔族の国らしいといえばらしいところだった。
ただし、それは恐怖政治などではない──
これを証明し、ディネルース自身が実感する出来事も既に幾つか経験していた。
三月上旬のとある土曜日、この日の朝もまたそうした経験を重ねた日となった。
「さあ着いた、ここだ」
ヴィルトシュヴァイン中央区、森林公園。地の言葉ではヴァルト
王都最古にして最大の公園を、オーク王グスタフ・ファルケンハインは馬車や馬ではなく、徒歩で訪れていた。
オルクセン陸軍将官の常装軍服である、黒色を基調に赤い
樹々に芽吹きを見出すこともできる三月とはいえ、この地方にとっては未だ扱いのうえでは冬季だ。肩章付きの軍外套を羽織っている。外套の一番上のボタンは閉められておらず、幅広の襟の赤地をより見せて、少しばかり洒落者の気配。
腰にはサーベルと短銃。
目深に被っているのは、式典などに用いる制帽である
つまり、軍の将官たちと何ら変わることのない姿だ。
違いがあるとすれば、肩の階級章が国王を示す大元帥のものであり、ズボンの側線の太さも同様であること。それのみだった。
狩猟服などと比べれば遥かに公的なものに近かったが、彼の地位権力を思うなら
豪奢な宝石をはめ込んだ指輪であるとか、無垢の金銀を用いた特別仕立てのカフスであるといったものは、まるで身につけていなかった。
強いて装飾品に近い存在を挙げるとすれば、軍服のポケットに鎖で吊って収めた、オーク族向けに大振りなつくりの懐中時計くらいのものか。それとて言ってみれば実用品だ。
ただし、あの巨狼アドヴィンを連れている。
この肩高一メートルを超える巨大な灰色狼は、過去に一体何があったのかグスタフを主君とも主とも慕っており、王が何処へ赴くにも彼のほうからついていく、一種の警護役だった。
実のところ、ディネルースはこの巨狼族が苦手だ。
神話伝承上も歴史上もエルフ族をときおり襲ってきた魔種族であって、密かな恐怖の対象であり、ベレリアント半島からの駆逐にはダークエルフ族や彼女自身も一役買っていて、じっとその巨大な瞳で見つめられると強烈な後ろめたさもあった。
だが、言ってみればこの巨狼は彼女の命の恩人でもあり、努力して少しずつ心理的距離をつめようとしている──そんなところである。
「この公園だ」
「……ここですか?」
ディネルースは臣下の言葉遣いで尋ねた。
彼女もまた、オルクセン陸軍の軍服姿だ。
ただしダークエルフの部隊が新たに編成されるにあたって採用された、隊独自の意匠のもの。
彼女の率いる隊は、馬術巧みな種族の特性を活かして騎兵を中心に編成されることになっていたから、オルクセン式の騎兵将校仕立てだ。
全身黒を基調に、
騎乗用に裾を絞って股には余裕を持たせた、軍用ズボン。これにも階級に応じて太さや本数の異なる銀色の側線がつく。
膝丈まである拍車付き騎兵ブーツ。
腰には白銀仕上げの鞘に収まったサーベルと、革製拳銃嚢入り回転式軍用拳銃。
かなり流麗なデザインであって、最も洒落て見えたのは軍帽だ。黒毛皮に、オルクセン国軍を示す白地に二重の黒丸の
外套は腰丈で、袖のないケープ様。フードがあり、こちらにはダークエルフの民族衣装の要素を取り入れてある。
「ああ。ほら、聞こえてきたぞ」
まだ朝の九時だというのに、明るい喧噪。楽しげな音楽。
正体はすぐに見えてきた。
たくさんの、ほんとうにたくさんの露店や屋台の類が集っていた。
野菜のそれもあれば、
肉屋と一口に言っても、家禽を扱う店、豚肉を専門にした店、牛肉を自慢にした店と、様々だ。
売り子の声がかしましく、周辺住民を中心とした客たちのざわめきが彩りを添える。
オークの親子連れもいれば、コボルトの店主、ドワーフの行商がいて……
人間族の客までいた。
周囲の官庁街に点在している何処かの国の公使館からか商館からか、いずれにしてもその人間族はこの国にやってきて日が浅いのか、あちらの魔種族やこちらの魔種族たちを目にしては、信じられないものを見るような顔をしていた。ディネルースには、その気持ちがよく理解できてしまう。彼女もまた同様だったからだ。
「毎週土曜の朝は、市内各所の公園で開かれる。ヴァルダーベルクの近くでもやっているだろう? 私の官邸からはここがいちばん近くてね。よく来るんだ」
「なるほど……」
信じられないことだが、これほどの繁華を誇りながら土曜の朝市は全くの庶民向けで、卸や仲買の集う常設市場は別に存在するというのだから恐れ入る。そちらは首都中心部にあり、街区一つ埋め尽くすほどの規模だそうだ。
オルクセンは豊穣の国だ。
改めて圧倒されてしまう。
どこかの国の実情を知りたければ、その国で発行されている新聞の三面記事に目を通すか、大衆小説を読むか、市場へ行けなどと俗に言うが、なるほど、納得の光景ではある。
──それにしても。
などと思わないでもない。
王が市井を見分することは何処の国でもあり得るし、確かにヴァルトガーデンは道路一本を挟んで国王官邸裏側に隣合わせているが、なにも徒歩で、警護には巨狼一頭を伴っただけでやってこなくても良いではないか。
新参種族としてどうしても必要な行政書類の決済を受けに官邸を訪れたところ、おお、いいところに来た、ちょっと付き合えときたものだ。
我が王は、腰が軽すぎる──
「王だ!
いちばん近くにあった果物商で苺を品定めしていたコボルトの一頭がグスタフに気づき、可愛らしい声を上げた。
小さな小さな、オークやダークエルフ族と比べれば本当に小さな、いやドワーフたちから見ても小さく思えるであろう、コーギー種。
体格こそ小柄だが、直立歩行して、彼ら種族の特徴である肉球のたっぷりとした華奢な手で、器用に試食用の苺を掴んでいた。農村の民族衣装風の上下を着ていたから余計に愛らしい。
すぐに気づかれたのは、無理からぬところ。
グスタフ自身はその強大な魔力を体内におさめきって目立たぬようにしていたが、彼の体格はオーク族のなかでも背丈身幅のあるほうだったし、巨狼と、それにまだこの国ではまったく珍しい存在であるダークエルフ族のディネルースまで連れていたのでは、まるで効果がなかった。
「我が王!」
「我が王! 我が王!」
「我が王! 万歳!!」
歓呼の声はたちまち環になって広がった。
「うん、よしよし」
グスタフはちょっと照れの色に黒い瞳を揺らせて、さっと片手を軽く上げて歓声を受けると、まずはコボルトのいた果物屋を覗き込む。