ベッドに折り畳み式の小机をしつらえてくれ、料理が並ぶ。

 小麦入りのライ麦パン。バターとこけもものジャムを添えて。

 あんたけをたっぷりと使った、クリームスープ。雉肉の団子入り。ブラックペッパーをほんのり効かせて。

 ヘラジカの香草煮込み。こんがりと焼いたジャガイモとニンジンを付け合わせ、濃厚なソースで仕上げたもの。

 体を温める赤ワインも、病み上がりの身に毒とならぬ程度に。熱くし、シナモンとクローブ、ドライオレンジを含ませてある。

「食は全ての根幹だ。急なことゆえにあり合わせになってしまったが、なるべく君たちの郷土料理に寄せて用意させてみた。ではのちほど」

「か、かたじけない……」

 あり合わせ? これが。

 私たちの料理に寄せて……?

 とんでもない。

 我らの郷土料理は、日常的にはこれほど豪華ではない。我らのむパンに小麦など入っていない。

 ずいぶんと手が込んでいる。まるで冬至祭のハレの料理だ。

 とくに、スープが食欲をそそった。エルフ族全般が好んでやまない杏子茸と、バターとクリームのいい匂い。

 温かい食事など、幾日ぶりだろうか。

 空腹は最高の調味料と、俗にいう。それは事実でもあった。

 あさましくも思えたが、ディネルースは完食した。

 染みる。

 四肢の隅々にまで力がみなぎるようだ。

 ふつふつと気力までが満ちるとともに、思い出したくもないことも甦ってきた。


 ──血の匂い。悲鳴。銃声。炎。殺戮。


 大願成就のためには力をつけねばと完食したが、血の色にも思えるワインを飲み干したところで堪えきれなくなり、衝動に突き動かされ、室外に控えていた看護婦に声をかけ、手伝ってもらって着替えをした。

 彼女の衣服は既に洗濯され、綺麗に乾かされていて、それもまた有難かった。

 その様子からして、己は少なくとも数日は眠っていたらしい。



 案内され、階下にあった大部屋へ通される。

「ディネルースさま!」

「ディネルースさまだ!」

「ああ、ああ。イアヴァスリル! アルディス! エレンウェ! それに貴女たち! 無事だったのだな……無事でいてくれたのだな……!」

 ディネルースと彼女の仲間たちは手に手を取り合い、抱擁しあい、泣いた。

 再会できた喜びもあれば、助けられた上でこう言っては何だが、気の弱い者のなかには突然オーク族たちの中で目覚め、不安がっていた者もいた。その安堵だった。

 彼女とともに、凄惨な出来事から逃れるため同族や近隣氏族の生き残りで大河シルヴァンを越えようとした者は三〇名。

 そのうちいま無事が確認出来たのは、彼女を含めて一四名。

 オークたちの捜索は入念なものだったというから、その言葉を信じるなら、残りの者たちは駄目だったのだろう。

 ──戻らねば。故郷へ。

 白エルフどもを、ひとり残らず殺すために。

 許さない。

 奴らを許さない。

 絶対に許さない。



「──そうだったのか。惨いことを……惨いことを……」

 本心である。心からのものだ。そのつもりだ。


 山荘の談話室で詰め物のよい椅子に腰かけたグスタフは、種族の者まで救ってくれたことに意を決し全ての事情を話したディネルースを前に、ようやく感想らしきものを漏らすことが出来た。

 彼女も座らせてある。

 配下でもない者を、まして誇り高き他種族を立たせたままにしておく趣味はグスタフにはなかった。

 淹れたての濃く熱いコーヒーがサイドテーブルにあったが、口をつける雰囲気ではなくなっている。

 噂通り、シルヴァン川北岸の国──ベレリアント半島エルフィンドのエルフたちは、同族同士の内戦に陥っているらしい。

 いや、果たして内戦と呼べるかどうかすら怪しかった。

 国民の九割九分以上を占める光のエルフたち、エルフといえば誰しもが想像する白い肌のエルフたちが、ダークエルフ族を一方的に殺戮マサーカーしているというのだ。

 グスタフは脳内の記憶と知識の棚のなかから、この事態に相応しい言葉を探した。

 ぴったりのものを思い出す。

 ──民族浄化というやつだな。

 彼から見れば、エルフとダークエルフにはさほど大きな種族上の違いはない。

 そもそも今眼前にいるディネルースとて、他種族が抱く空想ほど「黒く」はない。熟した麦のような、健康的な茶褐色の肌だ。ダークはダークであって、ブラックではないのだ。

 エルフもダークエルフも長身だが、おおむね前者は線が細く可憐な妖精じみていて、後者は四肢にしなやかな逞しさが漂う野性的な体躯をしているという違いはある。

 だが、多くの民族抗争がそうであるように、例え他種族からどのように似通って見えようとも、彼女たち自身の種族間の考え方では、両者は決定的に異なるものだという。

 その種族としての分岐過程に本当のところ何があったのかは、彼女たちにも最早よくわかっていない。上古の昔、この世界の成り立ちに絡むと伝承の残る降星雨の光を見た者と、そうでなかった者だという。彼女たちの古い言葉でいうところの、「光のエルフ」と「闇のエルフ」という呼称は、そこから来ている。

 そのような神話めいたものが肌の色まで変えてしまうとはグスタフには思えなかったから、おそらく単なる伝承に過ぎないであろうが──

 ともかくも両者は、同じ地域同じ国エルフインドに暮らしながら、居住する地域と文化を別にしてきた。

 ダークエルフ族は大陸とベレリアント半島の境を流れ、伝承神話が彼女たちの国の国境だと定める、シルヴァン川北岸一帯。その山岳地帯で放牧と酪農、狩猟を糧に。

 白エルフたちはそれより北方、国土の大部分であるベレリアント半島の中心部から北端まで。森林と湖沼を愛し、農耕を主に。歌と音楽、知恵と言葉遊び、書物を友にして。

 エルフたちはダークエルフに対して侮蔑にも似た差別感情を抱き続けていたが、それでも彼女たちが対外戦争を戦っているうちは良かった。

 両者はしばしば協力し、手に手を取り合って、作戦の類は白エルフが立て、ダークエルフの各氏族は精強無比な国境防護の戦士として、故国に勝利をもたらしてきたからだ。

 しかし、対外戦争が絶え、ゆるやかな平和がここ一〇〇年ばかり続いた果てに──

 国内にあって元々背景として存在した両者の関係に、好ましくない変化が起きた。

 まず、経済競争原理の浸透と、人間族の国々からの科学技術の流入がいけなかった。

 富の偏在と、新しい時代の新しい技術に乗れた者と乗れなかった者の別を生み出した。そしてそれは彼女たちの国では、エルフとダークエルフの別にそのまま符合してしまった。

 あとは、導火線に火が着く直接的かつ決定的な「何か」を待つだけであった。

 一年ほど前、それまでエルフィンド王家側近に取り立てられていたダークエルフのひとりが、反逆のかどで失脚。裁判こそ無事に済んだものの、他の側近たちに暗殺されたという。どうもこの事件自体は、陰惨だが、嫉妬や私怨から生じた政治闘争だったらしい。

 だがこれを導火線として起こった、「ダークエルフ狩り」。

 清楚として妖精じみた存在だったはずのエルフたちは、同根異種族を憎む差別主義者にして殺戮者に変わった。

 いまやダークエルフたちは、地位的には元々足場の弱かった国家中枢から追いやられ、地域的には国境部へと追い立てられて、生物的には死に瀕している。

 不意を襲われた大半の者。

 銃殺された者。

 縄で吊るされた者。

 巨大な穴を掘り、生きたまま埋められた者。

 生き続けることに絶望し、自ら死を選んだ者──

 ディネルースの氏族の場合、ある日突如として、村ごとエルフィンドの正規軍に焼かれた。

 ずいぶん大勢死んだという。

 猟に出ていたため無事で済んだ彼女は、敢然と立ち向かったが、多勢に無勢である。

 そして止むを得ぬ選択として、国境たるシルヴァン川を生き残った者たちと越え、オルクセン領を迂回路として逃げ延び、同じダークエルフ族の他氏族と連絡を取り合おうとしていた──

 そういうわけだった。

 ──これは間接的には私にも罪のあることだな……

 グスタフはそっと、やや歪んだ思考をもてあそんだ。

 エルフィンドにとって、過去の主たる対外戦争の相手は我らがオーク族。

 長い年月がかかったが、そのオークの地域を纏め、侵略戦争を控え、明確な国法を定め、産業を興し、人間族たちとさえときに争いつつも交流し、国力増強に専念してきたのは私なのだから。

 それが、エルフ系種族たちをこんなかたちで追い詰めてしまうとは……

「それで……これからどうなされる気か?」

「戻る。戻るつもりだ」

 全ての説明を終えたあとで、ディネルースはきっぱりと告げた。

 太いが形よく凜々しい眉にも、その栗色の髪と同じ色の瞳にも、強い意志が滲む。ふっくらとした唇は真一文字に結ばれている。地のものらしい低い声音や、野趣の色がある言葉遣い、エルフという種族に他種族が抱く想像よりずっと逞しい肢体の全身には、されるほどのえんの炎があった。

「氏族の者たちを助け、他氏族とも手を取り合い、可能な限りの抵抗をする」

「そうか……」

 止めるつもりはなかった。口を出す権利もない。

 だが。

 ──勝てまい。

 数が違い過ぎる。

 それは彼女自身にもわかりきっているようだった。

「白エルフたちを殺す。ひとりでも多く殺す」

「…………」

 無謀な抵抗であるなどとは、とっくに理解したうえで。

 それでも挑む以外の選択肢など存在しないほどに、ダークエルフたちは白エルフの手によって追い詰められるところまできていた。

 そして、幾らか迷った上で、彼女は言った。

「このように助けてもらった上に、頼めた義理ではないが……幾ばくかの武器と医薬品を分けてはもらえまいか。そして、傷の酷い者、気の弱っている者をこのまま預かってはいただけまいか。代償に払う糧すらないゆえ、それさえ叶えていただけるなら、私は貴方に我が命を捧げよう。必ずここへ戻ってくる。そのあとでなら、私を食べてもらおうと、めすとして扱ってもらおうと構わない」

「…………」

 グスタフは眉間を揉んだ。

 しばし沈思し、素早く思慮を巡らせ、脳内で吟味し、決断し、告げた。

「それほどの覚悟があるのならば、私は貴女に別の選択肢を提案したい」

「……うむ?」

「将来のけんちようらいを期し、貴女の同胞たち皆で、私の国に移住してくるといい」

「…………馬鹿な」

 ディネルースは、呆けたような顔をした。

 そんなことが。

 信じられない、といった表情だった。

「元々魔術力の高い貴女の種族は、ある程度近くまでいけば同族たちと交信できると聞いたことがある。事実だろうか?」

「……事実だ。だがいまはあまり強くは使えない。白エルフたちにも気取られてしまう」

「そうだな。だから、シルヴァン川北岸まで貴女が戻ることは同意する。そこでひとりでも多くの仲間たちと連絡を取り合い、他氏族をも集め、救い、大河を南へ越えさせよ。言っておくが、これは戦うよりも困難なことだ。白エルフたちに見つかってはならん。理由はわかるな?」

「──大っぴらに支援したことが白エルフどもに知られれば、エルフィンドと貴方の国とが戦争になりかねない」

「そうだ、その通り」

 満点だ、というようにグスタフは頷いてみせた。

「だから素早く、迅速に、しかも極秘裏に、貴女が周囲を説得し、脱出を成し遂げねばならん」

「…………」

「私はこの南岸に、食料と医薬品、配下の者を集める。間接的な支援をしたのち、我が国へ迎え入れる」

「…………」

 ディネルースは完全に迷っているようだった。

 それは実行に伴う困難さを想像してというよりも、なぜこれほど望外な救いの手を差し伸べてくれるのか、そしてその救いの手を差し出した相手が、かつて戦場で相まみえたことすらあるオーク族であるという二点によった。

 ディネルースはそれを率直に疑問として口にした。

「……どうして……そこまで。信じられない」

「……だろうな。無理もない」

 グスタフもまた、腹を割って応じることにした。このようなときには小細工や欺瞞を弄さず、あるがままに語るのがいちばんだという経験が彼にはあった。

 国を治める者は、腹芸や寝技を自在にこなさねばならぬが、常にそれがいいとは限らない。

「一二〇年ほど前の戦争で、私は貴女がたとロザリンド渓谷で戦ったことがある。私はまだ一兵士で、若造で。全体など見えはしていなかったが……」

「奇遇だな。私もそのころ既に氏族長としてあの古戦場にいた」

「そうか」

 どうやらディネルースは、今年で一五〇歳になるグスタフよりずっと年上らしい。

 エルフ族の氏族長とは、人間族に例えていえば村長や町長、市長といった役割に加えて、戦時においては氏族規模に応じて編成される軍の部隊指揮官でもあったから、魔術力と指導力があり、周囲が従いもする、ある程度としかさのある者が選ばれると耳にしたことがあった。

「貴女がたに恨みなどない。兵と兵が相戦うは、世の習いだ。そもそも飢饉に瀕した我らがこの地のドワーフの国へと穀倉地帯を求め攻め入り、それにエルフィンドが脅威を覚え出兵したのだから、むしろ非は当時の我らオーク族にある。だがロザリンドの会戦で我らが敗走したあと、何が起こったかご存じか」

「……あのあと? 我らはオークを打ち負かし、帰還したが……」

ダークエルフは、な」

「……どういうことだ?」

「白エルフの一部はロザリンドに留まった。そして返す刀で、このシルヴァン南岸を治めていたドワーフ王を襲った」

「……馬鹿な。ドワーフの国は貴方がたが撤退に乗じて滅ぼした。そう聞いた」

「なるほど、そのように聞かされてきたのか。個々の交易すら絶えてしまうはずだ。それはエルフたちのでっち上げた、偽りの物語だ。元々ドワーフを見下し、それでいて彼らの採鉱技術や冶金技術を脅威に感じていたエルフたちは、ドワーフの国をもっけの幸いと滅ぼしたのだ」

「…………」

「私は、白エルフがどれほどのことを計算高くしてのけるのか、あのときそれを実際に見た」

「…………」

「他にも、エルフたちの手でベレリアント地方から駆逐された魔種族はいる。巨狼、コボルト、大鷲……巨狼は牙を恐れられ、コボルトは商才を疎まれ、大鷲はエルフとは別の知能的な一族がいることが許せなかったらしい。いまでは皆、我が国にいる。なんなら会わせて差し上げよう。私の相棒は巨狼で、家政を預かってくれている者はコボルト、我が国の工業技術を支えているのはドワーフたちだ。大鷲たちは我らのために、空を飛んでくれる。私が他種族を喰らうことを禁忌として国法に定めたのは、彼らと糧を共にしていくためだ」

「…………」

「そして今回白エルフ族の標的になった存在は、貴女たちの番だったというわけだ。それは貴女自身がたっぷり見たのだろう?」

「…………」

 ディネルースは完全に衝撃を受けていた。

 四肢を震わせ、大きく肩で息をし、目は泳いでいる。

 だが、あれこれと得心の行くものがあったらしい。

 他種族の駆逐については、エルフィンドのなかで狩猟を得意技のひとつとするダークエルフ族のひとりとして、身に覚えもあったのだ。

 そしてそれは、彼女の白エルフたちへの憎悪を増幅させた。対オークの聖戦と謳われた一二〇年前の出征にすら偽りがあったのだとすれば──

 あれこれと白エルフたちから理由を吹きこまれ、言わば道具となって他種族を駆逐してきた過去にも後ろ暗いものがあったのだとすれば──

 どれほどの長きにあって彼女たちの一族は騙され続けてきたのか──

 そのうえで滅ぼされようとしているのなら。

 まるで道化ではないか。

「故に、私はいつの日か、それもそう遠くない将来、エルフたちと我が国が戦争になると確信している。小競り合いなどではない、国と国の命運をかけた、国家総力戦とも呼ぶべき、最終戦争になるだろう」

「…………」

「そのとき、一種族でも多くの味方が欲しい。背を預けられる同胞が欲しい。貴女とその同族を助けるのはそれゆえだ」

 打算もあるのだと、率直に告げた。

「…………葉巻、吸ってもいいかしら?」

「ああ、構わん。私もパイプを失礼しよう」

 お互いが大きく吐息をついたあと、奇妙なほどの心理的雪解けが、グスタフとディネルースの間に流れた。

 マッチを擦る音がほぼ同時に響き、紫煙が漂う。

 おそらくこのダークエルフの低い声音は、こんなけんのんとした出会いではなく、もっと日常的な、穏健なもので交わせていれば、たまらなく優しく聞こえただろう質のものだな──

 そんな他愛もないことを思う余裕も生まれた。

「いま一つ伺いたい、オーク王」

「何だろう?」

「貴方がそれほどの種族を集め、白エルフに打ち勝つ日が来たとき……いままでのエルフのように、今度はオークたちが他種族を粗略に扱わない、という保証はどこにあるのだ?」

 ──鋭いな、このひとは。

 グスタフは舌を巻く。

 これもまた、率直に答えることにした。

「確かに。我らは各種族のなかで最も数が多い。過去の所業も誇れたものではない。暴虐な存在となる可能性は、なきにしもあらずと思えるだろう。いや、そのように思えて当然だ」

 ──なにしろ、そんな目に遭った直後だからな。何も信じられなくとも、無理はない。

「しかし。一二〇年前ならいざ知らず、もはや不可能なのだよ、そんな事は。理由はやはり我らの数の多さだ」

「…………」

「我らはしかも、他種族からみれば信じられないほどの量を食らう。食糧を増産し、工業力を高め、国を富ませなければ、明日の糧を賄えない。オーク自身の殆どには馬鹿力はあっても魔術力はない。コボルトの魔術力と商才を借り、ドワーフの技術を学び、巨狼に放牧を手伝ってもらい、大鷲に天候を見てもらわねば。そして我ら自身が総じてその恩恵を噛みしめ、自ら汗をかかねば」

 ディネルースはまた得心がいったようだった。

「……食は全ての根幹。そういう意味だったのね。しかもそれはとても上手くいっている、と。オークはこの一二〇年、ただの一度も収穫期になっても我らを攻めてこなかった。貴方や、医師たちの様子を見ても、どれほど発展したのかわかる」

 あの食事。

 あれがあり合わせのものだというなら、物を作り上げ、交易を巡らせ、富を得た国のものに相違ないからだ。

「そうだ。やはり貴女は鋭い」

 嬉しくなるほどだ。

「それに理由はもう一つある。もし白エルフに勝てたとしても──」

 グスタフは、香りのよいイスマイル葉のパイプ煙草を吸い、こうないでくゆらせ、吐き出しつつ、弱ったなとも思っている。

 ここまで話すつもりはなかったのだ。

 側近たちの全てにも、まだ理解の及ばぬ話だと思っている内容だ。

「その次は人間族と戦争になる。銃や大砲。鉄道。電信。鉄の船。一二〇年前のように筒先から弾を込めるマスケットや銃剣ではなく、後装式の施条銃を使う貴女にはそれがわかるはずだ。急速に人間族の技術は発展している。いまに魔術と腕力だけでは補いがつかなくなる。いや、もうそうなっている。彼らとの戦争を避けるには、やはり種族の垣根を越えて国を纏め続けるしかない」

「……オーク王。失礼な言いようだけど、貴方とても変わっている。話していると、本当にオークとは思えない。まるでエルフか……そう、人間族のような考え方をする」

 褒められているのだろうか。

 いささか迷うところだったが、しかし、全てを理解してくれたのだと、安堵する。

「王。流石さすがの王。脱帽するしかない。つまり貴方は、我らの種族を助け、住む場所と武器まで与えてくれて、近い将来に白エルフどもを討つ機会まで与えてくださる、と」

 彼女は立ち上がった。

 雄々しくさえ思える起立だった。

 種族滅亡の窮地から見えた一筋の光明が、いまは成すべき方針を明確に照らし出し、彼女を奮い立たせていた。

 この異種族遭遇が成功したのかどうかがわかり、グスタフもまた立ち上がった。

「その案、乗りましょう。オーク王」

「ならば我らはそれを心から歓迎しよう、ディネルース・アンダリエル」

 ふたりは、歴史背景的に無理からぬことながら少しばかりぎこちなく、だがしっかりと握手した。



 あれから一ヵ月半が経とうとしている。

 秋から冬の境を越え、オルクセン最北端の山脈、あのシルヴァン川の南側にあるツェーンジーク山脈は、既に積雪をたっぷりと被っていた。

 平地でも雨や雪まじりのみぞれの日が増え、ついには本格的な降雪期を迎え、晴天の日数は減るばかりだ。

 外気温は下がり続けている。

 その夜は、雪にこそならなかったが、氷のように冷たく激しい雨が降った。

 シルヴァン川の川幅はもともと広く、そして大部分が深い。

 上流には大瀑布すらあり、剣峻な断崖が両岸に広がり、おまけに橋も殆ど架けられていない大河だ。この川はエルフたちにとって一種の聖地で、神話伝承により国境だと定められた地。意図的に交通の便を断ち、ここより北方に閉じこもるための天然の要害である。

 東方下流域に至ると、砕けた岩石と川砂が積り溜まり、ようやく渡渉できる浅瀬帯が存在する。

 エルフィンドを脱出するダークエルフ族最後の一団、約一二〇〇名は同地を越えた。

 対岸からほんのわずかばかり南側に広がる森林地帯のなかで、グスタフ・ファルケンハインは彼女たちを待ちわびていた。

 ようやく、という思いがする。

 この期間というもの、ダークエルフたちの脱出は困難を極めた。

 橋は、使えない。最初から選択肢にならなかった。

 エルフィンドの兵がしようしよを設け、警備を増やしていた。一度のことならばこれを襲い、強硬突破も出来ただろうが、そのような方法を採るには脱出ダークエルフ族の数が多すぎる。また、仮に渡れたところで、そのような場所はエルフィンドのシルヴァン南岸入植地。まさしく「危ない橋」。

 また計画初期のころは、ディネルースの氏族間説得がオーク族への不信感と恐怖や侮蔑ゆえに上手くいかず、しかしながら差し迫った眼前の脅威、白エルフによる民族浄化が迫りに迫り、ようやく説諭が成功し、まとまった数が脱出できるようになったころには、この浅瀬帯も使えなくなっていた。

 大河唯一に近い渡渉箇所ともなれば、当然ながら白エルフの警戒も及んでいたからだ。ときおりだが、エルフィンド軍の騎兵斥候が出没するようになっていた。

 その軍勢も、あちらの町を攻め、こちらの村を焼き、主要な街道を封鎖しはじめるなど、対ダークエルフの包囲環を日に日に狭めていく。

 ゆえに、いままでダークエルフ族たちの脱出行は、主に渡渉地より上流を使わざるを得なかった。

 冬季の、身も凍るような河川を、それも水嵩を増していくばかりの大河を、僅かな食料だけを携え、労苦の末に断崖を上り下りし、見つからぬよう小集団になって、泳いで渡ったのだ。

 不老不死にして、身体的に重大な外傷や疾病を招くか、自ら生きることを辞めない限り強靭な生命体であるダークエルフといえども、これは大変な真似だ。凍傷その他を防ぐため、すぐに治療を受けねばならない。元より、対白エルフとの戦闘で負傷するか、疲労困憊していた者も多い。不幸にも濁流に呑まれ、力尽き、果ててしまった者の数は一名や二名ではなかった。

 グスタフは、彼の国の国境警備隊や、国境部にもっとも近いオルクセンの都市、アーンバンドに駐屯する第一七山岳猟兵師団から何両もの野戦炊事車、師団ちよう段列の半分と野戦病院の全てを投入して彼女たちを支援したが、こちらの部隊展開もまた慎重に行わざるを得なかった。

 大っぴらに軍を投入すれば、エルフィンドとの国境紛争に陥りかねない。

 渡河点と対岸の一次集合地点を決め、オルクセン軍に属して魔術を受け持つコボルト兵や、ダークエルフたちのうちから志願者がその場所を知らせるために、傍受されないよう出力をぎりぎりまで弱めた魔術交信を両岸で交わし、最終集合地点をあの山荘周辺として、数十から多くとも一〇〇名ほどの集団となって脱出する──

 決行する渡河点を複数にして補ったが、労苦ばかりが重なる事実は変えようがなかった。



 この困難な期間、ディネルースはエルフィンド側にあり続けた。

 ダークエルフ族内で脱出計画を軌道に乗せるという大変な作業をしてのけつつ、彼女に従う少数精鋭の一隊と、グスタフから支給を受けた銃火器と医薬品とをもつて、僅かな携行食料と水だけを頼りに、エルフィンド正規軍に対して不正規戦を挑んだ。

 本格的な戦闘行為を企図したものではなく、同胞が脱出を行うための時間稼ぎ──攪乱と妨害の徹底である。

 必然的に、彼女たちが最後の脱出組になった。

 その期間、大河シルヴァンの水嵩は増し続けた。

 上流の渡河点はついに使用不能になり、このままでは東部下流域の渡渉地すら危ない。

 難戦苦闘を続け既に傷つき体力を失った彼女たちに、泳いで大河を渡れというのは無理無謀というものだ。

 グスタフ直属の、オルクセン国軍参謀本部の参謀のひとりがある提案をしたのは、このときだった。

 重大な脅威と見られない程度の部隊を、わざとエルフィンド側に見せてはどうか。

 国境紛争にまで事態を陥れたくないのは、エルフ側も同様のはず。

 後刻オルクセン側に気づかれるのならまだしも、民族浄化行為にふけっているとは悟られたくもないはず。あちらにしてみれば外交上及び国防上の弱点を晒していると取られかねないからだ。

 渡渉地は元々軍事上使えないと思っていた場所なのだ、試してみる価値はある──

 グスタフはただちにこの案を採用した。

 加減が難しかったが、山岳猟兵師団の猟兵連隊各隊から小隊規模の物を組織して、各所に配置、方々に出没させた。オルクセン側が、国境で何かが起こっていると察知しかけ、そのために派遣した隊だと思える規模である。

 計画は図にあたった。

 渡渉地周辺に出没していたエルフィンド騎兵斥候が引いたのだ。

 長くは持たないだろう。

 より規模を大きくした、例えば歩兵隊や騎砲隊を伴うような捜索部隊がやってくる可能性がある。

 手早く両岸で魔術交信を取り合い、その夜のうちに、最後の一団は渡渉を決行することになった。幸い、天の慈悲というべきか、渡河決行の直前に雨足は弱まり始めた。

 オークは、種族の興りとしては元々夜行性であったため、夜目が利く。

 魔術力のあるグスタフはとくにそうだ。

 ダークエルフも同様。

 身体的な能力ばかりでなく魔術まで用いて夜目を利かせるとき、彼女たちの瞳は、淡く赤い燐光を帯びる。

 その光がちらちらと見えた。

 静かに膝まで水に浸かり、だが素早く、落伍者を防ぐために一団となって渡るダークエルフたち。

 全員があのダークエルフの民族衣装といえるフード付きコートを着ており、頬には各々の氏族に伝わる紋様で描かれた白顔料の戦化粧を施している。

 グスタフは、彼にはたいへん珍しいことだが、背筋に薄ら寒いものを覚えた。


 ──なんという目をしているのだ。


 ケープの内側にこもった、燐光のためではない。

 それは、ダークエルフの生態を事前に知識として得ていれば驚くまでもないことだ。

 降雨のなかにも正面を見据え、微動だにせず、眉根一つ動かさず。

 兵士の目だ。

 実戦経験をいやになるほど積み、敵の死も仲間の死も見届け、生き残った上に闘争心を維持した者たちだけに出来る目だ。

 おまけにその集団は、憎悪も携えている。

 あの一ヵ月前のディネルース自身すら凌駕する憎悪を。ただただ灼熱に煮えたぎる、白エルフ族への憎悪を。隊伍には、息も絶え絶えの仲間を背負った者もいる。たくさんの護符をひものところで重ねて握りしめている者も多い。死んだ仲間たちから回収したのだろう。

 狩りを行う際の、巨狼の瞳がそれに近いかもしれない。

 最先頭の者は、渡渉を成し遂げると立ち止まって一団の最後尾が渡り切るまでそれを見守り、文字通り最後のひとりとなって一時集合地点の森へと分け入った。

 確かめるまでもなく、ディネルース・アンダリエルであった。

 グスタフは自ら彼女に分厚い毛布をかぶせてやった。



 最初、ディネルースは彼に気づかなかったらしい。

 しばしグスタフの巨体を見上げ、茫然自失とも虚脱ともとれる瞳をし、ようやく全てを成し遂げたのだと悟ったようだった。

「……オーク王」

「いいから、喋るな。よくやった、よくやったぞ、ディネルース。よくぞ戻った」

 毛布を摩擦し、更には魔術力の波動に療術魔法を滲ませそちらでも彼女を包む。

 半ば衝動的に横抱きにし、医療班のもとへと運んでやることにした。師団輜重段列の製パン中隊がパンを焼き、大型野戦炊事馬車が肉入りの塩スープを熱く用意して待ってもいる。

「王。王よ。どれほど脱出できた……?」

 腕の中で、ディネルースが尋ねてきた。自らの手勢のことではないのは明らかだった。

「………………約一万二〇〇〇だ」

「…………そうか」

 ダークエルフ族は、虐殺が始まる以前、国境部全体で約七万いた。

 残りはその殆どが死ぬか、僅かな生き残りは農奴として北部に連れ去られた。

 完全に不意を突かれるかたちで虐殺が始まったゆえに、その犠牲の大半が事変の初期に生じていた。

 これほどまでの短期間に、これほどの数の者が一気に死に絶えてしまったのは、エルフ族全体が身体を持ちはするものの一種の精神生命体であって、強い絶望感を抱くと生き続けることを維持できなくなるからだった。

 不老不死に近い彼女たちはこれを「失輝死」と呼んでいる。命の輝きを失ってしまう死、という意味だ。時期的にはディネルースが最初に川を越えたころだ。

「…………すまん。もっと早く気づいてやれていれば」

 グスタフは詫びた。

 ディネルースはそっと首を振る。そうして襟元の護符を取り出し、気丈に握り、口調を改め告げた。

「我らに救いの手を差し伸べてくださり、感謝致します。そうでなければ、我らダークエルフは滅んでいたでしょう。お約束通り、私ディネルース・アンダリエルの命は、ただいまこの瞬間から王ただひとりのものと思ってくださって結構です。我が王マイン・ケーニヒ

 刹那ほどの間、虚脱に陥るのはグスタフの番だった。

 ディネルースのけなさに、静かに牡泣きに泣いた。

 白エルフたちを喰らい尽くす狂暴なあぎとともいうべき、精強無比な氏族を同胞に出来たことは紛れもない事実だったが、少なくともこの瞬間、そんなことは本当にどうでもよかった。


「ならば汝とその仲間は我が民だ、我が同胞だ、ディネルース。その忠誠に我が全身全霊を以て報いよう」