第一章 国境の大河


 豚頭族オークの王グスタフ・ファルケンハインにとって、狩猟は趣味と実益を兼ねるものである。

 ましてやそれが北方国境地帯──シルヴァン川流域の森林地帯でのものともなれば。


 大河シルヴァンを挟んで対岸は、もはや隣国である。将来的にはこの地は戦場となるかもしれない。

 全てを貪欲に食らい尽くすとされるオークにとって、そういった意味でも狩場となるやもしれぬとなれば、自然と熱も入るというもの。

 表向きはお忍びの保養に訪れているとはいえ、側近どもを引き連れ、このような僻地の山野を夢中で駆けていたのにはそんな理由があった。

 かつてこの地には、ドワーフたちの立派な国があった。

 いまは滅ぼされ、しかもそれは遠い過去のことであり、住まう者もまばらである。

 隣国とは国交も個別レベルの交流すらも絶えていたから、街道さえ古びてしまっている。

 グスタフの国オルクセンの民のうち、放牧に訪れ、酪農をし、あるいはコボルトの額ほどの広さの土地で農耕を営む者がわずかにいるだけだ。

 河岸までいくと彼の国の領地内と呼べるかどうかは怪しく、国境線未確定地域とするのが相応ふさわしいだろう。

 シルヴァン川東部下流域南岸はグスタフの国の一部ということになっているが、中部と西部にはかつての旧ドワーフ領を中心に川向こうの国の入植地も街もあり、必ずしも河川そのものが国境とも呼べず、両者の境界は複雑に入り組んでいる。

 ゆえに、この辺りの地図は、場所によってはひどく古いものしか残っていない。

 新たに地図を作り、地形を調べ、植生を記録し、天候を知る必要があった。

 世に産業革命があり。市民革命があり。

「剣と魔法」の時代から「銃と魔法」の現代へと移って久しいこんにち、戦争は諸事複雑になってきている。

 日頃から備えをしておかねばならぬ。

 巻狩りの追い役や、待ち構えて猟銃を放つ者らはみなグスタフの側近たちだ。

 将来戦場を学ぶには、実際にその地を駆けてみるのがいちばんである。

 ただ──そのようなはんを抜きにして、狩りとは楽しいものだ。

 包囲網を狭め、巨狼族を放ち、待ち構え、銃を撃ち、獲物を仕留める。

 気配を悟られぬよう風を読み、地の起伏を利用し、あるいはどうやって故意に姿を見せ、威嚇するか。追い込む先は山頂がいいのか、あの渓谷がいいのか。

 狩りそのものもまた、ある種の軍事行動と似ている。

 頭も使えば、体も使う。

 このうえなく楽しかった。実際に獲物も射止めている。

 一度の巻狩りで、大きな、たいへん立派なヘラジカエルクを一挙に七頭仕留めたのだ。丸々と太ったきじも十羽ばかり。今宵の宴は実に豪勢なものとなるだろう──

 異変は、狩りを終えてから起こった。

 巨狼の一頭が吠えたのだ。もう、獲物もいないというのに。

 それも長鳴きだ。つまり、あるじを呼んでいる。

 耳を傾け、鼻をひくつかせ、方向を確かめる。山麓のほうだ。遠くはない。

「陛下」

「じい、案ずるな。待っておれ」

 グスタフは同道していた側近のひとりをそのままにとどめ置き、狩猟服に包まれた二メートルを超える丸々とした巨躯を巡らせ、もし人間族が眼前にすれば我が目を疑ったであろうほどの俊敏さでもって、山道を山麓方向へと駆けた。

 この辺りの森林は濃く、巨木が群れ、昼間でも薄暗い。

 再び巨狼が吠えなければ、鼻だけを頼りにすることになっただろう。


 ──これは。


 血の匂いがした。獣のものではない。

 灰色に鈍く輝くしなやかな毛並みが、木々の狭間からたっぷりと見えてきた。

 他種族なら失禁をしかねない巨躯。あちらでも気づいたらしい。獰猛な顔と氷のような瞳をこちらへと向けている。

 彼の飼う巨狼族の一頭だ。アドヴィンと名付けている。

我が王マイン・ケーニヒ

 アドヴィンが、頼もしい声を上げた。

 巨狼族は、いまではオーク族の忠実な飼い犬のようになっているが、本来なら誇り高き立派なひとつの魔種族だ。賢く、言葉をも解する。

「どうした?」

「これを」

 巨狼が鋭くしなやかな鼻筋を向けた先を見やると──

 窪地に、一個の影が横たわっていた。

 人間というには、長躯である。かといって、オークではない。

 近づいてみると艶やかな栗髪。

 茶褐色の肌。

 長く尖った耳。

 濃い茶色のしや製フード付きケープに、カウル襟のバルキーニット、革製のボディスとハイウェストパンツ。山野を駆け巡るには最適であろう、狩猟靴。腰には独特な形状をした大振りの山刀が革鞘に収まっている。

 どうやら肩下ほどまであるらしい髪は後ろで高くまとめ、その顔立ちは燐として美しい女のものだ。

 意識を失っているようで、瞳の機微までは分からないが、凜々しい眉、長い睫毛のかたちまでがよい。

 両頬には白の顔料を用いた戦化粧が、高く通った鼻梁のそばから尖耳の耳朶下ちかくまで二筋。


 なんと。

 なんと、なんと。

闇のエルフデツクアールブじゃないか」

 瞠目する。

 ダークエルフ。俗に黒エルフともいう。

 川向うの種族であって、グスタフの国ではそうそうお目にかかれるものではない。

 神話伝承の類に呆れるほど登場するエルフ族の亜種族で、森と湖の領域の精霊か何かだと思われていて、それゆえに人間族などからも奇妙なほどの人気がある存在。

 だがそのような存在をして、世俗とは無関係ではいられないらしい。

 片膝をついて確認すると、血の匂いが濃くなった。

 左の肩と、右の脇腹に銃傷がある。

 どちらも貫通しているようだが、脇腹の傷が深い。

 その威力からして、猟銃などではない。軍用銃によるものだ。

 積み重なった枯葉の上に、血だまりが出来ている。

 褐色の肌が土気色を帯びて見えるのは、この女の生まれゆえだけではないだろう。

 そっと、頬に触れてみる。

 半ば冷たくなりかけていた。

 いまは秋。冬も近いころだ。昼間といえど大気は冷涼で、夜ともなればぐっと気温も下がる。

 このままにしておけば、いかな長命長寿不老のエルフ系種族といえども、間違いなく息絶えてしまうだろう。

「…………」

 グスタフは自らの腰に巻いた革帯にあるざつのうから、一本の金属製薬瓶を取り出した。

 万能薬エリクシエルだ。水溶薬型ポーシヨン

 霊薬の原材料として知られるアンゼリカ草、モミの雌花などから精油を抽出し、砂糖やナツメグ、何種類ものハーブと調合した魔術薬。

 それも軍用の、重傷者に用いる高純度なものだ。

 ダークエルフの女、その口元に薬を運ぶ。

 えんしてくれなければ、粉末型パウダー療術魔法ヒーリングを使うまでだ。

 エリクシエルは生産量も少なく高価だが、体力と気力、魔種族の持つ魔術力を恢復させ、治癒力を高め、高純度なものだと多少の外傷など塞いでしまうほどの効果がある。

 幸いにも、形のよいぽってりとした唇は万能薬を含み、嚥下もしてくれた。

 続けてやはり腰にぶら下げた、平たい大型水筒を取り出し、蓋を開け、これもまた飲ませた。グスタフ自身が寒気を感じたときにでも含もうと携えていた、グロワール産の林檎の蒸留酒カルヴアドスだ。

 こいつは素晴らしい。旨いだけでなく、高貴な香りがし、気つけにもなる。

「う……ん……」

 女がうめいた。

 意識ははっきりせぬものの、早くも傷口は塞がり、止血も出来たようだ。

「アドヴィン、背を貸せ」

「はい、我が王マイン・ケーニヒ

 巨狼の背に、担ぎ上げた闇エルフの女を乗せると、どうやら彼を探して騒ぎ始めたらしい側近たちの気配がする山中を、静かに麓へと降りた。

 辺り一帯に散らばっていた女の持ち物は、グスタフ自身が拾い集め、携える。

 よく手入れされた、レバーアクション式の単発騎銃が一丁。雑嚢と水筒が一つ。

 機微を確かめる。銃は弾を撃ち終えた状態だったが、はいきようはされていなかった。そういえば女の盛り上がった胸元には革製の弾帯があったが、そちらにも残弾はなかった。

 雑嚢には、エルフ族特有の、穀類を固く焼締めた携行食料がほんの僅かばかり。生活必需品が幾つか。羊飼いが使うものに似た、らつもあった。印章のおさまった小袋を見つけると、思うところがあり片眉を上げた。

 水筒は空であった。匂いを嗅いでみる。ジャガイモで作られる火酒のそれがした。妖精さんはこんな強い酒を飲むのかと、少しばかり目が点になる。



 山麗では、既に配下たちがかがりを焚きはじめていた。宿舎にしている山荘が、木製構造材に白漆喰の外壁と鋭い屋根で陰影をつくり、視界へと入ってくる。

「……我が王。珍しい獲物でございますな」

「じい。医者と療術士を呼び、この者を治療してやれ。軽く処置はしてある」

 安堵した様子で出迎えた側近に、手早く命じた。

「それと、ただちに警護の山岳猟兵を集めてくれ。この様子では、噂は本当らしい」

「エルフどもの噂にございますな?」

「ああ。同族内で殺し合っているという、例のな」

「……やれやれ。いささか、困ったことになりますな。事態は動くことになります」

「そのことよ。だが止むを得ん。猟兵による捜索を行え。コボルト兵の魔術せつこうも使って構わん。ただし出力は弱くさせろ。まだこの者の仲間もおるやもしれん」



 俗に言う「見知らぬ天井」というやつを、ダークエルフ族の女ディネルース・アンダリエルは経験することになった。それも、息をも呑む環境下で。


 太い木材を山岳地帯式に組んだ、高い天井。

 明るい照明。

 清楚な室内。

 極めて大振りな寝台に、白い綾織の病衣を着せられ、彼女は横たわっていた。

 半ば混濁した意識のまま、左手を目の前でひらひらとさせる。

 手ひどく負ったはずの銃傷による痛みがない。

 脇腹も同様だった。

 無意識のうちにもはっと思い至るものがあり、胸元に手をやる。

 安堵した。

 守りの木塊は、革紐で通され首に下がったままだった。

 エルフ族エルフインは、白エルフアールブ黒エルフデツクアールブも、産まれでたそのとき、一族が近くの森に赴いててのひらに収まる程度の護符をこしらえる。はくぎんじゆの大振りな枝からそれを削り出す。そうして首からぶら下げて、死ぬまで肌身離さない。再び生まれ変わったとき、また元の場所に戻れるように。

 エルフ系種族にとって、何よりも大切なものだ。

 願をかけるときや魔術を強く使用するときなど、何度も触り、握りしめるので、長い年月のうちに摩擦により自然と光沢を帯びて、まるで宝石のようになる。


 ──ここは……いったい……?


 ようやくそれを考えた。

「お目覚めになりましたね」

 彼女の足元のほう、部屋の一隅で誰かが言った。

 看護帽。清楚としたあおしまのワンピース。

 看護婦だ。

 ディネルースはたいへん驚いた。

 身なりからしてどう見ても看護婦は看護婦だが、巨体である。

 背丈はエルフと変わらないが、肉塊と呼べるほど横幅がある。首は太く、腕や足は、まるで丸太のようだ。目方にすれば、どれほどになるか。信じられない重さに違いない。

 なによりも、その豚顔。

 オーク族オルクスだ。

「どうして……」

 何故オークが。

 狂暴で、粗野で、エルフはおろか同族すら喰らうという貪欲の魔物オークが。

 何故。何故。何故。



「いま先生を呼んで参ります」

 看護婦はディネルースの困惑をまるで誤解したらしい。丁寧にお辞儀をして誰かを呼びに行った。

 すぐにやってきたのは、眼鏡をかけ白衣を羽織った、身なりも立派な医者。

 だがこれもまたオークだ。

 オーク族はそのほぼ全てが黒目で体毛もなく、やや薄桃色がかった白い肌をしていて、彼女にはまるで見分けがつかないが、こちらは男──いや、おすのオークらしい。彼に従って戻ってきたさきほどの看護婦より、顔つきの彫りが深く、下顎から両頬脇へと伸びた牙も鋭く大きい。

 腕をとられたときは、一気に体が強張り、恐怖がこみ上げ、正直なところ喰われるのかと思った。

 手首へ太い指で触れられ、ようやく脈をとられているのだとわかる。

「少し、速いかな……だがすまない、私も君たちの種族を診た経験はそうなくてね。ともかく、いま少し休みなさい」

 そりゃ鼓動も速くなるでしょうよ、などとディネルースは思う。

 困惑と恐怖でいっぱいだ。

 なぜ。本当になぜ。

 オークとは、もっと凶悪な、非文明的な生き物のはず。

 それがどうしてこれほどの医療を。人間族たちの言うところの、科学的なものを。

 なぜ、私を助ける。

 膨大な数ゆえに常に飢え、周囲の種族たちをも喰らう存在のはず。

 彼らに見つかった以上、とっくに餌食にされていてもおかしくない。

 ディネルースは一二〇年ほど前に、オークたちと戦ったことがある。ここから北西に少しいったところの、ロザリンド渓谷でだ。彼らのことはよく知っているつもりである。

 ──騒々しい奴らメルイシス

 彼女の一族では、そう蔑称で呼んでいた。

 耳障りな甲高い声で喋り、わめき、周囲を侵す。貪欲に全てを喰らい尽くす、けがらわしい野獣の如き生き物たち。なまじ知恵があるだけにいやらしい目つきと下卑た言葉遣いをしたドワーフどもよりは、まだ単純なぶん幾らかマシなだけ。

 その彼らが、どうして。



「失礼するよ」

 困惑のうちに、一頭の牡オークがやってきた。

 山岳民族衣装風の、狩猟装い仕立ての身なりはいい。

 まるで人間族の服飾のようだった。

 ディネルースより頭一つ高いから、オーク族の牡としても大柄なほうだ。

 何よりも、その声音に困惑した。甲高くなどなく、低く、父性的ですらある。

 魔種族としての位階は、おそらく相当高い。巨躯から滲み出る魔力がある。これもまたオークとしては珍しい。オークは、馬鹿力こそあるが、魔術力を持つ個体はそういない。

「戸惑っているようだな。無理もない──」

 寝台際にあった、彼女の種族から見れば大ぶりな椅子にそのオークは着き、苦笑した。

「だが安心してほしい。我ら種族が他の魔種族を食らう習慣を捨て、もう七〇年ばかりになる。いまでは国法として禁忌ですらある。君を取って喰おうなどとは思っておらん」

「…………」

 にわかには信じがたい話だったが、思い当たる噂は耳にしたことがある。

 ──シルヴァン川より南に住まうばんぞくたちが、たいへん大きな国をつくっている。

 その国のことだろうか。

「ともかくも、お礼を──」

 迷った末、ディネルースは上体を起こし、名乗りを述べた。

 いかな悪鬼ども相手とはいえ、助けられ、口上も述べられぬようでは氏族長の名が廃る、そのように思えたのだ。

「そうか、やはり族長殿か。気配風格からそうではないかとは思っていた」

 オークもまた名乗りをした。

「オルクセン国王グスタフ・ファルケンハインと申す。出来れば、事情を聞かせてもらえると有難いのだが、無理強いはしない」

「…………」

 オーク王。

 王なのか。

 この風格、魔力。さもあらん、だ。

「あれから──と言っても、君は気を失っていたが、君を助けてから更に一〇名ほどをこの辺りで見つけた。皆が皆、傷を負っていたが治療は済ませた。別の部屋にいる。あとで会うといい」

「それは……」

 ディネルースは起き上がろうとしたが、オーク王は軽く手のひらを広げる仕草で制した。

「まずは食事を摂りたまえ。それからでも遅くはあるまい? 君の仲間にもそうしてもらっている」

 彼が合図をすると、あの看護婦がウッドボードに載せた食事を運んできた。