「じいじ……ごめんなさい」
「何を謝る。そなたが何をしたというのだ」
「でも……でも、ぼくのせいで……」
グラハムは持っていたコップをテーブルに置くと、小さく笑ってミトの髪の毛をくしゃくしゃと揉んだ。
「そなたが一度森に飛び込んだから、トルネラは救われたのだ。気にする事はない」
「うう……」
それでも納得できないようにミトは涙を流す。
「……ともかく無事でよかった。お腹空いただろう?」
ベルグリフがそう言って微笑んだ。グラハムはミトを抱いたまま立ち上がる。そうして少し顔をしかめた。
「……ベル、すまん。頼む」
「ああ、もう、無理するな……」
ベルグリフは苦笑しながらグラハムの腕からミトを抱き上げる。グラハムはバツが悪そうに目を伏せて脇腹をさすった。正直なところ、ベルグリフもちょっときついのだが、脇腹を貫かれているグラハムよりはよほどマシだ。
ミトを抱いたベルグリフは、グラハムと連れ立って家の外に出た。
西日はすっかり傾いて、もう山の稜線にかかっている。もう少しすれば沈んで空を焼くばかりになるだろう。
ミトが不思議そうな顔をして目をしばたかせた。
「どこ行くの……?」
「ああ、夕飯を食べにね」
ミトは少し身じろぎした。しかしベルグリフは構わずにそのまま広場に向かった。
もうシチューがすっかり煮えたらしかった。大鍋の他に、そこここの椀から幾つも湯気が立ち上っている。たき火の脇に座っていたアンジェリンが顔を上げた。
「あ、お父さん……ミト! 起きたんだ!」
その場にいた者たちの視線がたちまち一つの方に集まる。アンジェリンが嬉しそうに立ち上がって来て、ミトの頭を撫でた。
「お、おねえさん……ぼく」
「よかった……」
微笑むアンジェリンの後ろから村人たちが大人も若者も駆け寄って来た。ミトはベルグリフに抱き付く力を強めた。怒られる、と怖くなったのだろう。しかし、村人たちは泣きそうな顔で笑いながら、次々とミトに温かな言葉を投げかけた。
「ミト、おかえり!」
「ごめんな、ひどい事言って……許してくれ」
「よく帰って来たね……無事でよかったよ……本当に」
「怖かったなあ。よく頑張った。偉いぞ」
「怪我しなかったか? お腹空いただろ? いっぱい食べな」
ミトは呆然とした。体から力が抜けて、ベルグリフに抱き付く力も緩み、口をぱくぱくさせる。
「ごめ……ごめん、なさ……」
言いかけても、嗚咽に邪魔されて上手く言えない。
「謝らなくていいよ、わざとした事じゃねえだろ?」
「そうそう、あのヘンテコな木どもが悪いんだよ」
ミトはぼろぼろと涙をこぼしながら鼻をすすった。
「ぼく……ぼく、ここにいてもいいの……?」
当たり前じゃないか、と村人たちは笑いながらミトの頭を撫でた。
「ありがとぉ……」
泣きながら胸元に顔をうずめるミトを撫でながら、ベルグリフは微笑んだ。
言葉にこそ出ないけれど、村人たちもまだ煮え切らない部分もあるだろう。それでも、こうやって再び受け入れてくれるのが嬉しかった。きっと、少しずつ折り合いを付けていい所に落ち着く筈だ。
ベルグリフは顔を上げた。
「さあ、腹が減った。今日はもうゆっくりさせてもらうぞ」
「いっぱい作ったから、たっぷり食べてね!」
シャルロッテが木べらを振って笑った。
飯だ飯だと林檎酒を回し、一気に場が明るくなった。太陽はすっかり西の山に隠れ、そこいらを薄暗闇が包み始めたけれど、皆それに気づいていない。
そんな様子を見ながら、ベルグリフはちらと横目でグラハムの方を見た。グラハムは小さく笑って頷いた。
○
いよいよ夏の気配が強くなり、すっかり初夏という風になって来た。村の周囲の森は青々として風に揺れ、羊たちの毛も伸びてぼつぼつ毛刈りの時期だ。芋はとうに掘り上げられ、難を逃れた麦畑は黄金に色づき、収穫もほぼ終わりかけている。
トルネラの家々は修繕も終わり、また元の生活が戻って来ようとしていた。人が死んだわけでもないし、過ぎてしまえば、村には傷跡というくらいのものも残らず、古森の襲撃も何だか夢の事のように思われた。
壁の張られた新居の中に立ち、アンジェリンは周囲を見回した。まだ内装は終わっていない。他の家の補修が入ってこちらの仕事が中断されたからだ。しかしもう家と言っていいくらいに形は整っている。あちこちの補修が終わった今、ここの工事も再開するだろう。
まだ工事は終わっていないけれど、壁を張り終えた日から、アンジェリンとその仲間たちはここにテーブルや椅子、毛布やクッションなどを持ち込んで、夜ごと集まって遊んだ。それだけで新しい生活が想像されるようで、何だかわくわくしたものだ。
「でも、その前に……」
呟いた。腰に差した剣に手をやって、ぐいと持ち上げて位置を直す。
「……パーシーさん、どんな人なのかな」
父親の古い友人の事を考える。ベルグリフは彼をかばって足を失ったのだという。
もし自分をかばってお父さんが足を失ったら、と想像してみる。少し想像しただけで、もう辛くて辛くてたまらない。思わず両手で顔を覆う。驚くほどの悲しさと罪悪感だ。こんなものを二十年以上背負って生きるというのは、とても想像できそうにない。
アンジェリンは目をしばたたかせると、居住まいを正して家の外に出た。明るい初夏の陽射しが目にちかちかした。抜けるように青い空に、こねて浮かべたような丸い雲が幾つか浮かんでいる。暖かで、ともすれば汗でもかきそうな陽気だ。
今日旅に出る。南のニンディア山脈、そこにあるという『大地のヘソ』を目指すのだ。そこにパーシヴァルがいる。
アンジェリン自身はパーシヴァルに対しては複雑な思いを持っている。父の足を失う原因になったと考えれば業腹な気もするし、しかし彼は今も苦しんでいるだろう事は想像に難くない。だから可哀想だとも思う。しかしそれがなければ自分はベルグリフには会えなかった。こんな風に考えると、何だか自分がひどく身勝手なようにも思えた。
目をやると、庭先でベルグリフとグラハムが何か話していた。留守中の事についてだろう。アンジェリンはその傍らに駆け寄った。
「お父さん」
「ん、ああ、アンジェ。準備は大丈夫かい?」
「うん……」
アンジェリンはおずおずとベルグリフの服の裾をつまんだ。
「お父さんは……会うの怖くない? その……パーシーさんに」
「ん……どうだろうな。正直自分でもよく分からないよ」
ベルグリフはアンジェリンの頭に手をやった。そのままわしわしと撫でる。
「でも、パーシーは友達だからな。怖くても、会いたいさ」
「そっか……」
アンジェリンは口をもぐもぐさせてベルグリフの腕に抱き付いた。どうしてだか、自分の方が変な不安を感じた。
ベルグリフは微笑んでアンジェリンの頭をぽんと押さえた。
「どちらにしても、やる事ができたからね」
「ミトの事、だよね?」
「ああ」
今回の旅は、単にベルグリフの旧友に会うためだけの旅ではなくなった。グラハムの考えた事を実行するため、とある高位ランクの魔獣が持つ素材が必要になったのである。丁度強力な魔獣が
お父さんと旅に出て、一緒に戦う事ができる。それを想像すると、さっきまでの不安がどこかに行くような気がした。
ベルグリフの背中から唸り声がした。背負われたグラハムの大剣が淡く光っていた。アンジェリンはそれを指先でつつく。
「……おじいちゃん、この子がいなくて大丈夫?」
「私の事は心配要らぬ……そやつにばかり頼り過ぎるのも考えものだからな」
グラハムは小さく笑った。その笑みは達観した老人のものではなく、何か新しい事に向き合う若者のようだ。今回の騒動は、グラハムにも何かしらの変化をもたらしたらしい。
ベルグリフは困ったように剣の柄に手をやった。
「しかし、いいのかい、本当に俺が借りてしまって。やっぱりアンジェの方が……」
「ううん。その子、お父さんの方が相性いいと思う……」
「アンジェリンの言う通りだ。私を除けば、そなたが最も上手くその剣を扱えるだろう。剣もそなたを信頼している筈だ。トルネラで隠居するには、まだその剣は元気過ぎる」
「むう……」
そう言われちゃ断れないな、とベルグリフは頰を搔いた。しかしその割に、自分はグラハムやアンジェリンのように剣の声など聞こえないのだがな、と思った。剣は唸り声をひそめて黙っている。照れているのかそっぽを向いているのか、ベルグリフには分からない。
今回の旅にあたって、高位ランクの魔獣との戦いが必然となった事もあり、グラハムは自らの大剣をベルグリフに貸した。聖剣と呼び称されるほどの剣を持つ事にベルグリフはやや萎縮したが、断々乎として断るほどでもないし、周囲の勧めもあって借り受ける事にしたらしい。この父親の思わぬ強化に、アンジェリンはもちろん大喜びである。
連れ立って村の入り口まで行く。行商人の馬車があり、そこにアネッサやミリアム、カシムがいる。ビャクにシャルロッテ、それにミトは見送りだ。村の若者たちや子供たちも何人か来ている。
既に馬車に腰を下ろしていたカシムが山高帽子を振った。
「やー、来たね。もう行けるの?」
「ああ、お待たせ。行こうか」
「お父さま、気をつけてね!」
シャルロッテがそう言って、ベルグリフの手を握った。ベルグリフは微笑んで、シャルロッテの頭をぽんぽんと撫でた。
「シャルもね。風邪を引かないように……」ベルグリフはそれからビャクの方に目をやった。「ビャク、子供たちを頼んだぞ」
「……おう」
ビャクは何となくムスッとしたまま、目線を逸らして頰を搔いた。
ベルグリフは行商人の方を見て頭を下げた。
「またお世話になります」
「いえいえ、こちらこそ! 皆さんが一緒だと道中本当に安心ですよ!」
にこにこ笑っているのは、もうすっかり馴染みになった青髪の女行商人である。いいタイミングで彼女がトルネラに来ており、今回はそれに便乗させてもらう事になった。
荷物を積み込みながら、ベルグリフはちらとミトの方を見た。ミトはシャルロッテの横に立って、ジッとベルグリフを見上げた。あの騒動以来何だか顔つきが大人びて、見た目こそ変わっていないけれど、物言いがはっきりとして来た。
「お父さん、気を付けて……」
「ああ、お前もな。じいじたちを助けてやってくれよ?」
「うん」
ミトは頷いてはにかんだ。ちょっとずつ表情も豊かになって来たようだ。心の中の感情が、きちんと表情として顔に表れるようになって来た。弟の成長が嬉しいやら寂しいやら、アンジェリンは取りあえずミトの頭を撫でた。ミトは気持ちよさそうに目を細めた。
「お姉さん……行ってらっしゃい」
「ん!」
アンジェリンはにんまり笑った。撫でる手つきが少し乱暴になった。
馬の手綱が振られ、馬車がぎいぎいと動き出した。
行ってらっしゃい、と見送りの声が方々からした。ミトとシャルロッテが声を張り上げながら千切れんばかりに手を振っている。その隣ではビャクがムスッとした顔で腕組みして立っていた。
アンジェリンたちは馬車から身を乗り出して手を振り返した。
次第に見送りの声が小さくなり、やがて聞こえなくなった。幌の向こうの陽射しは温かく、向かいから風が吹いて来る。南風だ。吹く度に草原の草がざあざあと音を立てて波のように揺れた。
この風の吹いて来る方に目指す場所があるんだ、とアンジェリンは前を見、それから隣に座るベルグリフに寄り掛かった。
馬車が石を踏んでがたんと揺れる。乗っている人数が多いからか、それほど速度は出そうにない。
ロディナに着くのは夕刻過ぎてからだろう。