八十 風が強いわけでもないのに、木々の
風が強いわけでもないのに、木々のざわめきが止むことなく響いていた。
地上には夜更けの闇が満ち、空には星が瞬いている。山のシルエットが暗く影になって、却って星空を切り取っているように思われた。
夜明け前、とも言えないくらいに早く起きてしまったアンジェリンは村の外を散歩していた。
陽が昇れば朝から森へと乗り込んで、今回の異変の原因を突き止める。そうすればこのおかしな状況も終わりを迎える筈だ。自分たちパーティはもちろん、グラハムもカシムも、そしてベルグリフだって一緒に行く。
「……ふふ」
不謹慎だ、と思ってはいてもつい笑みがこぼれてしまう。憧れの父親と一緒にダンジョンに潜るようなものだ。かつてカシムが言っていた段違いの安心感というのが、いよいよ自分も肌で感じられる時が来た。それがとても嬉しい。だから何だか気が高ぶって早く目が覚めた。それで家でジッとしていられなかったのだ。
アンジェリンは深く息を吸って、吐いた。夜の風は静かだったが、昼のものよりもひんやりと肌に触れた。首筋を撫でられると産毛まで逆立つようだった。だが高揚して妙に火照った体には、それも何となく心地よい気がする。
いつも朝の見回りの時に来る小高い丘まで来た。ここは村が一望できる。
今は夜だから、目を凝らさないとよく見えない。大地の緩急ははっきりと見て取る事はできず、のっぺりとした黒いシルエットにばかり見える。
手に持ったランプを下に置いて、アンジェリンは石の上に腰を下ろした。服越しでも、石は冷たかった。膝を抱くようにして遠くを見る。
「……誰が、何のために」
呟いた。
ベルグリフたちの話では、今回の相手はかなり手ごわそうだ。グラハムやカシムでさえも気を引き締めている様子だった。
アンジェリン個人は強者との戦いは嫌いではない。冒険者などという仕事をわざわざ選ぶくらいだから、危ない事だって楽しめるくらいの度胸はある。ベルグリフのようにどっしりとした落ち着きのある冒険者になりたいと思っていても、やはり若さから来る無鉄砲な冒険心は抑えようがない。
だが、トルネラが危ないかも知れないというのは、どうにも気分が悪かった。
オルフェンにいた時は、都でどれだけ無茶をしても帰って行ける故郷があるという安心感がどこかにあった。だから何をするにも気合が入ったのかも知れない。
その故郷にまで冒険が追っかけて来た。嫌いではない事の筈なのに、どうしてか気持ちが片付かない部分もあった。アンジェリンにとって、トルネラというのは一種の聖域なのかも知れない。
「仕方ないのかも知れないけど……」
でも、お父さんもカシムさんもおじいちゃんもいるんだ。絶対大丈夫だ。きちんと解決して、またみんな元通りになるに違いない。アンジェリンは一人で頷いて石から地面に腰を移し、そのまま仰向けに寝転がった。地上の闇と対照的に、隙間がないと思われるほどにちりばめられた満天の星が輝いていた。
ちくちくする草と夜露を背中に感じながら、しばらく寝転がっていると、不意にギイ、と軋むような音がした。
アンジェリンは跳ね起きて腰の剣に手をやった。鋭い目で音のした方を睨むと、枯れ木が一本立っていた。枯れ木には手足のような枝と根が伸びていた。
「……木の牧人?」
牧人は枝を軋ませながらそっとアンジェリンに近づいて来た。頭に当たるのであろう部分には色褪せた葉が幾ばくか付いている。アンジェリンは体中にみなぎった緊張感を抜いて嘆息した。
「脅かさないでよ……」
アンジェリンが元通りに腰を下ろすと、木の牧人は隣までやって来て並んだ。アンジェリンは黙ったまま村の方を眺めていたが、目のない筈の牧人から不思議な視線を感じるから、どうにも居心地が悪くなった。やがて耐えられなくなって、牧人の方を見る。
「……なに?」
答える筈がない、と分かってはいながらも問いかけた。木の牧人は黙して語らない。
風が強く吹き始めた。アンジェリンの緩く編まれた長い三つ編みが風に振られて揺れた。肌寒さを強く感じるようになって来て、両腕を抱くようにして手の平でさする。
大きなあくびが出た。
朝から冒険だ。早起きにしても早過ぎだ。そろそろ帰ってもうひと眠りした方がいいだろう。
アンジェリンは立ち上がった。
──たすけて。
「?」
妙な声を聞いた気がして、アンジェリンは木の牧人の方を見た。牧人はさっきと変わらぬ様子で突っ立っている。
「何か言った……?」
そんな筈はないのに、と思った矢先にまた声が聞こえた。
──みんな、くるしんでる。
「苦しんで……? みんなって」
とアンジェリンが言いかけた時、突然木の牧人が震え出した。痙攣しているかのようだ。頭の葉ががさがさと揺れて何枚かが散って地面に舞い落ちる。
アンジェリンはハッとして村の方を見た。
暗闇の中で、まるで波のように何かが村に向かって押し寄せているのが分かった。
頭が理解する前に、アンジェリンは丘を駆け降りていた。
○
グラハムが跳ねるように立ち上がるや否や、素早くマントを羽織った。
「ミトを頼む!」
そう言ったと思うとたちまち家の外に飛び出して行く。
ベルグリフは頰を叩いて寝起きの頭を覚醒させると、近くにいたミトを抱き寄せた。カシムも起きて怪訝な顔で窓の外を見、アネッサとミリアムも状況が完全に理解できていないながらも手に得物を持って辺りを窺っている。
「な、なに? なにかあったの……?」
シャルロッテが眠そうな目をこする。ビャクがランプに火をともした。
「……何かが来た」
「ちぇっ、人が気分よく寝てたってのにさ」
カシムは山高帽をかぶるとベルグリフの方を見た。
「ベル、オイラも行って来るよ」
「ああ」
足早に出て行くカシムを見送りながら、ベルグリフは注意深く義足を付けて立ち上がった。腰に剣を差す。ミトが不安げにベルグリフの片腕にしがみつき、もう片側の手をシャルロッテがぎゅうと握った。
遠くで音がした。地鳴りのようだが、低い声のようでもある。聞いていると背筋がぞくりと震えるようだ。決して気分のいいものではない。
家に籠っているのが安全だろうか。だが、自分の勘は家を出ろと告げている。
ベルグリフは瞬き一つの逡巡を経てアネッサとミリアムの方を見た。
「俺たちも出よう。ここにいても安全とは限らん」
そう言ってミトとシャルロッテの手を引いて外に出た。
悲鳴や怒声が聞こえていた。遠くで火の手が上がり、消える。グラハムやカシムが襲撃者と戦っているのだろうか。
「……花粉の魔力が断ち切られたと分かった矢先にこれか」
よもや、ここまで動きが早いとは。少し悠長に構え過ぎたか、とベルグリフは舌を打った。
これは凡百の魔獣の仕業ではない。一つの手が破られたと見るや、瞬く間に次の手を打って来る。それも、誰もが確実に寝静まっているであろう夜更けの闇に紛れてだ。
こんなものが相手では、用心に用心を重ねて過剰という事はあるまい。
──ミィィイイィィイィイトォォオオオォオオ……
「ひっ」
ミトが小さく悲鳴を上げてベルグリフの腕をさらに強く抱いた。ベルグリフは目を細めた。
「何だ、今のは……」
「ベルさん!」
アネッサが叫んだ。ベルグリフは素早く子供二人を抱きかかえて身をかわす。後ろから音もなく近づいていた木の牧人の腕が、さっきまでベルグリフのいた所を通り抜けた。同時に雷が落ちて、牧人は黒焦げになって地面に倒れ伏した。杖を構えたミリアムが困惑気味に猫耳をぱたぱた動かした。
「や、やっちゃった……思わず……よかったかな?」
「いや、この場合は正解だ……明らかにベルさんたちを狙ってた」
「牧人がなぜ……」
本来人間に敵対する事のない筈の木の牧人のこの行動に、誰もが首を傾げた。地面に降ろされたシャルロッテがハッとしたように辺りを見回した。
「アンジェお姉さまは?」
そういえば起きた時からいなかった。グラハムと同時に飛び出して行っただろうか。暗闇の中の事だったし、寝起きの頭だったからイマイチ記憶が曖昧である。
「……アンジェなら心配は要らないだろう」
それよりも、とベルグリフは呟いて、腕の中のミトを見た。ミトはすっかり怯えて震えながら、必死になってベルグリフにしがみついている。
あちこちから葉擦れの音が強くなった。
風が吹いているせいなのか、何かが近づいているのか、それは分からないが、ともかくここで突っ立っていても仕様がない。広場まで出ればもう少し状況が把握できるだろう。
突然、砂色の光が辺りを照らし出した。ビャクの立体魔法陣が淡い光を放って浮いている。暗くてあまり見えなかった足元がしっかりと見える。
「……急ぐんだろ。行くぞ」
「はは、ありがとう、ビャク」
「フン……」
足元が見えるから走れる。一行は駆け足で広場へと向かった。
あちこちで悲鳴が聞こえた。何が起こっているのだろう。
走る先で何かがうごめいた。砂色に輝く立体魔法陣が飛んで行ってその辺りを照らす。木の牧人だ。腕に何かを抱えている。子供だった。泣きじゃくって暴れているが、木の腕はがっちりと捕まえて離さない。そのまま村の外に向かっている。
「アーネ!」
ベルグリフが怒鳴ると同時に、アネッサの矢が飛んだ。矢は牧人に突き刺さると同時に炸裂してその幹をへし折った。
近くの家から寝間着姿の夫婦が駆け出して来た。子供の親だ。
「ああ、ああ、よかった……」
母親が泣きながら、地面に転げ落ちた子供を抱きしめた。父親がベルグリフを見つけて駆け寄って来た。涙を流して頭を下げる。
「ベル! ありがとう! ありがとう!」
「礼は後だ! 広場に急げ!」
この様子では、あちこちの家が木の牧人に襲撃されているのだろう。暗い上に数が多いから、状況がまったく把握できない。
「……グラハムたちが上手く立ち回ってくれていればいいが」
アネッサとミリアムが得物を握り直した。
「わたしたちも村を回って来ます!」
「うん! わたしらが固まってても意味ないもんね!」
「すまん! 皆に広場に来るように言ってくれ!」
二人は頷いて闇の中に駆けて行った。
ベルグリフは助けた家族を連れて広場へ向かった。
広場には既に村人たちが集まっていた。かがり火が焚かれ、そこかしこで主神ヴィエナの名が唱えられている。村長のホフマンが怒鳴っていた。
「バカヤロウ、取り乱すんじゃねえ! 自分とこのガキをしっかり見とけ! アトラ! こっちに怪我人だ、薬を頼む!」
「村長!」
ベルグリフが駆け寄ると、ホフマンは安心したように破顔した。
「おおベル! よかった、無事だったか!」
「いったい何が起こっている? どんな状況だ?」
「俺にもまだよく分からんが、あの歩く木が村のあちこちに現れてるらしい。家の戸を破って、皆をさらって行こうとしてるらしいんだ」
幸い、サーシャ様が迅速に指揮を執って皆を広場に集めるように言ってくれたが、とホフマンが言った。そうか、こうやって村人たちが広場に集まり始めているのはサーシャのおかげか、とベルグリフは少し肩の力を抜いた。
ビャクが魔法陣の数を増やした。あちこちの闇が砂色の光で払われて、人々は少し安堵したように息をつく。暗闇は人間の味方をしてくれない。
地鳴りのような低い音は続いている。何かのうめき声のようにも聞こえる。木々のざわめきも勢いを増すばかりだ。暗くて分からないが、周囲から木が迫って来ているようにも思う。
「しかし、結界は……」
ベルグリフは広場の中央を見た。グラハムの聖剣は突き立てられたまま淡い光を放っている。結界は有効な筈だ。木の牧人はなぜ侵入して来られたのだろう。そして、彼らはどうして村人を連れ去ろうとするのだろう。
そこにアンジェリンが駆けて来た。村人たちを何組も連れている。丘から駆け降りてから、村人たちを助けて回っていたようだ。
「お父さん!」
「アンジェ! どこに行ってた!」
「早く目が覚めちゃったからお散歩……ねえ、村の周りに木が押し寄せてるの」
「木が……やはりそうか。村の中には入って来てるか?」
「動きは鈍くなったけど、ちょっとずつ進んで来てる……魔獣もいたけど、それは村には入れないみたい」
すると、やはり森の木々は魔獣とは別個の何かのようだ。結界が効いていないわけではないらしいが、完全に止めきる事ができない。とことん一筋縄ではいかない相手だ、とベルグリフは眉をひそめた。
次第に集まって来る村人の数が増え、広場は人でいっぱいになって来た。村中を走って来たらしいアネッサとミリアムの姿もある。サーシャやセレン、若い冒険者三人組の姿も見えた。
辺りは不安げな囁き声やすすり泣きで満ち、村人たちは誰もが身を寄せ合って、迫って来る恐怖におびえていた。
そこにグラハムが現れた。
「グラハム!」
「家はすべて見た。皆ここに来ている筈だが……」
「そうか……しかし結界が」
「うむ……ここまで得体の知れぬ相手とは。しかし、妙に」
低い音がより大きく響いて来た。しかしやはり地鳴りとは違う。怨嗟に満ちたうめき声だ。まるで深い洞の中から反響して来るようにそこいらに響いている。その中に混じって、呼び声が聞こえる。
──ミィィイイィィイィイトォォオオオォオオ……
ミトはぎゅうと目をつむってベルグリフに顔を押し付けた。
「こわい……いきたくないよう……」
「……大丈夫だ」
そっとベルグリフがミトの頭を撫でたところで、聖剣の唸り声が強まった。
広場へと通ずる道に太い木が姿を現した。結界の力のせいか広場までは入って来ず、家をなぎ倒すほどの力も出せないらしい。しかし広場に閉じ込めるように道を塞ぎ、枝葉をざわめかせている。結界を押すかのようにその太い幹を前に押し出そうとする。その度に聖剣は対抗するように輝きを強めた。
アンジェリンが飛び出して、剣を木に突き立てる。しかし木は一瞬動きを止めただけで倒れる様子はない。こういう相手は剣士とは相性が悪いようだ。
グラハム、と声をかけようと目をやって、ベルグリフは驚いた。グラハムは苦し気に胸を押さえて膝を突いていた。荒く息をしながら眼前の木を睨み付ける。
「……なんだ、貴様らは……」
「グラハム、どうした? 何があった」
ベルグリフはグラハムの肩に手を置いた。呼吸が荒く、肩が大きく上下している。あの強靱なグラハムのこの様子に、敵は魔法まで使うのかとベルグリフは慄然とした。
「アンジェ! 伏せてなあッ!」
突然カシムの声がした。考えるよりも早く、ベルグリフは身を屈める。剣を引き抜いたアンジェリンも素早く飛び退って姿勢を低くした。
後ろの方から燃え盛る炎の槍が鋭く飛んだ。炎の槍は木に突き刺さった瞬間、辺りを明るく照らしながら炸裂し、木の幹に大穴が空いた。
同時に、耳をつんざくような悲鳴が響き渡った。木は悶絶して乱暴に幹を揺すり、やがて倒れ伏して動かなくなった。だが人々が歓声を上げるよりも早く、別の木がそれを踏み潰すようにして現れ、また元の通りに結界を押し始めた。
カシムがベルグリフの横に立って舌を打った。
「ちっくしょー、切りがないや……大魔法じゃ村ごと吹っ飛ばしちゃうし、下手に燃やせば大火事だし……」
「カシムさん、結界の強化できないの……?」
「これ以上は無理だな。というか、こいつら動きが鈍るだけで結界が効かないんだもん、何なんだよ、もう。こんな連中相手にするの初めてだよ」
カシムはうんざりしたように頭を振り、しかし次の魔法を放とうと指を前に向けた。
何も考えずに木をせん滅するだけならカシムには容易い仕事だろうが、相手を倒しても村が消滅していては元も子もない。
──ミィィイイィィイトォォオォオオ……
呼び声は止む事がない。木一本一本が声を上げているかのようだ。
建物の向こう側に高い木の姿が見える。広場の周囲にはもう木々がひしめいているらしい。まるで森の中にいるような葉擦れの音がそこらを包み、妙な圧力が広場を上から押さえつけて来るように思われた。
誰かがぽつりと呟いた。
「ミトが……こいつらを呼んだのか?」
途端に、広場の視線が一斉にミトの方を向いた。ミトはびくりと体を震わしてベルグリフの後ろに隠れた。辺りがざわめき始める。