「ししょおーッ! ありがとうございます! セレンが!」

「サ、サーシャ殿、落ち着いて……これは私の薬の効果ではなくて」

「こら、なにをしている……」

 頰を膨らましたアンジェリンがサーシャの頭を小突いた。喜びに我を忘れていたサーシャは、唐突に我に返って赤面した。慌てて離れてぺこぺこ頭を下げる。

「す、すみません、つい……」

「いえいえ……アンジェ、お父さんは先に戻ってるよ」

「うん、わたしたちもすぐ行く……」

「セレン殿、お大事に」

「ええ、ありがとうございます」

 体を起こしたセレンは弱々しくはあるが、にっこりと微笑んだ。

 ベルグリフが広場まで出ると、そこにはグラハムとカシムが立っていた。広場の中心にはグラハムの大剣が突き立てられている。二人は何かを確認するように辺りを見回していた。ベルグリフを見とめたカシムがにかっと笑った。

「やー、ベル」

「カシム……いったい?」

「原因が分かったんだよ。ね、じーちゃん」

「本当か? 原因てのは、村の異常の?」

「花粉だ」グラハムが言った。「西の森から吹く風に花粉が乗っていたのだ」

「花粉だって? 花粉がいったいどういう……」

「ものすんごく微量の魔力が内包されてたのさ。オイラやじーちゃんですら、気を付けて見ないと分からないくらいの魔力がね」

「単体では大した事はない。しかし我らは呼吸をするだろう。日々の呼吸でその微量の魔力が体内に蓄積した。魔力操作を心得ている我々は耐性があるゆえに何ともなかったが」

「村の連中は森の魔力にやられて体を壊しちゃった、ってわけさ」

「……毒性のある魔力だったのか?」

「いや、そういうわけではない。魔力を通じて、何らかの悪意ある力が送り込まれたという方が正確だろう」

 尤も、誰がそれを画策したのかはまだ分からんが、とグラハムは嘆息した。カシムは山高帽子をかぶり直す。

「ま、いずれにしてもこいつはかなり巧妙な手だよ。そこらの魔獣クラスの相手じゃない。AAA、下手するとSランク相当の奴かも」

 魔獣は殆どの場合人間を凌駕する肉体の力を持っている。徒手空拳で魔獣と相対すれば、その純粋な肉体の力では、人間は魔獣には到底かなわない。その人間が魔獣相手に互角に戦えるのは、まず一つには魔力による肉体の強化、さらに一つには知性の点で凌駕しているからである。

 基本的に魔獣は獣であり、知性は人間には及ばぬものが多い。鬼族を始めとする亜人型の魔獣はある程度の知能をそなえてこそいるが、それはあくまで集団戦闘をし、最低限の社会性を得ているにとどまっている。魔力に細工をし、人間に気付かれないようにひっそりと計画を進めるような知性などない。

 しかし、AAAランクやSランク相当に位置づけられる魔獣には、稀にそういった知性を有するものがある。例えば人間が魔獣化したヴァンパイアや、長い時間を生きるうちに知性を身につけた龍種などだ。だが、そのような存在に対しても、人間たちは長い歴史のうちに対策を見つけ、討伐できるようになった。物事を考えられる知性は、そのまま強さにつながるのである。仮に、グレイハウンドが人間並みの知性を得たら、たちまちSランク相当の危険度になるだろう。

 今回トルネラにひっそりと忍び寄る正体不明の脅威は、単なる魔獣とは一線を画す手ごわい相手であるようだ。形のない知性ある悪意。ベルグリフは思わず身震いした。

「いったい何が相手なんだろう……」

「さて、何だろうね。オイラには分かんないけど……」

「……森そのもの、やも知れぬ」

 グラハムの言葉に、ベルグリフは顔をしかめた。

「森が?」

「ああ。森も意思のある存在だと話した事があっただろう……トルネラを訪れてから、私もこの辺りの森は何度も歩いた。しかし、今日入った森は様子が違う」

「……森が変容したって事かい?」

「分からぬ。実に巧妙に隠された何かがある事は確かだ。これほど悪意を包み込んでいながら、普段と変わらぬように見せている森は初めてだ」

 森に住むエルフだからこその悲しみだろう、グラハムは深いため息をつき、目を伏せた。

 ミトがグラハムにすがり付いた。

「じいじ……」

「……ミトよ、そなたは森から帰ってから様子がおかしかったな? 何があったのか思い出せるか?」

「……よばれた」

「呼ばれた? 誰に?」

 カシムが怪訝な顔をして髭を撫でた。ミトは泣きそうな顔をグラハムに押し付けた。

「わかんない……でも、こわいの……」

「……そうか」

「安心しろ。何が来ても、お前を連れて行かせたりしないよ」

 ベルグリフはそう言ってミトの頭を撫でた。ミトはぐりぐりとグラハムに顔を押し付けた。

「……それで、どうやってその森の魔力を払ったんだい?」

「ああ、これさ」

 カシムはそう言って、突き立てられたグラハムの大剣を示した。剣は静かな唸り声を上げ、刀身は、陽光を照り返すのとは違った不思議な光をたたえていた。

「こいつは長い事じーちゃんの魔力を受けて一緒に戦って来た。しかも一緒に成長して来たもんだから、中にはエルフの清浄な魔力がたんまり入ってる。こいつをポータルにして、村全体を新しい結界で覆った、ってわけさ」

 広場は丁度村の真ん中にある。この剣を中心に、トルネラは魔力のドームに覆われている状態になっているらしかった。これによって、花粉の魔力と森とのつながりは断たれたから、体の異常も癒えるだろうとの事だ。

 ベルグリフは嘆声を漏らした。

「大したもんだ……」

「へへ、君にそう言ってもらえると嬉しいね」

「だが、まだ解決したわけではない。森に入って大元の原因を突き止めねば」

「そうだな……」

 その計画を練らなくてはならない。どれくらい時間がかかるか分からないが、面子は申し分ない。早速明日にでも森に入ってみよう。

 ぱたぱたと軽い足音をさせて、アンジェリンたちが駆けて来た。

「お待たせ……なんか空気が軽くなった?」

「ああ、グラハムたちのおかげさ」

 訳を説明しながら、連れ立って家まで戻る。もう腹も随分減ったところだ。遅くはあるが、昼餉を取りながらでも話はできるだろう。計画を立てて、明日の朝にでも森に入れればいいのだが、とベルグリフは思った。

 ふと目をやると、遠くに木の牧人が立っていた。その幹に穿うがたれた大きなうろが、まるで底のない暗闇に続いているように思われた。