「だねー。はー、やっぱトルネラは落ち着きますにゃー」
ミリアムはぐんぐんと伸びをした。いつも頑として脱がない鍔広の三角帽もかぶっておらず、猫耳が気持ちよさそうに揺れている。
仲間たちやベルグリフには隠すのを止めた猫耳であったが、トルネラの村人に対してはまだミリアムは警戒して隠したがった。だが、アンジェリンたちの勧めで思い切って見せてみたところ、可愛いだの、ふかふかで手触りがいいだの、遠慮なくふかふか撫でられて、差別も妙な気遣いもまったく感ぜられなかったので、変に気張って猫耳を隠す事も馬鹿らしくなってやめたようだ。
まだ何となく眠いような気分で色々の事を思う。トルネラから旅立って、最初の帰郷の時も色々あった。今回も色々あった。帰ろうとする度にあれこれと問題が起こるのは困ったものだが、過ぎてしまえばそれも何となく面白かったような気がしないでもない。それに今回は揉め事こそあったけれど、無事に帰って来られたのだ。終わりよければすべてよし。ヤクモとルシールは今頃どうしているのかしら。
アンジェリンはふうと息をついて、ミトのほっぺたをむにむにと引っ張った。柔らかく、手触りがとてもいい。ミトは黙ってされるがままになっている。
「……お前はいつも抵抗しないね」
「ていこう?」
ミトは目をぱちくりさせた。ミリアムも面白そうな顔をしてミトを撫でた。
「ふふ、ミトは可愛いねー」
「かあいい?」
アネッサがやれやれといった面持ちで小さく笑った。
「結局、魔王って何なんだろうな? ミトを見てると、よく分からなくなるよ」
「わかんないけど……まあ、どうでもいい」
「そうそう。襲って来るなら倒す、可愛かったら愛でる。それでいいんじゃない?」
「ざっつらい」
「あ、南部語だー」
「ふふ、ルシールに教わった……」
「二人とも、今頃どうしてるかなー?」
「オルフェンは過ぎたんじゃないか? 流石にまだエストガルまでは行ってないだろうし」
かたかたと音をさせながら、屋根組みの上から大工たちが降りて来た。休憩らしい。
作りかけの新居はまだ骨組みだけだが、見ているとわくわくする。どんな風に新しい生活が始まるのだろう、とアンジェリンは期待感に胸を膨らました。
ミトがもそもそと身じろぎした。
「おさんぽ、いきたい……」
「ん、行こうか」
ひょいと立ち上がり、ミトの手を取って広場の方に行った。片方をアンジェリンが持ち、もう片方の手をミリアムが持つ。時折ぐいと上に持ち上げるようにすると、ミトは足を丸めてぶら下がるような格好をした。
広場まで出てみると、数人の若者や子供たちがカシムの周りに集まっていた。シャルロッテとビャクも一緒である。
一歩前に出たリタがムツカシイ顔をして両手を前に出している。手の平を上にして、そこをジッと見つめていた。やがて、手の上が小さく揺らめいたと思ったらぼっと火が灯り、周りで見守っていた若者たちが喝采を上げた。カシムがからから笑う。
「おー、やるじゃない」
「いえい」
リタは火を消すと自慢げに胸を張った。少し後ろの方に立っているバーンズが片付かない表情で口をもぐもぐさせた。
「くそ、なんでお前ばっか……俺は全然なのに」
「守る、よ? 安心して?」
「そういう問題じゃないの!」
「あ、お姉さま」
歩いて来るアンジェリンたちに気付いたシャルロッテが手を振った。
「どう? 順調?」
「うん。リタがとっても上手なの」
「見てた。リタ姉、やるね……」
「バーンズを守るの。ね?」
リタはそう言ってバーンズの腕に抱き付いた。バーンズは恥ずかしそうに口を尖らしている。ミリアムが笑った。
「仲良しだねー」
「うん」
「ぐむ……」
バーンズは何処となく不満そうである。
アンジェリンは辺りを見回した。この一塊の集団の他は誰もいない。
「……少ないね。もっといなかったっけ?」
「ああ、村の外でグラハムのじーちゃんに剣を教わってる連中もいるよ。いやあ、皆中々筋がいいね。ベルに基礎を教わってたからかな?」
「ふふ、お父さんは教えるの上手……」
「だなあ」カシムはそう言ってバーンズの背中を叩いた。「ほれ、拗ねるんじゃないよ。魔法は駄目でも剣は悪くないって。じーちゃんにも言われたろ?」
「そうかも知れないですけど……」
「守ってくれる、の?」
「お、おう……」
「嬉しい」
リタはバーンズの肩に頰を擦りつけた。
「ははっ、見せつけてくれるねえ」
カシムは苦笑して髭を
春告祭を過ぎて、急ぎの仕事は一段落しているという事もあり、若者たちはグラハムやベルグリフに剣を教わり、カシムには魔法を教わった。
元々ベルグリフによる剣の基礎を身に着け、魔獣退治も何回か経験している若者たちは、グラハムやカシムの教えも着実に吸収していた。彼らの見立てでは、高位ランクとまでは行かずとも、Bランク相当の実力を備えるに足る者も幾ばくかはいるとの事だった。
いざという時に身を守る技術を持っていて悪い事はない。数は少ないながら、トルネラにも魔獣は出る事はあるし、盗賊の類が現れないとも限らない。一応はそういう理屈を付けてはいたが、何よりも元気の余っている若者たちだ、剣や魔法に憧れるのは当然の事である。
カシムがぱんぱんと手を叩いた。
「さーて、もういっちょ行ってみるかね。きちんとイメージするんだぜ」
「みんな張り切ってるねー。未来の冒険者が出るかにゃー?」
「ふふ、これなら魔獣が出ても安心……」
「それにしても……〝赤鬼〟に基礎を教わって、〝天蓋砕き〟に魔法を教わって、〝パラディン〟に剣を教わって……トルネラはどこに行こうとしてるんだろうな」
再び魔法の練習を始めた若者たちを見て、アネッサが苦笑交じりに呟いた。
○
春の畑仕事は多岐に渡るが、まずもって大事なのは畑起こしである。雪解けの大地を耕し、主食になる芋と春まき小麦などをまかなくてはならない。
トルネラは東に向かって開けていて、日当たりの良い農地には事欠かないから、広げようとすれば畑はいくらでも広がる。しかし際限がないから、あまりやり過ぎると仕事が増える。やれるだけやりたいというのは農民の性だが、それで目の届かない畑が出ては意味がない。
トルネラの主産業は農業と牧畜である。主食となる麦と芋、豆などを柱に、季節ごとの野菜をそれぞれの家で育てている。羊は毛、山羊は乳、鶏は卵、そしていずれも最後は肉を提供してくれる。村共同での畑や牧畜もあるが、どの家も自分の畑と動物を持っているのが普通だ。開拓時代から積み上げて来たノウハウや工夫が功を奏して、今では畑からも家畜からも、村人全員が飢える事なく、厳しい冬でも辛い思いをせずに乗り越えられるくらいには収穫高がある。
しかし、それも基本的には自給自足の為だ。税として納める他は、余剰分を行商人と取引して必要なものを手に入れる程度だ。その為、従来トルネラでは必要以上の生産をする人は少なかった。
だが、今後は街道が整備されるというし、そうなると商品の取引は前よりも頻繁になるだろう。単なる余剰分の他に、売る事を前提に考えた農産物を作る必要が出てくるかも知れない。
もちろん、街道は一朝一夕で完成するものではないが、畑とて同じで、広げたその年から思った通りに収量を上げてくれるわけではない。幾年か耕耘を繰り返し、肥料などを入れて土を作らねばならない。
ベルグリフはケリーを始めとした農夫仲間たちと村のぐるりを歩き回った。新しい開墾予定地を探して午前中からうろつき回り、今は村の西側である。山に近いから午後は陰るのが早いが、野菜は午前中の光さえ当たればいい。この辺りは硬い草は生えておらず、開墾も容易だろう。
「東は放牧地が近いからよ、やっぱこの辺がいいだろうな」
「ああ。羊どもは若芽を食いやがるからな」
農夫の一人が杖の先で土をほじくり返して呟いた。
「悪くねえな。二年も耕せば柔らかくなるだろうぜ」
「まずは屑麦だな。若葉の時に鋤き込んじまえば良い肥料にならあ」
「少し石が多いが、ま、大丈夫だろ」
「耕して、集めて、石は家の基礎に使うかね」
「そうだな。今はベルの家だが、そのうち大きな納屋が要るぜ」
「しっかしベルよう、お前んとこもすっかり大家族になっちまったなあ」
「嫁もいないのにな! はっはっは」
農夫たちは笑い、ベルグリフも笑って頭を搔いた。
「妙な事になったもんだよ……まあ、賑やかでいいんだが」
「にしてもなあ、色々な事が変わりそうだな。街道ができたら、若い連中は外に行きたがりそうだしよ」
「だな……まあ、仕方ねえのかなあ」
農夫たちは寂し気に嘆息した。皆ベルグリフと同世代で、家族を持っている。この村で仕事をし、いずれ年老いて死ぬ事を何とも思っていない。
だが、若者たちはここ一年ばかりで外の世界への憧憬をより深めていた。幼い頃に一緒に遊んだアンジェリンが都で名を馳せて故郷に錦を飾った事は、彼らの心をトルネラの外に持って行く大きな要因になったに相違ない。
今も、一応自衛の為と銘打ってはいるが、グラハムに剣を教わり、カシムからは魔法を教わっている若者たちも多い。今日だって、ここに来る途中で剣を持って向かい合っているところを見た。皆熱心である。それに
ベルグリフは複雑な気分で髭を捻じった。ケリーがからからと笑った。
「いいじゃねえか。若い連中が元気なのは良い事だしよ。それに、これからもベルが外から人を連れて来てくれるだろうよ!」
農夫の間にたちまち爆笑が巻き起こった。
「そいつぁ違いねえ!」
「可愛い娘っ子を沢山連れて来てくれりゃあ、嫁には不自由しねえな!」
「いや、まずはベルの嫁だろうよ」
「駄目駄目、こいつは惚れた女がいるんだから」
「そういうのじゃないってのに……」
ベルグリフは困ったように笑い、頭を搔いた。ケリーがその背中を叩く。
「照れるんじゃねえよ。その子を探してまた旅に出るんだろ?」
「む……まあ、そりゃそうなんだが」
自分の過去を清算する、というベルグリフの決意はまだ変わっていない。
カシムと会えた事で、まず一つ過去の自分と向き合う事ができた。そして、先日はヤクモとルシールからパーシヴァルの所在を聞かされた。当然、会いに行く以外の選択肢は存在しない。こうなると、サティも見つけ出すまで自分は落ち着かないだろう。まるで大きな運命の奔流が、自分を押し流していくようにも感じる。
しかし、思い立ったが吉日と即座に行動に移すほど、もう若くはないのも確かだった。現に帰って来てからしばらくは体調が悪かったのだ。オルフェンで過ごしているうちには気にならなかったのだが、故郷に帰って来て気が抜けたらしい、春告祭が終わってから数日は
あまり無理を押して体を壊しても面白くない。それでは過去の清算というよりは、過去に捕らわれて吞まれるのと同義である。あくまで生きているのは今この時だ。それを取り違えてはいけない。
「で、いつ出発するんだよ」
「なに、そんな今すぐじゃないよ。早くても夏の頃だろう」
「あっという間だぜ、そんなもん」
「まったく、お前も元気な奴だなあ。別にわざわざ俺たちに付き合わなくてもいいんだぜ? 旅ってのは準備が大変なんだろ?」
ベルグリフはやれやれと頭を振った。
「あのな、準備ったって大荷物抱えて行きゃしないんだから、たかが知れてるよ。それに俺は別によそに行って死のうってんじゃないんだから。旅から帰って来たら元通り畑を耕す生活なんだし、新しい農地の事を考えるのは当たり前だろう」
「……それもそうか」
「まったく、そうのけ者にしないでくれよ」
冗談めかして笑うベルグリフに、農夫たちはバツが悪そうに笑った。
「はは、俺らも随分お前に頼ってるからさ、せめて好きな事くらいはやって欲しいんだよ」
「そうそう」
「あの時は悪かったなあ、ベル」
「おいおい、そんな改まらなくても……」
「おら、何湿っぽくなってんだ。場所は見たし、帰って計画詰めるぞ」
ケリーの鶴の一声で、下向きになり始めた雰囲気が払拭された。湿っぽい空気になるのは勘弁だが、農夫たちも彼らなりにベルグリフの事を気遣っているらしい事が分かり、ベルグリフは少し嬉しいような気がした。
一行は村長のホフマンの家に行った。ホフマンは庭先で馬具や鍬を点検して、泥を落としたり研ぎ直したりしていた。
「よう、村長」
「ああ、お前らか。どうだ、農地の目途はつきそうか」
「西側に良い所があったよ。どういう計画にするか詰めようと思ってね」
「よしきた。おいカーチャン! お茶淹れてくれ!」
ホフマンは家の中に怒鳴り、庭先のテーブルを囲むように勧めた。
薄雲が流れて来て、真っ青だった空が薄水色になっている。陽が天頂を過ぎて西に傾きはじめ、段々と陽の光が重くなるようだった。
さて、何を増産しようかとあれこれ意見が飛び交った。麦か、芋か、それとも新しい名産品を何か考えてみるか。
「ひとまず、最初は屑麦まいて若葉を鋤き込むでいいだろ」
「だな。肥しも入れて土を作ってやらにゃ」
「それからどうするかだなあ」
「葡萄の木は順調に大きくなってるし、新しい所も何か果樹を植えてみるのはどうかね」
「しかしなあ、木は時間がかかるし、結果がすぐに分からんからなあ」
「でも、上手くすれば実入りはいいぜ」
「上手く行けばな。作ったはいいが、売れないし使いでもないってんじゃ困る」
「なあ、普通に麦の作付けを増やすんじゃ駄目なのか?」
「別に構わんが、手がさらに必要だろう。麦だって作り過ぎて虫が湧いちゃ意味ねえしよ」
「あの面積を起こして、肥し入れて、種まいて収穫か。確かに倍近い労力が要るなあ」
「それに、北部の穀倉地帯はボルドーにあるからな。ここで小麦を増やしても大して良い値はつかないと思うよ」
「そう考えると果樹の方がよさそうだな。いっそドングリ植えて豚でも飼うか」
「馬鹿、養豚でロディナに勝てるわけないだろ」
「そうだよ。大体、俺は豚の臭いが嫌いなんだよ」
「お前の好き嫌いは問題じゃねえよ」
「なんだと」
「こらこら、喧嘩してる場合か」
「果樹にしても、何がいいだろうな。葡萄増やして本格的にワインでも作るか」
「なあベル、何かいいアイデアないか」
「うーむ……」
腕組みをして考えていると、ミトを連れたアンジェリンがやって来た。
「……おじさんたちが悪巧みしてる」
「わるだくみ?」
「おう、アンジェか」
「はっはっは、見つかっちまったな」
駆け寄って来たミトはベルグリフの背中によじ登り、アンジェリンがその隣に座った。
「どうした。皆といたんじゃないのか」
「うん……でもみんな練習中。だからお父さんはどうしてるかなーってミトと来たの」
「そうか……張り切ってるなあ」
「ったく、いくら強くなろうが食いもん作れなけりゃくたばっちまうぞ」
「まあまあ、あいつらも仕事サボってやってるわけじゃねえんだから」
「なあアンジェよ。新しく何かトルネラで特産品を作ろうと思ってるんだが、お前何かアイデアないかね?」
ケリーに言われ、アンジェリンは首を傾げた。
「作ってどうするの?」
「街道が整備されるだろ? 人の行き来が増えれば行商人だって前より来るだろうし、その時に売れるものがあった方がいいと思ってな」
「元々トルネラの加工品は質がいいって評判だけどよ、今以上に売ろうと思ったら量が足りねえしよ」
「ふうん……」アンジェリンはベルグリフを見た。「生ものは駄目だよね、お父さん?」
「そうだなあ……長距離輸送になるから、保存の利くものがいいだろうね。
いずれにしても、あちこちに持って行くのに保存が利くものは重宝がられる。そういうものの方が売るにしても喜ばれるだろう。仮に売れなくても村で保存ができるというのもリスクが低くていい。
「乾燥品とか、塩漬けとか、お酒とか……?」
「やっぱその辺かねえ」
「ま、あんまし気張って慣れないもんに手ェ出してもな」
しばらく考えていたアンジェリンは、ふと思いついたように顔を上げた。
「薬草とか……」
「なに、薬草」
「うん……ルメルの木とかどう?」
ルメルの木は常緑の低木で、葉を揉むと鼻に抜ける鮮烈な匂いがする。これをすり潰して塗ると外傷全般によく効く。すり潰したものに水を加え、粘りが出るまで煮詰めるとひと月ほどは保存が可能であり、乾燥させた葉を煎じた湯で傷口を洗ってもいい。樹液も使えるし、皮や根も煎じれば飲み薬になり、霊薬を買う事の出来ない下位ランクの冒険者たちはこれを愛用している。トルネラでも民間薬として使われているが、野生のものを採るくらいで、わざわざ栽培をする事はない。
ベルグリフは顎鬚を撫でた。
「確かにいいかも知れないな……ルメルの葉はまだ冒険者の採集に頼ってるのかい?」
「うん。でもあの木、皮とか根っこも薬になるからオルフェンの周りじゃ採りつくしちゃって、あんましないの。だから昔よりも値段が上がったって誰かが言ってた」
「ふぅん。この辺じゃ珍しくもねえけどな」
「けど、そんなに使われてるなら、あっちで栽培されてるんじゃねえのか?」
「そうなんだけど、確か寒い所のものほど質がいいって聞いた事ある……昔に比べて効きが弱くなったって愚痴ってる人もいたし」
「どうなんだベル?」
「なんで俺に聞くんだ……まあ、確かにそういう話はあるな。ここらの山にも自生してるし、そういう環境のものの方が薬効が高いのかも知れん」
「成る程……だが、それなら苗木の心配も要らねえし、手っ取り早いな」
「いきなり大規模なのは無理だが、少し試してみるか。土地や気候には合う筈だしな」
「そうだな。それに薬ならあって困る事もねえ」
すっかり盛り上がり出した農夫たちを見て、アンジェリンが囁いた。
「いいアイデア……?」
「ああ。よく思い付いたなあ、大したもんだ」
「えへへ……」
アンジェリンは嬉しそうにベルグリフの肩に頭を擦りつけた。その頭にミトがぽんと手を置いて、よしよしと撫で回した。そうしてベルグリフの真似をするように言った。
「たいしたもんだ」
たちまち笑い声が巻き起こり、アンジェリンは頰を染めて口を尖らした。
○
湿った空気が暗闇の底にじっとりと溜まっていた。そのせいか、まるで暗闇自体が質量を持ったように重苦しく感ぜられるようだった。
幾年月を重ねた古い木々がそこここに立ち並び、濃い色の葉を茂らせた枝を天井のように頭上にかぶせて、陽の光を遮っている。光が届かない分、地面には植物の姿が希薄で、木の幹を上る細い蔦や、枝から垂れ下がる
黒々とした土を踏んで、誰かが歩いて来た。背格好からして男のようだったが、ローブについたフードを目深にかぶっているから顔が分からない。真っ白なローブは、この暗闇の中では薄ぼんやりと浮かび上がるようだった。
人の通る道はおろか、獣道すらも見分けられないような状態だったが、男は迷いのない足取りで歩を進めた。男が脇を通り過ぎる時に、木々がざわざわと枝を鳴らした。歓迎の意というよりは、立ち去れと警告しているような響きだった。
男はやがて森の奥深くへとたどり着いた。そこには、それまでに屹立していた樹木群よりもさらに古い木々が、死んだように立ち並んでいた。樹皮は乾いて堅く、あちこちにあるコブが、木々の頑なな性質を表しているようだった。
──オオ……
奇妙なうめき声のようなものが聞こえた。死んだようだった木々が息を吹き返したかのように枝葉を揺らした。目もないのに、幾多の視線が男を刺し貫いた。
しかし白い衣の男は平然とし、むしろ木々を見下しているかのようにふんと鼻を鳴らした。そうして手をかざし、小さく、しかしはっきりとした声で詠唱を始めた。詠唱が進む程に男の周囲で魔力渦を巻いて風を起こし、青白い光が木々のごつごつした肌を照らした。しかしその光と対照的に、木々の肌の隙間から黒々とした影が滲み出て、辺りに漂い出した。
「解放されたいか。ならば奪え。北を目指せ」
──オォオオォォォオォオ
古木たちは呻くような雄叫びを上げた。木々からにじみ出た影が、その一群をすっかり取り巻いていた。強烈な悪意と攻撃性が、瞬く間に森の木々に伝染して行くようだった。憎き仇敵を討ち果たさんと出撃する騎士の如く──ではない。それは獲物を前に欲望をたぎらせる悪党の集団の如きであった。
あちこちの木々から影が吹き出し、次第に影は密度を増して行った。白いローブの男は腕組みしながらその様子を眺め、面白くもなさそうに呟いた。
「さて、どう流れるか」
生臭く鼻をつく風が吹いた。