殺菌消毒は回転し、鉄斧おののような横薙なぎの蹴けりを放つ。

「──私があなたを殺すけど」

 グリコの右腕がスプーンごと破壊された。血が舞い、骨が散り、それでもグリコは止まらずに──。

 肉人形の親友の横、自暴自棄になって攻めた。


  


 ──びき。

 肉が、千切れるような音がした。

 ──びきびき。

「────」

 あ。

 あ、駄目だ。抑えきれない。憎悪に我を忘れたグリコに残された最後の理性その一欠片ひとかけらが、儚はかなく残った自分の人間性へ縋すがりつくようして訴える。駄目だ。その力は駄目。

 目の前に、暗くて冷たい道がある。

 二つに分かれて二度と交わらない、きっぱりと分かれた道がある。

 そのとき──眼がん球きゆう抉えぐり子この目前には。

 人間として生きるのか。化け物として生きるのか。

 狼おおかみの目をした男から告げられた、無慈悲な選択肢しか見えていなかった。

「あ。あ──あ」

 そして眼球抉子は、一つの道を選ばなければ、目の前の──友を殺した存在には勝てないと本能的に理解する。跳躍し、そんなグリコに何か不穏を感じたか距離をとる殺菌消毒──彼女の前、グリコはあっさりと決断する。

 首を切り落とすような感覚。

 それしか方法がないのなら。迷わず化け物にでもなろう。どうせ──すでに決断したことだ。その選択肢は逃避なのかもしれないけど。

 化け物として生きる。

 目の前の敵を倒せる化け物に。

 本当に本当の──それが、最後の選択。

 ──びきびき。

 歓喜するように──肉が笑い、背中が裂け、真紅の糸が解き放たれる。それはグリコの薄皮一枚の下で猛たけり暴れていた魔物。一ヶ月前、ヘビを圧倒した化け物。熟しすぎた強力な林りん檎ごがあったからこその変身だと思ったが、どうやらそうではないらしい。

 変わっていたのは、きっと魂とか林檎ではなく。

 この身体。もう──自分は、人間の身体ではなかった。

 ならばもとより人間として、生きていけるわけがなかったのだ。

 それでも寂しくて鈴りん音ねと賢さか木きのそばに二ヶ月も居座ってしまった。もういいだろう──眼球を抉えぐる化け物は、化け物として生き、化け物として死ねばいい。

 全すべてのけじめをつけてから、自分は再び化け物に戻る。

 不幸になるのは、自分だけでいいのだ。

「──あら。何それ」

 殺菌消毒の余裕げに浮かべていた微笑が消えていて、その双そう眸ぼうは大きく見開かれている。その正面、すでにグリコは変わりかけている。肢体が伸び、髪は真紅の光をまとって背中を流れ、甲殻類のような肌にはすでに人間らしさはない。そして背中から生える──血の色をした長い糸。糸は絡まり、縫い合わされ、禍まが々まがしい真紅の翼を形成する。

「────」

 賢木が何かを叫んでいるが、もう、聞こえない。

 不思議に心は穏やかで、恐怖も愉快も絶望もない。

 殺菌消毒は身構えて、スプレー缶をこちらに向ける。

「知らないわ──知らないわ。何それ。ただの人間が──否いな、あなたはいったいどれだけ長く林りん檎ごを保持していた? 何百年? 何千年? 強大な力を持ちつづけることで肉体がそれを受けいれられるよう成長を──否々、それは進化! 面白いわ! もうすでに、あなたは、人間ではなく──私たちと同じような」

「黙れ」

 声はすでにグリコのものではない。

 それでもグリコは賢木と鈴音を守るように両手を広げ。

「化け物が語るな。人間のように。人間どもが勘違いする。化け物は、化け物として、世界の外で殺しあうのがいい。そういう生き物だ。グリコもおまえも。だから──もう言葉は要らない。いい加減に耳障りだ」

「…………」

 フシュー、と吐息を漏らし、殺菌消毒は真剣にこちらを見る。

 ──シャカシャカシャカシャカシャカ。

「そうね──あなたが、何を決めたのか、何を捨てたのか──そのおかげで何を得たのか、見せて頂ちよう戴だい──あなたは、あるいは私が探し求めた」

「喋しやべるな」

 短く告げて、肉織りの翼をはためかせて走る。身体は嘘うそのように身軽で、全身に力が溢あふれている。腕を思いっきり引いて──ただ、叩たたきつける。

「────」

 それだけで。

 殺菌消毒の華きや奢しやな体たい躯くは激しく吹っ飛んで、病院の壁を貫通すると空中に放ほうりだされた。外は夜。星空で、血や得体の知れない体液を振りまきながら彼女は落下していく。

「──賢さか木き」

 グリコは怖くて鈴りん音ねも、賢木も見ることができなかった。

「鈴音を頼む。グリコは──否いな、ごめんなさい」

 言葉がでずに謝って、賢木が叫ぶのも無視し、グリコは痛みから逃げて戦場へと向かう。鈴音を守れなかったのは自分。鈴音を肉人形へと変えてしまったのは自分。その責任が怖くて、賢木の気持ちを思うと居たたまれなくて、逃げてしまった。

 怖い。

 怖い──人間の世界は怖い。

 暗くら闇やみで、独りぼっちで、生きていたほうがずっといい。そこには何もないけれど、苦しくないから。何も考えなければいいだけだから。

 だから。

 ごめんなさい。鈴音。賢木。

 ──せめてこいつは倒すから。

 天使のように舞い降りて、悪魔のように攻めていく。

 病院の外。入院患者たちが散歩をするための緑道。花壇には夜だから閉じている蕾つぼみ。静かで、木々はただ暗闇を濃くする闇の棒で、月と星明かりが照らしあげたこの場所は、なんだか酷ひどく寂しげだった。

《固定霧ジャックジュエル》で自身の身体を固定し、落下速度を消し去る殺菌消毒。《固定霧ジャックジュエル》は彼女の意志で解除できるらしく、柔らかな動作で大地に立つ。

 その腹部は抉えぐれていた。

 野球ボールくらいの大きさだが、肉が抉れ、背景がそこから見えている。彼女は呻うめき──よろめいて、何な故ぜだか小さく笑い声をあげている。

「く──くく」

 その弱々しい姿に、何故だかかつてない威圧感をおぼえ、変わり果てたグリコは急停止すると咄とつ嗟さに身構えた。

「そうね──私は運が良い。この破壊力。どれだけの死に触れてきたのかしら? どれだけの悲鳴を浴びてきたのかしら。綺き麗れい──。あなたは綺麗よ、眼がん球きゆう抉えぐり子こ。その身体は──、その魂は、すでに私たちと同格。あなたなら、消えた大きな欠片かけらの代わりになってくれるかもしれない」

 獰どう猛もうに顔を上げ、二つのスプレーを構える。

 そうして──かつて人類を滅ぼしかけた化け物は。

「ねぇ──頂ちよう戴だい。あなたの全すべてを私に頂戴。還かえりたい。戻りたい。身体の奥が叫ぶのよ──私は、私に還る。欠片を全て拾い集めて、完かん璧ぺきな完全体に──」

 スプレー缶の蓋ふたをあっさりと取り外し、防ぼう塵じんマスクもかなぐり捨てて、中身を躊躇ためらうことなく飲み干した。全てを消滅させる霧と全てを固定する霧は、殺菌消毒の内側で混ざり、新たな形を形成する。

「このスプレー缶の中身は、私の魂の欠片かけら。喰くらい尽くす獰どう猛もうな欠片と、固めて縛る陰湿な欠片。それらは微生物のように対象へと群がって、命じられた仕事を全うする」

 瞬間、確かに震えるものがあった。無敵の身体を手にいれたグリコが、ふらつきながら立っている彼女に近づくことができない。

「私は私を穢けがさない。だから飲んでも大丈夫。全すべての魂は集合し──本当の力で戦える。そうね──TYPE-C《終末ジャッジメント》とでも名づけようかしら。最後の審判のために残された切り札を、あなたに全力でぶつけてあげる。眼がん球きゆう抉えぐり子こ──」

 そして彼女の姿が拡散する。

「────」

 拡散。不気味な女性でしかなかった殺菌消毒の身体が、吸血鬼のように霧へと変化し、蜂はち蜜みつの声で語りながらこちらに向かってくる。

 ──速い。

「あなたは夜が好きかしら? 闇やみの時間を愛せるかしら? 私は夜を愛している。全ての塵ご芥みを漆黒で隠し、消し去ってしまうこの完かん璧ぺきな時間がね。そうね──だから人間は嫌いだわ。せっかくの夜を光で汚して。私が私に戻ったら、真っ先に皆殺しにしてあげる。今度はノアすら逃がさない。一人残らず猫のように狡こう猾かつに狩り殺してあげる」

 人類を──皆殺しに。

 獰猛な本能に支配されたグリコの脳裏に、浮かんでくる大切なひとたちの顔があった。賢さか木き。鈴りん音ね。火ひ乃の。樹き夫お。一人として守れなかったけど。誰だれも幸せにできなかったけど。

 彼らにもらった恩があった。

 思考に埋没していると、獣のごとく襲いかかってきた霧がグリコの右肩から先を残らず消し飛ばす。痛みもない。感触もない。ただの消滅。

 ──喰われた。

 直感的に思う。跳びのき、グリコは血すらでない肩口を押さえて歯は噛がみする。

 霧は再び空中で殺菌消毒の形を作り、不気味に浮かんだまま愉たのしそうな声で語る。

「そう──私はただの消化器官。戦闘は別に得意なほうじゃないの。私はね、喰らったものを自分の力として取りこんで、延々と増殖していく生きた胃液。どうかしら? 理解できた? 私をここで止めないと──際限なく広がって世界を破壊するわよ」

 それはノアの洪水伝説。聖書に克明に記録された、黒々とした生き物のような洪水は、やがて世界を飲みこんで、あらゆる生物を殺さつ戮りくし、文明を跡形もなく消滅させてしまう。

 夜のように無差別に、世界を虚無で満たしてしまう。

 消えた右腕は再生しない。完全に喰われてしまったらしい。今さら腕など惜しくはないが──確かにこれは厄介だ。殴ればこちらの腕が消される。無敵の矛であり盾でもある能力。

 これが殺菌消毒──。

 七つの大きな欠片とやらを、七つの大罪に例えるならば、彼女はきっと『貪どん食しよく』だった。全てを喰くらい尽くしてもまだ満ち足りぬ消化器官。

「……足あ掻がきなさい。虫けら。ぼんやりしてると踏み潰つぶすわよ」

 勝機はない。思いつかない。けれど退ひくわけにはいかなかった。鈴りん音ねを殺し、火ひ乃のを殺し、大切なものを喰らっていった殺菌消毒。彼女を逃がすわけにはいかない。

 それに、化け物の身体が、戦いたいと訴えていた。

 その叫びに応え、グリコは大きく翼を震わせる。

 この身体で何ができるのかわからない。実際、この姿になるのは四回目だ。一回目と二回目は共に旅をしていた仲間たちから林りん檎ごをもらったとき。年月を経て獰どう猛もうに成長していた林檎を受けいれて、耐えきれずに力が暴走した。三回目は一ヶ月前、ヘビとの戦いだ。

 どのときも化け物に変わったのは短い時間で、具体的に何ができるのかよくわからない。それでもやるしかなかった。唯一──理解している。

 自分の身体は爆風だ。

 ならば存分に爆はぜればいい。

 剣のように鋭くこちらを斬きりつけてくる貪どん食しよくの霧を、間一髪で避けて──グリコは翼を激しく羽ばたかせた。

 瞬間、その両翼から濃密な爆風が放出される。

「う──?」

 殺菌消毒は吹き飛んで、一時的に空中へと散華する。大した威力だ。けれど──やはり風では彼女を殺せない。ただ吹き飛ばしてしまうだけだ。グリコは何度か無意味に羽ばたいて、風を操る術すべを理解していく。

 今のところ、とりあえず、殺菌消毒に通用する攻撃はこれだけだ。他に何ができるかもわからない。考える。彼女を討ち滅ぼすその方法を。

「なるほどね──けれど、穴だらけの戦法じゃない」

 余裕げな殺菌消毒の声。そして再び攻撃がくる。

 撃墜しようと真紅の翼を後方に翻したグリコは見た。

 霧が──分裂している。その数は視認できただけで四つ。翼を振るって吹き飛ばすも、素早いその霧の全すべてを散らすには至らない。

 いくつか残った殺菌消毒の霧を飛び退のいてかわす。そして爆風を起こして夜空に散らす。けれど意味はない。霧を分散させても、相手には痛みもないし、相手の武器が増えるだけなのだ。

「どうしたの──。もう終わり? ならば──死になさい。心臓ごと欠片かけらの魂を、私が美お味いしく喰らってあげる。ふふ。愉たのしいわ。心が躍る。そうね──最初からそうしていれば良かった。あんな場所に欠片を保存せず、残らず私が喰らえば良かった。涙歌メロディアノイズも破局ポイズンも最弱アルティメットシールドも一人部屋も不快逆流も神じん蟲む天てん皇のうも、私が喰らってしまえば──」

 蜂はち蜜みつのような声は、酷ひどく淫いん靡びにつぶやいた。

「──完かん璧ぺきな存在になれるじゃない」

 その声を聞いて、グリコは寒気を覚えた。

 ただひたすらに、完かん璧ぺきな存在となることを望む消化器官。全すべてを溶かし、吸収してしまう彼女は確かにそのような存在になれるだろう。しかし、そうして完璧な存在になった彼女は、きっと孤独に漂うだろう。それが本望なのかもしれない。彼女も語っていたではないか──。

 昔、殺さい原ばら美み名なという女がいた。

 彼女は完璧な世界で、満足をして独り死んだ。

 再びくりかえすだけだ。きっと──殺原美名というのは、目の前のこの殺菌消毒。しかし、疑問に思う。殺原美名は死んだという。けれどこうして生きている。彼女は──最初から、七つの大きな欠片かけらではなく、その欠片を手にいれただけの、元は人間だったのではないか。

 今はもう化け物だが──とグリコはそんな益体のないことを考える。

 ならば自分と同じだなと、さらに意味のないことを考える。

 これから、グリコは彼女と同じ存在にまで堕落する。けれどせめて、賢さか木きや鈴りん音ねの生きるこの世界を壊してしまわないよう。

 殺菌消毒を見て、眼がん球きゆう抉えぐり子こは思っていた。

 何度目かの彼女が接近し、グリコが翼で吹き飛ばし、爆風をくぐり抜けた霧に身体を削られるという一方的な戦闘をくりかえし。

 満まん身しん創そう痍いのグリコは、この近づくだけで危険な戦場に歩み寄る影を知った。

 それは賢木と──肉人形。鈴音はどこかに残してきたのか。落下したグリコと殺菌消毒を追いかけて、こうして屋外まできたらしい。

 いけない、とグリコは思う。

 これは自分の戦いなのだ。これで──賢木まで巻きこまれて、鈴音や火ひ乃ののように殺されてしまったら、本当に救いようがない。鈴音に申し訳が立たない。

「あら──」

 再び一つに集合し、殺菌消毒は不機嫌そうに眉まゆをひそめた。

「──邪魔ね」

「グリコ」

 無視し、賢木は顔を背けるグリコに低く声をかけてくる。

「一ヶ月前に言いそびれたが、どんな姿でも、グリコはグリコだ。閣下の好きだったグリコだ。私の好きなグリコだ。離れるな。もう──これ以上、私から大切なもの失わせないでくれ」

「賢木」

 つぶやき──グリコは思わず涙ぐむ。化け物の身体になったのに、涙るい腺せんばかりが人間のよう。情けない──けれど嬉うれしい。賢木の言葉が殺意に塗りつぶされていた心に染みる。

 けれどグリコは首を振る。もう遅いのだ。もう決断してしまったのだ。自分の未来を二分割にする残酷な選択肢を。

「……お互い様だ間抜け。のこのこ何しにきた弱いくせに。おまえみたいな役立たずは遠くのほうで大人しくしているのが機能的に正しいんだ。あんまり目障りだとグリコが眼球えぐっちゃうぞ。本当に──やめてくれ。あぁ──」

 ぶつぶつと文句を言い、疲れたように夜空を仰ぎ、眼がん球きゆう抉えぐり子こは──泣きじゃくる。

「──優しくしないでくれ。温かい言葉をかけないでくれ。せめて嫌われていたら──こんな気持ちにはならなかったのに。また離れられなくなる。そうしてまた失ってしまう。何かを手にいれなければ、何かを失うこともないんだ。もう──グリコは、何かを失うのはたくさんだ……!」

「グリコ」

 静かに、声が響く。誰だれの声だろう──聞き覚えのある声。肩越しに見ると、肉人形が立っていた。グリコが倒してきた殺菌消毒の手下。否いな──思いあたる考えがある。それは嫌な、叫びだしたくなる嫌な思考。

 この声は。

「樹き夫お」

 まさか。まさか──と思う。

 まさか最初から。

 肉人形は、寂しげな顔で肯定した。

「理解した? グリコ──ごめん。偽いつ原わら火ひ乃のと偽いつ原わら樹き夫おは死んでいたんだ。正確には、グリコと初めて会った晩、二人で夜の散歩をしているときに殺菌消毒に遭遇し──殺されて、林りん檎ごを埋めつけられ、肉人形にされてしまった」

 全すべては、グリコの林檎を奪うため。機が熟したら今日のように火乃が倒れて、同情心に訴えてグリコから林檎を奪うつもりだったのだろう。あるいは、グリコが眠っている隙すきに心臓を奪うとか。たしかに効果的な作戦なのだ──。

 けれど、信じられない。信じたくない。

 彼らの愛情が全て演技だったというのか。全てが嘘うそだったというのか。殺菌消毒に命じられ、グリコの心を得るために創つくられた仮かり初そめの愛情だったというのか。なんだそれは。冗談が過ぎる。

 樹夫は──否、樹夫だった肉人形は、申し訳なさそうに項うな垂だれた。

「後は殺菌消毒の命令に従って、僕は会社で働いているようなふりをして、火乃は家事をするようなふりをしていた。親のようなふりをしていた。けれど──信じて。僕たちは、グリコのことが本当に愛いとしかった。それは命令されたことにより生まれた偽りの感情かも知れないけれど──」

「…………」

 グリコは首を振り、そっと奥歯を噛かみしめた。

 そうだ──火乃はどうして死んだのだったか。最後の最後でグリコを裏切れず、殺菌消毒の命令に逆らって──グリコを守って死んだのだ。

 思い、にやにやと笑う殺菌消毒を睨にらみつけて言う。

「父さん」

 確かめるように、グリコは短くつぶやいた。

「父さんがいて。母さんがいて。学校に行けば鈴りん音ねがいて。賢さか木きの授業を受けて、下らないことを喋しやべったり。そんな生活はもう二度とないけれど、好きだった。父さん──」

 そして左手を挙げ、彼らを守るように立つ。

「──あなたの娘でいられて、ちょっとは幸せだったから」

 相手が肉人形だろうが、そんなことは構わない。どうせ自分も化け物だ。それを隠してそばにいた。お互い様なのだ。今さら──裏切られたとか、哀かなしいだとかいう気持ちにはならない。それに何度も魂を奪う機会はあったはずなのに、彼らは自分を殺すことができなかった。

「……あら残念。怒りにかられたあなたがその人形を殺すかと思ったのに」

 傍観していた殺菌消毒が、つまらなそうに眼を細めた。

 そして瞬間的に拡散する。全すべてを喰くらう霧へと変わる。

「では──安い茶番劇は終わりにして頂ちよう戴だい。そうね──そんなに仲が良いのなら、三人まとめて喰らってあげる。私の中で混ざりなさい──永遠にね」

 グリコが身構える。賢木も銃を振りあげた。

 肉人形は唯一──何かを考えるように沈黙し。

 信じられないことに。

「グリコ」

 ずるり。り──と、自ら胸部に腕を突っこみ、その心臓を抉えぐりだした。グリコは驚きよう愕がくに目を見開く。何を──。そんなことをしたら。そんなことをしてしまったら。

「この欠片かけらを使うんだ。少しでも彼女を倒す力になるように」

「樹き夫お……! この馬ば鹿か!」

 叫ぶうちにも樹夫は揺れて、原形を保っていられなくなる。ほとんど傷のない死体だった鈴音とは違い、彼は潰つぶされ刻まれた肉から生まれた肉人形だったらしい。林りん檎ごがなければ崩れるだけだ。だから──。

「樹夫! 早まるな! 林檎を戻せ!」

「駄目だよ。グリコ」

 もはや掠かすれきって聞き取りづらい声。その声は──間違いなく樹夫のものだった。馬鹿で、無邪気で、陽気で、本当に頭悪いと思ってた。あのお人ひと好よしの父の。

 化け物の身体でも涙は流れるようだ。グリコは泣きながら、崩れる樹夫を抱き寄せる。渡された彼の心臓を戻そうとするが、どうしたらいいかわからない。食べさせようにも口がないし、胸部に当てても戻らない。

「僕は──殺菌消毒の肉人形。いつ我を失って、グリコを襲うかわからない。消えたほうがいい──。死体は死体に、戻らなくては。火ひ乃のさんのところに──僕も」

 その言葉を最後に、運命を弄もてあそばれた──偽いつ原わら樹き夫おという男は完全に崩れた。

「あ……」

 彼の心臓を握ったまま、グリコは棒立ちになってしまう。また、死んでしまった。守れずに、死なせてしまった。だから──だから嫌なのだ生きているのは。みんな死んだ。死んでしまった。自分がみんなを不幸にする。みんなみんな不幸にしてしまう。

「──次はその男よ」

 耳元で聞こえる冷徹な声。

 賢さか木き。

「あああ!」

 グリコは高く咆ほう哮こうし、樹夫の心臓に齧かじりついた。血の味。父の心臓の味。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。咀嚼そしやくし、嚥えん下かし、吸収する。

 瞬間──力が溢あふれかえる。

 二つ目の林りん檎ごを手にいれて、この姿を保つために大量に消費されていた魂が復活する。復活し強化される。口元を血で汚し、堕天使のようなグリコは。

 賢木を咄とつ嗟さに抱きかかえ跳び、霧の通過をやりすごす。樹夫の林檎も長くは保もたない。考えなくてはならない。殺菌消毒を殺す方法。もう──他の何もいらない。彼女を殺せればそれでいい。鈴りん音ね、火乃、樹夫──。

 背中の爆風で霧を散らし、グリコは彼女から距離をとる。

 背が伸びたので賢木とグリコはほとんど背丈が変わらない。抱きかかえるのも苦ではない。そんな自分の腕の中、賢木は静かに告げてくる。

「グリコ。私の話を聞け」

 それは知っている。学校で、重要なことを語るときの真剣な声。反射的に耳をそばだてる。賢木は──当たり前のように言う。

「拡散していて攻撃を当てられないならば、元に戻してやればいいだろう。グリコ──貴様は本当に頭が悪い。そのような強大な力を持ちながら、その使い方といったら馬ば鹿かそのものだ。零点。本当に貴様はこの賢さか木き愚ぐ龍りゆうの生徒なのか?」

「う──」

 グリコは息を呑のみ、しかしその言葉に天啓を得る。

 そうだ。簡単なこと。殺菌消毒を倒すなど──本当に簡単なことだった。

「──うるさいな。先生は、黙って生徒が勝つのを見ていろ」

 ひとまず憎まれ口を叩たたいて、拡散しつづける殺菌消毒を仰ぐ。

「もう終わり? 策は尽きた? 抵抗できない? 絶望をした? 顔を見せて? 歪ゆがんだ顔を! 敗北感に歪んだ顔を──殺菌消毒に見せなさい!」

「歪んだ顔を見せるのは」

 グリコは賢木を抱きしめたまま、真紅の翼を激しく振った。周囲の植木が次々と折れ、緑道が爆風に嬲なぶられて形を変える。風が──渦巻く。託された樹き夫おの林りん檎ごを、惜しまず使ってグリコは最後の攻撃にでる。

 荒くれる風は螺ら旋せんを描き、今まさに、こちらを喰くらい尽くそうとした貪どん食しよくの霧の周囲に渦巻く。無音。一瞬だけの無音状態。空気が停止し、竜巻が生まれ、瞬間──。

「──おまえだ! 殺菌消毒!」

 グリコの翼が器用に動き、その刹せつ那なのみ周囲の空気を支配して──林檎の力が伝染していき、爆風は凝縮され中央へと向かう。

「────ッ!?」

 グリコの目的に気づいたか、彼女は声なき声をあげる。しかし遅い。もう捕らえた。風で吹き飛ばされるということは、彼女は風に押されるということだ。ならば、全方位から空気を消す余裕もなく押してやればいい。気圧──濃縮。殺菌消毒の全すべてを取り囲んだ空気はひたすらに中央を圧迫し、拡散していた殺菌消毒を呆あつ気けなく凝縮させ──。

 そうだ、拡散しているなら、凝縮してやればいい。

 凝縮すれば細かい粒子も一つの大きな塊かたまりとなる。実際──風の圧力に押され押された殺菌消毒は、一瞬、元の姿に凝縮され──。

「しまっ──」

 気づいたときにはもう遅い。

「撃て! 賢さか木き!」