殺菌消毒は回転し、鉄
「──私があなたを殺すけど」
グリコの右腕がスプーンごと破壊された。血が舞い、骨が散り、それでもグリコは止まらずに──。
肉人形の親友の横、自暴自棄になって攻めた。

──びき。
肉が、千切れるような音がした。
──びきびき。
「────」
あ。
あ、駄目だ。抑えきれない。憎悪に我を忘れたグリコに残された最後の理性その
目の前に、暗くて冷たい道がある。
二つに分かれて二度と交わらない、きっぱりと分かれた道がある。
そのとき──
人間として生きるのか。化け物として生きるのか。
「あ。あ──あ」
そして眼球抉子は、一つの道を選ばなければ、目の前の──友を殺した存在には勝てないと本能的に理解する。跳躍し、そんなグリコに何か不穏を感じたか距離をとる殺菌消毒──彼女の前、グリコはあっさりと決断する。
首を切り落とすような感覚。
それしか方法がないのなら。迷わず化け物にでもなろう。どうせ──すでに決断したことだ。その選択肢は逃避なのかもしれないけど。
化け物として生きる。
目の前の敵を倒せる化け物に。
本当に本当の──それが、最後の選択。
──びきびき。
歓喜するように──肉が笑い、背中が裂け、真紅の糸が解き放たれる。それはグリコの薄皮一枚の下で
変わっていたのは、きっと魂とか林檎ではなく。
この身体。もう──自分は、人間の身体ではなかった。
ならばもとより人間として、生きていけるわけがなかったのだ。
それでも寂しくて
不幸になるのは、自分だけでいいのだ。
「──あら。何それ」
殺菌消毒の余裕げに浮かべていた微笑が消えていて、その
「────」
賢木が何かを叫んでいるが、もう、聞こえない。
不思議に心は穏やかで、恐怖も愉快も絶望もない。
殺菌消毒は身構えて、スプレー缶をこちらに向ける。
「知らないわ──知らないわ。何それ。ただの人間が──
「黙れ」
声はすでにグリコのものではない。
それでもグリコは賢木と鈴音を守るように両手を広げ。
「化け物が語るな。人間のように。人間どもが勘違いする。化け物は、化け物として、世界の外で殺しあうのがいい。そういう生き物だ。グリコもおまえも。だから──もう言葉は要らない。いい加減に耳障りだ」
「…………」
フシュー、と吐息を漏らし、殺菌消毒は真剣にこちらを見る。
──シャカシャカシャカシャカシャカ。
「そうね──あなたが、何を決めたのか、何を捨てたのか──そのおかげで何を得たのか、見せて
「
短く告げて、肉織りの翼をはためかせて走る。身体は
「────」
それだけで。
殺菌消毒の
「──
グリコは怖くて
「鈴音を頼む。グリコは──
言葉がでずに謝って、賢木が叫ぶのも無視し、グリコは痛みから逃げて戦場へと向かう。鈴音を守れなかったのは自分。鈴音を肉人形へと変えてしまったのは自分。その責任が怖くて、賢木の気持ちを思うと居たたまれなくて、逃げてしまった。
怖い。
怖い──人間の世界は怖い。
だから。
ごめんなさい。鈴音。賢木。
──せめてこいつは倒すから。
天使のように舞い降りて、悪魔のように攻めていく。
病院の外。入院患者たちが散歩をするための緑道。花壇には夜だから閉じている
《
その腹部は
野球ボールくらいの大きさだが、肉が抉れ、背景がそこから見えている。彼女は
「く──くく」
その弱々しい姿に、何故だかかつてない威圧感をおぼえ、変わり果てたグリコは急停止すると
「そうね──私は運が良い。この破壊力。どれだけの死に触れてきたのかしら? どれだけの悲鳴を浴びてきたのかしら。
そうして──かつて人類を滅ぼしかけた化け物は。
「ねぇ──
スプレー缶の
「このスプレー缶の中身は、私の魂の
瞬間、確かに震えるものがあった。無敵の身体を手にいれたグリコが、ふらつきながら立っている彼女に近づくことができない。
「私は私を
そして彼女の姿が拡散する。
「────」
拡散。不気味な女性でしかなかった殺菌消毒の身体が、吸血鬼のように霧へと変化し、
──速い。
「あなたは夜が好きかしら?
人類を──皆殺しに。
獰猛な本能に支配されたグリコの脳裏に、浮かんでくる大切なひとたちの顔があった。
彼らにもらった恩があった。
思考に埋没していると、獣のごとく襲いかかってきた霧がグリコの右肩から先を残らず消し飛ばす。痛みもない。感触もない。ただの消滅。
──喰われた。
直感的に思う。跳びのき、グリコは血すらでない肩口を押さえて
霧は再び空中で殺菌消毒の形を作り、不気味に浮かんだまま
「そう──私はただの消化器官。戦闘は別に得意なほうじゃないの。私はね、喰らったものを自分の力として取りこんで、延々と増殖していく生きた胃液。どうかしら? 理解できた? 私をここで止めないと──際限なく広がって世界を破壊するわよ」
それはノアの洪水伝説。聖書に克明に記録された、黒々とした生き物のような洪水は、やがて世界を飲みこんで、あらゆる生物を
夜のように無差別に、世界を虚無で満たしてしまう。
消えた右腕は再生しない。完全に喰われてしまったらしい。今さら腕など惜しくはないが──確かにこれは厄介だ。殴ればこちらの腕が消される。無敵の矛であり盾でもある能力。
これが殺菌消毒──。
七つの大きな欠片とやらを、七つの大罪に例えるならば、彼女はきっと『
「……
勝機はない。思いつかない。けれど
それに、化け物の身体が、戦いたいと訴えていた。
その叫びに応え、グリコは大きく翼を震わせる。
この身体で何ができるのかわからない。実際、この姿になるのは四回目だ。一回目と二回目は共に旅をしていた仲間たちから
どのときも化け物に変わったのは短い時間で、具体的に何ができるのかよくわからない。それでもやるしかなかった。唯一──理解している。
自分の身体は爆風だ。
ならば存分に
剣のように鋭くこちらを
瞬間、その両翼から濃密な爆風が放出される。
「う──?」
殺菌消毒は吹き飛んで、一時的に空中へと散華する。大した威力だ。けれど──やはり風では彼女を殺せない。ただ吹き飛ばしてしまうだけだ。グリコは何度か無意味に羽ばたいて、風を操る
今のところ、とりあえず、殺菌消毒に通用する攻撃はこれだけだ。他に何ができるかもわからない。考える。彼女を討ち滅ぼすその方法を。
「なるほどね──けれど、穴だらけの戦法じゃない」
余裕げな殺菌消毒の声。そして再び攻撃がくる。
撃墜しようと真紅の翼を後方に翻したグリコは見た。
霧が──分裂している。その数は視認できただけで四つ。翼を振るって吹き飛ばすも、素早いその霧の
いくつか残った殺菌消毒の霧を飛び
「どうしたの──。もう終わり? ならば──死になさい。心臓ごと
「──
その声を聞いて、グリコは寒気を覚えた。
ただひたすらに、
昔、
彼女は完璧な世界で、満足をして独り死んだ。
再びくりかえすだけだ。きっと──殺原美名というのは、目の前のこの殺菌消毒。しかし、疑問に思う。殺原美名は死んだという。けれどこうして生きている。彼女は──最初から、七つの大きな
今はもう化け物だが──とグリコはそんな益体のないことを考える。
ならば自分と同じだなと、さらに意味のないことを考える。
これから、グリコは彼女と同じ存在にまで堕落する。けれどせめて、
殺菌消毒を見て、
何度目かの彼女が接近し、グリコが翼で吹き飛ばし、爆風をくぐり抜けた霧に身体を削られるという一方的な戦闘をくりかえし。
それは賢木と──肉人形。鈴音はどこかに残してきたのか。落下したグリコと殺菌消毒を追いかけて、こうして屋外まできたらしい。
いけない、とグリコは思う。
これは自分の戦いなのだ。これで──賢木まで巻きこまれて、鈴音や
「あら──」
再び一つに集合し、殺菌消毒は不機嫌そうに
「──邪魔ね」
「グリコ」
無視し、賢木は顔を背けるグリコに低く声をかけてくる。
「一ヶ月前に言いそびれたが、どんな姿でも、グリコはグリコだ。閣下の好きだったグリコだ。私の好きなグリコだ。離れるな。もう──これ以上、私から大切なもの失わせないでくれ」
「賢木」
つぶやき──グリコは思わず涙ぐむ。化け物の身体になったのに、
けれどグリコは首を振る。もう遅いのだ。もう決断してしまったのだ。自分の未来を二分割にする残酷な選択肢を。
「……お互い様だ間抜け。のこのこ何しにきた弱いくせに。おまえみたいな役立たずは遠くのほうで大人しくしているのが機能的に正しいんだ。あんまり目障りだとグリコが眼球えぐっちゃうぞ。本当に──やめてくれ。あぁ──」
ぶつぶつと文句を言い、疲れたように夜空を仰ぎ、
「──優しくしないでくれ。温かい言葉をかけないでくれ。せめて嫌われていたら──こんな気持ちにはならなかったのに。また離れられなくなる。そうしてまた失ってしまう。何かを手にいれなければ、何かを失うこともないんだ。もう──グリコは、何かを失うのはたくさんだ……!」
「グリコ」
静かに、声が響く。
この声は。
「
まさか。まさか──と思う。
まさか最初から。
肉人形は、寂しげな顔で肯定した。
「理解した? グリコ──ごめん。
けれど、信じられない。信じたくない。
彼らの愛情が全て演技だったというのか。全てが
樹夫は──否、樹夫だった肉人形は、申し訳なさそうに
「後は殺菌消毒の命令に従って、僕は会社で働いているようなふりをして、火乃は家事をするようなふりをしていた。親のようなふりをしていた。けれど──信じて。僕たちは、グリコのことが本当に
「…………」
グリコは首を振り、そっと奥歯を
そうだ──火乃はどうして死んだのだったか。最後の最後でグリコを裏切れず、殺菌消毒の命令に逆らって──グリコを守って死んだのだ。
思い、にやにやと笑う殺菌消毒を
「父さん」
確かめるように、グリコは短くつぶやいた。
「父さんがいて。母さんがいて。学校に行けば
そして左手を挙げ、彼らを守るように立つ。
「──あなたの娘でいられて、ちょっとは幸せだったから」
相手が肉人形だろうが、そんなことは構わない。どうせ自分も化け物だ。それを隠してそばにいた。お互い様なのだ。今さら──裏切られたとか、
「……あら残念。怒りにかられたあなたがその人形を殺すかと思ったのに」
傍観していた殺菌消毒が、つまらなそうに眼を細めた。
そして瞬間的に拡散する。
「では──安い茶番劇は終わりにして
グリコが身構える。賢木も銃を振りあげた。
肉人形は唯一──何かを考えるように沈黙し。
信じられないことに。
「グリコ」
ずるり。り──と、自ら胸部に腕を突っこみ、その心臓を
「この
「
叫ぶうちにも樹夫は揺れて、原形を保っていられなくなる。ほとんど傷のない死体だった鈴音とは違い、彼は
「樹夫! 早まるな! 林檎を戻せ!」
「駄目だよ。グリコ」
もはや
化け物の身体でも涙は流れるようだ。グリコは泣きながら、崩れる樹夫を抱き寄せる。渡された彼の心臓を戻そうとするが、どうしたらいいかわからない。食べさせようにも口がないし、胸部に当てても戻らない。
「僕は──殺菌消毒の肉人形。いつ我を失って、グリコを襲うかわからない。消えたほうがいい──。死体は死体に、戻らなくては。
その言葉を最後に、運命を
「あ……」
彼の心臓を握ったまま、グリコは棒立ちになってしまう。また、死んでしまった。守れずに、死なせてしまった。だから──だから嫌なのだ生きているのは。みんな死んだ。死んでしまった。自分がみんなを不幸にする。みんなみんな不幸にしてしまう。
「──次はその男よ」
耳元で聞こえる冷徹な声。
「あああ!」
グリコは高く
瞬間──力が
二つ目の
賢木を
背中の爆風で霧を散らし、グリコは彼女から距離をとる。
背が伸びたので賢木とグリコはほとんど背丈が変わらない。抱きかかえるのも苦ではない。そんな自分の腕の中、賢木は静かに告げてくる。
「グリコ。私の話を聞け」
それは知っている。学校で、重要なことを語るときの真剣な声。反射的に耳をそばだてる。賢木は──当たり前のように言う。
「拡散していて攻撃を当てられないならば、元に戻してやればいいだろう。グリコ──貴様は本当に頭が悪い。そのような強大な力を持ちながら、その使い方といったら
「う──」
グリコは息を
そうだ。簡単なこと。殺菌消毒を倒すなど──本当に簡単なことだった。
「──うるさいな。先生は、黙って生徒が勝つのを見ていろ」
ひとまず憎まれ口を
「もう終わり? 策は尽きた? 抵抗できない? 絶望をした? 顔を見せて?
「歪んだ顔を見せるのは」
グリコは賢木を抱きしめたまま、真紅の翼を激しく振った。周囲の植木が次々と折れ、緑道が爆風に
荒くれる風は
「──おまえだ! 殺菌消毒!」
グリコの翼が器用に動き、その
「────ッ!?」
グリコの目的に気づいたか、彼女は声なき声をあげる。しかし遅い。もう捕らえた。風で吹き飛ばされるということは、彼女は風に押されるということだ。ならば、全方位から空気を消す余裕もなく押してやればいい。気圧──濃縮。殺菌消毒の
そうだ、拡散しているなら、凝縮してやればいい。
凝縮すれば細かい粒子も一つの大きな
「しまっ──」
気づいたときにはもう遅い。
「撃て!