「その女は潔癖症で、自分の部屋に閉じこもって、徹底的に殺菌消毒、衛生ばかりを気にしていて──誰も部屋には立ちいれさせず、真っ白な空間で一人、ここは完かん璧ぺきな世界だと思いながら飢え死にした。愚かよね──けれど、その完璧な白、完璧な清潔、完璧に殺菌消毒されたその空間で死ねた女は幸せだったわ」

 それは──。誰だれのことなのだろう。

「誰も不幸にせず。誰にも迷惑をかけず。一人の部屋に閉じこもって死ぬ。あなたみたいに、不細工に迷って生きるより、綺き麗れいな白で死ぬのを望んだ──その女の名前はね、殺さい原ばら美み名なといったわ」

 一つの病室の前で立ち止まり、女はこちらに振り返って笑う。

「あなたは、下らない悩みごとに閉じこもり、そのくせちょろちょろ間抜けに外に出ては傷ついていく不細工なあなたは、もしも──そうした完かん璧ぺきと出会ったとして、果たして勝つことができるかしら? あらゆる意味で、殺原美名に勝てるかしら?」

 言いながら病室の中に進む、得体の知れない白衣の天使。彼女の後を慎重に進み、グリコはその病室に眠る火ひ乃のの姿を発見した。

 やつれている。

 そんなに長く離れていたわけではないのに。火乃が倒れ、救急車を呼んで、一緒に病院までついてきて鈴りん音ねのことを知った。火乃から離れていた時間は──三時間もなかっただろう。

 けれど彼女はこんなにも、死人の顔をしていた。

 眠る彼女の横に立ち、グリコは暗あん澹たんと表情を陰らせる。

 樹き夫おに、どう説明すればいいのだろう。

 見るかぎり、火乃は本当に死にかけている。命が滅びかけている。グリコにはそれがわかる。わかるから、歯がゆかった。

 わかっている。人間は死ぬ。人間だからいつか死ぬ。早いか遅いかの違いだ。

 また、自分の周りで、誰かの命が失われる。

 鈴音の顔が見えた。

 ──嫌だ、と思った。

「火乃」

 グリコは投げだされた火乃の手をとって、その手を自分の額に押しつける。冷たい。結局──彼女には、一度も愛情のようなものを返せなかった。

 血のつながりはなかったけれど、それでも愛してくれたのに、グリコは、どうすればいいかわからなくて、ただ怖くて拒絶して。

 結果がこれだ。

「火乃──」

 名前を呼ぶ。答えはない。当たり前だ。そういう道を選んだ。

 意地を張って、ただ怖がって、彼女たちを拒絶して。

 最後まで何もできないまま、自分は逃げようとしている。

「火乃。グリコは」

 彼女の手を握りしめたまま、グリコは呻うめくように囁ささやく。

「グリコは、ごめんなさい──あなたに優しさを返せなかった」

 怖くて。怖かったから。遠ざけて、傷つけて。

 思いだすのは、何気ない毎日。火ひ乃のや樹き夫おと暮らした、些さ細さいなことしかなかった日常。けれどそれはグリコが千年前に置き忘れてきた大切なものだし、グリコは──彼女らのおかげで少しは笑うことができていた。

 それは、本当の親、千年前に自分を拾った養い親がくれたものよりもずっと温かく。

 得難い宝のように、幸せな時間だった。

「母さん」

 つぶやき、グリコは無音で涙を零こぼす。

「母さん──」

 初めて言えたその単語は、儚はかなく散って心を刺した。

 火乃は死んじゃいけないと思う。不幸になるのはグリコだけでいい。グリコが死ぬべきだったのだ。千年間も生きちゃいけなかった。どうして自分は生きてきた。誰だれかを不幸にするだけなのに。こうして苦しむだけなのに。苦しめるだけなのに。

 ──ふと、思った。

「…………」

 沈黙し、グリコは火乃の手を握ったまま、眠る彼女の表情を見つめる。じっと。そして彼女の胸のあたりに手を伸ばす。一つの考えがあった。彼女が死なないで済む方法。そしてこの下らなく、苦痛を伴い進む自分の人生を終わらせる方法。

「……林りん檎ご、欲しい?」

 グリコは小さく、彼女の耳元でつぶやく。

 自分に残された、最後になった不死の林檎。それを火乃に与えれば、彼女は決して死なないだろう。これからも樹夫と一緒に、ずっと生きていけるかもしれない。後のことは賢さか木きに任せて、自分はもう消えてもいい──。

 千年間、生きてきた。

 もう──いいだろう。何も得ることはなかったけれど。もう──いいだろう。

 曖あい昧まいに諦あきらめて、心の奥で決断し、グリコは──その言葉を口にする。


「あなたに、グリコの林檎を──」


 火乃が跳ね起きた。

 ??

 ──え?

 バネ仕掛けの人形みたいに飛び起きた偽いつ原わら火ひ乃のは、全すべてを終わらす言葉を言いかけたグリコの肩を掴つかむと大声で叫んだ。

「駄目! これは罠わなよ!」

「────火乃?」

 グリコはわけがわからない。理解できない。ただ揺さぶられ、火ひ乃のが生きていることを確認する。林りん檎ごはまだ移っていない。それなのに火乃は生きている。どういうことだろう──見ると火乃は短く悲鳴をあげて。

 病室の暗がりに立つ、看護師を見た。

「そうね──」

 聞こえるのは、酷ひどく冷えた声。

 怯おびえる火乃の前方、静かに立っている彼女は。

「──嫌だわ、どうせ終わるなら綺き麗れいに終わらせてあげようと思ったのに。そう──あなたも不細工に邪魔するのね。私の言うことを聞かないのね。私の完かん璧ぺきを汚すのね。ならば──いいわ。違う完璧を構築すればいいだけだもの」

 その手に、いつの間にか握られていたスプレー缶を振る。

 ──シャカシャカシャカシャカシャカ。

「グリコちゃん逃げて!」

 信じられない力で火乃に突き飛ばされたグリコは見た。

「でもそれは反抗なのよね? 混じりっけのない反逆なのよね? 創造主に逆らった人形が──どうなるのかも想像できない?」

 唸うなりをあげて、看護師の周囲の空間が溶け始めている。否いな──彼女の身体から、湯気のように白いものが立ち上っている。溶けているのは看護師の服か。そして──彼女の気配を隠していた、薄い膜のようなものか。

 白衣の天使が一皮脱いで、白夢の悪魔が現れる。

 長い長い一本の三つ編み。天使の羽のタンクトップ。太ふと股ももで切りとられたショートパンツ。手首を彩る腕輪とリストバンド。口元を隠すのは、武骨な形の防ぼう塵じんマスク。

 純白の髪を華麗に舞わせ、奇妙な女は名乗りをあげる。

「愚かね──、間抜けね──、この世には、逆らってはいけない存在というものがいる。触れてはいけないものがいる。この私──殺菌消毒もその一つ。その逆げき鱗りんに触れたわね? いいわ──その愛情、その勇気、その無謀、その愚行」

 そしてスプレー缶を向け、悪魔のように笑うのだ。

「私が殺して潰つぶして消して滅ぼして無くしてあげるから」


  


 同刻──賢さか木き愚ぐ龍りゆうは驚きよう愕がくのなかにいた。

「………!」

 グリコを追って病室を飛びだし、見失ってしまい、手当たり次第に病室を覗のぞきこんで。

 変だとは思ったのだ。最初から、奇妙だとは思っていたのだ。

 音がしない。この病院では──一切の音が死んでいる。

 そして。

「うっ……」

 開け放たれ、冷たく暗い夜気を吸いこんでいる窓。白く清潔な四方の壁。明かりを灯ともさない暗い部屋に、簡素なベッドが置かれている。

 何の変哲もない、ごく普通の病室だった。

 そこに何気なく転がる子供の足首の他は。

「まさか……!」

 叫び、賢さか木きは他の病室へと移動する。まさか。まさかと思う──。何か、おぞましいことが進行している。賢木の予想もできない、巨大な悪意が蔓まん延えんしている。

 向かいの病室を見る。音はない。匂においもない。

 転がっている老人の生首。

「うわぁあ!」

 全身に寒気が走り、賢木は衝動に耐えかねて叫んだ。そこは相部屋で、三つのベッドが並んでいて、それぞれのベッドの上に──死んでしまった生首が置かれ。

 なんだこれは。

 なんだ──これは。

「……はっ。はっ」

 呼吸が荒い。心臓が暴れている。首を振り、賢木は病棟を抜けて中央の事務所へと向かう。なんだ。なんだこれは。みんな死んでいる。みんな死んでいる! 生き残っている人間はいないのか。探して──しかし見つからず。

 医者や看護師、事務職の人間がいるはずの事務所へと歩き。

 扉を開いて、賢木は絶望する。

 暗い。暗い部屋。

 手首。足首。生首。身体の一部のみを残し──。

 確かめるまでもない。

 自分たち以外の、全すべての人間が皆殺しにされていた。


  


 殺菌消毒が絶望を噴霧する。グリコが見たのは、何ら変わったところのないスプレー缶から噴きだした銀色の霧。ぞくっとして、しかし動けず、グリコは病室の床にへたりこんだまま体勢を立て直そうとして──。

 また火ひ乃のに突き飛ばされた。

 ごろごろ床を転がり病室の出口へ。

「火乃!」

「グリコちゃん──」

 一瞬、火ひ乃のと視線が交錯した。

「母さ──」

 言葉は届いたのか、届かなかったのか。

 気持ちは繋つながっていたのか。それともそれすら断ち切られたのか。

「────」

 火乃は、最後に声もなく口を開閉し、何かをグリコに伝えようとして──。


 その身体を容赦なく銀色の霧に消し飛ばされた。


「あ……?」

 散る──散らばる、火乃が残した身体の欠片かけら。冷酷な銀色の霧は容赦なくその欠片にも喰くらいつき──。

「あ……」

 消える。消えてしまう。

 火乃の全すべてが消えてしまう。あの笑顔も。グリコや樹き夫おと一緒にいたときの幸せそうな笑い声も。

「やめて消えないで」

 願った。意味はなかった。グリコは叫んだ。

 無情に悲鳴は延々と反響して──やがてそれすらも拡散し消滅し。

「…………」

 沈黙がおりた。グリコは全ての感情が欠落した顔で立ちすくむ。

 なんだ。なんだこれ。え? グリコは理解できない。理解したくもない。火乃がいた。そこに火乃がいた。最後まで変わらない顔で、お人ひと好よしな顔で、髪も服も乱れ、みっともないグリコのことを見ていた。

 そんな彼女が一瞬にして全存在を吹っ飛ばされた。

 残ったのは、火乃の右手。小さく、儚はかない、華きや奢しやな手首。

 銀色の霧が包んだ彼女の身体、そして巻きこまれた床の一部が、綺き麗れいな断面を残して抉えぐりとられている。空間を──抉った?

 なんだそれ。

 というか、火乃は──どこへ、行ってしまったのか。

「あら。失敗──、あるいは、次善の成功かしら」

 ──シャカシャカシャカシャカシャカ。

 スプレー缶を振りながら、殺菌消毒はこちらを向いた。不気味な、奥の知れない端正な顔。露出の多いその服装にただ恐怖のみを凝縮し──彼女は、首をかたりと曲げて冷淡に宣告する。

「偽いつ原わら火ひ乃のは──私が消し飛ばした。もう戻らないし、生き返らない。それが事実」

 グリコは震える。頭が痛い。あぁ──頭が痛い。痛みなど無くしたはずなのに。精神が痛い。魂が痛い。心が痛い。

 火ひ乃のが。

 火乃が、


 自分を守って死んでしまった。


「あ」

 グリコは口を開き、目を見開き、よろめきながら立ちあがって。

「あぁあ、おまえ! おまえ、よくも!」

 服のポケットからスプーンを抜き、笑みを浮かべる殺菌消毒に投げつける。手慣れた動作。必殺の動作。何度も何度も他者の命を奪ってきた、グリコの渾こん身しんの一撃。

「──下らない」

 動じず、殺菌消毒はスプレー缶を握らない右腕を旋回させる。

「────」

 その手に、投げつけたはずのスプーンが握られていた。

 ──受け止められた?

 まさか。そんなこと、この千年間で一度もなかった。

 驚きよう愕がくで凍るグリコの正面、殺菌消毒はにっこりと笑って。

「スプーン? こんな、武器とも呼べないただの食器で、殺菌消毒を相手にしようというのかしら? ねぇ──手加減というのは、格上が格下にするものよ。人間ごときが──天使や悪魔に、力を抜いて挑むのかしら?」

 瞬間。

 殺意をこめた銀ぎん閃せんが──グリコの右目に突き刺さる。

「───ァ」

 堪たまらず後ろ向きに倒れ、右目の激しい熱にグリコは呻うめく。手で確認すると、そこにはスプーンが突きたっていた。投げ返された。そんなことも初めてだ。見えなかった。戦力差は歴然としている。

「──ねぇ、眼がん球きゆう抉えぐり子こちゃん、自分が眼球を抉えぐられる気持ちはどうかしら?」

 愉たのしそうに笑い、殺菌消毒が歩み寄ってくる。いけない。勝てない。今は──こいつを打倒しうる戦術も戦力も思いつかない。

 身体が震える。なんだ──こいつは。

 それは、化け物すらも超越した、何か異質な存在だった。

「ねぇ──これで終わり? もう抵抗してくれないの? あれだけ私を不快にさせたのに、もう愉しませてはくれないのかしら? では──」

 床にへたりこむグリコの正面、曖あい昧まいな距離をとって彼女は笑った。

「──やる気をださせてあげる。宇佐川鈴音を殺したのは私よ」

「────」

「褒めるわね。珍しいのよ──私が、他人を心から褒めるのは。宇う佐さ川がわ鈴りん音ねさんはね、最後まで私に屈しなかった。どれだけ痛めつけても、どれだけ地獄を体感させても、あなたたちのことは──何一つとして喋しやべらなかった」

 こいつが。

 こいつが──鈴音を。

 グリコは、心が冷めていくのを感じた。鈴音を殺し。火ひ乃のを殺し。それでも平然としている彼女は、グリコにとって、命をかけても倒さなければならない相手だ。戦力差なんか知らない。相手の不気味な能力も気にならない。

 殺す/殺す/殺す/

 脳内が──一つの想おもいに支配される。

「そうよ──」

 殺菌消毒は満足そうに笑った。

「──足あ掻がけ虫けら」

 グリコは立ちあがり、全すべての表情を消した顔でスプーンを抜く。二本。銀色に光るそれは火乃と樹き夫おに買ってもらったもの。すでに、心に哀かなしみはない。憎しみすらない。ただ虚うつろな──それは、鈴音や賢さか木きと出会う前のグリコ。銃口の瞳ひとみは、ただ暗く倒すべき相手の顔を見つめている。

 そうして眼がん球きゆう抉えぐり子こは。

 自分が泣いていることにも気づかず。

「──死ね」

 二本のスプーンを全く同時に解き放った。

「またスプーン?」

 殺菌消毒は少しだけ意外そうに眉まゆをひそめた。しかし、今回は直線的な攻撃ではない。一本のスプーンは天井へ、もう一本は床へと向かっている。

「投とう擲てき失敗? ──まさかね」

 悠然と立ち、小声でつぶやく殺菌消毒。油断してその場を動かない──また受けとめようと狙ねらっている。その傲ごう慢まんさが命取りだ。

 反射。

 丸みを帯びたスプーンは天井で床で滑り、角度を変えて殺菌消毒へと向かう。

「──反射を利用して、多角的に攻撃ってわけね。少しは考えてるじゃない。けれど──浅はかだわ」

 彼女の指先が──近づくスプーンに伸びていく。

 ずぶり。

 刹せつ那な──グリコは自分の右目に刺さったスプーンを抜く。そして先に放った二本とは比べようもない速度で、殺菌消毒へ向けて放つ。

 そのスプーンは空中で他の二本に接触し。

 甲高い音とともに──それらを鋭く弾はじきだした。

「───ッ」

 予測できない不規則反射ピンボール・ショットに殺菌消毒も受けとめるのを断念し、慌てて動体視力のみで回避する。チッ、とそのうち一本のスプーンが彼女の頬ほおを掠かすり、浅い傷をつけて真紅の血を零こぼした。

 ──これでも避よけるか。化け物が。

 グリコは思いながらも、警戒を怠らず彼女を見る。

「──あら」

 傷ついた頬に手をやって、殺菌消毒は呆ぼう然ぜんとする。

「あら。血。血だわ──私、傷つけられて」

「血を流すなら殺せる」

 グリコは低く、そんな彼女に呼びかける。殺菌消毒は気の抜けた瞳ひとみをこちらに向けてくる。どうやら長い間、傷つけられることなく生きてきたらしい。自分が怪け我がをしたという現実をうまく理解できていない。

 頷うなずき、グリコはまた一本のスプーンを抜く。

「おまえは、殺せる。神でも天使でもない。生き物だから殺せる」

「そうね──」

 その頬の傷も、すぐに再生してしまう。やはり林りん檎ごの保持者か。戦闘力では太刀打ちできず、傷をつけるのも困難なのに、さらに林檎まで持っている──そんな相手と、どう戦えばいいのだろう。

 殺菌消毒は余裕めいた表情を消し、暗く静かに微笑した。

「──もういいわ。あなた、どうやら有害な菌みたい」

 殺菌消毒しなくちゃね、と彼女は小さくつぶやいた。


  


 とにかくグリコと合流しなくてはいけない。

 賢さか木きは決断し、ようやく落ちついてきた呼吸と動どう悸きを確認すると病院を走った。グリコはどこへ向かったのか。生あい憎にくと見当がつかない。とりあえず、この病院が何か禍まが々まがしい事態に巻きこまれていることだけは理解した。ならば──。

「……そうだ」

 鈴りん音ねの身体も危険かもしれない。死んでしまったとはいえ、まだ彼女の身体は生きている。しかし、敵の正体は知れないが、そいつは人間の肉体を吹っ飛ばすほど強力な存在だ。鈴音を守らなくてはならない。身体すら失ってしまえば、本当に全すべての希望が失われてしまう。

 賢さか木きは決断し、来た道に反転すると鈴りん音ねの病室へ向かった。

 走る。走る。廊下が酷ひどく長い。賢木は思いだしていた。二ヶ月前。鈴音がグリコに襲われたときも、今のように、嫌な気持ちに襲われて終わらない道を走っていた。

 あれから二ヶ月。自分は──また、鈴音を守れずに、何もかも失ってしまうのか。

 灼やけつくような焦燥に、賢木は歯を食いしばりながら走った。

 どうしてこんなに無力なのか。神に恵まれて生まれたはずなのに。

 たった一人の少女──大切なひとすら守れないで。

 鈴音の病室までは一瞬だった。離れていた時間は十分か十五分か。しかしその間に、病室には当たり前のように異邦者が侵入していた。

 肉。

 それは人間の形をした肉だ。

 無数の蚯蚓みみずが絡まりあってできたようなその化け物は、巨大な眼球でこちらを見ると軽く会釈した。まだ悪夢は終わらない。ベッドに寝転んでいる鈴音がまだ無事だったことを確認し、それだけは安あん堵どして、賢木は拳けん銃じゆうを抜くとその肉人形に向けた。

「去れ。閣下に指一本でも触れようものなら遠慮なく殺す」

「…………」

 肉人形は大きく瞬まばたきし、座っていたパイプ椅い子すから立ちあがると低く言った。

「お久しぶりです。愚ぐ龍りゆう様」

 その声は──。

 賢木は記憶している。一度聞けば声は覚える。一度見れば、顔は覚える。そういうふうに育てられた。しかし──理解できない。

 この声は。

「偽いつ原わら──樹き夫お」

 つぶやいて、賢木は肉人形を見つめる。

 瞬間、沈黙の病院が──爆はぜるような騒音に包まれた。


  


 抉えぐる。抉る抉る。抉る抉る抉る抉る。

 抉り──散る。

 血飛沫しぶき。眼がん漿しよう。毛細血管。眼球。涙。

 悲鳴──。

 怨おん怨おん怨おん怨おん怨おん怨おん。

 病院は、一瞬にして地獄と化した。

 殺菌消毒の放った銀色の霧に危険を感じ、反転して病室を飛びだすと廊下は肉で埋め尽くされていた。肉。赤黒く、蜷局とぐろを巻いた肉の渦。否いな──これは、肉で形作られた人形。自らの意志か、それとも殺菌消毒の操り人形か、恐怖なく躊躇ためらいもなくグリコに襲いかかってくる。

「邪魔を──するな」

 グリコはそれらを鎧がい袖しゆう一いつ触しよく、蹴け散ちらしながら進んでいく。

 彼らの頭部らしき位置に蠢うごめく巨大な眼球、そこにスプーンを押しこんで、一気に全力で抉えぐりとる。弾はじけ、眼球が吹き飛び、肉人形は苦鳴をあげる。

 一体を倒せばもう一体、それが終われば次の一体。次々と、次々次々と現れる肉人形の眼球を、修羅のごとき勢いでグリコは抉っていく。

 抉る抉る抉る抉る。

 飛び散る、気持ちの悪い眼がん漿しようや血。

 グリコの顔も返り血で汚れ、純白の廊下も得体の知れない体液に浸されていく。

「──そうね」

 真上から、声。

 ぞくっとして、グリコは反射的に振り仰ぐ。

「肉人形では足止めにもならないか。せっかくたくさん用意したのに。まぁいいわ──夜は長い、せいぜい愉たのしみましょう。眼球を抉る化け物さん?」

 そこに、殺菌消毒が逆向きで立っている。

 天井がまるで床だとでもいうように、普通の調子で歩いている。長い一本の三つ編みは重力に従って降り、すう──と彼女の右手がこちらに伸ばされて。

 その先端。握られているスプレー缶。

 火ひ乃のを殺し、消滅させた恐るべき存在が。

「TYPE-A《消滅霧ジェノサイドジャスティス》──さぁ、あなたに受けとめられるかしら? 遥はるかな昔──ノアの箱船を残して文明を残らず消滅させたこの技を。あの一件で私の力はほとんど尽きたけど──残りかす程度で、あなたごときの全存在は抹消できるのよ?」

 言って、殺菌消毒はスプレーを振る。

 ──シャカシャカシャカシャカシャカ。

 グリコは身構え、それでも襲いかかってくる肉人形の拳こぶしをがっしりと受けとめ。

 殺さい原ばら美み名なの声を聞いた。

「──むごたらしく死になさい」

 言葉と同時に吐き出された銀色の霧に──掴つかんだ肉人形を思いっきり投げつけた。じゅ──と燃え尽きるように消滅する肉人形を視認し、それこそ足止めにもならないかとグリコは転がって霧を避よける。

 廊下が円形に抉りとられ、下の階の廊下がくっきりと見える。やはり何にも妨害されず全すべてを抉る消滅の霧──防御はできない。ただ避けられないほどのものではない。

 思いながら、グリコはまた廊下の角からわらわらと現れた肉人形たちを見る。こいつらの相手をしながら殺菌消毒にまで気を配るのは無理だ。彼女はこの無敵の技の他に、グリコよりも高レベルな身体能力まで保有している。全すべてにおいて自分よりも強大な敵を相手に、しかも数で攻められたらさすがのグリコにも勝ち目はない。

 ──どうするか。

 考えているグリコに、天井を歩く殺菌消毒が余裕げな顔をする。

「そうね──あなたの考えているとおり、TYPE-A《消滅霧ジェノサイドジャスティス》はそれほど速い攻撃ではない。避よけようと思えば避けられるでしょう。もともと、大量虐殺用の能力だもの。素早く動き回る一匹の虫けらを殺すのには向いていない。ノアの一件で能力も底を尽きかけて、連射も広範囲の攻撃もできなくなってしまったしね」

 語る言葉にグリコは頷うなずく。結局──あの武器は本当に殺虫スプレーのようなものなのだ。しかも、ほとんど中身が残っていないようだ。だから彼女は《消滅霧ジェノサイドジャスティス》を使う前、中身を掻かき集めるためにスプレーをシャカシャカと振るのだ。

 勝機といえばそれだけか。

 連射ができないならば、一撃を避けた後にどうとでもできる。しかし身体能力では太刀打ちができない。せめてこちらに彼女と同じような能力があれば──。

 遥はるかな昔、堕落した人類を滅ぼしかけた洪水伝説の化け物。

 そんな存在に──スプーンだけで勝てるのだろうか。

「悩んでいる暇も、余裕もないわよ──あなたには」

 近づいてくる肉人形の群れ。そして真上、殺菌消毒を見てグリコは一瞬だけ硬直する。

 その両手。

「TYPE-B《固定霧ジャックジュエル》──」

 両手に、それぞれ一本ずつスプレー缶を握っている。殺菌消毒はそれらを誇るように振りかざし、警戒し身構えるグリコに独り言のような口調で語る。

「そうね──これは、対個人で効果を発揮する能力。あまり使う機会がないから──中身もたっぷり残っているし」

 そしてスプレー缶の射出口を、こちらに向けて愉たのしむように笑う。

「教えておいてあげる。TYPE-B《固定霧ジャックジュエル》。その能力は固定。触れれば──固まる。ただそれだけよ。怖くないでしょ?」

 確かに、一撃で命を奪われる《消滅霧ジェノサイドジャスティス》に比べれば穏便な能力だ。しかしこの殺菌消毒が、ただの遊びでこんなものを取りだすわけもない。何か狙ねらいがあるのだ。狡こう猾かつな狙いが。

 しかし──相手の両手が塞ふさがっている今なら、グリコの攻撃スプーンも受けとめられない。

「迂う闊かつだぞ──殺菌消毒!」

 グリコは素早くスプーンを抜き、殺菌消毒の無防備な顔に向けて投とう擲てきする。

 瞬間。

 殺菌消毒は表情を変えず、踊るように両手を広げ、《消滅霧ジェノサイドジャスティス》の右手を下に、《固定霧ジャックジュエル》の左手を横に。

「《消滅霧ジェノサイドジャスティス》──そして、《固定霧ジャックジュエル》」

 振らずに噴霧された少量の《消滅霧ジェノサイドジャスティス》が、投げつけられたスプーンを空中で消滅させる。同時に、廊下を曲がってこちらに襲いかかってくる肉人形たちに《固定霧ジャックジュエル》の液体に近い霧が襲いかかり、刹せつ那な、彼らを固めてその場に貼はりつけてしまう。

 次々と現れ、固まった同胞たちを越えながら近づく肉人形。

 それらに容赦なく《固定霧ジャックジュエル》を浴びせかけ──。

「──しまっ」

 グリコは敵の狙ねらいに気づき、廊下の全すべてが塞ふさがれる前に奥へ進もうと走り、間に合わず、肉人形の壁の前で立ち止まる。

「小さな獲物は追いこんで殺す」

 冷たい──殺菌消毒の声。冷徹な、それは何の感情もない声だった。

「猫はそうやって狩りをするらしいわね。奇襲もするみたいだけど。ちなみに犬は延々と追いかけたり取り囲んだりして狩りをする。どうでもいいわね。本当に──どうでもいい話だわ。けれど」

 グリコは慌てて肉人形の壁を叩たたく。しかし《固定霧ジャックジュエル》で固定された壁は揺るぎもせず、脆もろいはずの肉に傷もつきはしない。本当に、空間ごと固定されている。悪いことに叩いたグリコの拳こぶしが壁に貼りついて、どうしようもなく皮ごと剥はいで離れるしかなかった。

 ぽたたっ、と無理に皮を剥いだ拳から血が零こぼれ落ちる。

 逆方向は──駄目だ。そちらには殺菌消毒がいる。廊下の奥まで遠いし、きっと、逃げようとして走っているうちに狙い撃ちされてしまう。

 逃げ場がない。

 どうする。考えろ。生き残る。否いな──鈴りん音ねと火ひ乃のの仇かたきをとる。

 死ぬのはその後だ。そう決めた。

 けれど──。

「冥めい土どの土産くらいには、なったかしらね──」

 二つのスプレー缶は温情もなくこちらに向く。《消滅霧ジェノサイドジャスティス》をぎりぎりで避よけて背後の壁に穴をあける──それしか勝機はないだろう。しかし、相手もそのくらいは予想しているはずだ。

 グリコは生なま唾つばを呑のみ、随分と久々に死を間近に感じた。

 きっと──あの《消滅霧ジェノサイドジャスティス》はグリコを生かしている林りん檎ごごとグリコの全存在を消滅させる。そうなれば今度こそこの世界とはお別れだ。思えば千年──よく生きた。何も残してはいないけど。幸せのほうが少なかったけど。

 鈴音や賢さか木きと出会えたから──グリコには生きていた意味があった。

 死ぬのは別に怖くない。むしろ望むところだ。

 けれど──それは、この女を殺してからだ。そして鈴音を生き返らせる方法を見つけてからだ。まだ死ねない。死ねないのだ。

 ぱりっ、とグリコの背中で何かが弾はじけた気がした。

 それが何だか自覚する直前──。

「──それじゃ。おやすみなさい──」

 つぶやき、シャカシャカとスプレー缶を振る彼女の。

 腹部。そして脚部で。

 血飛沫しぶきが弾けた。

「────」

 目を見開き、殺菌消毒はぐらっと揺れて反転すると落ちる。どうも《固定霧ジャックジュエル》で足場を固定していたらしい。自分の意志でその固定を解除して、床に落ちると彼女は撃たれた場所を手で押さえて呻うめいた。

「う──ぐ」

 まだ痛覚が残っているのか。否いな──わざと残しているのだろう。感覚がないというのは、酷ひどく虚しいものなのだ。生きている感じがしない。それは、きっと痛みよりもずっと簡単に心を殺す絶望。

 彼女が押さえた指の隙すき間まから、じゅくじゅくと血が零こぼれていく。勝機──グリコはまたもスプーンを抜き、蹲うずくまる殺菌消毒に激しい勢いで投げつけた。

「ぐ。う」

 そこは殺菌消毒、素早く飛び退のいて致命傷を避ける。しかしスプーンは彼女の肩口に突き刺さった。各所に傷を負い、血を流すこの女は、獰どう猛もうな表情で後方を振り返る。

 そこに。

「この病院は──賢さか木き財閥直営の私立病院だ」

 未いまだ薄く硝煙の立ち上る、小型拳けん銃じゆうを構えた賢さか木き愚ぐ龍りゆうが立っている。

「故に、言わせてもらおう。私の庭で何をやっているか貴様!」

「賢木──」

 グリコは呼びかける。彼のおかげで助かったが、さっきの攻撃は奇襲だったからこそ殺菌消毒に当たったのだ。正面から戦ったら賢木に勝ち目などない。とにかく──守らなくては。鈴りん音ねの愛した男性。そしてグリコの大切なひと。

 賢木──。

 苦しげに呻く殺菌消毒を捨て置き、彼のそばまで駆けつける。グリコも先刻の戦闘で右目に傷を負っているが、どうにか薄い視力だけならば取り戻せた。

 だから見えた。賢木の後方。一体の肉人形がぼんやりと立っている。信じられないことに、その肉人形は手に鈴音の身体を抱きあげている。

 ──肉人形。

 グリコはスプーンを取りだし、そいつに迷わず襲いかかる。

「どけ! 賢木──そいつは」

「止よせ」

 両手を広げ、グリコの前で通せんぼをする賢さか木き。理解できず、グリコは長身の彼を見上げた。噛かみつかんばかりの勢いで吠ほえる。

「何な故ぜだ! こいつは敵だろう! あいつ──殺菌消毒の手下だ! どうしてこいつに鈴りん音ねを任せている! 答えろ賢木!」

「…………」

 肉人形は、何故だか、哀かなしそうに俯うつむいた。

 グリコのどの言葉が彼を傷つけたのかはわからない。

 けれど──どうしてか、その一瞬、グリコは確かに胸の痛みを覚えた。

「事情を説明している暇はない」

 賢木は拳けん銃じゆうの構えを崩さずに、真しん摯しな表情で殺菌消毒を睨にらみつけている。その足下には《消滅霧ジェノサイドジャスティス》と《固定霧ジャックジュエル》、それぞれを噴霧するスプレー缶が落ちている。

「話はだいたい彼に聞いた──あいつが、閣下を殺した殺菌消毒か」

 腹を押さえたまま、よろけながらも立ちあがる彼女に、賢木はグリコすらも怯ひるむような怒りに満ちた表情で言う。

「私の愛する閣下を殺したな。その罪──、償う方法は皆無だ。この私を敵に回した不運を悔やみながら百万回は死ぬがいい」

「く──く。くく──くくく」

 漏れるような笑い声。殺菌消毒は膝ひざを震わせながら静かに姿勢を正し、腹を押さえ、顔を伏せ、足を広げた奇妙な姿で低く忍び笑う。

「くく。うふふ。あはは。あぁ──世界は愉たのしいわ。本当に。どうしてこんなに愉しいのかしら。そうね──世界に在るものは、大きく三つに分けられる、芸術品と、塵ご芥みと、それ以外──あなたたちは、いいわ、芸術的な娯楽だと殺菌消毒が認めてあげる」

 埋まった銃弾を指先で抉えぐりだし、捻ひねり潰つぶし、その場に投げ捨てる殺菌消毒──顔は伏せられたままで、マスクで隠された口元からは表情すらも読めず、グリコは正直──寒気のような恐怖を覚えた。

 彼女はそのままの姿勢で、両手を真横に広げる。すると磁石のように二つのスプレー缶が自動的に跳びあがり、彼女の両掌てのひらに吸いつけられて握られる。

 ぽたぽたっ、と止まらない血が汚れた廊下をさらに汚した。

「ふふ──ふふふ。ふふ。ふふふふ」

「何が可笑しい!」

 耐えられず、グリコは殺菌消毒を睨みつけて怒鳴った。嫌な予感がする。もちろん賢木がきたことで形勢が逆転したわけでもない。未いまだ戦力は圧倒的にこちらが不利だ。けれど──そうではない。そういう次元ではない不安。

「あなたたち、欠片かけらの使い方をよく知らないようね?」

 ──欠片?

 おぞましい肉人形の壁を背景に、殺菌消毒は顔をあげた。

 それは愉たのしそうな、幸せそうな、そして同時に酷ひどく底意地の悪い顔。

「いいわ──面白いから教えてあげる。欠片かけらはね、文字通り、神様の欠片なのよ。幾万幾億に散らばった神様の断片。あなたたちが持っているのは、それの一部でしかないの。そうね──確か、あなたたちは林りん檎ごとか呼んでいたかしら?」

 林檎。

 禁断の林檎。

 それが神様の欠片? そういえばヘビが語っていた。それは、神様の魂、その半分で創つくられた果実。不老不死を願う神の執念で生まれた禁断の果実。

「林檎。林檎ねぇ。まぁ──そう見えなくはないでしょう。全く、神じん蟲む天てん皇のうね、そんな下らない名前を流通させるのは。まぁいいわ──林檎だろうが欠片だろうが呼び方はなんでもいい。ただ、笑えるのは、あなたたちがその本質を勘違いしているってところよ」

 笑い、殺菌消毒はこちらを見た。

 何かに縋すがるような寂しそうな瞳ひとみ。何な故ぜ──。

「ずっと昔。ずぅっと昔。原始の人類が生まれるよりも前──ある強大な存在がこの星にはいた。神と呼ばれるべきその存在は、しかし、とある理由で散り散りに砕け散ってしまう」

 それはヘビが語った内容に似ているような、全く違うような、奇妙な話だった。けれど──ヘビも人類とあまり知識は変わらなかったのではないか。ほとんど想像と伝承で語り、実際に蟲むしとか林檎とかの本質を知っていたわけではなかった。

 けれど殺菌消毒の口調には──確信がある。断言がある。

 きっと、これが──真実だ。隠されてきた真実。神や蟲や林檎の真実。

「砕け散った神は、七つの大きな欠片と、無数の細かい欠片に分かれた。私も──大きな欠片の一つ。そうね──あなたたちが蟲と呼んでいる生き物も、大きな欠片の一つよ。もっとも──今は欠片を集めるために分裂しているみたいだけど」

 分裂。よくわからない。

 しかし殺菌消毒は詳しく説明する気がないようで、笑みを含みながら語りつづける。

「どうして私たちが欠片を集めるか知りたい? 知りたくなくても語るけど──再び神の姿に戻るためよ。私たちの今の身体はね、分裂した欠片でしかない。完全体に戻りたいのよ──それは本能的な欲望ね。そして一度は、無数に散らばった欠片を集めることに成功した」

 そのまま彼女はこちらを見る。深く何か感情をこめた暗い暗い瞳。

「けれど、そこで事故アクシデントが発生したの──アダムとイヴって知ってるかしら? そう、あなたたちのご先祖様ね。原罪を犯したご先祖様ね。その二人、私たちの完全体、神が泥からつくった奴隷人形が、あろうことかヘビにそそのかされて無数の欠片を食べてしまったのよ。まったく、思いだしただけで腹立たしいわ。まさしく原罪よね。私たちは欠片の捜索に疲れきって眠っていて──その間、欠片かけらの保存と融合を任せていたエデンの園の管理人、アダムとイヴが裏切っているなんて思ってもいなかった」

 理解する。彼女の瞳ひとみに宿るのは──長く煮つめた憤怒の光。気が狂うほど長い間、怒りつづけていた瞳だ。グリコは寒気を覚え、ちょっとだけ後退する。

「目覚めたら、人類は笑えるほどに増殖して、地に満ちていた──焦って欠片かけらを取り戻そうとしたけれど、それは私たちでは手のだせない精神世界に隠されていて──結局、今のような感じに、たまたま欠片を手にいれた人間を襲って一つ一つ取り返しているの。それでもまだ揃そろわない。どころか──涙歌メロディアノイズと最弱アルティメットシールドは裏切るし、破局ポイズンもどこかへ消えてしまうし、一人部屋も生死不明で──本当に、気が滅め入いるのよ。残った大きな欠片は三つ。揃えた細かな欠片はまだ半分といったところ。あと何千年、何万年をかければ全すべて揃えられるかわからない」

 手を胸元に寄せて、殺菌消毒は真しん摯しな顔をする。

「それでも、私は元の姿に還かえりたい。それだけよ──さぁ原罪の子供たち、悪いのは、間違っているのは、どちらだか理解したでしょう?」

「…………」

 黙りこむグリコの横、賢さか木きが偉そうな顔をする。

「なるほどよくわかった。この間抜け。砕かれたとか奪われたとか喧やかましいが、砕かれたのも奪われたのもお互い様だ。以上。では殺す──閣下を殺した貴様は賢さか木き愚ぐ龍りゆう刑法により死刑。下らん御ご託たくをありがとう。糞くその役にも立たんので黙れ」

 そうだ。賢木の基本法則は宇う佐さ川がわ鈴りん音ね至上主義だ。他のどんな法則だろうが彼にとっては無価値なのだ。グリコは呆あきれ、同時にちょっと安あん堵どした。

 そうだ。過去に何があったかなど知らない。

 もっと単純になろう。鈴音の仇かたきは必ず殺す。以上。

「あら──思ったより」

 殺菌消毒は綺き麗れいに笑った。

「愚かね──」

 その声に隠しきれず混ざったのは殺意。そして同時に、こちらを絶望へと叩たたき落とそうとする残酷な意志。

「──では、最後に教えてあげる。その欠片の能力を」

 彼女は何な故ぜだか賢木でもグリコでもなく、その背後の肉人形と、彼に抱えられた鈴音を見つめていた。

「欠片と言ったでしょう。それは液体を想像してもらえるとわかりやすいかもしれないわね。砕け散った神の魂──魂というのは、命のエネルギー。生き物が、生き物として動くのに必要な力。車のガソリン。懐中電灯の電池。それが無ければただの肉。その魂はあらゆる生き物に宿っていて、その対象を食べることにより吸収される。生きているうちに魂はだんだんと消費されるから、そうして動物や植物を摂取しないと生物は生きられない」

 そういえば、野菜も、肉も、元を正せば生き物だ。人間は、それらの生き物から魂を少しずつ吸収して、消費したぶんを補っているのか。だから食べなければ死ぬ。

「魂は液体だから、肉体に吸収されると簡単に混ざる。普通──混ざって溶けた魂は受容器である心臓に貯蓄される。うん、良いことを教えてあげる。魂は心臓に宿るから、林りん檎ごの保持者であろうとも──心臓を抉えぐりとられれば死ぬわ。もちろん私もね」

 グリコは思わず息を呑のむ。心臓を抉られれば死ぬ──。

 鈴りん音ねも、そうして殺されたのか。全すべての魂──生命エネルギーを奪われて。自分の意志で相手に魂を渡さなくても、そんな簡単な手段で奪うことができたのだ。

 そういえば、グリコも心臓を失ったことはなかった。頭部を吹き飛ばされかけたことはあるが──しかも賢さか木きに。一度も、魂の貯蓄庫である心臓は失わなかった。運が良かったのだろう。

 それはきっとあのヘビも知らなかったこと。そこまで知っているということは──やはり殺菌消毒は、彼女が言うとおりの存在なのだろうか。

 七つの大きな欠片かけら。そのうちの一つ。

 殺菌消毒。

 そんな相手に──自分たちは勝てるのだろうか。

「あなたたちが林檎と呼ぶ神の魂の欠片は、人間の魂なんか比べものにならない超濃度の魂の結晶。わかるかしら? 老いとともに魂の消費は激しくなって、やがて需要に供給が追いつかず、または大きな病気や深刻な怪け我がの回復に魂を使い切って生物は死ぬ。逆説的に、魂が残っているかぎり生物は死なない。怪我を負っても魂を消費して回復するし、貯蓄が充分すぎるから、魂を摂取するための食事をする必要すらなくなる。痛みにも暑さにも寒さにも魂を消費して耐えられるようになるから、それらに対する危険信号である痛みや感覚も無くなっていく。どう? 簡単な話でしょう。それが──欠片の能力よ。欠片というのは、ただの膨大な魂。巨大な生命エネルギーの塊でしかないのよ」

 なるほど──とグリコは思う。

 色々と曖あい昧まいだった部分が全て解き明かされていく。それが林檎の能力。グリコもヘビも知らなかった、この禁断の果実の真実。

 理解して、今は──一つのことのみ頭にいれる。

 殺菌消毒も、心臓を抉れば殺せる。

 それのみが重要で、他のものは全てそれの前では些さ事じだった。

「そして──これが笑えるのだけど」

 殺菌消毒は、ただ無邪気に。

「肉人形という存在をあなたたちは見たわね? そう──あなたの後ろにいるし、私の後ろにもいるもの。肉人形、その作り方を教えてあげましょうか」

 最悪の真実を──口にした。

「簡単よ。欠片でも蘇よみがえらせられない心臓を失った肉体に、欠片を埋めこめばいい。それだけで、その死体は肉人形になる。欠片かけらを与えた人間に絶対服従の、意志の欠片もない肉のお人形さんにね。生命エネルギーが手だの足だのを生きているように動かすけど、そこにはもう死んだ人間の意志なんか残ってないの。受容器心臓が存在しないその身体は、自意識もなく、死後痙けい攣れんのようにただ動くだけ。欠片には前の持ち主の意志が残留しているから、その身体は、欠片を与えた存在の──操り人形のようになってしまう。ふふ──自由に動かすにはちょっとしたコツが必要なのよ?」

 ……死んだ人間に欠片──林りん檎ごを埋めこむ。

「────」

 グリコは。

「────あ」

 理解した。

 振り返ってはいけない。振り返ったら絶望する。理解している。言葉ではなく。本能で理解しているが──。

 振り返ってしまった。

 ほとんど思考もなく。

 ただ理解を確認するために──振り返ってしまった。

「欠片が、肉体を循環するのにかかる時間はだいたい二十分」

 殺菌消毒の声が──遠い。

「あなたが、いつ──欠片を与えたのか知らないけれど。もう動いてもいい頃ころ合あいよね」

 硬直する眼がん球きゆう抉えぐり子この目前。

 肉人形に支えられ、宇う佐さ川がわ鈴りん音ねが立ちあがっていた。

「はは──あはは。あははは。あははははは!」

 殺菌消毒の甲高い笑い声が、体液と肉片に染められた廊下に響く。

「感動のご対面というところかしら? 知らずにやってしまったのでしょう。愚かね──眼球抉子! どう、嬉うれしいでしょう。もうあなたの友達はあなたを裏切らないわ! あなたが死ねと言えば迷わずに死ぬ! どう? 友達が──あなたの奴隷になった気分は!」

 虚うつろな、意志のない、宇佐川鈴音の表情。

 ただ立っているだけの、それこそ──人形のような。

「鈴音……」

 つぶやくと、ぴくりと鈴音は反応し。

「りんね」

 おうむ返しに、己の名前を口にした。

「りんね。りんね。りんね。りんね」

「────」

 グリコは腰が抜けて、その場に崩れた。信じられない。悪い夢のようだ。賢さか木きも蒼そう白はくになっている。そうだ──こんな酷ひどいことがあるだろうか。

 鈴りん音ねの肉体を保つためにと、根拠もなく賭かけるようにその身体に林りん檎ごを宿した。

 しかし──こうして、起きあがった彼女はすでに宇う佐さ川がわ鈴りん音ねではなく。

「さぁ、ご挨あい拶さつなさい。肉人形」

 目を逸そらした隙すきに鈴音のそばまで移動していた殺菌消毒は、無抵抗な鈴音の頭を掴つかんで無理やりにお辞儀させた。

「宜よろしくお願いします。私は眼がん球きゆう抉えぐり子こ様の下僕しもべです──とね」

 そんな酷ひどいことをされても、鈴音は全く抵抗せず。

 困ったような顔をグリコに向けるのみ。

「あ。あ──あ。ああ!」

 グリコは切れた。何も考えられなくなった。思考は消滅し、ただスプーンを握りしめて殺菌消毒に襲いかかる。彼女を殺せばどうにかなる気がした。もちろんそんなわけはないのだけど──ただこの得体の知れない憎しみだか絶望だかを、この女に叩たたきつけてやらなければ気が済まなかった。

「殺菌消毒──ッ!」

「どうして、あなたは私に怒っているのかしら?」

 満足そうに微ほほ笑えんで、彼女は鈴音を突き飛ばすと。

「あなたの憎悪が誰だれかの死を望んでいるのなら──自分で自分を殺しなさい。まぁ、その前に──」