「その女は潔癖症で、自分の部屋に閉じこもって、徹底的に殺菌消毒、衛生ばかりを気にしていて──誰も部屋には立ちいれさせず、真っ白な空間で一人、ここは
それは──。
「誰も不幸にせず。誰にも迷惑をかけず。一人の部屋に閉じこもって死ぬ。あなたみたいに、不細工に迷って生きるより、
一つの病室の前で立ち止まり、女はこちらに振り返って笑う。
「あなたは、下らない悩みごとに閉じこもり、そのくせちょろちょろ間抜けに外に出ては傷ついていく不細工なあなたは、もしも──そうした
言いながら病室の中に進む、得体の知れない白衣の天使。彼女の後を慎重に進み、グリコはその病室に眠る
やつれている。
そんなに長く離れていたわけではないのに。火乃が倒れ、救急車を呼んで、一緒に病院までついてきて
けれど彼女はこんなにも、死人の顔をしていた。
眠る彼女の横に立ち、グリコは
見るかぎり、火乃は本当に死にかけている。命が滅びかけている。グリコにはそれがわかる。わかるから、歯がゆかった。
わかっている。人間は死ぬ。人間だからいつか死ぬ。早いか遅いかの違いだ。
また、自分の周りで、誰かの命が失われる。
鈴音の顔が見えた。
──嫌だ、と思った。
「火乃」
グリコは投げだされた火乃の手をとって、その手を自分の額に押しつける。冷たい。結局──彼女には、一度も愛情のようなものを返せなかった。
血のつながりはなかったけれど、それでも愛してくれたのに、グリコは、どうすればいいかわからなくて、ただ怖くて拒絶して。
結果がこれだ。
「火乃──」
名前を呼ぶ。答えはない。当たり前だ。そういう道を選んだ。
意地を張って、ただ怖がって、彼女たちを拒絶して。
最後まで何もできないまま、自分は逃げようとしている。
「火乃。グリコは」
彼女の手を握りしめたまま、グリコは
「グリコは、ごめんなさい──あなたに優しさを返せなかった」
怖くて。怖かったから。遠ざけて、傷つけて。
思いだすのは、何気ない毎日。
それは、本当の親、千年前に自分を拾った養い親がくれたものよりもずっと温かく。
得難い宝のように、幸せな時間だった。
「母さん」
つぶやき、グリコは無音で涙を
「母さん──」
初めて言えたその単語は、
火乃は死んじゃいけないと思う。不幸になるのはグリコだけでいい。グリコが死ぬべきだったのだ。千年間も生きちゃいけなかった。どうして自分は生きてきた。
──ふと、思った。
「…………」
沈黙し、グリコは火乃の手を握ったまま、眠る彼女の表情を見つめる。じっと。そして彼女の胸のあたりに手を伸ばす。一つの考えがあった。彼女が死なないで済む方法。そしてこの下らなく、苦痛を伴い進む自分の人生を終わらせる方法。
「……
グリコは小さく、彼女の耳元でつぶやく。
自分に残された、最後になった不死の林檎。それを火乃に与えれば、彼女は決して死なないだろう。これからも樹夫と一緒に、ずっと生きていけるかもしれない。後のことは
千年間、生きてきた。
もう──いいだろう。何も得ることはなかったけれど。もう──いいだろう。
「あなたに、グリコの林檎を──」
火乃が跳ね起きた。
??
──え?
バネ仕掛けの人形みたいに飛び起きた
「駄目! これは
「────火乃?」
グリコはわけがわからない。理解できない。ただ揺さぶられ、
病室の暗がりに立つ、看護師を見た。
「そうね──」
聞こえるのは、
「──嫌だわ、どうせ終わるなら
その手に、いつの間にか握られていたスプレー缶を振る。
──シャカシャカシャカシャカシャカ。
「グリコちゃん逃げて!」
信じられない力で火乃に突き飛ばされたグリコは見た。
「でもそれは反抗なのよね? 混じりっけのない反逆なのよね? 創造主に逆らった人形が──どうなるのかも想像できない?」
白衣の天使が一皮脱いで、白夢の悪魔が現れる。
長い長い一本の三つ編み。天使の羽のタンクトップ。
純白の髪を華麗に舞わせ、奇妙な女は名乗りをあげる。
「愚かね──、間抜けね──、この世には、逆らってはいけない存在というものがいる。触れてはいけないものがいる。この私──殺菌消毒もその一つ。その
そしてスプレー缶を向け、悪魔のように笑うのだ。
「私が殺して

同刻──
「………!」
グリコを追って病室を飛びだし、見失ってしまい、手当たり次第に病室を
変だとは思ったのだ。最初から、奇妙だとは思っていたのだ。
音がしない。この病院では──一切の音が死んでいる。
そして。
「うっ……」
開け放たれ、冷たく暗い夜気を吸いこんでいる窓。白く清潔な四方の壁。明かりを
何の変哲もない、ごく普通の病室だった。
そこに何気なく転がる子供の足首の他は。
「まさか……!」
叫び、
向かいの病室を見る。音はない。
転がっている老人の生首。
「うわぁあ!」
全身に寒気が走り、賢木は衝動に耐えかねて叫んだ。そこは相部屋で、三つのベッドが並んでいて、それぞれのベッドの上に──死んでしまった生首が置かれ。
なんだこれは。
なんだ──これは。
「……はっ。はっ」
呼吸が荒い。心臓が暴れている。首を振り、賢木は病棟を抜けて中央の事務所へと向かう。なんだ。なんだこれは。みんな死んでいる。みんな死んでいる! 生き残っている人間はいないのか。探して──しかし見つからず。
医者や看護師、事務職の人間がいるはずの事務所へと歩き。
扉を開いて、賢木は絶望する。
暗い。暗い部屋。
手首。足首。生首。身体の一部のみを残し──。
確かめるまでもない。
自分たち以外の、

殺菌消毒が絶望を噴霧する。グリコが見たのは、何ら変わったところのないスプレー缶から噴きだした銀色の霧。ぞくっとして、しかし動けず、グリコは病室の床にへたりこんだまま体勢を立て直そうとして──。
また
ごろごろ床を転がり病室の出口へ。
「火乃!」
「グリコちゃん──」
一瞬、
「母さ──」
言葉は届いたのか、届かなかったのか。
気持ちは
「────」
火乃は、最後に声もなく口を開閉し、何かをグリコに伝えようとして──。
その身体を容赦なく銀色の霧に消し飛ばされた。
「あ……?」
散る──散らばる、火乃が残した身体の
「あ……」
消える。消えてしまう。
火乃の
「やめて消えないで」
願った。意味はなかった。グリコは叫んだ。
無情に悲鳴は延々と反響して──やがてそれすらも拡散し消滅し。
「…………」
沈黙がおりた。グリコは全ての感情が欠落した顔で立ちすくむ。
なんだ。なんだこれ。え? グリコは理解できない。理解したくもない。火乃がいた。そこに火乃がいた。最後まで変わらない顔で、お
そんな彼女が一瞬にして全存在を吹っ飛ばされた。
残ったのは、火乃の右手。小さく、
銀色の霧が包んだ彼女の身体、そして巻きこまれた床の一部が、
なんだそれ。
というか、火乃は──どこへ、行ってしまったのか。
「あら。失敗──、あるいは、次善の成功かしら」
──シャカシャカシャカシャカシャカ。
スプレー缶を振りながら、殺菌消毒はこちらを向いた。不気味な、奥の知れない端正な顔。露出の多いその服装にただ恐怖のみを凝縮し──彼女は、首をかたりと曲げて冷淡に宣告する。
「
グリコは震える。頭が痛い。あぁ──頭が痛い。痛みなど無くしたはずなのに。精神が痛い。魂が痛い。心が痛い。
火乃が、
自分を守って死んでしまった。
「あ」
グリコは口を開き、目を見開き、よろめきながら立ちあがって。
「あぁあ、おまえ! おまえ、よくも!」
服のポケットからスプーンを抜き、笑みを浮かべる殺菌消毒に投げつける。手慣れた動作。必殺の動作。何度も何度も他者の命を奪ってきた、グリコの
「──下らない」
動じず、殺菌消毒はスプレー缶を握らない右腕を旋回させる。
「────」
その手に、投げつけたはずのスプーンが握られていた。
──受け止められた?
まさか。そんなこと、この千年間で一度もなかった。
「スプーン? こんな、武器とも呼べないただの食器で、殺菌消毒を相手にしようというのかしら? ねぇ──手加減というのは、格上が格下にするものよ。人間ごときが──天使や悪魔に、力を抜いて挑むのかしら?」
瞬間。
殺意をこめた
「───ァ」
「──ねぇ、
身体が震える。なんだ──こいつは。
それは、化け物すらも超越した、何か異質な存在だった。
「ねぇ──これで終わり? もう抵抗してくれないの? あれだけ私を不快にさせたのに、もう愉しませてはくれないのかしら? では──」
床にへたりこむグリコの正面、
「──やる気をださせてあげる。宇佐川鈴音を殺したのは私よ」
「────」
「褒めるわね。珍しいのよ──私が、他人を心から褒めるのは。
こいつが。
こいつが──鈴音を。
グリコは、心が冷めていくのを感じた。鈴音を殺し。
殺す/殺す/殺す/
脳内が──一つの
「そうよ──」
殺菌消毒は満足そうに笑った。
「──
グリコは立ちあがり、
そうして
自分が泣いていることにも気づかず。
「──死ね」
二本のスプーンを全く同時に解き放った。
「またスプーン?」
殺菌消毒は少しだけ意外そうに
「
悠然と立ち、小声でつぶやく殺菌消毒。油断してその場を動かない──また受けとめようと
反射。
丸みを帯びたスプーンは天井で床で滑り、角度を変えて殺菌消毒へと向かう。
「──反射を利用して、多角的に攻撃ってわけね。少しは考えてるじゃない。けれど──浅はかだわ」
彼女の指先が──近づくスプーンに伸びていく。
ずぶり。
そのスプーンは空中で他の二本に接触し。
甲高い音とともに──それらを鋭く
「───ッ」
予測できない
──これでも
グリコは思いながらも、警戒を怠らず彼女を見る。
「──あら」
傷ついた頬に手をやって、殺菌消毒は
「あら。血。血だわ──私、傷つけられて」
「血を流すなら殺せる」
グリコは低く、そんな彼女に呼びかける。殺菌消毒は気の抜けた
「おまえは、殺せる。神でも天使でもない。生き物だから殺せる」
「そうね──」
その頬の傷も、すぐに再生してしまう。やはり
殺菌消毒は余裕めいた表情を消し、暗く静かに微笑した。
「──もういいわ。あなた、どうやら有害な菌みたい」
殺菌消毒しなくちゃね、と彼女は小さくつぶやいた。

とにかくグリコと合流しなくてはいけない。
「……そうだ」
走る。走る。廊下が
あれから二ヶ月。自分は──また、鈴音を守れずに、何もかも失ってしまうのか。
どうしてこんなに無力なのか。神に恵まれて生まれたはずなのに。
たった一人の少女──大切なひとすら守れないで。
鈴音の病室までは一瞬だった。離れていた時間は十分か十五分か。しかしその間に、病室には当たり前のように異邦者が侵入していた。
肉。
それは人間の形をした肉だ。
無数の
「去れ。閣下に指一本でも触れようものなら遠慮なく殺す」
「…………」
肉人形は大きく
「お久しぶりです。
その声は──。
賢木は記憶している。一度聞けば声は覚える。一度見れば、顔は覚える。そういうふうに育てられた。しかし──理解できない。
この声は。
「
つぶやいて、賢木は肉人形を見つめる。
瞬間、沈黙の病院が──

抉り──散る。
血
悲鳴──。
病院は、一瞬にして地獄と化した。
殺菌消毒の放った銀色の霧に危険を感じ、反転して病室を飛びだすと廊下は肉で埋め尽くされていた。肉。赤黒く、
「邪魔を──するな」
グリコはそれらを
彼らの頭部らしき位置に
一体を倒せばもう一体、それが終われば次の一体。次々と、次々次々と現れる肉人形の眼球を、修羅のごとき勢いでグリコは抉っていく。
抉る抉る抉る抉る。
飛び散る、気持ちの悪い
グリコの顔も返り血で汚れ、純白の廊下も得体の知れない体液に浸されていく。
「──そうね」
真上から、声。
ぞくっとして、グリコは反射的に振り仰ぐ。
「肉人形では足止めにもならないか。せっかくたくさん用意したのに。まぁいいわ──夜は長い、せいぜい
そこに、殺菌消毒が逆向きで立っている。
天井がまるで床だとでもいうように、普通の調子で歩いている。長い一本の三つ編みは重力に従って降り、すう──と彼女の右手がこちらに伸ばされて。
その先端。握られているスプレー缶。
「TYPE-A《
言って、殺菌消毒はスプレーを振る。
──シャカシャカシャカシャカシャカ。
グリコは身構え、それでも襲いかかってくる肉人形の
「──むごたらしく死になさい」
言葉と同時に吐き出された銀色の霧に──
廊下が円形に抉りとられ、下の階の廊下がくっきりと見える。やはり何にも妨害されず
思いながら、グリコはまた廊下の角からわらわらと現れた肉人形たちを見る。こいつらの相手をしながら殺菌消毒にまで気を配るのは無理だ。彼女はこの無敵の技の他に、グリコよりも高レベルな身体能力まで保有している。
──どうするか。
考えているグリコに、天井を歩く殺菌消毒が余裕げな顔をする。
「そうね──あなたの考えているとおり、TYPE-A《
語る言葉にグリコは
勝機といえばそれだけか。
連射ができないならば、一撃を避けた後にどうとでもできる。しかし身体能力では太刀打ちができない。せめてこちらに彼女と同じような能力があれば──。
そんな存在に──スプーンだけで勝てるのだろうか。
「悩んでいる暇も、余裕もないわよ──あなたには」
近づいてくる肉人形の群れ。そして真上、殺菌消毒を見てグリコは一瞬だけ硬直する。
その両手。
「TYPE-B《
両手に、それぞれ一本ずつスプレー缶を握っている。殺菌消毒はそれらを誇るように振りかざし、警戒し身構えるグリコに独り言のような口調で語る。
「そうね──これは、対個人で効果を発揮する能力。あまり使う機会がないから──中身もたっぷり残っているし」
そしてスプレー缶の射出口を、こちらに向けて
「教えておいてあげる。TYPE-B《
確かに、一撃で命を奪われる《
しかし──相手の両手が
「
グリコは素早くスプーンを抜き、殺菌消毒の無防備な顔に向けて
瞬間。
殺菌消毒は表情を変えず、踊るように両手を広げ、《
「《
振らずに噴霧された少量の《
次々と現れ、固まった同胞たちを越えながら近づく肉人形。
それらに容赦なく《
「──しまっ」
グリコは敵の
「小さな獲物は追いこんで殺す」
冷たい──殺菌消毒の声。冷徹な、それは何の感情もない声だった。
「猫はそうやって狩りをするらしいわね。奇襲もするみたいだけど。ちなみに犬は延々と追いかけたり取り囲んだりして狩りをする。どうでもいいわね。本当に──どうでもいい話だわ。けれど」
グリコは慌てて肉人形の壁を
ぽたたっ、と無理に皮を剥いだ拳から血が
逆方向は──駄目だ。そちらには殺菌消毒がいる。廊下の奥まで遠いし、きっと、逃げようとして走っているうちに狙い撃ちされてしまう。
逃げ場がない。
どうする。考えろ。生き残る。
死ぬのはその後だ。そう決めた。
けれど──。
「
二つのスプレー缶は温情もなくこちらに向く。《
グリコは
きっと──あの《
鈴音や
死ぬのは別に怖くない。むしろ望むところだ。
けれど──それは、この女を殺してからだ。そして鈴音を生き返らせる方法を見つけてからだ。まだ死ねない。死ねないのだ。
ぱりっ、とグリコの背中で何かが
それが何だか自覚する直前──。
「──それじゃ。おやすみなさい──」
つぶやき、シャカシャカとスプレー缶を振る彼女の。
腹部。そして脚部で。
血
「────」
目を見開き、殺菌消毒はぐらっと揺れて反転すると落ちる。どうも《
「う──ぐ」
まだ痛覚が残っているのか。
彼女が押さえた指の
「ぐ。う」
そこは殺菌消毒、素早く飛び
そこに。
「この病院は──
「故に、言わせてもらおう。私の庭で何をやっているか貴様!」
「賢木──」
グリコは呼びかける。彼のおかげで助かったが、さっきの攻撃は奇襲だったからこそ殺菌消毒に当たったのだ。正面から戦ったら賢木に勝ち目などない。とにかく──守らなくては。
賢木──。
苦しげに呻く殺菌消毒を捨て置き、彼のそばまで駆けつける。グリコも先刻の戦闘で右目に傷を負っているが、どうにか薄い視力だけならば取り戻せた。
だから見えた。賢木の後方。一体の肉人形がぼんやりと立っている。信じられないことに、その肉人形は手に鈴音の身体を抱きあげている。
──肉人形。
グリコはスプーンを取りだし、そいつに迷わず襲いかかる。
「どけ! 賢木──そいつは」
「
両手を広げ、グリコの前で通せんぼをする
「
「…………」
肉人形は、何故だか、
グリコのどの言葉が彼を傷つけたのかはわからない。
けれど──どうしてか、その一瞬、グリコは確かに胸の痛みを覚えた。
「事情を説明している暇はない」
賢木は
「話はだいたい彼に聞いた──あいつが、閣下を殺した殺菌消毒か」
腹を押さえたまま、よろけながらも立ちあがる彼女に、賢木はグリコすらも
「私の愛する閣下を殺したな。その罪──、償う方法は皆無だ。この私を敵に回した不運を悔やみながら百万回は死ぬがいい」
「く──く。くく──くくく」
漏れるような笑い声。殺菌消毒は
「くく。うふふ。あはは。あぁ──世界は
埋まった銃弾を指先で
彼女はそのままの姿勢で、両手を真横に広げる。すると磁石のように二つのスプレー缶が自動的に跳びあがり、彼女の両
ぽたぽたっ、と止まらない血が汚れた廊下をさらに汚した。
「ふふ──ふふふ。ふふ。ふふふふ」
「何が可笑しい!」
耐えられず、グリコは殺菌消毒を睨みつけて怒鳴った。嫌な予感がする。もちろん賢木がきたことで形勢が逆転したわけでもない。
「あなたたち、
──欠片?
おぞましい肉人形の壁を背景に、殺菌消毒は顔をあげた。
それは
「いいわ──面白いから教えてあげる。
林檎。
禁断の林檎。
それが神様の欠片? そういえばヘビが語っていた。それは、神様の魂、その半分で
「林檎。林檎ねぇ。まぁ──そう見えなくはないでしょう。全く、
笑い、殺菌消毒はこちらを見た。
何かに
「ずっと昔。ずぅっと昔。原始の人類が生まれるよりも前──ある強大な存在がこの星にはいた。神と呼ばれるべきその存在は、しかし、とある理由で散り散りに砕け散ってしまう」
それはヘビが語った内容に似ているような、全く違うような、奇妙な話だった。けれど──ヘビも人類とあまり知識は変わらなかったのではないか。ほとんど想像と伝承で語り、実際に
けれど殺菌消毒の口調には──確信がある。断言がある。
きっと、これが──真実だ。隠されてきた真実。神や蟲や林檎の真実。
「砕け散った神は、七つの大きな欠片と、無数の細かい欠片に分かれた。私も──大きな欠片の一つ。そうね──あなたたちが蟲と呼んでいる生き物も、大きな欠片の一つよ。もっとも──今は欠片を集めるために分裂しているみたいだけど」
分裂。よくわからない。
しかし殺菌消毒は詳しく説明する気がないようで、笑みを含みながら語りつづける。
「どうして私たちが欠片を集めるか知りたい? 知りたくなくても語るけど──再び神の姿に戻るためよ。私たちの今の身体はね、分裂した欠片でしかない。完全体に戻りたいのよ──それは本能的な欲望ね。そして一度は、無数に散らばった欠片を集めることに成功した」
そのまま彼女はこちらを見る。深く何か感情をこめた暗い暗い瞳。
「けれど、そこで
理解する。彼女の
「目覚めたら、人類は笑えるほどに増殖して、地に満ちていた──焦って
手を胸元に寄せて、殺菌消毒は
「それでも、私は元の姿に
「…………」
黙りこむグリコの横、
「なるほどよくわかった。この間抜け。砕かれたとか奪われたとか
そうだ。賢木の基本法則は
そうだ。過去に何があったかなど知らない。
もっと単純になろう。鈴音の
「あら──思ったより」
殺菌消毒は
「愚かね──」
その声に隠しきれず混ざったのは殺意。そして同時に、こちらを絶望へと
「──では、最後に教えてあげる。その欠片の能力を」
彼女は
「欠片と言ったでしょう。それは液体を想像してもらえるとわかりやすいかもしれないわね。砕け散った神の魂──魂というのは、命のエネルギー。生き物が、生き物として動くのに必要な力。車のガソリン。懐中電灯の電池。それが無ければただの肉。その魂はあらゆる生き物に宿っていて、その対象を食べることにより吸収される。生きているうちに魂はだんだんと消費されるから、そうして動物や植物を摂取しないと生物は生きられない」
そういえば、野菜も、肉も、元を正せば生き物だ。人間は、それらの生き物から魂を少しずつ吸収して、消費したぶんを補っているのか。だから食べなければ死ぬ。
「魂は液体だから、肉体に吸収されると簡単に混ざる。普通──混ざって溶けた魂は受容器である心臓に貯蓄される。うん、良いことを教えてあげる。魂は心臓に宿るから、
グリコは思わず息を
そういえば、グリコも心臓を失ったことはなかった。頭部を吹き飛ばされかけたことはあるが──しかも
それはきっとあのヘビも知らなかったこと。そこまで知っているということは──やはり殺菌消毒は、彼女が言うとおりの存在なのだろうか。
七つの大きな
殺菌消毒。
そんな相手に──自分たちは勝てるのだろうか。
「あなたたちが林檎と呼ぶ神の魂の欠片は、人間の魂なんか比べものにならない超濃度の魂の結晶。わかるかしら? 老いとともに魂の消費は激しくなって、やがて需要に供給が追いつかず、または大きな病気や深刻な
なるほど──とグリコは思う。
色々と
理解して、今は──一つのことのみ頭にいれる。
殺菌消毒も、心臓を抉れば殺せる。
それのみが重要で、他のものは全てそれの前では
「そして──これが笑えるのだけど」
殺菌消毒は、ただ無邪気に。
「肉人形という存在をあなたたちは見たわね? そう──あなたの後ろにいるし、私の後ろにもいるもの。肉人形、その作り方を教えてあげましょうか」
最悪の真実を──口にした。
「簡単よ。欠片でも
……死んだ人間に欠片──
「────」
グリコは。
「────あ」
理解した。
振り返ってはいけない。振り返ったら絶望する。理解している。言葉ではなく。本能で理解しているが──。
振り返ってしまった。
ほとんど思考もなく。
ただ理解を確認するために──振り返ってしまった。
「欠片が、肉体を循環するのにかかる時間はだいたい二十分」
殺菌消毒の声が──遠い。
「あなたが、いつ──欠片を与えたのか知らないけれど。もう動いてもいい
硬直する
肉人形に支えられ、
「はは──あはは。あははは。あははははは!」
殺菌消毒の甲高い笑い声が、体液と肉片に染められた廊下に響く。
「感動のご対面というところかしら? 知らずにやってしまったのでしょう。愚かね──眼球抉子! どう、
ただ立っているだけの、それこそ──人形のような。
「鈴音……」
つぶやくと、ぴくりと鈴音は反応し。
「りんね」
おうむ返しに、己の名前を口にした。
「りんね。りんね。りんね。りんね」
「────」
グリコは腰が抜けて、その場に崩れた。信じられない。悪い夢のようだ。
しかし──こうして、起きあがった彼女はすでに
「さぁ、ご
目を
「
そんな
困ったような顔をグリコに向けるのみ。
「あ。あ──あ。ああ!」
グリコは切れた。何も考えられなくなった。思考は消滅し、ただスプーンを握りしめて殺菌消毒に襲いかかる。彼女を殺せばどうにかなる気がした。もちろんそんなわけはないのだけど──ただこの得体の知れない憎しみだか絶望だかを、この女に
「殺菌消毒──ッ!」
「どうして、あなたは私に怒っているのかしら?」
満足そうに
「あなたの憎悪が