決着は、呆あつ気けなかった。

 相手にもならなかった。手て長なが鬼おには、美み名なに驚くほど簡単に敗北してしまった。

 自分の両足を折り、肩を砕き、恐怖を刻みこんだ化け物のような少女が、まるで抵抗らしい抵抗もできず──否いな、抵抗を許されず。

「────」

 よく理解できなかったので、鈴りん音ねは思いだそうとする。

 まず、何か肉人形に語りかけようとした美名に、危険を感じたか手長鬼が襲いかかった。例の見えない強力な拳こぶしで、美名を恐らく殴り飛ばそうと。

 けれど、その行為は、いともあっさりと失敗してしまった。

 美名は優雅な表情で半歩だけ避よけて拳をかわし、手にしていたスプレーを押すと──さぁ、と銀色の霧を撒まいた。

 瞬間、手長鬼の表情が変わったのを覚えている。

 あれ? という顔で、何か必死に力をこめて。叫んで。

 それでも何も起こらなくて。

 そんな彼女に悠然と歩み寄り、美名は強烈な前蹴げりをぶちこんだ。それだけだった。多分──それだけだったと思う。

 腹部に強烈な打撃を受けた手長鬼はもんどり打って何度か凸でこ凹ぼこ道を跳ね、それっきり、気を失ったのか動かなくなってしまった。

 手長鬼が弱かったわけでは決してない。相手は、十人殺しの手長鬼。強烈な超能力をもつ化け物に近い存在。

 そんな彼女を──邪魔な埃ほこりでも払うようにあっさりと沈黙させ。

「見えないものを見るのはね、性能的に得意なの」

 にっこりと目元だけで笑い、殺さい原ばら美み名なは冷酷な声で囁ささやいた。

「相性が悪かったわね。手長鬼──まぁ、あなたのことはどうでもいいわ。これでもう無害だし。もうちょっと、泳がせて色々と探りたかったけれど──成りゆき的に無理のようね」

 理解できない言葉を吐いて、美名は肉人形に向き直る。

 その性別不能な肉の塊は、すでに手長鬼から受けた肉体の欠損を完全に回復させていた。おぞましいその外見にも美名は表情を動かさず、足下にへたりこんだまま、恐怖に震える鈴音を無視して語りかける。

「さて──肉人形、弁解を聞かせてもらおうかしら? どうして、私の命令を無視して、宇う佐さ川がわ鈴りん音ねを守ろうとしたのか。返答によっては──否いな、うふ、みなまで言う必要はないわね……?」

 その言葉がどれだけの恐怖を肉人形に与えたのか、それはびくりと反応し、意外なことに──人語でもって応えた。

「はい。同じく手て長なが鬼おにも宇う佐さ川がわ鈴りん音ねの欠片かけらを狙ねらっているようでしたので、先に彼女を排除しなければ、あちらに欠片を奪われる可能性があると判断したからです」

「ふん──?」

 美み名なは怪け訝げんな顔をする。

「──欠片を狙った? こんなもの、私たち以外に欲しがるやつがいるかしら。見たところ手長鬼も欠片を保持している──二つ以上の欠片を所有していても、受容器が破裂して悶もん死しするだけなのに。ま──欠片の性能を勘違いしていたのかしらね?」

 何かしら納得して、美名は癖なのか独り言のようにつぶやく。

「肉人形が壊れたのかと思ったけれど、どうやら思いすごしのようね。そもそもただの肉の塊が──誰だれかを守ろうとか、そんな気持ちを抱くわけもないし」

「…………」

 肉人形は沈黙している。その姿がどこか人間めいて見えたのは鈴音の気のせいだろうか。考えている余裕もなく──痛みで思考が飛びそうになる。気持ち悪い。理解できない状況と、身体を蝕むしばむ酷ひどい激痛。

 そして──恐怖。

 目の前の女性に対する、深い深い恐怖が吐き気を誘発する。

「さて」

 美名は思索をやめたのか、鈴音を見つめてにっこりと笑う。

「こんばんは。さっきは電話をありがとう。あなたを見つけたのは良いけれど、手近に電話が見つからなくてね──まぁ結局、見ていられなくて出てきてしまったのだけど。あなたのことは確実に処理できるから、結果万全というところかしらね?」

 フシュー、と言葉のたびに美名の口からは息が漏れる。

 何か違う生き物のようだ、と鈴音は思った。体構造が、思考回路が、全すべてが──違う。それはそばに立つ肉人形よりも、ずっとずっと異質な存在だった。

 どうして、最初に会ったとき気づかなかったのだろう。このような異常に。

 彼女は──危険だ。

 ヘビよりも、手長鬼よりも、誰よりも──危険だ。

 殺さい原ばら美み名なは微ほほ笑えんで、鈴音に言葉を投げかけた。

「尋ねるわね。正直に答えると、そのぶん長く生きられるという感じだから」

 その言葉にはきっと嘘うそがない。彼女は、顔色すら変えずに自分を殺すだろう。林りん檎ごを食べた不老不死の自分すら、きっと彼女は苦もなく始末してしまうのだと思う。

 美名は、きっと、そういう生き物だ。

「何を──」

「一ヶ月前」

 美み名なはにっこりと笑って、静かな声で問いかけてくる。

「何があったか──教えて頂ちよう戴だい」

 賢さか木き。グリコ。

 鈴りん音ねは大切なひとたちの顔を思い浮かべる。

 あぁ──きっと、もう会えない。帰れない。


 彼女に、出会ってしまった。


  


 相あい沢ざわ梅うめは、手先が不器用な少女だった。

 料理をすれば鍋なべ底を焦がし、謀反を起こした包丁に指先は壊滅状態。工作をすればまともには完成せず、風が吹いただけで壊れる欠陥品ができるだけ。

 何をやってるんだ、指。

 いつでも不満だった。

 その不満を解消するために意地悪な神様が送りこんだのは。

「はーれーたーよーるーはー♪」

 歌いながら現れた、気が狂ったような顔をした強盗。ただの強盗。新聞記事にはなるけれど、一週間もすれば忘れ去られてしまうどこにでもある事件。その強盗は梅の両親を殺し、殺人が癖にでもなったのか、最後に残った梅はゆっくり殺そうと梅を押し倒すと血まみれの包丁を振りあげた。

 指先から、刻まれて、何度も何度も気を失って。

 泣き叫んでも許されなくて。誰だれも助けてくれなくて。

 転がっている両親の亡なき骸がら。次々と切断される指、手──腕。

 肩から腕を切り落とされて。

 あぁ──。

 後は、よく覚えていない。


 気づくと、自分は万能の腕を手にいれていた。


 無我夢中で強盗を八つ裂きにして、意識を失って。

 目を覚ました自分に、見知らぬ男が言ってくれた。

『ようこそ! 俺おれたちの世界へ!』

 その瞬間、きっと──自分は理解していたのだ。

 もう戻れない。自分は──。

 ──。

 ──……。

「………あ」

 目覚めると真横に太陽があって、紅あかい夕焼けが世界を鮮やかに染めあげていて、手て長なが鬼おには太ふと股ももや腹部に疼とう痛つうをおぼえつつも、また負けたのか──と思いながら立ちあが──。

 ──?

「──あれ?」

 起きられない。

 おかしいなと思って、手で踏んばって起きようとする。

 感覚がない。

「────」

 手長鬼は呆ぼう然ぜんとした顔で、何度も何度も試みた。

「──えい。えい。立とう。立たなくちゃ。うん、立たなくちゃ帰れないし」

 感覚がない。

 感覚がない。

 感覚がない。

「──えい。うんしょ。立って帰ろう」

 ──腕が。

「帰る──ゼキくんのところに」

 ──腕が、ない。


 …………。


 沈黙し、手長鬼は嗚お咽えつを漏らす。

「──ひぐ」

 涙が見る見るうちに溢あふれ、頬ほおを流れて落ちていく。

「手が。手が。手がぁ」

 嫌だ。すごく嫌だ。手が、手がなくては、長くて強い手がなくては、自分は手長鬼じゃなくなってしまう。また弱い、不器用なだけの相あい沢ざわ梅うめに──戻ってしまう。

 ──そして藉ぜき口ぐちに捨てられる。

「嫌ぁ! やだやだぁ!」

 絶望が押し寄せてきて、手長鬼はぼろぼろと泣いた。

「やだよぅ……」

 化け物になってしまった自分に、居場所を与えてくれた藉口。自分を受けいれ、賞賛し、ともに生きようと言ってくれた藉ぜき口ぐち無なし法のり。

 彼のところに帰るのだ。

 帰って褒めてもらうのだ。

 それがいつものことだった。手て長なが鬼おにの、唯一無二の幸福だった。

 なのに。

 感覚のない両腕が、静かに否いなと告げていた。

 ──手が。

「手が、無くなっちゃった」

 虚うつろな声でつぶやく、手長鬼の頭上──凸でこ凹ぼこ道の奥。


 ざり、と足音がした。


「──ゼキくん?」

 心臓が止まるかと思って、手長鬼は目をぎゅっと瞑つぶる。

 嫌だ。

 嫌だ嫌だ嫌だ。

 藉ぜき口ぐちに捨てられるくらいなら、このまま死んでしまったほうがいい。藉口に要らないと言われるのは、何よりもずっと怖かった。

 手長鬼は泣きながら震え、全すべてが崩壊する恐怖のなかで懸命に謝った。

「ごめんなさい──ごめんなさい。捨てないで。捨てないでください」

「この世には──」

 瞬間。

 聞き覚えのない声に手長鬼は目を見開く。

「──え?」

 覗のぞきこんできた顔は、どこかで見たような、前髪のせいで人相が化け物じみている一人の男性だった。彼は、懐から携帯電話を取りだすと番号を押し始める。

「──本当に、憂ゆう鬱うつなことが多すぎる」

「あなた──」

 声をかけるも、男は名乗らずただ気け怠だるそうな顔で問いかけてくるのみ。

「手長鬼。手が出せないというのは本当です?」

「あ……」

 傷をほじくられ、手長鬼は歯は噛がみして涙を堪こらえる。しかし無理で、手長鬼は声をあげて泣き崩れてしまう。

 それを見て何か納得したように頷うなずくと、繋つながったらしい通話に彼は事務的に告げる。

「あー、どうもご苦労様。嘆なげ木きです。嘆なげ木き狂くる清きよ。あぁ、そうそう。今から場所を言うので急いで来てくださいね。うん? そうですねぇ、救急車も。たぶん手遅れでしょうが」

 手長鬼は理解する。

 どうやら彼は警察の一員らしい。以前は警察なんかてんで怖くなかったので無視していたが、今の状態では間違いなく簡単に捕獲される。

 これで終わりか──と手て長なが鬼おには思う。

 きっと、能力の消えた自分を、藉ぜき口ぐちは助けてくれないだろう。

 悄しよう然ぜんとしていると、当たり前のように嘆なげ木きは言った。

「あぁはい。死んでるんです。女の子が一人ね」

「………?」

 死んでいる? 自分は死んでいない。誰だれが死んでいるというのだろう。

「はい。見たところ──両足を折られて、肩を砕かれて」

 それは。

「心臓を抉えぐられて、殺されています」

 誰の──。


  


 悪夢に魘うなされて、眠れない夜があった。

 鈴りん音ねと離れて生活を始めてから、ずうっと悩まされてきた悪夢。それはこれまで殺してきた人間の姿だったり、無数の眼球が蠢うごめく光景だったり、一定はしなかったけれども、酷ひどく苦しくて──。

 あれは、そんな夜。眠れなかった夜のこと。

 目を覚ました眼がん球きゆう抉えぐり子こは、偽いつ原わら夫妻と暮らす自宅、暗い自室で目覚めた。柔らかなベッド。空そら柄がらの掛け布団。スプーン針の時計を見ると深夜の二時を指していた。

「…………」

 寝汗が酷く、気持ち悪くて、グリコはシャワーでも浴びようと音をたてないよう扉へと向かった。火ひ乃のと樹き夫おを起こしてはいけないと思ったのだ。

 あの二人。本当に甘っちょろくて、気が抜けるほど無邪気な二人を、まだ親と思えるかどうかはわからない。そもそも、グリコは親というものがどういうものなのか、今をもってしても理解できていない。

 それを正直に彼らへ伝えたら、簡単じゃない、と二人は笑った。

 ──親っていうのは僕たちだよ。

 理屈なんか通じない馬ば鹿か。呆あきれて、グリコも考えないようにした。ちょっとずつ、ちょっとずつ、学んでいけばいいのだと思う。彼らと一緒にいるのは、別に不快じゃない。

 そう思って、現状を受けいれかけていた夜のこと。

 グリコは、居間で、二人が小声で会話をしていることに気づいた。

 悲痛な声だった。能天気な彼らには似合わない、哀かなしそうな声。

 ──わたしは。もう駄目。もう嫌。

 火乃の声。やはり──自分みたいな化け物か人間かもわからない子供の世話なんか、彼女らにとっては重荷だったのだろうか。考えて、自分でも理解できないことに激しい儚はかなさに襲われて。

 しかし。

 ──わたしには殺せない。

 そう、つぶやいていた火ひ乃の。それに応えた樹き夫おは。

 ──火乃さん。駄目だ。もしも殺すのを拒絶するなら、僕たちがあの方に殺される。

 ──殺されたっていいじゃない。樹夫さんだって、どうせグリコちゃんを殺せないくせに。わたしよりもずっと、グリコちゃんを大切に想おもっているくせに。

 火乃の声は泣いているようだった。

 ──それにどうせ、殺されるっていったって、とっくにわたしたち──。


 そこで目が覚めた。


 過去の映像を夢として見ていたらしい。おかげで悪夢は見なかった。ただ気持ちの悪い消化不全の思考だけが脳内に居座っていて、どうにも気分が悪く、グリコは夢の中と同じように暗くら闇やみで目覚めた。

 頭が酷ひどく重い。

 あの会話は──あの夜の、二人の会話はなんだったのだろう。グリコを殺すとか、殺されるとか──意味がわからない。とにかく、何か気持ちが悪く、グリコは鬱うつ々うつと天井を眺めた。

 学校を休んで、鈴りん音ねの電話すら拒絶し。

 ひたすらに殻にこもり、部屋に閉じこもっていた。

 火乃や樹夫の気遣いを無視し、食事に呼ばれても外にでないで。

「あぁ──なんなんだろうな、全く、グリコは、あんまり弱くて嫌になる」

 そこに選択肢がある。

 それは藉ぜき口ぐち無なし法のりという、狼おおかみの目をした男が突きつけてきた選択肢。

 このまま人間として生きていくか。

 それとも化け物として生きるのか。

 もしも鈴音や火乃、賢さか木きや樹夫、大切なひとを守りたいと思うなら。

「グリコが近くにいるのは危険──か」

 自分は、自分の残酷さを知った。十人殺しの手て長なが鬼おにと変わらない、むしろ彼女を凌りよう駕がした、相手の身体を傷つけたいと思う歪ゆがんだ心。眼球抉えぐりの化け物が、自分の本当の姿だ。

 鈴音たちには喋しやべれない過去がある。きっと知れば軽けい蔑べつし、自分を怖がるはずの記憶が。グリコの抉ってきた眼球の数は、たぶん鈴音たちが想像しているよりも多い。

 ──鈴音。

「グリコは、化け物だ」

 ベッドから起きあがり、壁に頭を寄せて、グリコは低く──呻うめくようにつぶやく。

「三百年ほど前、生きるのが嫌になって、自や棄けになって、手当たり次第に人間を虐殺したことがある。鈴りん音ね、おまえと同年代の子供もいた。物言わぬ赤子もいた。愛しあった夫婦もいた。それほど大量の幸せを抉えぐった、はは、眼球抉りの化け物が……」

 グリコは一筋の涙を零こぼす。

「幸せになんかなるような、価値があるわけないんだ……!」

 一ヶ月前。自分の大切なひとになってくれると言ってくれた人間がいる。しかし、自分にはそんな人たちのそばにいる資格がない。たくさん奪ってきたのだ。たくさん殺してきたのだ。いつ、あのころのように自棄になって、鈴音の眼球に手を伸ばすか。

「鈴音、賢さか木き」

 旅にでよう。

「……グリコはおまえらが好きだった」

 遠ざかろう。ここは苦しい。この幸せな世界は、グリコには酷ひどく息苦しい。学校とか、家庭とか、当たり前の幸福のなか、平凡に生きていくのは──グリコみたいなのには苦しいのだ。

 彼女たちに甘えてはいけない。

 遠ざかろう。

 鈴音はきっと、賢木が守る。自分は必要ない。彼女らに依存して──どうせ最後は不幸にしてしまう。

「不幸になるのは、グリコだけでいいんだ……」

 人間と化け物は、一緒になんか暮らせない。

 自分は、化け物だ。

 手て長なが鬼おにと同様に。

「…………」

 決めると、不思議なほどに心は落ちついた。

 この瞬間に──きっと、グリコの心は決まっていた。


 そうして眼がん球きゆう抉えぐり子こは、その選択肢を選んだ。


 必要なものはスプーン。また逆戻りだ。当あて所どなくあちこちを彷徨さまよって、林りん檎ごの保持者を見つけ、蟲むしからその人物を守り──。

 自己満足に埋没し、だんだん何も考えなくなる。

 それでいい。それがいい。もう疲れた。化け物に戻りたい。

 扉を開くと奥は暗く、誰だれもいない。都合がいい。火ひ乃のや樹き夫おには悪いが、これでお別れだ。最後に少し冷たくして、傷つけてしまったかもしれない。申し訳ないなと思う。けれど──最初から無理な話だったのだ。

 心の中で謝罪して、彼らが心配しないよう、せめて置き手紙でも残そうと電話機の近くにあるメモ帳に手を伸ばし。

「────、」

 グリコは、火ひ乃のが床に倒れているのを知った。

「火乃?」

 動かない。近づいて、エプロンを着たままの彼女を揺さぶってみる。まだ温かい。生きてはいる。しかし──いったいどうしたのだろう。このあいだまでは元気そうだったのに。

 舌打ちし、グリコは天井を見上げる。

 どうしよう。どうしよう。あぁ思考がうまく定まらない。

「──そうだ、救急車」

 怪け我がをしたり病気だったり、緊急事態に陥ったとき、救急車を呼べば無料で病院まで運んでくれるんだとか。それは火乃が教えてくれたこと。

 頷うなずき、グリコは電話機へと向かう。

 必死で番号を押して、これが最後だ、これが終わればお別れだと自分に言い聞かせる。

 やがて辿たどりついた救急車に、火乃の付き添いで乗りこんで。

 向かった先の病院で、グリコは──最悪の事実を知る。


  


 その知らせを聞いた瞬間、賢さか木きは拳けん銃じゆう弾を全すべて撃ち尽くして最悪の知らせを告げた電話を惨殺し、人類の限界を超えた速度で学校を飛びだした。仕事は終わっていないと止めようとした教務主任を鮮やかに殴り飛ばし、たまたま学校の近くを走っていた車を腕力で止めた。弾は撃ち尽くしていたので運転手を拳銃で殴り倒し、車を奪うと一直線に連絡のあった病院へと向かった。

 そこから、記憶は完全に消滅している。

 ただ頭は真っ白で、世界も真っ白で、堪たまらない怒りが全身を駆け抜けて、誰だれ彼かれ構わず轢ひき殺したくなるので自制心を要した。道路交通法を色々と無視した運転で病院に辿りつくと、告げられた病室へ乱暴に駆けあがった。

 暗い。

 暗い──病室だった。

 賢木は思考せずただ眼前の光景を理解する。

 広い病室。柔らかそうなベッド。生命維持の機械のようなものは置かれていない。当然だろう──そのベッドに寝かされている賢木の愛した少女、宇う佐さ川がわ鈴りん音ねはすでに青ざめていて、死人の顔で、実際──死ん


 ────。

 ──。

 ──────。


「賢さか木き」

 小さな声が、背後からかかった。

 賢木は凍るような無表情で振り返る。

 そこに誰だれかが立っている。背景は窓で、窓の外は満月の夜で、逆光が眩まぶしいから人相は判然としない。ただ理解した。神様ではない。神様ではないなら、宇う佐さ川がわ鈴りん音ねを助けられない。

「どけ」

 短く、影はそう告げた。

 賢木は横たわった鈴音の足下で立ち尽くし、動かず、応えない。

 影はグリコで、表情はまだ見えなくて、振り返った賢木の胸元あたりで顔を俯うつむかせ。

「どいて……」

 掠かすれた声でつぶやいた。

 肩が震えている。声も震えている。彼女は──。

「ごめん賢木。ごめんなさい」

 ──謝っていた。何な故ぜか、無表情のまま涙を零こぼして。

「……どいて?」

 そして三度目の言葉を告げる。

 賢木は石のように重い両足を動かし、彼女に道をあけた。空気は冷たく、世界は嘘うそくさくて、何も音がしなかった。

「さっき調べた。鈴音が持っているはずの林りん檎ごが消えている。きっと──誰かに奪われたんだろう。おそらく、誰かに酷ひどく痛めつけられて、自ら林檎を差し出させられて」

 グリコは鈴音のそばまで歩くと、手をかざして目を閉じた。

 光。淡い光が、鈴音の身体から溢あふれる。

「一ヶ月前」

 掠れて、小さくて、聞きとりにくい声でグリコがつぶやいた。背を向けているので表情は見えない。

「グリコは、ヘビから二つの林檎を奪った。ヘビ自身の林檎と、ヘビが鈴音から奪った林檎だ。そのうちの一つを鈴音に宿らせる」

 グリコの肩は震えている。鈴音に触れた彼女の指先から淡い光が生まれ──。

「──どうして? なんで、生き返らない!?」

 光はすぐに萎しぼみ、しかし鈴音は蘇よみがえらない。

 奇跡の林檎も宇佐川鈴音を救たすけることができない。

「どうして……」

 グリコは立ち尽くして、拳こぶしを血が滲にじみそうなほど強く握りしめた。

「どうして……! グリコは気づかなかった……! はは。ははは、自分の悩みに酔いしれて、鈴りん音ねの危機にも気づかずに──」

 珍しく声をあげて笑った彼女は、動かない鈴音をひとしきり眺め、全すべての感情が欠落した顔でこちらを振り返った。奥まで暗い銃口の瞳ひとみ。紅あかい色が滲にじんだその瞳には、何もかもを破壊し尽くすような感情が燃えていた。

「賢さか木き──グリコを殺せ。四肢を切断して殺せ首を斬きり落として殺せ眼球をえぐって、脳を掻かき混ぜて殺せ……! それでも死なないようなら、全身を磨すり潰つぶして、焼き尽くして、この役立たずな身体を残らずこの世から消してくれ!」

 半狂乱になって、グリコは取りだしたスプーンを握りしめると自分の顔に向けた。残酷に光るその器具は、真まっ直すぐにグリコの瞳へと向いている。

「役立たず……! こんな何も見えない眼球なら、鈴音の危機にも気づかない目玉なら、むしろ要らないよ……!」

 本気で己の目すら抉えぐろうとするこの少女に、賢木は低い声でつぶやいた。

「やめろ……」

 そして彼女の手を捻ひねりあげると、スプーンを奪う。頭には空白があって。心には絶望があって。火花が散った思考回路は、緩やかに自滅へと溶解メルトダウンを始めていた。

 グリコは止められたのが気に食わないのか憤怒の形相でこちらを睨にらみ──。

「……やめてくれ」

 ──つぶやく賢木の表情を見て、俯うつむき、表情から力を抜いた。

 静寂が絡まりながら心と身体を這はい回り、その静寂すらも耳障りな気がして、賢木は言葉にならない言葉で吠ほえると壁を殴りつけた。何度も何度も。

 それで何かが救われるわけでも、ましてや鈴音が生き返るわけでもない。

 心が晴れることもない。

 それでも──。

「探すぞ」

 賢木は、低い声で宣言した。

 守ってみせると決めたのだ。一年前の死の海で、宇う佐さ川がわ鈴りん音ねという少女を。前提以前に戻っただけだ。何も要らない。ただ一心に、鈴音を再び以前と同じ生活へ戻すことを願う。

 賢木は裂れつ帛ぱくの気合を瞳に宿らせて、グリコの肩に手を置いた。

「──探すぞ。鈴音を助ける方法を。まだ何かあるはずだ。ここで諦あきらめたら、本当に全てが終わってしまう……。神だとか、蟲むしだとか、聖園エデンの林りん檎ごだとか──。ここはなんでも有りの世界だ。閣下だってきっとまだ助ける方法がある……!」

 それは儚はかない、蜘く蛛もの糸よりも頼りない希望だったが。

 賢木はそれに縋すがるしかなかった。グリコも頷うなずいて、すぐ至近、正面から真っ直ぐに賢木の瞳を見つめてくる。

 そこにはもう自暴自棄だった先ほどまでの雰囲気はなく、ただ強い光に溢あふれていた。

「──そうだな……」

 強い光をそのままに、これまでにない台詞を吐く。

「先生。ありがとう──希望が、少しだけ見えた」

「こういうときだけ先生と呼ぶな馬ば鹿か」

「すまん。何な故ぜだろうな──突然、おまえを先生と呼びたくなった」

 グリコは綺き麗れいに微ほほ笑えんで。

 不意に、振り返る。

「けれど賢さか木き。おまえはくるな」

「どうして──」

 くるなって? 賢木は逆上しそうになる。誰だれに向かって言っているのだ。他の誰が止まっても、鈴りん音ねのためならばどれだけ危ない場所にでも足を踏みいれるのが賢さか木き愚ぐ龍りゆうなのだ。

 それを理解していないわけはない、それでもまだ、グリコは意志を曲げずに真まっ直すぐにこちらを見る。

「賢木。何度も──この言葉を言わせないでくれ」

 顔を背け、病室の扉を開く。

「……見ないで。これからグリコは化け物に戻るから」


  


 この扱いは酷ひどいと思う。

 首輪を嵌はめられている。

「…………」

 煙草の匂においが染みついている狭いこの部屋は殺風景で、ところどころに地図だとか、山の写真だとかが適当に置いてある。山登りが趣味なのだろうか。似合わない。考えながら、手て長なが鬼おには捨てられた子犬のように身体を丸めて周囲を警戒している。

 治療眼帯で隠していた眼球はほぼ再生を終えたようで、視界も明めい瞭りようなものに戻っていた。

 ここは、自分を捕まえた髪の毛のお化けみたいな刑事の部屋だ。四畳間で、他の部屋はトイレしかなくって、設置されている簡易キッチンには洗いたての食器がつまれている。きちんと掃除もされているし、どうもあの刑事は外見に似合わず几き帳ちよう面めんのようだ。

 部屋の照明は点ついている。

 部屋の主は、どこにもいない。

「ゼキくん……」

 自分を縛いましめている首輪を破壊しようと、『手』に力をいれるがやはり感覚がない。嘆息し、手長鬼は心細くなって目に涙を浮かべる。自分の全すべて。唯一の誇り。両腕が消えてしまったのだ。哀かなしい。同時に──拠より所どころがなくなって儚はかない気持ちになってしまう。

 こんなふうになった自分を、きっと藉ぜき口ぐちは必要としない。

 捨てられてしまう。

 思うと──さらに寂しくて切なくて涙が頬ほおを流れていく。

 天使のような悪魔のような恐ろしい女に負けて、理屈はわからないが両腕を消されて、泣いていると、あの刑事に拾われた。刑事は警察のくせに自分を牢ろう屋やにぶちこんだりはしなくて、何かよくわからないことを言うと自分の部屋──つまりここ、まで手て長なが鬼おにをつれてきて首輪で繋つないだ。

 首輪は露出した柱に適当に固定されていて、そんな程度の弱い縛いましめでも、手のない手長鬼には脱出することができない。しかしこれ、普通に縛られるよりも変な気持ちがする。というかこれは明らかに自分を犬扱いだ。むかつく。手長鬼は泣きながらも、うう、と唸うなって刑事を呪のろう。

 これから、自分はどうなってしまうのだろうか。

 牢屋に閉じこめられはしなかったけど、似たような状況だ。なお悪いかもしれない。あの刑事には何か手長鬼ですら寒気をおぼえる妙な感じがあった。何をされるかわからない。怖くなって、手長鬼は小さな声で助けを呼ぶ。

「ゼキくん……」

 声は誰だれにも届かずに、壁で四散して消える。

 手長鬼は冷たい畳の感触を味わいながら、ただ震えて状況が変わるのを待ちつづけた。

 それからどれだけ時間が流れたことか。

 ようやく泣きやんで、頬が乾燥した涙でヒリヒリし始めたころ。

「やぁ、遅くなってすみませんねぇ」

 不意に扉が開いて、怪しい刑事が姿を見せた。手には何やら食材のようなものと、服とか、下着とかがつまった紙袋。しかもどうやら服や下着は手長鬼のもので、刑事は明らかに長期にわたって手長鬼を監禁する気まんまんだった。

 血の気が引いていく。

「やれやれ……この外見だと子供服売り場をうろついただけで犯罪者扱いになるんですね。だがしかし、奥様たちがヒソヒソ通報したほうがいいかしらとか囁ささやくなかを買ってきましたよ君のぱんつとか」

 こいつ変態だ。

 決まった。こいつ最悪の変態だ。自分は何かこいつに想像もできないような変態的行為をされるに違いない。

 怯おびえて、手長鬼は背筋を緊張させると犬のように唸うなった。

 毛ほども動じずに、変態刑事はクックックと嫌らしく笑った。

「まぁそう警戒せずに。警戒しようと何しようと今の君より僕のほうが強いんです。だったら、反抗的な態度を見せて僕を不快にさせるより、愛あい嬌きよういっぱいな態度で僕の機嫌をとっておいたほうがいいと思いますがね」

「…………」

 そうだ。十人殺し、観かん音のん逆さか咲ざき町に死と恐怖をばらまいた手て長なが鬼おにはもういない。ここにいるのは、蹲うずくまって震えているのは、普通の人間よりも弱い、両腕のない子供に過ぎない。

 手長鬼は理解して、それでも心は折らずに精一杯の虚勢で相手を睨にらみつける。

「あなた──何? 手長鬼をどうする気なの? こ、こないで。近寄らないでよ。手長鬼はあなたの言いなりになんか絶対にならないんだから。変なことしようとしたら、噛かみついて、蹴けとばしてやる」

 怯おびえと怒りを含んだ手長鬼の瞳ひとみを、髪の毛の隙すき間まから、刑事は愉たのしそうな瞳で見返して笑う。

「クックック。まぁ安心してください。外見から誤解されますが、僕はとっても善良な一般人なんです。特殊な能力なんかないし、死ぬときは簡単に死ぬ」

 そこでふと思いついたような顔をして、刑事は今さらのように言う。

「そういえば──名乗っていませんでしたね、僕の名前は嘆なげ木き狂くる清きよ。刑事です。もっとも──連続殺人鬼を捕獲したのにその事実を報告せず、自室にこっそり隠している時点でその資格は無いも同然なんですがね」

 語る声に手長鬼は応えないが、理解する。やはり彼は、警察に自分をつれていくつもりがないようだ。では──何が目的なのだ。疑うたぐるような目で、嘆木と名乗ったこの不気味な刑事を睨みつける。

「……何を企んでるの。クルキヨ」

「企む? おやおや、何も悪いことをしようってんじゃありません。ただ──この世には、憂ゆう鬱うつなことが多すぎる。その憂鬱をね、ちょっとばかし晴らしてしまおうってだけのことですよ。相あい沢ざわ梅うめちゃん」

「────」

 いきなり口にされた本名に、手長鬼は表情を変える。

「──どうして」

「相沢梅。三年前、強盗事件に巻きこまれて生死不明の行方不明。生きていたとしたら、今年でようやく十一歳。両親はその事件で死亡。犯人の強盗も同時に死亡。ただ一人娘の梅ちゃんだけはどこにも見当たらなかったので、警察当局は必死になって捜索をつづけたが──今に至るまで、その消息はわかっていない」

 つらつらと述べて、嘆木は奥の読めない笑みで言う。

「君が寝床にしていた墓石から辿たどってみましたらね、まぁそういった憂鬱な事件が浮かびあがってきたわけですよ。確証はありませんでしたが──今の反応を見ると間違いがないようですね。相沢梅ちゃん」

「その名前で呼ばないで!」

 手長鬼は震えて、必死にそれだけ訴えた。

 嘆木は愉しそうににやにやと笑う。

「うん? では手長鬼と呼べと? 手のない君がその名前で呼ばれることが、どれだけ滑こつ稽けいなことだかわからないではないでしょう」

「…………でも」

 手て長なが鬼おには俯うつむいて、ぎゅっと瞑つぶった目から涙を溢あふれさせる。

「でも手長鬼だもん。手長鬼じゃなきゃいけないんだもん……」

 その様子に、嘆なげ木きは何を思ったか、深々と嘆息すると首を振った。そして買ってきたらしい食材を冷蔵庫に詰め始める。自炊をしているようで、弁当や惣そう菜ざいではなく野菜や肉といった原材料のみだった。何な故ぜかコーヒー牛乳を紙パックで三本も買っている。

「少し──気持ちを落ちつけるべきかもしれませんねぇ、君は」

 言って、嘆木は当たり前のように言う。

「じゃお風ふ呂ろに入りに行きましょ。どうせ、君ろくに身体を洗わない生活してたんでしょ? さっぱりして、涙も血の匂においも落として、ご飯を食べて今日は寝ましょ」

「お風呂って──」

 意外な提案だったが、手長鬼もそれにはちょっとだけ賛成だ。これまで、汗や血でべたついた身体は墓場に備えつけの水道で洗うしかなかったのだ。たまにはお風呂につかって、身体の芯しんまで温まりたい。

 お腹なかもけっこうすいている。手長鬼は、まだ皮膚感覚や空腹感を失っていない。藉ぜき口ぐちの話では、林りん檎ごを手にいれた後、一回でも死ぬような怪け我がをすればそれらは急速に失われていくらしい。手長鬼は眼がん球きゆう抉えぐり子こに眼球を抉えぐられて殺されかけたから、そろそろそれらも消えていかなければならないのだが。

 今はともかく、お風呂に入りたい。

「──お風呂に入らせてくれるの?」

「はいはい。けれど、この部屋には備えつけのお風呂がありませんからね。公衆の浴場になりますが、それでも宜よろしいですか?」

「え──」

 公衆浴場。つまり銭湯。それは少し嫌だ。自分の、この両腕のない身体はそういう場所ではいつもより奇異の視線に晒さらされる。

 手長鬼の怯おびえるような顔に何か思うところあったのか、嘆木は柔らかく微ほほ笑えんだ。

「大丈夫です。近くの銭湯の主人とは旧知でしてね、帰り際に立ち寄って、今日は一時間ほど貸し切りにしてくれるよう頼みましたから」

「あ──それなら」

 表情に希望を戻す手長鬼を、突き落とすように嘆木は笑う。

「そうです。君、自分で自分を洗えないでしょう? 僕がちゃんと隅から隅まで洗ってあげますから。そうです──男湯に怪しい刑事と少女が一緒に入っていても、その少女に首輪が嵌はまっていても、誰だれも気にしないんですねぇ──クックック」

「────」

 手長鬼は瞬間的に硬直し、がばっと身を仰のけ反ぞらせると首輪に繋つながった鎖をじゃらじゃら鳴らして嘆なげ木きから遠ざかる。そんな手て長なが鬼おにに愉たのしそうに嬉うれしそうに、変態刑事は近づいて、あっさりとその鎖を握った。

「あ」

「じゃ、行きましょう。梅うめちゃん。銭湯へ向かう途中、誰だれにも見られなければいいですね? これでも僕にも社会的立場というものがありまして──」

「へ。へ」

 鎖の固定を外し、ぐいぐい引っぱり扉へ向かう彼に手長鬼は叫ぶ。泣きそうな顔で、世界に絶望した顔で。

「変態────ッ。変態のひとがいる────ッ!」

「こらこら。妙なこと叫ばない。近所の方に誤解されたらどうするんですか」

「誤解してもいいから誰か気づいて助けてよぉ──ッ!」

 絶叫する手長鬼だが、残念なことに銭湯に辿たどりつくまでの五分間、救い主となる通行人は一人も現れなかった。


  


 それから三十分ほど手長鬼にとっての拷問がつづいた。抵抗虚しく銭湯までつれていかれて、銭湯の主人は盲目らしく異常な二人組にもちっとも気づかず普通に応対してくれて、ぐいぐい引っぱられるままに男湯まで引っ立てられて。

 脱がされて。洗われて。湯船に放ほうりこまれて。

 …………。

 手長鬼は屈辱に身を震わせていた。

 手が。手が戻ったら。真っ先に嘆木を殺してやる。全身の皮を剥はいで四肢を切断して、心臓を抉えぐって悶もだえ死ぬまで容赦してやらない。

 見られた。全すべて見られて、おまけに洗われた。藉ぜき口ぐちにも見られたことなかったのに。お嫁にいけないではないか……。頭がくらくらして、思考は全く像を結ばず、ただ恥ずかしくて情けなくて消えてしまいたくて、手長鬼は真っ赤な顔で湯船に口元までつかっている。

『味の湯』。そんな調味料みたいな名前の、古式ゆかしき一般的な銭湯だった。遊園地じみたスーパー銭湯が主流の現代、このような普通の銭湯はあまり流は行やらない。設備というのか、特別に変わったお風ふ呂ろもなく、あまり広くない浴槽に申し訳程度のサウナ、といった感じだった。

 奇妙に天井だけが高く、上を見ると湯気が蜷局とぐろを描いて昇っていくのが見える。その光景は綺き麗れいで、手長鬼は羞しゆう恥ち心を鎮めようとただ黙って眺めていた。

 嘆木はどこ吹く風で、自分の身体を洗っている。口ずさんでいる鼻はな唄うたは生意気なことにビートルズ。変態不気味刑事のくせに。ゲゲゲの鬼太郎でも歌っていればいいのだ。

 思いながら、手長鬼はちらちらと嘆木の身体を見ている。

 ──綺き麗れいだった。

 身体だけ見れば、引きしまった長身に、適度についた過剰ではない筋肉。綺麗だと思った。思って、手て長なが鬼おには何を考えてるんだとさらに紅潮して湯船に沈んだ。

 熱い、全身に染みてくる湯。生き返った感じがする。

 考えるのは、藉ぜき口ぐちのこと。そして自分から全すべてを奪った、あの天使のような悪魔のような女のこと。

 女の、蜂はち蜜みつのような声とか、優しそうに見えてその奥に冷たさを隠しもっている瞳ひとみとか。思いだすだけで背筋に寒気がはしる。怖くて、こうしているうちにもあいつが襲ってきそうで、手長鬼は顔をあげ、歯を噛かみしめると深く嘆息した。

「なのに──どうして」

 彼女を、藉口と似ているなどと思ってしまったのだろう。

 自分を助けてくれた藉口。

 自分を絶望に追いこんだ女。

 ぜんぜん違うのに──どうして、同じ種類の生き物だと思ってしまったのだろう。

「──梅うめちゃん、首までお湯につかっていると健康に悪いですよ?」

 ざぶり、と嘆なげ木きがなんでもないように手長鬼の隣に入ってくる。ざざざざ、と瞬間的に遠ざかって、手長鬼は思考をいったん棚上げすると大声で叫んだ。

「う、うあ。クルキヨ! これ以上、手長鬼に近づいたら酷ひどいからね!」

「? そんなに大声をださなくても二人だけだから聞こえますよ? クク、僕、嫌われた? どうもねぇ──僕の愛情表現は、誰だれかの心を不快にする。きっとこれはみんなの心の造りが悪いんですねぇ。この世には──憂ゆう鬱うつなことが多すぎる」

 むかつく笑みを浮かべる嘆なげ木き狂くる清きよ。

 その顔を見て、手長鬼はぎょっとする。

「あれ──クルキヨ?」

「うん? 僕は嘆木狂清ですよ? どうしました?」

 応える彼の──その顔は。

 いつも表情を隠していた髪を後ろで結び、素顔がこちらに晒さらされていた。その顔は、手長鬼が一瞬だが見とれてしまうほど端麗で──。

「いや、誰?」

 手長鬼は、思わず問いかけてしまった。

 嘆木は首を傾かしげ、何を思ったかこちらにざぶざぶ湯をかきわけて近づいてくる。

「近眼なんですか? 見えてます?」

「わぁぁ近づくなって言ってるでしょ!?」

 派手な頭突きで変態刑事を撃退し、自身もかなり痛くて手長鬼は呻うめく。しかし、髪を上げた嘆木がここまで美形だとは思わなかった。じゃっかん好みな顔立ちなのが負けた気分である。

 嘆なげ木きはしばし湯船に沈んでいたが、やはり骨の抜けたような動きで体勢を上げるとぼやいた。

「ぁ痛たた……。暴力反対。どうも人類はね、話しあいで問題を解決できる生物っぽいですよ?」

「話しあいをして欲しかったらこっちのことも少しは考えてよ馬ば鹿か! 恥ずかしいっていうのに!」

 叫んで、のぼせて息切れして、手て長なが鬼おには深く──長く嘆息する。

「あぁ、もう。どうしてこんな状況に」

 藉ぜき口ぐちのところに帰りたい。心からそう思う。藉口は、自分にこんなに接近してくることはなくて、ほとんど会話もしてくれなかったけれど。

 そういえば誰だれかと、こんなふうに気兼ねなく喋しやべったのは何年ぶりだろうか。手長鬼ではなく、一人の人間として。思い──首を振り、まだこの男は信用できない、と手長鬼は心に銘じておく。世界で信じられるのは、自分と藉ぜき口ぐち無なし法のりだけ。

 他人は怖い。いつ──自分の両腕を切り落としたあの強盗のように、自分に対して牙きばを剥むくかわからない。

 思っていると、不思議なことに、彼は手長鬼の思考と同じようなことを口にする。

「あぁ──こんなふうに、誰かと楽しく喋ったのは久しぶりですねぇ。ま──君はまだまだ僕に打ち解けてくれないみたいですが」