「────」

 そこで鈴りん音ねは理解する。

 彼女も、肉人形も、自分を助けてくれる英雄なんかじゃない。

 もう──どこにも、逃げ場なんてないって、理解してしまった。


  


 グリコは眠っていた。眠らせたのだ。考えこみすぎて心が砕けてしまいそうな、情緒不安定な子供は寝かせてしまうに限る。眠れば、脳の機能が勝手に腐りかけた部分を癒いやし、病気になった心を治してくれる。

 足りないのは、睡眠だ。

 偽いつ原わら火ひ乃のはそう思う。

 だから眠ってもらった。定期的に通院していた火乃は、医者からよく効く睡眠薬を処方してもらっていた。この手の薬には耐性がないらしく、グリコは布団で丸まって、枕まくらを抱きしめて眠っている。

「──ごめんなさい」

 つぶやく声は、火乃のものではなく。

 枕を抱きしめて震える、小柄な少女のものだった。

「──ごめんなさいごめんなさい生きていてごめんなさい……」

「謝らなくてもいいの」

 火乃はつぶやいて、グリコの頭を撫なでる。広がりきったオオカミヘアは寝汗で濡ぬれていて、仄ほのかに熱い。

 火乃は優しく寄り添って、グリコに声をかけている。

「あなたは──何も悪くないのだから」

「ごめんなさい」

 もちろん言葉は聞こえない。グリコは苦しそうに何度も何度も謝っている。

 火乃は嘆息し、壁にかけられた秒針も分針もスプーンでできた時計を見る。グリコが珍しくものすごく欲しそうにしていたので買ってあげたのだ。なんでこう彼女はスプーンをやたら愛しているのだろうか。火乃は知っている。グリコは一人のとき、たまにスプーンを見つめてうっとりしている。スプーンフェチか。まぁ趣味は人それぞれなので無理に矯正したりしないが、どうかと思う。

「樹き夫おさん──遅いわね。いつもこの時間には帰っていたのに」

 首を傾かしげ、つらつらと独りごちる。

「仕事が長引いているのかしら」

 多分そうなのだろう。寂しい。彼がいないと、火乃は不安になる。

 どうしたらいいかわからなくなる。

 グリコはやがて涙を浮かべ、嗚お咽えつをあげながら寝言を漏らす。

「殺して……。殺して。殺して殺して」

 悲痛な、起きているときには考えられない弱々しい声。

「死なせて。死なせて──」

 何がグリコを苦しめているのか、火ひ乃のにはわからない。

 毎夜、彼女が同じように、悪夢に魘うなされているのは知っている。

 可か哀わい想そうだと思う。けれど──火乃は、夢の中まで助けにいけない。

 グリコの髪を撫なでながら、火乃は考える。

 どうして、本当の子供でもない彼女を、こうも愛いとしく感じるのだろうか。そもそも、この感情は本物なのだろうか。全すべてが偽物の自分が──誰だれかを愛することなどできるのだろうか。子供。嘘うその子供。精一杯、愛するふりをしていたけれど──。

 その気持ちは本物なのか。

「…………」

 火乃は無言で、きり、と腕を上げる。

 例えばここでグリコの首を思いっきり絞めたとする。

「…………」

 首筋に添えてみた指には、しかし力を込められない。触れているグリコの頸けい動どう脈みやくは、休まずに熱い血潮を循環させている。

 生きている。

 しかし動きを止めた火乃とは裏腹に、眠っているグリコはその行為を促している。

「……殺して」

「…………」

 火乃はグリコの首を握りしめ、沈黙して考えている。

 どうして、指に力が入らない。

 どうして、自分は動けない。

「グリコ」

 どうして、自分は泣いている。

 わからない。樹き夫おがそばにいない。

「殺して」

 つぶやくグリコの目元にも、涙の雫しずくが光っている。

 カーテン越しに差しこむ夕暮れの光が、静止した二人を優しく包んでいる。

「……泣かないで。グリコ」

 強い疲労とともに首筋に置いた手を解き、火乃は自分も泣きながら、知らずに想おもいを口にする。

「お母さん、ここにいるよ」

 偶然か、グリコは安あん堵どしたように息をつき、しばし悪夢から逃れて──穏やかに寝息をたて始める。

「わたしは──わたしは」

 火ひ乃のは耐えられなくなって、顔を抱えると苦く悶もんの叫びをあげた。

「わたしは……! 殺せないよ……!」

 涙が溢あふれて止まらない。この涙と、この想おもいだけは、偽物でできた火乃の──唯一、真実だと思えるもの。

 静かな閨ねやは、ただ寂しく、偽りの親子を包みこんでいた。