疲れた。何がなんだかわからなかった。怒ればいいのか、哀かなしめばいいのか、それすらもわからない。混乱している。頭がぐるぐるする。気持ち悪かった。

 グリコは家へと帰りつき、漠然とソファに寝転がると天井などを眺めた。そして何気なくスプーンを取りだして照明に煌きらめかせる。

 火ひ乃のと樹き夫おは、自分が今日、手て長なが鬼おにと戦ってきたことを知ったら怒るだろうか。それは怒るだろう。誰だれかを傷つけてはいけないなんて最低限の約束事を、グリコは破ってしまったのだから。

「けど──」

 それなら、どうすれば良かったというのだろう。

 矛盾した、正義を主張する自分が二人もいるような感じがした。

 鈴りん音ねを、学校の連中を、町のみんなを守りたいと思うグリコ。

 誰かを傷つけてはいけない、殺してはいけないという考えを刻まれたグリコ。

 両者は相あい容いれず、けれどどちらも間違いなくグリコで、どうしようもない。自分が戦う必要はなかったんじゃないか──とも思うが、あのときは、それがいちばん正しいと思ったのだから仕方がない。それに、やはり──手長鬼は、自分じゃなきゃ倒せなかったように思う。

〝だからね、君は──殺菌消毒と遭遇する前に、自分の未来を決断しなくてはならない。化け物として生きるのか。人間として生きるのか〟

 狼おおかみの目をした、偽りの神父の言葉が頭を反復している。

 そうだ。グリコは気づいてしまった。今日、手長鬼と戦って。自分のなかに確かに存在する『眼がん球きゆう抉えぐり子こ』という化け物に。手長鬼と戦っていたとき、本当に楽しいと思った。彼女の眼球を抉えぐりとったとき、なんだか気持ち良いと思った。ただ背後に立たれただけで──鈴音を殺そうとしてしまった。あれは鈴音ではなかったが──鈴音の姿をしていたのだから同じことだ。

 ……わかってしまった。

 自分はやはり人間じゃない。

 眼球を抉り、闇やみから闇へ、千年も生きてきた化け物だ。物言わぬ器物すら九十九年で化け物になる。千年も使い古したこの身体はすでに人間ではないのだろう。

 そして──心も。

 とっくの昔に化け物だった。

 それがわかった。わかってしまった。だからグリコは落ちこんで、物憂げにただスプーンを眺めている。いつもこの煌めきだけが確かなものだった。大切なもののないこの曖あい昧まいな世界で、縋すがるように見つめていたのはいつもこの光だった。

 スプーンで誰だれかの眼球を抉えぐり、その命を奪ったとき、ようやく自分は生きているという実感を得ることができる。眼球抉りの化け物──それが自分。

 思いだした。思いだしてしまった。

「く──」

 何が常識及び一般的社会倫理観養成訓練だ。

 下らない。そんなもの、人間相手の訓練だ。

 自分は誰だ。眼がん球きゆう抉えぐり子こだ。ただの冷酷な化け物だ。人間たちと一緒にいてはいけない。自分は──むしろ、あの手て長なが鬼おにと同種類の生き物なのだから。

 ぎり、と音がするほど強く歯は軋ぎしりして、グリコは広いソファから身を起こした。観かん音のん逆さか咲ざき町の中心にあるそれなりに大きなマンション。大きな窓から星を臨む暗いリビングでグリコは低く嘆息する。

 いつも余所者よそものだったヨノ。拾われっ子の自分に、どこにも居場所などなかった。千年間──眼球抉子として生きてきた自分は、鈴りん音ねや賢さか木きにたまたまその居場所をもらって、それに甘えて──。

 ぞわ、と想像の世界、グリコの脳内に無数の眼球が這はう。

 それらは過去、自分が他者から抉ってきた眼球。すでに光のない、虚うつろなその眼球は自分をただ感情もなく見つめている。

 林りん檎ごが根を張る前にとグリコが殺した人間の。不老不死の秘密を求めて襲ってきた人間の。必然はなくただの偶然でグリコと敵対した者の。数多あまたの人間の──そして数えきれない蟲むしの眼球。

 ──自分は。

 そうだ。

 ──幸せになんかなっちゃいけないのだ。

 そんな権利などない。化け物は化け物らしく、死ぬまで闇やみから出なければいい。出てしまったから、奇跡のような優しさに包まれたから、いっそうグリコは穢けがれきった自分が恥ずかしくて嫌になって、死にたくなる。

 こんな気持ちになったのは初めてだった。

 あぁ──そばに鈴音がいない。グリコが馬ば鹿かなことを言ったら、柔らかに微笑しながら叱しかってくれる彼女が。

「…………」

 あの後──手長鬼との死闘の後、唐突に現れた狼おおかみの目をした男は手長鬼を回収して去り、後には呆ぼう然ぜんとしたグリコだけが残された。

 千年前、自分を殺したのだという男。藉ぜき口ぐち無なし法のり。その正体がなんだかは知らないが、とにかく──彼の言葉はいちいちグリコの心に爪つめ痕あとを残した。

 鈴音の姿を見て、我を忘れてしまった自分。あのときは運が良く打開策を思いついたが、相手が悪ければあれで終わりだった。自分は弱くなってしまった。以前よりずっとずっと。林りん檎ごの数が減ったせいではない。身体能力は不思議なほど変わらない。

 けれど──弱くなってしまったのだ。

 気絶した嘆なげ木きを適当な通行人に預け、救急車を呼ばせ、そこで何だか嫌になったから帰って今は一人でいる。常識及び一般的社会倫理観養成訓練のため用意されたこの部屋に、未いまだ火ひ乃のと樹き夫お──二人の『親』は帰ってきていなかった。

 あの底抜けに浮かれきった二人と三週間も一緒に暮らして。

 楽しくなかったといえば嘘うそになる。実際、グリコはよく笑うようになった。

 けれど──これは、偽りの生活なのだ。嘘の幸せなのだ。グリコの両親は赤子のグリコを育てる義務を放棄して捨てた。それからグリコを拾った養い親は一度もグリコを愛さず蟲むしに殺された。それが全すべてだ。今さら──また親なんか欲しくない。

 照明もつけず、観葉植物がさりげなく配置された部屋で、グリコは電源のはいっていない暗い暗いTVをただじっと見つめていた。気が滅め入いる。最悪の気分だ。手て長なが鬼おにと戦って、得たものは気持ちの悪い罪悪感と虚しさだけだった。

 ぱちり、と照明がついた。

 そこに──幽鬼のように、火乃と樹夫が立っていた。

 表情がない。ぎょっとして、グリコは戸惑いながら声をかける。

「か──帰ってたのか。どうした、今日は馬ば鹿かに大人しいが」

「…………」

 すう、と声もなく火乃が移動する。おかしい。なんだこの人形みたいな顔は。いつも花みたいに咲いていた彼女の表情は、無機質なままゆっくりとグリコを仰いだ。

 そこで。

 かちり、とスイッチが入ったかのように。

「わぁグリコちゃん! そこにいたのね!」

 同時に樹夫も。

「ははっ。ちっとも気づかなかった! ねぇグリコお腹なかがすいているかい? 今日は僕が夕食当番だからね、なんでもグリコが食べたいものを作ってあげる!」

 なんて、爆発みたいな朗ほがらかさで言ってのけるのだ。

「…………?」

 違和感。まぁもとからこの二人の態度は変なのだが、さっきのには何か引っかかりを感じた。

 嘆息する。なんにせよ、今はこの疲れる二人と喋しやべっていたくない。

「……うるさいな」

 目を瞑つぶり、ソファに身を預けて腕を組む。

「今日は夕食いらない。気分じゃない。すまないが二人で食べてくれ」

「まぁ!」

 すると火乃が大げさに跳びあがるのだ。

「どうしたのグリコちゃんごはんいらないなんて! ごはんいらないなんて! あぁ驚きすぎて二回も言っちゃったわ! ど、ど、どうしたの病気? どこか気分でも悪いの? あぁグリコちゃん! グリコちゃんが死んじゃうぅ?」

 うるさい。

 グリコはさらに強く目を瞑つぶり、不快感を露あらわにした顔で冷たく言った。

「……うるさいな。そんな日もある」

 今は駄目だ。不安定だから。

「だから放ほうっておいて」

「いいえ! グリコちゃんに何かあったらお母さん死んじゃうわ!」

 お母さん?

「お父さんも何も手につかなくなっちゃうよ! 本当に本当に大丈夫かいグリコ? お医者さんに行く? それともそれとも」

 お父さん?

 誰だれが? この化け物に親なんかできるわけがない。

 むかっときた。意味もなく、不愉快になった。たぶん八つ当たりだ。本気で心配してくれる二人。その態度が何な故ぜだか煩わしくて、グリコは冷たく刺すようにつぶやいた。

「──黙れ。騒ぐな。うるさい」

「グリコちゃん……」

 本当に。

 なんでなのかと思う。こんな可か愛わいくない子供に。無愛想な化け物に、火ひ乃のは心底こちらの身を案じている顔で近づいてくる。そしてグリコの額に手をやって、熱はないみたいだけど──なんて、本当にお母さんだと錯覚しそうなことをする。

 やめて。

 もうやめて。

 自分にはそんな資格などない。たくさん殺してきた。たくさんたくさん、滅ぼしてきた。誰かの親がいたかもしれない。誰かの子供がいたかもしれない。

 一ヶ月前、化け物の自分を受けいれてくれる優しいひとたちがいた。宇う佐さ川がわ鈴りん音ね。賢さか木き愚ぐ龍りゆう。しかし──自分は。

 やはり自分は化け物だ。幸福になってはいけない化け物なのだ。

 だって、何故なら、こうして日常に生きているより、今日のように──他の化け物と血で血を洗う戦いをしていたときのほうが、自分は自分らしかったのだから。十人殺した手て長なが鬼おにと同じだ。自分は──自分は、鬼だ。

「触るな!」

 グリコは叫び、火乃の指先を振り払った。自分でもわけがわからない。火乃はびくっとして、青くなって、ちょっとだけ後ずさった。

 沈黙がおりた。

「………………………グリコ?」

 樹き夫おの声に、グリコは顔を両手で押さえて呻うめいた。耐えられない。

「やめて。もうやめて。家族ごっこは──つらいよ。つらいんだよ」

 眼球を抉えぐる化け物は、そうして今の全すべてを拒絶した。

 もう考えたくない。疲れた。頭がぐるぐるして気持ちが悪い。死にたい。


  


 ──ノアの箱船。聖書にその記述が見受けられる比較的に有名な伝説だな。はい知ってる者は手をあげろ。おぉ、予想外に多いな。別に日本人がものすごい勢いでキリスト教を信じ始めたわけじゃなく、ゲームとか漫画とかで知ったんだろうが。はい女子たちよく見るがいい。いま手をあげている男子はそういうゲームとか漫画とかが大好きなオタクだ。はいそこ手を下げるな。オタクだっていいじゃないか。私は好きだぞ、ん?

 太古の昔──それこそ植物が口をきき、魔法が当たり前に存在した時代。アダムとイヴの子孫──人類たちは腐敗を極めた。他人を信じず、享楽に溺おぼれ、飽食に満ち──互いに殺しあい、静かに、そして確実に堕落していった。

 その光景を見ていた神はなんとなくむかついたのでエイヤッと洪水を起こして人類を皆殺しにしてしまいましたとさ。それがノアの洪水伝説だ。ん? 何かな閣下、物言いたげな視線だが。そうか、そんなに公衆の面前で私の愛を確かめたいか。いいだろう──私は胸を張って腹式呼吸で告げてみよう、うさりん閣下、私はあなたを愛・し・て。

「わぁぁ先生お願いだからやめて! なんか今日の先生は変にテンションが高いよ? どうしていったい?」

 照れずとも良いのに。

「先生──嫌いになるよ? あの先生、ちょっと疑問なんです。その洪水で人類が皆殺しにされちゃったんだったら、あたしたち生まれてないと思うんですが」

 うむ。授業中にのみ敬語で喋しやべるから私は距離を置かれたみたいで寂しいぞ閣下。ともあれ、神とてそれほど鬼畜ではない。人類をまとめて虐殺しちゃうあたりマトモな倫理観があるかどうかは怪しいが、とにかく、そう──それはただの殺さつ戮りくではなく、そうだな、君たちオタクが大好きなゲームのリセットのようなものだったのだ。おい目を逸そらすな貴たか御み門かど。……とにかく、神は箱船というその洪水にも耐えられる堅けん牢ろうな箱を創造し、そこに人類のなかで最も善良だったノアという男と、その家族を乗せた。

 人類のとばっちりで他の動物も皆殺しにされてしまうのだが、それはあまりにも不ふ憫びんだと思ったか、神様はそれぞれの動物の番つがいを一組ずつ箱船に乗せた。そうして次の世界を創つくる夫婦たちを乗せた箱船は出航し、残った生物は洪水で全滅した。

 洪水が引き、全ての文明が破壊し尽くされた世界で、箱船の住人は新しい生活を始めた──と、これがノアの洪水伝説だな。悪いことをしたら神様が洪水で虐殺しますよという教訓めいたものなのだろうが、実際、生物を死滅させるほどの洪水が起こったら地球が壊れると思うのだが。生産者たる植物が軒並み全滅して死の世界だ。箱船には食料もないからまず肉食獣が草食獣を食い、その後は血で血を洗う共食い地獄が展開されたと思うし──。

「あの。あの先生」

 ん? どうした閣下。

「先生、それは授業に関係あることなんですか? 今は普通に数学の時間なんですが」

 おっと、あらゆる知識は授業に無関係なものではないよ。そう──人生という授業にはな。む? どうして苦笑いなのかね貴様ら。先生は今かなり良いことを言ったのだが?


  


 今日の授業が全すべて終了して、放課後、宇う佐さ川がわ鈴りん音ねは一人っきりで道を歩いていた。風が強くて髪がよく暴れ、弾丸のような砂つぶてが露出した肌を打った。

 しかし鈴音は風も砂も気にせずに、何か酷ひどく思い悩むような顔でつぶやいている。

「……かけちゃおうかな。かけちゃ駄目かな」

 今日、グリコは学校を休んだ。

 朝から見かけないのでまさかと思ったが、結局、放課後まで待ってみてもあのオオカミヘアの女の子は姿を現さなかった。彼女はあれで学校には休まずくる子なので、鈴音は深刻な不安に襲われてしまう。

 昨日、喫茶店で不思議な刑事に声をかけられ。

 待っていろと言い残し、姿を消した眼がん球きゆう抉えぐり子こ。

 その日は遅くまでグリコのことを待っていたのだが、結局、夜が更けるまで彼女は帰ってこなかった。

 大丈夫。グリコはとっても強いから。

 信じている。必ず帰ってきてくれると。

 けれど──今日も、彼女は学校にこなかった。

 まさかとは思う。グリコにかぎって──とは思う。

 しかしどうしようもなく連想してしまうのだ。再会を約束して──手て長なが鬼おにに殺されてしまった克かつ美み。彼女のように──グリコも、手長鬼に殺されてしまったんじゃないかって。

 不安で不安で、鈴音はどうにかなってしまいそうだった。賢さか木きに相談しようにも、今日は学校の仕事がいつになく忙しそうだった。

 邪魔をするわけにはいかない。

 けれど──グリコのことは心配だった。

 賢木に頼らず、自分がどうにかしなくてはならない。いつまでも賢木におんぶに抱っこで甘やかされているわけにはいかない。守られているだけではいけないのだ。

「──かけちゃおう」

 決断し、鈴りん音ねは歩いているうちに辿たどりついた商店街、風よけのために店と店の間に入りこみ、こっそり座りこんで携帯電話を取りだす。

 鈴音は貧乏なので本当ならばこんなもの持つことはできないが、賢さか木きがある日に買ってきてくれたのだ。電話料金も彼が払ってくれている。申し訳なくて、鈴音はあまり使うことができないが──四の五の言っていられない。状況が状況だ。

 グリコが今どこで生活しているのかは知らないが、自宅の電話番号は教えてもらっていた。彼女が電話に出るかどうかは賭かけだが、このあいだ家で携帯電話の使い方は教えてあげた。電話のベルが鳴れば受け答えはどうであれ電話を取るくらいのことはするだろう。

 登録してあったグリコの番号を発信して、はぁ、と白い息を吐きながら待つ。

 暗がりは寒く、身を切るようで、走り抜ける風の音が喧やかましい。

 電話は家からかければよかったかな、と鈴音はちょっと後悔する。

 考えていても始まらない。とにかく──祈るような気持ちで待ちつづける。

 どれくらい時間が経たったか。

 やっぱり家にもいないのかも──そう鈴音が諦あきらめかけたころ。

『────はい。偽原です』

 聞き覚えのない、女性の声がした。

 偽原、というのは確かグリコの親代わりになったとかいうひとで、グリコと一緒に暮らしているらしい。彼女に聞けばグリコが家にいるかどうかわかるかもしれない。

 鈴音は電話だというのに姿勢を正して、真剣な顔で頭を下げる。

「あ。こ──こんにちは。あたし、えっと、グリコさんのクラスメイトの宇う佐さ川がわ鈴りん音ねと申しますが、グリコさんはご在宅でしょうか?」

 瞬間。

 どこか警戒が混じっていたような女性の声が、爆発的にテンションを上げる。

『きゃー! お友達? グリコのお友達? 樹き夫おさんグリコのお友達がご降臨ですよって外出中だわ運の悪いひとね! はいはいッ! こんにちは! わたし、グリコの母で偽いつ原わら火ひ乃のと申します!』

「…………はぁ」

 ものすごい勢いでまくしたてられたので反応が少し遅れ、鈴音は呆あつ気けにとられてポカンとした顔になる。

 気を取り直し、電話口の向こうできゃあきゃあ騒いでいる火乃に言う。

「初めまして。あの──今日、グリコさんが」

『グリコ? グリコね!』

 言葉を遮って、幸福そうな火乃の声はさらに声量を上げる。

『グリコねぇグリコ可か愛わいいでしょう? 昨日もね、何か落ちこんでるみたいで、おばさんが今みたいに騒いだら怒ったりして喧けん嘩かになりかけたんだけど、深夜にこっそりわたしの部屋に忍びこんで誕生日のプレゼントをくれたの! 万華鏡! かぁわいいでしょう素直に謝らずこっそり置くあたりがプロよね! お母さんを喜ばせるプロ! もうあれだけで全すべてを許しちゃうわ愛しちゃうわグリコラブ! 略してグリラブぅ!』

「…………………………………はぁ」

 圧倒的な早口で捲まくしたてられたのでいまいちわからなかった。とにかく昨日、グリコが買っていた何かは火ひ乃のへのプレゼントだったらしい。そういえばグリコも親の誕生日がどうとか言っていたような気がする。

 彼女がプレゼントを買ったのは昨日。それから深夜にそれを渡したということは、グリコは無事に家に帰っているということだ。

 とりあえずその事実に安あん堵どして、鈴りん音ねは念を押すように火乃へ問いかける。

「あの──ということは、グリコさんは無事なんですね?」

『無事? 無事って?』

 不思議そうな声で火乃は応える。

『うちのグリコは今日も普通に可か愛わいいですよ宇う佐さ川がわさん? 無事じゃないのはグリコが可愛いから正常な思考ができないおばさんだけ!』

 そりゃ大変だ。

『うん? なんなら電話を替わりましょうか? グリコねぇ、なんだか今日は学校行きたくないってご飯も食べずに閉じこもってるの。まぁそういう日もたまにはあるわよね! おばさんもねぇ学生時代は事あるごとに仮病つかって学校をサボったものよ。あんまり仮病ばかりだったから病弱な子と思われて、クラスメイトの男の子が心配してお見舞いにきてくれたりして──宇佐川さんね、病弱な女の子ってのは男の子が守ってあげたいって思うからなかなか点数高いわよ! 狙ねらい目狙い目! なにせそのお見舞いしてくれた男の子ってのが今の旦だん那なさんだからね! あっはっは!』

「…………」

 元気なひとだなぁと思いながら鈴音は嘆息し、丁寧な口調でさりげなく促した。

「あの、それじゃ、グリコさんに電話を替わっていただけますか?」

『もっち! おばさんに任せなさい! ──って』

 言葉が止まり、火乃は考えこむようにちょっとだけ沈黙した。

『えぇと、さっきはよく聞いてなかったんだけど、あなた、名前なんでしたっけ?』

「宇佐川鈴音です」

『宇佐川……』

 考えこむような、何かを思いだそうとしているような間があって。

『──鈴音。あぁ! あぁあぁ! 宇佐川鈴音ちゃんね? はいはい! どこかで聞いたことがあると思った! あのとき愚ぐ龍りゆう様の腕の中で眠ってた女の子ね! あぁ資料に書いてあったわそういえば──む? 愚龍様の恋人ってことは、じゃあ未来の財閥夫人じゃない! ヒッ、失礼な口を叩たたきました電話を替わりますねばびゅーん』

 妙な擬音とともに火ひ乃のの声が遠ざかる。

 どうやら電話機はコードレスのようで、通話を保留にもせずそのままグリコの部屋へ向かっているらしい物音がする。火乃は声が大きいので『たらんらららんたらららぁん♪ グリコちゃぁんグリコちゃぁんお電話ですよぉ♪』という謎なぞの歌まで聞こえてきた。

 やがて彼女がグリコの部屋に辿たどりついたのか、しばしよく内容の聞き取れない問答と、火乃が扉を叩たたくような音がする。本当にグリコは閉じこもってしまっているようだ。だけどちゃんと無事なんだ。良かった──鈴りん音ねは安あん堵どする。

 自分の恩人。大切な友達。

 グリコ。

 無事で本当に良かった。

 安堵して、鈴音は商店の隙すき間ま、制服姿で深々と息を吐く。まだ鈴音は皮膚感覚を失っていないので、座りこんでいると身体の芯しんから冷えていく感じがした。

 しばらく待って、扉が開くような音と、何な故ぜだか火乃の悲鳴が聞こえて。

『……鈴音』

 一日ぶりだが懐かしい、ぶっきらぼうなグリコの声が聞こえてきた。

 鈴音は笑い、朗ほがらかな声で語る。

「あ──グリコちゃん。良かった無事だったんだね!」

『無事は無事だが何か。ん? あ。あ──』

 唐突に思いだしたような、間の抜けた声でグリコは言う。

『──ご、ごめん。昨日、鈴音を喫茶店に置いてきぼりにしていたな? もしかして心配していたか?』

「心配したよ、そりゃ」

 ちょっと拗すねたような声をだして、しかし鈴音のなかでは安心のほうが強かった。

「けど──良かった。グリコちゃんが無事で。昨日、あれからどうなったの? どうして今日は学校にこなかったの?」

『…………』

 グリコは沈黙し。

 どこか縋すがるような、寂しげな声でつぶやいた。

『なぁ鈴音』

 それは彼女にしては珍しい弱々しい声だった。

『グリコは怖い』

「………何が?」

 鈴音も顔を真剣にして、そっと耳を傾ける。

「何かあったの、グリコちゃん」

『昨日──手て長なが鬼おにと戦った』

 グリコは淡々と事実のみを述べる。

『勝ったけど、そのとき、グリコは自分の残酷さを自覚した。グリコは化け物だ。やはり化け物だったんだ。眼球をえぐる化け物だ。鈴りん音ね──自覚してしまった。グリコは人間なんかじゃなかった。学校なんかに行っちゃいけない。人間おまえたちのそばにいちゃいけない』

 搾りだすように苦しげな声。

『グリコは──いつ、手て長なが鬼おにのようになるかわからない』

「グリコちゃん?」

 その声が消えてしまいそうに儚はかなくて、鈴音は思わず手を伸ばす。伸ばした先には何もない。ただ冷たい風が吹いている。

 遠い。

 グリコが遠い。

『だから──鈴音』

 グリコは低く囁ささやいた。

『もう会えないかもしれない。会わないほうがいいかもしれない』

 それだけで、電話が切れた。電子音。

 鈴音は驚いて呼びかける。

「ちょ──ちょっと! グリコちゃん! グリコちゃん?」

 どういうことなのだろう。

 呼びかけるが、切れてしまった電話にどれだけ叫んでも意味がない。蒼そう白はくになって、鈴音は携帯電話を握りしめたまま沈黙する。

 自分を化け物だと言ったグリコ。

 いったい昨日──何があったのだろう。怖くて、鈴音は電話を抱きしめるように胸に抱いた。怖い。もう会えないと言った。グリコがそう言ったのだ。

 そんなの嫌だ。

 それに──グリコは化け物なんかじゃない。鈴音は彼女が好きだ。賢さか木きもきっと同じだろう。さっき電話にでた火ひ乃のだって──グリコのことが大切そうだった。

 そんなにみんなに愛されている、化け物なんかいるわけがない。

 グリコ。グリコ──。


「こんにちは」


 不意に。

「こんにちは。お嬢さん」

 声が聞こえた。真横。

「……こんなところで座りこんでいると風邪をひくわよ?」

 見ると、そこには奇妙な人物が立っていた。

 口元を完全に隠した武骨なマスク。反対に冬だというのに露出の多い女性らしい服装。一本にした三つ編みに、無数の腕輪やリストバンド。

 奇妙な存在感の女性は、にっこり笑うと蜂はち蜜みつの声で言った。

「何か叫んでいたわね? 誰だれかと心が通じなかったのね? その相手はあなたの大切なひとなのね? 哀かなしいでしょう──寂しいでしょう、けれどね、その感情は大切にしていたほうがいい。あらゆる不幸も快感と思うようになってしまえば──それこそ化け物だわ。私はそう思う」

 意味不明だが、奇妙に浸透してくる彼女の言葉に、鈴りん音ねは驚いた顔のまま立ちあがると訝いぶかしげな顔を向けた。奇妙な外見の相手に良い思い出はない。

 ちょっと怖いと思いながら問いかける。

「あの──何か御用ですか?」

「あら。うふ。そうね──初対面だもの、警戒するのも無理はないわね」

 しなやかな動きで片腕を頬ほおに添え、謎なぞの女性は優美に目元だけで微笑した。

「私の名前は殺さい原ばら美み名な。そうね──用件というのも些さ細さいなものなのだけど、ちょっとの間でいいから、電話を貸してくれないかしら? 携帯電話の普及で電話ボックスが次々と消えてしまってね、携帯電話を持たない私としては不便きわまりないのよ。無駄を無駄として完全処分するその思考は嫌いじゃなくてむしろ好きだけど、頭ごなしにマイノリティのみを叩たたき潰つぶすこの方式は褒められたものじゃないわね」

 難しい言葉ばかりを意図してか使うので、いまいち意味がわからないが──とにかく、彼女はただ電話を一時的に貸して欲しいだけらしい。

 普通ならば警戒して貸さないところだが、彼女、今はにこにこしているが怒ると怖そうな気がした。鈴音は頷うなずいて、とりあえず言うとおりにする。

 無言で電話を手渡すと、美名は妖よう艶えんに笑った。

「うん──ありがとう」

 そして遠慮せずに携帯電話の番号を押すと、しばし待つ。

 鈴音は居心地が悪くて指先を絡ませたまま、どうしたものかとそんな彼女を見ている。しかし彼女ものすごい薄着だが、寒くはないのだろうか。

 ──暑さ寒さを感じないわけでもないだろうに。

「あ、もしもし、肉人形?」

 思考は理解できない美名の一言で完全に停止した。

 なんて言った? 肉人形?

 視線を送るも美名は気づいているのかいないのか、やはり和やかな顔のまま通話をつづけている。電話口の向こうには名乗りもせずに。

「そうね──お仕事の時間よ。一人、見つけてあげたから。うん? ここは商店街ね。私? あのね、私は消すのが特技で殺すのは苦手なの。わかる? それに正体は隠しておいたほうが安全なの。逃げられたりしたときにはね。鈍い頭で思考しなさい、あまり馬ば鹿かだと破棄するわよ」

 告げて、美み名なは通話を切るとにっこり笑って電話を返してくれた。

 なんだろう今の会話は。不穏な空気を感じるのだが。

 あまり深追いすると怖いので、鈴りん音ねはそそくさと電話を仕し舞まうと美名に会釈した。

「じゃ──その、あたし、帰りますから」

「あら。そう」

 美名は機嫌が良さそうに笑って。

「──電話をありがとう。帰り道には気をつけてね?」

 言い残すと、和やかに手を振った。


  


 学校の近くに位置している商店街を抜けて、凸でこ凹ぼこ道の田舎道を歩いた果てに鈴音の自宅はある。空き地だらけの寂しい空間にぽつんと建っているアパートで、ものすごく住環境が悪いので家賃は吃驚びつくりするほど安い。他の住人もたまに見かけるがあまり交流はなく、唯一、仲の良いのが隣人の自称音楽家である。

 アパートの自室。その正面。

 鈴音の前の住人が置きっぱなしにした何世代か前の洗濯機。その前にいた隣人は顔を上げると首を傾かしげた。この首を傾げる動作は彼女の癖のようなもので、それが肯定なのか否定なのか謝罪なのか感謝なのか判別するのは慣れている鈴音でも難しい。

「Ring-bell. おかえりなさい」

 低い、どこか発音のおかしな声。色素が抜けたような揺ら揺らした髪の彼女は、今日も安っぽくて泥だらけの服装でぼんやりと立っていた。彼女は異国の血を受け継いでいるようで、その瞳ひとみは曖あい昧まいな菫すみれ色をしている。

 鈴音はその怪しさ満点の隣人にもさして動じずに。

「ブレイクサンさん。お洗濯ですか?」

「Ring-bell. 前から思ってました。ブレイクサンさんは変。あとこの洗濯機は君の。勝手に使ってごめんなさい」

 ブレイクサンは無表情のまま謝ってくる。彼女、人見知りが激しくて内気で、あまり饒じよう舌ぜつなほうではない。表情も滅多に変わらないので内心が読みにくい。まぁ悪いひとではないと思うが。

 鈴音は胸の前で小さく手を振ると困ったように眉まゆ尻じりを下げた。

「あ。やっ、この洗濯機あたしのじゃなくて、あたしの前に住んでたひとが置いてったものだから」

「そ。ならいいです」

 首を傾げ、洗濯機を相手に難解な手順を慣れた感じに踏んで、スイッチをいれるとブレイクサンはあっさり自室へ戻ってしまった。去りぎわ、扉をちょっとだけ開いてこちらに顔を覗のぞかせると、また首を傾かしげて尋ねてくる。

「Ring-bell. あのグリコというのはどこ消えました?」

「え──?」

 言ってなかったけか。

 考えながら、鈴りん音ねはちょっと寂しく思いながらも語る。

「──あ。うん、なんかね。グリコちゃん身寄りなかったんだけど、親代わりになってくれるひとができたとかで。──今はそっちに」

「そ」

 首を傾げ、考えるように眉まゆをひそめる。

「じゃ──危ないかも。あたし弱いから君を守れないし」

 不思議な言葉をつぶやいて。

「気をつけて。Ring-bell. 世界は今日も危険に満ちています」

 やっぱりよくわからないまま、ブレイクサンは部屋に戻った。

「………?」

 相変わらず捉とらえどころのないひとだ。思いながら、鈴音はガンガン動いている洗濯機をしばし眺め、やがて嘆息すると鍵かぎを回して自分の部屋に戻った。


  


 四畳間。トイレがついているだけの狭い部屋には物がたくさんあって、これでも毎日のように整せい頓とんしているのだが、いかんせん収納スペースが少なすぎてどうしようもない。空気がこもっていたので換気扇を回し、上着を脱ぐと、鈴音は制服から部屋着に着替え始める。

 なんだか疲れてしまった。

 思えば克かつ美みが死んでから、休まず終わらず針のむしろに座りつづけている感じ。気分は落ちつくことがなく、油断するとすぐ坂道を転がり落ちて、鬱うつ々うつとした嫌な気持ちの沼に沈んでいく。

 駄目だな、と鈴音は思う。

 すぐに暗い思考へ向かってしまうのは自分の悪い癖だ。

 料理でもして気分転換しよう。冷蔵庫に何かあったっけか。考えながら、鈴音は着替え終わると部屋に直接くっついている流しで顔を洗い、冷蔵庫へ向かった。

 普通のものの四分の一くらいしか大きさのない冷蔵庫。鈴音はとりあえず麦茶を飲もうとコップを持ってきて、冬の空気で渇ききっていた喉のどを湿らせた。

「────はぁ」

 なんだか、本当に、疲れてしまった。

 首を振り、肉も魚も切れているから晩ご飯は質素なものになりそうだなぁと考えながら、やはりまだ料理を作るには早すぎるかと時計を見る。今日はバイトの予定がないのでゆっくりと休める。

 また──迷惑かもしれないが、グリコに電話してみようか。あのままお別れというのは寂しすぎる。

 いったいグリコはどうしたのだろう。

 手て長なが鬼おにと何があったというのだろう。

 考えるが、答えはでず、思考は堂々巡りをくりかえす。

 ──ぴしり。

 小さな音がした。

 気のせいだと思って、鈴りん音ねは携帯電話を見つめる。

 ──びしりべきり。

 そこで顔を上げ、鈴音は周囲を見回す。嫌な予感がした。意味もなく。蒼そう白はくになって、鈴音はぎゅっと身を硬直させると低く叫んだ。

「──何?」

 ──びぎっ。

 気づく。窓だ。

 流しの近く。開閉が面倒な一枚窓。

 窓が──。

 ぴきりぱきり。

 ──ひとりでに、割れている。

 誰だれもいない。姿は見えない。なのに窓が勝手に割れている。罅ひびがはいり、亀き裂れつがはしり、破片になって散らばっていく。がしゃりごしょりと硝子ガラスが落ちる。

「ひ──」

 異常な現象に鈴音は怯おびえ、後ずさると逃げなくちゃと扉へ反転し──。


「見ぃ──」


 低い、少女の声を聞いた。

「──つけたぁ」

 完全に欠落した窓。そこから。

 不意に、少女が顔をだす。薄くしか外の見えない曇り硝子も完全に破壊され、明めい瞭りようになったその空間で無邪気に彼女は微笑する。

 恐ろしい、奇妙な形相。

 少女の片眼は治療眼帯で塞ふさがれていて、もう片方は充血して真っ赤になっている。そんな悲惨な状態なのに、表情はやはり無邪気に笑っていて──。

「あ。あ──」

 怖かった。

「わぁぁ!」

 叫んで、鈴りん音ねは扉に向かう。どうせそんなに遠くない。

 一ヶ月前の事件を思いだす。怪異は。化け物は。鈴音にどうにかできる相手ではない。逃げるしかないのだ。グリコはいない。賢さか木きもいない。逃げるしかないのだ。

「逃がさない──」

 不意に、肩を掴つかまれる。

 嘘うそ。思い──振り返ると。

「──もう、逃がさないよ」

 そこには誰だれもいない。

 それなのに──鈴音の身体は凄すさまじい勢いで引っぱられ、破壊された窓枠から外に放ほうりだされてしまった。悲鳴。視界が回転する。鈴音は空中を泳ぐと窓の外、ゴミ捨て場の近く、アスファルトの地面に強したたかな勢いで叩たたきつけられる。

「──ふぅッ──」

 息が止まる。

 痛い。まだ鈴音の痛覚はほとんど消えていない。

 頭を打って目が回る。

 回った視界。その向こう。

「どう──手て長なが鬼おにの両手おてて、とってもとっても長いでしょう?」

 手長鬼。

 その単語が耳に入る。

 まさか──本当に。

「ゼキくんが顔も名前ももっかい教えてくれたからね。宇う佐さ川がわ鈴りん音ね。もう間違えないよ。そして逃がさない──あなたの林りん檎ごは、絶対に手長鬼が手にいれるんだから」

 充血した目には、酷ひどく冷酷な暗い意志。

「もう間違えられない。失敗できない。手長鬼は、地獄の底まで追いかけてあなたの林檎を奪うんだから。でなきゃゼキくんに捨てられちゃうんだから──!」

 叫ぶ少女に本心から怖おぞ気けが走って、鈴音は竦すくむ足腰に活をいれると懸命に立ちあがった。そして走る。振り返らない。逃げなきゃ──逃げなきゃ。

 殺される。

 確信がある。

 彼女は林檎を手にいれると言った。林檎のことを知っていて、それで自分を狙ねらってきた相手だ。あの蟲むしやヘビのように、あらゆる手段をつかって自分の林檎を奪おうとすることだろう。

 それは駄目だ。

 ここで死んでしまうわけにはいかない。

 賢さか木きや、グリコと、ずっと生きていく。

 そう決めたのだ。一ヶ月前、グリコが帰ってきたあの日に。

「──逃げられると思ってるの?」

 つぶやく、手て長なが鬼おにの身体から『何か』が迸ほとばしる。知覚できないその一撃は運良く鈴りん音ねには当たらず、地面のアスファルトを爆はぜさせると破片を撒まき散らした。

 あんなもの、当たれば絶対に無事じゃ済まない。

 手長鬼。

 克かつ美み──こんなに理不尽な、恐ろしい力で殺されてしまったのか。

 死んでしまった大切な友達。克美を想おもって唇を噛かみ、勢いよく地面を蹴けって鈴音は逃げる。怖い。歯がゆい。克美の仇かたき討うちのために、戦うような力は自分にない。けれど──せめて、殺されてしまわないように。

 物音に気づいたか、鈴音の隣室──扉が開いて、ブレイクサンが怪け訝げんそうな顔を覗のぞかせる。

「……すごい音がしましたが」

 鈴音はアパートの正面、凸でこ凹ぼこ道を進みながら彼女を仰ぐ。

「ブレイクサンさん! 隠れてて! それと、警察──やっ、先生に連絡して! 先生だったらすごく早く警察を呼んでくれるから!」

「Ring-bell. 何が? 警察──?」

 戸惑うブレイクサンの横、両腕の欠落した眼帯少女が、足のみで軽快に駆けて追いかけてくる。

 ブレイクサンはぎょっとして、しかし鈴音が何か危険そうだと理解したのか囁ささやく。

「何事です」

「────うん? 邪魔するの?」

 鬼のような面相で──少女は振り返る。

 いけない。

 鈴音は持ちっぱなしだった携帯電話を振りかぶると、思いっきり手長鬼の顔面に投げつけた。当たれ。体育は得意じゃないけれど、今だけは当たって──。

「ブレイクサンさん! 隠れてて!」

「────にゃっ」

 携帯電話は吸いこまれるように手長鬼の額に当たり、彼女は妙な声をあげてこちらを向いた。

「なぁに? 抵抗のつもり? 痛くないよ? 痛くないから平気だよ──!」

 痛そうだった。

 怒りに満ちた顔でこちらを睨にらみ、手長鬼はブレイクサンから視線を外して追いかけてくる。良かった。ブレイクサンも鈴音の真剣な表情に気づいたか、扉を閉めて部屋に戻ってくれた。手は打った。あとは──逃げるだけだ。

 窪くぼみや突きだした小岩で走りにくい、舗装されていない褐色の凸でこ凹ぼこ道を鈴りん音ねは必死になって走る。どこへ逃げるべきか。とりあえず──相手はあまり見境のありそうな感じではない。人ごみのあるほうへ逃げたら誰だれも彼をも巻きこむかもしれない。

 それは駄目だ。

 ならば。どこに。

「逃げちゃ駄目だって!」

 ふわ、と浮遊感。

 足を何かに引っかけられ、鈴音は堪たまらずその場に倒れる。何?

 振り返る。手て長なが鬼おにとの距離は遠い。手が届くわけもない。

 何かを投げられたか? その形跡もない。

 何? 何だこれは──。

 一ヶ月前。相対したヘビも蟲むしも、何か特別な能力を持っているわけでもない、人間と変わらないような存在だった。けれど、彼女は違う。手長鬼は違う。

 正真正銘の──規格外。

「どう? 手長鬼の両腕おてて、とってもとっても長いでしょう? 逃げられるわけがないんだよ? あなたみたいな弱いのが──!」

 ぼぎり。

「────」

 嫌な音。

 と──同時に両足を襲う信じられない痛み。

「────うッ」

 折れた。

「ぐうっ、うぅ」

 涙をこらえ、しかし悲鳴すらあげられず、鈴音は蹲うずくまって唸うなる。

 折られた。両足とも。

 脳髄にまで走る鮮烈な痛みに、逆に頭が冴さえてしまう。駄目だ。逃げられない。両足を折られて、逃げられるわけもない。

 駄目だ──。

「………諦あきらめちゃ」

 駄目だ。そうだ。

 死んでしまうわけにはいかない。それが信頼と約束。自分は、ずっと賢さか木きと一緒にいる。生きて──幸せになる。

 動けず、涙の浮かんだ顔で振り返る。

「なんで──、なんでこんなことするの?」

「理由? 鬼に理由を聞いてどうするの?」

 手長鬼は叫び、怒りの面相で理解できないことを叫んだ。

「手て長なが鬼おにだって、理由なんかわからなかったよ! わからないままに殺されそうになったんだ! 両腕を斬きられて、──死にかけて、ゼキくんに助けられて! 理解したんだ! 理由なんかなかったって! ただあの男は理由もなく私の家族を殺して、私の両腕を奪ったんだ! だってあいつは腕を捻ひねり潰つぶしても腹を貫いても理由を喋しやべらなかったもの! 理由なんかなかったんだ! ただ──愉たのしかっただけなんだ!」

 地面に崩れたままの鈴りん音ねに、手長鬼は獰どう猛もうな顔で叫ぶ。ぐい、と圧迫感。肩を見えない指先に掴つかまれる。見えない腕。それが手長鬼の能力か──。理解しても、止められない。痛みで思考が明滅を始める。

 手長鬼は、何な故ぜだか可か哀わい想そうな子供に見えた。

 独りぼっちで道に迷い、泣いているだけの幼子に見えた。

「世界には、そんな鬼がたくさんいる! 理解して──決めたんだ、それなら、私は意味なく殺される人間なんかじゃなく、殺すほう──愉しみながら奪いさる、鬼になってしまおうって! そうすればもう痛くないもん! そうすればもう奪われないもん!」

 瞬間、肩の骨があっさりと砕かれた。

「だから私は手長鬼。人間なんかじゃないから、涙なんか出ないんだから! 心だって痛まない──」

 両足と、左肩。

 それらが完全に破壊され、一瞬、思考が飛ぶ。

 折られた骨は皮膚を突き破り、少しだけ露出している。部屋着はあっという間に染みだしてきた血に染まり、心臓の鼓動と波長を合わせて痛みが伝でん播ぱしてくる。

 それでも。

 死にたくない、と思った。

 そして──同時に。

 ……可哀想だ。

 なんとなく、そう思った。

 何がなんだかわからない。彼女の正体も、生い立ちも、何も知らない。

 けれどその言葉からわかることもある。

 彼女はどこか最初に会ったころのグリコに似ている。強いけど、きっと弱い。否いな──強いからこそ、危うい。間違って進んだ茨いばらの道を、強い力で取り返しのつかないところまで進んでしまえるのだ。

 それは──可哀想だ。

 鈴音は痛みで零こぼれる涙を拭ぬぐい、手長鬼を見た。

「──酷ひどいよ。誰だれが、あなたをそんなふうにしたの? 奪われる痛み、痛みという略奪、あなたは──その哀かなしみを、誰より知っているんでしょう」

「え?」

 手長鬼は、きょとんとした。

「え? え? 人間が──人間なんかが、何を、そんな──手て長なが鬼おにを、そんな目で見るの?」

 戸惑った顔で、手長鬼は唇を噛かむ。

「て──手長鬼をそんな目で見ないで。手長鬼は間違ってないでしょう? そんな──優しい目で、見ないでよぉぉ!」

 叫んでいる手長鬼の顔が、薄れていく。

 痛い。駄目だ──本当に、自分は弱い。

 誰だれも助けられないし。いつでも誰かに頼ってばかり。そして──多分、そのままで、何も達成できないまま、ここで彼女に殺される。

 あぁ。

 死にたくないなと鈴りん音ねは掌てのひらで涙を拭ぬぐった。肩から流れた血は指先まで伝っていて、頬ほおのあたりにべったりと血の跡が付着した。

 あぁ──。


 ひたり。


 音がする──。

 ひたり。ひたり。

 何の音?

「────」

 手長鬼が驚きよう愕がくの表情で、体勢を低くし身構える。

「何?」

 鈴音は、蹲うずくまったままどうにか顔を背後に向けてみた。

 そこに。

 肉のような人形のような。

 ひたりひたり。

 それは、奇妙な赤黒い肉が絡まったような、正視に耐えない奇怪な存在だった。暮れてきた夕方の光でその体表はぬらぬらと光り、鼻につく腐った血に似た気味の悪い匂においを漂わせている。

 蚯蚓みみずみたいな、長くて太い肉の束。それが集まったふうな外見をした人形。絡まりあったその肉がところどころ突起していて、それが足だの腕だのをようやく形造っている。

 耳も鼻も口もない、ぎょろりとした眼球のみが存在する顔の部分から。

 ──怨おん怨おん怨おん怨おん。

 低い、這はいあがってくるような音が漏れた。

 その声には手長鬼も驚いたか、身構えたまま目を丸く見開いている。

 奇妙な肉人形は緩慢な動きで鈴音の横に立ち、動かなくなる。心なしかその姿は、鈴音を守ろうとすらしているように思えた。

 手て長なが鬼おにもそう思ったのか、唇の端を吊つり上げて挑発するように言う。

「なぁに? なんだか知らないけど、手長鬼の邪魔するんなら殺しちゃうよ?」

 肉人形は応えない。

 それに気分を害したか。

「──ふぅん」

 手長鬼は鬼相を浮かべ、見えない力を迸ほとばしらせた。

「じゃ、死んじゃえ」

 弾はじけた──呆あつ気けなく、肉人形の頭部が見えない腕に貫かれて爆はぜる。撒まき散らされた赤黒い肉片は、何もない空き地だらけの凸でこ凹ぼこ道に落ちていく。

 終わった。殺されてしまった──。

 鈴りん音ねも手長鬼も肉人形の死を理解した瞬間。

「────え?」

 動きのなかった肉人形の右腕が急激に伸びて、油断していたのか無防備に立っていた手長鬼の太ふと股ももを貫通した。

 血飛沫しぶき。

「ぐ──」

 手長鬼もそこで反応し、顔を歪ゆがめると反撃に転じた。

「──ぁあ痛いなぁ! 痛いの嫌いなのに!」

 弾ける、弾ける、見えない力。

「死んじゃえ! 死んじゃえ! 死ねぇ!」

 そのたびに舞う肉人形の破片。腕も、足も、腹部も砕かれ、散らばり。

 それでも死なない。倒れない。

「──何それ?」

 どころか、撒き散らされた肉片は飴あめに群がる虫のように、ずるずると地面を這はうと肉人形へと戻っていく。

「──う」

 そのおぞましい光景に鈴音は思わず声を漏らす。なんだこれは。なんなのだろう──この状況は。

 手長鬼も理解できないのか、自や棄けになったように力を連発する。

「死ね死ね死ねって言ってるのに!」

 肉人形の腹部が飛ぶが、すぐにまた元通り。

 不死身。

 鈴音なんか及びもつかない、究極的な意味での不死。

 この肉人形は何者なのだろう。どうして──。


「そうね──疑問なのは」


 声が。

 蜂はち蜜みつみたいにどろりと甘い、聞き覚えのある女性の声が響いた。

 手て長なが鬼おにと肉人形が交戦をつづける横。いつのまにか。気配もなく──。

「どうしてあなたが宇う佐さ川がわ鈴りん音ねを守っているのか、ということね、肉人形?」

 殺さい原ばら美み名なが立っていた。

 一本にして垂らした三つ編み。口元を隠す武骨なマスク。

 その掌てのひらに握るのは、酷ひどく質素なスプレー缶。

「──誰だれ?」

 手長鬼は攻撃の手を止めて、警戒するように美名を見た。

 鈴音も気づいている。彼女の雰囲気は普通ではない。さっき会ったときは感じなかった──威圧感。呼吸をするのも心臓を動かすのもこの女性の許可がいるというような、圧倒的な支配感が。

 殺原美名は目元で笑って、自分で自分を抱きしめる。

「あら──うふ、ちょっと待ってね。可か愛わいい手長鬼。今は──」

 肉人形を見て、彼女は緩やかに両手を広げる。

「──尋ねなくてはならないの。肉人形、どうして私の命令を無視して、宇佐川鈴音を殺さないのかって」