
疲れた。何がなんだかわからなかった。怒ればいいのか、
グリコは家へと帰りつき、漠然とソファに寝転がると天井などを眺めた。そして何気なくスプーンを取りだして照明に
「けど──」
それなら、どうすれば良かったというのだろう。
矛盾した、正義を主張する自分が二人もいるような感じがした。
誰かを傷つけてはいけない、殺してはいけないという考えを刻まれたグリコ。
両者は
〝だからね、君は──殺菌消毒と遭遇する前に、自分の未来を決断しなくてはならない。化け物として生きるのか。人間として生きるのか〟
そうだ。グリコは気づいてしまった。今日、手長鬼と戦って。自分のなかに確かに存在する『
……わかってしまった。
自分はやはり人間じゃない。
眼球を抉り、
そして──心も。
とっくの昔に化け物だった。
それがわかった。わかってしまった。だからグリコは落ちこんで、物憂げにただスプーンを眺めている。いつもこの煌めきだけが確かなものだった。大切なもののないこの
スプーンで
思いだした。思いだしてしまった。
「く──」
何が常識及び一般的社会倫理観養成訓練だ。
下らない。そんなもの、人間相手の訓練だ。
自分は誰だ。
ぎり、と音がするほど強く
いつも
ぞわ、と想像の世界、グリコの脳内に無数の眼球が
それらは過去、自分が他者から抉ってきた眼球。すでに光のない、
──自分は。
そうだ。
──幸せになんかなっちゃいけないのだ。
そんな権利などない。化け物は化け物らしく、死ぬまで
こんな気持ちになったのは初めてだった。
あぁ──そばに鈴音がいない。グリコが
「…………」
あの後──手長鬼との死闘の後、唐突に現れた
千年前、自分を殺したのだという男。
鈴音の姿を見て、我を忘れてしまった自分。あのときは運が良く打開策を思いついたが、相手が悪ければあれで終わりだった。自分は弱くなってしまった。以前よりずっとずっと。
けれど──弱くなってしまったのだ。
気絶した
あの底抜けに浮かれきった二人と三週間も一緒に暮らして。
楽しくなかったといえば
けれど──これは、偽りの生活なのだ。嘘の幸せなのだ。グリコの両親は赤子のグリコを育てる義務を放棄して捨てた。それからグリコを拾った養い親は一度もグリコを愛さず
照明もつけず、観葉植物がさりげなく配置された部屋で、グリコは電源のはいっていない暗い暗いTVをただじっと見つめていた。気が
ぱちり、と照明がついた。
そこに──幽鬼のように、火乃と樹夫が立っていた。
表情がない。ぎょっとして、グリコは戸惑いながら声をかける。
「か──帰ってたのか。どうした、今日は
「…………」
すう、と声もなく火乃が移動する。おかしい。なんだこの人形みたいな顔は。いつも花みたいに咲いていた彼女の表情は、無機質なままゆっくりとグリコを仰いだ。
そこで。
かちり、とスイッチが入ったかのように。
「わぁグリコちゃん! そこにいたのね!」
同時に樹夫も。
「ははっ。ちっとも気づかなかった! ねぇグリコお
なんて、爆発みたいな
「…………?」
違和感。まぁもとからこの二人の態度は変なのだが、さっきのには何か引っかかりを感じた。
嘆息する。なんにせよ、今はこの疲れる二人と
「……うるさいな」
目を
「今日は夕食いらない。気分じゃない。すまないが二人で食べてくれ」
「まぁ!」
すると火乃が大げさに跳びあがるのだ。
「どうしたのグリコちゃんごはんいらないなんて! ごはんいらないなんて! あぁ驚きすぎて二回も言っちゃったわ! ど、ど、どうしたの病気? どこか気分でも悪いの? あぁグリコちゃん! グリコちゃんが死んじゃうぅ?」
うるさい。
グリコはさらに強く目を
「……うるさいな。そんな日もある」
今は駄目だ。不安定だから。
「だから
「いいえ! グリコちゃんに何かあったらお母さん死んじゃうわ!」
お母さん?
「お父さんも何も手につかなくなっちゃうよ! 本当に本当に大丈夫かいグリコ? お医者さんに行く? それともそれとも」
お父さん?
むかっときた。意味もなく、不愉快になった。たぶん八つ当たりだ。本気で心配してくれる二人。その態度が
「──黙れ。騒ぐな。うるさい」
「グリコちゃん……」
本当に。
なんでなのかと思う。こんな
やめて。
もうやめて。
自分にはそんな資格などない。たくさん殺してきた。たくさんたくさん、滅ぼしてきた。誰かの親がいたかもしれない。誰かの子供がいたかもしれない。
一ヶ月前、化け物の自分を受けいれてくれる優しいひとたちがいた。
やはり自分は化け物だ。幸福になってはいけない化け物なのだ。
だって、何故なら、こうして日常に生きているより、今日のように──他の化け物と血で血を洗う戦いをしていたときのほうが、自分は自分らしかったのだから。十人殺した
「触るな!」
グリコは叫び、火乃の指先を振り払った。自分でもわけがわからない。火乃はびくっとして、青くなって、ちょっとだけ後ずさった。
沈黙がおりた。
「………………………グリコ?」
「やめて。もうやめて。家族ごっこは──つらいよ。つらいんだよ」
眼球を
もう考えたくない。疲れた。頭がぐるぐるして気持ちが悪い。死にたい。

──ノアの箱船。聖書にその記述が見受けられる比較的に有名な伝説だな。はい知ってる者は手をあげろ。おぉ、予想外に多いな。別に日本人がものすごい勢いでキリスト教を信じ始めたわけじゃなく、ゲームとか漫画とかで知ったんだろうが。はい女子たちよく見るがいい。いま手をあげている男子はそういうゲームとか漫画とかが大好きなオタクだ。はいそこ手を下げるな。オタクだっていいじゃないか。私は好きだぞ、ん?
太古の昔──それこそ植物が口をきき、魔法が当たり前に存在した時代。アダムとイヴの子孫──人類たちは腐敗を極めた。他人を信じず、享楽に
その光景を見ていた神はなんとなくむかついたのでエイヤッと洪水を起こして人類を皆殺しにしてしまいましたとさ。それがノアの洪水伝説だ。ん? 何かな閣下、物言いたげな視線だが。そうか、そんなに公衆の面前で私の愛を確かめたいか。いいだろう──私は胸を張って腹式呼吸で告げてみよう、うさりん閣下、私はあなたを愛・し・て。
「わぁぁ先生お願いだからやめて! なんか今日の先生は変にテンションが高いよ? どうしていったい?」
照れずとも良いのに。
「先生──嫌いになるよ? あの先生、ちょっと疑問なんです。その洪水で人類が皆殺しにされちゃったんだったら、あたしたち生まれてないと思うんですが」
うむ。授業中にのみ敬語で
人類のとばっちりで他の動物も皆殺しにされてしまうのだが、それはあまりにも
洪水が引き、全ての文明が破壊し尽くされた世界で、箱船の住人は新しい生活を始めた──と、これがノアの洪水伝説だな。悪いことをしたら神様が洪水で虐殺しますよという教訓めいたものなのだろうが、実際、生物を死滅させるほどの洪水が起こったら地球が壊れると思うのだが。生産者たる植物が軒並み全滅して死の世界だ。箱船には食料もないからまず肉食獣が草食獣を食い、その後は血で血を洗う共食い地獄が展開されたと思うし──。
「あの。あの先生」
ん? どうした閣下。
「先生、それは授業に関係あることなんですか? 今は普通に数学の時間なんですが」
おっと、あらゆる知識は授業に無関係なものではないよ。そう──人生という授業にはな。む? どうして苦笑いなのかね貴様ら。先生は今かなり良いことを言ったのだが?

今日の授業が
しかし鈴音は風も砂も気にせずに、何か
「……かけちゃおうかな。かけちゃ駄目かな」
今日、グリコは学校を休んだ。
朝から見かけないのでまさかと思ったが、結局、放課後まで待ってみてもあのオオカミヘアの女の子は姿を現さなかった。彼女はあれで学校には休まずくる子なので、鈴音は深刻な不安に襲われてしまう。
昨日、喫茶店で不思議な刑事に声をかけられ。
待っていろと言い残し、姿を消した
その日は遅くまでグリコのことを待っていたのだが、結局、夜が更けるまで彼女は帰ってこなかった。
大丈夫。グリコはとっても強いから。
信じている。必ず帰ってきてくれると。
けれど──今日も、彼女は学校にこなかった。
まさかとは思う。グリコにかぎって──とは思う。
しかしどうしようもなく連想してしまうのだ。再会を約束して──
不安で不安で、鈴音はどうにかなってしまいそうだった。
邪魔をするわけにはいかない。
けれど──グリコのことは心配だった。
賢木に頼らず、自分がどうにかしなくてはならない。いつまでも賢木におんぶに抱っこで甘やかされているわけにはいかない。守られているだけではいけないのだ。
「──かけちゃおう」
決断し、
鈴音は貧乏なので本当ならばこんなもの持つことはできないが、
グリコが今どこで生活しているのかは知らないが、自宅の電話番号は教えてもらっていた。彼女が電話に出るかどうかは
登録してあったグリコの番号を発信して、はぁ、と白い息を吐きながら待つ。
暗がりは寒く、身を切るようで、走り抜ける風の音が
電話は家からかければよかったかな、と鈴音はちょっと後悔する。
考えていても始まらない。とにかく──祈るような気持ちで待ちつづける。
どれくらい時間が
やっぱり家にもいないのかも──そう鈴音が
『────はい。偽原です』
聞き覚えのない、女性の声がした。
偽原、というのは確かグリコの親代わりになったとかいうひとで、グリコと一緒に暮らしているらしい。彼女に聞けばグリコが家にいるかどうかわかるかもしれない。
鈴音は電話だというのに姿勢を正して、真剣な顔で頭を下げる。
「あ。こ──こんにちは。あたし、えっと、グリコさんのクラスメイトの
瞬間。
どこか警戒が混じっていたような女性の声が、爆発的にテンションを上げる。
『きゃー! お友達? グリコのお友達?
「…………はぁ」
ものすごい勢いでまくしたてられたので反応が少し遅れ、鈴音は
気を取り直し、電話口の向こうできゃあきゃあ騒いでいる火乃に言う。
「初めまして。あの──今日、グリコさんが」
『グリコ? グリコね!』
言葉を遮って、幸福そうな火乃の声はさらに声量を上げる。
『グリコねぇグリコ
「…………………………………はぁ」
圧倒的な早口で
彼女がプレゼントを買ったのは昨日。それから深夜にそれを渡したということは、グリコは無事に家に帰っているということだ。
とりあえずその事実に
「あの──ということは、グリコさんは無事なんですね?」
『無事? 無事って?』
不思議そうな声で火乃は応える。
『うちのグリコは今日も普通に
そりゃ大変だ。
『うん? なんなら電話を替わりましょうか? グリコねぇ、なんだか今日は学校行きたくないってご飯も食べずに閉じこもってるの。まぁそういう日もたまにはあるわよね! おばさんもねぇ学生時代は事あるごとに仮病つかって学校をサボったものよ。あんまり仮病ばかりだったから病弱な子と思われて、クラスメイトの男の子が心配してお見舞いにきてくれたりして──宇佐川さんね、病弱な女の子ってのは男の子が守ってあげたいって思うからなかなか点数高いわよ!
「…………」
元気なひとだなぁと思いながら鈴音は嘆息し、丁寧な口調でさりげなく促した。
「あの、それじゃ、グリコさんに電話を替わっていただけますか?」
『もっち! おばさんに任せなさい! ──って』
言葉が止まり、火乃は考えこむようにちょっとだけ沈黙した。
『えぇと、さっきはよく聞いてなかったんだけど、あなた、名前なんでしたっけ?』
「宇佐川鈴音です」
『宇佐川……』
考えこむような、何かを思いだそうとしているような間があって。
『──鈴音。あぁ! あぁあぁ! 宇佐川鈴音ちゃんね? はいはい! どこかで聞いたことがあると思った! あのとき
妙な擬音とともに
どうやら電話機はコードレスのようで、通話を保留にもせずそのままグリコの部屋へ向かっているらしい物音がする。火乃は声が大きいので『たらんらららんたらららぁん♪ グリコちゃぁんグリコちゃぁんお電話ですよぉ♪』という
やがて彼女がグリコの部屋に
自分の恩人。大切な友達。
グリコ。
無事で本当に良かった。
安堵して、鈴音は商店の
しばらく待って、扉が開くような音と、
『……鈴音』
一日ぶりだが懐かしい、ぶっきらぼうなグリコの声が聞こえてきた。
鈴音は笑い、
「あ──グリコちゃん。良かった無事だったんだね!」
『無事は無事だが何か。ん? あ。あ──』
唐突に思いだしたような、間の抜けた声でグリコは言う。
『──ご、ごめん。昨日、鈴音を喫茶店に置いてきぼりにしていたな? もしかして心配していたか?』
「心配したよ、そりゃ」
ちょっと
「けど──良かった。グリコちゃんが無事で。昨日、あれからどうなったの? どうして今日は学校にこなかったの?」
『…………』
グリコは沈黙し。
どこか
『なぁ鈴音』
それは彼女にしては珍しい弱々しい声だった。
『グリコは怖い』
「………何が?」
鈴音も顔を真剣にして、そっと耳を傾ける。
「何かあったの、グリコちゃん」
『昨日──
グリコは淡々と事実のみを述べる。
『勝ったけど、そのとき、グリコは自分の残酷さを自覚した。グリコは化け物だ。やはり化け物だったんだ。眼球をえぐる化け物だ。
搾りだすように苦しげな声。
『グリコは──いつ、
「グリコちゃん?」
その声が消えてしまいそうに
遠い。
グリコが遠い。
『だから──鈴音』
グリコは低く
『もう会えないかもしれない。会わないほうがいいかもしれない』
それだけで、電話が切れた。電子音。
鈴音は驚いて呼びかける。
「ちょ──ちょっと! グリコちゃん! グリコちゃん?」
どういうことなのだろう。
呼びかけるが、切れてしまった電話にどれだけ叫んでも意味がない。
自分を化け物だと言ったグリコ。
いったい昨日──何があったのだろう。怖くて、鈴音は電話を抱きしめるように胸に抱いた。怖い。もう会えないと言った。グリコがそう言ったのだ。
そんなの嫌だ。
それに──グリコは化け物なんかじゃない。鈴音は彼女が好きだ。
そんなにみんなに愛されている、化け物なんかいるわけがない。
グリコ。グリコ──。
「こんにちは」
不意に。
「こんにちは。お嬢さん」
声が聞こえた。真横。
「……こんなところで座りこんでいると風邪をひくわよ?」
見ると、そこには奇妙な人物が立っていた。
口元を完全に隠した武骨なマスク。反対に冬だというのに露出の多い女性らしい服装。一本にした三つ編みに、無数の腕輪やリストバンド。
奇妙な存在感の女性は、にっこり笑うと
「何か叫んでいたわね?
意味不明だが、奇妙に浸透してくる彼女の言葉に、
ちょっと怖いと思いながら問いかける。
「あの──何か御用ですか?」
「あら。うふ。そうね──初対面だもの、警戒するのも無理はないわね」
しなやかな動きで片腕を
「私の名前は
難しい言葉ばかりを意図してか使うので、いまいち意味がわからないが──とにかく、彼女はただ電話を一時的に貸して欲しいだけらしい。
普通ならば警戒して貸さないところだが、彼女、今はにこにこしているが怒ると怖そうな気がした。鈴音は
無言で電話を手渡すと、美名は
「うん──ありがとう」
そして遠慮せずに携帯電話の番号を押すと、しばし待つ。
鈴音は居心地が悪くて指先を絡ませたまま、どうしたものかとそんな彼女を見ている。しかし彼女ものすごい薄着だが、寒くはないのだろうか。
──暑さ寒さを感じないわけでもないだろうに。
「あ、もしもし、肉人形?」
思考は理解できない美名の一言で完全に停止した。
なんて言った? 肉人形?
視線を送るも美名は気づいているのかいないのか、やはり和やかな顔のまま通話をつづけている。電話口の向こうには名乗りもせずに。
「そうね──お仕事の時間よ。一人、見つけてあげたから。うん? ここは商店街ね。私? あのね、私は消すのが特技で殺すのは苦手なの。わかる? それに正体は隠しておいたほうが安全なの。逃げられたりしたときにはね。鈍い頭で思考しなさい、あまり
告げて、
なんだろう今の会話は。不穏な空気を感じるのだが。
あまり深追いすると怖いので、
「じゃ──その、あたし、帰りますから」
「あら。そう」
美名は機嫌が良さそうに笑って。
「──電話をありがとう。帰り道には気をつけてね?」
言い残すと、和やかに手を振った。

学校の近くに位置している商店街を抜けて、
アパートの自室。その正面。
鈴音の前の住人が置きっぱなしにした何世代か前の洗濯機。その前にいた隣人は顔を上げると首を
「Ring-bell. おかえりなさい」
低い、どこか発音のおかしな声。色素が抜けたような揺ら揺らした髪の彼女は、今日も安っぽくて泥だらけの服装でぼんやりと立っていた。彼女は異国の血を受け継いでいるようで、その
鈴音はその怪しさ満点の隣人にもさして動じずに。
「ブレイクサンさん。お洗濯ですか?」
「Ring-bell. 前から思ってました。ブレイクサンさんは変。あとこの洗濯機は君の。勝手に使ってごめんなさい」
ブレイクサンは無表情のまま謝ってくる。彼女、人見知りが激しくて内気で、あまり
鈴音は胸の前で小さく手を振ると困ったように
「あ。やっ、この洗濯機あたしのじゃなくて、あたしの前に住んでたひとが置いてったものだから」
「そ。ならいいです」
首を傾げ、洗濯機を相手に難解な手順を慣れた感じに踏んで、スイッチをいれるとブレイクサンはあっさり自室へ戻ってしまった。去りぎわ、扉をちょっとだけ開いてこちらに顔を
「Ring-bell. あのグリコというのはどこ消えました?」
「え──?」
言ってなかったけか。
考えながら、
「──あ。うん、なんかね。グリコちゃん身寄りなかったんだけど、親代わりになってくれるひとができたとかで。──今はそっちに」
「そ」
首を傾げ、考えるように
「じゃ──危ないかも。あたし弱いから君を守れないし」
不思議な言葉をつぶやいて。
「気をつけて。Ring-bell. 世界は今日も危険に満ちています」
やっぱりよくわからないまま、ブレイクサンは部屋に戻った。
「………?」
相変わらず

四畳間。トイレがついているだけの狭い部屋には物がたくさんあって、これでも毎日のように
なんだか疲れてしまった。
思えば
駄目だな、と鈴音は思う。
すぐに暗い思考へ向かってしまうのは自分の悪い癖だ。
料理でもして気分転換しよう。冷蔵庫に何かあったっけか。考えながら、鈴音は着替え終わると部屋に直接くっついている流しで顔を洗い、冷蔵庫へ向かった。
普通のものの四分の一くらいしか大きさのない冷蔵庫。鈴音はとりあえず麦茶を飲もうとコップを持ってきて、冬の空気で渇ききっていた
「────はぁ」
なんだか、本当に、疲れてしまった。
首を振り、肉も魚も切れているから晩ご飯は質素なものになりそうだなぁと考えながら、やはりまだ料理を作るには早すぎるかと時計を見る。今日はバイトの予定がないのでゆっくりと休める。
また──迷惑かもしれないが、グリコに電話してみようか。あのままお別れというのは寂しすぎる。
いったいグリコはどうしたのだろう。
考えるが、答えはでず、思考は堂々巡りをくりかえす。
──ぴしり。
小さな音がした。
気のせいだと思って、
──びしりべきり。
そこで顔を上げ、鈴音は周囲を見回す。嫌な予感がした。意味もなく。
「──何?」
──びぎっ。
気づく。窓だ。
流しの近く。開閉が面倒な一枚窓。
窓が──。
ぴきりぱきり。
──ひとりでに、割れている。
「ひ──」
異常な現象に鈴音は
「見ぃ──」
低い、少女の声を聞いた。
「──つけたぁ」
完全に欠落した窓。そこから。
不意に、少女が顔をだす。薄くしか外の見えない曇り硝子も完全に破壊され、
恐ろしい、奇妙な形相。
少女の片眼は治療眼帯で
「あ。あ──」
怖かった。
「わぁぁ!」
叫んで、
一ヶ月前の事件を思いだす。怪異は。化け物は。鈴音にどうにかできる相手ではない。逃げるしかないのだ。グリコはいない。
「逃がさない──」
不意に、肩を
「──もう、逃がさないよ」
そこには
それなのに──鈴音の身体は
「──ふぅッ──」
息が止まる。
痛い。まだ鈴音の痛覚はほとんど消えていない。
頭を打って目が回る。
回った視界。その向こう。
「どう──
手長鬼。
その単語が耳に入る。
まさか──本当に。
「ゼキくんが顔も名前ももっかい教えてくれたからね。
充血した目には、
「もう間違えられない。失敗できない。手長鬼は、地獄の底まで追いかけてあなたの林檎を奪うんだから。でなきゃゼキくんに捨てられちゃうんだから──!」
叫ぶ少女に本心から
殺される。
確信がある。
彼女は林檎を手にいれると言った。林檎のことを知っていて、それで自分を
それは駄目だ。
ここで死んでしまうわけにはいかない。
そう決めたのだ。一ヶ月前、グリコが帰ってきたあの日に。
「──逃げられると思ってるの?」
つぶやく、
あんなもの、当たれば絶対に無事じゃ済まない。
手長鬼。
死んでしまった大切な友達。克美を
物音に気づいたか、鈴音の隣室──扉が開いて、ブレイクサンが
「……すごい音がしましたが」
鈴音はアパートの正面、
「ブレイクサンさん! 隠れてて! それと、警察──やっ、先生に連絡して! 先生だったらすごく早く警察を呼んでくれるから!」
「Ring-bell. 何が? 警察──?」
戸惑うブレイクサンの横、両腕の欠落した眼帯少女が、足のみで軽快に駆けて追いかけてくる。
ブレイクサンはぎょっとして、しかし鈴音が何か危険そうだと理解したのか
「何事です」
「────うん? 邪魔するの?」
鬼のような面相で──少女は振り返る。
いけない。
鈴音は持ちっぱなしだった携帯電話を振りかぶると、思いっきり手長鬼の顔面に投げつけた。当たれ。体育は得意じゃないけれど、今だけは当たって──。
「ブレイクサンさん! 隠れてて!」
「────にゃっ」
携帯電話は吸いこまれるように手長鬼の額に当たり、彼女は妙な声をあげてこちらを向いた。
「なぁに? 抵抗のつもり? 痛くないよ? 痛くないから平気だよ──!」
痛そうだった。
怒りに満ちた顔でこちらを
それは駄目だ。
ならば。どこに。
「逃げちゃ駄目だって!」
ふわ、と浮遊感。
足を何かに引っかけられ、鈴音は
振り返る。
何かを投げられたか? その形跡もない。
何? 何だこれは──。
一ヶ月前。相対したヘビも
正真正銘の──規格外。
「どう? 手長鬼の
ぼぎり。
「────」
嫌な音。
と──同時に両足を襲う信じられない痛み。
「────うッ」
折れた。
「ぐうっ、うぅ」
涙をこらえ、しかし悲鳴すらあげられず、鈴音は
折られた。両足とも。
脳髄にまで走る鮮烈な痛みに、逆に頭が
駄目だ──。
「………
駄目だ。そうだ。
死んでしまうわけにはいかない。それが信頼と約束。自分は、ずっと
動けず、涙の浮かんだ顔で振り返る。
「なんで──、なんでこんなことするの?」
「理由? 鬼に理由を聞いてどうするの?」
手長鬼は叫び、怒りの面相で理解できないことを叫んだ。
「
地面に崩れたままの
手長鬼は、
独りぼっちで道に迷い、泣いているだけの幼子に見えた。
「世界には、そんな鬼がたくさんいる! 理解して──決めたんだ、それなら、私は意味なく殺される人間なんかじゃなく、殺すほう──愉しみながら奪いさる、鬼になってしまおうって! そうすればもう痛くないもん! そうすればもう奪われないもん!」
瞬間、肩の骨があっさりと砕かれた。
「だから私は手長鬼。人間なんかじゃないから、涙なんか出ないんだから! 心だって痛まない──」
両足と、左肩。
それらが完全に破壊され、一瞬、思考が飛ぶ。
折られた骨は皮膚を突き破り、少しだけ露出している。部屋着はあっという間に染みだしてきた血に染まり、心臓の鼓動と波長を合わせて痛みが
それでも。
死にたくない、と思った。
そして──同時に。
……可哀想だ。
なんとなく、そう思った。
何がなんだかわからない。彼女の正体も、生い立ちも、何も知らない。
けれどその言葉からわかることもある。
彼女はどこか最初に会ったころのグリコに似ている。強いけど、きっと弱い。
それは──可哀想だ。
鈴音は痛みで
「──
「え?」
手長鬼は、きょとんとした。
「え? え? 人間が──人間なんかが、何を、そんな──
戸惑った顔で、手長鬼は唇を
「て──手長鬼をそんな目で見ないで。手長鬼は間違ってないでしょう? そんな──優しい目で、見ないでよぉぉ!」
叫んでいる手長鬼の顔が、薄れていく。
痛い。駄目だ──本当に、自分は弱い。
あぁ。
死にたくないなと
あぁ──。
ひたり。
音がする──。
ひたり。ひたり。
何の音?
「────」
手長鬼が
「何?」
鈴音は、
そこに。
肉のような人形のような。
ひたりひたり。
それは、奇妙な赤黒い肉が絡まったような、正視に耐えない奇怪な存在だった。暮れてきた夕方の光でその体表はぬらぬらと光り、鼻につく腐った血に似た気味の悪い
耳も鼻も口もない、ぎょろりとした眼球のみが存在する顔の部分から。
──
低い、
その声には手長鬼も驚いたか、身構えたまま目を丸く見開いている。
奇妙な肉人形は緩慢な動きで鈴音の横に立ち、動かなくなる。心なしかその姿は、鈴音を守ろうとすらしているように思えた。
「なぁに? なんだか知らないけど、手長鬼の邪魔するんなら殺しちゃうよ?」
肉人形は応えない。
それに気分を害したか。
「──ふぅん」
手長鬼は鬼相を浮かべ、見えない力を
「じゃ、死んじゃえ」
終わった。殺されてしまった──。
「────え?」
動きのなかった肉人形の右腕が急激に伸びて、油断していたのか無防備に立っていた手長鬼の
血
「ぐ──」
手長鬼もそこで反応し、顔を
「──ぁあ痛いなぁ! 痛いの嫌いなのに!」
弾ける、弾ける、見えない力。
「死んじゃえ! 死んじゃえ! 死ねぇ!」
そのたびに舞う肉人形の破片。腕も、足も、腹部も砕かれ、散らばり。
それでも死なない。倒れない。
「──何それ?」
どころか、撒き散らされた肉片は
「──う」
そのおぞましい光景に鈴音は思わず声を漏らす。なんだこれは。なんなのだろう──この状況は。
手長鬼も理解できないのか、
「死ね死ね死ねって言ってるのに!」
肉人形の腹部が飛ぶが、すぐにまた元通り。
不死身。
鈴音なんか及びもつかない、究極的な意味での不死。
この肉人形は何者なのだろう。どうして──。
「そうね──疑問なのは」
声が。
「どうしてあなたが
一本にして垂らした三つ編み。口元を隠す武骨なマスク。
その
「──
手長鬼は攻撃の手を止めて、警戒するように美名を見た。
鈴音も気づいている。彼女の雰囲気は普通ではない。さっき会ったときは感じなかった──威圧感。呼吸をするのも心臓を動かすのもこの女性の許可がいるというような、圧倒的な支配感が。
殺原美名は目元で笑って、自分で自分を抱きしめる。
「あら──うふ、ちょっと待ってね。
肉人形を見て、彼女は緩やかに両手を広げる。
「──尋ねなくてはならないの。肉人形、どうして私の命令を無視して、宇佐川鈴音を殺さないのかって」