「あ……あ」

 何より。

 鈴音にだけは。

 やってはいけないと──思っていたことを。

 鈴音に──。

 鈴音に、自分は──スプーンを向けてしまった。

「くすくす」

 鈴音は、笑っていた。

「くすくす──うん、良いものを見た。いやいや、良いものを見たなぁ。これで夜まで何事もなくすごせたら生涯最高の日に認定かなぁ。否いな──三番目くらいか。まぁ順序なんかどうでもいい。ただ──良いものを見たなぁ」

 邪悪に、ただ邪悪に、笑っていた。

 邪悪?

 それならば──鈴音じゃない。そんな鈴音は、鈴音じゃない。

「おまえは」

「うん?」

 鈴音はそこで初めてグリコに気づいたみたいな顔をした。

「やぁ──久しぶり」

 そして意味のわからないことを言うのだ。グリコは戸惑う。久しぶりって、ついさっきまで喫茶店で一緒にいただろうに。考えていると、彼女はくすくすと愉たのしそうに笑った。

「変わったね──見違えた。美しくなった。ふふ、狂った光が瞳ひとみにこめられてて最高だね。色気もでてきて超最高だね。残酷になって超々最高だねぇ──あはっ、ただの小娘だったヨノちゃんがどう間違えばこんなんなるのかなぁ? まぁ間違えさせたの俺おれなんだけど、それがまた自分の隠し子が大富豪になったみたいで微妙」

 ヨノ。その名前。

 グリコは表情を変え、鈴音の外見をしたこの存在を見る。決まりだ。こいつは鈴音なんかじゃない。何か別の禍まが々まがしいものだ。

「誰だれだ──おまえ」

「うん? あぁ、わからないかな、この外見だと」

 言葉と同時に鈴音の身体が変へん貌ぼうを始める。骨格から筋肉から何から全すべてが耳汚い音をたてて変形し、原型を失って姿を変えていく。

「う──」

 大切なひとが奇怪にねじ曲がっていく光景は凄せい惨さんで、グリコは思わず呻うめき声をあげてしまう。そうしているうちに鈴音だった身体は長身の男性に様変わりしている。

 異様に背が高い。賢さか木きよりもさらに頭一個分は高いだろう。しかし筋肉質ではなく、長い髪の毛は複雑に織られながら背中に垂れていて、どこか神父のような神々しさを放っていた。けれどその神父の瞳ひとみには狼おおかみじみた爛らん々らんとした光。

「まぁ──これも本当の姿じゃないんだけど、こんなところで妥協しといてくれないかな? 怖い怖い殺菌消毒が暗躍しているから俺おれも本当の姿を晒さらしちゃまずいのさ。この姿も──まぁ、何百年か使ってて愛着があるし」

 雑談口調で意味不明なことを語りながら彼は手て長なが鬼おにに歩み寄る。

「くすくす、梅うめちゃんやられちゃったねぇ。せっかく林りん檎ごをあげたのにさぁ。標的の顔を忘れて連続殺人やっちゃうし。お馬ば鹿か。でもそこが可か愛わいいんだよねぇ。くすくす。今度は頭のほうも鍛えるかな? 君は本当に最高の玩具おもちやだよ愛いとしい手長鬼!」

 軽く片手で動かない彼女を担ぎあげ、狼の目の男はグリコに向き直る。

 林檎を持っているということは、手長鬼は死んでいないだろう。どうも林檎を得たのは最近らしく、痛覚があったのも納得できた。考えていると、男は聞いてもいないのにどうでもいいことをペラペラと喋しやべる。

「そうそう、この子、本名は相あい沢ざわ梅うめちゃんっていうんだ。家族全員を強盗に殺されて、自分も両腕を切断されて、発狂寸前になりながら超能力を開花させて強盗を殺してしまった──。面白いと思ったからさ、消えそうだった超能力を林檎で固定して──兵隊として使ってるんだけど、まだまだ調整が必要だね?」

 相沢。それはたしか、手長鬼が寝床にしていた墓石に刻まれていた名前だ。おそらく──というか、確実にあれは手長鬼の家族の墓だったのだろう。苔こけむしたこの墓場で、唯一あの墓だけが清潔にされていたのもそれで納得できる。

 わからないのはこの男だ。

 男は警戒というより戦闘態勢で身構えるグリコに、くすくすと笑った。それは荒々しい外見に似合わない無邪気な笑いだった。

「俺のことを覚えてないのかな?」

 覚えていない。記憶を探るが、一向に思いだせない。

「……全然。誰だれだおまえは」

 思いだせないなら、こいつは自分にとってどうでもいい相手のはず。警戒を緩めずに、あまり興味もなく問いかける。

「どうして、グリコの本名を知っている」

「どうしてって?」

 男は首を傾かしげて、手長鬼を担いだままグリコに笑いかける。

「まぁ──今はまだ、謎なぞの人物でいいさ。あの殺菌消毒は俺にとって天敵でねぇ、あいつがどっか行ってくれるまで大人しくしとくつもりだから」

 殺菌消毒。なんだそれ。

 顔をしかめるグリコに──彼は肩越しに振り返って笑った。

 それは邪悪な、やはり邪悪な不安になるような笑み。

「……本当に覚えてないのかな? 俺おれの名前は藉ぜき口ぐち無なし法のり。千年前──ヨノちゃん、君を殺したのは俺なんだけど?」

「────」

 なんだ、それは。

 自分は千年前、滝たき壺つぼに落ちて死にかけた。否いな──一度、死んでしまったのだ。そして林りん檎ごを食べて生き返った。

 そういえば、どうして自分は滝壺に落ちた。

 何度も何度も通っていた道、踏み外すはずもなかったのに。

「おまえ、おまえが……」

 背筋に寒気がはしる。あのころ、普通に生きていたヨノを殺したのは。自分をこの不死の地獄に叩たたき落としたのは。

「しかし、ヨノちゃん、危ういと思うよ? 君さ──不細工なんだよ。化け物のくせに、人間として暮らしている。そういう不細工は──殺菌消毒に嫌われる」

 神父のような狼おおかみは、獰どう猛もうな瞳ひとみでこちらを見る。

「だからね、君は──殺菌消毒と遭遇する前に、自分の未来を決断しなくてはならない。化け物として生きるのか。人間として生きるのか。けれど──覚えておいて。人間として生きるなら、必ず君は殺菌消毒と相対する。あれは、神をも溶かす消化器官、今の君じゃ──勝てないよ。そして君だけじゃなく、君の周りの人間も不幸になる」

 言いたいことだけ言って、藉口は遠ざかっていく。

 グリコはひたすらに立ち尽くし、黙って彼の言葉を噛かみしめていた。それはいつもグリコの前に立ちはだかっていた選択肢。人間として生きるのか。化け物として生きるのか。

 鈴りん音ねたちと別れて生きるのか。

 鈴音たちを危険に晒さらすのか。

 ──。

「うわああ!」

 何な故ぜだか急激に儚はかない気分になって、グリコは頭を抱えて叫んだ。