「──腕の長さを比べましょ?」


 そこは家庭に居場所がない子供たちが集まるとある廃ビルの中。たむろをしていた数人の年齢も性別も不統一な若者たちは唐突な非日常に怯おびえていた。いつもと変わらない夜のはずだった。なんとなく眠れなくって苛いら々いらする夜にこの場所へきて、名前も知らない自分と同じような格好をした相手と喋しやべったり遊んだり。

 それは何度も何度もくりかえしてきた当たり前の日常。

 その日常に亀き裂れつがはしり──あっさりと打ち砕かれた。

 鬼に。

 鬼の放った見えない拳こぶしに、若者の一人が腹を抉えぐられて息絶えた。

 死。それは死。造りものじゃない──本物の死。

 亀裂。

「わぁぁッざけんなァ!」

 半狂乱になり、若者の一人が手て長なが鬼おにに殴りかかる。警察。自分たちを理解しない大人。キレた不良。犯罪者──自分たちには敵が多すぎる。だから、自分で自分を守れるよう、少年たちは武装した。

 スタンガンで。催涙スプレーで。

 角材で。木刀で。金属バットで。

 しかし──そんなもの。

 これっぽっちも役に立たなかった。

「ふふん?」

 儚はかなさを感じるほど華きや奢しやな、小学生くらいの女の子。それが若者たちが直面した非日常の正体だった。ごく普通にどこでも見かけるような、あどけない風ふう貌ぼうの少女である。短い髪をツインテイルでまとめ、冬だというのにサンダルを履いている。

 ただし──彼女には、あるべき場所に腕がなかった。

 ギン。

 体格の良い青年の金属バットによる一撃が不自然なことに空中で停止する。動かない。青年は短く悲鳴をあげ、必死でバットを動かそうとするも何か強きよう靱じんな力で押さえられている感じがして動かない。

 瞬間、金属バットに五本の指にしか見えない奇妙な歪ゆがみが生じ、やがてバットは嘘うそのようにぐにゃぐにゃとねじ曲げられていく。

「うーんと」

 手長鬼はしばらく見えない指先でバットを茶ちや巾きん絞りにしていたが。

「つまんない──ぞ?」

 可か愛わいらしく首を傾かしげると、見えない腕で青年を殴り飛ばした。べしゃり、と彼の顎あごから上が消し飛んで、血飛沫しぶきや脳のう漿しようがあちこちに散乱する。当然──即死。彼は原型のないバットを握りしめたまま、ふらり、ふらり、と揺らめいて倒れた。

 静寂。

 その光景を見つめていた、五人ほどの若者は絹を裂くような悲鳴をあげた。

 現代の日本では、死というものに触れる機会が極端に少ない。死体は迅速に回収され、火葬場で焼かれて一瞬にして灰になる。ゲームや映画や漫画、精巧に模倣されたそれら死の模造品は本物の死すら嘘うそっぽくさせ、若者たちから死への恐怖を奪った。

 だから──まるで、少年少女にとって本物の死は魔法のよう。

 理解ができない異常な事態。ショックで──彼らは半狂乱になって逃げだした。

「……うるさいなぁ。せっかく静かな夜なのに」

 手て長なが鬼おには不愉快そうな顔をして、若者のなかで唯一──年若い少女を見つける。やっと若い女の子を見つけた。近ごろこの町の人々も警戒心を強めていて、手長鬼が見つけるべき林りん檎ごの保持者らしい少女も探しにくくなっていたのだ。

 そろそろ見つけておかないと──。

 手長鬼は頷うなずき、今度こそ当たりならいいなと思いながら追いかける。

「当ったるかなっ♪ 当ったるかなっ♪」

 そして見えない腕を伸ばす。

「ひぃっ!」

 少女は足首のあたりをいきなり掴つかまれて、つんのめると激しい勢いで前に倒れた。拍子で少女の懐から煙草やライターが転がり落ちる。明らかに彼女は喫煙して良い年齢ではない──しかし、むごたらしく殺されてしまうほど悪いことをしたわけではない。

 運が──悪かったのだ。

 非日常。突然の死。その象徴──鬼に、出会ってしまった不幸を嘆くしかないのだ。

 異様な光景だった。

「高い高い~♪」

 異様で、酷薄な光景だった。

 四肢を同時に見えない腕で掴まれた少女は、強い力で空中に持ち上げられる。自由に空中浮遊しているようにも見える彼女は、しかし一切の自由を奪われて僅わずかに身じろぐことしかできなかった。恐怖に瞳どう孔こうは完全に開き、歯がガチガチと鳴っている。

 彼女がそうして死の危機に立たされている隙すきに、他の若者たちは一目散に逃げている。少女は絶望する。そうなのだ──この廃ビルでたむろしていたのは家族でも友人でもない、ただ自分と同じような境遇の他人でしかないのだ。助けてくれるわけがない。

 理解して──少女は自分でも意外な相手に助けを願った。

「た、助けて……おとうさん、おかあさん」

 愛情なんて冷めていたはずの、ただ血がつながっているだけの両親。三度の飯と小遣いだけを用意してくれれば、いっそ人格なんてないほうがいいと思っていた鬱うつ陶とうしい両親。

「助けてぇ──お父さんお母さぁん!」

 そんな彼らに、窮地に立たされた今になって助けを希こいねがう。

「……えへへっ、手て長なが鬼おにちょっとデジャニュだよ」

 謎なぞの言葉を口にして、手長鬼は首を傾かしげる。

「あれれっ。ちがうな。デジャニュじゃなくって──なんていうんだっけ、デジップ? うぅん……デジャブ? そんな感じの──ね、お姉さん、昔の手長鬼に似ているよ」

 デジャブというのも少し違うのだが、手長鬼は感慨深い顔をする。

「でもね、助けなんて現れないんだよ? 神様はいません。英雄はいません。困ったときに助けてくれる白馬の王子様なんかいないんだ。だって──もしも神様がいるんだったら」

 ぶぢり。

 鈍い音。

「手長鬼は──鬼になんかならなくて良かったはずだもん」

 引き裂かれたのは──少女の両腕。ぶぢりぶぢりと筋肉や骨格、脂肪や血管を力任せに捻ねじ切られ、少女の両腕が少女の身体から分断される。信じられないほどの出血と甲高い悲鳴が薄暗がりの廃ビルに満ちる。

「あ──がぁ、あぁァぁ」

 少女は痛みですでに発狂したように白目を剥むいている。当然だ。生きたまま、意識を保ったまま両腕をもがれたのだ。ショック死しなかったのが不思議なくらいである。

「虫ってさ」

 手長鬼は表情を変えない。目の前の、自身が成した残酷な光景にも無邪気な顔のまま。

「見つけると、腕とかちぎりたくなるじゃない。羽をむしって、触覚を抜いて、ばらばらにしたくなるじゃない。手長鬼ってね──そういう子供だったんだ。そして多分ね──きっと、そこからちっとも成長してないんだ」

 ぶち。ぶぢり。

 そして少女の両足も呆あつ気けなく引きちぎられる。

「でも、それでもいいの。そんな手長鬼をゼキくんが受けいれてくれたから」

 すでに痛みか出血かで絶命している少女に手長鬼は低く囁ささやいた。

「だから、私は手長鬼でいい。人間を昆虫みたいに殺せる心のない鬼でもいい」

 少女の亡なき骸がらを打ち捨てて、また外れか、と嘆息し。

「神様を待つ弱い人間は嫌い。英雄を待つ卑屈な人間は嫌い。私は──人間じゃない、堕天使のそばにただ居るだけの手長鬼でいい」

 無邪気な──虚うつろな笑顔で吠ほえるのだ。

「どう? 手長鬼の両腕おてて、とってもとっても長いでしょう?」


  


 私立観かん音のん逆さか咲ざき高等学校は、ひなびた田舎の片隅にあるごく平凡な学校である。校風は地味で、生徒も全体的に大人しく、のほほんとしているので周囲の評判はすこぶるよろしい。四つの校舎が広い校庭のあちこちに散在しており、少しだけ移動が不便で困る。創立もかなりの昔のことになるので、あちこちに年季のはいった落書きなんかが残されている。

 常に爽さわやかな風が流れる、どこか時代に乗り遅れたような雰囲気の場所だった。

 そのなかでは二番目に古い第二校舎、二階の廊下の最奥にその教室はある。平凡なこの学校には露骨なほど相応ふさわしくない賢さか木き愚ぐ龍りゆうという教師が担当している、一年B組の教室である。この学校の生徒は掃除も真面目にするので、古いながらもありがちな朽ちたような感じはしない。

 放課後。からんころんと終業のベルが鳴り、完全に爆睡していたグリコを鈴りん音ねがちょこちょこと指で突いていた。グリコは近ごろなんでだか学校ではいつも寝ている。これはグリコの性癖というか業のようなもので、ある意味ではしょうがないことなのだが、鈴音と暮らし始めてから彼女もあまり眠らなくなっていたというのに。

 あのなんとかかんとか養成訓練というので疲れているのだろうか。鈴音はいまいちその訓練の内容を把握していないのだが、大変だなぁと漠然と思う。せめてがんばっているグリコの邪魔にならないよう、余計な心配をかけないようにしなくては。

 克かつ美みが死んで、しばらく抜け殻のように暮らして。

 恐ろしいほど冷淡に時間は流れていって。

 目撃者の証言から『手て長なが鬼おに』とマスコミに呼ばれるようになった殺人犯は、すでに十人の人間を殺している。それも鈴音と同年代の女の子だけを狙ねらって。十人。数字はいつだって空虚だ。血肉がない。

 鈴音は林りん檎ごの力で死ぬことがないが、それでも怖いし、殺されたひとたちは可か哀わい想そうだし、犯人は早く捕まって欲しいと思う。

「…………」

 そして──克美のことを考える。自分を友達と呼んでくれた女の子のことを。彼女と培ってきた他愛のない思い出や、胸に深い影を残している克美のお葬式。克美の両親は泣いていた。克美の弟も泣いていた。鈴音もただ泣いていた。涙で糊こ化かされたあの重苦しい雰囲気は、そのまま消化されずに鈴音の胸内にくすぶっている。

 最後に見た、寂しく笑う克美の顔を思いだす。

「……次は、あたしが奢おごるはずだったのにね」

「何をだ?」

「わ──」

 いつのまにかグリコが起きていた。考え事に没頭していて気づかなかったらしい。彼女は特徴的なオオカミヘアを眠たそうな顔でぼりぼり掻かくと、半目がちに鈴りん音ねのちょっと涙を浮かべた瞳ひとみを覗のぞきこんできた。

 グリコの瞳は銃口の瞳。感情はないし何も語らない。全すべてを吸いこむような暗い暗い瞳である。でも今は、どこかしら優しさのようなものがにじんでいるように思えた。

 鈴音の涙をあえて無視したか、グリコは立ちあがるとかるく伸びをした。

「ふあぁ。眠い……。寝ても寝ても足りない」

「グリコちゃん、近ごろ夜更かししているの?」

 ちなみにグリコたち不死者には特に睡眠欲求というものはない。しかしグリコは眠るのが趣味だとかで人並みに睡眠をとるのだった。

 机に引っかけてあった鞄かばんを手にとり、彼女はなんでもないように応える。


「あぁ。手て長なが鬼おにを探している」


 その言葉に鈴音は心臓が止まるかと思った。

「手長鬼──って、殺人犯の?」

「そうだ。どうもそいつは夜中にしか行動していないようだからな、夜には適当にうろついて探し回っているんだ。見つからないけど」

 鈴音は青ざめてしまう。駄目だ──危ない、と思う。もちろんグリコの強さは知っている。普通の『蟲むし』なら鎧袖一触がいしゆういつしよくで撃破してしまうのだ。けれど、なんだろう、やはりグリコにはあまり危ないことはして欲しくない。しかも相手は正体不明の殺人犯なのだ。

 鈴音の表情を読んだか、グリコは珍しく柔らかな笑みを浮かべた。

「大丈夫。それに──グリコは戦うことしかできないから」

 小さな声でつぶやくのだ。

「鈴音や、賢さか木き。樹き夫おに火ひ乃の──学校の連中、誰だれも、手長鬼には殺させない」

 そこまで言って、ハッと気づき、照れくさそうな顔をするとさらに小声でつぶやく。

「樹夫に火乃は──別にいいか。あいつら、毎日のようにグリコのベッドに侵入してくるし。昔話を読んだり子こ守もり唄うたを歌ったり。馬ば鹿かにしすぎだ。グリコはあいつらより年上なんだぞ。……全く、遠慮がないというか、厚顔無恥というか」

「……グリコちゃん?」

 ぶつぶつ独語するグリコに、不思議になって鈴音は首を傾かしげる。

 グリコはまたもハッとして、ぶんぶんと首を振った。

「な──なんでもない。くそ、調子が狂ってる……」

 そしてずかずかと教室から出ていく。鈴音も戸惑い、驚きながらもそんなグリコの背中についていったのだった。


  


 学校帰りに、グリコが買い物をしていきたいと言うので鈴りん音ねもつきあうことにした。今日はバイトがお休みの日だ。もう一月も終わりに近く、太陽も素早く地平線に消えようとしている。黄昏たそがれ色が塗りたくられた商店街はどことなく寂しげだった。

 三週間、グリコと離れてみて、鈴音はこれまでいかに彼女の存在に寄りかかっていたのかを知った。たしかにあの家は自分のものだけど、保護してくれていたのはグリコだ。嫌だな──と鈴音は思う。いつまでも、誰だれかに依存して、誰かに守ってもらいながら生きているのは。

 賢さか木き。グリコ。死んでしまった克かつ美み。自分の周囲には優しく守ってくれるひとがたくさんいるから、鈴音はどうしても甘えてしまう。それは心苦しいことだと思う。強くならなくてはいけない。少しずつ。

 いつも放課後には生徒たちで溢あふれる商店街も、やはりというべきか人気があまりない。手て長なが鬼おに。一月の始まりとともに観かん音のん逆さか咲ざき町に現れた殺人犯は、一ヶ月としないうちにもう十人の人間を殺している。

 被害者の共通点は、唯一、女の子であること。

 けれど、つい先日に報道されたニュースによると、被害者には不良少年や男の警官も混じっているという。警官のほうは手長鬼を見つけ、逮捕しようとして返り討ちにあったのだと誰かが解説していたが──。不良少年はよくわからない。

 それらは例外として、主に狙ねらわれているのは高校生くらいの女の子だ。最も手長鬼の恐怖に震えているのは鈴音と同年代の女の子たちである。実際、鈴音とグリコの他は、ほとんどの女子が学校に登校していなかった。外を出歩くと手長鬼に殺されると、自分から学校を休むか、親に止められるかしているのだろう。鈴音の知り合いにはほとぼりが冷めるまで疎開すると田舎に帰ってしまったひともいる。手長鬼は観音逆咲町でしか事件を起こさないので、それも有効だろうとは思う。

 そんな感じに、手長鬼が平和だった観音逆咲町に生んだ波紋は大きかった。

 町には連日TVや新聞の取材が押し寄せ、物見高い野次馬があちこちを写真に撮っている。未いまだ清掃が追いつかない事件現場には生黒い血の跡が残され、紺色の制服を着た警察官が昼も夜もなくうろついている。

 鈴音は一人では少し不安だったので、アパートの隣の部屋に住んでいるお姉さんと一緒に寝ることにしている。ご飯も一緒に食べている。情けないが、やはり一人でいると落ちつかないのだ。鈴音がこうして普通に学校にかよっていられるのも、怖くないからではなく、自分が不老不死の身体だからだ。まだ痛覚はそれなりに残っているものの、絶対に殺されることはないとどこかで思っているからだ。

 グリコみたいに、手長鬼には負けない、手長鬼なんか怖くないという感じではない。

 ……あぁ本当に嫌だ、と鈴りん音ねは思う。強くない。自分はちっとも強くない。

 強くなくてはいけないのに。

 克かつ美みに申し訳ない。心配性だった彼女が、安心して天国へ行けないじゃないか。

「待たせた」

 営業していたファンシーショップからひょこりと顔をだし、グリコがほとんど動かない無表情でこちらを見た。手には小さな紙袋が握られている。

「あ──うん」

 考え事に没頭していた鈴音は慌ててそんな彼女を見た。

「何を買ってたの?」

「よくわからない」

 それは──よくわからない。

 グリコは目を細めて紙袋を通学鞄かばんに放ほうりこんだ。

「けど──綺き麗れいなもの」

「珍しいね、グリコちゃんが買い物なんて」

 少しはグリコも変わってきたということだろうか。例の訓練はグリコを一般的な高校生にするという趣旨のものらしい。だとしたら、その訓練はそれなりに効果を発揮しているんじゃないかと思う。

 グリコはなんでだか鈴音の言葉に唇を尖とがらせた。

「……うるさいな。火ひ乃のがもうじき誕生日だというから」

「ひの?」

 首を傾かしげる鈴音に、真っ赤になってグリコはずかずかと歩きだす。驚いて、鈴音はそんな彼女の横に早歩きで追いつくのだ。なんだろう。グリコは近ごろこういうことが多かった。人間らしい感情を表にだしていて好ましいとは思うのだが、詳しい経緯がよくわからなくて置いてきぼりをくらった気分である。

「……ど、どうせ、グリコらしくないのは理解している。けど、あいつらが露骨に買ってくれ買ってくれと目線で訴えるから。だいたい火乃もなんだ、なんの脈絡もなく誕生日の話とかをするな。誘っているのが見え見えだ。ふん──べ、別に、親だと思えたわけじゃない。あいつらには──ただ、その、色々と世話になっているから」

「…………?」

 全くわけがわからない。

 鈴音は一念発起して、商店街の奥のほうにある喫茶店の前で直進しつづけるグリコの服を引っぱった。リードに牽けん引いんされた犬みたいに「ぐう」と呻うめいてグリコは止まる。

「……どうした」

 訝いぶかしげな顔でグリコはこちらを見る。なんだかその顔が無性に可か愛わいかったので彼女の髪の毛を撫なで、鈴音は和やかに微ほほ笑えむと喫茶店を指で示した。

「入ろ」

「………む? どうして」

「いいから。たまにはさ」

 理由も説明せずに喫茶店の扉を開く。ここは克かつ美みと最後に会った喫茶店だ。『インディアンバー』と銘打たれた古風な喫茶店で、いつも店内は薄暗い。

 近ごろ変わり始めているグリコ。彼女の変へん貌ぼうの理由が知りたい。友達だから。っていうのは──少し違うかもしれないけど、グリコの立場を知ることができれば困ったときの相談くらいには乗れるかもしれない。

 グリコの力になってあげたい。

 一ヶ月前、彼女は自分を助けてくれた。

 それからも、孤独な心を賢さか木きとともに癒いやしてくれた。

 何より──死んでしまった克美のぶんも、彼女を愛してあげたいと心から思うから。

 カランコロン。

 喫茶店の扉に嵌はめられた鈴が綺き麗れいな音をたてた。

「いらっしゃいませ」

 まだ年若い店長がにっこりと微ほほ笑えみかけてくる。しかし鈴りん音ねはとっさに応えられなかった。右正面──一つの席に、なんだかおかしな人物が座っていたからである。

 ちょっとびっくりした。

 男性である。姿勢が悪いので背は高いのか低いのかわからない。かるく伸ばした髪が顔のほとんどを隠しており、かろうじて見える金色がかった目は見開かれていた。くたびれたようなコートを着て、安物らしい煙草をくゆらせて、何な故ぜかこれだけは最新型のスポーツシューズを履いている。

 ──髪の毛のオバケ。

 なんとなくそう思った。別に髪がめちゃくちゃに伸びているわけではない。しかし整えられていない前髪が顔のほとんどを隠し、表情が見えないのだから人間性なんか欠落している。さらに姿勢が悪い。何故か椅い子すの上に胡座あぐらを組んで首を傾けている。変な人形みたいだ。そんな彼はそのままの姿勢でぴくりとも動かず、時折ひょいと手を伸ばして煙草の灰を灰皿に落としている。

 店内には彼の他に客らしきひとはいない。手て長なが鬼おにのせいでみんな寄り道せずに真まっ直すぐ家へ帰っているらしい。

「あのお客様」

 店長は表情を笑みで固定して唇を動かさずに語った。

「刑事さん──らしい」

「刑事?」

 見えない。刑事といったら犯罪者を捕まえる警官のことだが、彼はなんというかむしろ犯罪者サイドの人間のように見える。しかし──刑事ということは、彼もおそらく手長鬼を探している途中なのだろうと思う。たしか刑事というのは二人一組で行動するんじゃなかったっけと曖あい昧まいなTV知識に鈴りん音ねは首を傾かしげる。

 店長は静かな、淡い音楽みたいな声で囁ささやいてくる。

「うん。だから邪魔しちゃだめ」

「わかりました」

 頷うなずいて彼女に背中を向けると、静かな声が耳に届く。

「……寂しい。もう、克かつ美みちゃんの声は聞けないのね」

「──……」

 彼女は店にくる全すべての客の顔を覚えているのだろうか。

「寂しい。クラシックじゃ──寂しい」

 そしてレコードをかける。力の湧わいてくるジャズ。なんだか涙が溢あふれてきて、鈴音は彼女を見ずにグリコと並んで一つの席に座った。あまり広い店ではない。刑事だという怪しい男性のすぐそばに座ってしまった。

 見ると、彼は虚うつろな瞳ひとみで天井のあたりを見つめている。考え事に没頭しているらしい。刺激しないようにしよう。鈴音はそう決めて、メニューボードに視線を移した。ちょっとだけ寒かったのでホットコーヒーを頼む。鈴音にはまだ寒暖の感覚は僅わずかに残っている。グリコは「ココア」とつぶやいて、「眠気覚ましに」と言い訳っぽく付け足しをした。

 ココアにはあまりカフェインが含まれていないのだが。

 ちなみに彼女、甘いものを食べたり飲んだりするときだけ味覚を活性化させているのを鈴音は知っている。

 注文を受けて店長は頷く。鈴音はきっちりと背筋を伸ばした無表情のグリコを見る。

「……なんか、色々と落ちつかないよね」

「うん。だけど──別に不満じゃない。この鬱うつ陶とうしさ」

 グリコは真まっ直すぐにこちらを見つめてくる。銃口の瞳は今日も暗く暗く。

「淡々と、起伏もなくつづいていく毎日というのは、苦しい。かなり苦しい。特にグリコは──何百年かずっとそうだったから。何事もない平穏な日々というのは、好きだけど──怖い」

 一瞬でスプーンを取りだして、静かな表情で眺める。

「蟲むしでも探して殺したくなる」

 息を呑のむ鈴音に、グリコは微ほほ笑えんだ。

「……グリコが蟲と戦っていたのも、大抵はそう──暇潰つぶしのためだったな。家族の仇かたきということもあったが、恨みや憎しみなど千年も持続しない。ただ、グリコは、退屈をまぎらわせるために蟲を殺してまわっていたのかも」

 そんなことはないと思う。グリコは、蟲に狙ねらわれる林りん檎ご保持者を助けるために戦っていたのだ。千年も。ただの暇潰しなら、そんなに長いあいだつづくわけもない。『持続』に必要不可欠なのは強い『使命感』だ。惰性ではつづかないことのほうが多い。

 グリコは少しだけ俯うつむいた。

「けど──近ごろは、その退屈じゃない、というか、平穏でない毎日というのもちょっとだけ嫌だ。日常を壊されるというのが、怖いと思い始めている」

 グリコは弱くなってしまった──彼女は歯がゆそうにつぶやいた。それは違うと鈴りん音ねは思う。鈴音と初めて会ったころの、何も持たず、何も願わず、機械のように化け物のように生きていたグリコより、今のグリコのほうが何倍も強い意志を瞳ひとみに秘めている。

 彼女は独語するように、鈍く煌きらめくスプーンを見つめながらつぶやいた。

「鈴音、グリコは人間に戻れてきたのかな?」

 弱くて、大事なものを失うのを怖がって。

 けれど心はきちんとあって、誰だれかのことを真剣に考えられる。

 そんな人間に──。


「この世には──憂ゆう鬱うつなことが多すぎる」


 不意に、切れない刃やいばで背骨を撫なぞられたような感覚が──声が。

 見ると、グリコと鈴音の真横、テーブルのそばに不気味な刑事が立っていた。間近で見ても人間からは遠い。口元にはうっすらと無精髭ひげが生えている。彼は鈴音でもグリコでもない曖あい昧まいな位置を見開いた目で凝視し、首を傾けたまま語りかけてくる。

「……特にこの町には、多すぎる」

「何の用だ」

 グリコが鋭く問いかけた。刑事はクックック、と肩を震わせて感情なく笑った。

「……失礼。怪しいもんじゃありません。自分──こういうものです」

 そして刑事は懐から警察手帳を覗のぞかせる。どうも本当に刑事らしい。怖い怪物とかこっそり開発してそうな外見なのに。

 ただ、開いて見せられた手帳の中身、そこに映っている写真は目の前の彼とは別人のようだった。簡単にいうと美形だった。髪の毛を整えれば美形になるというオチらしい。それとも本気で別人なのだろうか。

 奇妙な刑事は口元だけで笑う。

「刑事──嘆なげ木き狂くる清きよ。専門は、殺人事件コロシです」

「嘆木──狂清」

 グリコは眉まゆをひそめる。

「……残虐な名前だな」

 グリコには言われたくないだろうと思う。

 彼女は彼の怪しい外見にも全く怯ひるまずに、どこか威圧的な態度で問いかけた。

「……で、その嘆木狂清がグリコたちに何の用だ?」

「おや──勇ましい」

 クックック、と嘆木はそれは無理やり造っているだろと思う不自然な笑い声をあげる。そうしているうちに店長がコーヒーとココアを運んできて、どこか心配そうな顔で嘆なげ木きを見据えた。嘆木は全く怯ひるまずに、彼女にかるく会釈すらした。

 そして許可などしていないのに鈴りん音ねの横に座るのだ。ちなみにグリコと鈴音が座っていたのは四人がけのテーブルである。鈴音はぎょっとして、思わず身をすくめる。グリコは瞳ひとみに敵意をこめてそんな嘆木を睨にらみつける。

「何の用だと、聞いている」

「おっと──クック、そう怖い顔をしないでくださいな。せっかく可か愛わいい顔なのに。おっとっと──ますます顔が怖くなる」

 意味のない発言をして、急激に真面目になる。

「まぁいいとして、君たち、手て長なが鬼おにって殺人犯を知っていますか?」

「知らん。失せろ」

 辛しん辣らつなグリコに嘆木は愉たのしそうな顔をした。

「……嘘うそはよくない。クク、嫌われた? 僕、嫌われた? 光栄だねぇ。どうせ──最初の最初から、『みんなに好かれるおまわりさん』なんざ目指しちゃおりませんし。まぁとにかく、手長鬼のことを知らない人間が観かん音のん逆さか咲ざき町にいるわきゃないんです」

 だったら最初から確認なんかしなきゃいいと思う。鈴音は俯うつむき、ちびちびとコーヒーを飲みながらそんなことを考えていた。この嘆木という男、汚そうな外見に反して体臭は清潔で、さらにくどくない程度に香水なんかもつかっていて隣にいても不快じゃない。もしかしてこの外見は単なるファッションなのか。新鋭的なファッションセンスの持ち主なのだろうか。

「このままじゃ──手長鬼は永遠に捕まらないと思うんです」

 嘆木は不思議な抑揚の声で言った。

「みんなね。頭──固いんですわ。ガチガチさんですわ。全くね、犯人は複数の巨人だとか強力な兵器を持ってるとか、そんなわけわかんねぇ与太は信じるくせに──目撃者の、小さな女の子が殺したっていう証言は『ありえない』と笑いとばす。なんてこと、それこそ笑い話にもなりゃしません。あんなにたくさん警官がいて、誰だれもその証言に注目していないってのが頭痛くなるってんですよ」

「グリコたちに愚痴るな。鬱うつ陶とうしいから消えろ」

 グリコがほとんど殺気に近い光を瞳から放つ。

「まぁまぁ」

 しかし嘆木は動じない。鈴音は知っている。本気のグリコに睨まれて怯まないというのはかなりすごいことなのだ。この刑事──怪しいだけの人物じゃない。

「まぁ──お嬢さんがた、寂しいおじさんの話し相手になってくださいよ。そうね──事件の目撃者、その大多数が『小学生くらいの女の子を見た』と証言している。複数の事件現場にいて、なお生き延びてるってんなら犯人に違いないでしょ。問題は──小学生が人間をあそこまでめちゃくちゃにできるかってこと」

 現実的に考えれば、できない。不可能である。被害者も高校生の女の子で身体が軽かったとはいえ、石塀や地面に何度も叩たたきつけて殺すなんてことができるわけない。なかには四肢をもがれて殺された被害者もいたらしい。そんなこと、小学生というか大人でも道具を使わなければ無理だ。

 けれど──鈴りん音ねは知っている。

 この世界に生きているのは、人間だけじゃないってこと。

「けれど、僕は知っています」

 鈴音の心を読んだかのように、嘆なげ木きは静かにつぶやいた。

「一ヶ月前──僕は巨大な怪物を見ました。そしてその怪物と戦う、少女にしか見えない一人の人間をね」

「──」

 グリコは一瞬だけぴくりと眉まゆを動かしたが、悟られないためにか努めて無表情を装った。油断ならない嘆木にその演技が通じたかどうかはわからない。怪物、巨大な化け物──それは、一ヶ月前の事件でグリコが戦った相手だ。そして嘆木が見たという少女は、間違いなくグリコのことだろう。

 嘆木は──それに気づいているのか、いないのか。

「だから、僕は確信している。この世には──憂ゆう鬱うつなことが多すぎる。憂鬱なほどに、理解できないことが多すぎる。だから──僕は、あの日から、憂鬱なんです。人間には理解できない世界があるなんてこと、知ってしまえば警官なんて馬ば鹿からしくってやってられません。論理も法律も常識も無視した存在がこの世にはいるんですからね」

 憂鬱刑事は暗く笑った。奥が読めない表情で、鈴音には彼の内心を読むことができなかった。グリコも押し黙り、喫茶店には音量を抑えたジャズの旋律が漂っている。

 嘆木は静かに宣言する。

「僕が個人的に集めた情報によると、この喫茶店のすぐそば、神社の近くに、滅多に人間が通らない墓場があります。そこの付近で手て長なが鬼おにらしき少女を見かけたという話が多い。僕は──これからそこに行きます。警察は風聞の類たぐいだとあまり気合をいれて捜査をしていませんが、じっくりと調べていけば必ず痕こん跡せきか──あるいは、手長鬼本人が見つかるはず」

 そこで、彼は机にコンと小さなテープレコーダーを置いた。そしてしっかりとした動きで『停止』のボタンを押す。不思議な顔をする二人に、嘆木は当たり前のように言った。

「……これまでの、僕の言葉は全すべて録音しておきました。これを──迷惑をかけますが、観かん音のん逆さか咲ざき署まで届けて欲しい。そのときに、僕がすでに殺されていれば──当たりです。他の警官は一気に事件の真相へと近づくことができるでしょう」

「──なんだと?」

 グリコは戸惑っている。鈴音も青ざめてしまう。そうか。そのために嘆木は自分たちに喋しやべりかけてきたのか。手長鬼を捕まえるために。手長鬼=目撃された少女という考えをみんなに認めさせるために。ひいては、この無惨な事件を迅速に解決するために。

「ま──死ぬつもりはありませんがね」

 嘆なげ木きはかるく立ちあがり、勘定をするためカウンターへ向かう。そしてよろよろと、どこか気が抜けた不気味な調子で歩きながらつぶやくのだ。

「まったく、この世には──憂ゆう鬱うつなことが多すぎる」


  


 グリコの決断は早かった。鈴りん音ねに喫茶店の勘定を任せ、絶対についてくるなと言い聞かせ、嘆木の後を追うために急いで足を動かした。不気味だが、嘆木は普通の人間だ。もしも手て長なが鬼おにという存在が人間ではない化け物だとしたら──本当に殺されてしまう。

 別に嘆木に同情したわけではない。ちっとも親しい仲というわけではないのだ。けれど──もしも本当に嘆木の推測が正しくて、手長鬼が墓場にいるとしたら、自分が戦って倒すしかない。同じく──化け物の自分が。

 人間では、化け物に勝てない。

 自分が──殺すしかない。

 土や埃ほこりやタイヤの跡で薄汚れた道路を走り、いつでも人気のない神社の境内を駆ける。鳥居を抜けて、石畳を進み、賽さい銭せん箱の横を通過する。目指す墓場はその目と鼻の向こうだ。冬の冷気に乾燥しきった砂を撒まき散らし、グリコは神社の奥、錆さびついたフェンスを軽やかに飛び越す。着地し、正面を見ると苔こけむした墓石がでたらめに並んでいる。

 羽虫がやたらと飛んでいた。

 ゴーン、と神社で鐘が鳴った。

「……何をしている」

 グリコは小さくつぶやいて、墓石の隙すき間ま、落ちたアイスクリームに群がる蟻ありっぽく地面に顔を近づけて這はっている嘆木を見た。安物らしいコートが泥で汚れている。

 それなりの速度で追跡し、神社の境内をショートカットまでしたのに先に到着されてしまった。どうも嘆木は自転車かバイクを使ったらしい。変なところでむかつくやつである。手長鬼と戦うにはこの男が邪魔なので、なるべく先に到着しておきたかったのだが。

 嘆木はグリコを見もせずに、地面をじっくり注視している。

「……やっぱり、きてくれましたね。きてくれると思っていました」

 囁ささやくような──嬉うれしいでも愉たのしいでもない嘆木の声。その言葉にグリコは眉まゆをひそめる。

 こいつ──。


「一ヶ月前の事件で、怪物と戦っていたのは君ですね?」


「……だからなんだ」

 グリコは特に隠そうともせず応えた。クックックと嘆木は笑い、じりじりと地面を這はっていく。ゆっくりと歩み寄り、彼のそばに立つといきなり注意された。

「あ、そのあたりに立たないでください。痕こん跡せきが消えちゃうでしょ」

「こんせき?」

「はい──手て長なが鬼おにの痕跡です」

 つぶやいて、しばし沈黙し、嘆なげ木きはぞろりと立ちあがった。姿勢は悪いがそれでもグリコよりかなり背が高い。ちなみにグリコはクラスでも背が低いほうだ。林りん檎ごの力を使えば背が伸びないこともないが、あまりにも阿あ呆ほらしいのでそんなことはしない。そう──林檎には因果を捻ねじ曲げ、奇跡を起こす力がある。その林檎の力を最大限に利用して、グリコは常人には及びもつかない超戦闘力を得ている。

 手長鬼の、人間を玩具おもちやみたいに殺してのける戦闘力もそれに近い雰囲気がある。まさかと思うが──林檎の持ち主だろうか。その可能性もあるだろう。しかし、それにしては殺人に躊躇ためらいがなさすぎる。林檎の保持者だとしたら、昔のグリコよりもずっと化け物に近いかもしれない。

「……痕跡というのはなんだ?」

「はい。まぁ手長鬼の現在位置を掴つかむための証拠といいますか──実際の刑事事件では指紋とか髪の毛とか色々とあるんですが、今回はわりとシンプルなのが見つかりましたね」

 それだけ言うと確かな足取りである方向へ向かう。

 グリコも慌ててついていく。

「何が見つかったんだ?」

「足跡です」

 背骨がないような奇妙な歩き方の嘆木は淡々と説明する。

「小学生くらいの女の子の、可か愛わいらしいサンダルの足跡が見つかりましたよ。目撃者の証言では手長鬼もサンダルですし──冬ですしね、可能性は高いでしょう。比較的に地面が湿っていて足跡が残りやすかったのが幸いしました。そういえば昨日は雨がふりましたね」

「…………」

 グリコは沈黙して嘆木を見る。骨格が変なのか首は曲がりっぱなしだ。不気味で、いまいち得体の知れないところがある。しかし行動理由は立派に正義と呼ばれるものだし、決して無能な刑事ではないようだった。

 しかし──足跡を残しているとは。たくさん目撃もされているようだし、どうも手長鬼の行動からは警察から逃げよういう考えが読みとれない。警察に見つかっても大丈夫という自信か。それとも、単純に迂う闊かつなだけだろうか。

「…………」

 首を振る。そんなことはどうでもいい。鈴りん音ねの友人を含む十人もの人間を殺した殺人犯──化け物かもしれない少女が待ちうけているのだ。気を抜けば殺されるのはこっちかもしれない。

 久しぶりの感覚だな、とグリコは思う。

 しばらく忘れていた──殺伐として冷やりと乾いた戦闘の気配。

 警戒しながら歩を進め、やがて二人はその場所に辿たどりつく。

 そこは、ごく普通の墓石が置かれているだけの場所だった。苔こけむしている墓石が目立つこの墓場で唯一、綺き麗れいに磨かれた御影石の墓。特徴的なところはなく、『相沢家』という文字と梅の花に似た家紋が丁寧に刻まれている。

 置かれているのは──そのへんから引っこ抜いてきたような花。泥つきの、世間では雑草という評価しかされない冬にも咲く地味な花。そしてどういう根拠か缶ビールとアンパン。一枚の毛布と──。


 両腕の欠落した女の子。


「…………いた」

 嘆なげ木きが、小さくつぶやいた。

「本当に──」

 少女は──普通の女の子らしく可か愛わいらしい寝息をたてていた。穏やかに、何か楽しい夢でも見ているのか和やかな顔で。しかし彼女が普通であればあるほどその異常さは際だっていく。彼女が眠っている場所は、誰だれかの死を封じこめた墓石の前なのだ。

「これが──」

 こんなに華きや奢しやな女の子が。

「──手て長なが鬼おに?」

 十人の人間を殺し、観かん音のん逆さか咲ざき町に恐怖をばらまいた殺人犯。手長鬼──彼女は、見たところ、両腕が欠落しているだけの女の子に見えた。

 もちろん、外見が怖い化け物ほど強いというわけではない。

 しかし──。

「おい、君──」

 考えているうちに、嘆木が手長鬼に手を伸ばしている。相手が無害そうな女の子だと見てとって油断したか──いけない。眠っているうちにせめて縛るなりなんなりしておかないと。否いな──そうだった。警官はみだりにそんなことをしてはいけないのだ。

 嘆木には、殺しあいをするつもりがない。

 それは──甘い。甘すぎる。

 化け物という存在は、殺さなければ殺されるのだ。

「ぱちっ」

 瞬間、手長鬼が獰どう猛もうに目を開く。

「だぁれ──手長鬼かなり眠いんだけど!」

 そして──高く、高く。

 見えない力に弾はじき飛ばされて、嘆なげ木き狂くる清きよは吹っ飛んだ。爆発したかと思った。そのくらい凄すさまじい勢いだった。悲鳴をあげる余裕もなく嘆なげ木きは高らかに飛んで、いくつもの墓石にぶつかりながら地面を転がっていった。

「────っ」

 グリコは脳を戦闘態勢に切り替えて、眠そうに瞬きをする手て長なが鬼おにを睨にらみつけた。なんだ──今の現象は。攻撃が見えなかった。攻撃が速すぎて見えなかったというのとは違う。単純に、見えない何かでぶん殴られたように思えた。

 嘆木のほうを見もせずに、手長鬼は大欠伸あくびをする。

「むぅー、むにゅにゅぅ……、手長鬼ねぇ、毎晩なにかと動いてて疲れているんだよ? せめてお昼くらいは寝かせてよ。眠いよぅ。もう──さっさとバイバイしてね?」

 そして、今度は見えない打撃がグリコにくる。見えない──なりに、風の動きなどで避よけられるかと思ったが、空気が動いている感じもしない。なんだこれは。

「──くっ」

 とりあえず、嘆木のやられ方を見て、相手はまず顔面を狙ねらってくると当たりをつけたグリコは両腕をクロスさせて手長鬼の打撃を防いだ。重い──巨大な石でも投げつけられたかのような衝撃だ。なるほど、こんな打撃を何度も受ければ人体など簡単に壊れる。

 間違いない──こいつが、十人殺しの手長鬼!

 みしみしと骨がきしむ音を聞きながら、グリコは衝撃を殺して跳躍し、一つの墓石の上に立つ。そして制服のポケットからスプーンを抜き放つと神速で手長鬼に投とう擲てきした。

「──わきッ?」

 本能的に危険を察したか、寝ぼけた顔を瞬時に引きつらせると手長鬼は二本の足だけで激しく跳躍した。くるくる回転しながら後方に跳んで、グリコと同じく誰だれかの墓石に着地する。驚いたような、冷や汗混じりの顔だった。


 そうして──眼がん球きゆう抉えぐり子こと手長鬼、二人の化け物が相対する。


「……あっれ。ちょ、ちょっとタンマね」

 手長鬼は不思議そうな声で中止を呼びかけると、深く考えこむような渋い顔をした。

「あれ──あれれ、違うよねぇ。うーん、違うよ顔が違う。あなた──手長鬼が狙ってるひとじゃない。もしかして手長鬼の勘違い? 顔の覚え間違いかなぁ。って──毎回そんなこと言ってる気がするけど」

 よくわからないことを独白して、手長鬼は問いかけてくる。

「あなた、なんて名前なの?」

「眼球抉子」

 偽いつ原わらグリコとでも名乗ってやろうかと思ったがやめた。あまり格好いい名前ではない。考えながら嘆木を見る。強したたかに全身をぶつけたようだが命に関わるほどではない。今は放置しておいて大丈夫。しかし迂う闊かつなことをしてくれたものだ。眠っていた鬼が目覚めてしまった。

「おまえは──手て長なが鬼おにか?」

 新たなスプーンを握りながら問う。

 手長鬼はにっこりと答えた。

「そうだよ、手の長い鬼で手長鬼! けど──あれっ、眼球さん、なんでそんなに強げなのかな? 手長鬼ちょっと驚いたんだよ?」

「説明してやる義務はない」

 正直なところ面倒だった。笑いながらも、手長鬼は全身から殺意を放っている。これに耐えながら延々と喋しやべっているとそれだけで倒れてしまいそうだ。間違いなく、油断ならない相手。気をひきしめながら一つだけグリコは問いかける。

「誰だれかを狙ねらっていると言ったな。おまえには何か目的があるのか?」

「うん。聞きたい?」

 手長鬼は無邪気なほど簡単に教えてくれた。

「手長鬼はね、えーとね。……。うんと、ウダガワリューネってひとを殺さなきゃいけないの!」

「……誰だそれは」

「見つからないの!」

 手長鬼はしょんぼりして、それから目に輝きを戻して尋ねてくる。

「……あっ。ねぇねぇ眼球さん、あなた、もしかして林りん檎ごを持ってるの?」

 もちろん普通の林檎の話ではなく──人間に不老不死と奇跡の力を与えるエデンの林檎のことだろう。林檎のことを知っているとは、やはり、彼女は林檎の保持者なのだろうか。だとすれば、殺しあうのはなるべく避けておきたいのだが。同じ地獄に落とされた同胞のようなものだし、だいたい死なないので戦っても無駄だ。

 唯一──可能性として、『相手の林檎を奪う』というものはあるが。

 林檎は、持ち主がその所有権を放棄した時点で失われてしまう。ゆえに、林檎の所持者を倒すならば、拷問したり、脅したり、あらゆる手段で相手の林檎を奪わなくてはならないのだ。一ヶ月前も、その法則を狡こう猾かつに利用した存在にグリコも鈴りん音ねも苦しめられた。

 グリコは油断なく頷うなずいて、さらに一歩だけ質問を進める。

「あぁ、グリコも林檎を持っている。おまえも──」

「わぁラッキー!」

 言葉を遮り、手長鬼は墓石の上で跳びあがった。

「じゃ──その林檎を手長鬼にちょうだい! ゼキくんが欲しいのはリューネってひとの林檎だけど──林檎なんか見分けつかないんだから、あなたから奪った林檎でもゼキくんはきっと気づかないもん!」

「ふ、ふざけるな」

 あまりにも無邪気な物言いに、危機感を覚える前に戸惑う。しかし手長鬼は一顧だにせず笑い、小さく跳ね、感極まったような声で叫ぶのだ。

「──ちょうだい! 手て長なが鬼おにそれが欲しいのぉ!」

 墓石が砕けた。咄とつ嗟さに跳躍して見えない腕をかわすグリコの背後、硬い材質の石が粉々に粉砕される。いったいどれだけの威力だというのだろう。あんなもの、本気の一撃を直接ぶつけられれば肉が抉えぐられる。

 点々と置かれた墓石を跳ね回る。そのたびにバカン、ゴガン、と見えない腕が墓石を砕き散らしていく。

「もぉ、避よけないでよ!」

 ぷうと頬ほおを膨らませ、手長鬼は動かずに見えない腕のみを操作する。

「でも──逃げきれるわけないんだよ? こうすればどう?」

 言葉と同時にいくつかの墓石が同時に根元から引き抜かれ、罰当たりなことに一斉にグリコに向かって投とう擲てきされた。武器をスプーンしか持たないグリコには対応できない超重量──グリコはしかし一刹せつ那なも慌てることがなかった。

「調子に乗るな──」

 とん。

 軽やかに。

 土つち埃ぼこりと、乱れた泥と、暗い色の墓石の群れ。

 グリコは大地を蹴けり、跳躍し、墓石の一つを踏む。とん。さらに静かな動きで二つ目へ、三つ目へ、猛速度で放たれる墓石を足場にしながら手長鬼に近づいていく。鮮やかなその動きは踊っているかのように流麗だった。

「わぁすごい! 楽しいぃ!」

 手長鬼は驚きも怯おびえもせずむしろ喜んだ。

「眼球さんは強いんだね! 手長鬼は興奮しちゃうよ!」

「そのまま死ね」

 冷たい言葉と同時に投げつけられるスプーン。銀色の閃せん光こうが一直線に疾空する。

 しかしスプーンは手長鬼に到達する直前に見えない腕で弾はじかれ、小さな音をたてて落ちる。一ヶ月前の事件の時も思ったが、やはりスプーンでは蟲むしはともかく化け物を相手にするにはひ弱すぎる。

 しかし──とグリコは思う。

 一ヶ月前、スプーンという弱い武器を常に使うことで抑えこんでいた凶暴性が解き放たれ、グリコはおぞましい化け物になってしまった。殺さつ戮りくを愉快に感じる化け物。外見的にも精神的にも人間ではない化け物。

 あの一件で千年かけて熟成させた林りん檎ごは消え、グリコも二度とあのような化け物に変へん貌ぼうすることはなくなったはずだった。しかし林檎を失い、減じたはずの戦闘力は変わらずにグリコの身体に残っていて──。

 自分の身体に何が起こっているのかはわからない。

 あのとき自分がなってしまった真紅の化け物の正体もわからない。

 神──だと思う。けれど、何な故ぜ、あのとき神の姿になってしまったのか。

 わからない。答えをくれる相手などどこにもいないのだから。

 とにかく今は、自分の心を救ってくれた賢さか木きと鈴りん音ね、二人の平穏を守るために戦う。

 千年前に死んだ女の子は、そうして今を生きている。

「──ぐっ」

 いきなり左後方から放たれた見えない腕の一撃で体勢を崩され、瞬間、正面からの正せい拳けん突きにもんどりうって倒れる。慌てて立ちあがるも、グリコは切れた唇の血を舐なめて眉まゆ根ねを寄せて考える。

 近づけば近づくほど分が悪い。見えない攻撃──それはつまり拳けん銃じゆうのようなものだ。弾丸が放たれてから避よけても遅い。撃つ直前の──相手の動きや目線から推測するしかない。しかし至近距離ではそれも難しい。なかなか単純なようで厄介な相手だった。

 しかし遠距離から攻撃しようにも、スプーンを投げたくらいでは簡単に弾はじき飛ばされてしまう。せめて手て長なが鬼おにのように墓石を飛ばせたら──。

 そこまで考えて、ふと気づく。

 ──試してみる価値はあるかも。

「ほらほらほら! ぼうっとしてると殺しちゃうからね!」

 楽しそうな顔で手長鬼が見えない拳こぶしをくりだしてくる。後方に跳んでかわし、グリコはわりと小振りな墓石を掴つかむ。スプーン以外の武器を使うことに躊躇ためらいはあったが、四の五の言っている場合ではない。苔こけのぬめった感触に閉口しながら足を踏ん張る。

 これでも腕力には自信がある。

 しかし──ぐぐ、と力をこめても墓石は動かない。手長鬼はいとも簡単に動かしていたというのに──何故? 考えながらも、手長鬼の腕が飛来してくるので場所を移動する。

 やはりグリコと手長鬼の腕力の違いか? しかし──グリコだって本気で殴れば墓石くらい粉砕できる。しかし地面から引き抜いて投げることはできなかった。

 それに──不思議なこともある。

 手長鬼は、明らかに二本以上の腕を操っているのだ。墓石を引っこ抜くには、最低でも二本の腕が必要だろう。しかし彼女は四つだか五つだかの墓石を同時に投げていた。すなわち──手長鬼の見えない腕は二本以上、計算上は十本ほどもあるということになる。

 手長鬼を見る。欠落している両腕。あの外見に騙だまされて、見えない腕も二本しか操れないと考えていたら痛い目を見そうだ。

 どうやら彼女の能力は、見えない長い腕を操るという単純なものではないようだ。

「……色々と確かめてみるか」

 グリコはつぶやき、神社の宮司が見たら首を吊つりそうなほど荒らされた墓場の中心で、手長鬼を挑発するように仁王立ちした。そして不敵な顔で手招きする。

「──どうした、その腕が自慢なんだろう? しかしその程度のものならば、ただ見えないというだけで大したことはないな!」

「…………」

 ぴくり、と手て長なが鬼おにの片眉まゆが跳ねあがる。

「ば──馬ば鹿かにした? て、て、手長鬼の──長い両腕おててを馬鹿にした?」

 小刻みに震え、手長鬼は簡単に激げつ昂こうする。

「くぅ眼球さん、もう容赦なんかしないんだから! 遊びはおしまい! 死んじゃえぇ!」

 叫びとともに猛烈な殺気が前方から放たれる。これまでの比ではない。グリコは咄とつ嗟さに身体を反転させ、しかし大きく避けはせずあえて小さいフットワークでかわした。制服のスカートが風を吸ってぶわりと膨れる。

 瞬間。

「──折れちゃえ!」

 手長鬼の号令──と、同時にグリコの全身に襲いくる衝撃。

「うぐっ──」

 呻うめき、グリコは特に酷ひどい違和感があった左足に眉をひそめながら、自分を殴りつけてきた見えない腕を掴つかもうと試みる。拳こぶしか──そうでなくても腕が実在するなら掴めるはずだ。

 しかし、すかっ、と腕のある場所を通過してグリコの指先は空を切る。

「あははっ」

 手長鬼は甲高く笑った。

「手長鬼の腕に触ろうとしても無駄だよ! 手長鬼の両腕おててはねぇ──特別なんだから、眼球さんも、ゼキくんも、手長鬼ですら触れないんだから! 一方的に触れるだけ! 無敵で素敵な両腕おててなの! どう──もう馬鹿にしないよね? 素直に褒めていいんだよ?」

 グリコは舌打ちしながら大きな墓石の背後に退避する。違和感があると思ったら左足の骨が折れていた。グリコは長い不死者としての生活の果て、痛覚というものを失っている。それは戦闘において不利でしかない。痛みとは、身体の異常を知らせる信号である。その信号が届かなければ自分の限界がわからない。

 放ほうっておけば林りん檎ごの力で再生するだろうが──この戦闘中に動かせるまで回復するのは絶望的か。

 また舌打ちし、グリコは左足と右足の靴下も靴も全すべて脱いでしまう。裸足はだしのほうが動きやすい。昔は──まだごく当たり前に眼がん球きゆう抉えぐり子こを名乗っていたころは、いつも裸足だった。大地を踏みしめ、軽やかに動く裸足が戦うには最適なのだ。

 手長鬼に砕かれた左足の腓ひ骨こつと脛けい骨こつのあたりは酷く腫はれている。グリコは脱いだ二足のハイソックスで骨折した場所をがんじがらめに縛り、とりあえず極めて適当な応急処置をした。折れた骨が動かないよう固定しただけ。

「──隠れても無駄だよ!」

 背中を預けた墓石が一瞬で砕かれ、舞いあがった埃ほこりで何も見えなくなる。ゴミが目に入らないようぎゅっと瞑つぶって、グリコは冷静に思考しながら牽けん制せいのためにスプーンを投げる。

 相手の能力はだいたい把握できた。根拠や理屈は不明だが、そんなもの、化け物を相手に考えること自体が馬ば鹿かげている。学術的な根拠などいらない。科学的な理屈はいらない。ただ彼女が力をつかうことで発生する影響のみを知ればいい。

 手て長なが鬼おにの能力は、厳密には『見えない腕』ではない。

 あえて表現するならば念力サイコキネシス──超能力のようなものだ。彼女は念じた場所に力場を発生させ、物体を動かすことができる。それは墓石を砕いたり、人間を殴ったりといった直接的な行動から、恐らくある程度の日常生活動作ADLをも可能にしているのだろう。自動販売機にコインを投入したり缶ジュースのプルトップを外したり。おそらく──人間の手と同程度の行動は可能だと推測される。

 なんとか片足で跳び回り──攻撃を避けながら、グリコはこの敵の攻略法を考える。

 とりあえず、すぐに思いつく対処法は手長鬼の手が届かない距離まで逃げることだが、嘆なげ木きをそのまま置いて逃げるというのも不人情だし、根本的な解決にはならない。あとは──手長鬼の集中を乱すとか。彼女はわりと単純な性格をしているし、念力の腕をまともに操れないくらい動揺させてやればいい。

 しかし──どのように。

 考えていると、皮肉なことに、グリコのほうが動揺する展開がやってきてしまった。


「────」


 小さい、声が聞こえた。

 内容までは聞き取れない、酷ひどく小さな声。

 この声は。

 グリコは反射的にそちらを見て、そこに宇う佐さ川がわ鈴りん音ねが立っていることに気づいて戦慄する。優しげな風ふう貌ぼう。小柄な体たい躯く。可か愛わいらしくあしらったリボン。

「鈴音──何な故ぜ」

 馬鹿な。おかしい、と思う。ついてくるなと言ったのに。鈴音はそれほど愚かな女の子ではないはずだ。グリコのところにきたって、足手まといにしかならないのを理解しているはずだ。それなのに。

 自分は死なないからと油断しているのか──否いな、それも考えられない。

 鈴音。どうして。

「……うん?」

 手長鬼はそこでようやく気づいて鈴音を振り返り、ちょっとだけ沈黙した。

 何か考えているような間を越えて、彼女は普通に決断した。

「なるほど。うん──邪魔だからこっちから殺そっか」

 何か不自然な言葉。しかし考えている暇はなく──。

「逃げろ鈴音ッ!」

 グリコは吠ほえて、三つのスプーンを抜き放つと手て長なが鬼おにに向かった。宇う佐さ川がわ鈴りん音ねを危険に晒さらしてはならない。守る──守ってみせる。自分の命に代えても。

 そうして一瞬だけ、グリコは戦闘中だというのに我を失った。

 その間かん隙げき──最悪のタイミングで手長鬼が振り返る。

「なーんて、まずは眼球さんからね?」

 ぐぎり。

 嫌な音──と、同時に首筋に違和感、圧迫感。そして信じられない勢いでグリコは空中に飛びあがる。否いな──持ちあげられたのだ。手長鬼の見えない腕で。

「ぐ──う」

 首を絞められ、スプーンを握ったまま、動くこともできずグリコは宙ぶらりんになる。しまった──グリコは呻うめく。自分としたことが、油断した。

「どう? 手長鬼の両腕おてて、とっても力が強いでしょ? 苦しいでしょ? 死にたくなるでしょ? ていうか──死にたくなるまで首絞めてあげる」

 ぎりぎりぎり、と首の骨が折れない限界の力で絞められる。気道も血管も残らず大きな見えない指先に圧迫される。グリコは声にならない声で叫び、触れない腕を引き離そうと意味なく空中を掻かきむしった。

 吹き飛びそうな意識をどうにか押さえつけ、グリコは白濁してきた視界に鈴音の姿を探す。いる。鈴音は墓場の入り口、水くみ場のあたりで呆ぼう然ぜんと立っている。逃げもしないし騒ぎもしない。ただ僅わずかに肩のあたりが震えている。笑っている?

 どうして。

 どうして──鈴音。

 考えているうちに──意識が、意識が。曖あい昧まいに。模も糊ことして。

 意識が消えて …………

「……あれっ。呆あつ気けなぁい」

 手長鬼は俯うつむいて、だらりと四肢を垂らしたグリコをつまらなそうに見る。

「ま──これでわかったでしょ? 手長鬼、とってもとっても強いでしょ? 手長鬼はね、ゼキくん以外には絶対負けないんだから。うん、でも楽しかったよ眼球さん、せめて林りん檎ごをくれるまで丁寧に痛めつけてあげるからね?」

 グリコは応えない。

 だらり、と最後に指先まで完全に弛し緩かんして──。

 スプーンが、くるくると落下した。

 手長鬼はそれを満足そうに見ている。

「あははっ、それにしてもどうしてスプーンなんて──」

「どうしてだと思う?」

 短い声。低い──声。

 その声は、気絶しているはずのグリコの口元から。

「────えっ?」

 手て長なが鬼おには表情を変えるが、もう遅い。

 くるりと落下したスプーンはグリコの露出した素足を滑り、瞬間、素早く動いた足の指に掴つかまれる。そして折れていないグリコの右足は後方に大きく揺らいで──。

 強烈な蹴けりが瞬時に振られ、スプーンは前方──手長鬼に解き放たれた!

「ひィ──あ?」

 反応──間に合わず、スプーンは正確に手長鬼の右眼球に突き刺さる。甲高い悲鳴をあげて、手長鬼は痛みか衝撃か後方に倒れると悶もだえ転がった。

「あぁ! ぎゃあ! 痛い──痛いよぉ!」

 集中が途切れたのか、彼女の見えない腕は消失し、グリコは解き放たれて地面に軽快な動きで着地した。そして情け容赦なく一気に手長鬼へと駆け寄る。

 思ったとおり──手長鬼は、圧倒的に戦闘経験が少ない。グリコの死んだふりにあっさり引っかかって、油断した。

 勝利を確信して、グリコは躊躇ためらわず突き進む。

「どうしてグリコがスプーンを使うかって? 眼球をえぐりやすいからだ。どうして眼球をえぐるかって? そんな理由──とうに忘れた」

「う、ああ! あぁ!」

 手長鬼はなんとか立ちあがり、血混じりの涙を零こぼしながら叫んだ。

「わぁ、あぁ! ちょ、ちょっと待って──痛い、痛いからぁ!」

「うるさいな。最期の最期に見苦しい」

 グリコは手長鬼の華きや奢しやな肩を左手で掴み、思いっきり右の拳こぶしを眼球に突きたったスプーンに叩たたきつけた!

 ぐしゅッ──。

 ──。

「ァ────」

 深々と刺さり、後頭部を突き抜け、潰つぶれた血まみれのスプーンが地面に落ちる。手長鬼は口をぱっくりと開き、また閉じ、信じられないという顔でグリコを見ている。

「────ぅ」

「一本では死なないか?」

 グリコはまたもスプーンを取りだすと、それを彼女の残った左眼がん窩かに突きたてた。そして慣れた動きで眼球を抉えぐり取り、ぽっかりと残った空洞を思いっきり殴りつけた。

 血と──眼がん漿しようと、脳のう漿しようと──涙、様々な液体を迸ほとばしらせて、手長鬼は地面に叩きつけられると動かなくなった。

 ぽん、とグリコは抉りとった、まだ眼漿のしたたる目玉を指先でつまんで笑う。

 それは自覚していない、ただ清純な満足感に浸った笑み。

 化け物の笑みだった。

 ざり、と足音がした。


「────」

 足音? 敵か。手て長なが鬼おにの仲間か。

 ならば殺す。排除しなきゃ。殺さなきゃ──殺される。

「──」

 獣のように振り返り、背後に立った人物にスプーンを突きたてようと──。

「──くすくす」

 その鈴を転がすような笑い声で──戦闘の余韻に焼き尽くされていた理性が戻った。グリコはぎくりと硬直し、自分が殺意を向けた人物をあらためて見た。

「あ………」

 グリコはそこでようやく思いだす──この場に鈴りん音ねがいたということ。

 そこに鈴音が立っている。自分の『大切』になってくれたひと。誰だれよりも大切に想おもっているはずのひと。

 そんな彼女に──彼女に?

 見られた。自分の化け物みたいな顔を。見られたくなかった。一ヶ月前の真紅の姿も、今の眼球を抉えぐった姿も、鈴りん音ねだけには見られたくなかったのに──。