
「──腕の長さを比べましょ?」
そこは家庭に居場所がない子供たちが集まるとある廃ビルの中。たむろをしていた数人の年齢も性別も不統一な若者たちは唐突な非日常に
それは何度も何度もくりかえしてきた当たり前の日常。
その日常に
鬼に。
鬼の放った見えない
死。それは死。造りものじゃない──本物の死。
亀裂。
「わぁぁッざけんなァ!」
半狂乱になり、若者の一人が
スタンガンで。催涙スプレーで。
角材で。木刀で。金属バットで。
しかし──そんなもの。
これっぽっちも役に立たなかった。
「ふふん?」
ただし──彼女には、あるべき場所に腕がなかった。
ギン。
体格の良い青年の金属バットによる一撃が不自然なことに空中で停止する。動かない。青年は短く悲鳴をあげ、必死でバットを動かそうとするも何か
瞬間、金属バットに五本の指にしか見えない奇妙な
「うーんと」
手長鬼はしばらく見えない指先でバットを
「つまんない──ぞ?」
静寂。
その光景を見つめていた、五人ほどの若者は絹を裂くような悲鳴をあげた。
現代の日本では、死というものに触れる機会が極端に少ない。死体は迅速に回収され、火葬場で焼かれて一瞬にして灰になる。ゲームや映画や漫画、精巧に模倣されたそれら死の模造品は本物の死すら
だから──まるで、少年少女にとって本物の死は魔法のよう。
理解ができない異常な事態。ショックで──彼らは半狂乱になって逃げだした。
「……うるさいなぁ。せっかく静かな夜なのに」
そろそろ見つけておかないと──。
手長鬼は
「当ったるかなっ♪ 当ったるかなっ♪」
そして見えない腕を伸ばす。
「ひぃっ!」
少女は足首のあたりをいきなり
運が──悪かったのだ。
非日常。突然の死。その象徴──鬼に、出会ってしまった不幸を嘆くしかないのだ。
異様な光景だった。
「高い高い~♪」
異様で、酷薄な光景だった。
四肢を同時に見えない腕で掴まれた少女は、強い力で空中に持ち上げられる。自由に空中浮遊しているようにも見える彼女は、しかし一切の自由を奪われて
彼女がそうして死の危機に立たされている
理解して──少女は自分でも意外な相手に助けを願った。
「た、助けて……おとうさん、おかあさん」
愛情なんて冷めていたはずの、ただ血がつながっているだけの両親。三度の飯と小遣いだけを用意してくれれば、いっそ人格なんてないほうがいいと思っていた
「助けてぇ──お父さんお母さぁん!」
そんな彼らに、窮地に立たされた今になって助けを
「……えへへっ、
「あれれっ。ちがうな。デジャニュじゃなくって──なんていうんだっけ、デジップ? うぅん……デジャブ? そんな感じの──ね、お姉さん、昔の手長鬼に似ているよ」
デジャブというのも少し違うのだが、手長鬼は感慨深い顔をする。
「でもね、助けなんて現れないんだよ? 神様はいません。英雄はいません。困ったときに助けてくれる白馬の王子様なんかいないんだ。だって──もしも神様がいるんだったら」
ぶぢり。
鈍い音。
「手長鬼は──鬼になんかならなくて良かったはずだもん」
引き裂かれたのは──少女の両腕。ぶぢりぶぢりと筋肉や骨格、脂肪や血管を力任せに
「あ──がぁ、あぁァぁ」
少女は痛みですでに発狂したように白目を
「虫ってさ」
手長鬼は表情を変えない。目の前の、自身が成した残酷な光景にも無邪気な顔のまま。
「見つけると、腕とかちぎりたくなるじゃない。羽をむしって、触覚を抜いて、ばらばらにしたくなるじゃない。手長鬼ってね──そういう子供だったんだ。そして多分ね──きっと、そこからちっとも成長してないんだ」
ぶち。ぶぢり。
そして少女の両足も
「でも、それでもいいの。そんな手長鬼をゼキくんが受けいれてくれたから」
すでに痛みか出血かで絶命している少女に手長鬼は低く
「だから、私は手長鬼でいい。人間を昆虫みたいに殺せる心のない鬼でもいい」
少女の
「神様を待つ弱い人間は嫌い。英雄を待つ卑屈な人間は嫌い。私は──人間じゃない、堕天使のそばにただ居るだけの手長鬼でいい」
無邪気な──
「どう? 手長鬼の

私立
常に
そのなかでは二番目に古い第二校舎、二階の廊下の最奥にその教室はある。平凡なこの学校には露骨なほど
放課後。からんころんと終業のベルが鳴り、完全に爆睡していたグリコを
あのなんとかかんとか養成訓練というので疲れているのだろうか。鈴音はいまいちその訓練の内容を把握していないのだが、大変だなぁと漠然と思う。せめてがんばっているグリコの邪魔にならないよう、余計な心配をかけないようにしなくては。
恐ろしいほど冷淡に時間は流れていって。
目撃者の証言から『
鈴音は
「…………」
そして──克美のことを考える。自分を友達と呼んでくれた女の子のことを。彼女と培ってきた他愛のない思い出や、胸に深い影を残している克美のお葬式。克美の両親は泣いていた。克美の弟も泣いていた。鈴音もただ泣いていた。涙で
最後に見た、寂しく笑う克美の顔を思いだす。
「……次は、あたしが
「何をだ?」
「わ──」
いつのまにかグリコが起きていた。考え事に没頭していて気づかなかったらしい。彼女は特徴的なオオカミヘアを眠たそうな顔でぼりぼり
グリコの瞳は銃口の瞳。感情はないし何も語らない。
鈴音の涙をあえて無視したか、グリコは立ちあがるとかるく伸びをした。
「ふあぁ。眠い……。寝ても寝ても足りない」
「グリコちゃん、近ごろ夜更かししているの?」
ちなみにグリコたち不死者には特に睡眠欲求というものはない。しかしグリコは眠るのが趣味だとかで人並みに睡眠をとるのだった。
机に引っかけてあった
「あぁ。
その言葉に鈴音は心臓が止まるかと思った。
「手長鬼──って、殺人犯の?」
「そうだ。どうもそいつは夜中にしか行動していないようだからな、夜には適当にうろついて探し回っているんだ。見つからないけど」
鈴音は青ざめてしまう。駄目だ──危ない、と思う。もちろんグリコの強さは知っている。普通の『
鈴音の表情を読んだか、グリコは珍しく柔らかな笑みを浮かべた。
「大丈夫。それに──グリコは戦うことしかできないから」
小さな声でつぶやくのだ。
「鈴音や、
そこまで言って、ハッと気づき、照れくさそうな顔をするとさらに小声でつぶやく。
「樹夫に火乃は──別にいいか。あいつら、毎日のようにグリコのベッドに侵入してくるし。昔話を読んだり
「……グリコちゃん?」
ぶつぶつ独語するグリコに、不思議になって鈴音は首を
グリコはまたもハッとして、ぶんぶんと首を振った。
「な──なんでもない。くそ、調子が狂ってる……」
そしてずかずかと教室から出ていく。鈴音も戸惑い、驚きながらもそんなグリコの背中についていったのだった。

学校帰りに、グリコが買い物をしていきたいと言うので
三週間、グリコと離れてみて、鈴音はこれまでいかに彼女の存在に寄りかかっていたのかを知った。たしかにあの家は自分のものだけど、保護してくれていたのはグリコだ。嫌だな──と鈴音は思う。いつまでも、
いつも放課後には生徒たちで
被害者の共通点は、唯一、女の子であること。
けれど、つい先日に報道されたニュースによると、被害者には不良少年や男の警官も混じっているという。警官のほうは手長鬼を見つけ、逮捕しようとして返り討ちにあったのだと誰かが解説していたが──。不良少年はよくわからない。
それらは例外として、主に
そんな感じに、手長鬼が平和だった観音逆咲町に生んだ波紋は大きかった。
町には連日TVや新聞の取材が押し寄せ、物見高い野次馬があちこちを写真に撮っている。
鈴音は一人では少し不安だったので、アパートの隣の部屋に住んでいるお姉さんと一緒に寝ることにしている。ご飯も一緒に食べている。情けないが、やはり一人でいると落ちつかないのだ。鈴音がこうして普通に学校にかよっていられるのも、怖くないからではなく、自分が不老不死の身体だからだ。まだ痛覚はそれなりに残っているものの、絶対に殺されることはないとどこかで思っているからだ。
グリコみたいに、手長鬼には負けない、手長鬼なんか怖くないという感じではない。
……あぁ本当に嫌だ、と
強くなくてはいけないのに。
「待たせた」
営業していたファンシーショップからひょこりと顔をだし、グリコがほとんど動かない無表情でこちらを見た。手には小さな紙袋が握られている。
「あ──うん」
考え事に没頭していた鈴音は慌ててそんな彼女を見た。
「何を買ってたの?」
「よくわからない」
それは──よくわからない。
グリコは目を細めて紙袋を通学
「けど──
「珍しいね、グリコちゃんが買い物なんて」
少しはグリコも変わってきたということだろうか。例の訓練はグリコを一般的な高校生にするという趣旨のものらしい。だとしたら、その訓練はそれなりに効果を発揮しているんじゃないかと思う。
グリコはなんでだか鈴音の言葉に唇を
「……うるさいな。
「ひの?」
首を
「……ど、どうせ、グリコらしくないのは理解している。けど、あいつらが露骨に買ってくれ買ってくれと目線で訴えるから。だいたい火乃もなんだ、なんの脈絡もなく誕生日の話とかをするな。誘っているのが見え見えだ。ふん──べ、別に、親だと思えたわけじゃない。あいつらには──ただ、その、色々と世話になっているから」
「…………?」
全くわけがわからない。
鈴音は一念発起して、商店街の奥のほうにある喫茶店の前で直進しつづけるグリコの服を引っぱった。リードに
「……どうした」
「入ろ」
「………む? どうして」
「いいから。たまにはさ」
理由も説明せずに喫茶店の扉を開く。ここは
近ごろ変わり始めているグリコ。彼女の
グリコの力になってあげたい。
一ヶ月前、彼女は自分を助けてくれた。
それからも、孤独な心を
何より──死んでしまった克美のぶんも、彼女を愛してあげたいと心から思うから。
カランコロン。
喫茶店の扉に
「いらっしゃいませ」
まだ年若い店長がにっこりと
ちょっとびっくりした。
男性である。姿勢が悪いので背は高いのか低いのかわからない。かるく伸ばした髪が顔のほとんどを隠しており、かろうじて見える金色がかった目は見開かれていた。くたびれたようなコートを着て、安物らしい煙草をくゆらせて、
──髪の毛のオバケ。
なんとなくそう思った。別に髪がめちゃくちゃに伸びているわけではない。しかし整えられていない前髪が顔のほとんどを隠し、表情が見えないのだから人間性なんか欠落している。さらに姿勢が悪い。何故か
店内には彼の他に客らしきひとはいない。
「あのお客様」
店長は表情を笑みで固定して唇を動かさずに語った。
「刑事さん──らしい」
「刑事?」
見えない。刑事といったら犯罪者を捕まえる警官のことだが、彼はなんというかむしろ犯罪者サイドの人間のように見える。しかし──刑事ということは、彼もおそらく手長鬼を探している途中なのだろうと思う。たしか刑事というのは二人一組で行動するんじゃなかったっけと
店長は静かな、淡い音楽みたいな声で
「うん。だから邪魔しちゃだめ」
「わかりました」
「……寂しい。もう、
「──……」
彼女は店にくる
「寂しい。クラシックじゃ──寂しい」
そしてレコードをかける。力の
見ると、彼は
ココアにはあまりカフェインが含まれていないのだが。
ちなみに彼女、甘いものを食べたり飲んだりするときだけ味覚を活性化させているのを鈴音は知っている。
注文を受けて店長は頷く。鈴音はきっちりと背筋を伸ばした無表情のグリコを見る。
「……なんか、色々と落ちつかないよね」
「うん。だけど──別に不満じゃない。この
グリコは
「淡々と、起伏もなくつづいていく毎日というのは、苦しい。かなり苦しい。特にグリコは──何百年かずっとそうだったから。何事もない平穏な日々というのは、好きだけど──怖い」
一瞬でスプーンを取りだして、静かな表情で眺める。
「
息を
「……グリコが蟲と戦っていたのも、大抵はそう──暇
そんなことはないと思う。グリコは、蟲に
グリコは少しだけ
「けど──近ごろは、その退屈じゃない、というか、平穏でない毎日というのもちょっとだけ嫌だ。日常を壊されるというのが、怖いと思い始めている」
グリコは弱くなってしまった──彼女は歯がゆそうにつぶやいた。それは違うと
彼女は独語するように、鈍く
「鈴音、グリコは人間に戻れてきたのかな?」
弱くて、大事なものを失うのを怖がって。
けれど心はきちんとあって、
そんな人間に──。
「この世には──
不意に、切れない
見ると、グリコと鈴音の真横、テーブルのそばに不気味な刑事が立っていた。間近で見ても人間からは遠い。口元にはうっすらと無精
「……特にこの町には、多すぎる」
「何の用だ」
グリコが鋭く問いかけた。刑事はクックック、と肩を震わせて感情なく笑った。
「……失礼。怪しいもんじゃありません。自分──こういうものです」
そして刑事は懐から警察手帳を
ただ、開いて見せられた手帳の中身、そこに映っている写真は目の前の彼とは別人のようだった。簡単にいうと美形だった。髪の毛を整えれば美形になるというオチらしい。それとも本気で別人なのだろうか。
奇妙な刑事は口元だけで笑う。
「刑事──
「嘆木──狂清」
グリコは
「……残虐な名前だな」
グリコには言われたくないだろうと思う。
彼女は彼の怪しい外見にも全く
「……で、その嘆木狂清がグリコたちに何の用だ?」
「おや──勇ましい」
クックック、と嘆木はそれは無理やり造っているだろと思う不自然な笑い声をあげる。そうしているうちに店長がコーヒーとココアを運んできて、どこか心配そうな顔で
そして許可などしていないのに
「何の用だと、聞いている」
「おっと──クック、そう怖い顔をしないでくださいな。せっかく
意味のない発言をして、急激に真面目になる。
「まぁいいとして、君たち、
「知らん。失せろ」
「……
だったら最初から確認なんかしなきゃいいと思う。鈴音は
「このままじゃ──手長鬼は永遠に捕まらないと思うんです」
嘆木は不思議な抑揚の声で言った。
「みんなね。頭──固いんですわ。ガチガチさんですわ。全くね、犯人は複数の巨人だとか強力な兵器を持ってるとか、そんなわけわかんねぇ与太は信じるくせに──目撃者の、小さな女の子が殺したっていう証言は『ありえない』と笑いとばす。なんてこと、それこそ笑い話にもなりゃしません。あんなにたくさん警官がいて、
「グリコたちに愚痴るな。
グリコがほとんど殺気に近い光を瞳から放つ。
「まぁまぁ」
しかし嘆木は動じない。鈴音は知っている。本気のグリコに睨まれて怯まないというのはかなりすごいことなのだ。この刑事──怪しいだけの人物じゃない。
「まぁ──お嬢さんがた、寂しいおじさんの話し相手になってくださいよ。そうね──事件の目撃者、その大多数が『小学生くらいの女の子を見た』と証言している。複数の事件現場にいて、なお生き延びてるってんなら犯人に違いないでしょ。問題は──小学生が人間をあそこまでめちゃくちゃにできるかってこと」
現実的に考えれば、できない。不可能である。被害者も高校生の女の子で身体が軽かったとはいえ、石塀や地面に何度も
けれど──
この世界に生きているのは、人間だけじゃないってこと。
「けれど、僕は知っています」
鈴音の心を読んだかのように、
「一ヶ月前──僕は巨大な怪物を見ました。そしてその怪物と戦う、少女にしか見えない一人の人間をね」
「──」
グリコは一瞬だけぴくりと
嘆木は──それに気づいているのか、いないのか。
「だから、僕は確信している。この世には──
憂鬱刑事は暗く笑った。奥が読めない表情で、鈴音には彼の内心を読むことができなかった。グリコも押し黙り、喫茶店には音量を抑えたジャズの旋律が漂っている。
嘆木は静かに宣言する。
「僕が個人的に集めた情報によると、この喫茶店のすぐそば、神社の近くに、滅多に人間が通らない墓場があります。そこの付近で
そこで、彼は机にコンと小さなテープレコーダーを置いた。そしてしっかりとした動きで『停止』のボタンを押す。不思議な顔をする二人に、嘆木は当たり前のように言った。
「……これまでの、僕の言葉は
「──なんだと?」
グリコは戸惑っている。鈴音も青ざめてしまう。そうか。そのために嘆木は自分たちに
「ま──死ぬつもりはありませんがね」
「まったく、この世には──

グリコの決断は早かった。
別に嘆木に同情したわけではない。ちっとも親しい仲というわけではないのだ。けれど──もしも本当に嘆木の推測が正しくて、手長鬼が墓場にいるとしたら、自分が戦って倒すしかない。同じく──化け物の自分が。
人間では、化け物に勝てない。
自分が──殺すしかない。
土や
羽虫がやたらと飛んでいた。
ゴーン、と神社で鐘が鳴った。
「……何をしている」
グリコは小さくつぶやいて、墓石の
それなりの速度で追跡し、神社の境内をショートカットまでしたのに先に到着されてしまった。どうも嘆木は自転車かバイクを使ったらしい。変なところでむかつくやつである。手長鬼と戦うにはこの男が邪魔なので、なるべく先に到着しておきたかったのだが。
嘆木はグリコを見もせずに、地面をじっくり注視している。
「……やっぱり、きてくれましたね。きてくれると思っていました」
こいつ──。
「一ヶ月前の事件で、怪物と戦っていたのは君ですね?」
「……だからなんだ」
グリコは特に隠そうともせず応えた。クックックと嘆木は笑い、じりじりと地面を
「あ、そのあたりに立たないでください。
「こんせき?」
「はい──
つぶやいて、しばし沈黙し、
手長鬼の、人間を
「……痕跡というのはなんだ?」
「はい。まぁ手長鬼の現在位置を
それだけ言うと確かな足取りである方向へ向かう。
グリコも慌ててついていく。
「何が見つかったんだ?」
「足跡です」
背骨がないような奇妙な歩き方の嘆木は淡々と説明する。
「小学生くらいの女の子の、
「…………」
グリコは沈黙して嘆木を見る。骨格が変なのか首は曲がりっぱなしだ。不気味で、いまいち得体の知れないところがある。しかし行動理由は立派に正義と呼ばれるものだし、決して無能な刑事ではないようだった。
しかし──足跡を残しているとは。たくさん目撃もされているようだし、どうも手長鬼の行動からは警察から逃げよういう考えが読みとれない。警察に見つかっても大丈夫という自信か。それとも、単純に
「…………」
首を振る。そんなことはどうでもいい。
久しぶりの感覚だな、とグリコは思う。
しばらく忘れていた──殺伐として冷やりと乾いた戦闘の気配。
警戒しながら歩を進め、やがて二人はその場所に
そこは、ごく普通の墓石が置かれているだけの場所だった。
置かれているのは──そのへんから引っこ抜いてきたような花。泥つきの、世間では雑草という評価しかされない冬にも咲く地味な花。そしてどういう根拠か缶ビールとアンパン。一枚の毛布と──。
両腕の欠落した女の子。
「…………いた」
「本当に──」
少女は──普通の女の子らしく
「これが──」
こんなに
「──
十人の人間を殺し、
もちろん、外見が怖い化け物ほど強いというわけではない。
しかし──。
「おい、君──」
考えているうちに、嘆木が手長鬼に手を伸ばしている。相手が無害そうな女の子だと見てとって油断したか──いけない。眠っているうちにせめて縛るなりなんなりしておかないと。
嘆木には、殺しあいをするつもりがない。
それは──甘い。甘すぎる。
化け物という存在は、殺さなければ殺されるのだ。
「ぱちっ」
瞬間、手長鬼が
「だぁれ──手長鬼かなり眠いんだけど!」
そして──高く、高く。
見えない力に
「────っ」
グリコは脳を戦闘態勢に切り替えて、眠そうに瞬きをする
嘆木のほうを見もせずに、手長鬼は大
「むぅー、むにゅにゅぅ……、手長鬼ねぇ、毎晩なにかと動いてて疲れているんだよ? せめてお昼くらいは寝かせてよ。眠いよぅ。もう──さっさとバイバイしてね?」
そして、今度は見えない打撃がグリコにくる。見えない──なりに、風の動きなどで
「──くっ」
とりあえず、嘆木のやられ方を見て、相手はまず顔面を
間違いない──こいつが、十人殺しの手長鬼!
みしみしと骨がきしむ音を聞きながら、グリコは衝撃を殺して跳躍し、一つの墓石の上に立つ。そして制服のポケットからスプーンを抜き放つと神速で手長鬼に
「──わきッ?」
本能的に危険を察したか、寝ぼけた顔を瞬時に引きつらせると手長鬼は二本の足だけで激しく跳躍した。くるくる回転しながら後方に跳んで、グリコと同じく
そうして──
「……あっれ。ちょ、ちょっとタンマね」
手長鬼は不思議そうな声で中止を呼びかけると、深く考えこむような渋い顔をした。
「あれ──あれれ、違うよねぇ。うーん、違うよ顔が違う。あなた──手長鬼が狙ってるひとじゃない。もしかして手長鬼の勘違い? 顔の覚え間違いかなぁ。って──毎回そんなこと言ってる気がするけど」
よくわからないことを独白して、手長鬼は問いかけてくる。
「あなた、なんて名前なの?」
「眼球抉子」
「おまえは──
新たなスプーンを握りながら問う。
手長鬼はにっこりと答えた。
「そうだよ、手の長い鬼で手長鬼! けど──あれっ、眼球さん、なんでそんなに強げなのかな? 手長鬼ちょっと驚いたんだよ?」
「説明してやる義務はない」
正直なところ面倒だった。笑いながらも、手長鬼は全身から殺意を放っている。これに耐えながら延々と
「
「うん。聞きたい?」
手長鬼は無邪気なほど簡単に教えてくれた。
「手長鬼はね、えーとね。……。うんと、ウダガワリューネってひとを殺さなきゃいけないの!」
「……誰だそれは」
「見つからないの!」
手長鬼はしょんぼりして、それから目に輝きを戻して尋ねてくる。
「……あっ。ねぇねぇ眼球さん、あなた、もしかして
もちろん普通の林檎の話ではなく──人間に不老不死と奇跡の力を与えるエデンの林檎のことだろう。林檎のことを知っているとは、やはり、彼女は林檎の保持者なのだろうか。だとすれば、殺しあうのはなるべく避けておきたいのだが。同じ地獄に落とされた同胞のようなものだし、だいたい死なないので戦っても無駄だ。
唯一──可能性として、『相手の林檎を奪う』というものはあるが。
林檎は、持ち主がその所有権を放棄した時点で失われてしまう。ゆえに、林檎の所持者を倒すならば、拷問したり、脅したり、あらゆる手段で相手の林檎を奪わなくてはならないのだ。一ヶ月前も、その法則を
グリコは油断なく
「あぁ、グリコも林檎を持っている。おまえも──」
「わぁラッキー!」
言葉を遮り、手長鬼は墓石の上で跳びあがった。
「じゃ──その林檎を手長鬼にちょうだい! ゼキくんが欲しいのはリューネってひとの林檎だけど──林檎なんか見分けつかないんだから、あなたから奪った林檎でもゼキくんはきっと気づかないもん!」
「ふ、ふざけるな」
あまりにも無邪気な物言いに、危機感を覚える前に戸惑う。しかし手長鬼は一顧だにせず笑い、小さく跳ね、感極まったような声で叫ぶのだ。
「──ちょうだい!
墓石が砕けた。
点々と置かれた墓石を跳ね回る。そのたびにバカン、ゴガン、と見えない腕が墓石を砕き散らしていく。
「もぉ、
ぷうと
「でも──逃げきれるわけないんだよ? こうすればどう?」
言葉と同時にいくつかの墓石が同時に根元から引き抜かれ、罰当たりなことに一斉にグリコに向かって
「調子に乗るな──」
とん。
軽やかに。
グリコは大地を
「わぁすごい! 楽しいぃ!」
手長鬼は驚きも
「眼球さんは強いんだね! 手長鬼は興奮しちゃうよ!」
「そのまま死ね」
冷たい言葉と同時に投げつけられるスプーン。銀色の
しかしスプーンは手長鬼に到達する直前に見えない腕で
しかし──とグリコは思う。
一ヶ月前、スプーンという弱い武器を常に使うことで抑えこんでいた凶暴性が解き放たれ、グリコはおぞましい化け物になってしまった。
あの一件で千年かけて熟成させた
自分の身体に何が起こっているのかはわからない。
あのとき自分がなってしまった真紅の化け物の正体もわからない。
神──だと思う。けれど、
わからない。答えをくれる相手などどこにもいないのだから。
とにかく今は、自分の心を救ってくれた
千年前に死んだ女の子は、そうして今を生きている。
「──ぐっ」
いきなり左後方から放たれた見えない腕の一撃で体勢を崩され、瞬間、正面からの
近づけば近づくほど分が悪い。見えない攻撃──それはつまり
しかし遠距離から攻撃しようにも、スプーンを投げたくらいでは簡単に
そこまで考えて、ふと気づく。
──試してみる価値はあるかも。
「ほらほらほら! ぼうっとしてると殺しちゃうからね!」
楽しそうな顔で手長鬼が見えない
これでも腕力には自信がある。
しかし──ぐぐ、と力をこめても墓石は動かない。手長鬼はいとも簡単に動かしていたというのに──何故? 考えながらも、手長鬼の腕が飛来してくるので場所を移動する。
やはりグリコと手長鬼の腕力の違いか? しかし──グリコだって本気で殴れば墓石くらい粉砕できる。しかし地面から引き抜いて投げることはできなかった。
それに──不思議なこともある。
手長鬼は、明らかに二本以上の腕を操っているのだ。墓石を引っこ抜くには、最低でも二本の腕が必要だろう。しかし彼女は四つだか五つだかの墓石を同時に投げていた。すなわち──手長鬼の見えない腕は二本以上、計算上は十本ほどもあるということになる。
手長鬼を見る。欠落している両腕。あの外見に
どうやら彼女の能力は、見えない長い腕を操るという単純なものではないようだ。
「……色々と確かめてみるか」
グリコはつぶやき、神社の宮司が見たら首を
「──どうした、その腕が自慢なんだろう? しかしその程度のものならば、ただ見えないというだけで大したことはないな!」
「…………」
ぴくり、と
「ば──
小刻みに震え、手長鬼は簡単に
「くぅ眼球さん、もう容赦なんかしないんだから! 遊びはおしまい! 死んじゃえぇ!」
叫びとともに猛烈な殺気が前方から放たれる。これまでの比ではない。グリコは
瞬間。
「──折れちゃえ!」
手長鬼の号令──と、同時にグリコの全身に襲いくる衝撃。
「うぐっ──」
しかし、すかっ、と腕のある場所を通過してグリコの指先は空を切る。
「あははっ」
手長鬼は甲高く笑った。
「手長鬼の腕に触ろうとしても無駄だよ! 手長鬼の
グリコは舌打ちしながら大きな墓石の背後に退避する。違和感があると思ったら左足の骨が折れていた。グリコは長い不死者としての生活の果て、痛覚というものを失っている。それは戦闘において不利でしかない。痛みとは、身体の異常を知らせる信号である。その信号が届かなければ自分の限界がわからない。
また舌打ちし、グリコは左足と右足の靴下も靴も
手長鬼に砕かれた左足の
「──隠れても無駄だよ!」
背中を預けた墓石が一瞬で砕かれ、舞いあがった
相手の能力はだいたい把握できた。根拠や理屈は不明だが、そんなもの、化け物を相手に考えること自体が
あえて表現するならば
なんとか片足で跳び回り──攻撃を避けながら、グリコはこの敵の攻略法を考える。
とりあえず、すぐに思いつく対処法は手長鬼の手が届かない距離まで逃げることだが、
しかし──どのように。
考えていると、皮肉なことに、グリコのほうが動揺する展開がやってきてしまった。
「────」
小さい、声が聞こえた。
内容までは聞き取れない、
この声は。
グリコは反射的にそちらを見て、そこに
「鈴音──
馬鹿な。おかしい、と思う。ついてくるなと言ったのに。鈴音はそれほど愚かな女の子ではないはずだ。グリコのところにきたって、足手まといにしかならないのを理解しているはずだ。それなのに。
自分は死なないからと油断しているのか──
鈴音。どうして。
「……うん?」
手長鬼はそこでようやく気づいて鈴音を振り返り、ちょっとだけ沈黙した。
何か考えているような間を越えて、彼女は普通に決断した。
「なるほど。うん──邪魔だからこっちから殺そっか」
何か不自然な言葉。しかし考えている暇はなく──。
「逃げろ鈴音ッ!」
グリコは
そうして一瞬だけ、グリコは戦闘中だというのに我を失った。
その
「なーんて、まずは眼球さんからね?」
ぐぎり。
嫌な音──と、同時に首筋に違和感、圧迫感。そして信じられない勢いでグリコは空中に飛びあがる。
「ぐ──う」
首を絞められ、スプーンを握ったまま、動くこともできずグリコは宙ぶらりんになる。しまった──グリコは
「どう? 手長鬼の
ぎりぎりぎり、と首の骨が折れない限界の力で絞められる。気道も血管も残らず大きな見えない指先に圧迫される。グリコは声にならない声で叫び、触れない腕を引き離そうと意味なく空中を
吹き飛びそうな意識をどうにか押さえつけ、グリコは白濁してきた視界に鈴音の姿を探す。いる。鈴音は墓場の入り口、水くみ場のあたりで
どうして。
どうして──鈴音。
考えているうちに──意識が、意識が。
意識が消えて …………
「……あれっ。
手長鬼は
「ま──これでわかったでしょ? 手長鬼、とってもとっても強いでしょ? 手長鬼はね、ゼキくん以外には絶対負けないんだから。うん、でも楽しかったよ眼球さん、せめて
グリコは応えない。
だらり、と最後に指先まで完全に
スプーンが、くるくると落下した。
手長鬼はそれを満足そうに見ている。
「あははっ、それにしてもどうしてスプーンなんて──」
「どうしてだと思う?」
短い声。低い──声。
その声は、気絶しているはずのグリコの口元から。
「────えっ?」
くるりと落下したスプーンはグリコの露出した素足を滑り、瞬間、素早く動いた足の指に
強烈な
「ひィ──あ?」
反応──間に合わず、スプーンは正確に手長鬼の右眼球に突き刺さる。甲高い悲鳴をあげて、手長鬼は痛みか衝撃か後方に倒れると
「あぁ! ぎゃあ! 痛い──痛いよぉ!」
集中が途切れたのか、彼女の見えない腕は消失し、グリコは解き放たれて地面に軽快な動きで着地した。そして情け容赦なく一気に手長鬼へと駆け寄る。
思ったとおり──手長鬼は、圧倒的に戦闘経験が少ない。グリコの死んだふりにあっさり引っかかって、油断した。
勝利を確信して、グリコは
「どうしてグリコがスプーンを使うかって? 眼球をえぐりやすいからだ。どうして眼球をえぐるかって? そんな理由──とうに忘れた」
「う、ああ! あぁ!」
手長鬼はなんとか立ちあがり、血混じりの涙を
「わぁ、あぁ! ちょ、ちょっと待って──痛い、痛いからぁ!」
「うるさいな。最期の最期に見苦しい」
グリコは手長鬼の
ぐしゅッ──。
──。
「ァ────」
深々と刺さり、後頭部を突き抜け、
「────ぅ」
「一本では死なないか?」
グリコはまたもスプーンを取りだすと、それを彼女の残った左
血と──
ぽん、とグリコは抉りとった、まだ眼漿のしたたる目玉を指先でつまんで笑う。
それは自覚していない、ただ清純な満足感に浸った笑み。
化け物の笑みだった。
ざり、と足音がした。
「────」
足音? 敵か。
ならば殺す。排除しなきゃ。殺さなきゃ──殺される。
「──」
獣のように振り返り、背後に立った人物にスプーンを突きたてようと──。
「──くすくす」
その鈴を転がすような笑い声で──戦闘の余韻に焼き尽くされていた理性が戻った。グリコはぎくりと硬直し、自分が殺意を向けた人物をあらためて見た。
「あ………」
グリコはそこでようやく思いだす──この場に
そこに鈴音が立っている。自分の『大切』になってくれたひと。
そんな彼女に──彼女に?
見られた。自分の化け物みたいな顔を。見られたくなかった。一ヶ月前の真紅の姿も、今の眼球を