「ねぇグリコ、女の子はね、買ったテディベアに名前をつけたりするんだよ。グリコも試してみたらどうかな? そういうところから常識及び一般的社会倫理観は形成されていくんだからね」

 常識及び一般的社会倫理観──か。

 グリコはそんなもの認めてはいない。認めてはいないが。

「名前──か。じゃあ、ヨノ」

 拗すねたような顔をした目つきの悪いテディベアを、グリコは真剣な顔で見つめた。火ひ乃のは微ほほ笑えんで、まぁ素敵な名前、さすがグリコちゃんね──と意味もなく褒めてくれた。

 なんなのだろうこの状況は。

 グリコは思いだしてみる。

 …………。


  


 突然に現れた偽いつ原わら火ひ乃のと偽いつ原わら樹き夫おの夫婦は、賢さか木き財閥から派遣された特派員を名乗った。名刺まで持っていたので間違いないと思う。この国で、もし誰だれかを騙だます目的で賢木財閥の名前を出せば、その瞬間に警察に捕まるよりもっと酷ひどい目にあってしまうのだ。賢木という名前は、そういう力を持っている。逆説的に、賢木財閥の使いを名乗った時点で、彼らの身分は保障されたようなものだ。

 気絶したままの鈴りん音ねをグリコが敷いた布団に寝かせ、火乃と樹夫をそこらへんに座らせる。自分に用件があるといったが──グリコは不審げに二人を見るも、その顔にも全く見覚えのようなものはなかった。

 狭苦しい四畳間は食べ物の匂においがする。たまに消臭剤をかけるものの、簡易キッチンが一つの部屋にあるので匂いを拭ぬぐい去れない。鈴音が几き帳ちよう面めんなのでそれなりに小こ綺ぎ麗れいにしているが、やはり部屋が狭すぎるので雑多な感じは否いなめない。箪たん笥す。TV。教科書などの書籍類。それに炬こ燵たつが置いてあるので少し歩くのにも難儀する。

「常識及び一般的社会倫理観養成訓練──?」

 戸惑う賢木。

「何て言った?」

 聞き取れなかったグリコ。

 火乃は空々しいほど幸せそうな笑みで、なんて素晴らしいんだろうとでもいうように両手の指を絡めて語る。

「はい。常識及び一般的社会倫理観養成訓練──まぁ、それはいわゆる一般名称ということで、格好つけるために難しい言葉にしちゃった感じなんですけどねっ」

「そうですね法律の名前みたいなもので、──実際はもっと簡単なものですよ」

 樹夫が楽しそうな顔で合いの手をいれる。妙に息があった夫婦だ。

「略して──というか、わかりやすい言葉にすると『グリコちゃんに常識を知ってもらおう講座』というか『いい加減に普通に暮らしてくれないと賢さか木き財閥でもフォローできませんよ。だからね……』というか。そんなんですねっ」

 彼の言葉に賢木は表情を変え、嫌そうな顔でこちらを見てきた。

「……グリコ、貴様いったい何をした」

「知らん」

 全く身に覚えがない。自分は自分らしく生きているだけだ。

 火ひ乃のは笑顔で語る話題でもないだろうに満面の笑顔で語る。


「グリコちゃんはね、宇う佐さ川がわ鈴りん音ねさんと一緒に暮らすには相応ふさわしくない人物なんです」


 その言葉に、グリコはぴくりと眉まゆをひそめる。自分が、鈴音と一緒に暮らすには相応しくない人物──そんなこと、言われなくてもわかっている。もとより成り行きで一緒に暮らし始めたのだ。他に行く場所がないからここに留まっているだけで──。

 けれど、そんなこと、何も知らない他人に言われたくはない。

 睨にらみつけてやると、樹き夫おがまるで動じずに賢木を見た。

「愚ぐ龍りゆう様。願がん鳳ほう様はとりあえず、宇佐川さんの周辺から改革していくのが肝要だとお考えになっております。為人ひととなりというものは、周囲の環境に大きく左右されます。周りに生ゴミばかりでは身体に匂においが染みつきます。周りに下品な言葉遣いの人間しかいないならば、きっと下品な口調となってしまうでしょう」

「故に、周辺整備というわけです。宇佐川鈴音さんの周囲に在るもの全すべてを徹底的に改革し、彼女に健やかな環境で成長していただくのです」

 樹夫の言葉を火乃が引き継ぐ。あらかじめ打ち合わせをしてきたのかと思うほど滑らかな感じである。

 賢木は渋い顔をして、二人をどこか見下すような顔で睨みつけた。

「──それにはグリコが邪魔だ、と」

 火乃と樹夫は声を揃そろえて応える。

「そのとおりでございます、愚龍様」

「何な故ぜだ……」

 聞き捨てならず、グリコは瞳ひとみを爛らん々らんと燃やして炬こ燵たつを拳こぶしで殴った。酷ひどい音がしたが、壊れないように手加減したつもりだ。

 用意されていた麦茶のコップが盛大な音をたてて倒れた。

 グリコは煮えた腸の熱をそのまま口から放射する。

「グリコのどこが邪魔だというんだ──おまえら。り、鈴音に、グリコが悪影響を与えているとでも言いたいのか!」

 その言葉にいつものような鋭さはない。グリコだって少しは自覚しているのだ。鈴音を非日常の世界に突き落としたのは自分。自分が現れなくても鈴りん音ねはいつか林りん檎ごの力を発現させただろうが、それを結果的に加速させたのは他ならぬグリコなのだ。

 けれど──それでも。

 鈴音には自分が必要ない、むしろ邪魔だなんて──言われたくない。

 しかし樹き夫おは当たり前のように言う。

「はい。邪魔で、悪影響です」

「…………」

 簡単な英単語の意味を教えるかのように丁寧な彼の言葉に、グリコは怒るべきか哀かなしむべきかもわからずに賢さか木きを見た。彼は難しい顔をして押し黙っている。

「しかし──」

 重々しく、賢木は真剣な低い声でつぶやく。

「──グリコの存在によって、閣下が救われているのも確かだ」

「はい。それも承知です」

「ですが、今の状態では悪影響のほうが多いんです」

 火ひ乃のはちらりと樹夫を見る。樹夫は素早く鞄かばんから何か書類を取り出して並べる。グリコも思わず読んでみたが、難しい言葉が多すぎてくらくらした。

 火乃が苦笑めいた顔で説明してくれる。

「これは、ここしばらくでグリコちゃんが起こした傷害、器物損壊、殺人未遂などの記録です。はい多すぎですね。願がん鳳ほう様の計らいにより全すべて罪には問われていませんが、未成年だということをさし引いても素行が不良すぎます」

「グリコは未成年じゃないぞ」

 賢木の言葉にグリコも頷うなずく。夫婦はきょとんとした顔で、どういうことだろうと顔を合わせただけだが──。

 そう──グリコは今年で千歳くらいだ。正確な数字はよく覚えていないが、とりあえずこの地上で最も高齢な部類の人間だろうと思う。七五三の時に配られる千ち歳とせ飴あめというのがあるが、まさかあれを発明したひともリアルで千歳まで生きる人間がいるとは思っていなかっただろう。あまり火乃たちの話に関係はないが、とりあえずそれが事実である。

 しかし──そうか、誰だれかを殴ったり、殺しかけたりするだけで罪に問われるのだ。考えてみれば当たり前のこと。しかし千年間も放浪をくりかえしてきたグリコに、そういった常識や倫理を期待するのがそもそも間違っている。

 常識及び一般的社会倫理観養成訓練──。

 グリコは火乃を見る。火乃は心を読んだかのように頷いた。

「はい。グリコちゃんにそういった悪い行いをしない、まっとうな人間になっていただくのが常識及び一般的社会倫理観養成訓練の目的でございます。あなたは、あまりにも犯罪を頻発させすぎです。そんな人物と一緒に暮らしていては、宇う佐さ川がわさんの成長に何らかの悪影響を及ぼして然しかるべきだ──と願鳳様は判断されました」

 なるほど、道理ではある。

 グリコだって、できることなら鈴りん音ねには迷惑をかけたくない。

 安心させるよう樹き夫おは柔和に微ほほ笑えんでくれる。

「もちろん、訓練が終わったらすぐにでもこの家に帰っていただいて結構です。社会人として、一般人として生きていくのに困らない程度の常識を学んでいただき、宇う佐さ川がわさんに悪影響を及ぼさないと判断された時点で、訓練も終了です」

「…………」

 グリコは思案する。なるほど納得できるのだ。厄介なのは、鈴音のそばにいたい、離れたくないと思っている自分の心だけで、理屈では承知している。

 グリコは布団で寝ている鈴音に視線を向けた。

 ……彼女に迷惑をかけることはできない。

「わかった。受けよう」

 グリコはそんな決断をした。どうせそんなに長い時間はかからないだろう。それに自分たちの時間は無限にあるのだ。焦らずに、その一般的なんとか訓練を受けてやってもいいのではないか。グリコはそう思う。

 賢さか木きが意外そうな顔でこちらを見ている。

「いいのか、グリコ。あんまり嫌なようだったら私がどうにでもするぞ?」

「うるさいな。おまえが口をだすことじゃない。とにかく──グリコは鈴音に迷惑をかけたくないんだ」

 火ひ乃のと樹夫はなんだかそっくりな満面の笑顔を浮かべる。

「わぁ、ありがとう。嬉うれしいよグリコ!」

「わ、わたし、立派な母親になれるようがんばるわね!」

「僕も頼れる父親になるよ! さぁ──今日から忙しくなるぞぉ!」

 ………。

 ………………?

 グリコは違和感に気づいて、勝手に盛りあがる二人に曖あい昧まいな視線を向ける。

「な──なんだ、なんだそれ。母親とか、父親とか」

「うん?」

 火乃と抱きあって歓喜に震えていた樹夫は、感極まった声でろくでもないことを言った。

「常識及び一般的社会倫理観養成訓練──その内容は、グリコちゃんが僕らの娘になって一緒に暮らすっていうものなんだよ! その共同生活のなかで常識とか倫理とかをちょっとずつ教えていくって寸法さぁ!」

「よろしくねグリコちゃん! 今日からあなたは偽原グリコよ! きゃー!」


 少し決断を早まったかもしれない。

 眼がん球きゆう抉えぐり子こ──改め、偽原グリコは暗あん澹たんと嘆息し──。


  


「──ていうか、誰だれが偽原グリコだ」

 忌々しい。思いつつ、グリコはレストラン街のイタリア料理屋でスパゲティを食べていた。ちなみにグリコは空腹を感じないし、食事を必要としないのでこの行為は無駄である。しかし何も知らない彼らに怪しまれないために、一時的に空腹神経を活性化させて胃に食べ物を流しこむ。不老不死ではなかったころは考えもしなかったが、身体の中に異物を飲みこむというのは気持ちが悪いものだ。

 異物。

「わぁ火ひ乃のさん、このピザの美お味いしさは国宝級だよ! シェフを呼べ!」

「きっとそのピザは冷凍よ! でも美味しいわ!」

「ねぇグリコ、美味しいだろ?」

「ねぇグリコちゃんも美味しいと思うでしょ?」

 彼らは、異物。

 彼らの愛情は──異物。

 飲みこむのは僅わずかに気持ちが悪い。

「…………」

 そうだ。彼らは、自分にとってどうしようもなく他人なはず。昨日までは顔も知らなかった、素性の知れない男と女。名前は偽いつ原わら火ひ乃の。そして偽いつ原わら樹き夫お。やけにテンションが高いことを除けばとりたてて特徴のない、どこにでもいるおじさんおばさんといった感じの二人だ。

 常識及び一般的倫理観養成訓練とかいう長ったるい名前の訓練を受けることを了承して、気絶している鈴りん音ねを賢さか木きに任せ、言われるままについてきた。それからは新鮮な驚きの連続だった。これが──普通なのだろうか。グリコにはよくわからない。


 ──不幸になるのは、あんただけでいい。


 思いだすのは、まだグリコがヨノと呼ばれていた時代──千年前の、グリコがなんの隠いん喩ゆでもなく人間と呼ばれていた時代である。

 拾われっ子だったグリコは、家族たちに冷遇された。それでもいいと思っていた。ご飯は食べさせてくれるし、夜は寝床を用意してくれた。気が向けば兄も遊んでくれた。けれどいつもどこかで寂しさを感じていた。ふと気がつくといつも独りぼっちだった。

 不幸になるのは、自分だけでいいんだって、何度も何度も両親から言われた。グリコも哀かなしかったけれど全すべてを受けいれていた。それが親子なのだと思っていた。グリコが知っている親子というのは、グリコの記憶の中の親子というのは、どこか乾いていて、感情のこもらない獣の群れのようなものだった。

 けれど──。

 グリコは膝ひざの上に置いたテディベアをそっと撫なでる。思わずヨノと名づけてしまった、鈴りん音ねが過去に欲しいと言っていたらしいテディベア。まさか自分が買ってもらえる日がくるとは思わなかった。

 特別に欲しかったわけではない。

 けれど、なんとなく捨ててしまうような気にもなれない。

 玩具おもちや屋とか、洋服屋とか、文房具屋とか、色々な店をめぐって必要なものを買いそろえた。グリコは洋服を三着と、靴と、前から欲しいと思っていたものの買えるとは思っていなかった、百円均一の安物ではない本格的なスプーンを買ってもらった。

 これからも、欲しいもの、必要なものがでてきたら買ってくれるらしい。彼らの後ろにいるのは賢さか木き財閥だ。その程度の出費、本当に雀すずめの涙ほどもない取るに足らない端はした金がねなのだろう。グリコは僅わずかに遠慮しながらも、いくつかの物を買ってもらった。

 自分だけのものを、盗んだりしないで、正当な理由で手にいれられる日がくるとは思っていなかった。このテディベアは、グリコのもの。グリコだけのもの。

 それを考えると、なんだか堪たまらなく嬉うれしかった。

 だから──。

「………む」

 グリコは気持ち悪いのを我慢しながら、スパゲティをフォークで絡めて口に放ほうりこんだ。がぶがぶと噛かんで、無表情のまま飲んで、礼儀的に言っておく。

「……美お味いしくなくはない」

 それだけで彼らは爆発するように笑うのだ。

「わぁ! グリコも気にいったみたいだね!」

「やっぱりこのレストランは最高だわ! ファミレスだけどね!」

「シェフを呼べ!」

 ……全く、なんでこう能天気なのだろう。馬ば鹿かみたいだとグリコは思う。親子。そんなもの認めてはいない。けれど──なんとなく、居心地が悪くはない。

 彼らを親と思えるだろうか。いやそれは有り得ないな、とグリコは思う。今日のところは、まだ──だけど、いつかこの途方もない馬鹿らしさに騙だまされてそう勘違いすることがあるかもしれない。

「──千年前に、ヨノは死んで」

 テディベアを撫でながら、小さな声でつぶやいている。

「それからずっと眼がん球きゆう抉えぐり子こだったけど──グリコは、もう、そんな化け物の名前を名乗らなくてもいいんだろうか。わからない──グリコはそれを望んでいるんだろうか。わからないな──」

 考えるのは得意ではない。悩むのも明日にすればいい。時間はどうせ腐るほどある。今は──ただこの災難でしかない異常事態に順応すればいい。

 俯うつむいているグリコに、樹き夫おが宝物でも見つけたみたいな顔をする。

「わぁグリコ! 口元がソースで汚れているよ! 拭ふいてあげるね!」

「それはわたしの役目よ樹夫さん! おどきなさい!」

「仲良く拭け」

 そうして世にも奇妙なダブル口くち拭ぬぐいに晒さらされながら、グリコは口元に違和感をおぼえる。筋肉がちょっとだけ意志のとおりに動かない。不思議になって、押しつけられるハンカチをどけて口元に手をやる。

 理解して──ちょっと驚いた。

「笑ってる……のか」

 グリコは薄っすらと微ほほ笑えんでいた。本当に珍しく、今日初めて会った人間の前で。

 どうも──自分は、この状況が楽しくなくはないらしい。

「わぁグリコが笑ってるよ! 可か愛わいすぎるから僕は気絶する!」

「わたしもー! ひゃーん、らぶらぶぅ! きゅうぅぅ~……」

 奇声をあげて倒れる二人に他の客たちが驚いて騒ぐ。

「…………」

 全くもって不本意なことだが、グリコはちょっとだけ楽しいらしい。


  


 深夜──。

「芸術」

 人気のない公園で。

「芸術──そうね、むごたらしさというものは、極めれば素晴らしい芸術になる」

 子供たちが遊んだまま放置したボール。静寂を吸って物悲しい遊具。荒らされて凸でこ凹ぼことした砂場。それほど広くない公園の──水飲み場の目先、ベンチ。

「下品。低俗。卑ひ猥わい。穢けがらわしいと──一般人に毛嫌いされる死体に煌きらめく芸術の光。うふふ。そうよね、綺き麗れいな人間の死体は、とても綺麗で芸術的なの。淫いん靡びで、素敵。陰惨で、素敵。残酷で、素敵。まったくもう──なんてことかしら、心をもたないこの私が、興奮に震える身体を抑えることができないわ」

 そこに、一人の女が座っている。

「殊しゆ絶ぜつの夜に乾杯かしら? 満月も星も美しいじゃない──心地よい美酒で乾杯かしら? 極上の死に震えちゃう」

 その周囲に、人間の肉が広がっている。

 …………。

 ごく僅わずかな光度を保つ水銀灯の下、女は誰だれに聞かせるでもなく、蜂はち蜜みつのような甘ったるい声で言葉を紡いでいる。住宅街に位置するこの児童公園は日が暮れると完全に人気がなくなり、この無惨な光景も誰だれにも発見されずにいる。

 肉。そして──血。ただそれだけがベンチに座る女の周囲に散乱している。いったい何の肉なのか、その外観だけでは想像できない。ただぬらぬらと下品に光る肉はまだ新しく、冬の冷気に微かすかながらも湯気をあげていた。

 月明かりと、星の光、水銀灯にのみ照らされた肉はどこか赤茶けて、まき散らされた血液も地面に染みこんでただ黒い。現実感のない──暴ぼう戻れいなだけの静止風景。

 女はそれを名画でも鑑賞するようにただ黙って眺めていた。

「いつまでも」

 嘆息する。

「見つめていたい──あぁ、私はなんてものを創つくりあげてしまったのかしら。いいえ、それは傲ごう慢まんよね──この作品の制作者は、他ならぬ死体になってしまったあなたたち。私は、その芸術を腐敗する前に堪能できた幸運な客というだけのこと」

 まったく──どこまで美しいものを隠しているのだろう、この地球は。どれだけ生きても見尽きぬ世界。女はこの素晴らしい世界を純粋な意味で愛していた。

 聞こえるのは、遠くから響いてくる車のクラクション。風の音。公園の茂みが揺れる音。見えるのは──闇やみにくるまれたどこか曖あい昧まいになってしまった世界。

 陰影だけの家々。小石まじりの公園の土。血の匂においに惹ひかれて寄ってきたのは得体の知れない羽虫ども。

「羽虫──ね」

 女はまたも嘆息する。嘆息すると、彼女の口元からフシュー、とヤカンから吹きでる蒸気のような音がする。

 それも当然、彼女は風邪や花粉症の予防などではなく、明らかに防ぼう塵じんや防毒ガスのために造られたマスクで口元を隠していた。武骨な形状で、洗練された美麗とも表現すべき彼女の外見にそこだけが浮いている。

 そのマスクのせいで少しだけ表情がわかりにくく、年齢はあまり判然としないが、外見的には二十代後半の女性のように見える。野性的に痩やせていて、研ぎすまされた刃やいばを思わせる。その細くしなやかな身体に露出の多い服をまとっている。

 外見のわりに少年的なプロポーションを、背中に天使の羽がプリントされたタンクトップのみで隠している。冬だというのにその白い肌には鳥肌ひとつも浮かんでいない。腰のあたりを申し訳程度に包んでいるのは女性用の太ふと股ももまでしかないジーンズのショートパンツ。

 髪は、穢けがれのない純白。混ざりもののない、初雪のような色。腰まで伸びたその髪を一本の三つ編みにしている。手首のあたりは様々な腕輪やリストバンド、色とりどりに巻かれた布などで飾られている。

 そんな奇異なる外見をした彼女は露出した目元だけを険しくし、足を思案げに組むと暗くら闇やみに語りかけた。考えをまとめるとき、声に自分の思考をだすのが女の癖である。そうすることで考えが良くまとまるような気がするのだ。

「蟲むし──蟲ね。先月の、不自然な羽蟲どもの動き。すぐに沈静化したけれど──原因は未いまだわからずじまい」

 緩やかな風が女の髪を撫なでている。

「首謀者と思われるのは、この町に棲すむ林りん檎ごの所持者。確認されたのは四個体──宇う佐さ川がわ鈴りん音ね、賢さか木き愚ぐ龍りゆう、眼がん球きゆう抉えぐり子こ──そして」

 言葉を切り、考えるような顔をする。

「蟲になりすまし、羽蟲どもを操って彼らの林檎を奪おうとした存在──全く、まだあの一族が生き残っていたとはね。忌々しい、アダムとイブにヘビ──アダムとイブの子孫である人類は数が増えすぎて殲せん滅めつは無理だけど、ヘビの末まつ裔えいくらいはこの私が削除できたりするかもね」

 真剣な表情で前方を睨にらみつける。

「まずは、手て頃ごろな林檎の所持者から林檎を奪いましょう。そのときに、できることなら事件の顛てん末まつを聞いておきましょう。全く──なんでこの私がこんな面倒事に服さなくっちゃいけないのかしら。私はただの消化器官──何かの真相を追求するとかいうのは神じん蟲む天てん皇のうの役目でしょうに」

 どうにも他の連中は不真面目すぎると思う。自分ばかりが働いているような気がする。

「──不愉快すぎて震えちゃう」

 びくびくっ、と身体を戦慄おののかせ、女は自分の身体を露出した手で守るように抱いた。ちなみにこの動きは女の癖のようなもので、あまり意味はない。

 フシュー、フシュルー、とマスクから息を漏らして女はつぶやく。

「……とにかく、あの四個体のうち誰だれからでもいいから、林檎を奪ってしまうことね」

 そして眼前に広がる肉塊に視線をやる。考える。考える。考えがまとまってくる。

「やはり、それにはこの肉が必要だわ。芸術的なこの作品を雑事に使うのは気がひけるけれど──」

「う、わぁあッ?」


 悲鳴?


 瞬間──女は急速に無表情となり、声の聞こえた方向を向く。激しい動きに三つ編みが大きく揺れ動いた。視線の先──。

「ひ、ひいい。こっ、これっ、死体ぃぃ──ひゃァッア!」

 冷静にその人物を眺める。紺色の制服を着た警察官である。男で、とりたてて特徴がない。あまり優秀な警官でもないようだ。落ちていた手だの肝臓だかなんだかの臓物だのを指さして震えている。悲鳴をあげ、口をぱくぱくさせて腰を抜かしている。

 ……警察に見つかったか。住宅街を警官がパトロールするのは何も不自然なことではない。手て長なが鬼おにが暗躍しているせいか近ごろ異常なほどの警戒態勢がとられているのだ。

「手長鬼だの──林りん檎ごの保持者だの、警察官だの──」

 女はフシューと嘆息し、疲れたように肩をすくめた。

「──厄介ねぇ」

 そして立ちあがり、地面にへたりこんでいる警察官に向き直る。彼はそこでようやく女に気づいたようで、引きつった悲鳴をあげると尻しり餅もちをついたまま後ずさった。

「ま──ま、まさか! てぇ、手長鬼ッ?」

「あら」

 女は眉まゆをひそめ、彼のそばまでゆっくりと歩を進めていく。

「私はあんな変態的なお子様じゃないわよ。そうね──私の名前は殺さい原ばら美み名な。この名前、嫌いなんだけど。何な故ぜって──あんまり可か愛わいくないからよ」

 そしてどこから出したのか、一本のスプレー缶を警官に向ける。ごく普通の、ラベルの貼はられていない地味なスプレー缶である。市販されている殺虫剤や消臭剤と見た目は何も変わらない。

「そうね──」

 ──シャカシャカシャカシャカシャカ。

 女はそれを静かに振り、なんでもない動きで見せつけるように揺らす。

「──私を呼ぶならこっちでお願い。殺菌消毒とね──」

 警官は幽霊でも見たかのような顔をして、情けなく悲鳴をあげるとこけつまろびつ立ちあがりもせずに逃げる。膝ひざをつき、悲鳴をあげながらどうにか立ちあがろうとして、足をもつれさせて転ぶ。完全に恐怖で動転しているらしかった。

 フシュー、と美名は下らなくなって嘆息した。

「全く──呆あきれた警官だわ。情けない。視界を汚濁させる毒ね──」

 警官は美名の言葉を理解せず、ただ叫びながらようやく立ちあがる。

「せ──先輩ィ! 助けて! 嘆なげ木き先輩!」

 近くに仲間がいるのか。あまり人を呼ばれても困る。

 美名は素早く判断し──。

「助けてぇ! て、手長鬼、手長鬼がぁ!」

 だから──違うと言っているのに。

 ──シャカシャカシャカシャカシャカ。

 美名はスプレー缶を振り、静かな動きで男に向けた。

「──殺菌消毒しましょうね?」