「ねぇグリコ、女の子はね、買ったテディベアに名前をつけたりするんだよ。グリコも試してみたらどうかな? そういうところから常識及び一般的社会倫理観は形成されていくんだからね」
常識及び一般的社会倫理観──か。
グリコはそんなもの認めてはいない。認めてはいないが。
「名前──か。じゃあ、ヨノ」
なんなのだろうこの状況は。
グリコは思いだしてみる。
…………。

突然に現れた
気絶したままの
狭苦しい四畳間は食べ物の
「常識及び一般的社会倫理観養成訓練──?」
戸惑う賢木。
「何て言った?」
聞き取れなかったグリコ。
火乃は空々しいほど幸せそうな笑みで、なんて素晴らしいんだろうとでもいうように両手の指を絡めて語る。
「はい。常識及び一般的社会倫理観養成訓練──まぁ、それはいわゆる一般名称ということで、格好つけるために難しい言葉にしちゃった感じなんですけどねっ」
「そうですね法律の名前みたいなもので、──実際はもっと簡単なものですよ」
樹夫が楽しそうな顔で合いの手をいれる。妙に息があった夫婦だ。
「略して──というか、わかりやすい言葉にすると『グリコちゃんに常識を知ってもらおう講座』というか『いい加減に普通に暮らしてくれないと
彼の言葉に賢木は表情を変え、嫌そうな顔でこちらを見てきた。
「……グリコ、貴様いったい何をした」
「知らん」
全く身に覚えがない。自分は自分らしく生きているだけだ。
「グリコちゃんはね、
その言葉に、グリコはぴくりと
けれど、そんなこと、何も知らない他人に言われたくはない。
「
「故に、周辺整備というわけです。宇佐川鈴音さんの周囲に在るもの
樹夫の言葉を火乃が引き継ぐ。あらかじめ打ち合わせをしてきたのかと思うほど滑らかな感じである。
賢木は渋い顔をして、二人をどこか見下すような顔で睨みつけた。
「──それにはグリコが邪魔だ、と」
火乃と樹夫は声を
「そのとおりでございます、愚龍様」
「
聞き捨てならず、グリコは
用意されていた麦茶のコップが盛大な音をたてて倒れた。
グリコは煮えた腸の熱をそのまま口から放射する。
「グリコのどこが邪魔だというんだ──おまえら。り、鈴音に、グリコが悪影響を与えているとでも言いたいのか!」
その言葉にいつものような鋭さはない。グリコだって少しは自覚しているのだ。鈴音を非日常の世界に突き落としたのは自分。自分が現れなくても
けれど──それでも。
鈴音には自分が必要ない、むしろ邪魔だなんて──言われたくない。
しかし
「はい。邪魔で、悪影響です」
「…………」
簡単な英単語の意味を教えるかのように丁寧な彼の言葉に、グリコは怒るべきか
「しかし──」
重々しく、賢木は真剣な低い声でつぶやく。
「──グリコの存在によって、閣下が救われているのも確かだ」
「はい。それも承知です」
「ですが、今の状態では悪影響のほうが多いんです」
火乃が苦笑めいた顔で説明してくれる。
「これは、ここしばらくでグリコちゃんが起こした傷害、器物損壊、殺人未遂などの記録です。はい多すぎですね。
「グリコは未成年じゃないぞ」
賢木の言葉にグリコも
そう──グリコは今年で千歳くらいだ。正確な数字はよく覚えていないが、とりあえずこの地上で最も高齢な部類の人間だろうと思う。七五三の時に配られる
しかし──そうか、
常識及び一般的社会倫理観養成訓練──。
グリコは火乃を見る。火乃は心を読んだかのように頷いた。
「はい。グリコちゃんにそういった悪い行いをしない、まっとうな人間になっていただくのが常識及び一般的社会倫理観養成訓練の目的でございます。あなたは、あまりにも犯罪を頻発させすぎです。そんな人物と一緒に暮らしていては、
なるほど、道理ではある。
グリコだって、できることなら
安心させるよう
「もちろん、訓練が終わったらすぐにでもこの家に帰っていただいて結構です。社会人として、一般人として生きていくのに困らない程度の常識を学んでいただき、
「…………」
グリコは思案する。なるほど納得できるのだ。厄介なのは、鈴音のそばにいたい、離れたくないと思っている自分の心だけで、理屈では承知している。
グリコは布団で寝ている鈴音に視線を向けた。
……彼女に迷惑をかけることはできない。
「わかった。受けよう」
グリコはそんな決断をした。どうせそんなに長い時間はかからないだろう。それに自分たちの時間は無限にあるのだ。焦らずに、その一般的なんとか訓練を受けてやってもいいのではないか。グリコはそう思う。
「いいのか、グリコ。あんまり嫌なようだったら私がどうにでもするぞ?」
「うるさいな。おまえが口をだすことじゃない。とにかく──グリコは鈴音に迷惑をかけたくないんだ」
「わぁ、ありがとう。
「わ、わたし、立派な母親になれるようがんばるわね!」
「僕も頼れる父親になるよ! さぁ──今日から忙しくなるぞぉ!」
………。
………………?
グリコは違和感に気づいて、勝手に盛りあがる二人に
「な──なんだ、なんだそれ。母親とか、父親とか」
「うん?」
火乃と抱きあって歓喜に震えていた樹夫は、感極まった声でろくでもないことを言った。
「常識及び一般的社会倫理観養成訓練──その内容は、グリコちゃんが僕らの娘になって一緒に暮らすっていうものなんだよ! その共同生活のなかで常識とか倫理とかをちょっとずつ教えていくって寸法さぁ!」
「よろしくねグリコちゃん! 今日からあなたは偽原グリコよ! きゃー!」
少し決断を早まったかもしれない。

「──ていうか、
忌々しい。思いつつ、グリコはレストラン街のイタリア料理屋でスパゲティを食べていた。ちなみにグリコは空腹を感じないし、食事を必要としないのでこの行為は無駄である。しかし何も知らない彼らに怪しまれないために、一時的に空腹神経を活性化させて胃に食べ物を流しこむ。不老不死ではなかったころは考えもしなかったが、身体の中に異物を飲みこむというのは気持ちが悪いものだ。
異物。
「わぁ
「きっとそのピザは冷凍よ! でも美味しいわ!」
「ねぇグリコ、美味しいだろ?」
「ねぇグリコちゃんも美味しいと思うでしょ?」
彼らは、異物。
彼らの愛情は──異物。
飲みこむのは
「…………」
そうだ。彼らは、自分にとってどうしようもなく他人なはず。昨日までは顔も知らなかった、素性の知れない男と女。名前は
常識及び一般的倫理観養成訓練とかいう長ったるい名前の訓練を受けることを了承して、気絶している
──不幸になるのは、あんただけでいい。
思いだすのは、まだグリコがヨノと呼ばれていた時代──千年前の、グリコがなんの
拾われっ子だったグリコは、家族たちに冷遇された。それでもいいと思っていた。ご飯は食べさせてくれるし、夜は寝床を用意してくれた。気が向けば兄も遊んでくれた。けれどいつもどこかで寂しさを感じていた。ふと気がつくといつも独りぼっちだった。
不幸になるのは、自分だけでいいんだって、何度も何度も両親から言われた。グリコも
けれど──。
グリコは
特別に欲しかったわけではない。
けれど、なんとなく捨ててしまうような気にもなれない。
これからも、欲しいもの、必要なものがでてきたら買ってくれるらしい。彼らの後ろにいるのは
自分だけのものを、盗んだりしないで、正当な理由で手にいれられる日がくるとは思っていなかった。このテディベアは、グリコのもの。グリコだけのもの。
それを考えると、なんだか
だから──。
「………む」
グリコは気持ち悪いのを我慢しながら、スパゲティをフォークで絡めて口に
「……
それだけで彼らは爆発するように笑うのだ。
「わぁ! グリコも気にいったみたいだね!」
「やっぱりこのレストランは最高だわ! ファミレスだけどね!」
「シェフを呼べ!」
……全く、なんでこう能天気なのだろう。
彼らを親と思えるだろうか。いやそれは有り得ないな、とグリコは思う。今日のところは、まだ──だけど、いつかこの途方もない馬鹿らしさに
「──千年前に、ヨノは死んで」
テディベアを撫でながら、小さな声でつぶやいている。
「それからずっと
考えるのは得意ではない。悩むのも明日にすればいい。時間はどうせ腐るほどある。今は──ただこの災難でしかない異常事態に順応すればいい。
「わぁグリコ! 口元がソースで汚れているよ!
「それはわたしの役目よ樹夫さん! おどきなさい!」
「仲良く拭け」
そうして世にも奇妙なダブル
理解して──ちょっと驚いた。
「笑ってる……のか」
グリコは薄っすらと
どうも──自分は、この状況が楽しくなくはないらしい。
「わぁグリコが笑ってるよ!
「わたしもー! ひゃーん、らぶらぶぅ! きゅうぅぅ~……」
奇声をあげて倒れる二人に他の客たちが驚いて騒ぐ。
「…………」
全くもって不本意なことだが、グリコはちょっとだけ楽しいらしい。

深夜──。
「芸術」
人気のない公園で。
「芸術──そうね、むごたらしさというものは、極めれば素晴らしい芸術になる」
子供たちが遊んだまま放置したボール。静寂を吸って物悲しい遊具。荒らされて
「下品。低俗。
そこに、一人の女が座っている。
「
その周囲に、人間の肉が広がっている。
…………。
ごく
肉。そして──血。ただそれだけがベンチに座る女の周囲に散乱している。いったい何の肉なのか、その外観だけでは想像できない。ただぬらぬらと下品に光る肉はまだ新しく、冬の冷気に
月明かりと、星の光、水銀灯にのみ照らされた肉はどこか赤茶けて、まき散らされた血液も地面に染みこんでただ黒い。現実感のない──
女はそれを名画でも鑑賞するようにただ黙って眺めていた。
「いつまでも」
嘆息する。
「見つめていたい──あぁ、私はなんてものを
まったく──どこまで美しいものを隠しているのだろう、この地球は。どれだけ生きても見尽きぬ世界。女はこの素晴らしい世界を純粋な意味で愛していた。
聞こえるのは、遠くから響いてくる車のクラクション。風の音。公園の茂みが揺れる音。見えるのは──
陰影だけの家々。小石まじりの公園の土。血の
「羽虫──ね」
女はまたも嘆息する。嘆息すると、彼女の口元からフシュー、とヤカンから吹きでる蒸気のような音がする。
それも当然、彼女は風邪や花粉症の予防などではなく、明らかに
そのマスクのせいで少しだけ表情がわかりにくく、年齢はあまり判然としないが、外見的には二十代後半の女性のように見える。野性的に
外見のわりに少年的なプロポーションを、背中に天使の羽がプリントされたタンクトップのみで隠している。冬だというのにその白い肌には鳥肌ひとつも浮かんでいない。腰のあたりを申し訳程度に包んでいるのは女性用の
髪は、
そんな奇異なる外見をした彼女は露出した目元だけを険しくし、足を思案げに組むと
「
緩やかな風が女の髪を
「首謀者と思われるのは、この町に
言葉を切り、考えるような顔をする。
「蟲になりすまし、羽蟲どもを操って彼らの林檎を奪おうとした存在──全く、まだあの一族が生き残っていたとはね。忌々しい、アダムとイブにヘビ──アダムとイブの子孫である人類は数が増えすぎて
真剣な表情で前方を
「まずは、
どうにも他の連中は不真面目すぎると思う。自分ばかりが働いているような気がする。
「──不愉快すぎて震えちゃう」
びくびくっ、と身体を
フシュー、フシュルー、とマスクから息を漏らして女はつぶやく。
「……とにかく、あの四個体のうち
そして眼前に広がる肉塊に視線をやる。考える。考える。考えがまとまってくる。
「やはり、それにはこの肉が必要だわ。芸術的なこの作品を雑事に使うのは気がひけるけれど──」
「う、わぁあッ?」
悲鳴?
瞬間──女は急速に無表情となり、声の聞こえた方向を向く。激しい動きに三つ編みが大きく揺れ動いた。視線の先──。
「ひ、ひいい。こっ、これっ、死体ぃぃ──ひゃァッア!」
冷静にその人物を眺める。紺色の制服を着た警察官である。男で、とりたてて特徴がない。あまり優秀な警官でもないようだ。落ちていた手だの肝臓だかなんだかの臓物だのを指さして震えている。悲鳴をあげ、口をぱくぱくさせて腰を抜かしている。
……警察に見つかったか。住宅街を警官がパトロールするのは何も不自然なことではない。
「手長鬼だの──
女はフシューと嘆息し、疲れたように肩をすくめた。
「──厄介ねぇ」
そして立ちあがり、地面にへたりこんでいる警察官に向き直る。彼はそこでようやく女に気づいたようで、引きつった悲鳴をあげると
「ま──ま、まさか! てぇ、手長鬼ッ?」
「あら」
女は
「私はあんな変態的なお子様じゃないわよ。そうね──私の名前は
そしてどこから出したのか、一本のスプレー缶を警官に向ける。ごく普通の、ラベルの
「そうね──」
──シャカシャカシャカシャカシャカ。
女はそれを静かに振り、なんでもない動きで見せつけるように揺らす。
「──私を呼ぶならこっちでお願い。殺菌消毒とね──」
警官は幽霊でも見たかのような顔をして、情けなく悲鳴をあげるとこけつまろびつ立ちあがりもせずに逃げる。
フシュー、と美名は下らなくなって嘆息した。
「全く──
警官は美名の言葉を理解せず、ただ叫びながらようやく立ちあがる。
「せ──先輩ィ! 助けて!
近くに仲間がいるのか。あまり人を呼ばれても困る。
美名は素早く判断し──。
「助けてぇ! て、手長鬼、手長鬼がぁ!」
だから──違うと言っているのに。
──シャカシャカシャカシャカシャカ。
美名はスプレー缶を振り、静かな動きで男に向けた。
「──殺菌消毒しましょうね?」