誰だれよりも大切な友達だった。

「……克かつ美みちゃん」

 だから鈴りん音ねは心から感謝して。

「ありがとう」

 つぶやいた。克美は首を傾かしげて、うんコーヒーは私が奢おごるからねと何かトンチンカンなことを言っていた。


  


「久しぶりだね」

 克美はまたつぶやいて、あたしもお金をだすよ申し訳がないよと騒ぐ鈴音を強引に誤魔化した。なんというか昔から、損な性格をしてるなぁこいつはと思う。

 そういうところが好きだったのだが。

「……こうして二人で帰るのはさ」

 外はもう真っ暗で、月も星も見えない不安になるような曇天。

 ぽつりぽつりと浮かぶ明かりが頼りなく冬の寒さに揺らめいている。

「うん──でも、嬉うれしかったよ」

 鈴音は笑って、それから表情を真剣な顔に変えて言う。

「それは置いといて、やっぱりあたしもお金を払うから」

 あ、ちょっとだけ手て強ごわくなってる。昔は適当に誤魔化せば流されてくれたのに。鈴音も成長しているんだなと苦笑い、克美は手をぴらぴらと振ると歩き始めた。

「それじゃ、次は鈴音の奢りっていうことでどうかな?」

「え──」

「……また会おうよ」

 克美は鈴音を見ない。背後にいる彼女はどんな顔をしているのか。昔、自分が裏切ってしまった少女。本当は、中学三年生になってからも、何度も何度も話しかけようとしたのだ。廊下ですれちがうたび申し訳なさそうな顔をする鈴音に、ずぅっと謝りたいと思っていたのだ。

 克美は涙ぐんでいる。

「ごめんね。私にそんな資格はないかもしれないけど、まだ──ずっと、鈴音の友達でいさせて?」

「…………」

 短い沈黙の末、克美は手を握られる。鈴音の温かい手。

「……うん」

 最後まで、顔を合わせることはできなかった。

「じゃ、またね」

「うん──また」

 それでも再会を心に誓って、加か藤とう克かつ美みと宇う佐さ川がわ鈴りん音ねは別れた。二人の帰り道は残酷に正反対で、決して交わることはなく──。

 歩き、商店街を抜け、道を曲がり、すっかり人気もなくなって。

 堪こらえられずに涙を零こぼす克美の背後。

 静かに近づく邪悪な影はそんな二人の友情も知らず──。


「──────腕の長さを比べましょ?」


 唐突に。

 克美の背筋に走る──冗談のような悪寒。

 反射的に、克美は振り返ってしまった。


  


 そこが──転換点。

 その加藤克美という女の子にとって不幸だったのは、朗ほがらかに晴れやかに、彼女に声をかけてきた存在が非常識な世界の住人だったってこと。

 本来なら一生涯を接することなく素通りしてしまう存在──平穏な人間たちの世界から逸脱してしまった少女、そんな彼女に、手長鬼に出会ってしまったことは、なんでしょうね、不幸、不運、悲運、そんなようなものだったわ。

 さすがの私もそんな彼女にかける言葉は一つしか見つからない。

 そうね──ご愁傷様、と。


  


 その女の子は──。

「はーれーたーよーるーはー♪」

 その女の子は完かん璧ぺきに無邪気で、壊れているのかと思うほどに陽気で、それが逆に恐ろしい──何か、理屈の通じない肉食獣のような感じがした。彼女の声は甲高い少女のものだし、外見だって奇抜なものではないのに。

「つーきーがーきーれーいーでー♪」

 歌いながら、彼女は克美のそばで意味不明の舞いを踏んでいる。転げそうになりながら右にふらふら、左によろよろ、踊っているのか酔っぱらっているのかよくわからない。克美は動けず、声をあげることもできず、ただその異様な少女を凝視することしかできなかった。

「にーんーげーんーがーじゃーまー♪」

 小学生くらいの少女である。身長は克かつ美みの胸まであるかどうか。この寒いのに虹にじ色のシャツ一枚で、スカートから覗のぞく素足もどこか寒そうだった。髪型は短めのツインテイル。瞳ひとみは不思議なほど輝いていて、あまりにも大胆に笑うので白い歯が全すべて覗いていた。

 そんな彼女は唐突に歌も舞いもやめ、克美の正面でぴょっこりと跳ねた。

「こんばんはっ」

 やはり親しみに満ちた、邪悪なところの欠片かけらもない声。

 しかし──。

 唐突に、克美は違和感に気づく。ごく普通の小学生みたいなこの女の子にある──特異。何かが、何かがおかしいのだ。なんだろう。彼女を注視し──やがてとんでもないことに気づいて克美は短く悲鳴をあげた。

「名前は手て長なが鬼おにっていうんだけど、おねーさんはなんとかってひと? なんだっけぇ名前ー。えへへっ、手長鬼ちょっと忘れちゃった!」

 その少女には両腕がなかった。

 肩のかなり深い位置から完全に腕が欠落している。本来ならばしなやかな腕が覗いていたはずの場所には虚無だけが広がっていて、どこかに隠しているわけではなく、本当に腕がないらしかった。

 普通と違うのはたったそれだけ。

 しかし──彼女は、違う、と思った。身体を構成する物質から、魂の色まで残らず人間とは異なる──。まるで妖よう怪かい。否いな──鬼?

 そうだ──彼女は、鬼と名乗ったのだ。

「…………」

 なんだそれは。馬ば鹿か馬ば鹿かしい。混乱している。

「……手長、鬼?」

 克美は理解できないで、ただ怖くて、ちょっとだけ後ずさった。

 すぐ背後には塀がある。逃げられない。逃げる? こんな華きや奢しやでしかない女の子から逃げるというのか。でも──危険だと思うのだ。本能が、この手長鬼を名乗る女の子から早急に遠ざかれと告げているのだ。

 克美は震えて、心から怖くて、女の子を突き飛ばすと一目散に逃げた。

「う、うぁ!」

 なんでだかはわからない。しかし堪たまらないほど怖かったのだ。外見に怯おびえたわけではない。ただ、彼女は──この世界にいてはいけない存在なんじゃないかって、思った。

 女の子を振り切り、水銀灯が照らす無人の道を、加か藤とう克かつ美みは全力で駆ける。

 逃げる。逃げられる。逃げてみせる。

 さもなければ──。

「そうだよ、手の長い鬼で手長鬼!」

 無邪気な声が、脳裏に響く。

 そして──がぐん、と克かつ美みの身体が止められる。ひい、と叫んで振り返り、克美は理解できなくて目を白黒させる。

 手て長なが鬼おにはその場を動いていなかった。それなのに、自分の身体はあっけなく止まり、少しも動けなくなってしまった。なんだこれ。超常現象だ。ありえない。思考が混乱して脳内で爆発する。助けて──と意味もなく思う。

 助けて、殺される、と思ってしまうのだ。

 それは肉食獣に出会ってしまった人間の心理。

 無邪気な少女は可か憐れんに笑った。

「どう──手長鬼の両腕おてて、とってもとっても長いでしょう?」

 肩口に食いこむ強烈な力。それはまさに、力の強い何者かに肩を押さえられている感触だった。五本の指まではっきりと感知できる。見えない腕が伸びてきて、自分の肩を掴つかんで止めたとしか思えなかった。

 しかし──そんなこと、あるわけがないのだ。

 幽霊だの妖よう怪かいだの超能力だの、そんなものはみんな作りもので幻想で、漫画やTVの中にしか存在しないはずだった。

 けれど克美の全身は殺されるという恐怖に震えていたし、世界は絶望的なほどに理不尽な狂い具合で、TVみたいに作りごとめいていて、しかしTVのような助けはなかった。

「逃げちゃ駄目だよ。あなたを逃がしたらゼキくんにお仕置きされちゃうんだから」

 あくまで無邪気な少女の声。

 ──ゼキくん? 克美はただ震えている。

 振り返ると、やはりどこまでも純粋で、ただ朗ほがらかな表情の少女が立っていた。

 こちらからは手を伸ばしても触れられないほど遠く、闇やみだけを背景に、克美の日常を粉々に破壊した恐怖の手長鬼が。

 彼女は不満そうに唇を尖とがらせる。

「でもさぁ、本当にあなたなんとかってひとなの? 林りん檎ごを持っているんでしょ? どんだけ強いかと思って楽しみにしてたのにさぁ。腕もちっとも長くないし、てんで抵抗もできないんだから。つまんないなぁ。ゼキくんの嘘うそつき。ちっとも楽しくないじゃない」

 買ってもらった玩具おもちやがつまらなかったという幼児みたいに。

「もういいや。こんなつまんないんじゃ要らないもんね、ぽいっ」

 手長鬼は──。

 無邪気に、残酷に。


 克美を石塀に叩たたきつけた。


 ぐしゃり。という音。それが自分の肩けん胛こう骨こつや肋ろつ骨こつが潰つぶれた音だと克美が理解するより早く。痛みで絶叫するような慈悲深い余裕も与えられず。

「どう──手て長なが鬼おにの両腕おてて、長いだけじゃなくて力も強いんだよ?」

 肩口を掴つかんだ彼女の見えない腕は──ただ純粋な破壊だけを加か藤とう克かつ美みにもたらした。すなわち壁にぶつけてぶつけて殴りつけて叩たたきつけて地面に落として空高く放ほうり投げて、血飛沫しぶきを散らし、骨を粉々にし、ただひたすらに叩きつけて叩きつけて叩きつけて。

 ごんがんごんごんががごんごん。

 ぐしゃ! べき! ぐちゃり!


 それは──哀かなしい夜の始まりを告げる虚しい虚しい序夜の鐘。


 新年の始まりと、魔物の消滅を願って鳴らされる除夜の鐘とは正逆の──加藤克美が退屈に思いながら心より愛していた日常の終わりと、魔物たちの跳ちよう梁りよう跋ばつ扈こを暗示するだけの序夜の鐘。

 鮮血が舞い、骨も原型を崩し、肉が奇妙に混ざりあった克美の全身を──。

 ぐちゃッ。

 最後に一度だけ壁にぶつけて、手長鬼はにっこりと笑った。

「はーれーたーよーるーはー♪」

 歌い、ぐしゃり、と腕を放して克美だったものを地面に落とし。

「つーきーがーきーれーいーでー♪」

 手長鬼は自分が殺あやめた彼女になんら罪も感じていない顔で、ただ歩み寄り、すぐ近くからやはり朗ほがらかな顔でじっと目を細めて注視する。

「にーんーげーんーがー、って、あれ?」

 歌うのをやめ、見えない指先で克美の身体をまさぐる。困った顔で、それは手長鬼が初めて見せた困惑の顔だったが──ただ克美の身体を探り、蒼そう白はくになってしまう。

「あ、あれ。あれれっ」

 それは重大な失敗に気づいた後の幼子の表情だった。

「り、り、林りん檎ごがないよ? どうして? なんでなんで? で──でも死んでるよ? 死んでるのに林檎がないよ? あれっ、あれれっ?」

 そこで──彼女は気づく。加藤克美だった肉塊のすぐそばに、一枚の手帳が落ちている。それは観かん音のん逆さか咲ざき高校の生徒手帳だったが、手長鬼はそれを知らず、ただ不思議に思ってその血まみれの手帳のページをめくる。

 一枚目。顔写真と、住所と、生年月日と、名前──。

 加藤克美。

「──を?」

 それは、手長鬼が殺せと命じられた人物の名前とは明らかに違っていた。手長鬼は、ずっと克美が居座っていた喫茶店の天井で彼女が出てくるのを待っていたのだが──そういえば、天井から降りるのにてまどってしまい、ようやく追いついたとき、この克かつ美みという少女の他にもう一人くらい人間がいたようないないような。暗がりに消えていってしまったのでよくわからなくて、ただの通行人かと思って──。

 まさか──そっちが。

 そういえば、その人物は克美と同じぐらいの年格好だった。

 手て長なが鬼おにはすう──と蒼そう白はくになる。

「え、えへへ。手長鬼ちょっと間違えた!」

 笑っている場合じゃないと思い、必死な顔で考える。

「ど、どうしよ。こ、こ、困ったなぁ。ゼキくんに怒られちゃう。お、おし、お仕置きされちゃうぅぅ。わぁぁ大変だぁぁ、どうしよう。どうしようどうしよう」

 あたふたと困って、瞬間、なんとも素晴らしい名案が浮かんで手長鬼は跳ねた。

「そーだっ」

 にっこりと笑い、朗ほがらかな声で酷薄につぶやく。

「……そうだよね。さっきの女の子を捜せばいいんだ。そっちがきっとなんとかってひとなんだもん。なんだっけなぁ名前。それでそれで、ゼキくんが到着するまでにそのひとから林りん檎ごを奪っちゃえばいいんだ。手長鬼、頭いい!」

 そして当たり前のような顔で言う。

「でもでも顔がよくわかんないんだよなぁ。うーん、あ、そうだ、じゃあこの町にいる同い年くらいの女の子をみんなみんな殺しちゃえばいいんだよね。殺していけばいいんだよね。死ななかったやつが林檎を持っているはずだもん! うん!」

 そう考えるとうまくいきそうな気がして、手長鬼は加か藤とう克かつ美みの死体を見もせずに暗くら闇やみに溶けて消えていく。この町にいったい克美と同年代の女の子がどれだけいると思っているのだろう。しかしその足取りは軽く、明るい希望に満ちていた。

「はーれーたーよーるーはー♪」

 気け怠だるい漆黒の夜に──少女の背中が消えていく。

「つーきーがーきーれーいーでー♪」

 ただ歌声だけがいつまでもいつまでも残り、哀れな少女の亡なき骸がらに降り注いでいく。

「にーんーげーんーがーじゃーまー♪」


  


 ……以上が、私の見届けた奇妙な女の子の顛てん末まつよ。

 ふふ、どうしたの? 不思議そうな顔をしているわ──。あら、私がどうしてこんな話をするのかわからないのかしら。そうね──洒落しやれた言い方をすれば、冥めい土どの土産、というものよ。面白いことの一つでも知りながらでないと黄よ泉みへの旅路は退屈すぎるじゃない。

 それに、私もあの手長鬼について考えたかったの。誰だれかに向かって喋しやべりながらというのが思索としては最も効率がいいのよね。これから殺されるあなたには興味のない話だったかもしれないけれど、どう思うかしら。この話。私みたいな外側にいる存在ではない、あなたたちみたいな一般人の意見が聞きたいのだけど。

 あら、作り話だと思っているの? それも仕方ないかもしれないわね。日常の内側で生きているあなたたちには信じがたい話かもしれない。

 けれど──これは間違いなく、現在進行形でこの観かん音のん逆さか咲ざき町を襲っている悪夢。そうね──明日にでも、あなたたちの大切なひとが手て長なが鬼おにに襲われるかもしれない。

 あら、表情が変わったわね。意志が灯ともった真しん摯しな瞳ひとみ。綺き麗れい──私はそういう『綺麗』が好き。けれど、駄ぁ目、あなたたちはここで死ぬんだから。それはもう決まってしまった話。ごめんなさいね──。

 あら。うふ。悔しそうな顔ね。誰だれかを守れないことが悔しいのかしら。うふふ、いいわね──その顔が見たかったのよ。そうやって悔しがって、哀かなしんで苦しんで、自分の無力さを呪のろいながら死んでいきなさい。そうでなきゃ殺す方も面白くないのよ。

 でも、安心して──あなたたちは悪じゃない。

 菌でも毒でもない。ただ純粋に誰かのために怒れる立派なひとたちよ。

 だから、あなたたちを私は誠意をもって殺す。決して無粋に消滅させたりはせず、あなたたちの人格を認めたまま殺す。

 ……長話になったわね。では──死になさい。

 あら。私の名前? うふふ、死にゆく人間に教えるわけがないじゃない。呪われたりしたら堪たまらないもの。お馬ば鹿かさんね。

 けれど──そうね、こっちの名前だったら教えてあげてもいいわ。これを私の本名と信じるか、信じないかはあなたたちの自由。呪うも呪わないもね。

 呪われれば、呪われるほど、磨かれていく名前もあるの。

 私の名前は殺菌消毒。ただの消化器官よ──。