「……
だから
「ありがとう」
つぶやいた。克美は首を

「久しぶりだね」
克美はまたつぶやいて、あたしもお金をだすよ申し訳がないよと騒ぐ鈴音を強引に誤魔化した。なんというか昔から、損な性格をしてるなぁこいつはと思う。
そういうところが好きだったのだが。
「……こうして二人で帰るのはさ」
外はもう真っ暗で、月も星も見えない不安になるような曇天。
ぽつりぽつりと浮かぶ明かりが頼りなく冬の寒さに揺らめいている。
「うん──でも、
鈴音は笑って、それから表情を真剣な顔に変えて言う。
「それは置いといて、やっぱりあたしもお金を払うから」
あ、ちょっとだけ
「それじゃ、次は鈴音の奢りっていうことでどうかな?」
「え──」
「……また会おうよ」
克美は鈴音を見ない。背後にいる彼女はどんな顔をしているのか。昔、自分が裏切ってしまった少女。本当は、中学三年生になってからも、何度も何度も話しかけようとしたのだ。廊下ですれちがうたび申し訳なさそうな顔をする鈴音に、ずぅっと謝りたいと思っていたのだ。
克美は涙ぐんでいる。
「ごめんね。私にそんな資格はないかもしれないけど、まだ──ずっと、鈴音の友達でいさせて?」
「…………」
短い沈黙の末、克美は手を握られる。鈴音の温かい手。
「……うん」
最後まで、顔を合わせることはできなかった。
「じゃ、またね」
「うん──また」
それでも再会を心に誓って、
歩き、商店街を抜け、道を曲がり、すっかり人気もなくなって。
静かに近づく邪悪な影はそんな二人の友情も知らず──。
「──────腕の長さを比べましょ?」
唐突に。
克美の背筋に走る──冗談のような悪寒。
反射的に、克美は振り返ってしまった。

そこが──転換点。
その加藤克美という女の子にとって不幸だったのは、
本来なら一生涯を接することなく素通りしてしまう存在──平穏な人間たちの世界から逸脱してしまった少女、そんな彼女に、手長鬼に出会ってしまったことは、なんでしょうね、不幸、不運、悲運、そんなようなものだったわ。
さすがの私もそんな彼女にかける言葉は一つしか見つからない。
そうね──ご愁傷様、と。

その女の子は──。
「はーれーたーよーるーはー♪」
その女の子は
「つーきーがーきーれーいーでー♪」
歌いながら、彼女は克美のそばで意味不明の舞いを踏んでいる。転げそうになりながら右にふらふら、左によろよろ、踊っているのか酔っぱらっているのかよくわからない。克美は動けず、声をあげることもできず、ただその異様な少女を凝視することしかできなかった。
「にーんーげーんーがーじゃーまー♪」
小学生くらいの少女である。身長は
そんな彼女は唐突に歌も舞いもやめ、克美の正面でぴょっこりと跳ねた。
「こんばんはっ」
やはり親しみに満ちた、邪悪なところの
しかし──。
唐突に、克美は違和感に気づく。ごく普通の小学生みたいなこの女の子にある──特異。何かが、何かがおかしいのだ。なんだろう。彼女を注視し──やがてとんでもないことに気づいて克美は短く悲鳴をあげた。
「名前は
その少女には両腕がなかった。
肩のかなり深い位置から完全に腕が欠落している。本来ならばしなやかな腕が覗いていたはずの場所には虚無だけが広がっていて、どこかに隠しているわけではなく、本当に腕がないらしかった。
普通と違うのはたったそれだけ。
しかし──彼女は、違う、と思った。身体を構成する物質から、魂の色まで残らず人間とは異なる──。まるで
そうだ──彼女は、鬼と名乗ったのだ。
「…………」
なんだそれは。
「……手長、鬼?」
克美は理解できないで、ただ怖くて、ちょっとだけ後ずさった。
すぐ背後には塀がある。逃げられない。逃げる? こんな
克美は震えて、心から怖くて、女の子を突き飛ばすと一目散に逃げた。
「う、うぁ!」
なんでだかはわからない。しかし
女の子を振り切り、水銀灯が照らす無人の道を、
逃げる。逃げられる。逃げてみせる。
さもなければ──。
「そうだよ、手の長い鬼で手長鬼!」
無邪気な声が、脳裏に響く。
そして──がぐん、と
助けて、殺される、と思ってしまうのだ。
それは肉食獣に出会ってしまった人間の心理。
無邪気な少女は
「どう──手長鬼の
肩口に食いこむ強烈な力。それはまさに、力の強い何者かに肩を押さえられている感触だった。五本の指まではっきりと感知できる。見えない腕が伸びてきて、自分の肩を
しかし──そんなこと、あるわけがないのだ。
幽霊だの
けれど克美の全身は殺されるという恐怖に震えていたし、世界は絶望的なほどに理不尽な狂い具合で、TVみたいに作りごとめいていて、しかしTVのような助けはなかった。
「逃げちゃ駄目だよ。あなたを逃がしたらゼキくんにお仕置きされちゃうんだから」
あくまで無邪気な少女の声。
──ゼキくん? 克美はただ震えている。
振り返ると、やはりどこまでも純粋で、ただ
こちらからは手を伸ばしても触れられないほど遠く、
彼女は不満そうに唇を
「でもさぁ、本当にあなたなんとかってひとなの?
買ってもらった
「もういいや。こんなつまんないんじゃ要らないもんね、ぽいっ」
手長鬼は──。
無邪気に、残酷に。
克美を石塀に
ぐしゃり。という音。それが自分の
「どう──
肩口を
ごんがんごんごんががごんごん。
ぐしゃ! べき! ぐちゃり!
それは──
新年の始まりと、魔物の消滅を願って鳴らされる除夜の鐘とは正逆の──加藤克美が退屈に思いながら心より愛していた日常の終わりと、魔物たちの
鮮血が舞い、骨も原型を崩し、肉が奇妙に混ざりあった克美の全身を──。
ぐちゃッ。
最後に一度だけ壁にぶつけて、手長鬼はにっこりと笑った。
「はーれーたーよーるーはー♪」
歌い、ぐしゃり、と腕を放して克美だったものを地面に落とし。
「つーきーがーきーれーいーでー♪」
手長鬼は自分が
「にーんーげーんーがー、って、あれ?」
歌うのをやめ、見えない指先で克美の身体をまさぐる。困った顔で、それは手長鬼が初めて見せた困惑の顔だったが──ただ克美の身体を探り、
「あ、あれ。あれれっ」
それは重大な失敗に気づいた後の幼子の表情だった。
「り、り、
そこで──彼女は気づく。加藤克美だった肉塊のすぐそばに、一枚の手帳が落ちている。それは
一枚目。顔写真と、住所と、生年月日と、名前──。
加藤克美。
「──を?」
それは、手長鬼が殺せと命じられた人物の名前とは明らかに違っていた。手長鬼は、ずっと克美が居座っていた喫茶店の天井で彼女が出てくるのを待っていたのだが──そういえば、天井から降りるのにてまどってしまい、ようやく追いついたとき、この
まさか──そっちが。
そういえば、その人物は克美と同じぐらいの年格好だった。
「え、えへへ。手長鬼ちょっと間違えた!」
笑っている場合じゃないと思い、必死な顔で考える。
「ど、どうしよ。こ、こ、困ったなぁ。ゼキくんに怒られちゃう。お、おし、お仕置きされちゃうぅぅ。わぁぁ大変だぁぁ、どうしよう。どうしようどうしよう」
あたふたと困って、瞬間、なんとも素晴らしい名案が浮かんで手長鬼は跳ねた。
「そーだっ」
にっこりと笑い、
「……そうだよね。さっきの女の子を捜せばいいんだ。そっちがきっとなんとかってひとなんだもん。なんだっけなぁ名前。それでそれで、ゼキくんが到着するまでにそのひとから
そして当たり前のような顔で言う。
「でもでも顔がよくわかんないんだよなぁ。うーん、あ、そうだ、じゃあこの町にいる同い年くらいの女の子をみんなみんな殺しちゃえばいいんだよね。殺していけばいいんだよね。死ななかったやつが林檎を持っているはずだもん! うん!」
そう考えるとうまくいきそうな気がして、手長鬼は
「はーれーたーよーるーはー♪」
「つーきーがーきーれーいーでー♪」
ただ歌声だけがいつまでもいつまでも残り、哀れな少女の
「にーんーげーんーがーじゃーまー♪」

……以上が、私の見届けた奇妙な女の子の
ふふ、どうしたの? 不思議そうな顔をしているわ──。あら、私がどうしてこんな話をするのかわからないのかしら。そうね──
それに、私もあの手長鬼について考えたかったの。
あら、作り話だと思っているの? それも仕方ないかもしれないわね。日常の内側で生きているあなたたちには信じがたい話かもしれない。
けれど──これは間違いなく、現在進行形でこの
あら、表情が変わったわね。意志が
あら。うふ。悔しそうな顔ね。
でも、安心して──あなたたちは悪じゃない。
菌でも毒でもない。ただ純粋に誰かのために怒れる立派なひとたちよ。
だから、あなたたちを私は誠意をもって殺す。決して無粋に消滅させたりはせず、あなたたちの人格を認めたまま殺す。
……長話になったわね。では──死になさい。
あら。私の名前? うふふ、死にゆく人間に教えるわけがないじゃない。呪われたりしたら
けれど──そうね、こっちの名前だったら教えてあげてもいいわ。これを私の本名と信じるか、信じないかはあなたたちの自由。呪うも呪わないもね。
呪われれば、呪われるほど、磨かれていく名前もあるの。
私の名前は殺菌消毒。ただの消化器官よ──。