エピローグ



 二年前の四月八日、あさケイはそうすみれに出会った。

 午後六時ごろ、テトラポットの上だった。

 それから二年と一四二日後、二人はまた、テトラポットの上にいた。

 リセットで消え去った時間を考えれば、その期間はもう少し長くなる。でも、ともかく八月二八日、二人はまたこの場所で、顔を合わせた。

 あの時とは反対に。

 相麻菫がテトラポットの上に座っていて、浅井ケイがそこに、歩み寄った。

 もし、彼女があの南校舎の屋上にいたなら、ケイははると二人で会っただろう。でも相麻がいたのはテトラポットの上で、それならケイ一人で会うべきなのだと思った。

 初めて会ったのと同じ、午後六時。でも季節が違うから、空の色はまったくの別物だった。四月八日の午後六時には、テトラポットは夕焼けに包まれていた。でも八月二八日なら、日がしずみつつあっても、空はまだ青い。

 テトラポットの上に立ったケイを見上げて、相麻は笑う。

「こんにちは、ケイ」

 相麻菫の声だ。

 まるで二年前と変わらない、ゆうぜんとした声。

 小さな声で笑って、ケイは答える。

「こんにちは。久しぶり、というのは、君にはそぐわないのかな」

「そうね。私の感覚は、三日前にも貴方あなたに会ったところ」

「いつのこと?」

「マリの母親が、さくを出ようとしたのが、私の中では三日前」

「……ああ。なるほど」

 マリの母親が咲良田を出ようとしたのは、八月一三日のことだった。

 その三日後──八月一六日。相麻菫は、ひろゆきの写真に写り込んだ。

 ケイは手をついて、相麻のとなりこしを下ろす。

 彼女の視線は、その動作を一つずつ、ていねいに追いかけているようだった。

「ずいぶん、背がびたのね。ちょっとおどろいたわ」

「あのころ、僕は背が低い方だったからね。今はクラスの真ん中くらいだ」

「そう。二年間、元気にしてた?」

「そこそこね。色々なことがあった。悲しいことも、楽しいこともあった」

「春埼とは、仲良くなれた?」

「二年前に比べれば、ずっと。春埼は変わったよ。とてもつうの女の子になった。これからだって、きっと変わり続ける」

「そう」

 相麻菫は微笑ほほえむ。善意も悪意もないように、ただ微笑む。

「ケイ。貴方はそれでいいの?」

 頷く事を、躊躇ためらうような質問ではなかった。

「もちろん。とても良いことだと思う」

 なのに相麻は、首をった。

「でも、貴方が好きになったのは、二年前の春埼でしょう? どこまでもシンプルで、自分自身も持っていない。じゆんすいな善のがいねんみたいな女の子を、貴方は好きになったんでしょう?」

「どうかな。もうよく覚えていないよ」

 相麻菫はくすりと笑う。

「貴方はきっと、色々なことを経験して、とても強くなったのね」

 強い、という言葉が、今のケイにはよくわからない。

 昔はわかった気になっていたけれど、きっとそれはかんちがいだ。何一つちがえず、強いという言葉を理解することは、とても難しいのだと思う。

 わからないから、否定もこうていもせずに、言った。

「少なくとも、なんらかの変化はしたのだと思う」

「例えば?」

 例えば、なんだろう。

 少し考えて、ケイは答える。

「女の子に、夕日を見に行こうとさそわれたら、断らないだろうね」

「読みかけの小説があっても?」

「うん。日が暮れてから家に帰って、ゆっくり読むことにするよ」

 二年前、雨の停留所で、最後に相麻と会話をわした時。

 もし彼女といつしよに夕日を見に行っていたなら、何かが変わっていただろうか。彼女のことを、少しでも深い場所まで理解できていただろうか。

 ケイはたずねる。

「君に二つ、聞きたいことがあるんだ」

「あら。何かしら?」

「二年前、君が川に落ちる前。ともの能力で、君自身に声を届ける準備をした」

 ──この声が聞こえる?

 そんなシンプルなメッセージを、そうすみれは、二年後の自分に届けた。

「ええ、それが?」

「実は正確な時間を聞きのがしてね。いつ、君にメッセージが届く予定なの?」

 相麻菫は、うで時計を見た。

「あと五分後ね。今日の六時三〇分に設定してもらったから」

「なるほど」

 今なら、彼女がなぜそんな準備をしたのか、わかる。

 それはスワンプマン。

 目の前にいるこの少女が、本物の相麻菫なのか。あるいは彼女にそっくりなだけの別人なのか。それを判断する材料にしたかったのだろう。

 彼女が相麻菫なら、彼女にてたメッセージが届く。

 彼女が相麻菫ではないなら、彼女に宛てたメッセージは届かない。

 きっと、そういうことなのだと思う。

「二つ目の質問は?」

 と、相麻は言った。

 うなずいて、ケイは尋ねる。

「どうして、君は死んだの?」

 未来視の能力者が、事故を理由に死ぬことなんてない。

 彼女は自ら死ぬことを選んだのだ。

 れいてつに。リセットした直後に。ケイと春埼が力を合わせても、できないタイミングをわざわざ選んで、彼女は死んだのだ。

 こんな会話をしていても、青空は静かに深く、ただんでいた。

 その空と同じような口調で、相麻は答える。

「彼女には、死ななければならない理由があったのよ」

 ケイのすぐとなりに座っている少女は、「彼女」と言った。

 二年前の相麻菫をさして、「彼女」と。

 そのことにはれず、ケイは言った。

「死ななければならない理由」

「そうよ。あっさりと、まるで事故みたいに、自ら死んだ理由」

「でも君は今、ここにいる」

 二年前に、相麻自身が計画した通りに。

「全部、必要なことなの。相麻菫が死ぬのも、彼女と同じ私が生まれるのも」

「どうして?」

「それは、秘密。もう少しだけ、秘密にさせて」

 一人の女の子が死ななければならない理由なんて、考えたくもなかった。

 だが、考えるべきだ。

 相麻菫は、死んだのだから。今、ケイの隣にいる少女が、本物の相麻菫だったとしても。確かに一度、死んだのだから。

 彼女は言った。

貴方あなたは私を、けんしていい。私は、それだけのことをしたのだから」

 とつには、答えることができなかった。

 相麻菫の死は、はるそらを傷つけた。──その表現は、正確ではないのかもしれない。相麻の死で傷ついたのは、ケイだ。だがケイが傷ついた時、春埼も同時に傷ついた。

 自身の能力をゆがめるほどに。

 彼女が持つ能力を、彼女自身の意思では使えなくなるほどに、春埼美空は傷ついた。

 そうなることを、相麻菫は知っていた。

 全部知っていたんだ。

 ゆっくりと、ケイは頷く。

「そうだね。僕は君を、許せない」

 どうしたところで、許せるはずがない。

 相麻はわずかに、視線を落とす。

「ごめんなさい。でも私には、やらなければならないことがあるの。貴方を傷つけても。これからもっと傷つけることになっても、められないことがあるの」

 当たり前だ。

 彼女は自ら死んで、生き返ることを選んだのだから。こんなにもちやちやなことをしておいて、その先がないはずがない。

 ケイはまっすぐに、彼女を見てたずねる。

「君の目的とは、なんだ?」

 彼女は軽く、目を閉じて言う。

「ねぇ、ケイ。どうして私があの黒い石に、マクガフィンと名付けたかわかる?」

 マクガフィン。

 ケイの元に必要な能力者を集め、そこに相麻の意思があるのだと理解させるための石。大げさなうわさがあるだけの、それ自体はなんの価値もないただの小石。

 ため息をついて、ケイは答えた。

「マクガフィンとは、物語に主人公を呼び込むための小道具だ」

 特定の人物を、物語の主人公として配置するための装置。押し付けられたなぞのアタッシュケースや、意味のわからない手紙なんかが、マクガフィンと呼ばれる。

 相麻は頷く。

「私は、私が予定した物語の主人公を、貴方にしたかった。これまでの出来事は、全部そのための準備なの」

「君が予定した、物語というのは?」

 きっとそれが、そうすみれの目的だ。

 一人の少女が死んで、生き返った理由だ。

「あの黒い石を手に入れたなら、貴方はもう、知っているわ」

 深い青空の下で。

 相麻菫は、まっすぐにあさケイを見て、告げた。

「マクガフィンの持ち主が、咲良田の能力すべてを支配するのよ」

 話が、大きすぎる。

 あまりに、無茶苦茶だ。

 ケイはまた、ため息をつく。内心で、とても信じられない、とつぶやいて。

 それから尋ねた。

「君の声は、聞こえたのかな?」

 二年前の、相麻菫の声。──この声が聞こえる?

 もう午後六時三〇分を回っていた。答えは出ているはずだ。

 彼女は少しだけ首をかしげる。

「貴方は、どちらであって欲しい?」

 空の低い位置が、赤く染まりつつあった。

「貴方が選んだ方が、きっと正解よ」

 相麻菫の声は、静かに、だが確信を持ってひびいた。