※
未来を知らなければ、未来を変えることなんてできはしない。
今夜起こることはもう、ずっと以前から確定していたことを、
それを変えられたのは、未来を知り得る相麻だけだ。だが相麻は、その未来を現実にすることに決めた。これが最も適切な手段なのだから。
午後一〇時一五分。
マリの母親に能力を使う計画が失敗に終わった、およそ三〇分後。相麻は一人、自宅近くのバスの
坂上を送り届けるために、バスに乗って帰ってきたのだ。だが彼を見送ったすぐ後に、家に帰ろうという気にはならなかった。
浅井ケイ、春埼美空、
相麻の手の中には、空になったラムネ
捨てるタイミングがなくて、なんとなくここまで持ち帰ってしまったものだ。夜空を見上げながら、相麻は手の中でそのラムネ瓶を
そんな音もよく
空には
月の満ち欠けには、好感が持てる。
──今頃、ケイも同じようにしているはずだ。
マリのマンションから、一本通りを入った道端にあるベンチに腰を下ろして。ケイも相麻と同じように、空のラムネ瓶を弄びながら、月を見ているはずだ。
相麻は腕時計をはずし、それを顔の前に
──そろそろだ。
もうすぐケイの前に、一台の黒い車が現れる。車はケイの前で
ケイは中野智樹の能力を使い、ツシマを呼び出した。
相麻はじっと腕時計を見ていた。目を
ツシマは
片手に
──お願いがあります。僕たちはマリを助けたい。その許可を
相麻には彼の声が、現実に聞こえたような気がした。そんなはずもないのに。
今、相麻に聞こえているのは、夏虫の
だが、この夜の片隅で、
──僕たちは、マリの母親が咲良田から
ツシマは答える。
──可能だとは、思えません。
二人の口調は、共に静かだ。すべての感情が
記憶を保持する能力と、能力をコピーする能力。その二つを組み合わせることの効果を説明してから、ケイは言う。
──本当に望んでいなければ、咲良田の能力は使えない。マリが生まれた時、マリの母親は、そのことを心の底から望んだはずです。
ツシマは答える。
──感情は、いくらでも変わります。
ケイは言う。
──だから過去の感情を、思い出させるんです。
ツシマは答える。
──思い出すことが、常に正しいとは限りません。忘れたままでいる方が幸せなことだってあります。
さらに、ケイは言う。
──母親が子を愛する感情が、正しくないわけがない。
相麻菫は、目を閉じた。
浅井ケイは一体、どんな思いで、その言葉を口にしたのだろう。彼は何も忘れない。忘れることが、許されない。彼自身が両親を捨て去ったことを覚えたまま、その罪悪感を胸に
彼の
だが現実には、相麻は一人、停留所のベンチに座っているだけだ。ケイは今、手を伸ばしても届かない場所にいる。
──彼女はマリを愛する心を、思い出すべきなんです。
どれだけ言葉を
時計の文字盤が見えた。かちり、と、分針が動く。
浅井ケイは、再び言う。
──お願いします。マリの母親に能力を使う許可をください。

その言葉と同時に、彼は中野智樹にサインを送る。一時的に、能力の使用を
これからの数分間を、
その数分間に、浅井ケイは、坂上を説得する準備を整える。
これから彼が何をするつもりなのか、相麻菫は知っていた。相麻自身が用意したラムネ
浅井ケイは、ラムネ瓶を振り上げる。
相麻菫の手から、力が抜けた。片手に持っていたラムネ瓶が、アスファルトの上に落下する。
小さな
※
ガラスが割れる音は、
ずっと握っていたラムネの瓶を、街灯のポールに打ちつけた時、浅井ケイが考えたのはそんなことだった。
背後で智樹が、小さな声を上げる。ケイはそちらに視線をやる。
何もかもが、ケイの予定した通りに進行している。だがここから先の展開は、智樹にも話していない。説得するのが面倒だったのだ。
ケイは割れたラムネ瓶に視線を落とした。
「そんなもので、私を
「ちょっと違います」

思ったよりも痛い。意外と深く切れたようだ。
「なにしてんだよ!」
その
智樹を押し
まっすぐにツシマを見て、言った。
「マリの母親に、能力を使う許可をください」
「……俺にそんな権利はない」
彼の口調が、明確に変化した。きっと混乱しているのだろう。
良い
「
「なに考えてんだよ。死ぬぞ?」
「そうですね」
目的の言葉を聞けるなら、別に死んでもいいのだ。春埼
血はとめどなく流れていた。指先が冷えてしびれる。流血は
「お願いします。口先だけでいい。許可する、と言ってください」
そう告げながら、ケイは腕に三本目の傷を入れた。
ツシマの
「わかった」
この男は、善人だ。きっと
どんなに
「もう一度、はっきりとお願いします」
そう告げながら、ケイは背後で人差し指を立てる。
ツシマは言った。
「わかった。許可する」
ケイは笑う。口元だけを
「マリの母親に、能力を使ってもいいんですね」
「ああ、いいよ。だから──」
「ありがとうございます」
ツシマの言葉を
同時に、ラムネ
ツシマは息を
「無茶苦茶だ。訳がわからない」
「色んな事情があるんです」
「俺が何を言おうと、管理局は許可を出さない」
「そんなことは、わかってますよ」
立っているのも
春埼美空が、じっとこちらを見ていた。
「
笑って、ケイは答える。
「噓をつくためだよ。坂上さんを、
無理やりにでもこの管理局員に、許可すると言わせたかったけれど、ケイ自身を
作業を終えてしまうと、傷の痛みが何倍にも
智樹が何か言っていた。たぶん怒っているのだろう。そんなに大きな声を出さなくてもいいのに。
春埼はまだ、ケイの顔を見ていた。いつもの無表情に似ているけれど、
アスファルトに座り込んだまま、ケイは彼女を見上げて
「春埼。リセットして
およそ一時間分だけ、世界の時間を、巻き
※
午後九時二五分。浅井ケイは、マリのマンションにいた。三階と四階の間の
つい先ほど、春埼が「セーブ」と
ケイはほんの五分前を思い出す。直後、
顔をしかめて、ケイは言う。
「リセットしました」
ほんの一時間分だけ、世界の時間が巻き戻った。
思い出した痛みを無視して、ケイは告げた。
「計画を少し
坂上は、ほんの
「どうして?」
「この後、一〇時三〇分
ケイがそう告げると、
「よかった。でも、本当に
「ええ。たぶん」
「僕も、行った方がいいかな?」
「いえ。僕と智樹だけで十分です。智樹に能力を使って貰えば、話の内容はみんなに聞こえますよ」
坂上は
彼はリセットした後も、智樹の能力が有効だということを知らない。消え去ったはずの時間に語られた言葉を聞くなんて、想像もできないはずだ。
一〇時三〇分頃、坂上にあの会話が届く。
問題点は、あの管理局員──ツシマを呼び出すために智樹が使った能力も有効だということだった。
ツシマがベンチに現れる前に、智樹の能力でまた伝言を届けなければならない。
気の
どんな理由があろうと、人を
自身の
他に思いつかなかったのだ。でも、あの管理局員は言った。──選ぶべきじゃないから、
3 八月一三日(金曜日)──二度目のスタート地点
白い
──ここは今、僕がいるべき場所ではない。
ケイは一度能力を使って思い出した
ベッドに横たわっているようだった。部屋の中を
ケイはベッドから起き上がり、
新聞を読んでいた父親が、視線を上げて、「おはよう」と言った。
キッチンから朝食を運んできた母親は、ぎこちなく微笑んで、「貴方を愛しているわ」と言った。
なんて夢だ。まったく、
ケイは両親に何かを答えようと、口を開いた。でも、声は出ない。言葉を
──でも、彼らに伝えるべき言葉を僕から奪ったのは、僕自身だ。
そう自覚した時、目が覚めた。
泣いていれば、まだ救われた。でも、涙は流れていなかった。
そういう風にして、二回目の八月一三日は始まった。クラカワマリの母親が、咲良田を離れる予定の日だ。
※
黒い車が七坂中学校の近くにある病院に
マリと彼女の母親が、黒い車を降りる。
二人はそのまま、病院に向かって歩き出した。春埼はマリの視線が、母親の手を見ているのに気づいた。手を
中野智樹は腕時計を
「一〇時三二分、マリたちが病院に到着」
おそらくは能力を使っているのだろう。浅井ケイに向けて、声を届けるために。
一時間ほど前のことだ。
──今日は、二手に分かれて行動しよう。
と、浅井ケイは言った。
そして彼と、
春埼はじっと、病院の入り口を眺めていた。ほどなくマリの母親だけが病院を出て、また黒い車に乗り込む。
「一〇時三六分、マリの母親が病院を出発。黒い車に乗っている」
と、中野智樹が言った。
それから彼は、ポケットから何かを取り出した。──小さく折りたたまれた電車の時刻表だ。きっと、マリの母親が乗る電車の発車時刻について考えているのだろう。
「行きましょう」
春埼は呟いて、歩き出す。マリに会い、彼女の言葉を聞くために。その言葉を、彼女の母親に届けるために。
病院の中に入る。自動ドアを抜けると、右手に受付が、正面には待合室を
春埼はロビーにある見取り図を確認し、
小児科の
──マリだ。
そう思った時、彼女は顔を上げ、こちらを見た。
「お姉ちゃん!」
マリは
マリは笑顔で顔を上げ、それから、ふいに表情を
「お姉ちゃん、病気?」
「いえ」
「じゃあ、どうして病院にいるの?」
「
彼女は
「でも、お姉ちゃん、なんだか調子が悪そうだよ」
そんなことはない。否定しようと思ったけれど。
後ろから、小さな声で、中野智樹が
「あんまり悲しそうな顔をするなよ、春埼」
そう言われて、思い当たる。
春埼はずっと、マリのことを考え続けていた。
この少女は母親が、咲良田を出ようとしていることを知らない。
母親が、この少女のことを、忘れたいと願っているのを知らない。
──私はそのことを、悲しんでいるんだ。きっと。
はっきりとはわからない。でも昨日からずっと、胸には僅かな痛みがある。
「どうしたの?」
と、マリは言う。
「なんでもありません」
と、
それからそっと、マリの頭に右手を置いてみる。春埼が知っている中で、一番
マリは笑った。きっと、春埼を
しばらくの間、春埼はマリの頭に手を
やがて、看護師のアナウンスが聞こえた。──クラカワマリさん、採血です。
マリは「すぐ
「マリが戻ってきたら、すべて話しましょう」
今、起ころうとしていることをすべて、彼女に伝えよう。
※
午前一〇時五〇分、
この駅の利用者は、それほど多くない。いつ来てみてもがらんとしている。それはつまり、咲良田の内外を行き来する人が少ないということだ。
時刻表によれば、一一時〇七分に発車する電車がある。きっとマリの母親は、その電車に乗るつもりだろう。咲良田を通る電車の本数は少ない。
坂上は小さな声で、相麻に何か話しかけていた。昨夜とは
そのことへの罪悪感を飲み込んで、ケイは周囲の様子を観察する。はっきりとはわからないが、こちらに注目している人はいないようだ。
──管理局はどんな方法で、僕が咲良田から出ることを禁止しているのだろう?
このまま
そんなことを考えていると、黒い車が、駅前のターミナルに
「あれかい?」
と、坂上。
「おそらくは」
ケイは
相麻がこちらに向かって、
駅に向かって歩き出すマリの母親に、ケイたちは近づく。
微笑んで、声を
「こんにちは」
ただそれだけで、マリの母親は、
「お久しぶりです。以前、公園でお会いしたのを、覚えていますか?」
「すみません。
「マリさんの友人です。正確には、友人の友人」
彼女はほんの小さな、悲鳴のような声を上げる。
確かにこの様子なら、ツシマが彼女を咲良田の外に出すことに、賛成しても仕方がないなと思う。自分の子供を愛せないというのは、それほど苦しいことなのだろうか。ケイにはよく、わからなかった。
マリの母親は
「何か、
「はい。
彼女は目を見開く。
ケイは続けた。
「貴女は、今回のことに、
彼女は何かを言ったようだったが、
それから、むせるような
「私は、いない方がいいんです。子供を愛せない母親なんて、いても、あの子が不幸になるだけです」
「そんなことはない。マリは、貴女を愛しています」
「でも、私はマリを、傷つける。たぶんもう、たくさん傷つけているのだと思う」
「貴女がいなくなる方が、よほど彼女を傷つける」
彼女は、さらに表情を引きつらせた。
ケイは続ける。
「
「……それは?」
「貴女が、マリを愛すればいい。それで、貴女も、マリも救われます」
彼女はうなだれる。リセット前に見た、マリの姿によく似ていた。
「それは、できません」
「どうして?」
「できるならとっくに、そうしています」
ケイにはこの女性が、悪い人物には見えなかった。マリの幸福を言い訳に使ったことはひっかかるが、その程度のずるさなら、誰だって持っている。
「彼女を能力で作り出した、ということに、それほど
そう
「どうして、知っているんですか?」
ケイはその質問に答えなかった。どうでもいいことだ。
代わりに、言った。
「
彼女はしばらくの間、うなだれたまま
それからゆっくりと顔を上げて、
「貴方には、わからない。
真理とマリ。二人の名前が混同していて、わかりにくいけれど。だいたい、彼女が何を言いたいのかは理解できた。
マリを連れ去る時、ツシマが言った言葉を思い出す。
──去年、
倉川真理。生まれてきた時にはもう息をしていなかった、本当の
「起こったことが、反対だったと考えてください。出産の時、死んでしまったのが貴女で、本当の真理さんが貴女そっくりな誰かを作り出した、と。貴女そっくりな誰かを、真理さんが愛したとして、貴女は悲しみますか?」
マリの母親は、首を
「そんな問題じゃ、ない」
内心で、ケイはため息をついた。
それはそうだ。この女性の苦しみを、面識もない中学二年生が、言葉だけで取り
──それも、僕のような、両親を切り捨てた人間が。
本当はこの女性に対して、何かを語りかける資格もないのだ。
ケイは自分自身に言い聞かせる。──僕は春埼美空の代理として、この場所にいるのだ。親子の問題を解決するのではない。春埼の願いを
今までに、何度も
「そんな問題なんです」
首を振って、ケイは答えた。
「マリが不幸になることで、幸せになる人なんていない」
そんな人間、いるべきではない。
※
午前一〇時五五分。
春埼美空は、クラカワマリの頭を、
マリは泣いていた。
きっとこの少女は、いつかこの日が来ることを、知っていたのだ、と思う。だから混乱しない。ヒステリックに声を上げることもない。
頭に手を置いたまま、春埼美空は言った。
「
「……戻ってこないよ」
「どうして、そう思うのですか?」
「お母さんは、私のことが
「でも、すぐに好きになります。元々、好きだったことを、思い出します」
笑ってみよう、と春埼は思った。
自信があることを証明するために、目の前の少女を安心させるために。──それは
無理やりに、
「浅井ケイは、
なぜだろう?
彼はどうしようもなく正しいのだと、いつの間にか思い込んでいた。
春埼自身が設定した、三つのルールに従うだけでは、決して
以前、彼が言った言葉を思い出す。
──春埼。そう遠くない未来に、僕はきっと君の
あの時、自分がなんと答えたのか、もう思い出せなかった。
ともかくいつの間にか、彼の言葉は真実になっていたのだ。
「彼はきっと、貴女の母親を、貴女の元に連れ戻します」
と、春埼
マリは視線を上げたけれど、まだ泣いていた。
「だいたい春埼の言う通りだが、少しだけ違う。ケイは一人だけじゃ足りないと思ったから、オレたちがここに来るよう言ったんだ。全部話せばマリが泣くことを、あいつは知っていたけど、でもそれが必要だと思ったんだ」
中野智樹はしゃがみ込み、正面から、マリの顔を見る。
「マリ。願い事ってのは、声に出して言うものだよ。心を込めて、みんなに聞こえるように。さぁ、マリがどうしたいのか、言ってごらん」
※
「お願いします、
と、浅井ケイは言った。
坂上は
「準備は、いいですか?」
「うん。いつでも、
ケイは
だいたい、午前一一時といったところ。ちょうどいい時間だ。
マリの母親に、目を閉じてくださいと言おうとしたけれど、その必要はなかった。彼女はうなだれ、もうすでに目を閉じていた。小さな子供みたいに、少しだけ
できるだけ優しく、
「貴女はこれから、マリを生み出した時のことを思い出します」
それは、どれだけ
本当なら、他者が
──でもね。僕は、
無理やりにそう言い聞かせ、
「貴女は本当に、
彼女はただ震えているだけだ。
ふいに、ケイは、この女性にすべて告白したくなった。
二年前のことを。ケイ自身が両親を捨てて、この街にいるのだということを。
でもそんなことをこの女性に告げれば、ケイ自身の罪を
──僕は自分のことを
まるで
そうすることに、決めたんだ。
「始めます」
そしてケイは、マリが生み出された
七年前。
まだケイが、六歳だった頃。
両親と共にいた頃の記憶を、
父の顔、母の顔、その
マリの母親が、小さな声を上げるのがわかる。彼女もまた、彼女の記憶を思い出しているのだろう。倉川真理が死に、そして心の底から、マリの存在を
ケイはそっと、自身の
仕方がなかった。ケイは笑った。
「何を思い出したの?」
記憶の中から、最も下らないことを選んで、ケイは答える。
「六歳の頃、僕はマーマレードが苦手だった。どうしてだろうね、甘い物は好きなのに」
相麻は微笑む。
ケイは能力の使用を
ほんの数分間で、マリの母親は、様々なことを思い出したはずだ。ケイと同じように。
彼女はアスファルトの上に
きっと、深く苦しんでいるのだろう。でもケイにできることは、もう何もない。
ケイは腕時計を見る。もう三〇秒ほどで、この駅から電車が出る。
──そろそろだ。
そう思った時、マリの母親が、声を上げた。
初めは、小さな声だった。それは少しずつ大きな
相麻
「何が起こってるの?」
ケイは答えた。
「彼女は今、僕が知る限り、最も
時間も
きっと一人の少年が、温かい言葉を届けたいと願い、そのためだけに生まれた能力。
彼の能力は、昨夜、とてもひどい使われ方をした。
でも、今は
泣き声に混じって、マリの母親の声が聞こえた。「ごめんなさい」と、
きっとそれは、彼女だけがわかっていればいいことだ。
※
マリの声は、とてもシンプルに、母親に届く。
──お母さんが好きです。ずっと
ただそれだけを伝えるために。
まっすぐに、母親に届く。
4 夏の終わり
マリの母親は、咲良田に
だけどマリは、結局、管理局に引き取られることになった。
マリと、マリの母親と、管理局。三者の間でどんなやり取りがあったのか、ケイはよく知らない。たぶん色々なことに
母親は、マリの元に、完全に
だが娘を忘れることなく、会いたいと願えばいつでも会える距離に留まった。
それが結末だ──そう考えて、ケイは首を
マリと、彼女の母親との関係は、まだ何も終わっていない。それはケイが
八月三一日、火曜日。夏休み最後の日。
その昼下がり、窓の外では、雨が降っていた。
ケイは一人、離れにいた。ベッドに
何度も読みかけては中断しているミステリ小説だ。買ってきたのは、夏が始まる前だった。
さすがにそろそろ読み終えてしまおう、と思っていたけれど、それは
扉を開けると、そこに相麻菫が立っていた。彼女は赤い
「こんにちは、ケイ」
と、彼女は言う。
「ちょっと日焼けした?」
と、ケイは
「どうかしら。あまり自覚はないけれど」
「海に行ったりは?」
「してないわね。でも今日は、山に登るつもり」
「山?」
「そう。高いところに登って、遠くを
「でも、雨が降っているよ」
「天気予報では、夕方には降り
「今から、時間はあるかしら?」
そしてケイと相麻は、
相麻の傘は赤く、ケイの傘は
傘は雨音を大きくする。夏の熱で蒸発した水気は空気中に満ちていた。
「そろそろ、夏が終わるわね」
と、相麻は言う。
「終わるのは夏休みだ。夏がいつ終わるかなんて、それぞれ勝手に決めてしまえばいい」
と、ケイは答える。
「なら、私は今日で、夏が終わるのだと決めるわ」
「そう」
「ねぇ、ケイ。答えは出たかしら」
「答え?」
そう尋ねながら、彼女が何の話をしているのか、ケイは理解していた。
この夏。相麻菫が、夏だと定義した期間。
思い返せば、ずっとそのことについて考えていたような気がする。
相麻菫は足を止める。
ちょうど、バスの停留所の前だった。そこにはベンチが一つと、
相麻は傘をたたんで、ベンチに
ケイは傘をさして立ったまま、尋ねる。
「停留所に来たかったの?」
「そういうわけじゃないけれど。とりあえず
「バスが
「なら、そのバスに乗るわよ。私は山に登るの。綺麗な夕日を見るために。それまで、私に付き合ってもらえるかしら」
ケイは時刻表を見る。次のバスがこの停留所の前を通過するのは、もう二〇分ほど先のことだった。小さなため息をついて、ケイも彼女の
「アンドロイドは、
と、相麻菫は言った。
雨に濡れる時刻表を眺めながら、ケイは答える。
「アンドロイドが登場する小説を、たくさん読んだんだ。読みかけのミステリを後回しにして」
「それで?」
「なぜ君がそんな質問をしたのか、少しだけわかった気がするよ」
たぶん、元々相麻が考えていたことを、ようやく理解できたのだと思う。
ケイは続ける。
「アンドロイドについて考える時、僕がいつも思い
アンドロイドについて考えるということは、人間について考えるということだ。
この夏ケイは、人間について、考え続けていた。
四月二八日。ケイと、春埼と、相麻が、初めてあの屋上に集まった日。
相麻菫は、人間について考えるための質問を投げ
彼女の質問に、ケイは答える。
「僕たちの中に、アンドロイドはいない。どれだけ考えてみても、やっぱりみんな、人間だった」
「それでも、仮定するのよ。私たちの中にアンドロイドがいるんだと」
「なら、みんな、アンドロイドだ。誰だって誰かの
あらゆる思考が、理性が、
小さな声で、相麻は笑った。
「そうね。きっと、そう」
それから彼女は、どこか遠い場所に視線をやった。たぶん向こうの雨雲よりも、もう少し遠い場所に。
「ねぇ、ケイ。どうして
「……どうして、とは?」
「どうして両親を捨てて、この街に
なぜ、彼女がそのことを知っているのか。
不思議と疑問には思わなかった。
「能力に興味があったんだよ」
決して
二年前、
相麻は横目でちらりと、こちらの顔を
「それは、今回、貴方がリセットを求めたのと同じ理由で?」
「うん」
「どうして貴方は咲良田の能力と、そしてリセットを求めたの?」
「便利だからだよ」
「とても信じられないわ」
「でも、本当にそれだけの理由なんだ」
少しだけ
「昔、僕も春埼と同じだった。幼い
当たり前にあるものが、すべて悲しいのだと春埼は言った。
生きているものが、いつか死ぬことが。形のあるものが、いつか
「僕はずっと、
本当に、そのつもりだったのだ。とても
「でも、この街に来て、違うのだと思った」
「咲良田には、能力があったから?」
「うん。目の前で、それまで仕方がないと受け入れるつもりだったルールが、
咲良田の能力は、あらゆるルールを
受け入れるしかないのだと判断していた悲しみや苦痛を、あっさりと消し去ってしまえる可能性を持っている。
相麻菫は
「貴方は、どうしようもないのだと諦めるしかなかった悲しみを、一つ残らず消し去るために、咲良田に留まったのね。同じように、悲しみを消し去る力が欲しくて、
「とても便利なんだ。彼女の能力は」
失敗をもう一度やり直せた時、一体どれだけの問題を取り除けるだろう。
過ぎ去った過去をやり直すことが可能なら、一体どれだけの悲しみを、消し去れるだろう。
「だから僕は、春埼
小さな声で、相麻は笑う。
「利用。こういう話をする時の貴方は、いつだってとても
「そうだね。僕は、善人じゃない」
「春埼と同じように。貴方が
「僕と春埼は違う。僕はね、僕が悲しいのが、嫌なんだ」
自分自身が悲しみたくないから、悲しいことを消し去りたいんだ。自分自身を持たないまま、純粋に悲しめた春埼とは違う。
相麻菫は、
「ねぇ、ケイ。貴方は、もう少し救われてもいいのだと思う」
「救われる?」
「そう。救われて、楽になる。そのための言葉をあげるわ」
相麻菫は、視線を動かして──まっすぐにケイを見て、言った。
「
「……うん。そうだね」
とても
言い訳のしようもなく、あの時、ケイは悪人になったのだと思う。
「貴方は、本当は
相麻は今までよりも、ずっと静かな言葉で語る。
それは、雨音みたいな声で。
「初めから、貴方はマリを助けたかったんでしょう? でも、貴方自身がそれを、許せなかったんでしょう? 両親を切り捨てた貴方が、子供を切り捨てようとしている母親を、断罪していいはずがないと思ったんでしょう?」
ケイには何も答えられなかった。
「だから、貴方は春埼を言い訳に使った。マリを救うのではない、これは春埼を利用するための手段なのだと自分に言い聞かせた。そういう言い訳が必要だった。貴方は弱くて、ずるくて、本当は善人になりたいのに、自分でそれが許せない悪人」
その通りだ、とケイは思う。
──僕はとても、弱くて、ずるい。
だから、ほら、今だって。それを認めてくれる彼女に、安らぎを感じている。
相麻
「だから貴方に、言い訳をあげる。これから貴方が正しくあるための言い訳を」
彼女は弱い力で、目を閉じた。
「春埼は、変わりつつある。あの子はこれから、たくさんの感情を知っていく。きっと、貴方から、それを学ぶ。貴方が
彼女のまぶたが、持ち上がる。
その、黒い
とても情けない顔だった。弱々しい、小さな子供のような顔。少し
「
あくまで静かに、彼女はそう言った。
その言葉は
きっとケイは、二年前からずっと、善人を装うための言い訳を求めていた。
「できるだけ、そうするよ」
と、ケイは答えた。
相麻菫は、くすりと笑う。
「なんだか貴方といると、いつも春埼の話になるわね」
ケイも笑う。口元だけを
「ああ、確かに。どうしてだろうね」
「そんなの、決まってるじゃない」
相麻の笑みの種類が、変化した。
意地の悪い、誰にもなつかない
「貴方が春埼美空を、愛しているからよ」
ケイは軽く目を閉じて、
「なるほどね」
と、答えた。
「あら、残念。否定するかと思ったのに」
そう囁いて、彼女は雨の奥で笑う。
雨音と、同じ音量で笑う。
それからケイと相麻は、しばらくの間、話をした。
取り留めのない話だった。未来について、過去について、夕日について、そして──
伝言が好きなの、と、相麻は言った。
幸せな言葉や
雨は
やがてバスがやってきて、相麻菫はベンチから立ち上がる。
「貴方も
少しだけ
「読みかけの小説があるんだ」
「そう。じゃあ、さようなら」
彼女は軽く手を振って、ケイに背を向け、バスに乗り込んだ。
音を立てて、バスの
相麻は本当に山に登り、夕日を見るつもりなのだろうか。
彼女のことは、よくわからない。
※
翌日、九月一日。
始業式の放課後に、浅井ケイは一人、南校舎の屋上にいた。
雨は昨日の夕暮れ前には上がっていた。今、ケイの頭上には、すっきりと晴れ
九月に入り、夏休みが終わっても、ケイにはまだ夏が終わったのだとは信じられなかった。相変わらずセミは鳴き続けているし、大気は高温に熱せられている。
ケイはフェンスにもたれかかり、空を見上げる。
青空に
小さな音を立てて、屋上の扉が開く。
そこに、一人の女の子が立っていた。
すっかり見慣れた少女。なのに、
いつものように無表情。いつものように、ガラス球めいて美しい瞳。彼女は一定のリズムを保ち、こちらに向かって歩く。それにあわせて、彼女の
「髪を、切ったんだね」
と、ケイは言った。
髪が短くなった春埼美空は、今までよりも少しだけ、活発的に見えた。
彼女は
「
「僕に?」
「以前、貴方が言ったのです。髪を、切った方がいいと」
「ああ」
確かに、言ったことがある。
でもそれは、もう二月半も前の話だ。
なぜ、いまさらなんだろう? 少しだけ
「似合っているよ、春埼」
彼女は、少しだけ首を
「ありがとうございます」
そう言って、笑った。
なんでもない風に、それが当然だというように、美しいよりも
女の子の表情一つに、こんなにも

その感覚に、ケイは思わず笑う。──なんだ、まるで、純情な少年みたいじゃないか。
「髪に
と、ケイは
春埼は、とても
ケイは右手で、彼女の髪に
「
と、春埼は言った。
「そう。何を話したの?」
「話はしませんでした」
「どうして?」
「母親と、一緒にいたから。声をかけなくても良いと思いました」
「……それはよかった」
「はい。とても」
「
「いえ。どうしてですか?」
本当に、質問の意図がわからないという風に、春埼は言う。
この少女は今も、とても
ケイは両手を春埼の頭に回し、抱き寄せた。
ふいに、
──そういう時は、何も言わずに抱き締めればいいのよ。心の底から、愛を込めて。
きっと、そういうことなのだろう、と思う。愛情に理論はいらない。
ケイの胸に顔を押し付けたまま、春埼は言った。くぐもった声。
「ルールのゼロ番目について、考えてみました」
「君のルール?」
「そうです」
春埼美空の、三つのルール。
それは、ロボット工学三原則に似ている。三分の二が
以前、三原則にはゼロ番目があるのだと話したことがあった。あの時、言ったのだ。
──考えてみてよ。もし君のルールにゼロ番目を作るなら、どんなルールにするのか。
「ゼロ番目を、見つけました」
「それは?」
「私は、
それは、ケイが求めていた言葉だ。
リセットを、その能力者を、手に入れる。元々はそこから始まった。
──三原則のゼロ番目は、本当はもっと、シンプルなんだ。多くの人のためであれば、一人の人間を傷つけても良い。そういう、論理的なものなんだ。
そう伝えようかと思ったけれど、やめる。意味のない話だ。
「貴方がいなければ、マリはきっと、悲しみ続けていたのだと思います」
「どうかな。まだ全部、
ケイは能力を使って思い出した事を忘れない。おそらくケイの能力は、一度使ってしまうと解除できないのだと思う。永遠に、効果を発揮し続ける能力。
でも、マリの母親は違う。
春埼は言う。
「一昨日、マリは笑っていました。貴方が言った通り、女の子の
「違うよ。僕が消したかったのは、君の涙だ」
ケイの胸の中で、春埼美空は首を
「それでは貴方は、二つの涙を消しました。私のルールに従っていただけでは、そんなこと、できなかった」
何もかもが、思い通りに進んだはずなのに。
なぜだろう、ケイは、泣きたくなった。このままでは、とても強い力で、彼女を抱き
まっすぐに立って、正面からケイを見て、春埼美空は言った。
「私はずっと、私の感情を、
彼女が何を言おうとしているのか、なんとなくわかった。
それがきっと、大きな
この夏、ずっと、彼女について考えていたのだから。彼女の言葉や行動を一つ一つ、決して見落とさないように注意していたのだから。
──たぶん僕は今、春埼美空の感情について、
おそらくは春埼本人よりも、ずっと。
この少女はまだ、自身の感情に
無理やりにでも口を
だけど、そうする勇気を出せないでいるうちに、彼女は言った。
「私はきっと、貴方が好きです」
それは、違う。
ケイはゆっくり、首を
「君が僕に対して、
「どうしてそう思うのですか?」
「理論じゃない。ずっと君のことを、考えていたんだ。それくらいは、わかるさ」
感情に馴れていないから、信頼と愛情を、混同してしまうんだ。自分自身すら特別だと思えなかったこの少女は、誰かを特別だと思う感情に馴れていないのだ。
ケイは、無理やりに声を押し出す。
「僕は今のままの君を、好きになってはいけないのだと思う」
「……わかりません」
「うん、そうだろうね」
ケイは春埼の
夏服のブラウスは
「
と、ケイは
「はい」
と、春埼は答えた。
ケイは彼女に顔を近づける。春埼は目を閉じなかった。下らない意地で、ケイも目を閉じなかった。
彼女の
唇を離して、ほんの近い
「
一呼吸後で、
「わからない」
あるいは独り言だったのかもしれない。ほんの小さな声だった。
でも確かにケイには、その言葉が聞こえていた。
ケイはそっと、首を振る。
「僕はまったく、嬉しくない」
ため息も出なかった。
──春埼にはまだ、恋愛はできない。
そして、きっとケイ自身にも。この少女に
二人が共にいる理由を、感情に求めるのは、まだ早い。
「僕たちは、二人でいたから、マリの涙を消すことができた。それだけでよかったんだ」
どうして不用意に、彼女を抱き締めてしまったんだろう。幼い勘違いを助長するようなことは、決してすべきではないのに。
「僕たちの能力は、二つ
僕たちは、能力だけを理由に、二人でいよう。と、ケイは言った。
ケイが何を言っているのか、おそらく彼女にはわからないのだろう。
無理やりに
「春埼。セーブはしているかな?」
彼女は
「はい。二日前の、夜
遠くの空に、小さく安定した雲が、一つだけ
今日、この屋上であったことは、あるいは幸福な出来事なのかもしれない。でもそれを受け入れることが、ケイにはできなかった。──彼女が僕を愛していないのだと証明するためだけに口づけしたことを、消し去りたいだけなのかもしれないな、と思う。
ため息をついて、ケイは告げる。
「春埼、リセットしよう」
次に春埼の
そのことが少し、
※
リセットによって再現された世界は、八月三〇日の午後八時
ケイはその夜を、
その翌日、八月三一日。夏休みの最後の日。
昼下がりには、記憶にある通り、雨が降っていた。
ケイは一人、離れにいた。ベッドに
最後の章に入る直前、そろそろ
だけど、どれだけページをめくっても、部屋の
赤い
ケイは窓の外を見る。そこには、初めて相麻に出会った時、テトラポットの上から見たのと同じように、美しい夕日があった。相麻は今、山の上から、あの夕日を見ているのだろうか?
なぜ、彼女は今日、現れなかったんだろう。
リセット前に比べ、一体何が、変化したのだろう。
わからない。なんだかとても、不安だった。リセットした後に、ケイが
相麻菫の家に電話を
そして、九月一日。

彼女は水流の増した川に落ちて、下流に流された。そして、どこかの誰かが発見して、警察と病院に
──こんなに、暑い季節なのに。
ケイがまず考えたのは、なぜだかそんなことだった。
──
まったく、ふざけている。
とても、信じられない。
相麻菫。彼女が死ぬなんて、あり得ることだとは、思えない。
相麻の死について聞いたのは、
ケイは始業式に出なかった。
南校舎の屋上に上り、
広く大きな青空は、
──相麻に起こったのも、同じようなことだろうか?
数秒か、数分か、数時間か。どれだっていい。
ともかくいくらか眠って、目を開いた時、すぐ
「よう。ケイ」
と、彼は言う。
「やあ、智樹」
と、ケイは答える。
それきりしばらく、二人とも、無言だった。
日はまだ高い。今日がまだ九月一日なら、それほど長く眠っていたわけではないのだろう。
ぽつりと、智樹は言う。
「昨日、相麻に会ったよ」
「……何時ごろ?」
「昼になる少し前。家の前に、あいつがいた」
「それで?」
「未来に、声を届けて欲しいって言われた。二年後の、あいつ自身に」
わけがわからなかった。ケイは寝転がったまま、空を見上げていた。
──きっと僕は、空に向かって落ち続けているんだ。眠っていた間も、落ち続けていたんだ。
意味もなく、そんなことを考える。最後まで落ちてしまえば、そこに
「それだけだ。お前には、言っておいた方がいい気がした」
悲しいと
ケイは
「相麻は、なんて言ったの?」
「ん?」
「二年後の自分に、どんな言葉を伝えたの?」
智樹は、
「この声が聞こえる?」
それだけだよ、と言って、屋上を後にした。
──この声が聞こえる?
意味がわからなかった。相麻
いつものことだ、とケイは思う。相麻菫の意図を、正確に理解できたことなんて、一度もないのだ。彼女は初めから、ケイにとって、理解できる場所にはいなかった。
いつだって彼女は、わけがわからなくて、こちらのことは全部知っている風で。
不敵で、気高く、気まぐれな
いつものことじゃないか。
いつものことなのに、彼女はもう、やってこない。
ケイは寝転がったまま、ずっと、空を見上げていた。
気がつけば日が暮れていた。
夕焼けに包まれた屋上に、
相麻だろうか、と、期待してもよかったのに。ケイはなぜだか、扉を開けたのが
ケイは身を起こす。でも立ち上がる気になれなくて、赤く染まる、南の空を見ていた。右手の方に夕日があり、左手の方から、
春埼美空は規則正しい足音を立てて、ケイの隣に立った。
短く切られた
ケイは座り込んだまま、春埼を見上げる。
「まだ学校にいたんだね」
今日は始業式だ。昼前には、帰れたはずなのに。
「
「僕を?」
「はい。靴箱の前で待っていたけれど、なかなか来ないので、
「どうして?」
「お願いがあります」
少しうつむいて、彼女は言った。
「リセット、と、指示を出してください」
ああ、そうか。
春埼美空は、すでにもう、リセットしてしまっていることを知らない。相麻菫の死が、リセット後の二四時間以内──彼女の能力では、絶対に消し去ることのできない時間に起きたことを、知らない。
「リセットは、できない。もう使ってしまったんだ」
「リセットしても、彼女の死を、
「……
リセットする前の世界では、相麻菫は生きていた。
春埼と
自分勝手に、不用意に、リセットを使ったから、相麻菫は死んだ。
ケイはじっと、南の空を見ていた。
夕暮れと夜の中間点を見つめていた。春埼の言葉に、答えることができないまま。
きっと、勝手に帰ってしまうだろうと思っていた。
だけど彼女は、ケイの
すぐ
「泣いて、いるのですか?」
ふいに思い出す。
初めて、テトラポットの上で出会った時、相麻菫は言った。
──泣いているの?
ケイは自身の
やはり、
──どうして泣けないのだろう。
こんなにも、悲しいのに。こんなにも、
そっと
「うん。僕は今、泣いているんだよ」
涙をこぼすこともできないけれど。
本当は、泣くべき場面なのだ。心の底から悲しむべきなのだと、ケイは思った。
ふいに、春埼美空のガラス球みたいな
それは彼女の、つるりとした白い頰を伝い、
初めは小さな
「悲しいの?」
と、ケイは
なんてつまらない質問なんだろう。わざわざ
だが、春埼美空は、首を
「悲しいのは、私ではありません」
ぼろぼろと涙がこぼれ、その
今は世界が美しくある必要なんて、何もありはしないのに。何もかもが、
「悲しいのは、貴方です。貴方が悲しんでいるから、私は泣くのです」
そう答えて、
大粒の涙をこぼし、やがて声を上げて。
少女はきっと、少年の代わりに、泣いた。
少年の隣で、泣き続けた。
夕日がゆっくりと
屋上にある小さな世界が、暗転する。
少年は、ふいに理解する。
一つの季節が、終わったことを。
夏が今、終わったのだということを、
