※


 未来を知らなければ、未来を変えることなんてできはしない。

 今夜起こることはもう、ずっと以前から確定していたことを、そうすみれは知っていた。

 それを変えられたのは、未来を知り得る相麻だけだ。だが相麻は、その未来を現実にすることに決めた。これが最も適切な手段なのだから。

 午後一〇時一五分。

 マリの母親に能力を使う計画が失敗に終わった、およそ三〇分後。相麻は一人、自宅近くのバスのていりゆうじよにいた。

 坂上を送り届けるために、バスに乗って帰ってきたのだ。だが彼を見送ったすぐ後に、家に帰ろうという気にはならなかった。

 浅井ケイ、春埼美空、なかとも。その三人はまだ、マリのマンションの近くにいる。そして相麻は、これからケイがしようとしていることを知っている。何度も何度も、見た未来だ。

 相麻の手の中には、空になったラムネびんがあった。

 捨てるタイミングがなくて、なんとなくここまで持ち帰ってしまったものだ。夜空を見上げながら、相麻は手の中でそのラムネ瓶をもてあそぶ。ビー玉がガラス瓶に触れ、からんからんと音を立てる。

 そんな音もよくひびく、静かな夜だった。

 空にはまんげつへと近づいていくはんげつが浮かんでいた。

 月の満ち欠けには、好感が持てる。しんげつから満月へ。満月から新月へ。ゼロと円のり返しは心地ここち良い。本当は、月は不変で、いつだって球形だというのがさらに良い。

 ──今頃、ケイも同じようにしているはずだ。

 マリのマンションから、一本通りを入った道端にあるベンチに腰を下ろして。ケイも相麻と同じように、空のラムネ瓶を弄びながら、月を見ているはずだ。

 相麻は腕時計をはずし、それを顔の前にかかげた。チ、チ、と秒針の進む音が聞こえる。

 ──そろそろだ。

 もうすぐケイの前に、一台の黒い車が現れる。車はケイの前でまり、扉が開き、よれたスーツを着た男が現れる。ツシマという名前の管理局員。

 ケイは中野智樹の能力を使い、ツシマを呼び出した。さかがみの問題を、取り除くために。

 相麻はじっと腕時計を見ていた。目をらすことができなかった。頭の中では何度も、ケイを通して見た未来の景色が再現されていた。時計の針が進む速度で、その未来が今、現在に置き換わる。

 ツシマはあきらめの混じった目で、じっとケイを見ている。

 片手にからのラムネ瓶を持ったケイは、ツシマに向かって言う。

 ──お願いがあります。僕たちはマリを助けたい。その許可をもらえませんか?

 相麻には彼の声が、現実に聞こえたような気がした。そんなはずもないのに。

 今、相麻に聞こえているのは、夏虫のさいな鳴き声と、秒針が進む音だけだ。見えているのは、腕時計のばんだけだ。

 だが、この夜の片隅で、あさケイは相麻の意識にあるのと同じ行動を取り、同じ言葉を口にしている。

 ──僕たちは、マリの母親が咲良田からはなれることを、します。彼女はマリへの愛を思い出し、マリは幸せなただの子供になる。その許可をください。

 ツシマは答える。

 ──可能だとは、思えません。

 二人の口調は、共に静かだ。すべての感情がいでいるように。だがその内側に、様々な感情が溶け合っている。

 記憶を保持する能力と、能力をコピーする能力。その二つを組み合わせることの効果を説明してから、ケイは言う。

 ──本当に望んでいなければ、咲良田の能力は使えない。マリが生まれた時、マリの母親は、そのことを心の底から望んだはずです。

 ツシマは答える。

 ──感情は、いくらでも変わります。

 ケイは言う。

 ──だから過去の感情を、思い出させるんです。

 ツシマは答える。

 ──思い出すことが、常に正しいとは限りません。忘れたままでいる方が幸せなことだってあります。

 さらに、ケイは言う。

 ──母親が子を愛する感情が、正しくないわけがない。

 相麻菫は、目を閉じた。

 浅井ケイは一体、どんな思いで、その言葉を口にしたのだろう。彼は何も忘れない。忘れることが、許されない。彼自身が両親を捨て去ったことを覚えたまま、その罪悪感を胸にいだいたまま、一体どんな思いで、その言葉を口にしたのだろう。

 彼のそばたかった。もう無理をしなくても良いのだと、できるなら彼をき締めたかった。

 だが現実には、相麻は一人、停留所のベンチに座っているだけだ。ケイは今、手を伸ばしても届かない場所にいる。

 はたにはたんたんと、浅井ケイは告げる。

 ──彼女はマリを愛する心を、思い出すべきなんです。

 どれだけ言葉をわしても、ツシマがうなずくことはない。今、ケイが行っている会話は、すべて坂上に聞かせるためのものだ。ケイはツシマではなく、坂上を説得している。これまでの会話は、すべてなかともの能力を通して、坂上に伝わる。

 そうすみれは、閉じていた目を開く。

 時計の文字盤が見えた。かちり、と、分針が動く。

 浅井ケイは、再び言う。

 ──お願いします。マリの母親に能力を使う許可をください。

 その言葉と同時に、彼は中野智樹にサインを送る。一時的に、能力の使用をめさせるサインだ。

 これからの数分間を、さかがみようすけが知ることはない。

 その数分間に、浅井ケイは、坂上を説得する準備を整える。

 これから彼が何をするつもりなのか、相麻菫は知っていた。相麻自身が用意したラムネびんがどういった使われ方をするのか、正確に理解していた。

 浅井ケイは、ラムネ瓶を振り上げる。

 相麻菫の手から、力が抜けた。片手に持っていたラムネ瓶が、アスファルトの上に落下する。

 小さなへんが、月光に照らされて輝きながら、飛び散るのが見えた。


    ※


 ガラスが割れる音は、みみざわりだ。静かな夜には似合わない。

 ずっと握っていたラムネの瓶を、街灯のポールに打ちつけた時、浅井ケイが考えたのはそんなことだった。

 背後で智樹が、小さな声を上げる。ケイはそちらに視線をやる。おどろいた風に目を見開いた智樹。彼のとなりで春埼美空は、平然と成りきを見守っていた。

 何もかもが、ケイの予定した通りに進行している。だがここから先の展開は、智樹にも話していない。説得するのが面倒だったのだ。

 ケイは割れたラムネ瓶に視線を落とした。

 へいたんな声で、ツシマは言う。

「そんなもので、私をおどすつもりですか?」

「ちょっと違います」

 躊躇ためらいはなかった。ケイは割れたラムネ瓶のえいな部分を、自身の手首に押し当てて、引いた。

 が真横にけ、血管が破れて、血が流れ出す。

 思ったよりも痛い。意外と深く切れたようだ。

「なにしてんだよ!」

 そのさけび声は、ほぼ同時に、二つの方向から聞こえた。ツシマと智樹。智樹はベンチからこしかせている。その隣で、はるまで驚いた風な表情を見せているのが意外だった。なんだか笑ってしまいそうになる。

 智樹を押しとどめるように、ケイはうでき出した。手首からなまぬるい血が、たらりと流れる。気持ち悪い。

 まっすぐにツシマを見て、言った。

「マリの母親に、能力を使う許可をください」

「……俺にそんな権利はない」

 彼の口調が、明確に変化した。きっと混乱しているのだろう。

 良いけいこうだ、と思いながら、ケイはまたラムネの瓶をすべらせた。先ほどよりも少し高い位置、手首とひじの中間辺りからも、血が流れ始める。

うそでもいいんです。貴方あなたが許可すると言うまで、僕はこれをやめない」

「なに考えてんだよ。死ぬぞ?」

「そうですね」

 目的の言葉を聞けるなら、別に死んでもいいのだ。春埼そらはすでにセーブを使っている。わざわざこの場面で、生き残る必要はない。

 血はとめどなく流れていた。指先が冷えてしびれる。流血は心地ここち良いと聞いたことがあったけれど、そんなものは大噓だ。どろりと垂れる血液は、ただひたすら気持ち悪い。

「お願いします。口先だけでいい。許可する、と言ってください」

 そう告げながら、ケイは腕に三本目の傷を入れた。

 ツシマのけんに、深いしわが入る。

「わかった」

 この男は、善人だ。きっとさいなヒーローで、ほんのりよくな正義の味方なのだと思う。

 どんなにちやちやでも、目の前で中学生が傷ついていたら、きちんとそれを止めようとしてくれると思っていた。

「もう一度、はっきりとお願いします」

 そう告げながら、ケイは背後で人差し指を立てる。ともへのサインだ。彼はまた、能力を使う。ケイが自身の腕を切ったことを除けば、事前に打ち合わせしていた通りに。

 なか智樹の能力は、指定した時間に言葉を届けることができるというものだ。きちんと時間を計り、先ほどまで送っていた言葉につながるタイミングで坂上に届くよう能力を使えば、まるで一連の会話のように聞かせることができる。

 ちゆうにあった展開を省略して、ただおん便びんな話し合いの末、許可が下りたように。

 ツシマは言った。

「わかった。許可する」

 ケイは笑う。口元だけをゆがめて。

「マリの母親に、能力を使ってもいいんですね」

「ああ、いいよ。だから──」

「ありがとうございます」

 ツシマの言葉をさえぎるようにそう告げながら、ケイはまた、指を立てた。智樹に能力の使用をめさせる合図。余計な言葉まで届けてしまうわけにはいかない。

 同時に、ラムネびんを手からはなす。瓶が血まみれのアスファルトにぶつかり、大きな音を立ててさらに割れる。

 ツシマは息をき出した。

「無茶苦茶だ。訳がわからない」

「色んな事情があるんです」

「俺が何を言おうと、管理局は許可を出さない」

「そんなことは、わかってますよ」

 立っているのもおつくうで、ケイはアスファルトに座り込む。頭がくらくらする。ちょっと血を流しすぎたかもしれない。

 春埼美空が、じっとこちらを見ていた。

あさケイ。どうして、こんなことをしたんですか?」

 笑って、ケイは答える。

「噓をつくためだよ。坂上さんを、上手うまだませる噓をつく方法を、ほかに思いつかなかったんだ」

 無理やりにでもこの管理局員に、許可すると言わせたかったけれど、ケイ自身をひとじちに取る方法の他には有効な手段を思いつかなかった。

 作業を終えてしまうと、傷の痛みが何倍にもふくらんだような気がした。心臓がどうするのに合わせて、すように傷口が痛む。

 智樹が何か言っていた。たぶん怒っているのだろう。そんなに大きな声を出さなくてもいいのに。

 春埼はまだ、ケイの顔を見ていた。いつもの無表情に似ているけれど、ちがう。きっと、とても複雑な感情が混じりあった表情で。

 アスファルトに座り込んだまま、ケイは彼女を見上げて微笑ほほえむ。

「春埼。リセットしてもらえるかな?」

 およそ一時間分だけ、世界の時間を、巻きもどすために。


    ※


 午後九時二五分。浅井ケイは、マリのマンションにいた。三階と四階の間のおどり場だった。マリの母親に能力を使おうとする直前。となりにははるそらと、坂上ようすけがいる。

 つい先ほど、春埼が「セーブ」とつぶやいたところだ。

 ケイはほんの五分前を思い出す。直後、みぎうでに激痛が走った。──その痛みと同時に、リセット前に起こったすべてを思い出した。

 顔をしかめて、ケイは言う。

「リセットしました」

 ほんの一時間分だけ、世界の時間が巻き戻った。

 おどろいた様子の坂上。その隣で、春埼はいつもの無表情でこちらを見ている。

 思い出した痛みを無視して、ケイは告げた。

「計画を少しへんこうします。マリの母親にせつしよくするのは、明日にしましょう」

 坂上は、ほんのわずかにあんみをかべる。それを自覚したのか、彼はあわてて真顔を装った。

「どうして?」

「この後、一〇時三〇分ごろ、僕と智樹は管理局員に会って、少し話をします。説得できそうな様子だったので、リセットしました。どうせならきちんと、管理局に許可を貰ってから行動した方がいい」

 ケイがそう告げると、さかがみははっきりと笑った。安心したのだろう。

「よかった。でも、本当にだいじようなのかい?」

「ええ。たぶん」

「僕も、行った方がいいかな?」

「いえ。僕と智樹だけで十分です。智樹に能力を使って貰えば、話の内容はみんなに聞こえますよ」

 坂上はうなずく。

 彼はリセットした後も、智樹の能力が有効だということを知らない。消え去ったはずの時間に語られた言葉を聞くなんて、想像もできないはずだ。

 一〇時三〇分頃、坂上にあの会話が届く。ちゆうが省略されて、管理局員がなおに許可をくれたように編集された会話が。

 問題点は、あの管理局員──ツシマを呼び出すために智樹が使った能力も有効だということだった。

 ツシマがベンチに現れる前に、智樹の能力でまた伝言を届けなければならない。貴方あなたがなかなか現れないので帰ります、といった風な伝言を。

 気のけた笑みを浮かべる坂上を見て、ケイは内心で首をる。

 どんな理由があろうと、人をだますやり方が、正しいとは思えなかった。

 自身のうでを傷つけて、無理やり人に噓をつかせるような方法も。

 他に思いつかなかったのだ。でも、あの管理局員は言った。──選ぶべきじゃないから、ちがったことなんだ。


  3 八月一三日(金曜日)──二度目のスタート地点


 白いてんじようが視界に入った時、ああ、これは夢だ、とあさケイは理解した。

 ──ここは今、僕がいるべき場所ではない。

 ケイは一度能力を使って思い出したおくを、決して忘れることができない。夢の中にいてもなお、自身の記憶を騙すことができない。

 ベッドに横たわっているようだった。部屋の中をわたす。なつかしい部屋。さくから遠くはなれた街にあるマンションの一室。でもハンガーには、ななさか中学校の制服がかっている。

 ケイはベッドから起き上がり、とびらを開けて、リビングに出る。

 新聞を読んでいた父親が、視線を上げて、「おはよう」と言った。

 キッチンから朝食を運んできた母親は、ぎこちなく微笑んで、「貴方を愛しているわ」と言った。

 なんて夢だ。まったく、みやくらくがない。

 ケイは両親に何かを答えようと、口を開いた。でも、声は出ない。言葉をうばい去られたように。悪いじよが、そんなのろいをケイにかけたように。ただ、息苦しかった。

 ──でも、彼らに伝えるべき言葉を僕から奪ったのは、僕自身だ。

 そう自覚した時、目が覚めた。

 し暑い空気、セミの声、夏の朝。ケイは、なか家の離れにいた。

 泣いていれば、まだ救われた。でも、涙は流れていなかった。

 そういう風にして、二回目の八月一三日は始まった。クラカワマリの母親が、咲良田を離れる予定の日だ。


    ※


 黒い車が七坂中学校の近くにある病院にとうちやくしたのは、午前一〇時三〇分頃のことだった。

 はるそらは中野ともと共に、その様子を少し離れた位置からながめていた。病院が受付を開始した時間から、マリたちが現れるのを待っていたのだ。

 マリと彼女の母親が、黒い車を降りる。

 二人はそのまま、病院に向かって歩き出した。春埼はマリの視線が、母親の手を見ているのに気づいた。手をつなぎたいのだろうか、と思う。

 中野智樹は腕時計をかくにんしながら、つぶやいた。

「一〇時三二分、マリたちが病院に到着」

 おそらくは能力を使っているのだろう。浅井ケイに向けて、声を届けるために。

 一時間ほど前のことだ。

 ──今日は、二手に分かれて行動しよう。

 と、浅井ケイは言った。

 そして彼と、そうすみれと、坂上ようすけは、駅へと向かった。その場所で、マリの母親に能力を使うために。

 春埼はじっと、病院の入り口を眺めていた。ほどなくマリの母親だけが病院を出て、また黒い車に乗り込む。

「一〇時三六分、マリの母親が病院を出発。黒い車に乗っている」

 と、中野智樹が言った。

 それから彼は、ポケットから何かを取り出した。──小さく折りたたまれた電車の時刻表だ。きっと、マリの母親が乗る電車の発車時刻について考えているのだろう。

「行きましょう」

 春埼は呟いて、歩き出す。マリに会い、彼女の言葉を聞くために。その言葉を、彼女の母親に届けるために。

 病院の中に入る。自動ドアを抜けると、右手に受付が、正面には待合室をねたロビーがある。ざっと見渡してみるが、ロビーにマリはいなかった。

 春埼はロビーにある見取り図を確認し、しようと書かれている方向へと通路を進む。通路のはばは広く、わきにはながとマガジンラックが置かれていた。

 小児科のしんりよう室は、内科のとなりにあった。長椅子に、女の子が一人こしを下ろしている。つまらなさそうにうつむいた少女。

 ──マリだ。

 そう思った時、彼女は顔を上げ、こちらを見た。

 おどろいた風な表情。それからマリは、さけぶような声を上げる。

「お姉ちゃん!」

 マリはがおで春埼にけ寄り、腰の辺りに抱きついた。春埼は、彼女の頭をでてみようかと考えた。ちょうど撫でやすい位置にあったのだ。でも、頭を撫でる時の、正しい力加減がわからない。

 マリは笑顔で顔を上げ、それから、ふいに表情をくもらせた。

「お姉ちゃん、病気?」

「いえ」

「じゃあ、どうして病院にいるの?」

貴女あなたに会いに来ました」

 彼女はわずかに、首をかしげる。

「でも、お姉ちゃん、なんだか調子が悪そうだよ」

 そんなことはない。否定しようと思ったけれど。

 後ろから、小さな声で、中野智樹がささやいた。

「あんまり悲しそうな顔をするなよ、春埼」

 そう言われて、思い当たる。

 春埼はずっと、マリのことを考え続けていた。

 この少女は母親が、咲良田を出ようとしていることを知らない。

 母親が、この少女のことを、忘れたいと願っているのを知らない。

 ──私はそのことを、悲しんでいるんだ。きっと。

 はっきりとはわからない。でも昨日からずっと、胸には僅かな痛みがある。

「どうしたの?」

 と、マリは言う。

「なんでもありません」

 と、はるは答えた。

 それからそっと、マリの頭に右手を置いてみる。春埼が知っている中で、一番やさしい力を使って。

 マリは笑った。きっと、春埼をなぐさめるために。

 しばらくの間、春埼はマリの頭に手をせて、マリは微笑ほほえんでいた。

 やがて、看護師のアナウンスが聞こえた。──クラカワマリさん、採血です。

 マリは「すぐもどってくるよ」と告げて、診療室に歩いていく。

 とびらが閉まってから、春埼は言った。それはなかともに向かって語った言葉だったが、あるいは、春埼自身に言い聞かせたかったのかもしれない。

「マリが戻ってきたら、すべて話しましょう」

 今、起ころうとしていることをすべて、彼女に伝えよう。


    ※


 午前一〇時五〇分、あさケイは、咲良田内にゆいいつある駅にいた。そう菫、さかがみ央介と共に近くにあるきつてんで待機していて、智樹かられんらくを受けてから移動したのだ。

 この駅の利用者は、それほど多くない。いつ来てみてもがらんとしている。それはつまり、咲良田の内外を行き来する人が少ないということだ。

 時刻表によれば、一一時〇七分に発車する電車がある。きっとマリの母親は、その電車に乗るつもりだろう。咲良田を通る電車の本数は少ない。

 坂上は小さな声で、相麻に何か話しかけていた。昨夜とはちがう、明るい様子だった。彼はマリの母親に対して能力を使う事を、管理局が許可したと信じている。

 そのことへの罪悪感を飲み込んで、ケイは周囲の様子を観察する。はっきりとはわからないが、こちらに注目している人はいないようだ。

 ──管理局はどんな方法で、僕が咲良田から出ることを禁止しているのだろう?

 このままきつを買えば、簡単に電車に乗ってしまえそうだ。

 そんなことを考えていると、黒い車が、駅前のターミナルにまる。

「あれかい?」

 と、坂上。

「おそらくは」

 ケイはうなずいて、そちらの様子をかくにんする。

 ひとかかえほどのバッグを持った女性が、その車を降りた。マリの母親だ。彼女は運転席に向かって頭を下げる。ドアが閉まり、車が走り出した。

 相麻がこちらに向かって、かたをすくめるような動作をしてみせる。──マリの母親に対して能力を使う事を、管理局が許可したというのはうそだと、相麻にだけは伝えていた。もしツシマが駅にとどまるなら、彼をマリの母親から引きはなして欲しいと相麻にたのんでいたのだ。だがその必要もなかったようだ。

 駅に向かって歩き出すマリの母親に、ケイたちは近づく。

 微笑んで、声をけた。

「こんにちは」

 ただそれだけで、マリの母親は、おびえたような視線をこちらに向ける。青白い顔は、以前会った時と同じくこわっている。あるいは一層、悪化しているかもしれない。かみは明るいブラウンに染められているが、その根の辺りを見ると、白髪しらがが多いことがわかる。

 みをかべたまま、ケイは続ける。

「お久しぶりです。以前、公園でお会いしたのを、覚えていますか?」

 うわった声で、彼女は答える。常に何かに怯え続けているように。

「すみません。貴方あなたは?」

「マリさんの友人です。正確には、友人の友人」

 彼女はほんの小さな、悲鳴のような声を上げる。

 確かにこの様子なら、ツシマが彼女を咲良田の外に出すことに、賛成しても仕方がないなと思う。自分の子供を愛せないというのは、それほど苦しいことなのだろうか。ケイにはよく、わからなかった。

 マリの母親はふるえた声で言った。

「何か、ようですか?」

「はい。貴女あなたがこの街を離れるのを、止めに来ました」

 彼女は目を見開く。

 ケイは続けた。

「貴女は、今回のことに、なつとくしているんですか? 本当にマリのことを、忘れてしまっていいんですか?」

 彼女は何かを言ったようだったが、上手うまく聞き取れなかった。あるいはただ、口を開いただけだったのかもしれない。

 それから、むせるようなせきばらいをして、今度は多少聞き取りやすい声を出す。

「私は、いない方がいいんです。子供を愛せない母親なんて、いても、あの子が不幸になるだけです」

「そんなことはない。マリは、貴女を愛しています」

「でも、私はマリを、傷つける。たぶんもう、たくさん傷つけているのだと思う」

「貴女がいなくなる方が、よほど彼女を傷つける」

 彼女は、さらに表情を引きつらせた。

 ケイは続ける。

だれもが、幸せになる方法があります。協力して頂けませんか?」

「……それは?」

「貴女が、マリを愛すればいい。それで、貴女も、マリも救われます」

 彼女はうなだれる。リセット前に見た、マリの姿によく似ていた。

「それは、できません」

「どうして?」

「できるならとっくに、そうしています」

 ケイにはこの女性が、悪い人物には見えなかった。マリの幸福を言い訳に使ったことはひっかかるが、その程度のずるさなら、誰だって持っている。

「彼女を能力で作り出した、ということに、それほどていこうがあるんですか?」

 そうたずねると、彼女の肩がれた。激痛にえるように。

「どうして、知っているんですか?」

 ケイはその質問に答えなかった。どうでもいいことだ。

 代わりに、言った。

はるそらという少女がいます。マリの友人です。彼女も、マリが能力によって作り出されたことを、知っています。でも今も変わらず、マリの友人です」

 彼女はしばらくの間、うなだれたままちんもくしていた。

 それからゆっくりと顔を上げて、にらむような目でこちらを見る。

「貴方には、わからない。は死んだんです。私の子供は、生まれてくることも許されなかった。私がマリと、笑っていていいはずがない」

 真理とマリ。二人の名前が混同していて、わかりにくいけれど。だいたい、彼女が何を言いたいのかは理解できた。

 マリを連れ去る時、ツシマが言った言葉を思い出す。

 ──去年、くらかわ真理の七回があった。そのころから、彼女はマリとはなれて生活することを考えていた。

 倉川真理。生まれてきた時にはもう息をしていなかった、本当のむすめ。きっと真理の存在が、彼女の苦痛の中心にある。

「起こったことが、反対だったと考えてください。出産の時、死んでしまったのが貴女で、本当の真理さんが貴女そっくりな誰かを作り出した、と。貴女そっくりな誰かを、真理さんが愛したとして、貴女は悲しみますか?」

 マリの母親は、首をる。

「そんな問題じゃ、ない」

 内心で、ケイはため息をついた。

 それはそうだ。この女性の苦しみを、面識もない中学二年生が、言葉だけで取りはらえるわけがない。

 ──それも、僕のような、両親を切り捨てた人間が。

 本当はこの女性に対して、何かを語りかける資格もないのだ。

 ケイは自分自身に言い聞かせる。──僕は春埼美空の代理として、この場所にいるのだ。親子の問題を解決するのではない。春埼の願いをかなえるため、この場にいるのだ、と。

 今までに、何度もり返してきた言い訳を、また心の中で繰り返す。

「そんな問題なんです」

 首を振って、ケイは答えた。

「マリが不幸になることで、幸せになる人なんていない」

 そんな人間、いるべきではない。


    ※


 午前一〇時五五分。

 春埼美空は、クラカワマリの頭を、やわらかくでていた。

 マリは泣いていた。だんの元気な彼女とはちがう、それは静かな泣き方だった。うつむいて、音もないなみだをこぼす。

 きっとこの少女は、いつかこの日が来ることを、知っていたのだ、と思う。だから混乱しない。ヒステリックに声を上げることもない。じゆんすいな悲しみに、音はいらない。

 頭に手を置いたまま、春埼美空は言った。

貴女あなたの母親は、きっともどってきます」

「……戻ってこないよ」

「どうして、そう思うのですか?」

「お母さんは、私のことがきらいだから」

「でも、すぐに好きになります。元々、好きだったことを、思い出します」

 笑ってみよう、と春埼は思った。

 れいに笑えなくてもいい。それは、仕方がない。人の表情というのは、本質的にいびつなものなのだと思う。感情によってゆがんだ顔が、表情だ。

 自信があることを証明するために、目の前の少女を安心させるために。──それはあさケイのように、笑ってみようと思った。

 無理やりに、くちびるりようたんを持ち上げて、はるは言う。

「浅井ケイは、ちがえない」

 なぜだろう? こんきよもないのに、信じることができた。

 彼はどうしようもなく正しいのだと、いつの間にか思い込んでいた。

 春埼自身が設定した、三つのルールに従うだけでは、決して辿たどり着けなかった未来を、今は目指している。

 以前、彼が言った言葉を思い出す。

 ──春埼。そう遠くない未来に、僕はきっと君のしんらいを勝ち取ってみせるよ。

 あの時、自分がなんと答えたのか、もう思い出せなかった。

 ともかくいつの間にか、彼の言葉は真実になっていたのだ。ぐうぜんではなく、必然として。

「彼はきっと、貴女の母親を、貴女の元に連れ戻します」

 と、春埼そらは言った。

 マリは視線を上げたけれど、まだ泣いていた。

 となりで、なかとも微笑ほほえむ。彼はとても上手に笑う。

「だいたい春埼の言う通りだが、少しだけ違う。ケイは一人だけじゃ足りないと思ったから、オレたちがここに来るよう言ったんだ。全部話せばマリが泣くことを、あいつは知っていたけど、でもそれが必要だと思ったんだ」

 中野智樹はしゃがみ込み、正面から、マリの顔を見る。

「マリ。願い事ってのは、声に出して言うものだよ。心を込めて、みんなに聞こえるように。さぁ、マリがどうしたいのか、言ってごらん」


    ※


「お願いします、さかがみさん」

 と、浅井ケイは言った。

 坂上はしんみような顔つきでうなずき、マリの母親に左手を、そしてケイに右手を置く。

「準備は、いいですか?」

「うん。いつでも、だいじよう

 ケイはうで時計をかくにんした。

 だいたい、午前一一時といったところ。ちょうどいい時間だ。

 マリの母親に、目を閉じてくださいと言おうとしたけれど、その必要はなかった。彼女はうなだれ、もうすでに目を閉じていた。小さな子供みたいに、少しだけふるえて。この女性とマリは、確かに親子なのだ、と思う。

 できるだけ優しく、ささやくように、ケイは告げる。

「貴女はこれから、マリを生み出した時のことを思い出します」

 それは、どれだけつらいことなのだろう。マリを生み出したおくというのは、つまり本物のくらかわが死んだ時の記憶だ。その二つを、切りはなすことはできない。

 本当なら、他者がかいにゆうしていい種類の問題ではない。忘れていられるなら、きっと、忘れたままがいい。

 ──でもね。僕は、ざんこくであることに、れているんだよ。

 無理やりにそう言い聞かせ、こわいろだけは優しいまま、ケイは続ける。

「貴女は本当に、さくを出るべきなのか。すべてを思い出してから、判断してください」

 彼女はただ震えているだけだ。

 ふいに、ケイは、この女性にすべて告白したくなった。

 二年前のことを。ケイ自身が両親を捨てて、この街にいるのだということを。

 でもそんなことをこの女性に告げれば、ケイ自身の罪をうすめられると考えているなら、おおちがいだ。

 ──僕は自分のことをたなに上げ、どこまでも身勝手に、この女性に能力を使う。

 まるでぜん者みたいに。春埼美空という少女を言い訳に使って、能力を使う。

 そうすることに、決めたんだ。

「始めます」

 そしてケイは、マリが生み出されたころ──七年前のことを、思い出した。

 七年前。

 まだケイが、六歳だった頃。

 両親と共にいた頃の記憶を、しようさいに思い出す。

 父の顔、母の顔、そのみ、ありとあらゆる言葉、手のひらの温度、指先の力、視線の先にあるもの。そして、そのすべてに宿った、一見複雑で、本質的には単純な感情。

 あさケイは、その二人を愛していた。心の底から、愛していた。

 マリの母親が、小さな声を上げるのがわかる。彼女もまた、彼女の記憶を思い出しているのだろう。倉川真理が死に、そして心の底から、マリの存在をいのった時の記憶を。きわめてシンプルな愛情で、マリを抱きめられていた頃の記憶を。

 ケイはそっと、自身のほおでる。

 なみだは流れていなかった。わかっていたことだ。きっと、心のどこかが、もうしてしまったのだと思う。二年前は、泣くことができたのに。今はもう、そんなことすらできない。

 仕方がなかった。ケイは笑った。ほかにどうすることもできなかったのだ。くちびるゆがめて、強がるために笑った。

 そうが歩み寄り、小声でたずねる。

「何を思い出したの?」

 記憶の中から、最も下らないことを選んで、ケイは答える。

「六歳の頃、僕はマーマレードが苦手だった。どうしてだろうね、甘い物は好きなのに」

 相麻は微笑む。

 うそつきね、と彼女が言った気がした。でもそれは、さつかくだ。彼女は何も言わず、ただ微笑んだだけだ。

 ケイは能力の使用をめる。

 ほんの数分間で、マリの母親は、様々なことを思い出したはずだ。ケイと同じように。

 彼女はアスファルトの上にうずくまり、頭をかかえていた。

 きっと、深く苦しんでいるのだろう。でもケイにできることは、もう何もない。

 ケイは腕時計を見る。もう三〇秒ほどで、この駅から電車が出る。

 ──そろそろだ。

 そう思った時、マリの母親が、声を上げた。

 初めは、小さな声だった。それは少しずつ大きなえつになり、やがて彼女は、声を上げて泣き始めた。

 相麻すみれが囁く。

「何が起こってるの?」

 ケイは答えた。

「彼女は今、僕が知る限り、最もわがままで、最も美しい能力のえいきようにある」

 なかともの能力。

 時間もきよえ、伝えたい相手に、確実に声を届ける。それだけの能力。

 きっと一人の少年が、温かい言葉を届けたいと願い、そのためだけに生まれた能力。

 彼の能力は、昨夜、とてもひどい使われ方をした。さかがみだます為だけに。本来、智樹が望んだ形ではない、みにくい方法でケイが使った。

 でも、今はちがう。世界で一番美しいもののために、彼の能力は使われている。

 泣き声に混じって、マリの母親の声が聞こえた。「ごめんなさい」と、り返し。その言葉が、どちらのまりに対して告げられたものなのか、ケイにはわからなかった。

 きっとそれは、彼女だけがわかっていればいいことだ。


    ※


 マリの声は、とてもシンプルに、母親に届く。

 ──お母さんが好きです。ずっといつしよにいたいです。

 ただそれだけを伝えるために。

 まっすぐに、母親に届く。


  4 夏の終わり


 マリの母親は、咲良田にとどまることを決めた。

 だけどマリは、結局、管理局に引き取られることになった。

 マリと、マリの母親と、管理局。三者の間でどんなやり取りがあったのか、ケイはよく知らない。たぶん色々なことになやみ、苦しみ、きようして、そういう形に落ち着いたのだと思う。

 母親は、マリの元に、完全にもどることはできなかった。

 だが娘を忘れることなく、会いたいと願えばいつでも会える距離に留まった。

 それが結末だ──そう考えて、ケイは首をる。

 マリと、彼女の母親との関係は、まだ何も終わっていない。それはケイがかんすべきではない場所で、ずっと続いていく。

 八月三一日、火曜日。夏休み最後の日。

 その昼下がり、窓の外では、雨が降っていた。

 ケイは一人、離れにいた。ベッドにころがり、本を読んでいた。

 何度も読みかけては中断しているミステリ小説だ。買ってきたのは、夏が始まる前だった。

 さすがにそろそろ読み終えてしまおう、と思っていたけれど、それは上手うまくいかなかった。ようやく最後の章に入るという辺りで、部屋のとびらがノックされた。

 んだ音で、だがはずむようなリズムで二回。

 うすぐらい雨の日にはそぐわない、軽快なノックだった。なぜだかこの本を読んでいると、何時いつだってじやが入る。ケイはぱたんと本を閉じ、ベッドから起き上がる。

 扉を開けると、そこに相麻菫が立っていた。彼女は赤いかさをさして、いつものように微笑ほほえんでいた。

「こんにちは、ケイ」

 と、彼女は言う。

「ちょっと日焼けした?」

 と、ケイはたずねる。

「どうかしら。あまり自覚はないけれど」

「海に行ったりは?」

「してないわね。でも今日は、山に登るつもり」

「山?」

「そう。高いところに登って、遠くをながめるのよ」

「でも、雨が降っているよ」

「天気予報では、夕方には降りむことになっているの。雨の後は、夕日がれいだと思うから。夏休みの最後に、それを見に行くのよ」

 そうすみれの後ろで、細かな雨がひそむような音を立てて降り続いていた。彼女は、少しだけ首をかしげた。

「今から、時間はあるかしら?」


 そしてケイと相麻は、かたを並べて、雨の中を歩いた。

 相麻の傘は赤く、ケイの傘はとうめいだった。以前コンビニで買ったビニールがさだ。

 傘は雨音を大きくする。夏の熱で蒸発した水気は空気中に満ちていた。うすく引きばされた水の底を歩いているような気分で、ケイはそっと空を見上げた。だがもちろん、そこに水面があるわけもない。水面がなければ、いきぎすることもできはしない。

「そろそろ、夏が終わるわね」

 と、相麻は言う。

「終わるのは夏休みだ。夏がいつ終わるかなんて、それぞれ勝手に決めてしまえばいい」

 と、ケイは答える。

「なら、私は今日で、夏が終わるのだと決めるわ」

「そう」

「ねぇ、ケイ。答えは出たかしら」

「答え?」

 そう尋ねながら、彼女が何の話をしているのか、ケイは理解していた。

 この夏。相麻菫が、夏だと定義した期間。

 思い返せば、ずっとそのことについて考えていたような気がする。

 相麻菫は足を止める。

 ちょうど、バスの停留所の前だった。そこにはベンチが一つと、あまけのための屋根がある。

 相麻は傘をたたんで、ベンチにこしを下ろした。

 ケイは傘をさして立ったまま、尋ねる。

「停留所に来たかったの?」

「そういうわけじゃないけれど。とりあえずれずに座っていられるなら、どこでもいいわ」

「バスがちがって停車するかもしれない」

「なら、そのバスに乗るわよ。私は山に登るの。綺麗な夕日を見るために。それまで、私に付き合ってもらえるかしら」

 ケイは時刻表を見る。次のバスがこの停留所の前を通過するのは、もう二〇分ほど先のことだった。小さなため息をついて、ケイも彼女のとなりに腰を下ろす。

「アンドロイドは、だれ?」

 と、相麻菫は言った。

 雨に濡れる時刻表を眺めながら、ケイは答える。

「アンドロイドが登場する小説を、たくさん読んだんだ。読みかけのミステリを後回しにして」

「それで?」

「なぜ君がそんな質問をしたのか、少しだけわかった気がするよ」

 たぶん、元々相麻が考えていたことを、ようやく理解できたのだと思う。

 ケイは続ける。

「アンドロイドについて考える時、僕がいつも思いえがくのは、人間のことなんだ。人間というのはなんなのか。人間から何が欠ければ、あるいは何を付け足せば、アンドロイドになるのか。そう考えるしかないんだ」

 アンドロイドについて考えるということは、人間について考えるということだ。

 この夏ケイは、人間について、考え続けていた。

 はるそらから始まり、色々な人間について。

 四月二八日。ケイと、春埼と、相麻が、初めてあの屋上に集まった日。

 相麻菫は、人間について考えるための質問を投げけたのだ。三人が顔を合わせる理由として、そんな質問を選んだのだ。

 彼女の質問に、ケイは答える。

「僕たちの中に、アンドロイドはいない。どれだけ考えてみても、やっぱりみんな、人間だった」

「それでも、仮定するのよ。私たちの中にアンドロイドがいるんだと」

「なら、みんな、アンドロイドだ。誰だって誰かのえいきようを受けて、形作られている。人間以外が作り出した人間なんて、いない」

 あらゆる思考が、理性が、てつがくが、価値観が、すべて人工的なのだとケイは思う。

 小さな声で、相麻は笑った。

「そうね。きっと、そう」

 それから彼女は、どこか遠い場所に視線をやった。たぶん向こうの雨雲よりも、もう少し遠い場所に。

「ねぇ、ケイ。どうして貴方あなたは、この街にいるの?」

「……どうして、とは?」

「どうして両親を捨てて、この街にとどまろうと思ったの?」

 なぜ、彼女がそのことを知っているのか。

 不思議と疑問には思わなかった。

 そうすみれなら、きっと、それくらいのことは知っている。知っていて当然だ。とてもなおに、そう思うことができた。

「能力に興味があったんだよ」

 決してのがれることができないほど強いこうしんを、この街の能力に対していだいてしまった。

 二年前、あさケイは、この街の能力にとらわれた。あらゆる理性よりも強固に、この街の能力について知りたいと願ってしまった。

 相麻は横目でちらりと、こちらの顔をのぞき見る。

「それは、今回、貴方がリセットを求めたのと同じ理由で?」

「うん」

「どうして貴方は咲良田の能力と、そしてリセットを求めたの?」

「便利だからだよ」

「とても信じられないわ」

「でも、本当にそれだけの理由なんだ」

 少しだけ躊躇ためらって、だがケイは続ける。

「昔、僕も春埼と同じだった。幼いころの春埼と同じように、色々な、言ってみればこの世界の構造のようなものが、とても悲しいルールで出来ているだろうと思っていた」

 当たり前にあるものが、すべて悲しいのだと春埼は言った。

 生きているものが、いつか死ぬことが。形のあるものが、いつかこわれることが。当たり前のルールが、すべて悲しい。そういう感覚を、春埼と同じように、ケイも持っていた。

「僕はずっと、あきらめていた。日常というのは悲しみをないほうしている。この世界がそういうルールで出来ているのなら仕方がない、と、受け入れるつもりだった」

 本当に、そのつもりだったのだ。とてもいやだったけれど、仕方がないことなのだと、諦めてしまうつもりだった。でも、

「でも、この街に来て、違うのだと思った」

「咲良田には、能力があったから?」

「うん。目の前で、それまで仕方がないと受け入れるつもりだったルールが、くずれたんだよ」

 咲良田の能力は、あらゆるルールをちようえつし、その効果を発揮する。

 受け入れるしかないのだと判断していた悲しみや苦痛を、あっさりと消し去ってしまえる可能性を持っている。

 相麻菫はうなずく。

「貴方は、どうしようもないのだと諦めるしかなかった悲しみを、一つ残らず消し去るために、咲良田に留まったのね。同じように、悲しみを消し去る力が欲しくて、はるのリセットを求めたのね」

「とても便利なんだ。彼女の能力は」

 失敗をもう一度やり直せた時、一体どれだけの問題を取り除けるだろう。

 過ぎ去った過去をやり直すことが可能なら、一体どれだけの悲しみを、消し去れるだろう。

「だから僕は、春埼そらを利用するんだ。僕のために彼女を利用しようと、決めたんだ」

 小さな声で、相麻は笑う。

「利用。こういう話をする時の貴方は、いつだってとてもあく的ね」

「そうだね。僕は、善人じゃない」

「春埼と同じように。貴方がじゆんすいな善だと認めた彼女と同じように、色々なものを悲しんでいるのに?」

「僕と春埼は違う。僕はね、僕が悲しいのが、嫌なんだ」

 自分自身が悲しみたくないから、悲しいことを消し去りたいんだ。自分自身を持たないまま、純粋に悲しめた春埼とは違う。

 相麻菫は、みをかべたままささやく。

「ねぇ、ケイ。貴方は、もう少し救われてもいいのだと思う」

「救われる?」

「そう。救われて、楽になる。そのための言葉をあげるわ」

 相麻菫は、視線を動かして──まっすぐにケイを見て、言った。

貴方あなたは、悪人よ。とても悪い人。両親を捨て去るなんてこと、許されるはずがない」

「……うん。そうだね」

 とてもじゆんしている。悲しみを消したくて、咲良田の能力にかれたのに。能力を知って、ケイがまずしたことは、両親を捨て去ることだった。

 言い訳のしようもなく、あの時、ケイは悪人になったのだと思う。

「貴方は、本当は鹿みたいに正しいことを、正直に語り続けたい人。とても頭がいいくせに、深い部分はだれよりも子供っぽい人。なのに貴方の理性が、貴方自身を正しい人間だと定義づけられない」

 相麻は今までよりも、ずっと静かな言葉で語る。

 それは、雨音みたいな声で。

「初めから、貴方はマリを助けたかったんでしょう? でも、貴方自身がそれを、許せなかったんでしょう? 両親を切り捨てた貴方が、子供を切り捨てようとしている母親を、断罪していいはずがないと思ったんでしょう?」

 ケイには何も答えられなかった。

 そうは続ける。

「だから、貴方は春埼を言い訳に使った。マリを救うのではない、これは春埼を利用するための手段なのだと自分に言い聞かせた。そういう言い訳が必要だった。貴方は弱くて、ずるくて、本当は善人になりたいのに、自分でそれが許せない悪人」

 その通りだ、とケイは思う。

 ──僕はとても、弱くて、ずるい。

 だから、ほら、今だって。それを認めてくれる彼女に、安らぎを感じている。

 相麻すみれは笑う。やさしく、やわらかに。

「だから貴方に、言い訳をあげる。これから貴方が正しくあるための言い訳を」

 彼女は弱い力で、目を閉じた。

「春埼は、変わりつつある。あの子はこれから、たくさんの感情を知っていく。きっと、貴方から、それを学ぶ。貴方が心地ここち良いと感じる曲を心地良いのだと信じて、貴方が美しいと感じる空を美しいのだと信じる」

 彼女のまぶたが、持ち上がる。

 その、黒いひとみに、ケイの顔が映る。

 とても情けない顔だった。弱々しい、小さな子供のような顔。少しずかしいけれど、なんだか今は、強がることもできなかった。

あさケイ。貴方は春埼美空のために、善人でいなさい。いつか貴方の本心を、本当の貴方なのだと信じられる時まで。春埼美空に正しい感情を教えるためなのだと言い訳にして、正しくあり続けなさい」

 あくまで静かに、彼女はそう言った。

 その言葉はいつぺんまぎれもなく、浅井ケイにとっての救いだった。

 きっとケイは、二年前からずっと、善人を装うための言い訳を求めていた。

「できるだけ、そうするよ」

 と、ケイは答えた。

 相麻菫は、くすりと笑う。

「なんだか貴方といると、いつも春埼の話になるわね」

 ケイも笑う。口元だけをゆがめて。

「ああ、確かに。どうしてだろうね」

「そんなの、決まってるじゃない」

 相麻の笑みの種類が、変化した。

 意地の悪い、誰にもなつかないねこみたいに。

「貴方が春埼美空を、愛しているからよ」

 ケイは軽く目を閉じて、

「なるほどね」

 と、答えた。

「あら、残念。否定するかと思ったのに」

 そう囁いて、彼女は雨の奥で笑う。

 雨音と、同じ音量で笑う。


 それからケイと相麻は、しばらくの間、話をした。

 取り留めのない話だった。未来について、過去について、夕日について、そして──

 伝言が好きなの、と、相麻は言った。

 幸せな言葉やさいな言葉を、人から人に、たくさん伝えたいのだ、と。

 雨はいまだ、降り続いていた。その日、その時の雨音は、なんだかとてもしん的だった。適切なきよかんを保ち、優しく微笑ほほえむように。心地のよい雨音だった。

 やがてバスがやってきて、相麻菫はベンチから立ち上がる。

「貴方もいつしよに、夕日を見に行く?」

 少しだけなやんだけれど、ケイは首をった。

「読みかけの小説があるんだ」

「そう。じゃあ、さようなら」

 彼女は軽く手を振って、ケイに背を向け、バスに乗り込んだ。

 音を立てて、バスのとびらは閉まり、そのまま走り去る。

 相麻は本当に山に登り、夕日を見るつもりなのだろうか。

 彼女のことは、よくわからない。


    ※


 翌日、九月一日。

 始業式の放課後に、浅井ケイは一人、南校舎の屋上にいた。

 だれに呼ばれたわけでもない。ただなんとなく、この場所に来たかったのだ。

 雨は昨日の夕暮れ前には上がっていた。今、ケイの頭上には、すっきりと晴れわたった青空がある。どこか遠い場所に、小さく安定した雲が、一つだけかんでいた。今日はあまり風がかない。

 九月に入り、夏休みが終わっても、ケイにはまだ夏が終わったのだとは信じられなかった。相変わらずセミは鳴き続けているし、大気は高温に熱せられている。みずたまりだって、すぐに消えてしまった。

 ケイはフェンスにもたれかかり、空を見上げる。

 青空にけ込むような気分で。今は何も、考えないでいるつもりだった。でも思い出したのは、昨日の、相麻菫の言葉だ。きっと彼女は、とても正しい言葉ばかりを選んで、ケイに語ったのだと思う。

 小さな音を立てて、屋上の扉が開く。

 そこに、一人の女の子が立っていた。

 はるそら

 すっかり見慣れた少女。なのに、とつには、彼女が春埼だとにんしきできなかった。

 いつものように無表情。いつものように、ガラス球めいて美しい瞳。彼女は一定のリズムを保ち、こちらに向かって歩く。それにあわせて、彼女のかみれる。だがその髪は、かたよりも少し上の辺りで、ばっさりと切られていた。

「髪を、切ったんだね」

 と、ケイは言った。

 髪が短くなった春埼美空は、今までよりも少しだけ、活発的に見えた。

 彼女はうなずく。

貴方あなたに従いました」

「僕に?」

「以前、貴方が言ったのです。髪を、切った方がいいと」

「ああ」

 確かに、言ったことがある。

 でもそれは、もう二月半も前の話だ。

 なぜ、いまさらなんだろう? 少しだけまどうけれど。言うべき言葉は一つだけだ。

「似合っているよ、春埼」

 彼女は、少しだけ首をかしげて。

「ありがとうございます」

 そう言って、笑った。

 なんでもない風に、それが当然だというように、美しいよりも可愛かわいいと思える動作で、とても自然に笑った。

 眩暈めまいがした。

 女の子の表情一つに、こんなにもどうようするのは、初めてだった。

 その感覚に、ケイは思わず笑う。──なんだ、まるで、純情な少年みたいじゃないか。

「髪にさわってもいいかな」

 と、ケイはたずねた。なんとなく触ってみたかったのだ。短くなった彼女の髪に。

 春埼は、とてもなおに頷く。そしてケイのすぐ近くに立つ。

 ケイは右手で、彼女の髪にれた。頭の上から耳のわきまで、ゆっくりとで下ろす。とても細い髪。やわらかなざわり。夏の光で、少し暖かい。猫の背中みたいだ。

一昨日おととい、マリに会いました」

 と、春埼は言った。

「そう。何を話したの?」

「話はしませんでした」

「どうして?」

「母親と、一緒にいたから。声をかけなくても良いと思いました」

「……それはよかった」

「はい。とても」

さびしくはなかった?」

「いえ。どうしてですか?」

 本当に、質問の意図がわからないという風に、春埼は言う。

 この少女は今も、とてもじゆんすいな善でいる。

 ケイは両手を春埼の頭に回し、抱き寄せた。はだざむい朝、ぼけて毛布に抱きつくように。その動作にも理由はなかった。ただなんとなく、そうしてみたかった。

 ていこうもなく、春埼の頭が、ケイの胸に収まる。二人の体温が、接点で交じり合う。なぜだろう、とても心地ここちが良かった。

 ふいに、そうすみれの言葉を思い出す。ずっと前に聞いた言葉だ。

 ──そういう時は、何も言わずに抱き締めればいいのよ。心の底から、愛を込めて。

 きっと、そういうことなのだろう、と思う。愛情に理論はいらない。

 ケイの胸に顔を押し付けたまま、春埼は言った。くぐもった声。

「ルールのゼロ番目について、考えてみました」

「君のルール?」

「そうです」

 春埼美空の、三つのルール。

 それは、ロボット工学三原則に似ている。三分の二がいつする。

 以前、三原則にはゼロ番目があるのだと話したことがあった。あの時、言ったのだ。

 ──考えてみてよ。もし君のルールにゼロ番目を作るなら、どんなルールにするのか。

「ゼロ番目を、見つけました」

「それは?」

「私は、貴方あなたに従います。貴方の行動と、言葉のすべてを、しんらいします」

 それは、ケイが求めていた言葉だ。

 リセットを、その能力者を、手に入れる。元々はそこから始まった。

 ──三原則のゼロ番目は、本当はもっと、シンプルなんだ。多くの人のためであれば、一人の人間を傷つけても良い。そういう、論理的なものなんだ。

 そう伝えようかと思ったけれど、やめる。意味のない話だ。

 はるそらは続ける。

「貴方がいなければ、マリはきっと、悲しみ続けていたのだと思います」

「どうかな。まだ全部、上手うまくいくと決まったわけじゃない」

 ケイは能力を使って思い出した事を忘れない。おそらくケイの能力は、一度使ってしまうと解除できないのだと思う。永遠に、効果を発揮し続ける能力。

 でも、マリの母親は違う。さかがみの能力の効果が切れれば、いつしよにケイの能力の効果も切れる。彼女は、マリを愛する感情を、忘れることができる。また、同じことをり返す可能性だってある。

 春埼は言う。

「一昨日、マリは笑っていました。貴方が言った通り、女の子のなみだが、一つ消えました。それは、正しいことなのだと思います」

「違うよ。僕が消したかったのは、君の涙だ」

 ケイの胸の中で、春埼美空は首をかしげて、それからうなずく。動作が一つ一つ、しんどうでケイに伝わる。

「それでは貴方は、二つの涙を消しました。私のルールに従っていただけでは、そんなこと、できなかった」

 何もかもが、思い通りに進んだはずなのに。

 なぜだろう、ケイは、泣きたくなった。このままでは、とても強い力で、彼女を抱きめてしまいそうだった。だからケイは、彼女から手をはなす。

 まっすぐに立って、正面からケイを見て、春埼美空は言った。

「私はずっと、私の感情を、さがしていました」

 彼女が何を言おうとしているのか、なんとなくわかった。

 それがきっと、大きなかんちがいだという事も。

 この夏、ずっと、彼女について考えていたのだから。彼女の言葉や行動を一つ一つ、決して見落とさないように注意していたのだから。

 ──たぶん僕は今、春埼美空の感情について、だれよりもくわしい。

 おそらくは春埼本人よりも、ずっと。

 この少女はまだ、自身の感情にれていないのだ。だから、勘違いした。

 無理やりにでも口をふさいでしまえばよかった。

 だけど、そうする勇気を出せないでいるうちに、彼女は言った。

「私はきっと、貴方が好きです」

 それは、違う。

 ケイはゆっくり、首をる。

「君が僕に対して、こうていてきな感情を持っているのは、否定しないよ。でもそれは、れんあい感情ではない」

「どうしてそう思うのですか?」

「理論じゃない。ずっと君のことを、考えていたんだ。それくらいは、わかるさ」

 感情に馴れていないから、信頼と愛情を、混同してしまうんだ。自分自身すら特別だと思えなかったこの少女は、誰かを特別だと思う感情に馴れていないのだ。

 ケイは、無理やりに声を押し出す。

「僕は今のままの君を、好きになってはいけないのだと思う」

 まどった様子で、彼女は首を傾げる。

「……わかりません」

「うん、そうだろうね」

 ケイは春埼のかたに、手をそえる。先ほど、彼女のかみれた時よりも、ずっと深刻な躊躇ためらいを振りはらって。

 夏服のブラウスはうすく、つるりとしていて、すぐ下にはやわらかなはだがあった。手のひらには彼女の体温と、の内側にある骨の形を感じていた。

ためしてみてもいいかな?」

 と、ケイはたずねた。

「はい」

 と、春埼は答えた。

 ケイは彼女に顔を近づける。春埼は目を閉じなかった。下らない意地で、ケイも目を閉じなかった。

 彼女のくちびるぬるく、そしてなんの味もしなかった。

 唇を離して、ほんの近いきよで、ケイは尋ねる。

うれしい?」

 一呼吸後で、いんが十分に薄らいでから、彼女は小さな声で言った。

「わからない」

 あるいは独り言だったのかもしれない。ほんの小さな声だった。

 でも確かにケイには、その言葉が聞こえていた。

 ケイはそっと、首を振る。

「僕はまったく、嬉しくない」

 ため息も出なかった。

 ──春埼にはまだ、恋愛はできない。

 そして、きっとケイ自身にも。この少女にいだいている感情は、恋愛に似ていて、だが根本的な部分が違う。

 二人が共にいる理由を、感情に求めるのは、まだ早い。

「僕たちは、二人でいたから、マリの涙を消すことができた。それだけでよかったんだ」

 どうして不用意に、彼女を抱き締めてしまったんだろう。幼い勘違いを助長するようなことは、決してすべきではないのに。

「僕たちの能力は、二つそろえば、涙を消せる。今はまだ、それだけでいいんだ。君と僕の能力が揃えば、たいていの困難を乗りえられるはずだから。いつしよにいなければ何もできないから、それだけを理由に、僕たちは二人でいることにしよう」

 僕たちは、能力だけを理由に、二人でいよう。と、ケイは言った。

 はるはじっと、こちらを見ていた。

 ケイが何を言っているのか、おそらく彼女にはわからないのだろう。

 無理やりに微笑ほほえんで、ケイは尋ねる。

「春埼。セーブはしているかな?」

 彼女はうなずく。

「はい。二日前の、夜ねむる前に」

 遠くの空に、小さく安定した雲が、一つだけかんでいた。

 今日、この屋上であったことは、あるいは幸福な出来事なのかもしれない。でもそれを受け入れることが、ケイにはできなかった。──彼女が僕を愛していないのだと証明するためだけに口づけしたことを、消し去りたいだけなのかもしれないな、と思う。

 ため息をついて、ケイは告げる。

「春埼、リセットしよう」

 次に春埼のがおを見た時、今日みたいになおどうようすることは、もうできないだろう。

 そのことが少し、さびしかった。


    ※


 リセットによって再現された世界は、八月三〇日の午後八時ごろだった。

 ケイはその夜を、おくにあるのとまったく同じように過ごした。同じだけの言葉を話し、同じ時間にシャワーを浴びて、同じ時間に眠った。

 その翌日、八月三一日。夏休みの最後の日。

 昼下がりには、記憶にある通り、雨が降っていた。

 ケイは一人、離れにいた。ベッドにころがり、本を読む。リセット前と同じ本を。

 最後の章に入る直前、そろそろそうすみれがやってくるころだ、とケイは思う。

 だけど、どれだけページをめくっても、部屋のとびらはノックされなかった。

 赤いかさを持った相麻が現れないまま、ケイは小説を読み終わり、雨が上がって、夕暮れになった。

 ケイは窓の外を見る。そこには、初めて相麻に出会った時、テトラポットの上から見たのと同じように、美しい夕日があった。相麻は今、山の上から、あの夕日を見ているのだろうか?

 なぜ、彼女は今日、現れなかったんだろう。

 リセット前に比べ、一体何が、変化したのだろう。

 わからない。なんだかとても、不安だった。リセットした後に、ケイがかんしないところで出来事が変わったのは初めてだ。

 相麻菫の家に電話をけてみるけれど、だれも出ない。不安感をぬぐい去れないまま、ケイは眠りについた。

 そして、九月一日。

 あさケイは、相麻菫が死んだことを知った。

 そうすみれは雨の中、山に登り、足をすべらせたのだという。

 もくげきしやはいなかったから、おそらくそういうことだろう、という話だった。

 彼女は水流の増した川に落ちて、下流に流された。そして、どこかの誰かが発見して、警察と病院にれんらくした。救急車がとうちやくした時にはもう、冷たくなっていた。

 ──こんなに、暑い季節なのに。

 ケイがまず考えたのは、なぜだかそんなことだった。

 ──あまつぶまでぬるくなっているような時期なのに、冷たくなっていたって、なんだよ。

 まったく、ふざけている。

 とても、信じられない。

 相麻菫。彼女が死ぬなんて、あり得ることだとは、思えない。

 相麻の死について聞いたのは、ななさか中学校に登校してすぐのことだった。

 ケイは始業式に出なかった。

 南校舎の屋上に上り、ころがって、空を見上げていた。

 広く大きな青空は、みような吸引力を持っている。視界すべてが空におおわれると、そちらに向かって落ちていくような気がした。

 ──相麻に起こったのも、同じようなことだろうか?

 かわいた声を上げて、ケイは笑う。どうしても泣こうという気になれなかった。一通り笑って、笑っているのも鹿らしくなり、気がつけばねむっていた。今は何も、考えたくなかった。

 数秒か、数分か、数時間か。どれだっていい。

 ともかくいくらか眠って、目を開いた時、すぐとなりなかともがいた。

「よう。ケイ」

 と、彼は言う。

「やあ、智樹」

 と、ケイは答える。

 それきりしばらく、二人とも、無言だった。

 日はまだ高い。今日がまだ九月一日なら、それほど長く眠っていたわけではないのだろう。

 ぽつりと、智樹は言う。

「昨日、相麻に会ったよ」

「……何時ごろ?」

「昼になる少し前。家の前に、あいつがいた」

「それで?」

「未来に、声を届けて欲しいって言われた。二年後の、あいつ自身に」

 わけがわからなかった。ケイは寝転がったまま、空を見上げていた。

 ──きっと僕は、空に向かって落ち続けているんだ。眠っていた間も、落ち続けていたんだ。

 意味もなく、そんなことを考える。最後まで落ちてしまえば、そこにそうがいる。

「それだけだ。お前には、言っておいた方がいい気がした」

 悲しいとつぶやくことも、なぐさめの言葉もなく、中野智樹は背を向ける。

 ケイはたずねた。

「相麻は、なんて言ったの?」

「ん?」

「二年後の自分に、どんな言葉を伝えたの?」

 智樹は、いきらして、

「この声が聞こえる?」

 それだけだよ、と言って、屋上を後にした。

 ──この声が聞こえる?

 意味がわからなかった。相麻すみれの、意図がわからない。

 いつものことだ、とケイは思う。相麻菫の意図を、正確に理解できたことなんて、一度もないのだ。彼女は初めから、ケイにとって、理解できる場所にはいなかった。

 いつだって彼女は、わけがわからなくて、こちらのことは全部知っている風で。

 不敵で、気高く、気まぐれなねこみたいに、ふいに姿を見せて、当然のようにそばにいて、勝手にいなくなるんだ。

 いつものことじゃないか。

 いつものことなのに、彼女はもう、やってこない。

 ケイは寝転がったまま、ずっと、空を見上げていた。


 気がつけば日が暮れていた。

 夕焼けに包まれた屋上に、とびらが開く、小さな音が聞こえた。

 相麻だろうか、と、期待してもよかったのに。ケイはなぜだか、扉を開けたのがはるそらだと、確信していた。

 ケイは身を起こす。でも立ち上がる気になれなくて、赤く染まる、南の空を見ていた。右手の方に夕日があり、左手の方から、のうこん色の夜がやってくる。

 春埼美空は規則正しい足音を立てて、ケイの隣に立った。

 短く切られたかみ。もう、おどろかない。

 ケイは座り込んだまま、春埼を見上げる。

「まだ学校にいたんだね」

 今日は始業式だ。昼前には、帰れたはずなのに。

貴方あなたを待っていました」

「僕を?」

「はい。靴箱の前で待っていたけれど、なかなか来ないので、さがしに来ました」

「どうして?」

「お願いがあります」

 少しうつむいて、彼女は言った。

「リセット、と、指示を出してください」

 ああ、そうか。

 春埼美空は、すでにもう、リセットしてしまっていることを知らない。相麻菫の死が、リセット後の二四時間以内──彼女の能力では、絶対に消し去ることのできない時間に起きたことを、知らない。

「リセットは、できない。もう使ってしまったんだ」

「リセットしても、彼女の死を、かいできなかったのですか?」

「……ちがうよ」

 リセットする前の世界では、相麻菫は生きていた。

 春埼とわした会話や口づけを消し去るため、ケイがリセットを使うよう指示を出したから、彼女は死んだ。

 自分勝手に、不用意に、リセットを使ったから、相麻菫は死んだ。

 ケイはじっと、南の空を見ていた。

 夕暮れと夜の中間点を見つめていた。春埼の言葉に、答えることができないまま。

 だまっていれば、春埼美空は、屋上から出て行くだろうと思った。

 きっと、勝手に帰ってしまうだろうと思っていた。

 だけど彼女は、ケイのとなりに、こしを下ろした。

 すぐひだりどなりに座って、彼女は言った。

「泣いて、いるのですか?」

 ふいに思い出す。

 初めて、テトラポットの上で出会った時、相麻菫は言った。

 ──泣いているの?

 ケイは自身のほおれる。

 やはり、なみだは流れていなかった。

 ──どうして泣けないのだろう。

 こんなにも、悲しいのに。こんなにも、くやしいのに。さけび出したいくらいにやるせないのに、どうして、泣くことができないのだろう。

 そっとうなずいて、ケイは答えた。

「うん。僕は今、泣いているんだよ」

 涙をこぼすこともできないけれど。

 本当は、泣くべき場面なのだ。心の底から悲しむべきなのだと、ケイは思った。

 ふいに、春埼美空のガラス球みたいなひとみから、涙がこぼれ落ちる。

 それは彼女の、つるりとした白い頰を伝い、あごにたどりついて、ぽたりと落ちる。

 初めは小さなひとつぶの涙だった。二粒目は、もう少し大きかった。やがてとめどなく、彼女の瞳から、涙が流れ始めた。

「悲しいの?」

 と、ケイはたずねる。

 なんてつまらない質問なんだろう。わざわざかくにんするようなことではない。今はどうしようもなく、思考がにぶい。

 だが、春埼美空は、首をった。

「悲しいのは、私ではありません」

 ぼろぼろと涙がこぼれ、そのしずくが、夕日に照らされてかがやく。

 今は世界が美しくある必要なんて、何もありはしないのに。何もかもが、うすよごれていていいはずなのに。でもその涙は、美しかった。

 そうすみれが死んだのに、それでも涙は、美しかった。

「悲しいのは、貴方です。貴方が悲しんでいるから、私は泣くのです」

 そう答えて、はるそらは泣いた。

 大粒の涙をこぼし、やがて声を上げて。

 少女はきっと、少年の代わりに、泣いた。

 少年の隣で、泣き続けた。

 夕日がゆっくりとしずむ。

 屋上にある小さな世界が、暗転する。

 少年は、ふいに理解する。

 一つの季節が、終わったことを。

 夏が今、終わったのだということを、あさケイは理解する。