1 八月一三日(金曜日)──スタート地点


 日が暮れかかっていた。

 デスクの前にある窓からは、赤い光がし込んでいた。はだみ込むような、夕暮れの光。

 午後六時四五分。あさケイと、はるそらと、クラカワマリは、なか家のはなれにいた。

 春埼とマリは部屋のすみに並び、共にうつむいていた。

 ケイはたずねる。

「マリ。昨日のことを、教えてくれるかな?」

 彼女は何も答えなかった。わずかに頭を動かすだけで、顔を上げることもなかった。となりの春埼も、同じ動作をする。まるで姉妹みたいだ、とケイは思う。外見もきようぐうも、二人はまったくちがうのに。

「君がお母さんに会うために、必要なことだ」

 そう告げると、彼女はようやく、ちらりと視線をケイに向けた。

「昨日の、こと?」

「そう。昨日、君が何をしていたのか。君のお母さんは、何をしていたのか。そういうことを教えて欲しい」

 マリが答えるまでには、少し時間がかった。

 それはつかれきった人が、再び動き出すかくを決めるまでの時間だ。本当なら、小学二年生がそういった種類の疲れ方をするべきではないのだ。もし疲れ果ててしまったなら、すぐにねむってしまうべきなのだ。何もかも忘れて。

 だが今は、マリの状態をこうりよしているゆうはない。きっとほどなく、じようきようが変わる。

 ゆっくりとした口調で、マリは答えた。

「昨日は、ずっと家にいたよ。お母さんは、いなかった」

「お母さんは、出かけていたんだね?」

 マリはうなずく。

「朝に出て行って。私、一人で待ってたの。夜になっても、帰ってこなかった」

「それじゃあ、今朝は?」

「……いた。いつしよに、病院に行ったの」

「君が眠っている間に、帰ってきたんだね?」

「うん」

「君は、何時に眠ったの?」

 マリは首をった。覚えていない、ということだろう。

「病院には、バスに乗って行ったの?」

 彼女はもう一度、首を振って答える。

「車に乗ったよ。ツシマさんの車」

「ツシマさん、というのは?」

 マリは答えなかった。

 代わりに春埼が、口を開く。

「保護者の、代理のようなものだと言っていました」

「そう。ありがとう」

 ケイが質問をめると、マリはまたうつむいた。春埼の手をにぎっているのが見える。

 マリに何か言葉をかけようか、とケイは考える。必ず母親に再会できると約束すれば、彼女は少し救われるだろう。だが、それを口にするべきなのは、ケイではない。春埼でなければならない。

 ──マリは、春埼が救わなければならないんだ。

 それは、ケイの身勝手な感情だ。だがケイは、それ以上、マリに声をかけなかった。並んで座っている春埼とマリを、ぼんやりとながめていた。

 ノックもなくとびらが開き、中野ともが入ってくる。彼にはマリの家に電話をかけるようにたのんでいた。

「どうだった?」

 と、ケイは尋ねる。

 智樹はおさえた声で答えた。

「だめだ。だれも出ない」

 予想できたことだ。マリの母親は、きっともうさくにはいない。

 智樹は、春埼に視線を向けて、言った。

「お前は一度、家にもどった方がいい。マリちゃんのことはオレたちに任せて」

 春埼は答えない。代わりになぜだか、こちらを見た。

 ケイは首を振って答える。

「いや。ここにいるべきだよ。これから何が起こるのか、君は見届けた方がいい」

 小さく頷く春埼を見て、智樹は息をき出した。

「これから起こることって、なんだよ?」

「すぐにわかるさ。そう時間がかかるとも思えない」

「だから、何が起こるんだ?」

「さぁね」

 答えると、めんどうなことになる。今はまだ、事の成りきに任せておいた方がいい。

 智樹は頭をいて、また扉に向かう。

「何か食えるもん探してくるよ。みんな、晩飯まだだろ」

 彼が部屋を出る。ばたん、と音を立てて扉が閉まる。

 その音のいんが消えてから、はるは言った。

あさケイ。貴方あなたはどれだけ、事態を理解しているのですか?」

「だいたい全部、わかっているよ」

「それなら、教えてください。私はどうすればいいのですか?」

「もうしばらくはここにいろ。それから先は、君がしたいようにすればいい」

 春埼そらが、何を願うのか。

 これから現れる設問に、どんな答えを返すのか。

 それがすべてなのだ。ケイにとって重要なのは、それだけだ。

「ねぇ、春埼。君はよく、ルールという言葉を使うね」

「はい」

「教えてくれないかな。そのルールを」

「必要なことですか?」

「いや。でも今はほかに、することもない」

 春埼美空は頷く。

「ルールのうち、大きなものは三つです。私は基本的に、この三つにそって物事を判断しています」

「うん。一つ目は?」

「周囲のかんきように強いあくえいきようあたえる可能性があることがらを、私は否定します」

「人にはめいわくけない、ということだね?」

「はい」

「じゃあ、二つ目は?」

「一つ目に反しない限り、私は提案された事柄をこうていします」

「人の指示に従う、ということだ」

「はい」

「では、最後だ。三つ目は?」

「泣いている人を見つけた時、私はリセットを使います」

 思わず、笑い出しそうになる。

 一体、なんだ、この少女は。その思考は、あまりにてつていしている。シンプルで、論理的で、やさしい。

 ケイはたずねた。

「春埼。ロボット工学三原則というのを、知っているかな?」

「……いえ」

「アイザック・アシモフというSF作家が作った。フィクション作品に登場するアンドロイドに、よく組み込まれているルールだよ」

「それが?」

「君のルールに、とてもよく似ている」

 ケイはロボット工学三原則について語った。

 一つ目は、人間に危害を加えてはならない。

 二つ目は、人間の指示に従わなければならない。

 三つ目は、自身を防衛しなければならない。

「番号が小さいものほど、優先度が高い。一つ目と二つ目は、君のルールとまったく同じだ」

 興味もなさそうに、春埼はうなずく。

 ケイは続けた。

「でも、三つ目が違う。それがらしい」

「……どういう意味ですか?」

「君が人間だという意味だよ」

 三原則に従うアンドロイドは、人を傷つけず、人の指示に従い、自己を守る。そこに能動性はない。ただ、人に迷惑をかけないだけだ。

 でも春埼美空は違う。最後の一つで、能動的に行動する。自分の意思で、人のなみだを消し去ろうとする。

 ──なんて美しいんだろう。

 と、ケイは思う。

 この少女の思考は、美しい。あまりに美しく、あまりにもろい。

「よく、わかりません」

 と、春埼は言った。

「うん。わからなくていいんだ」

 人に教えられるようなことじゃない。春埼美空は、自身で定義したルールの三番目に込められている美しい感情に、自分自身で気づくべきなのだと思う。

 心の底から微笑ほほえんで、ケイは言う。

「ところでね、アンドロイドたちの三原則には、ゼロ番目があるんだ。最初はなかったけれど、必要になって、後からできた。それがなんだかわかるかな?」

「……いえ。わかりません」

「考えてみてよ。もし君のルールにゼロ番目を作るなら、どんなルールにするのか」

 ゼロ番目。

 最も番号が小さく、最も優先されるべきルール。

 はるは小さく、頷いて。

 その直後、部屋のとびらがノックされた。なかとものものではない、ケイが初めて聞くリズムのノックだった。


 扉の前には、手足の長い男が立っていた。

 二十代の半ばだろうか。かみはぼさぼさで、しようひげが生えている。黒いスーツはよれていて、げんというものがなかった。

 夕日でびたかげの中で、彼は言った。

「管理局の者です。クラカワマリを引き取りに来ました」

 今までにケイが顔を合わせた管理局員とは、ずいぶん様子が違う。ほかの管理局員は皆、しわ一つないスーツを着て、一様に無個性だった。

 ケイは視線を室内に向ける。春埼そらの表情を、かくにんするために。

 彼女の表情に、大きな変化はなかった。ただつぶやいただけだ。「ツシマさん」と。

 この男が、ツシマなのだろう。マリの保護者代理を名乗り、今朝マリたちを車に乗せ、病院まで送っていった男。

 ツシマはマリに視線を向けた。

「さあ、いつしよに帰ろう」

 それは予想外に、やわらかな声だった。やさしく、人間味のある、だがどこかにあきらめの混じった声。

 マリは春埼の後ろにかくれる。

「帰るって、どこにですか?」

 と、ケイはたずねる。

「あの子がいるべき場所に、です」

「そこにマリの母親はいますか?」

 ツシマはそっと首をる。

「彼女はもう、もどってきません。管理局にマリを引きわたし、この街を出ました」

「マリの存在を忘れるために、ですか?」

「……ええ」

 予想していたことだった。

 さくを出れば、能力に関する知識を忘れる。

 能力で生み出した、マリのことを忘れることができる。

 マリの母親は、それを望んだのだ。能力によって生み出された子の母親ではなく、七年前に死産を経験した、ただの女性に戻りたいと願った。

 春埼はまっすぐにツシマを見て、口を開いた。

「事情を説明してください」

 ツシマは首を振る。

「もう全部、決まったことです」

 それから、ほんの小さな声で、「マリの前でしていい話ではありません」と付け足した。

 ああ、この人は優しいんだな、とケイは思う。優しく、善良だ。

 ケイは言った。

「話してください。マリだってもう、事情は知っています」

 子供というのは、大人の知られたくない感情を知っているものだ。知っていて、本能的に知らないふりができる。

 ツシマはケイに視線を向ける。にらむような目だったが、悪意は感じない。どこかさみしげに観察する目。

 彼はケイにだけ聞こえる小さな声で、ぼそりと言った。

「ただ知っているのと、言葉で聞くのはまったく違います」

 そうかもしれない。

「でも、マリは当事者です。彼女にきちんと説明しないのは、おかしい」

「ええ。おかしい。でもちがっていることを、選ぶべき場合だってあります」

 ケイはため息をついた。この男と口論しても仕方がない。

「では、部屋を出て話しましょう。春埼には、きちんと事情を説明してください」

「その必要はありません」

「ありますよ。今後の、春埼とマリの関係にえいきようが出る。春埼はマリの友人だ。貴方あなたはマリから、友人までうばうんですか?」

 自身の言葉に、いやが差す。ひどい言い方だ。だがこの男には効果的な言葉だろう。

 ツシマはざっと室内を見回し、窓で視線を止めたが、結局はうなずく。

「わかりました」

 と、諦めたように、彼は言った。

 ケイは春埼に声をかける。

「行こう」

「どこにですか?」

「すぐ、扉の前だよ。この部屋から出よう」

 春埼はマリの手を引いて、立ち上がる。

 ケイは首を振った。

「春埼。君一人だけだ」

 彼女はしばらく、こちらを見ていた。

 だが結局は、マリの手をはなした。


 もう日は暮れていた。

 太陽がしずみ、だが完全なやみに落ちていない時間。大気そのものがのうこん色に染まったような世界で、一日のいんみたいに、まだセミが鳴いていた。

 離れを出て、扉を閉めてから、ツシマは口を開く。

「何を話せばいいのですか?」

「今回の出来事に関する事情を、全部」

「話せないこともあります」

「マリが能力によって作られた存在だということは、知っていますよ」

 くらかわは、死産だった。

 それを悲しんだ真理の母親は、能力を得て、マリを作った。

 ツシマは軽く、首を振る。

「そう。だがある時から、マリを自分の子だと信じることができなくなりました」

「ある時、というのは?」

「マリの父親は、初めからマリを受け入れられませんでした。彼は三年間まんして、結局は逃げ出した。そのころからです」

 彼は視線を下げて、ぼやくように言う。

「一つ一つを見れば、理解できないことではありません。子供が死んだ時、母親が子供を取り返す能力を手に入れたとして、それを責められますか?」

 ケイは首をる。

「いえ」

 頷いて、ツシマは続けた。

「能力で生まれてきた子供を、自分の子として愛し続けることができなくなったとして、それを責められますか?」

 答えることには、躊躇ためらいがあった。

 愛し続けるべきなのだ、とケイは思う。だが、結局、首を振る。

「……いえ」

 あさケイは、本物の両親すら、愛し続けることができなかった。ただ泣くだけで、切り捨てることができた。だれかを責めることなんて、できはしない。

 ツシマは息をき出して、つかれた風に言う。

「それだけのことです。去年、倉川真理が死んで、六年経ちました。七回が終わった頃から、彼女はマリと離れて生活することを考えていました。それでも一年間、我慢して、疲れ果てて、彼女は今日、さくを離れた」

 彼の語る言葉の一つ一つが、ため息のように聞こえた。

 常に何かをあきらめ続けながら、語っているような声だった。

なつとくできませんね。母親は、きっとマリを愛そうとしていたはずです」

 愛せなくても、愛そうと努力したはずだ。

 ケイは続ける。

「例えばマリのつめかみも、ちゃんと手入れされています。それに着ている服も良い」

 子供服としては高級なブランド名を、ケイは口にする。

 どうしても愛せないむすめに、高級な服を買いあたえる母親。

 ──おそらく彼女は、何かの形で、まだマリを愛していると証明したかったんだろう。

 それは努力というには、あまりに安直な方法なのかもしれない。あるいはつまらない言い訳なのかもしれない。もちろん本物の愛情である可能性だって、ないわけじゃない。

 なんであれそこには、葛藤のあとがある。切りそろえられた爪も、手入れされた髪も、同じように。一人の女性が、自身の娘を愛したいと葛藤したこんせきのように思う。

 ツシマは静かな声で告げる。

「彼女の顔を見たら、おどろくよ。じつねんれいより一〇歳は老け込んで見える。白髪しらがしわが多い。それに、爪をくせが直らなくなった。なのにくちぐせみたいに、自分が悪いんだと言い続けていた。子供を愛せない自分が。くつじゃないんだ。どうしようもないことだ」

 いつの間にか彼の口調から、敬語がけ落ちていた。

 きっとこの男も、疲れ果てているのだろう。

 ケイは口元にみをかべて、言った。

貴方あなたは、きようですね」

「卑怯?」

「管理局側の視点を話していない。マリの母親に、咲良田をはなれるよう提案したのは、管理局じゃないんですか?」

 確信はなかった。だが、管理局は、マリを手に入れようとしたはずだ。

「その通りです」

 吐き捨てるように、その管理局員は答える。

「能力で作られた人間を、見過ごせるわけがない。命を作り出す能力なんてものは、とくされなければなりません。そんなもの、問題しか生まない」

 確かにこの会話は、マリの前ではできない。

 あの小さな女の子は、きっとそのことを、きちんと理解しているけれど。

 それでも問題しか生まない能力で生まれてきたなんて、大人が彼女の前で、口に出していい言葉じゃない。

「マリは、人間なんですか?」

 と、ケイはたずねる。ひどい言葉だ。けんかんまみれた言葉だ。

「少なくとも検査した限りでは、人間と見分けがつきません」

「管理局としては、幸運なことですね」

「ええ」

「彼女を、どうするつもりです?」

「普通の子供として育てます。マリ自身にも、自分が普通の子供だと信じ込ませる。事情を知っている人間は、少なければ少ないほどいい。そう考えた時、彼女の母親がじやだった。だから咲良田から、出て行くよう提案しました」

 ケイは意図的に、ツシマがいらつよう質問したつもりだった。

 だが彼は最後まで、抑えた口調で答えた。部屋の中のマリにはいりよしたのだろう。万が一にも、この会話が聞こえてしまわないように。やはりこの人は善人だ、とケイは思う。

 笑みを浮かべたままで、ケイは言う。

「つまり、管理局はより多くの人の幸福を優先したわけだ。問題となりそうな能力を秘匿し、母親からマリのおくうばって、小さな女の子一人だけをせいにする方法を選んだ」

「はい。それが、管理局です」

「貴方は管理局の判断が、正しいと思いますか?」

「子供が泣くようなことが、正しいわけがない」

「でも、ちがっていることでも、選ばなければならないんですね?」

 その管理局員は笑った。

 はっ、と声を上げ、投げ捨てるように答えた。

「そんなわけがない。選ぶべきじゃないから、間違ったことなんだよ」

 初めて彼の返答が、ケイの予想から外れた。

じゆんしている。貴方は、何がしたいんです?」

「なんにもしたくないよ。こんなめんどう事、かかわり合いたくもない」

「でも、貴方は関わっている」

「したくないことをするのが、仕事なんだよ」

 ケイはため息をつく。きっとこの男も、様々なことに納得がいっていないのだ。それがわかっただけで十分だった。

「話は終わりです。マリを連れて行く」

 ツシマはとびらに手をばす。

 ケイはそのうでつかんだ。

「それを選ぶのは、貴方じゃない」

 そう告げて、視線をはるそらに向けて、言った。

「君が選べ、春埼。マリをこの人に──管理局に引きわたすのか」

 彼女が、自身のルールをえて、感情を見つけることができるのか。ケイにとってこの出来事は、それがすべてだった。

 春埼は長い間、無言だった。

 ツシマは腕を摑まれたまま、だまって成りきを見守っていた。ケイの力はそれほど強くない。ごういんはらうこともできただろうが。

 春埼美空は、しぼり出すような声で、言った。

あさケイ。手を、放してください」

「それで、いいんだね?」

「はい。マリは、管理局に引き取られるべきだと、私は判断します」

 浅井ケイはため息をついて、ツシマの腕を放した。

 ──でも春埼には、だれも救えない。

 と、耳の奥で、そうすみれが言った。


    ※


 ツシマに手を引かれて立ち上がったマリは、だが泣いてはいなかった。

 春埼美空は扉の外から、じっとその様子をながめていた。となりを通り過ぎる時、マリは春埼の方に手を伸ばそうとしたようだった。だがその手の動きは、春埼のワンピースを摑む前に止まった。

 不意に、胸が痛くなる。セミの死について悲しんでいた、五歳のころのように。胸の痛みを感じたたん、何も見えなくなった。得体のしれないやみの中に、春埼美空はいた。

 より多くの人が、幸福になるせんたくを選ぶべきなのだ。周囲にあくえいきようあたえる選択肢は、選ぶべきではないのだ。そして管理局は、より多くの人を守るために行動する。

 春埼自身が設定したルールが、そう言っていた。それに従って判断した。

 なのに、なぜだろう。胸が痛い。悲しみなんて感じるはずがないのに。とても、とても、胸が痛い。

 ──反対ならよかった。

 と、春埼は思う。

 ──マリが、普通の子供で。アンドロイドのような私が、人工的に作られた存在ならよかった。

 きっとそれが、正常な形なのだ。

 春埼美空は、母親に愛されることを望まない。何かを望むことがない。

 ──私がマリなら、よかった。

 そうであれば、誰かが悲しむこともなかった。

 だけど、マリはマリで、春埼は春埼だった。

 きっと、どこかの誰かが間違えたのだ。間違えて、配置してしまったのだ。

 何も見えない、得体の知れない闇の中で、春埼はそう考える。

 ふいに、声が聞こえた。

「まだ間に合うよ」

 しばらくしてから、それが浅井ケイの声だとわかった。

「春埼美空。今、君の前には、二つの選択肢がある」

 相麻菫の話を思い出す。

 まったく同じ形をした、二つの白い箱。どちらを選んでも、何も変わらない。春埼美空にとって、それは共に、無価値なものだ。

 でも片方を選ばなければならないから、春埼美空はルールを作った。

 浅井ケイは続ける。

「一方を選べば、何も変わらない。すべてこのままだ。でももう一方を選べば、あるいはマリを助けられるかもしれない」

 彼の言葉は、静かでやさしかった。

 ちがいに優しい声のまま、彼は言った。

「マリを救うのか、このまますべて受け入れるのか。君には本当に、二つの選択肢が、同じ形に見えているの? 本当に、同じ色に見えているの?」

 せんたく。色。形。──同じ?

 春埼美空は、目を開く。開いてから、先ほどまで自分が、目を閉じていたのだと気づいた。

 得体の知れない闇なんて、ありはしないのだ。ただ、目を閉じていただけなのだ。

 まず視界に入ったのは、浅井ケイの顔だった。

 彼はとても誠実で、切実な表情をかべ、こちらを見つめていた。

「答えろ、春埼美空。君は本当に、この選択に対して、無関心でいられるのか?」

 春埼もまっすぐに、ケイの顔を見返す。

「そんなわけが、ありません」

「なら、選ぶんだ。君が君の感情で、選ぶんだ。ぐうぜんではなく必然として、明確な意思を持って、一方を選ぶんだ」

 春埼美空は答えた。

「私はマリを、助けたい」

 彼は笑う。優しいみではなかった。口元だけをゆがめて、不敵に。不可能などないのだという風に。

「君が望むなら、そうしよう」

「可能なのですか?」

「僕と君の能力があれば、たいていの困難は乗りえられる。今日のおくを忘れないまま、より幸福な結末を目指し、僕たちはやり直すことができる」

 あさケイは、落ち着いた声で。

 平然と、世界に対して宣言するように。

はる。リセットだ」

 と、言った。


  2 八月一二日(木曜日)──前日


 八月一二日、木曜日。

 その日がおとずれるのが二回目だということに、春埼そらはまだ、気づいていなかった。

 午後二時を少し回った頃、自宅の電話が鳴った。

 電話の相手はそうすみれだった。

 彼女は言った。

「学校の屋上に来てくれないかしら。ケイが呼んでいるの」

「わかりました」

 断る理由もありはしない。

「それじゃ、屋上で会いましょう」

 と、そう言って、相麻菫は電話をきった。

 春埼は制服にえて、家を出る。

 八月の、一番暑い時期。夏がピークを迎え、これから終わりへと向かう時期。だんの歩調で歩くだけでも、額にはあせにじんだ。

 ちゆう、公園をのぞいてみたけれど、マリはいない。まだ彼女が現れる時間ではないから、当然だ。足を止めることもなく、春埼は学校に向かった。

 夏休みに入ってから、春埼はずっと、感情をさがし続けていた。

 だからこの街には、いくつもの感情があふれていることに気づいていた。

 自転車に乗って走っていく小学生たちの笑い声。はずむようなリズムで歩くかざった女性の歩調。かげで汗をぬぐうサラリーマンのいき

 そのすべてに、きっと、複雑な感情が混じっているのだ。春埼には理解できない感情が。

 春埼は同年代の少女とすれ違う。

 その少女は小さな声で、鼻歌をささやいていた。

 鼻歌。──それも、理解できないこうだ。自然に歌い出すような機能など、自分にはないのだろう、と春埼は思う。

 ふんふんと言ってみるが歌には聞こえない。なんのリズムのつもりなのか、春埼自身にもわからなかった。

 校門をくぐり、ななさか中学校に入る。

 この学校にも、無数の感情がある。グラウンドでは、サッカー部員が声を上げている。プールの方からは、何かかんせいが聞こえた。校舎に入っても、すいそうがく部の部員たちが、なんらかの感情を持ってメロディーをかなでている。

 なのに春埼には、それがわからない。

 さいな世界を、春埼美空だけがモノクロの視点を持って歩いているのだと思った。

 足音を階段にひびかせて、まっすぐに南校舎の屋上を目指して進む。

 階段の、一番上にある扉の前に立った。灰色の、四角い扉。ほかの人たちにはこれが、別の色、別の形に見えているのだろうか。こんなところにも、感情はあるのだろうか。

 わからないまま、扉を開ける。

 風が吹いていた。夏の光はえいとがり、その場所を照らしていた。空は青く、雲は白い。でも春埼には、本当にそれを認識できているのか、確信が持てなかった。感情を持っていれば、空も雲も、まったく別物に見える可能性だってある。

 屋上には、相麻菫と、さかがみようすけと、なかともと、そして浅井ケイがいた。

 春埼は、浅井ケイの前に、まっすぐに歩み寄る。

 彼は言った。

はる。君は、感情を思い出さなければならない」

「……はい」

「だから、始めよう」

 あさケイは坂上央介を見て、「お願いします」と、言った。

 坂上央介はこちらに歩み寄り、春埼と浅井ケイのかたに手を置く。

「目を閉じて」

 もう何度もり返し、慣れてしまったじようきよう。浅井ケイの能力で、春埼が何かを思い出すための手順。

 彼が何を思い出させようとしているのか、わからなかった。だが、きよする理由はない。指示に従い、春埼は目を閉じる。

「いくよ」

 と、声が聞こえた。その直後。

 春埼そらは、明日の──八月一三日のおくを、取りもどした。

 マリ。能力によって生み出された少女。母親の消失。黒いスーツの管理局員。春埼自身の判断。浅井ケイの言葉。そしてリセット。

 何もかも、何もかも、すべて、思い出した。

 胸が、痛かった。その痛みが、はっきりとわかった。

 ──ああ、私は今、悲しんでいる。

 明日知るはずの悲しみを、今日思い出している。

 目を開く。屋上の世界。空は青く、雲は白い。

 感情を手に入れれば、それらはもっと、せんめいに見えるのだと思っていた。

 だが、ちがう。先ほどまでよりも、ずっとぼやけている。

 春埼美空は自身のひとみに、少しだけなみだがたまっていることに、気づかなかった。ただ、感情は視界をゆがめるのだということだけを理解した。

 浅井ケイは、笑って、

「僕たちは、女の子の涙を消しに行こう。そんなもの、この世界から消し去ってしまおう」

 そう言った。


    ※


 浅井ケイは春埼美空の瞳にたまった涙を見て、言った。

「僕たちは、女の子の涙を消しに行こう。そんなもの、この世界から消し去ってしまおう」

 なんてぜんに満ち溢れた台詞せりふだろう。

 以前、そうすみれは言った。

 ──貴方あなたにまるで、善人のような行動をさせてあげる。

 そして、本物のくらかわが死産だったことを告げた。

 あの時から、すべてが予定されていたような気分になる。相麻菫だって、この出来事を理解していたはずもないのに。

「それで一体、どうするつもりなんだ?」

 と、中野智樹は言った。

 彼と相麻、坂上にはもう事情を話している。明日の朝、ある女性がさくを出ること。それにより、一人の少女が深く傷つくこと。そこには管理局と、子供を作り出す能力が関係していること。

 ケイは答える。

「問題点は明確だ。母親が、自分のむすめを愛し続けることができなくなった。なら彼女の愛情を取り戻せばいい」

 次に口を開いたのは春埼だった。

「どうやって、ですか?」

「感情を取り戻す。それを今、君は体験したはずだよ。同じ事を、マリの母親にもすればいい」

 もっと言うなら、ケイ自身が能力を手に入れた時、経験したことだ。ケイが両親への愛情を思い出したように、マリの母親も、マリへの愛情を思い出せばいい。

「それで、問題は解決しますか?」

「わからない。でも、やってみる価値はある。だめなら別の方法を考えるさ」

 正直なところ、母親がマリへの愛情を思い出してなおこの街をはなれたいというのなら、それを受け入れるしかないだろうと思っていた。そうなるともう、マリの問題ですらない。すべてはマリの母親が判断すべき問題になる。

 さかがみに視線をやって、ケイは答えた。

「協力してもらえますか?」

 彼はいつものみをかべていた。いかにも善人のような、気が弱そうに見える笑みを。

「……もちろん。小さな子供が悲しむのは、よくないことだと思う」

 なんだかたよりない様子だけれど、坂上の能力は必要だ。

 彼のとなりで、相麻菫が言う。

「一つ、わからないことがあるんだけど」

「何かな?」

「どうしてなかくんがいるの?」

「おいおい、委員長。なんかその言い方、ひどくね?」

 ともがぼやく。委員長、と呼ばれる相麻は、なんだかしんせんだ。

 ため息をついて、ケイは答える。

「いいかい、相麻。智樹は意外と便利だ。いないよりはいた方がましな程度には」

「それは知ってるわよ。めんどう事も女の子がたのむと必ず引き受けてくれるし、そうも案外真面目まじめにやるし。クラスに一人はいて欲しい人ではあるけれど」

「ならいいじゃないか」

「学園祭でもやるのなら、もちろんいた方がいいわよ。でも今回の話は、そういう性質のものじゃないわ」

 まぁ、確かに。管理局が、マリの母親を咲良田から追い出したがっているのだ。不用意に協力者を増やしていいじようきようではないけれど。

「なんかお前ら、さらっとひどい話をしてねぇか?」

 顔をしかめる智樹に、ケイはたずねる。

「なにが?」

「いや、オレのあつかいについて」

「どこがさ? むしろじように絶賛してるよ」

「それこそどこがだよ?」

「いないよりはいた方がいいなんて僕が言う相手、そうそういない」

「……おお、確かにな」

 なつとくされてしまった。じようだんのつもりだったのに。

 相麻菫は、意地の悪そうな笑みを浮かべて言う。

「仲が良いのね、貴方たち」

「ま、それなりにね」

 ケイにとって、このメンバーの役割は明確だった。

 坂上ようすけは、その能力が必要だ。

 相麻菫は、坂上をせいぎよするのに効果的だ。相麻がいなければ、坂上の協力を得られないかもしれない。

 はるそらはマリになつかれているし、そもそも今回の事は、春埼が中心にいなければ意味がない。ケイはあくまで、春埼の協力者だ。

 そして、中野智樹。彼の役割は、いってみれば、ケイにとっての保険だった。

 あらゆるじようきようで、智樹だけは、決してケイを裏切らないと断言できる。

 予想外の事態が起こった時、無条件で自分の側につく人間というのは、きわめて大きな意味を持つ。いないよりは、いた方がいい。

 ──ま、智樹の能力が有用だってのもあるけどね。

 内心でそう付け足して、ケイは話をもどす。

「このままだと、マリの母親は明日、さくを出る。つまり僕たちは、それまでに問題を解決しなければならない」

 智樹が軽く首をかしげる。

「能力を使うだけだろ? そう難しいことじゃない」

「マリの母親は、家にはいないよ。今日は夜おそくまで外出している」

「どうしてわかるんだ?」

「春埼がリセットする前に、マリにかくにんした」

 少なくともマリがねむるまで、母親は帰ってこない。そして翌朝は、ツシマに送られて病院に行く。きっとマリの体調を、より正確には彼女がどこまで人間と同じなのかを調べている病院だろう。

「ともかく、マリの母親にせつしよくできるタイミングは限られている。今夜遅くに帰宅する時が、一番のねらい目だと思う。明日、病院までの移動中は管理局員に送られるから、ちょっと難しいね」

 坂上が、不安げに顔をしかめて言う。

「つまり、夜通し張り込むつもりなのかな?」

「マリの母親が帰ってくるまでは。とりあえず、一度解散しましょうか。家の人には適当に、帰りが遅くなる言い訳をしておいてください」

 今すぐできることは、特にない。


    ※


 それぞれが屋上をはなれようとした時、そうすみれは、あさケイを呼び止めた。

 目的の未来にとうたつするために、必要な手順ではない。ただ彼と話をしたかったのだ。

 ──浅井ケイとの会話が好きだ。

 と、相麻菫は思う。

 ──未来の彼を、ながめているのが好きだ。

 相麻菫は、未来を知る能力を持っている。その能力は、会話によって発動する。

 会話をわしている間、相手の未来をのぞき見ることができる。

「なんの用かな?」

 と、彼は言う。いつも通りの、落ち着いた口調。でもほどちかい未来で、彼は少しだけまどった表情をかべる。相麻菫は、そのことを知っていた。それがとても楽しみだった。

 相麻は、こつん、こつんと足音を立てて、ケイに歩み寄る。

「一つ、聞きたいことがあるんだけど」

「へぇ。なんだろう」

 彼のすぐ目の前で立ち止まり、耳元でささやくように、相麻は言った。

「春埼美空を、どうしたいの?」

「どう、とは?」

貴方あなたは、自分自身を認識しない春埼美空に興味を持った。言ってみれば彼女の人格こそが、理想的な善なのだと考えた」

「……否定はしないよ」

 保身も、も、自己満足もなく、他者から愛されることすら望まない、ひたすらにじゆんすいで、形も持たないような。自分が善だということすら無自覚な、純粋な善。

 まるで意味を持たないいのりのような、一人の少女。

 ──それが、彼の理想だ。

 あまりにてつていしていて、病的にさえ見える。浅井ケイという少年が定義する、最も美しい存在だ。

「なのに今、貴方は、彼女に感情を植えつけようとしている。そのことだけを目的に、行動しているように見える」

「そうだね」

「貴方はじゆんしている。貴方が最も美しいと思うものを、貴方自身が、こわそうとしている」

「そうかもしれない」

「どうして? 貴方がその矛盾に、気づいていないとは思えない」

 その答えを、相麻菫は知っていた。

 知っていて、たずねた。言葉にしてみたかったのだ。

 浅井ケイは笑う。口元だけをゆがめて。

「なんとなくだよ。ただの気まぐれだ」

 相麻菫も笑う。できるだけやわらかく、やさしく。

うそつきね」

「おや。信じてもらえないのかな?」

「信じているわよ。貴方のことは、心の底から」

 さらに一歩、相麻はケイに近づく。

 とても近い位置で、彼のひとみを覗き込んで、言った。

「貴方ははるが、純粋ながいねんみたいな善でいるよりも、つうに泣いて、笑うことができる、ただの女の子になることを望んだのね。貴方の理想よりも、彼女の幸せを優先したのね」

 首をって、ケイは答える。

「彼女がただの女の子になった方が、都合がいいだけだよ。リセットという能力を手に入れるのにね」

「貴方は、とても噓つき」

 本当は、彼女の幸せを望んでいるだけなのに。この少年は、悪ぶって答えてしまう。

 あさケイが春埼そられいだと感じたように、そうすみれにとって、浅井ケイはどこまでも綺麗だった。

 春埼美空のように、純粋ではない。だがこんとんを知りながら、それでも純粋な願いを忘れられない彼が、最も美しいのだと相麻は思う。

 浅井ケイは、完全な善ではない。だが悪意を知りながら、それでも善を愛し続けられる彼が、最も強い善なのだと相麻は思う。

 だれもを救いたいと願う彼こそが、本当に救われるべきなのだと思う。

 ──未来視なんて能力、なければよかった。

 こんなものがなければ、浅井ケイに、特別な感情をいだかずにすんだ。

 初めてテトラポットの上で会話した時、彼の未来を見ていなければ。

 彼がどれだけ強固な優しさを持っているのかを知らなければ、ただ少し変わった少年だと思い込むだけでよかったのに。

 浅井ケイはこれから先も、誰かを救いたいと願い続ける。成長し、老いて、死んでしまうまでずっと。苦しみつかれ果てながら、それでも美しい彼であり続けることができる。無力な善ではない、ざんこくなくらいに徹底して、誰かを救おうと行動し続ける。

 未来を知る能力は、そのことを相麻菫に見せつけた。

 浅井ケイの未来を見た時、相麻菫は、彼を特別なのだとにんしきせざるを得なかった。

 ──まったく、こんなの反則だ。

 未来のすべてに好意を持ってしまった相手に、無関心でいることなんて、できはしない。

 全身から力をいて、相麻菫は、浅井ケイにもたれかかる。

 まどった表情を浮かべて、彼は、相麻の体を受け止める。

だいじよう? どこか、悪いの?」

 めずらしくあわてた様子の、彼の声。普段よりも少し幼く聞こえて、なんだか可愛かわいい。

「どうかしらね。もしかしたら、大丈夫ではないかもしれない」

 たまに、彼を抱きめたくなる。とてもシンプルに、自分の力で、この少年をしばり付けたいと思う。

 相麻はケイの背中に手を回し、声には出さずに囁く。

 ──ねぇ、ケイ。知っているかしら。私がその気になれば、貴方あなたを綺麗に、だましてみせることだってできるのよ。

 未来を知る能力があれば、浅井ケイが気に入る言葉だけを語って過ごすことだってできる。答えをぬすみ見ながら問題集を解くように、彼が理想とする女の子を演じてみせられる。

 ──でもね、ケイ。それでも貴方は、春埼美空が好きなの。

 こんな、不意打ちみたいな方法でしか、抱き合うことはできないのだ。

 やはりどれだけがんってみても、春埼美空の友人にはなれない。

 欲しいのに手に入らないものを、簡単にうばっていく彼女を、受け入れられるはずがない。

 相麻菫は、浅井ケイの背中に回したうでに、もう少しだけ力を込めた。


    ※


 その光景を、春埼美空はながめていた。

 浅井ケイに聞きたいことがあって、屋上にもどってきたのだ。

 明日、八月一三日のおくを思い出して、彼とわした会話が気になった。

 春埼美空のルールに、ゼロ番目を設定するとしたなら、その内容はなんなのか。そのことについて、彼ともう少し話をしたいと思ったのだ。

 ──私は今、私が設定したルールに反した行動を取っている。

 ルールに従い、マリを管理局に引きわたしたはずだったのに、それがちがいだったと感じている。

 ルールに修正が必要だ。へんこうか、追加か。そう考えて、彼が語った、ゼロ番目のルールが気になった。

 だから屋上に戻ってきた。屋上では、浅井ケイと、相麻菫が抱き合っていた。

 声をけるべきだろうか? だがルールのゼロ番目に関する話は、それほど急を要するものではない。

 ──ゼロ番目は、もう少し一人で考えてみよう。

 そう決めて、はるきびすを返し、階段を下った。


 ゼロ番目のルールについて考えてみても、何も思いつかなかった。

 午後五時二五分、春埼そらは待ち合わせ場所の停留所にとうちやくした。

 ほかの四人は、もうすでにそろっていた。

 クラカワマリの自宅は、ななさか中学校からは少しはなれている。春埼たちはバスに乗って、さくを北西の方向へと進む。

 午後六時には、マリが住むマンションの前に到着した。

 背の低いマンションの三階、右端がマリの部屋だ。

 春埼美空となかともは、その窓とマンションの入り口が見える道路にいた。

「変に姿をかくそうとするよりは、ただ中学生が立ち話をしているように見せた方があやしまれずに済むと思う」

 と、浅井ケイは言った。

 彼と、相麻菫、さかがみようすけは、どこかに行ってしまった。あまり大勢でいない方がいいだろうというのも、浅井ケイの意見だった。

 春埼はマリの母親の顔を知っているし、れんらくも中野智樹がいれば問題ない。

 彼の能力は、離れた相手に声を届けるというものだ。

 正確には彼が聞いている音をそのまま、時間を指定して目的の相手に届けることができる、という能力らしい。相手の顔を知らなければ音を届けられないが、一方通行でいい連絡には最適だと浅井ケイは語った。マリの母親が戻ってくれば、すぐに連絡できる。

 午後六時三〇分。辺りが暗くなってきたころに、マリの部屋に明かりがついた。あの明かりが消えるまでは、おそらくマリの母親は戻ってこない。リセット前、マリが言っていたのだ。母親はマリが起きている間は戻ってこなかったと。

「歌い出したい気分だな」

 と、中野智樹は言う。

 春埼は視線を、彼の方に向ける。

「何か話した方がいいよ。無言でっ立ってる男女ってのは、たぶん怪しく見えると思う」

 そう言われて、春埼は考える。別に、話したいこともなかったけれど。

「歌い出したい、とは、どういう意味ですか?」

 中野智樹は笑った。とても幼い子供みたいながおだ、と思う。まるで笑った時の、マリみたいな。

「そのまんまだよ。夏休みの夕暮れに、女の子と二人きり。しかも小さな子供のために、母親の愛を取り戻そうって夢みたいな計画のちゆうだ。この辺りで、テーマソングを流した方がいい。ちょっとロマンチックにアレンジしたやつを」

 彼が何を言っているのか、理解できなかった。

きんしんだと思うか? でも、それくらい大げさな方がいいんだよ。必要なのは、いつだって笑顔とテーマソングだ。きっとケイも賛成する」

「よくわかりません」

 はは、と中野智樹は笑う。

「ともかくオレは、うれしいんだ。正直お前は学校でも、むすっとしててなに考えてるんだかわかんなかったけどさ。今日、い奴だってわかった」

「良い奴、ですか?」

「ああ。ケイに似てるな。わかりにくいけど、鹿みたいに良い奴だよ」

 あさケイ。彼のことが、一番わからない。

「彼は、善人ですか?」

「もちろん。オレが知ってる中じゃ、一番だ」

 ああ。やはり、そうだったのか。そんな予感はしていたけれど。

 春埼はうなずく。

「理解しました」

「ん? 何が?」

「ずっと疑っていたのです。彼はもしかしたら、善人なのかもしれない、と」

 中野智樹は、楽しそうに笑っていた。

 本当に、歌い出しそうなくらいに。

「そう。あいつの良さは、疑ってみないとわからないんだ。ひねくれてるからな。羊の皮をかぶった羊みたいなもんだよ」

「羊の皮?」

「あいつは一見、無害な善人に見える。でもよく見ると、そういう皮を被ってるだけだってわかる。そこでだいたい、みんななつとくしちまうんだ。ああ、こいつは善人のふりをしてる、悪い奴なんだって」

「でも、中身も羊なんですか?」

「そう。本当に近くで見ると、わかるんだよ。あいつが善人ぶってる善人だって。でもたいていは、悪人だとかんちがいしちまう。羊の背中にジッパーがついてたら、中身はおおかみだって思うだろ?」

 彼の言いたいことは、なんとなくわかった。

 だが春埼は、首を振る。

「羊の背中にジッパーがあれば、その中身は人間です」

 明らかに、人工的な着ぐるみだと思う。

 声を立てて、なかともは笑う。

「ともかくあいつは、そういう風に捻くれた善人なんだよ。もうちょっと、なおになればいいのに。あんなに良い奴なのに、どこにも心がないように見える。ややこしいやり方で、悪人ぶってるんだ」

「それが、私に似ているのですか?」

「ん。考えてみると、それほど似てねぇな。──ああ、でも、さっきの答えは、いかにもケイが言いそうだ」

「さっきの答え、とは?」

「羊の背中にジッパーがあれば、その中身は人間だ」

 そうかもしれない。でも、どうでもいいことだ。

 はるはまた、視線をマリの部屋に向ける。

 マリが今、一人きりでいる部屋。

「そんなにおびえた顔するなよ」

 と、中野智樹は言った。

 それがだれのことを言っているのか、春埼にはわからなかった。春埼自身のことを指しているだなんて、考えもしなかった。

「いい事を教えてやる。浅井ケイは、ちがえないんだ」

「……間違えない?」

「そう。あいつが助けようと思って、助けられない奴なんていないんだよ」

「本当ですか?」

 中野智樹は、かたをすくめて見せる。それだけで、何も答えなかった。

 もしかしたら、中野智樹はうそをついたのかもしれない。おそらくは、こちらを安心させるために。でも、

 ──浅井ケイは、間違えない。

 その言葉はなんだかみように、耳の奥に残った。


    ※


 もうすぐ、午後八時になるというころだった。

 浅井ケイとさかがみようすけは、れいそうされた通りのわきにあるベンチにこしを下ろしていた。マリのマンションから、道路を一本入った通りだ。

 すぐベンチのとなりに街灯が、その下にどうはんばいがある。自動販売機の周りで、小さな羽虫が飛んでいる。

 そうすみれは、何か飲み物を買ってくると言って、ふらりと姿を消してしまった。すぐそばに自動販売機があるのに。彼女が何を考えているのか、いつだってよくわからない。

 夏の夜はし暑い。空気が全体的に、湿しめり気を帯びている。あせがなかなか、かわいてくれなかった。

 坂上が気まずそうに、ちらちらと横目でこちらを見ていることには気づいていた。あまり親しくない相手と、無言でいることにえられない種類の人間なのだろう。

 ケイは口を開いた。

「坂上さんは、どうして生徒会長になったんですか?」

 別に、興味もないことだが。時間つぶしの雑談に、意味を求めても仕方がない。

 坂上はしばらく口ごもってから、答えた。

ほかに、誰もいなかったんだ」

「それはつまり、立候補者が、ということですか?」

 ななさか中学校の生徒会長は、学生全体から立候補者をつのり、その中から投票で決める。だが昨年度、立候補したのは坂上一人だけだったから、自動的に彼が選ばれた。

 坂上はうなずく。

「うん。たいてい、生徒会にいる誰かが立候補するんだけど。誰もなりたがらなかったから、僕が。似合わないでしょう?」

 少しだけ考えて、ケイは答える。

「生徒会長に似合う人というのは、どんな人なんでしょうね」

「それは、例えば、相麻さんとか」

「選挙があった時、相麻はまだ一年生でしたよ」

「うん。だから、僕が立候補したんだけど。でもやっぱり、彼女の方が生徒会長に向いてると思うな。僕は人前で話すのが苦手だし」

 確かに相麻なら、きんちようして声がふるえるなんてことはないだろうけれど。

「ちょっと失敗するくらい、別にいいじゃないですか。誰も生徒会長にふうどうどうとした演説なんて求めてませんよ」

「ま、そうなんだろうけどね」

「それに貴方あなたの話は、きらいじゃない」

「……どうして?」

「短いから」

 はは、と小さな声を上げて、坂上は笑う。

「たぶん僕なんかいなくても、誰も困らないんだろうね」

「困りますよ。貴方がいないと、マリの母親がこの街からいなくなってしまう」

「必要なのは、僕じゃない。僕の能力だ。同じ能力を、他の誰かが持っていたら、それでいいんだと思う」

「でも今の所、他者の能力をコピーするなんてことは貴方にしかできないから、貴方が必要です」

 坂上は息をき出した。コンピュータがはいねつ処理をするみたいに。

あさくん。君は、こわくないの?」

「怖いというのは?」

「マリちゃんの母親がこの街の外に出ることは、管理局が決めたんでしょう?」

「少なくとも管理局は、彼女を追い出したがっているでしょうね」

「そんなことに反対して、本当にだいじようなのかな」

 ケイは内心でため息をつく。

「大丈夫、の定義はなんですか?」

「……定義?」

「貴方は一体、何がどうなれば、大丈夫だと判断するんですか?」

「それは──」

 しばらく待ってみたけれど、坂上は何も答えなかった。

 仕方なく、ケイは続ける。

「この程度のことで、命をねらわれたりはしません。をする可能性もゼロに近い。ちょっと怒られるくらいのものです。それがいやなら、何か方法を考えますよ」

 力任せにおどしつけたことにするか、上手うまうそだましたことにするか。さかがみ一人くらいなら、がいしや側に送り込むことはそう難しくないように思う。

 坂上は首をる。

「そういうことじゃないんだ。そんな具体的な話じゃなくて、もっと根本的に、ルールをおかすのは、怖くない?」

「まったく。ルールというのは、りんを補強するためにあるものだと思います」

 悪いことを悪いと定義するのが、ルールなのだと思う。

 ケイは続ける。

「でも今回、管理局の決定をルールだとするなら、倫理をみ外しているのはルールの方だ。そんなものを守る必要はありません」

 本心ではなかった。

 ルールというのは、守られるべきものだ。破っていいルールなんてない。もしルールがちがっているなら、まずは正しい方法で、ルールそのものを変えるべきだ。

 でも今は、そんなに回りくどいことをしている時間はない。

 坂上は、もう一度首を振る。

「君は、とても強いね。でも僕は、どうしようもなく弱いんだよ」

「弱い?」

「色んなことが、怖いんだ。怖いのが嫌だから、ルールを踏み外したくないんだ。いつも安心していたいんだよ」

「気持ちはわかります」

「わからないよ、君には。本当に弱い人間は、どこまでも弱い」

 坂上は、引きつった表情で笑った。泣いているようにも見える。

「浅井くん。たぶん君は、正しいんだと思う。良い事をしようとしてるんだと思う。でも僕は、君や、はるさんも怖いんだ」

 ──僕にとっては、そうすみれの方が、よほど怖い。

 そう答えようかと思ったけれど、やめておいた。

 坂上が何を怖がっていようが、関係のないことだ。

 それからは、しばらく二人、無言でベンチに座っていた。

 やがて相麻がもどってきた。

 彼女は右手にビニールぶくろげていた。その中から、青色のびんを差し出す。

「飲む?」

 それは、ガラス瓶に入ったラムネだった。

「そんなの、どこで買ってきたのさ?」

「近くのスーパーにあったのよ。バスで前を通った時、見つけたの」

 ずいぶん目がいいものだ。

「それで、わざわざ?」

「夏の夜は、ラムネでしょ?」

 断る理由もない。ケイと坂上は、そのラムネを受け取る。──街灯の、光の加減だろうか。なぜだか瓶を受け取る時、相麻が少しだけ悲しげな表情をかべた気がした。

 ほかにどうしようもなく、三人は並んで、ラムネを飲んだ。中に入ったビー玉が、からりと音を立てる。

 相麻は空を見上げて、つぶやいた。

「花火でも上がればいいのに」

 やはり相麻は、わけがわからない。


    ※


 相麻菫は空を見上げて、呟いた。

「花火でも上がればいいのに」

 それは、本心だ。なんだか今は、れいなものを見たい気分だった。

 となりでケイが、ラムネの瓶をかたむける。

 相麻が買ってきたラムネ。その瓶が、今後どういった使われ方をするのか、相麻は知っていた。知っていて買ってきたのだ。

 相麻菫は内心で呟く。言い訳にもならない言葉を。

 ──ケイが傷つくことなんて、少しも望んでいないのに。

 でもこれが、最も適切な手段なのだ。他のあらゆる方法よりも、あのラムネ瓶が物事をスムーズに進める。

 思わず顔をしかめそうになって、相麻はだん通りの表情を浮かべるよう努める。あさケイに不信感をあたえてはならない。予定されたルートを、踏み外すことは問題しか生まない。

 ラムネを飲み終わった坂上が、ベンチから立ち上がる。

「ごちそうさま。美味おいしかったよ」

 彼は空き瓶を捨てるため、通りの先のゴミ箱に向かって歩き出す。すぐ近くのどうはんばいわきにもゴミ箱はあったけれど、そこには空きかん専用と書かれていたのだ。瓶は空き缶にふくまれない。

 坂上が席を外した、わずかな間に、ケイが小さな声で呟いた。

「相麻。坂上さんに、問題はない?」

「問題、というのは?」

「わからないよ。僕は、彼のことをよく知らない。知らない人間と行動するのは、いつだって不安だ」

 そうはケイの横顔を見つめる。

「あら。私や春埼のことは、よく知っているの?」

 彼はにらみつけるように、視線をこちらに向ける。

真面目まじめに答えろ。相麻すみれ

 相麻菫は、思わず笑う。

 こんな時なのに。

貴方あなたが私の、下の名前を呼んだのは、初めてね」

 そんなことが、みよううれしかった。

 ケイは少しだけ顔をしかめる。

「今は、坂上さんの話をしているんだよ」

「そうね」

 これから何が起こるのか、相麻菫は知っている。

「でも今は、上手うまく行くと信じるしかないでしょう?」

 そう答えて、相麻は、今度は意図して笑った。


    ※


 なかともかられんらくがあったのは、午後九時になる少し前だった。

 黒い車が、マンションの前にまった。車の中に、マリの母親がいる。

「移動しよう。来た」

 ケイはベンチから立ち上がる。その後ろに、相麻と坂上も続いた。

 はるたちが待機している場所には、一分もからずに辿たどり着く。曲がり角に身をひそめ、マンションの方をかくにんしていた智樹が、こちらに視線をやって言う。

「降りてこない」

 簡潔に、ケイは答える。

「部屋の明かりが消えていないからだよ」

 マリの部屋からは、まだ明かりがれていた。きっと、マリの母親は、自分の子供と顔を合わせるのをけている。

 ケイはマンションの前に停まった黒い車に、視線を向ける。車内の明かりがついているため、はっきりと確認できた。助手席にマリの母親。そして運転席に、よれたスーツを着た男がいる。見覚えがあった。

「少しめんどうだね。彼は、管理局員だ」

 ツシマという名前の管理局員。

「どうするんだ?」

 と、智樹は言う。

 少し考えて、ケイは答えた。

「僕と、春埼と、坂上さんは、マンションの中まで移動しましょう。智樹と相麻は、ほんの少しでいいから、車にいる二人の気を引いて欲しい」

 春埼はマリの母親と面識があるため、できればあまり見られたくなかったのだ。

 智樹は相麻に視線を向ける。

 相麻は平然とうなずいて、言った。

こいびとのふりでもしてみましょうか」

「車の隣でいちゃつくのか?」

「いえ。私が中野くんのほっぺたを、思い切りひっぱたくのよ」

 それ、恋人か? と智樹がつぶやいたけれど、ほかに反対意見はなかった。


 相麻が智樹のほっぺたをひっぱたいている間に、ケイと春埼と坂上はマンションの中に入った。さすがに少し智樹が気の毒だ。帰り道にコーラでも買ってあげようと思う。

 マンションのげんかんにはインターフォンがついていた。マリの部屋の番号を入力し、春埼に対応してもらう。その時、マリには九時三〇分を過ぎてから、部屋の明かりを消すよう伝えた。

 マリの部屋は三階にある。三階と四階の間、階段のおどり場で、しばらく待機することに決める。

 マリの母親に会うまでに、もう一度セーブしておきたかった。だからケイは、九時三〇分以降に部屋の明かりを消すよう指示した。

 九時二五分になれば、リセットしてから二四時間が経過する。もう一度、セーブし直すことができる。そしておそらく、部屋の明かりが消えるまで、マリの母親はマンションの前から動かない。

 九時二五分。春埼が「セーブ」と呟くのを聞いて、ケイはほんの五分前を思い出す。まだリセットしていない。そのことを確認した。

 九時三五分。頭の中に、智樹の声が聞こえた。──マリの母親がマンションに入った。一人だけだ。

 ほどなくエレベーターが動き出す。

 ドアが開き、光が漏れ、マリの母親がエレベーターを降りる。

 背後から近づくと、彼女はこちらに視線を向けた。足音に気づいたのだろう。ろうの照明が、彼女のおびえたような表情を照らす。

 ケイは微笑ほほえんで、彼女に声を掛ける。

「夜分おそくに、申し訳ありません。僕は、あさと申します。くらかわさんですよね?」

 彼女の表情が、わずかに変化する。怯えが多少無くなり、代わりに不信感が加わる。

「はい。あの、何か?」

 ケイは何気ない様子で、さもそれが当然なのだという風に、彼女のうでつかんだ。同時に、彼女のひとみのぞき込んで言う。

「マリさんの友人です。それに、貴女あなたが明日しようとしていることを、知っています」

 彼女の表情が、引きつった。劇的な変化。ナイフを目の前にきつけられたような。

 そうなることは、わかっていた。小さな悲鳴のような声を上げて、彼女はケイの手をはらおうとする。だがケイは、腕を摑んだままはなさなかった。

さかがみさん、早く」

 と、ケイはささやく。

 坂上の様子も、マリの母親とそうちがいはしなかった。混乱した様子で、表情を引きつらせている。

「すみません」

 彼はそう呟いて、右手でケイに、左手でマリの母親にれた。

 くわしい話は、彼女が過去を思い出してからでいい。簡潔に、ケイは告げる。

「貴女がいなくなると、マリが泣きます。お願いします。マリのことを、考えてください」

 それから、七年前を思い出そうとした。本物の倉川が死んだ直後、マリが生まれた時期のおくだ。──だが、それよりも先に。

「待って」

 き捨てるように、坂上は言う。

「まだだ。まだ、能力を使えてない」

 いやな予感がした。ケイは坂上に視線を向ける。

「早く、お願いします」

 だが坂上は、首を振った。

「だめだ。だめ。……くそ、どうして」

 ケイは囁く。

「坂上さん。貴方あなたがしようとしていることは、正しいことです」

「わかってるよ! でも、だめなんだ」

 マリの母親が、強い力でケイの手を振り払おうとする。

 ケイは、彼女の腕を離した。──失敗だ。大きな問題点を、一つ見落としていた。

 マリの母親が走っていく。坂上が、泣きそうな表情をかべて、呟く。

「ごめん。ごめん。とても、こわいんだ」

 はるそらは、じっとケイの顔を見ていた。

「失敗、ですか?」

 ケイは首を振る。

「いや。作業が一つ、増えただけだ」

 うそだ。失敗したのだ、明らかに。

 だが春埼の前では、強がっているべきだ。彼女に不安感を与えても仕方がない。

 マリの母親に能力を使う計画が、失敗した理由は明白だ。もう少し、坂上のことを理解しなければならなかったのだ。その作業をおこたっていた。

 さくの能力は、望むだけで発動する。実際には能力ごとに様々な制限があるけれど、感覚としてはただ望むだけで発動する。

 逆に言うなら、望まなければ、咲良田の能力は使えない。能力は使用者の意思に、大きくえいきようされる。

 坂上ようすけは、管理局の決定を無視して、能力を使うことを望めなかった。そのことを、怖いと思った。知りもしない女の子のために、きようを乗りえることができなかった。

 浅井ケイは内心でつぶやく。

 ──僕には、人の心がわからない。

 でも、わかろうと努力しなければならない。