1 八月一三日(金曜日)──スタート地点
日が暮れかかっていた。
デスクの前にある窓からは、赤い光が
午後六時四五分。
春埼とマリは部屋の
ケイは
「マリ。昨日のことを、教えてくれるかな?」
彼女は何も答えなかった。
「君がお母さんに会うために、必要なことだ」
そう告げると、彼女はようやく、ちらりと視線をケイに向けた。
「昨日の、こと?」
「そう。昨日、君が何をしていたのか。君のお母さんは、何をしていたのか。そういうことを教えて欲しい」
マリが答えるまでには、少し時間が
それは
だが今は、マリの状態を
ゆっくりとした口調で、マリは答えた。
「昨日は、ずっと家にいたよ。お母さんは、いなかった」
「お母さんは、出かけていたんだね?」
マリは
「朝に出て行って。私、一人で待ってたの。夜になっても、帰ってこなかった」
「それじゃあ、今朝は?」
「……いた。
「君が眠っている間に、帰ってきたんだね?」
「うん」
「君は、何時に眠ったの?」
マリは首を
「病院には、バスに乗って行ったの?」
彼女はもう一度、首を振って答える。
「車に乗ったよ。ツシマさんの車」
「ツシマさん、というのは?」
マリは答えなかった。
代わりに春埼が、口を開く。
「保護者の、代理のようなものだと言っていました」
「そう。ありがとう」
ケイが質問を
マリに何か言葉をかけようか、とケイは考える。必ず母親に再会できると約束すれば、彼女は少し救われるだろう。だが、それを口にするべきなのは、ケイではない。春埼でなければならない。
──マリは、春埼が救わなければならないんだ。
それは、ケイの身勝手な感情だ。だがケイは、それ以上、マリに声をかけなかった。並んで座っている春埼とマリを、ぼんやりと
ノックもなく
「どうだった?」
と、ケイは尋ねる。
智樹は
「だめだ。
予想できたことだ。マリの母親は、きっともう
智樹は、春埼に視線を向けて、言った。
「お前は一度、家に
春埼は答えない。代わりになぜだか、こちらを見た。
ケイは首を振って答える。
「いや。ここにいるべきだよ。これから何が起こるのか、君は見届けた方がいい」
小さく頷く春埼を見て、智樹は息を
「これから起こることって、なんだよ?」
「すぐにわかるさ。そう時間がかかるとも思えない」
「だから、何が起こるんだ?」
「さぁね」
答えると、
智樹は頭を
「何か食えるもん探してくるよ。みんな、晩飯まだだろ」
彼が部屋を出る。ばたん、と音を立てて扉が閉まる。
その音の
「
「だいたい全部、わかっているよ」
「それなら、教えてください。私はどうすればいいのですか?」
「もうしばらくはここにいろ。それから先は、君がしたいようにすればいい」
春埼
これから現れる設問に、どんな答えを返すのか。
それがすべてなのだ。ケイにとって重要なのは、それだけだ。
「ねぇ、春埼。君はよく、ルールという言葉を使うね」
「はい」
「教えてくれないかな。そのルールを」
「必要なことですか?」
「いや。でも今は
春埼美空は頷く。
「ルールのうち、大きなものは三つです。私は基本的に、この三つにそって物事を判断しています」
「うん。一つ目は?」
「周囲の
「人には
「はい」
「じゃあ、二つ目は?」
「一つ目に反しない限り、私は提案された事柄を
「人の指示に従う、ということだ」
「はい」
「では、最後だ。三つ目は?」
「泣いている人を見つけた時、私はリセットを使います」
思わず、笑い出しそうになる。
一体、なんだ、この少女は。その思考は、あまりに
ケイは
「春埼。ロボット工学三原則というのを、知っているかな?」
「……いえ」
「アイザック・アシモフというSF作家が作った。フィクション作品に登場するアンドロイドに、よく組み込まれているルールだよ」
「それが?」
「君のルールに、とてもよく似ている」
ケイはロボット工学三原則について語った。
一つ目は、人間に危害を加えてはならない。
二つ目は、人間の指示に従わなければならない。
三つ目は、自身を防衛しなければならない。
「番号が小さいものほど、優先度が高い。一つ目と二つ目は、君のルールとまったく同じだ」
興味もなさそうに、春埼は
ケイは続けた。
「でも、三つ目が違う。それが
「……どういう意味ですか?」
「君が人間だという意味だよ」
三原則に従うアンドロイドは、人を傷つけず、人の指示に従い、自己を守る。そこに能動性はない。ただ、人に迷惑をかけないだけだ。
でも春埼美空は違う。最後の一つで、能動的に行動する。自分の意思で、人の
──なんて美しいんだろう。
と、ケイは思う。
この少女の思考は、美しい。あまりに美しく、あまりに
「よく、わかりません」
と、春埼は言った。
「うん。わからなくていいんだ」
人に教えられるようなことじゃない。春埼美空は、自身で定義したルールの三番目に込められている美しい感情に、自分自身で気づくべきなのだと思う。
心の底から
「ところでね、アンドロイドたちの三原則には、ゼロ番目があるんだ。最初はなかったけれど、必要になって、後からできた。それがなんだかわかるかな?」
「……いえ。わかりません」
「考えてみてよ。もし君のルールにゼロ番目を作るなら、どんなルールにするのか」
ゼロ番目。
最も番号が小さく、最も優先されるべきルール。
その直後、部屋の
扉の前には、手足の長い男が立っていた。
二十代の半ばだろうか。
夕日で
「管理局の者です。クラカワマリを引き取りに来ました」
今までにケイが顔を合わせた管理局員とは、ずいぶん様子が違う。
ケイは視線を室内に向ける。春埼
彼女の表情に、大きな変化はなかった。ただ
この男が、ツシマなのだろう。マリの保護者代理を名乗り、今朝マリたちを車に乗せ、病院まで送っていった男。
ツシマはマリに視線を向けた。
「さあ、
それは予想外に、
マリは春埼の後ろに
「帰るって、どこにですか?」
と、ケイは
「あの子がいるべき場所に、です」
「そこにマリの母親はいますか?」
ツシマはそっと首を
「彼女はもう、
「マリの存在を忘れるために、ですか?」
「……ええ」
予想していたことだった。
能力で生み出した、マリのことを忘れることができる。
マリの母親は、それを望んだのだ。能力によって生み出された子の母親ではなく、七年前に死産を経験した、ただの女性に戻りたいと願った。
春埼はまっすぐにツシマを見て、口を開いた。
「事情を説明してください」
ツシマは首を振る。
「もう全部、決まったことです」
それから、ほんの小さな声で、「マリの前でしていい話ではありません」と付け足した。
ああ、この人は優しいんだな、とケイは思う。優しく、善良だ。
ケイは言った。
「話してください。マリだってもう、事情は知っています」
子供というのは、大人の知られたくない感情を知っているものだ。知っていて、本能的に知らないふりができる。
ツシマはケイに視線を向ける。
彼はケイにだけ聞こえる小さな声で、ぼそりと言った。
「ただ知っているのと、言葉で聞くのはまったく違います」
そうかもしれない。
「でも、マリは当事者です。彼女にきちんと説明しないのは、おかしい」
「ええ。おかしい。でも
ケイはため息をついた。この男と口論しても仕方がない。
「では、部屋を出て話しましょう。春埼には、きちんと事情を説明してください」
「その必要はありません」
「ありますよ。今後の、春埼とマリの関係に
自身の言葉に、
ツシマはざっと室内を見回し、窓で視線を止めたが、結局は
「わかりました」
と、諦めたように、彼は言った。
ケイは春埼に声をかける。
「行こう」
「どこにですか?」
「すぐ、扉の前だよ。この部屋から出よう」
春埼はマリの手を引いて、立ち上がる。
ケイは首を振った。
「春埼。君一人だけだ」
彼女はしばらく、こちらを見ていた。
だが結局は、マリの手を
もう日は暮れていた。
太陽が
離れを出て、扉を閉めてから、ツシマは口を開く。
「何を話せばいいのですか?」
「今回の出来事に関する事情を、全部」
「話せないこともあります」
「マリが能力によって作られた存在だということは、知っていますよ」
それを悲しんだ真理の母親は、能力を得て、マリを作った。
ツシマは軽く、首を振る。
「そう。だがある時から、マリを自分の子だと信じることができなくなりました」
「ある時、というのは?」
「マリの父親は、初めからマリを受け入れられませんでした。彼は三年間
彼は視線を下げて、ぼやくように言う。
「一つ一つを見れば、理解できないことではありません。子供が死んだ時、母親が子供を取り返す能力を手に入れたとして、それを責められますか?」
ケイは首を
「いえ」
頷いて、ツシマは続けた。
「能力で生まれてきた子供を、自分の子として愛し続けることができなくなったとして、それを責められますか?」
答えることには、
愛し続けるべきなのだ、とケイは思う。だが、結局、首を振る。
「……いえ」
ツシマは息を
「それだけのことです。去年、倉川真理が死んで、六年経ちました。七回
彼の語る言葉の一つ一つが、ため息のように聞こえた。
常に何かを
「
愛せなくても、愛そうと努力したはずだ。
ケイは続ける。
「例えばマリの
子供服としては高級なブランド名を、ケイは口にする。
どうしても愛せない
──おそらく彼女は、何かの形で、まだマリを愛していると証明したかったんだろう。
それは努力というには、あまりに安直な方法なのかもしれない。あるいはつまらない言い訳なのかもしれない。もちろん本物の愛情である可能性だって、ないわけじゃない。
なんであれそこには、葛藤の
ツシマは静かな声で告げる。
「彼女の顔を見たら、
いつの間にか彼の口調から、敬語が
きっとこの男も、疲れ果てているのだろう。
ケイは口元に
「
「卑怯?」
「管理局側の視点を話していない。マリの母親に、咲良田を
確信はなかった。だが、管理局は、マリを手に入れようとしたはずだ。
「その通りです」
吐き捨てるように、その管理局員は答える。
「能力で作られた人間を、見過ごせるわけがない。命を作り出す能力なんてものは、
確かにこの会話は、マリの前ではできない。
あの小さな女の子は、きっとそのことを、きちんと理解しているけれど。
それでも問題しか生まない能力で生まれてきたなんて、大人が彼女の前で、口に出していい言葉じゃない。
「マリは、人間なんですか?」
と、ケイは
「少なくとも検査した限りでは、人間と見分けがつきません」
「管理局としては、幸運なことですね」
「ええ」
「彼女を、どうするつもりです?」
「普通の子供として育てます。マリ自身にも、自分が普通の子供だと信じ込ませる。事情を知っている人間は、少なければ少ないほどいい。そう考えた時、彼女の母親が
ケイは意図的に、ツシマが
だが彼は最後まで、抑えた口調で答えた。部屋の中のマリに
笑みを浮かべたままで、ケイは言う。
「つまり、管理局はより多くの人の幸福を優先したわけだ。問題となりそうな能力を秘匿し、母親からマリの
「はい。それが、管理局です」
「貴方は管理局の判断が、正しいと思いますか?」
「子供が泣くようなことが、正しいわけがない」
「でも、
その管理局員は笑った。
はっ、と声を上げ、投げ捨てるように答えた。
「そんなわけがない。選ぶべきじゃないから、間違ったことなんだよ」
初めて彼の返答が、ケイの予想から外れた。
「
「なんにもしたくないよ。こんな
「でも、貴方は関わっている」
「したくないことをするのが、仕事なんだよ」
ケイはため息をつく。きっとこの男も、様々なことに納得がいっていないのだ。それがわかっただけで十分だった。
「話は終わりです。マリを連れて行く」
ツシマは
ケイはその
「それを選ぶのは、貴方じゃない」
そう告げて、視線を
「君が選べ、春埼。マリをこの人に──管理局に引き
彼女が、自身のルールを
春埼は長い間、無言だった。
ツシマは腕を摑まれたまま、
春埼美空は、
「
「それで、いいんだね?」
「はい。マリは、管理局に引き取られるべきだと、私は判断します」
浅井ケイはため息をついて、ツシマの腕を放した。
──でも春埼には、
と、耳の奥で、
※
ツシマに手を引かれて立ち上がったマリは、だが泣いてはいなかった。
春埼美空は扉の外から、じっとその様子を
不意に、胸が痛くなる。セミの死について悲しんでいた、五歳の
より多くの人が、幸福になる
春埼自身が設定したルールが、そう言っていた。それに従って判断した。
なのに、なぜだろう。胸が痛い。悲しみなんて感じるはずがないのに。とても、とても、胸が痛い。
──反対ならよかった。
と、春埼は思う。
──マリが、普通の子供で。アンドロイドのような私が、人工的に作られた存在ならよかった。
きっとそれが、正常な形なのだ。
春埼美空は、母親に愛されることを望まない。何かを望むことがない。
──私がマリなら、よかった。
そうであれば、誰かが悲しむこともなかった。
だけど、マリはマリで、春埼は春埼だった。
きっと、どこかの誰かが間違えたのだ。間違えて、配置してしまったのだ。
何も見えない、得体の知れない闇の中で、春埼はそう考える。
ふいに、声が聞こえた。
「まだ間に合うよ」
しばらくしてから、それが浅井ケイの声だとわかった。
「春埼美空。今、君の前には、二つの選択肢がある」
相麻菫の話を思い出す。
まったく同じ形をした、二つの白い箱。どちらを選んでも、何も変わらない。春埼美空にとって、それは共に、無価値なものだ。
でも片方を選ばなければならないから、春埼美空はルールを作った。
浅井ケイは続ける。
「一方を選べば、何も変わらない。すべてこのままだ。でももう一方を選べば、あるいはマリを助けられるかもしれない」
彼の言葉は、静かで
「マリを救うのか、このまますべて受け入れるのか。君には本当に、二つの選択肢が、同じ形に見えているの? 本当に、同じ色に見えているの?」
春埼美空は、目を開く。開いてから、先ほどまで自分が、目を閉じていたのだと気づいた。
得体の知れない闇なんて、ありはしないのだ。ただ、目を閉じていただけなのだ。
まず視界に入ったのは、浅井ケイの顔だった。
彼はとても誠実で、切実な表情を
「答えろ、春埼美空。君は本当に、この選択に対して、無関心でいられるのか?」
春埼もまっすぐに、ケイの顔を見返す。
「そんなわけが、ありません」
「なら、選ぶんだ。君が君の感情で、選ぶんだ。
春埼美空は答えた。
「私はマリを、助けたい」
彼は笑う。優しい
「君が望むなら、そうしよう」
「可能なのですか?」
「僕と君の能力があれば、
平然と、世界に対して宣言するように。
「
と、言った。
2 八月一二日(木曜日)──前日
八月一二日、木曜日。
その日が
午後二時を少し回った頃、自宅の電話が鳴った。
電話の相手は
彼女は言った。
「学校の屋上に来てくれないかしら。ケイが呼んでいるの」
「わかりました」
断る理由もありはしない。
「それじゃ、屋上で会いましょう」
と、そう言って、相麻菫は電話をきった。
春埼は制服に
八月の、一番暑い時期。夏がピークを迎え、これから終わりへと向かう時期。
夏休みに入ってから、春埼はずっと、感情を
だからこの街には、いくつもの感情が
自転車に乗って走っていく小学生たちの笑い声。
そのすべてに、きっと、複雑な感情が混じっているのだ。春埼には理解できない感情が。
春埼は同年代の少女とすれ違う。
その少女は小さな声で、鼻歌を
鼻歌。──それも、理解できない
ふんふんと言ってみるが歌には聞こえない。なんのリズムのつもりなのか、春埼自身にもわからなかった。
校門を
この学校にも、無数の感情がある。グラウンドでは、サッカー部員が声を上げている。プールの方からは、何か
なのに春埼には、それがわからない。
足音を階段に
階段の、一番上にある扉の前に立った。灰色の、四角い扉。
わからないまま、扉を開ける。
風が吹いていた。夏の光は
屋上には、相麻菫と、
春埼は、浅井ケイの前に、まっすぐに歩み寄る。
彼は言った。
「
「……はい」
「だから、始めよう」
坂上央介はこちらに歩み寄り、春埼と浅井ケイの
「目を閉じて」
もう何度も
彼が何を思い出させようとしているのか、わからなかった。だが、
「いくよ」
と、声が聞こえた。その直後。
春埼
マリ。能力によって生み出された少女。母親の消失。黒いスーツの管理局員。春埼自身の判断。浅井ケイの言葉。そしてリセット。
何もかも、何もかも、すべて、思い出した。
胸が、痛かった。その痛みが、はっきりとわかった。
──ああ、私は今、悲しんでいる。
明日知るはずの悲しみを、今日思い出している。
目を開く。屋上の世界。空は青く、雲は白い。
感情を手に入れれば、それらはもっと、
だが、
春埼美空は自身の
浅井ケイは、笑って、
「僕たちは、女の子の涙を消しに行こう。そんなもの、この世界から消し去ってしまおう」
そう言った。
※
浅井ケイは春埼美空の瞳にたまった涙を見て、言った。
「僕たちは、女の子の涙を消しに行こう。そんなもの、この世界から消し去ってしまおう」
なんて
以前、
──
そして、本物の
あの時から、すべてが予定されていたような気分になる。相麻菫だって、この出来事を理解していたはずもないのに。
「それで一体、どうするつもりなんだ?」
と、中野智樹は言った。
彼と相麻、坂上にはもう事情を話している。明日の朝、ある女性が
ケイは答える。
「問題点は明確だ。母親が、自分の
次に口を開いたのは春埼だった。
「どうやって、ですか?」
「感情を取り戻す。それを今、君は体験したはずだよ。同じ事を、マリの母親にもすればいい」
もっと言うなら、ケイ自身が能力を手に入れた時、経験したことだ。ケイが両親への愛情を思い出したように、マリの母親も、マリへの愛情を思い出せばいい。
「それで、問題は解決しますか?」
「わからない。でも、やってみる価値はある。だめなら別の方法を考えるさ」
正直なところ、母親がマリへの愛情を思い出してなおこの街を
「協力して
彼はいつもの
「……もちろん。小さな子供が悲しむのは、よくないことだと思う」
なんだか
彼の
「一つ、わからないことがあるんだけど」
「何かな?」
「どうして
「おいおい、委員長。なんかその言い方、ひどくね?」
ため息をついて、ケイは答える。
「いいかい、相麻。智樹は意外と便利だ。いないよりはいた方がましな程度には」
「それは知ってるわよ。
「ならいいじゃないか」
「学園祭でもやるのなら、もちろんいた方がいいわよ。でも今回の話は、そういう性質のものじゃないわ」
まぁ、確かに。管理局が、マリの母親を咲良田から追い出したがっているのだ。不用意に協力者を増やしていい
「なんかお前ら、さらっとひどい話をしてねぇか?」
顔をしかめる智樹に、ケイは
「なにが?」
「いや、オレの
「どこがさ? むしろ
「それこそどこがだよ?」
「いないよりはいた方がいいなんて僕が言う相手、そうそういない」
「……おお、確かにな」
相麻菫は、意地の悪そうな笑みを浮かべて言う。
「仲が良いのね、貴方たち」
「ま、それなりにね」
ケイにとって、このメンバーの役割は明確だった。
坂上
相麻菫は、坂上を
そして、中野智樹。彼の役割は、いってみれば、ケイにとっての保険だった。
あらゆる
予想外の事態が起こった時、無条件で自分の側につく人間というのは、
──ま、智樹の能力が有用だってのもあるけどね。
内心でそう付け足して、ケイは話を
「このままだと、マリの母親は明日、
智樹が軽く首を
「能力を使うだけだろ? そう難しいことじゃない」
「マリの母親は、家にはいないよ。今日は夜
「どうしてわかるんだ?」
「春埼がリセットする前に、マリに
少なくともマリが
「ともかく、マリの母親に
坂上が、不安げに顔をしかめて言う。
「つまり、夜通し張り込むつもりなのかな?」
「マリの母親が帰ってくるまでは。とりあえず、一度解散しましょうか。家の人には適当に、帰りが遅くなる言い訳をしておいてください」
今すぐできることは、特にない。
※
それぞれが屋上を
目的の未来に
──浅井ケイとの会話が好きだ。
と、相麻菫は思う。
──未来の彼を、
相麻菫は、未来を知る能力を持っている。その能力は、会話によって発動する。
会話を
「なんの用かな?」
と、彼は言う。いつも通りの、落ち着いた口調。でも
相麻は、こつん、こつんと足音を立てて、ケイに歩み寄る。
「一つ、聞きたいことがあるんだけど」
「へぇ。なんだろう」
彼のすぐ目の前で立ち止まり、耳元で
「春埼美空を、どうしたいの?」
「どう、とは?」
「
「……否定はしないよ」
保身も、
まるで意味を持たない
──それが、彼の理想だ。
あまりに
「なのに今、貴方は、彼女に感情を植えつけようとしている。そのことだけを目的に、行動しているように見える」
「そうだね」
「貴方は
「そうかもしれない」
「どうして? 貴方がその矛盾に、気づいていないとは思えない」
その答えを、相麻菫は知っていた。
知っていて、
浅井ケイは笑う。口元だけを
「なんとなくだよ。ただの気まぐれだ」
相麻菫も笑う。できるだけ
「
「おや。信じて
「信じているわよ。貴方のことは、心の底から」
さらに一歩、相麻はケイに近づく。
とても近い位置で、彼の
「貴方は
首を
「彼女がただの女の子になった方が、都合がいいだけだよ。リセットという能力を手に入れるのにね」
「貴方は、とても噓つき」
本当は、彼女の幸せを望んでいるだけなのに。この少年は、悪ぶって答えてしまう。
春埼美空のように、純粋ではない。だが
浅井ケイは、完全な善ではない。だが悪意を知りながら、それでも善を愛し続けられる彼が、最も強い善なのだと相麻は思う。
──未来視なんて能力、なければよかった。
こんなものがなければ、浅井ケイに、特別な感情を
初めてテトラポットの上で会話した時、彼の未来を見ていなければ。
彼がどれだけ強固な優しさを持っているのかを知らなければ、ただ少し変わった少年だと思い込むだけでよかったのに。
浅井ケイはこれから先も、誰かを救いたいと願い続ける。成長し、老いて、死んでしまうまでずっと。苦しみ
未来を知る能力は、そのことを相麻菫に見せつけた。
浅井ケイの未来を見た時、相麻菫は、彼を特別なのだと
──まったく、こんなの反則だ。
未来のすべてに好意を持ってしまった相手に、無関心でいることなんて、できはしない。
全身から力を
「
「どうかしらね。もしかしたら、大丈夫ではないかもしれない」
たまに、彼を抱き
相麻はケイの背中に手を回し、声には出さずに囁く。
──ねぇ、ケイ。知っているかしら。私がその気になれば、
未来を知る能力があれば、浅井ケイが気に入る言葉だけを語って過ごすことだってできる。答えを
──でもね、ケイ。それでも貴方は、春埼美空が好きなの。
こんな、不意打ちみたいな方法でしか、抱き合うことはできないのだ。

やはりどれだけ
欲しいのに手に入らないものを、簡単に
相麻菫は、浅井ケイの背中に回した
※
その光景を、春埼美空は
浅井ケイに聞きたいことがあって、屋上に
明日、八月一三日の
春埼美空のルールに、ゼロ番目を設定するとしたなら、その内容はなんなのか。そのことについて、彼ともう少し話をしたいと思ったのだ。
──私は今、私が設定したルールに反した行動を取っている。
ルールに従い、マリを管理局に引き
ルールに修正が必要だ。
だから屋上に戻ってきた。屋上では、浅井ケイと、相麻菫が抱き合っていた。
声を
──ゼロ番目は、もう少し一人で考えてみよう。
そう決めて、
ゼロ番目のルールについて考えてみても、何も思いつかなかった。
午後五時二五分、春埼
クラカワマリの自宅は、
午後六時には、マリが住むマンションの前に到着した。
背の低いマンションの三階、右端がマリの部屋だ。
春埼美空と
「変に姿を
と、浅井ケイは言った。
彼と、相麻菫、
春埼はマリの母親の顔を知っているし、
彼の能力は、離れた相手に声を届けるというものだ。
正確には彼が聞いている音をそのまま、時間を指定して目的の相手に届けることができる、という能力らしい。相手の顔を知らなければ音を届けられないが、一方通行でいい連絡には最適だと浅井ケイは語った。マリの母親が戻ってくれば、すぐに連絡できる。
午後六時三〇分。辺りが暗くなってきた
「歌い出したい気分だな」
と、中野智樹は言う。
春埼は視線を、彼の方に向ける。
「何か話した方がいいよ。無言で
そう言われて、春埼は考える。別に、話したいこともなかったけれど。
「歌い出したい、とは、どういう意味ですか?」
中野智樹は笑った。とても幼い子供みたいな
「そのまんまだよ。夏休みの夕暮れに、女の子と二人きり。しかも小さな子供のために、母親の愛を取り戻そうって夢みたいな計画の
彼が何を言っているのか、理解できなかった。
「
「よくわかりません」
はは、と中野智樹は笑う。
「ともかくオレは、
「良い奴、ですか?」
「ああ。ケイに似てるな。わかりにくいけど、
「彼は、善人ですか?」
「もちろん。オレが知ってる中じゃ、一番だ」
ああ。やはり、そうだったのか。そんな予感はしていたけれど。
春埼は
「理解しました」
「ん? 何が?」
「ずっと疑っていたのです。彼はもしかしたら、善人なのかもしれない、と」
中野智樹は、楽しそうに笑っていた。
本当に、歌い出しそうなくらいに。
「そう。あいつの良さは、疑ってみないとわからないんだ。
「羊の皮?」
「あいつは一見、無害な善人に見える。でもよく見ると、そういう皮を被ってるだけだってわかる。そこでだいたい、みんな
「でも、中身も羊なんですか?」
「そう。本当に近くで見ると、わかるんだよ。あいつが善人ぶってる善人だって。でも
彼の言いたいことは、なんとなくわかった。
だが春埼は、首を振る。
「羊の背中にジッパーがあれば、その中身は人間です」
明らかに、人工的な着ぐるみだと思う。
声を立てて、
「ともかくあいつは、そういう風に捻くれた善人なんだよ。もうちょっと、
「それが、私に似ているのですか?」
「ん。考えてみると、それほど似てねぇな。──ああ、でも、さっきの答えは、いかにもケイが言いそうだ」
「さっきの答え、とは?」
「羊の背中にジッパーがあれば、その中身は人間だ」
そうかもしれない。でも、どうでもいいことだ。
マリが今、一人きりでいる部屋。
「そんなに
と、中野智樹は言った。
それが
「いい事を教えてやる。浅井ケイは、
「……間違えない?」
「そう。あいつが助けようと思って、助けられない奴なんていないんだよ」
「本当ですか?」
中野智樹は、
もしかしたら、中野智樹は
──浅井ケイは、間違えない。
その言葉はなんだか
※
もうすぐ、午後八時になるという
浅井ケイと
すぐベンチの
夏の夜は
坂上が気まずそうに、ちらちらと横目でこちらを見ていることには気づいていた。あまり親しくない相手と、無言でいることに
ケイは口を開いた。
「坂上さんは、どうして生徒会長になったんですか?」
別に、興味もないことだが。時間
坂上はしばらく口ごもってから、答えた。
「
「それはつまり、立候補者が、ということですか?」
坂上は
「うん。
少しだけ考えて、ケイは答える。
「生徒会長に似合う人というのは、どんな人なんでしょうね」
「それは、例えば、相麻さんとか」
「選挙があった時、相麻はまだ一年生でしたよ」
「うん。だから、僕が立候補したんだけど。でもやっぱり、彼女の方が生徒会長に向いてると思うな。僕は人前で話すのが苦手だし」
確かに相麻なら、
「ちょっと失敗するくらい、別にいいじゃないですか。誰も生徒会長に
「ま、そうなんだろうけどね」
「それに
「……どうして?」
「短いから」
はは、と小さな声を上げて、坂上は笑う。
「たぶん僕なんかいなくても、誰も困らないんだろうね」
「困りますよ。貴方がいないと、マリの母親がこの街からいなくなってしまう」
「必要なのは、僕じゃない。僕の能力だ。同じ能力を、他の誰かが持っていたら、それでいいんだと思う」
「でも今の所、他者の能力をコピーするなんてことは貴方にしかできないから、貴方が必要です」
坂上は息を
「
「怖いというのは?」
「マリちゃんの母親がこの街の外に出ることは、管理局が決めたんでしょう?」
「少なくとも管理局は、彼女を追い出したがっているでしょうね」
「そんなことに反対して、本当に
ケイは内心でため息をつく。
「大丈夫、の定義はなんですか?」
「……定義?」
「貴方は一体、何がどうなれば、大丈夫だと判断するんですか?」
「それは──」
しばらく待ってみたけれど、坂上は何も答えなかった。
仕方なく、ケイは続ける。
「この程度のことで、命を
力任せに
坂上は首を
「そういうことじゃないんだ。そんな具体的な話じゃなくて、もっと根本的に、ルールを
「まったく。ルールというのは、
悪いことを悪いと定義するのが、ルールなのだと思う。
ケイは続ける。
「でも今回、管理局の決定をルールだとするなら、倫理を
本心ではなかった。
ルールというのは、守られるべきものだ。破っていいルールなんてない。もしルールが
でも今は、そんなに回りくどいことをしている時間はない。
坂上は、もう一度首を振る。
「君は、とても強いね。でも僕は、どうしようもなく弱いんだよ」
「弱い?」
「色んなことが、怖いんだ。怖いのが嫌だから、ルールを踏み外したくないんだ。いつも安心していたいんだよ」
「気持ちはわかります」
「わからないよ、君には。本当に弱い人間は、どこまでも弱い」
坂上は、引きつった表情で笑った。泣いているようにも見える。
「浅井くん。たぶん君は、正しいんだと思う。良い事をしようとしてるんだと思う。でも僕は、君や、
──僕にとっては、
そう答えようかと思ったけれど、やめておいた。
坂上が何を怖がっていようが、関係のないことだ。
それからは、しばらく二人、無言でベンチに座っていた。
やがて相麻が
彼女は右手にビニール
「飲む?」
それは、ガラス瓶に入ったラムネだった。
「そんなの、どこで買ってきたのさ?」
「近くのスーパーにあったのよ。バスで前を通った時、見つけたの」
ずいぶん目がいいものだ。
「それで、わざわざ?」
「夏の夜は、ラムネでしょ?」
断る理由もない。ケイと坂上は、そのラムネを受け取る。──街灯の、光の加減だろうか。なぜだか瓶を受け取る時、相麻が少しだけ悲しげな表情を
相麻は空を見上げて、
「花火でも上がればいいのに」
やはり相麻は、わけがわからない。
※
相麻菫は空を見上げて、呟いた。
「花火でも上がればいいのに」
それは、本心だ。なんだか今は、
相麻が買ってきたラムネ。その瓶が、今後どういった使われ方をするのか、相麻は知っていた。知っていて買ってきたのだ。
相麻菫は内心で呟く。言い訳にもならない言葉を。
──ケイが傷つくことなんて、少しも望んでいないのに。
でもこれが、最も適切な手段なのだ。他のあらゆる方法よりも、あのラムネ瓶が物事をスムーズに進める。
思わず顔をしかめそうになって、相麻は
ラムネを飲み終わった坂上が、ベンチから立ち上がる。
「ごちそうさま。
彼は空き瓶を捨てるため、通りの先のゴミ箱に向かって歩き出す。すぐ近くの
坂上が席を外した、
「相麻。坂上さんに、問題はない?」
「問題、というのは?」
「わからないよ。僕は、彼のことをよく知らない。知らない人間と行動するのは、いつだって不安だ」
「あら。私や春埼のことは、よく知っているの?」
彼は
「
相麻菫は、思わず笑う。
こんな時なのに。
「
そんなことが、
ケイは少しだけ顔をしかめる。
「今は、坂上さんの話をしているんだよ」
「そうね」
これから何が起こるのか、相麻菫は知っている。
「でも今は、
そう答えて、相麻は、今度は意図して笑った。
※
黒い車が、マンションの前に
「移動しよう。来た」
ケイはベンチから立ち上がる。その後ろに、相麻と坂上も続いた。
「降りてこない」
簡潔に、ケイは答える。
「部屋の明かりが消えていないからだよ」
マリの部屋からは、まだ明かりが
ケイはマンションの前に停まった黒い車に、視線を向ける。車内の明かりがついているため、はっきりと確認できた。助手席にマリの母親。そして運転席に、よれたスーツを着た男がいる。見覚えがあった。
「少し
ツシマという名前の管理局員。
「どうするんだ?」
と、智樹は言う。
少し考えて、ケイは答えた。
「僕と、春埼と、坂上さんは、マンションの中まで移動しましょう。智樹と相麻は、ほんの少しでいいから、車にいる二人の気を引いて欲しい」
春埼はマリの母親と面識があるため、できればあまり見られたくなかったのだ。
智樹は相麻に視線を向ける。
相麻は平然と
「
「車の隣でいちゃつくのか?」
「いえ。私が中野くんのほっぺたを、思い切りひっぱたくのよ」
それ、恋人か? と智樹が
相麻が智樹のほっぺたをひっぱたいている間に、ケイと春埼と坂上はマンションの中に入った。さすがに少し智樹が気の毒だ。帰り道にコーラでも買ってあげようと思う。
マンションの
マリの部屋は三階にある。三階と四階の間、階段の
マリの母親に会うまでに、もう一度セーブしておきたかった。だからケイは、九時三〇分以降に部屋の明かりを消すよう指示した。
九時二五分になれば、リセットしてから二四時間が経過する。もう一度、セーブし直すことができる。そしておそらく、部屋の明かりが消えるまで、マリの母親はマンションの前から動かない。
九時二五分。春埼が「セーブ」と呟くのを聞いて、ケイはほんの五分前を思い出す。まだリセットしていない。そのことを確認した。
九時三五分。頭の中に、智樹の声が聞こえた。──マリの母親がマンションに入った。一人だけだ。
ほどなくエレベーターが動き出す。
ドアが開き、光が漏れ、マリの母親がエレベーターを降りる。
背後から近づくと、彼女はこちらに視線を向けた。足音に気づいたのだろう。
ケイは
「夜分
彼女の表情が、
「はい。あの、何か?」
ケイは何気ない様子で、さもそれが当然なのだという風に、彼女の
「マリさんの友人です。それに、
彼女の表情が、引きつった。劇的な変化。ナイフを目の前に
そうなることは、わかっていた。小さな悲鳴のような声を上げて、彼女はケイの手を
「
と、ケイは
坂上の様子も、マリの母親とそう
「すみません」
彼はそう呟いて、右手でケイに、左手でマリの母親に
「貴女がいなくなると、マリが泣きます。お願いします。マリのことを、考えてください」
それから、七年前を思い出そうとした。本物の倉川
「待って」
「まだだ。まだ、能力を使えてない」
「早く、お願いします」
だが坂上は、首を振った。
「だめだ。だめ。……くそ、どうして」
ケイは囁く。
「坂上さん。
「わかってるよ! でも、だめなんだ」
マリの母親が、強い力でケイの手を振り払おうとする。
ケイは、彼女の腕を離した。──失敗だ。大きな問題点を、一つ見落としていた。
マリの母親が走っていく。坂上が、泣きそうな表情を
「ごめん。ごめん。とても、
「失敗、ですか?」
ケイは首を振る。
「いや。作業が一つ、増えただけだ」
だが春埼の前では、強がっているべきだ。彼女に不安感を与えても仕方がない。
マリの母親に能力を使う計画が、失敗した理由は明白だ。もう少し、坂上のことを理解しなければならなかったのだ。その作業を
逆に言うなら、望まなければ、咲良田の能力は使えない。能力は使用者の意思に、大きく
坂上
浅井ケイは内心で
──僕には、人の心がわからない。
でも、わかろうと努力しなければならない。