2 六月下旬


 いつものようにそうすみれからの呼び出しを受けて、浅井ケイが南校舎の屋上にとうちやくした時、そこにいたのははるそら一人だけだった。

 四月にこの屋上で、初めて春埼に会った時と同じように、彼女はじっと、屋上の入り口を見つめていた。

 六月二二日の屋上には、もう真夏と変わらないくらいの熱があった。今日は湿しつが少し高い。もうすぐ始まる梅雨つゆに向けて、大気が水分をたくわえているのかもしれない。夏はゆっくりと、確実に進行している。

 ケイは足音を立てて、春埼に近づく。

 まるで人間味のない少女。でも彼女の額には、きちんとあせにじんでいる。

「暑くない?」

「暑いです」

かげに入ろう。このままだと、日射病になってしまうかもしれない」

 春埼はこくんと、うなずいた。それから屋上のかたすみ──入り口のわき、ほんの少しだけ陰になっている所に移動する。なんだか工場で働くロボットみたいな歩調だった。地点Aから地点Bまで直線を引いて、その上をまっすぐに辿たどるような。

 ──アンドロイドはだれ

 相麻のあの質問に、この少女は、どんな答えを用意しているのだろう。

 春埼はこちらを見ていた。

「貴方は」

「ん?」

「日陰に、入らないのですか?」

「そうだね」

 笑って、ケイは頷く。

 それから彼女のとなりに立ち、手すりにもたれかかった。

「相麻は?」

「人に会うのでおくれるそうです」

「そう」

 この辺りには、背の高い建物が少ない。少し離れた場所にある海まで、よく見通すことができた。

 風が吹いて、春埼の長いかみう。

 それを見て、ケイは微笑ほほえむ。

「君の髪は、とてもれいだね」

 自然にウェーブのかかった、細く長い髪。太陽の当たる角度によっては、きらきらとかがやいて見える。

 春埼は何も答えなかった。ケイは続ける。

「とても綺麗だから、切ってしまった方がいい」

「意味がわかりません」

「現実味がないんだ。その綺麗な髪は、余計に君を人間ばなれして見せる。まるで、作り物みたいに見えてしまう」

 綺麗な髪と、あとはまるでガラス球のようにんだひとみが、彼女を人間から遠ざけているように思う。さすがに眼球をくりけとは言えないけれど、髪を切るのは簡単だ。

 ようやく彼女は、視線をこちらに向けた。

「それが問題ですか?」

「たぶんね。いつぱん的に、人間は人間らしくあるべきだといわれている」

「私の母は、この髪を気に入っています」

「だから、切りたくない?」

「どちらでもかまいません。どちらでもいいなら、現状を選びます」

「なら、仕方ないね」

 それきり、二人ともだまり込む。

 屋上にあった小さな世界は、とても静かだった。

 相麻菫の周囲とはまるでちがうな、とケイは思う。

 相麻の隣にいる時、ケイは何時いつだって、少しきんちようしていた。彼女が持つふんは、辺りを飲み込み、何もかもを支配下に置く。気を抜けばケイの思考まで、彼女に奪われてしまうような気がする。さつかくだとしても。

 対して春埼美空が作る世界は、セピア色の写真みたいに静かだ。ささやかな風が、ゆっくりと流れる雲のかげが、きわって大きな変化に思えるくらい、静かでせんさいだ。ゆるやかに意識が拡散し、あわく広がる。

 二人の少女は、まったく反対の方法で、ケイの意識にえいきようする。北風と太陽の物語みたいに。

 ケイはしばらくの間、春埼美空が作るせいじやくを楽しんだ。その静寂はていたいに似ていた。時間が流れることをめたような。見上げれば先ほどまで飛んでいた鳥が、空中に止まって見えるかもしれない。

あさケイ。一つ、聞きたいことがあります」

 と、春埼は言った。

 彼女の声が聞こえても、なぜだか静寂がこわれた気がしなかった。

 ケイは視線を、春埼に向ける。

「何かな?」

「母親に愛されないというのは、悲しいことですか?」

 まさかそんな質問を、春埼の口から聞くとは思わなかった。

 だが彼女のほかには、だれにもできない種類の質問でもあった。──同じ言葉を、ただ口にするだけならできるだろう。でも、どうだにしない瞳で、あらゆる感情が抜け落ちた表情で、そんなことをたずねられる少女を、ケイは春埼美空の他に知らない。

「一般的には、悲しいことなんだろうね」

 おそらくは、それが正しい答えなのだと、ケイは思う。

貴方あなたは、母親に愛されていますか?」

 ──彼女は僕のことを、もうすっかり忘れてしまったはずだよ。

 そう答えたかったけれど、答えられなかった。それをケイが口にするのは、とてもきようなことのように思えた。

「たぶんね」

 とだけ、ケイは答える。

「ある少女がいます」

 はるの視線はケイを向いていたけれど、だがケイを見ているわけではないように思えた。いつだってそうだ。春埼の瞳はもっとじゆんすいに、世界すべてを見ている。

「彼女は、母親に愛されたいと願っています。その方法が、貴方にはわかりますか?」

 ケイは首をる。

 それがわかっていれば、あるいはケイは、咲良田にはとどまらなかったかもしれない。

「わかるわけがないさ。人に愛される方法なんて、場合によってまったく違う。僕はその女の子のことも、母親のことも知らない」

「知れば、わかりますか?」

「どうだろうね。わかるかもしれないし、わからないかもしれない」

「可能性があるのなら、ためしていただけますか?」

「試すって、どうするのさ?」

「その少女に──クラカワマリに、会ってください」

 いつもよりもずっと、彼女の口数が多い。

 春埼美空は今、明確な望みを持っている。そんな彼女を見るのは、初めてだった。

「会うくらいなら、構わないけどね。できればその前に、事情をくわしく教えて欲しいところだ」

「私もよく、知りません。彼女は母親に愛されたいと考えています。その他に、どんな情報が必要ですか?」

 ねんれい、性格、家庭かんきよう。聞きたいことは、いくらでもあった。だがそんなものは、本人から聞き出した方が早いだろう。

 春埼に尋ねるべきことを、今は尋ねる。

「君はその女の子が、母親に愛されることを望んでいるんだね?」

 返答にはしばらく、時間がかった。

 彼女はなんだか不安げにうなずく。

「はい。おそらくは」

「おそらく?」

「よく、わかりません。ですが、私は彼女に協力することを、せんたくしました」

 春埼は混乱している様子だった。表情を変えないままに。外見上はなんの変化もないのに、だが今までとは何かがちがう。

「それも君のルールで規定されていることなのかな?」

「違う、はずです」

「へぇ。じゃあどうして、君はそんな判断を下したんだろう」

 春埼はわずかに、視線を下げた。

「以前、そうすみれは言いました。私の前には同じ形をした、二つの白い箱がある、と」

 ゆっくりと、一歩ごとに足元を確かめながら歩くような速度で、彼女は説明する。

 ──春埼美空はいつだって、まっ白な部屋の中で、まったく同じ形をした二つの白い箱とあいたいしている。

 一方だけを開かなければならないけれど、どちらが正解なのかはわからない。

 例えば二つの箱にそれぞれ色がついていたら、好きな方の色を選んで箱を開ければいい。箱の形が違ったら、その形を理由にしてもいい。

 だけど目の前にあるのはいつだって、まったく同じ形をした、二つの白い箱だ。

 どちらか一方を選択するこんきよなんて、存在しない。

「私にとって、世界はそれほどへいたんなのだと、相麻菫は言いました」

 ケイは頷く。

 二つの箱は、せんたくだ。春埼にとって、多くの場合、選択肢は同等に無価値だという話なのだと思う。

「君はまっ白な箱の一方を開けたんだと言いたいのかな? つまりは、助けても助けなくてもいい少女を、ぐうぜん助けることに決めただけなのだと」

「……わかりません」

 内心で、ケイはため息をつく。

「どちらでもいいというのなら、僕は興味がなくなった。気が乗らないね。やっぱりその女の子に会うのは、めておくよ」

 はるそらは、視線を上げた。

 相変わらず、彼女に表情はなかった。だからすべて、かんちがいなのかもしれない。だがケイには、なんだか彼女が悲しげに見えた。

 春埼のひとみのぞき込み、ケイは告げる。

「君がどうしてもその女の子を助けたいというのなら、会ってもいい。偶然ではなく必然として、君がその少女を助けることを選んだのなら、僕も協力しよう」

 彼女はまっすぐに、ケイの目を見返した。

「私は、貴方あなたに何かを強制する権利を持ちません」

 違うんだ。強制とか、権利とか、そんな話をしているわけじゃないんだ。ただ君の前にあった箱の色が、形が、今までとは違うものだったと言ってくれれば、それでいい。

 きっと二つの選択肢の色をつけ、形を変えるのは、人の感情なのだから。春埼美空が感情を持っているのだと、証明してくれればそれでよかったのに。

「じゃあ、仕方がないね」

 そう答えるしかなかった。

 クラカワマリという少女のことが気になってはいたけれど。だがケイにとって重要なのは、会ったこともない少女よりも、春埼だった。

 自身に言い聞かせるように、内心でケイはつぶやく。

 ──僕はきちんと、春埼美空を理解したいんだ。

 せっかく春埼が、興味を示す問題が現れたのだ。それを横からうばい取り、ごういんに解決しても意味はない。

 ──知りもしない女の子のことなんて、いくらでも切り捨てて見せるさ。

 切り捨てることには、れている。小学六年生の夏休み、さくとどまることを決めた時、そんなことに馴れてしまった。

 もう少しだけ春埼がわがままなら、ケイは喜んで、彼女に協力したのに。

「……わかりました」

 春埼美空がうなずいて、会話が終わった。


 相麻菫が屋上に現れたのは、それから一〇分ほどった時だった。

 とびらを開けるなり、彼女は言った。

「こんにちは、ケイ、春埼。さつそくだけど、移動しましょう」

「移動って、どこに?」

「生徒会室よ。貴方たちに、会わせたい人がいるの」

 となりでは春埼が、躊躇ためらいもなく頷く。

 ケイは軽く首をかしげる。

「ならどうして、屋上に呼び出したのさ?」

 目的地が生徒会室なら、教室で待っていればよかった。

 相麻菫は平然と答える。

「春埼と二人で会話するなら、屋上の方が気楽でしょ?」

 その通りではあったが。なんだか先ほどの会話も全部、相麻にはかされていたようで、あまり気分がよくない。

 相麻はくるりと向きを変えて引き返す。春埼はたんたんとその後ろに続く。ため息をついて、ケイも歩き出した。

 縦に三人、並んで階段を下りながら、ケイはたずねた。

「会わせたい人っていうのは?」

「生徒会長よ」

「どうしてそんな人に?」

「ある能力を持ってるの。この間、ケイには話したわよね。春埼のおくさぐる能力の話」

 能力を使って思い出すまでもなく、その会話のことは覚えていた。

 ──もっとしようさいに春埼の記憶を探ることができたなら、きっと一つくらい何か見つかると思うの。

 軽く頷いて、ケイは尋ねる。

「どうして君は、生徒会長の能力のことを知っているのかな?」

「一年生のころ、生徒会の手伝いをしていたのよ。会長とは顔見知りなの」

「それだけじゃない。君は僕の能力のことも、春埼の能力のことも知っていた」

「以前も答えたと思うけれど。情報というのはなんだって、適切な意思を持ち、適切な場所にいたなら、自動的に手に入るものなのよ」

「以前は言い忘れていたけれどね。そんな答えじゃ、なつとくできない」

 階段を二階分下りて、ろうを進む。

 そうかたしに、こちらをり返った。

「ちゃんと教えてあげてもいいけれど、だれにも言っちゃだめよ?」

「僕は今まで一度も、しやべらないと約束したことを、人に喋ったことがない」

 小さな声で、相麻は笑う。

「ならなおに頷いて」

 仕方なく、ケイは頷く。

「誰にも話さない。約束しよう」

「ありがと。実はね、秘密の資料を持っているのよ。一年生の頃、生徒会の仕事で職員室に行ったときに見つけて、コピーをとったの」

 そんなことが、あり得るのだろうか。

 生徒の能力に関する資料が、それほど乱雑にあつかわれることが。

 まったくないとは言えない。学校では、価値の基準にとくしゆゆがみが生まれるように思う。能力に関する資料よりも、実力テストの問題の方が厳密に扱われていたとしても、おどろきはしないけれど。

 平然と相麻は続ける。

「生徒会というのは、一見なんの価値もない集団だけど、でも情報の収集には向いているの。単純に職員室に入るひんが高いし、ほかの生徒よりは先生と会話することも多いし」

「クラス委員長をしているのも、それが理由?」

「ええ。その通り」

「ところで、もう一つ気になることがあるんだけど」

「なに?」

 適切な意思を持ち、適切な場所にいたなら、情報は手に入る。

「適切な場所というのが、生徒会だということはわかったよ。じゃあ、適切な意思というのはなんだ?」

 生徒の能力に関する情報を集めようとする意思。その目的。

 相麻すみれには、なんらかの目的がある。生徒会に入り、クラス委員長を務めるような目的が。

 相麻は足を止めた。彼女の前に、生徒会室の扉がある。

「そちらは秘密。いつかわかるわよ」

 会話を打ち切るように、彼女は生徒会室の扉を、軽くノックした。


 さかがみようすけというのが、ななさか中学校の生徒会長の名前だった。

 線の細い、がらな少年だ。──ケイよりは背が高く、歳も上だから、少年と表現することには多少のていこうがあるけれど。

 彼はいつだってみをかべている。場合によっては鹿にされるような、気弱げな笑みを。

 生徒会室にいたのは、坂上一人だけだった。

 彼はパイプこしを下ろしていたけれど、ケイたちが部屋に入ると同時に立ち上がった。なんだか物音におびえるハムスターみたいな動作だ。

「初めまして。生徒会長の、坂上です」

 彼の言葉は、に近づくほど小さくなった。坂上に歩み寄る、ケイたちの足音でき消えてしまうくらいに。

 彼の正面に立って、ケイは微笑ほほえむ。

「二年のあさです。初めまして」

 坂上はしばらく口ごもってから、パイプ椅子を指した。

「どうぞ、座ってください」

 彼は常に、何かに対して怯えているように見える。──朝礼なんかで発言する場合もこんな様子だ。

 ケイとはるは坂上の向かいに、相麻は彼のとなりにそれぞれこしを下ろす。そういう形にパイプ椅子が配置されていたのだ。

 坂上は相麻ばかりを見ていた。

「ええと、僕は、何をすればいいのかな?」

「能力を使って欲しいの。ケイから、春埼へ」

「ああ、うん、わかったよ」

 ケイは内心でため息をついて、たずねた。

「ちょっと待ってください。坂上さん、貴方あなたはどんな能力を持っているんですか?」

 坂上はあくまで、相麻に視線を向けたまま話す。

「説明してないの?」

「そういえば、まだだったわね。教えてあげて」

 彼はなんだかずかしげに、ケイの胸の辺りに視線を動かす。

「単純に表現するなら、能力をコピーする能力だよ。右手でさわった相手の能力を、左手で触った相手へ」

「へぇ。能力を対象にした能力なんてものが、あるんですね」

「うん。他の能力がなければ意味がない、ちゆうはんな能力だよ」

 相麻が何をしたいのかわかった。

 彼女はまっすぐ、春埼のひとみのぞき込んで、言った。

「私は貴女あなたに、ケイの能力を体験して欲しいの。ずっと昔の貴女を思い出すために」

 ケイの能力を春埼が使えたなら、彼女は何もかもを思い出す。もしかしたら、今の彼女が忘れてしまったおくの中になら、感情を持っていた春埼がいるのかもしれない。

「わかりました」

 と、春埼は答えた。いつものように、なんの躊躇ためらいもなく。春埼は他者にめいわくからない限り、何かをきよすることがない。

 ほとんど意識もせず、ケイは口を開いていた。

「ちょっと待って。春埼、君は本当に、それでいいの?」

 記憶というのは、とても強い力を持つ。それは自分自身の意思なのだから。今の人格をごういんゆがめてしまうくらいに、強い力を持つ。

 だが、春埼は平然と言った。

「何か問題がありますか?」

 ケイには何も答えられなかった。──僕が拒否することではないんだ、と思う。

 坂上は、相変わらず気弱げに微笑んでいる。

「じゃあ、始めるよ」

 彼は立ち上がり、不安定な足取りで長机を回り込んで、ケイと春埼の後ろに立つ。それから、「失礼します」とつぶやいて、右手でケイのひだりかたに、左手で春埼のみぎかたれた。

 ささやくほどに小さな声で、坂上は言う。

「この状態で、浅井くんが能力を使えば、春埼さんも同じ効果を受けることになる」

「例えば僕が一年前を思い出せば、春埼も一年前を思い出す、ということですか?」

「うん。春埼さんが自由に能力を使えるようになるわけじゃないんだ。浅井くんが使ったのとまったく同じ効果を受けるだけだよ」

 ケイは春埼の横顔に視線をやる。

「春埼。いつを思い出したい?」

「いつでもかまいません」

「君が決めるんだ」

 しばらくちんもくしてから、はるは答えた。

「では、七歳のころの記憶を」

「どうして七歳なの?」

「特に理由はありません。いて言うなら、クラカワマリのねんれいです」

 ケイはうなずく。

「わかった。それから、目を閉じた方がいいよ、春埼。今の景色を見ながら、昔の景色を思い出すと、ちょっと気持ち悪くなる」

 彼女が指示に従うのをかくにんしてから、ケイ自身も目を閉じる。

 その直前、そうの顔が目に入った。彼女はなぜだかとてもしんけんな表情で、こちらを見ていた。


    ※


 春埼そらは目を閉じて、七歳の頃を思い出す。

 七歳。そう考えても、具体的な記憶はなかった。

 小学二年生だった頃のことだ、と意識してようやく、ぼんやりと記憶がよみがえってきた。当時の教室、クラスメイト、いくつかの出来事。だがそれらはまだ、ばくぜんとしたものだった。

「じゃあ、いくよ」

 と、あさケイは言った。──その直後。

 春埼の意識は、六年前に立ち返った。暗い部屋に明かりをともすように。小学二年生の頃の何もかもが、くっきりとかび上がる。

 浅井ケイの声が聞こえた。

「僕たちは今、中学二年生で、ななさか中学校の生徒会室にいる」

 その言葉がなければ、自分はまだ小学二年生なのだと信じてしまいそうだった。浅井ケイの能力。それは、何もかもを思い出す。あまりに明確に、のうみつな過去を追体験するように。

 記憶の中で、春埼美空は、小学校の教室にいた。

 休み時間──先ほどまで国語の授業をしていて、もうすぐ算数の授業が始まる。小学二年生の春埼美空は、机の上に算数の教科書と、ノートと、筆箱を並べて、じっと授業が始まるのを待っている。そのすべてを、思い出した。当時使っていたえんぴつ、国語の授業で習ったこと、かんしよく、窓辺にある白いカーテンのれ方まで、すべて。

 周囲からは、当時のクラスメイトたちの会話が聞こえる。とてもそうぞうしい世界。意識して聞いていたわけもないのに、となりの席でわされる、男の子たちの会話まで思い出せた。──放課後、何をして遊ぼうか?

 その声に重なるように、現実の声が聞こえた。相麻すみれの声だ。

「小学二年生の貴女あなたは、何を考えていたの?」

 小さく首をって、春埼は答える。

「何も」

 ただ座って、時間が過ぎ去るのを待っている。休み時間には授業が始まるのを待ち、授業が始まれば終わるのを待つ。そのり返し。

「小学二年生の貴女は、貴女自身が定義したルールを、もう持っているの?」

 今度は、頷く。

「はい。今と同じものを」

 明確な言葉で定義されているわけではない。だが現在とまったく同じ内容のルールを、小学二年生の春埼は、すでに自分自身に課していた。

「そのルールを作ったのはいつ?」

「思い出せません」

 当時の春埼も、そんなこと覚えていない。

 次に聞こえてきたのは、浅井ケイの声だった。

「その頃の君は、母親に愛されたいと、願っているのかな?」

 春埼はそっと、首を振る。

「いえ」

 小学二年生の春埼美空は、今の春埼美空と、本質的に何も変わらない。

 ただ生きているだけだ。同じ形をしたまっ白な箱を二つ、目の前に置いて。その二つに差異があるとも思えないまま、ルールに従い一方を開ける。そんな生き方だった。

 ふいに強い頭痛を感じて、春埼美空は頭を押さえる。ろうかんが全身をおそった。なんだか気分が悪かった。

 みぎかたから、さかがみようすけの手がはなれるのがわかる。その直後、あれほどせんめいだったおくに、またゆっくりともやかっていく。

 目を開くと、相麻菫が、こちらをのぞき込んでいた。長机。パイプ椅子。ホワイトボード。──ここは、七坂中学校の生徒会室だ。春埼はもう一度、そのことを確認した。

「どうしたの?」

 と、相麻は言った。

「わかりません。急に、頭が痛くなりました」

 頭痛。そう感じたけれど、ちがったかもしれない。ともかくなんらかの苦痛を感じた。だがそれはもう治まりつつある。

 息を整えている間に、坂上央介と、浅井ケイの会話が聞こえた。

 坂上はあわてた様子で言う。今までよりも早口で、その声は聞き取りづらい。

「君の能力には、何か副作用のようなものがあるの?」

 対してケイの声は、いつも通り冷静に聞こえた。

「一度に大量の記憶を思い出せば、多少は苦しいものです。日常的には経験しない量の情報を、まとめて処理することになる」

「……なるほど。ほかには、問題はないの?」

「何を思い出すかによります。痛いことを思い出せば当然痛いし、いやなことを思い出すといらいらするし、悲しいことを思い出したら泣いてしまうかもしれません」

 軽く首を振って、春埼は告げる。

「もうだいじようです。続けますか?」

 答えたのは、そう菫だった。

「いえ。今日はめておきましょう。やみに苦しい思いをする必要はないわ」

「私が苦痛を感じることが、問題ですか?」

「ええ、とても問題よ。ケイが悲しそうな顔をするもの」

 春埼は隣に座る、浅井ケイに視線を向けた。

 彼の表情は、だんと何も違わないように見える。人の表情から感情を読み取ることは苦手だから、はっきりとはわからないけれど。

「当たり前だよ。人が苦しんでいるのを見るのは、悲しいことだ」

 と、彼は言った。

 平然と、わずかな悲しみも感じていない風に。


    ※


げんが悪そうね、ケイ」

 と、相麻すみれは言った。

 学校からの帰り道、あさケイは両手をポケットにっ込んで、相麻菫の隣を歩いていた。

 軽く首を振って、ケイは答える。

「それほどでもないさ。いつも通りってとこだよ」

はるの記憶をさぐるのが嫌だった? でもそれだけじゃないわね。私が行く前に、屋上で何かあったのだと思う」

 ケイはため息をつく。

「少しは人の話を聞いて欲しいね」

「明らかなうそを相手にしても、仕方がないもの」

「どうして噓だと思うのさ?」

「すぐとなりにいる人の機嫌くらいわかるわよ。そういうの、得意なの」

 たぶんそれは、真実だろう。

 相麻菫は人の心理を読むのが上手うまいし、浅井ケイは今、げんだ。

 ケイは話題を変える。

さかがみさんは、変わった人だね」

「悪い人ではないわよ」

「たぶん、善人なんだと思うよ。でもなんだか、いつもおびえているみたいだ」

 なぜ生徒会長なんかをやっているのか、理解できない。

「別にいいじゃない。気が弱くても」

「ま、実害はないんだろうけどね」

「でも何かが気に入らないのね?」

「そんなことはないさ」

「どこが気に入らないの?」

 相麻菫は口先だけの噓に、まったくといっていいほど反応しない。

 あきらめに似た気分で、ケイは答えた。

「例えば彼は、春埼に一度も声をかけなかった」

 春埼が苦しんでも、視線さえ向けなかった。

「どうして坂上さんは、春埼に声をかけなかったのかしら?」

「さぁね。こわかったんじゃないかな」

「春埼を怖がる理由なんて、ないと思うけど」

「まったくだ。春埼は怖がられる要素を、ただの一つも持っていない。えるわけでも、みつくわけでもない。彼女を許容できない部分があるとするなら──彼女に対し、不気味だと感じる部分があるとするなら、それは自分とは違うという一点だけだよ」

 春埼そらはあまりに無機質で、まるで人間ではない何かに見える。

 とてもリアルなコンピュータグラフィックスを、不気味だと思うようなものだ。人間にそっくりで、だが人間ではない何かを、気味が悪いと思う人はいる。

 坂上ようすけは、春埼美空を、人間だと信じられなかった。なんとなくそれが、彼の様子からわかった。

「それが許せないの?」

「許せないってほど強い感情じゃないさ。ただちょっと、気に入らない」

 相麻は笑う。

「ずいぶん春埼に入れ込んでいるのね」

「春埼に、じゃない。リセットという能力の持ち主に、だ」

「その割には、ケイ。貴方あなたはずっと、彼女の人格について語っているわ。能力じゃない、春埼美空という人間について」

「……能力と人格は、切りはなせるものじゃない」

 口に出すと言い訳じみているな、とケイは思う。だが噓ではない。

 さくの能力は、使用者の性質にぞんする。使用者の本質か、使用者が求めているものが、たいていは能力になる。

 ──はる美空は、リセットという能力を、望んだのだ。

 あれほど物静かな少女が。なんの望みも持たないような、ルールに管理されたアンドロイドのような少女が、リセットという強力な力を手に入れた。

 そうは言った。

「リセットが春埼美空の本質だと、貴方は思っているのね」

 ケイはつぶやく。それは相麻に伝える言葉というよりも、独り言に近いものだった。

だれであっても泣いている人を見つけた時、彼女はリセットを使うんだ」

 彼女は一つでもなみだを消すために、リセットを使う。そのこうを無意味だと自覚しながら。

 そんなものが。そんなに、鹿みたいにれいなものが、彼女の本質なのだろうか。

 小さな声で、相麻は笑う。

「貴方は春埼が、じゆんすいな善人だと信じているのね」

「信じられないよ。でも今の時点では、疑う余地がない」

 春埼美空はまるで、ちゆうしようされた一つのがいねんみたいだ。

 より純粋で、より無価値な、まるで形も持たないような、ただの、善だ。

 ケイの耳元でささやくように、相麻菫は言った。

「私が行く前に、あの屋上で、貴方と春埼は何を話したの?」

 彼女のいきぬるく、ほのかに甘い。

「クラカワマリ、という名前の少女がいる」

 母親に、愛されたいと願っている少女。

「春埼はきっと、その少女の涙を消したいんだ」

 きっと、とても強く、その涙を消したいと願っているんだ。

「それで、どうして貴方のげんが悪くなるの?」

 思わずため息がれる。

「春埼はその強い感情に、まだ気づけていないんだよ。それが、いやなんだ」

 なぜだかとてもなおに、あさケイは、そう答えた。


  3 七月


「もう一度私に、過去を思い出す能力を使ってください」

 と、春埼美空が言ったのは、七月二日のことだった。

 その日も春埼は、浅井ケイ、相麻すみれと共に、南校舎の屋上にいた。

 おどろいた様子もなく、相麻菫はうなずく。

「私は構わない。きっと、坂上さんも手伝ってくれると思うわ。あとは、ケイ、貴方だいね」

 浅井ケイはため息をつく。世の中のことが、すべてどうでもいいのだとでもいう風に。彼はたびたび、そういった表情をかべる。

「君はどうして、過去を思い出したいんだ?」

 春埼はその質問を、予想していた。浅井ケイは行動の理由をたずねることが多い。

「私が感情を持っていた時期を、思い出したいのです」

「どうして?」

「マリの問題を解決するためです」

 もうずいぶん前から、春埼は母親に愛される方法について、思いなやんでいた。

 だが答えは出なかった。代わりに、なぜ答えが出ないのか気づいた。

 ──私は誰も、愛していない。好きでもきらいでもない。

 いくら考えてみたところで、好きだという感情がわからなかった。

 ──そんなこともわからない私が、母親に愛される方法を、思いつくわけがないのだ。

 きっと、それは、とても当たり前のことだ。

 まず感情を見つけなければならないのだ、と春埼は思う。母親に愛される方法を見つけるためには、それが必要だ。

 ──感情。

 よくわからない言葉だ。感情を自覚したおくなんて、ほとんどありはしない。

 ゆいいつ、思い当たったのは、マリに制服のすそにぎられる時のことだ。その度に春埼は、とてもさいかんのようなものを感じていた。

 その違和感の名前が、感情なのかもしれない。春埼は自身の制服の裾を握ってみたけれど、そこに何かを感じることはなかった。

 浅井ケイは、春埼に視線を向けた。彼の視線にも、感情は見つからない。

「君は昔、感情を持っていて、今はなくしてしまったのだと思っているのかな?」

 春埼は頷く。

「はい」

「どうして?」

「私はなみだが熱いものだと知っています。きっといつか、私は泣いたことがあるのです」

 もう覚えていないけれど、おそらく。

 涙を流せるだけの感情を持っていた時期があるのだと、春埼は思う。

 軽く首をって、ケイは答えた。

「まぁいいさ。好きにすればいい」

 その日からはるそらは、自身の感情を捜し始めた。

 浅井ケイとさかがみようすけの助けを借りて、精密に過去を思い出し、感情を持っていたころの自分を捜した。

 時間をけて、少しずつ過去へと記憶を辿たどる。

 目的のものが見つかったのは、二週間後──七月一六日のことだ。

 その日、春埼美空は、五歳の頃の自分自身を思い出していた。




 道路脇に、いつぴきのセミがいた。

 ちょうど歩道と車道を区切る、白線の上だった。

 セミは腹を青空に向けて、ジィジィと音を立て、セロファンみたいなうすい羽をはためかせていた。だが、飛び上がることはない。かたいアスファルトの上をい回るだけだ。

 飛べないセミの姿は、とてもストレートに苦しみを表しているようだった。記号的な苦痛と絶望を、ぎゅっと手のひらにるサイズまで圧縮すると、このセミになるのだろう、と春埼は思った。

 でもセミは羽ばたき続けていた。決して飛べないのに、それでも。

 きっと、とてもつかれているだろう。アスファルトをこする羽は痛いだろう。思い通りに動けないことはきようだろう。なのにそのセミは、飛ぼうとしているのだ。

 五歳の頃の春埼美空は、そのセミを助けたかった。これだけ苦しんで、救われないなんてことが、あるべきではないのだと思った。

 だから春埼は、そのセミに手をばした。親指と人差し指で、セミの硬いれた。セミは一層激しくはためき、そして動きを止めた。

 ふいに動きを止めたセミの姿は、死を連想させた。生きていくために必要なエネルギーが、すべてけ落ちてしまったようだった。セミの体は、抜けがらみたいに軽い。

 春埼は手の中のセミを見つめる。

 やがてセミは、再びジィジィと鳴き始めた。ふいにまた羽ばたき、手の中からすべり落ちる。

 危ない、と春埼は思う。だがセミは、春埼の青いワンピースの、胸の辺りにとまった。

 春埼は安心して、辺りを見回す。このセミを木にとまらせようと思った。セミは木にとまり、樹液を吸って生きるのだという事を知っていたのだ。洋服にとまっているだけでは、セミが救われることはない。

 五歳の春埼は、とても小さい。大きな木の枝には、手が届かない。

 辺りを見回して、大人の身長ほどの生けがきをみつける。春埼はワンピースにそのセミをとまらせたまま、生け垣の前まで歩み寄った。

 複雑な形状をしたセミの足は、春埼のワンピースを弱い力でつかんでいた。

 春埼は細い生け垣の前で、セミをワンピースから引きはなす。ワンピースの布が少しだけ引っ張られ、それからセミが離れる。

 ──ああ、そうだ。

 中学二年生の春埼は、ふいに気づく。

 ──マリが制服を摑んだ力は、きっと、この強さだった。

 とても弱い、服の裾を摑むことしかできない力に、助かりたいという意思を感じた。

 五歳の春埼は、生け垣の細い枝にひっかけるようにセミを置く。

 長い間、セミは動かなかった。

 春埼はじっと、そのセミを見ていた。

 風が吹き、生け垣がれて、セミが落ちる。軽い音を立て、アスファルトにぶつかる。

 セミは少しも動かなかった。棒切れみたいに、アスファルトの上に転がっていた。いつの間にかそのセミが死んでいたことに、春埼は気づいた。

 このセミはもう二度と動かないのだ。空を飛びたいと願うこともないのだ。世界から、一匹のセミが、欠落したのだ。

 先ほどまで春埼のワンピースを摑んでいた、弱い力を思い出す。だがアスファルトに転がったセミはもう、春埼の服にとまることもない。

 ふいに、涙があふれた。悲しくて、仕方がなかった。

 目の前の死が、春埼自身におとずれたように、力が抜ける。両手をだらりとたらし、アスファルトのセミを見つめて、春埼は泣いた。

 みちばたで一人泣いていると、セミの声がよく聞こえた。いまだ力強く鳴く、いくつものセミの声。そのすべてが、いつか死ぬのだ。疑いようも無く、この夏が終わる頃には、すべてのセミが死んでしまうのだ。

 そう考えて、春埼そらはまた泣いた。




 中学二年生の春埼美空は、生徒会室のパイプに座り、五歳の頃のすべてを思い出していた。

 ぼうだいな情報が脳内に流れ込む感覚には、もう慣れつつあった。意識を押しつぶすようなおくかたまりを、受け入れる準備はできていた。

 なのに春埼美空は、顔をゆがめて、くちびるんだ。想定していなかった種類の苦痛が、脳ではなく胸の中心に発生した。──熱いのか、冷たいのかの判断がつかない。だがいずれかの温度を持った苦痛。

 そうすみれの声が聞こえた。

「どうしたの?」

 気がつけば、つぶやいていた。

「私は、泣いていた。ずっと」

 どうして、忘れていたのだろう?

 ──五歳のころの私は、とてもよく泣いていた。

 テレビしに不幸なニュースを聞くたびに、周囲にあった何かがこわれるたびに、悲しい物語を聞くたびに、あの頃の春埼は泣いた。

 まだ、なみだを流す機能を、失ってはいなかった。

 あさケイの声が聞こえる。

「どうして君は、泣いていたの?」

「それは、悲しいから」

「何が、悲しいのかな?」

「色々なことが。当たり前にあるものが、すべて」

 生きているものが、いつか死ぬことが悲しい。形のあるものが、いつか壊れることが悲しい。そんな、当たり前のルールが、すべて悲しい。

 きっとこの世界のばんには、不幸と、悲しみがある。重力によって地面に引き寄せられるように。あらゆる人は、生き物は、物体は、悲しみへと向かう力を、いつだって受けている。

 ──五歳の頃のはる美空は、日常にある何もかもを、悲しみでとらえていた。

 浅井ケイは、落ち着いた声で言う。

「当たり前が、悲しいんだね?」

「はい」

「だから君は、何も選べなくなったんだね? だから、ルールを作ったんだね?」

 春埼美空の行動を定める、いくつかのルール。

 彼は続ける。

「何もかもが同様に、悲しみにつながっているのなら。あらゆるせんたくは、無意味だ。何を選んでも、何も変わらない。だから君は、何も選べなくなった。何も選べないのに、何かを選ばなくてはならないから、君自身の行動を規定するルールを作った」

 きっと、そうなのだと思う。

 例えばあのセミに、手をばしても救えなかった。そのことを知ってしまった。

 結局、救うことができないのなら。死にかけたセミに手を伸ばすための、別の動機が必要になった。

 とても単純で、何かを望むこともない、無機質なルールが。

「一つだけ教えて欲しい」

 浅井ケイはだんと同じ、静かなこわいろで言った。

「悲しんでいるのは、だれだ?」

 そんなことは、明確であるように思えた。

 もちろん、春埼自身だ。理性ではそうわかっていた。

 でも、不意に不安になる。あのセミの死を、悲しんだのは春埼だったのか。悲しむべきなのは、あのセミ自身ではないのか。どうして春埼が、セミの死を悲しむのか。

 意識もせずに、

「わからない」

 と、春埼は呟いていた。


    ※


 時計の針によれば、一分にも満たないほどの、短い時間だった。

 たったそれだけの間、古いおくを思い出したことで、春埼美空はきわめてすいじやくしているように見えた。

 浅井ケイと相麻菫は、春埼を保健室に送り届けた。ベッドに横になったたん、彼女はねむりについた。それはなんらかのそうしつを連想させる、静かな眠りだった。

 彼女のとなりに、いつまでも座っていてもよかったのだ。そうしなかったことに、きっと理由なんてありはしない。ケイは何気なく、階段を上った。南校舎の屋上に出て、なんだかその場所にいると、とても心が落ち着くことに気づいた。

 空を見上げる。もう七月半ばの空。屋上の世界は、完全な夏に組み込まれていた。セミの声が、どこか低い位置からひびく。

「どうして、あんな質問をしたの?」

 と、相麻菫が言った。彼女はいつもよりも、少しだけ遠い位置に立っている。

 意図してみをかべて、ケイはたずねる。

「あんな質問?」

「そう。悲しんでいるのは、誰なのか。普通、そんなことは尋ねないわ」

「予感があったんだよ」

 今までずっと、考えてきたのだ。アンドロイドについて、人間について、そして春埼美空について。考え続けて、一つの予想に至った。

 彼女に欠けているものは、なんなのか。それがわかったような気がした。

「春埼に欠けているものは、いってみれば自己のにんしきだ。幼いころの春埼は、悲しいのが自分自身だということすら、わかっていなかったんだよ。そんなレベルで、彼女は自己の存在を、無視できるんだ」

 なぜ春埼がそうなったのか、ケイにはわからない。あるいは生まれた時からもう、すでに持っていた特性なのかもしれない。

 ともかく春埼そらは、自分自身を、上手うまく認識することができないのだと思う。

 自分を特別だと思えない人間。

 それだけですべてを、説明できるような気がする。

「例えばね、そう。普通、五歳の子供は、あれほどセミの死を悲しまない。世界について、あれほどきよくたんに、悲観視することはない」

「おそらく、そうでしょうね」

「それはきっと、みんな自分が特別だからなんだよ。面識のないどこかの誰かよりも身近な人の不幸を悲しみ、身近な誰かよりも自分自身の不幸を悲しむ。たいていの人は、そういう風にできているんだ」

 そうやって、バランスを取っているのだと思う。

 自分が特別だということは、自分以外は特別ではないということだ。他人の不幸を、自分には関係ないのだと、割り切れるということだ。

「僕だって、そうだ。僕が傷つくのも、僕が悲しむのも、いやなんだ。ほかの誰かの不幸よりも、ずっと」

「誰だってそうよ。誰だって自分のために人を助けて、自分のために人を傷つけるの」

「でも、はる美空は違う」

 例えば、テレビしに伝わる誰かの死と、自分自身の死に違いがなければ、この世界にはどれだけの数の悲しみがあるのだろう。世界中にある苦しみを、いちいち当事者と同じだけの苦しみとして受け入れていたなら、生きることは、どれほど難しいのだろう。

 セミの死すら、自身の死と同様に感じていたなら、この世界にはどれだけの絶望があるのだろう。

 その問題を解決するため、人はフィルターを用意するんだ。自分と他人を明確に区別して、他者の悲しみに対してにぶくなるんだ。

 でも、その機能を持っていなかった春埼美空は、悲しみ続けることしかできなかった。きっと感情がもうし、それを忘れ去ってしまうまで、ひたすらに悲しみ続けた。

「春埼美空は自分が特別ではなかったから、あらゆる悲しみを、悲しみのまま受け取ったんだよ」

 常識的に考えれば、それは改善すべき点なのだと思う。

 人間として生きる上で、必要な機能が欠落しているのだろうと思う。

 だがケイには、春埼美空の人格を、どうしても否定できなかった。

 ──それだけ苦しんだなら、普通、全部投げ出してしまうだろう?

 死にくセミを救えないのだと気づいたなら、もう、あきらめてしまうだろう。悲しみで感情が磨耗してしまったなら、もう、何もできなくなって普通だろう。

 ──なのに彼女は、行動し続けることを決めたんだ。

 無防備に悲しみにさらされながら、それでも彼女は物事を正しく判断するためだけに、ルールを作ったのだ。

 救えなくても救おうとすることを、感情をなくしても正しくせんたくし続けることを、春埼美空は自身に課したのだ。

 ケイはつぶやく。

「自分を持たない春埼だけが、正しいままでいられるのだと僕は思う」

 保身も、も、自己満足もなく、他者から愛されることすら望まない、ひたすらにじゆんすいな善でいられる。自分が善だということすら認識しない、そんな存在でいることができる。

「本当に善だと呼べる人間がいるとするなら、それはきっと、春埼だ」

 善意というのは、才能だ。

 才能と呼ばれるものの中で、最も純粋なのが善意だ。

 それを持たない者が、いかに努力で善人になろうとしても、生まれるのはただのぜんしやだ。どうしようもなく、ゆがんだ存在だ。

 春埼美空は、善であるという一点において、きわめて純粋な天才なのだと思う。

「それが、貴方あなたりんかんなのね」

 そうすみれは、小さな声で笑う。なんだか悲しげに笑いながら、言った。

「でも春埼には、だれも救えない」

「……そんなことは、わかってるさ」

 純粋な善は、とても弱い。誰も傷つけないまま出来ることは少ない。

 相麻菫がこちらに近づく。まっすぐケイのひとみのぞき込む。

「人は、善人に見守られるよりも、偽善者に救われたいものよ」

「そうだろうね」

「そして、ケイ。人を救えるのは、貴方のようにわがままな偽善者なのだと思う」

「僕は違う。僕は、偽善者ですらない」

 善人をいつわる勇気などないのだ。

 両親を捨てて、この街にとどまることを決めた時。絶対的なおく力によってあらゆる罪を忘れられなくなった時。偽善者でいることすら、できなくなった。

「今はそれでいいわ、ケイ。でも、貴方はとても強いから、いずれげ出せなくなる。善人を演じるべきだと判断したなら、きちんとそれをやりげる」

 はっ、と、ケイは笑う。

「理解できないね。僕はいつまでも、僕のままだ」

 相麻菫はケイに向かって、右手をばした。彼女の中指の腹が、弱い力で、ケイのほおれる。

「そうよ。いつまでも貴方は、貴方のまま。鹿みたいにやさしくて、けつぺきなくらい自身の悪意にびんかんで、自身の正しさを信じられないまま正しくあり続ける」

「わけがわからない」

「なら、証明してみせましょう」

「証明って?」

「貴方にまるで、善人のような行動をさせてあげる」

 相麻は右手を引っ込めて、ふいにみを消す。

「クラカワマリについて、調べてみたの」

「へぇ。それで?」

「彼女が、病院に通っていることは知っているかしら。私も小さいころ、通院していた病院なんだけれど」

 相麻菫が、昔?

 そんなはずはない、とケイは思う。

「君は去年、さくに引っしてきたはずだ。どうしてこの街に暮らしているマリと同じ病院に通っていたのさ?」

「生まれたのはこの街よ。一度出て行って、去年またもどってきただけ」

「初耳だね」

「私の過去が気になる?」

 咲良田で生まれた、というのは、なんとなく気になるけれど。

「まぁいいよ。それで、クラカワマリがどうかしたのかな?」

「ええ。その病院の先生に、彼女のことを聞いたのよ」

 相麻菫はうなずいて。

 そして、クラカワマリという少女について、たった一つのたんてきな事実を、告げた。


    ※


 保健室で目を覚ましたはるそらは、ゆっくり自身の胸をでた。

 そこに感じた強い痛みが──それはおそらく悲しみが、もう消え去っていることをかくにんする。

 あさケイの記憶保持。その能力は決して解除することができないのだと、彼は語った。

 彼は能力を使って思い出したことを、忘れることができない。

 でも、春埼美空は違う。春埼はさかがみの能力をかいして、浅井ケイの能力の効果を受けている。坂上が能力の使用をめれば、春埼から記憶保持の能力は失われる。

 浅井ケイの能力によって思い出した悲しみを、春埼美空は忘れることができる。

 ベッドから降りた春埼は、かばんを手に取り、保健室の先生にもうだいじようだと告げた。浅井ケイも相麻菫も、近くにはいなかった。きっと先に帰ったのだろう。

 保健室を後にして、くつえ、校舎を出る。

 セミの声が聞こえた。いくつものセミの声。だが中学二年生の春埼は、その声を聞いても悲しみを感じなかった。

 帰路のちゆう、小さな公園の前を通りかかり、春埼はそちらに視線をやった。

 一つだけブランコがれていた。そこにクラカワマリがいた。会うのは二週間ぶりくらいか。特別な意図もなく、春埼はマリに歩み寄る。

「あ、お姉ちゃん」

 こちらに気づいたマリが、うれしそうに声を上げ、ブランコから飛び降りる。彼女の肩にかったポシェットが、ふわりとかび上がった。

 マリは笑みを浮かべ、こちらにけ寄ってくる。

 これは、笑顔だ。四月末に出会って、もう三か月近くつ。その間にマリの表情は、ほぼ理解できるようになっていた。笑顔と泣き顔の区別がつかなくて、まどうようなことはない。

「ブランコから飛び降りると、危ないです」

 と、春埼は告げた。

 マリはとてもなおに頭を下げる。

「ごめんなさい」

 それから顔を上げて、また笑う。

おそかったね。今日は、会えないかと思った」

「生徒会室に行ったり、保健室に行ったりしていました」

「保健室?」

「少し体調が悪かったのです」

 マリの顔が、不安げにゆがむ。それに気づいて、春埼は付け足した。

「もう大丈夫です。体調は回復しました」

「そっか。よかったね」

「ええ」

 おそらくは。いつぱんに、体調不良は改善された方がいいと言われている。

 ──だが、あの胸の痛みは、本当に失うべきものだったのだろうか?

 ふいにそんな疑問がき上がる。だが答えは出なかった。

 春埼とマリは、並んでブランコに乗った。マリがそうしたいと言ったのだ。春埼に断る理由はなかった。

 小さな子供用のブランコに乗ることにも、ずいぶん慣れた。マリとの会話にも、多少は慣れてきたはずだ。

 それは成長なのだろうか、と春埼は考える。

 おそらくは、違う。ただ春埼の中に、新たなルールが構築されつつある、というだけのことなのだろう。マリとの会話に適したルールが。

 そのルールは、いまだ言語化されていない。くっきりとしたりんかくが生まれ、言語化された時、より快適なルールになるだろう。

 ブランコに揺られながら、そんなことを考えていた時だった。

 公園の入り口に、知っている少年が立っていることに気づいた。

 ──あさケイ。

 なぜ彼が、ここにいるのだろう?

 彼の帰り道は、こちらの方向ではない。彼とそうすみれはいつも、学校を出て、反対の方向に進む。

 浅井ケイはゆっくりと、こちらに歩み寄った。口元だけを歪めるみを浮かべて。

「意外にブランコが似合うね、春埼」

「ブランコに、似合う、似合わないがあるのですか?」

「たぶんね。僕は似合わない」

 彼はマリの前で立ち止まる。マリはブランコをこぐのをやめて、なんだか不思議そうに浅井ケイを見ていた。

「クラカワマリさんだね?」

「うん」

「はじめまして。はると同じ学校に通っている、浅井です」

 そう言って、彼は右手を差し出した。

「手?」

 マリは首をかしげる。

 ケイはやさしげに微笑ほほえんだ。

あくしゆしてもらえないかな」

「握手?」

「そう。手と手をつなあいさつ

 なつとくした様子で、マリは浅井ケイに手をばす。彼はその手をつかむ。──手のひらをにぎるのではない、手首まで指を回し、まるで脈を計るような。それはみような握手だった。

「良い服を着ているね」

 と、浅井ケイは言う。

 彼の言葉で初めて、春埼はマリの服装に注目した。チェックがらの、ノースリーブのワンピース。

 マリはうれしそうにうなずく。

「うん。お母さんに、買ってもらったの」

「ちょっと失礼」

 浅井ケイはマリの首の後ろに手を回し、何かをかくにんしたようだった。

 それから彼は、マリのかたに手を置いて、言った。

「君はどこの学校に通っているのかな?」

「えと、川原かわらざか小学校」

 春埼の知らない小学校だった。この辺りの学校ではない。

 浅井ケイは頷く。

「ずいぶん、遠いね。どうしてこの公園に?」

「……今日は検査の日だったから」

「検査?」

「検査の日は、お母さんがむかえに来るまで、ここで遊んでるんだよ」

「なんの検査をしているのかな?」

「よく、わかんない。血を採られたり、へんなテストをしたり」

「そう」

 浅井ケイは、頷く。

「ところで、マリ。君に一つ、聞きたいことがあるんだけど」

「なに?」

 彼は、優しげな笑顔をかべたまま、言った。

「七年前、くらかわという少女が死んだことを、君は知っているかな?」

 浅井ケイが語った言葉の意味を、春埼はしばらく、理解することができなかった。


    ※


 つい先ほど、屋上で、相麻菫は言った。

「倉川真理は、七年前に死んでいるわ」

 浅井ケイは「死んだ?」とたずね返す。とても信じられなかったのだ。

 だが相麻は平然と頷いて続けた。

「倉川真理は、上手うまくこの世界に、生まれてくることができなかった。医者が母親のおなかを切った時、もう彼女は息をしていなかった」

 相麻菫の話を、うそだと笑い飛ばすことは簡単だ。そうしてしまうのが、最も常識的な対応だとケイは思う。

 ──でも、この街には能力があるんだ。

 それは、あらゆる常識が意味を失う力だ。浅井ケイがすべての過去を捨てて、この街にとどまろうと決めた力。何が起こったところで、不思議ではない。

 だからケイは、まっすぐこの公園にやってきた。

 事実を確認するために、マリのひとみのぞき込んで、片手を摑んだまま尋ねた。

「七年前、倉川真理という少女が死んだことを、君は知っているかな?」

 本当に、倉川真理という少女が死んでいたとして。それでもなお、こんな質問をするべきではないのだと思う。七歳の女の子に、尋ねるべきことではない。

 だがケイは、さらに言った。

「倉川真理が死んだのなら。マリ。君は一体、だれなんだろう?」

 マリの顔には、深刻なおびえが浮かんでいるように見えた。

 彼女が息をんだのは、きようによるものだと思えた。

 ただまどうだけではない、怯えるという反応に、ケイは内心でため息をつく。この少女はきっと、倉川真理の死について、何かを知っている。

 マリはか細い、無理にしぼり出したような声で、答えた。

「……私は、クラカワ、マリ、です」

「そして、君は生きている。少なくとも体温を持ち、血も流れている。一体──」

 ケイは言葉を切り、マリの手をはなす。

 公園の入り口に、一人の女性がいるのを見つけた。長いかみ、白い服。彼女はまっすぐに、こちらに近づいてくる。

「お母さん」

 と、マリがつぶやいた。

 ケイはその女性から、視線を外せなかった。

 ──なんて表情をするんだ。

 それが、マリの母親に対する、最初の印象だった。

 悲しみ、苦痛、恐怖、こうかいあきらめ──そういった要素が一つずつ、彼女の表情にこびりつき、顔中の神経をげきしている。そして出来上がるのは、いかりと悲しみの中間にあるような、こわった無表情だった。

 髪は明るめのブラウンに染めている。だが彼女のふんは、決してやわらかくはなかった。顔のしわのせいだ、とケイは思う。じりと口元、共にがおではできない形に、皺が入っている。

 マリは逃げ出すように、母親にけ寄る。そのまま、きつくような速度。だが彼女は母親のすぐ手前で足を止めた。母親はマリに冷たい視線を向けてから、表情もなくはるを見た。

「いつもありがとうございます」

「いえ」

 春埼もまた、表情もなく答える。

 いつの間にか、日は暮れかかっていた。

 二つの無表情が、赤い夕日に照らされる。

 マリの母親は、おそらく事の真相をすべて知っている。マリという少女が何者なのか、きちんとあくしているのだろう。

 だがそれを、直接尋ねようという気にはならなかった。その女性の表情が、あまりにつかれ果てていたから。さいな発言が、とんでもない問題につながりそうな気がした。

 マリは母親の一歩分後ろについて、公園を出て行く。そのちゆう、マリは何度かり返って、春埼に手を振った。きっと、いい子なんだろうな、とケイは思う。

 マリと母親の姿が見えなくなってから、春埼は言った。

「クラカワマリが死んだ、ということについて、教えてください」

「そのままだよ」

 ケイはそうから聞いた話を、春埼に伝える。彼女はだまって、その話を聞いていた。はたにはなんの変化も見えない。だんと同じ、春埼そらだった。

「春埼。君はこれから、どうするつもりだ?」

「どうする、というのは?」

「マリに対する接し方。かかわるかいなかの判断。そういうことだよ」

「今まで通りでは、いけませんか?」

「あの少女には、何か普通じゃない事情がある。それがどういった事情なのかはわからない。でもね、ある程度のけいかいが必要なんだと、僕は思う」

 春埼は長い間、じっとケイの横顔を見ていた。

 それからゆっくりと、首を振った。

「私は行動を変えるつもりはありません」

「今までと同じように、マリに接するんだね?」

「そのつもりです」

 ケイはため息をつく。

 倉川真理は、七年前に死んでいる。そんなこと、春埼は気にも留めないだろうという予感はあった。自分自身をにんしきしていない彼女は、何かを不気味だと思うことも、危険な気配に怯えることもない。

 春埼美空は彼女自身に起こる出来事に対して、あまりに無防備だ。

 ケイは春埼のひとみのぞき込む。作り物みたいな、れいな瞳。

「好きにすればいいさ」

「はい」

「でもね、もし君があの少女の幸せをいのっているのなら、方法を選ぶな。全力をくせ。君自身のルールを超えて、最善を考え続けろ」

 君は、もう少しわがままになっていいんだ、とケイは思う。

 春埼は何も答えずに、じっとケイの表情を見ていた。

「とりあえず、三日に一度はセーブするように気をつけて。僕と君の能力があれば、たいていの困難には対処できる」

 そう告げて、あさケイは春埼美空に背を向けて、歩き出した。

 正体のわからない、ばくぜんとした何かにいらちながら。


    ※


 一人ろうを歩きながら、まどしに夕暮れの空をながめて、相麻すみれは考える。

 ──アンドロイドとは、なんだろう?

 彼女にとって、それは、すでに答えの出ている問いだった。

 アンドロイド。人間そっくりに作られた、人間ではない何者か。

 それはプログラムによってどうする。どれだけ人間そっくりに見えても、仮にが目覚めたとしても。結局は、そういうプログラムが組み込まれていたのだという意味しか持たない。

 管理されたルールの内側にとらわれ、決してみ外すことができない存在。

 それが相麻菫の定義する、アンドロイドだった。

 ──アンドロイドは、だれ

 浅井ケイはいずれ、あの問いの意味に気づくだろう。だがそれは、今ではない。現行の予定では二年後、もう相麻菫がいない世界で、だ。

 生徒会室にとうちやくし、軽くノックをしてから、とびらを開ける。

 部屋の中では、さかがみが一人、ぼんやりとパイプに座っていた。

「あら、まだいたのね」

「うん。君のかばんがあったから、もどってくると思ってね」

 にっこりと笑って、相麻は「ありがとう」と答える。

 すべて予定通りだった。生徒会室を出る時には、かぎけて、それを職員室に返しにいかなければならない。坂上が待っていることを知っていて、この部屋に鞄を置いたままにしていた。

 同じように、これからわすべき会話もわかっている。もうずっと昔から、そんなことはわかっていた。

 鞄を手に取りながら、さりげない口調で、相麻は言った。

はるこわいんでしょう?」

 坂上はみような声を上げた。アとウの中間みたいな声。

 視線を向けると、彼はみを消していた。とてもめずらしいことだ。心の底から笑った顔もそうそう見る機会がないけれど。とりあえず笑ってさえいれば、あらゆる問題が頭の上を過ぎ去るのだと信じているのだろう。

 くぐもった声で、坂上は答える。

「そんなことはないよ。ちっとも、怖くない」

「そう? 私は、春埼が怖いわ」

 もちろんうそだ。

 だが今は、こういう会話をすべき時なのだと知っていた。

 だからそうは告げる。

「彼女はなんだか、作り物みたい。たまに、とてもうす悪くなるの」

 こんな言葉をケイに聞かれると、きっときらわれるだろうな、と相麻は思う。だが仕方がないのだ。これが最も、正しいせんたくなのだから。

 坂上が息をむのがわかる。それから、ゆっくりとうなずいた。

「……わかるよ。でも君は、春埼さんの友達なんだと思ってた」

「できるなら友達になりたいわ。でも私には、春埼を受け入れることができない」

 この言葉だけは、本心だった。どうしたところで、春埼の友人にはなれない。

 坂上は安心したように笑う。

「よかった。ずっと、僕が変なんだと思ってたよ」

「変って、どうして?」

「春埼さんと、あとは浅井くんも。なんだか、まともじゃないと思ってたんだ。でもこうはいに対して、そんなこと考える方が変なんだろう、って」

 まとも、という言葉について、相麻は考える。

 それはおそらく、ぼんようだということだ。大多数から平均値を算出し、それを中心とした一定のはんを指す言葉が、まともだ。

 何もかもがこわれていて、その中に一つだけ正常なものがあったなら、正常な方がまともじゃない。壊れている方が、まともだ。

「そうね。彼らは、まともじゃない」

 少なくとも彼らは、大多数の平均ではない。

 同意を得られたことに安心したのだろう、坂上は頷く。

「どうして君は、彼らといつしよにいるの?」

「あの二人が困っているからよ。相手にかかわらず、困っていたら助けるべきだと思わない?」

「そう。君は、いつだってやさしいね」

 優しいはずがない。平気でこんな会話をしているのだから。

 だが相麻は答える。

貴方あなただって、同じでしょう? 気味が悪いと思いながら、ケイたちに協力しているんだから」

「僕は彼らに協力してるんじゃない。君に協力してるんだよ」

 一呼吸置いた後で、さかがみは言った。

「ねぇ、君はいつも優しくて、正しいんだと思う。でもあさくんたちとは、もう少しきよを置いた方がいいんじゃないかな?」

 できるなら、否定したかった。

 浅井ケイと、春埼そら。あの二人の正当性を、主張したかった。

 彼らがどれだけ誠実で、善良なのか、いくらだって語れる自信があった。

 本当に、そうしたかったのだ。心の底から、そうしたいと求めていた。

 ──なのに、できない。

 相麻すみれは、未来を知っている。この場面でケイたちをようした時に、何が起こるのか、知っている。

 坂上はケイたちへの不満をつのらせ、彼らをけ始める。坂上がいなければ、今後の予定が、すべてくるってしまう。

 ここでケイたちを、こうていしてはならないのだ。

 わざわざこのタイミングで、坂上に会った意味がなくなる。

 目的を見失ってはいけない。多少でも坂上を安心させるために、相麻はこの会話を始めたのだ。──私は貴方の仲間だと、噓をつきに来たのだ。

 だからそうは、あいまいに頷く。

「そうね。考えてみるわ」

 坂上は安心したように微笑ほほえむ。目的は、達成した。とても気分が悪かった。

 会話を打ち切るために、たずねる。

「貴方の目から見て、私は正常なのかしら?」

 坂上は、平然と微笑んで答えた。

「うん。君はだれよりも、正常だよ」

「それはよかったわ」

 きっと、坂上ようすけには、正常でいることしかできない苦しみなんてわからない。最適解を選び続けてしまう生き方なんて、理解できない。

 坂上は何かを言いたそうに、相麻の方を見ていた。拾われたがっている捨て犬のような目だった。一緒に帰りましょう、と提案すれば、彼が喜ぶことはわかっていたけれど。だが今は、できるなら一人になりたい。

「坂上さん。わざわざ待っていてくれて、ありがとう」

 それじゃあさようなら、と声をけて、相麻は生徒会室を出る。

 なにもかも、順調だ。すべてが予定通りに進行している。当たり前だった。

 相麻菫は、未来を知る能力を持っている。彼女が望む未来へと続くルートを知っている。

 ──でも、私は、

 階段を下りながら、相麻菫は考える。

 ──ただ予定をこなすだけの私は、人間なの?

 最適な未来につながる、厳密なルート。

 相麻菫はそのルートを、み外すことがない。ルートを踏み外した先には、望む未来がないことを知っているから。相麻の理性が、ほかせんたくを選ぶことを許さない。

 完全なプログラムでせいぎよされているように。未来視という能力は、絶対的な力を持って、相麻菫の行動を支配する。

 アンドロイドは、だれ

 最も人間からかけはなれているのは、一体、誰?


  4 八月


 足元をスズメが、小さくねながら移動している。

 公園のベンチに座ったはる美空は、そのスズメの姿を目で追っていた。

 八月一三日。夏休みに入ってもう、三週間ほどがつ。春埼は通学路のちゆうにある小さな公園に顔を出すことが、習慣になっていた。いつクラカワマリがおとずれてもいいように。

 一人きり、このベンチに座っている間、いつも考えていることがある。

 ──私は人の感情を、理解することができるだろうか?

 夏休みの間、春埼はずっと、感情をさがしていた。マリの感情を理解し、母親の感情を理解しなければ、彼女たちの問題を理解できないだろうと思った。

 だけど感情はどこにもなかった。

 図書室にも、映画館にも、古い玩具おもちやまった箱にも、どこにも。

 五歳のころ、あのセミを助けようとして助けられなかった時、春埼は確かに感情を持っていたはずなのに。いつか、どこかの段階で、それを失くしてしまった。

 どうすれば、感情は見つかるのだろう。

 あさケイ。彼ならそのを、知っているのだろうか? ──そう考えて、疑問に思う。なぜ思考が彼に繫がったのかわからない。春埼の見る限り、浅井ケイは同級生の中でも、感情のふくが少ない方に思えた。

 気がつけば足元のスズメは飛び立っていた。春埼は何もない地面を見ていた。もうすぐこの公園に来て、三〇分経つ。今日はマリがやってこない日なのだろう。

 春埼は自問する。

 ──マリが来ないことは、悲しい?

 答えは、すぐに出た。

 ──悲しくない。

 そしてベンチから立ち上がり、歩き出す。誰もいないブランコが視界に入った。感情を持つ人は、例えばこんなものにも、何かを感じることができるのだろうか? ただそこにあるだけの物質にも。

 公園を出る。マリの声が聞こえたのは、その時だった。

「お姉ちゃん」

 と、彼女は言う。通りの向こうから、まっすぐにこちらに走ってくる。いつものようにみをかべることもなく、あらいきづかいで。

「助けて、お姉ちゃん」

 ああ、彼女は今、悲しんでいる。そうなのだろうと、春埼は思った。

「何があったのですか?」

「逃げないと。つかまる。お母さんに、会えない」

 訳がわからなかった。ともかく彼女は、何かから逃げているらしい。

「わかりました。では、逃げましょう」

 と、春埼は言った。


 二人、手を繫いで、夏の午後四時三〇分を走る。季節によっては夕刻と呼べる時間だが、八月の太陽はまだ高い。

 春埼が目指したのは、とりあえず人通りが多い方向だった。

 商店街のファーストフード店を見つけ、そこにけ込む。店内はそれなりに混雑していた。これならそう簡単には見つからないだろう。

 前の通りを見通せるまどぎわの席にこしを下ろして、春埼は大きく、息をついた。熱気がからまっていた気管に、れいぼうの効いた店内の空気を流し込む。ふと、あせが冷えてマリが風邪かぜをひかないか気になった。

 春埼はれた息でたずねる。

だれから、逃げて、いるんですか?」

 マリは答えない。ただ、首をるだけだ。

「どうして、追いかけられているんですか?」

 彼女はまた、首を振った。彼女も事情を知らないのだろうか?

 じようきようを理解できなければ、どう対処していいのかもわからない。

 思いなやんでいると、マリはゆっくりと、とても小さな声でしやべり始めた。

「黒い服の人が、お母さんはもういなくなった、って」

「その人が、貴女あなたを追いかけているのですか?」

「私が悪いの。私が、ニセモノだから」

 会話が成り立たない。あきらめてはるは、マリの小さな声に耳をませる。

「ホンモノは、もういないから、ダメなの。私がニセモノだから、たぶんお母さんは、いなくなったの」

 ホンモノ。ニセモノ。思い出したのは、浅井ケイから聞いた話だった。──くらかわは、七年前に、死んでいる。

 マリの表情はゆがんでいた。泣いているのだ。春埼がそう理解したとたん、マリはなみだを流した。

 泣きながら、春埼のワンピースをつかんだ。とても弱い力。それはきっと、救いを求める力だ。

 春埼は辺りをわたす。窓の外、通りの向こうに、黒いスーツの男を見つけた。一人ではない。にんできるだけで三人。彼らは辺りの店内をうかがいながら、こちらに近づいてくる。

 とつに、マリの手を取って席を立った。

「窓の外を見てください。貴女を追いかけているのは、彼らですか?」

 マリは目をこすり、小さくうなずく。

 ここにいては、いずれ見つかってしまうだろう。だが外に出て、逃げ続けることはできるだろうか? 一体いつまで、逃げればいいというのだろうか?

 ──リセット。

 と、春埼はつぶやこうと思った。

 マリは泣いていて、外には黒いスーツの男たちがいる。全部、やり直そうと思った。

 だが、浅井ケイの言葉を思い出す。

 ──君が一人でリセットを使うことは、無意味だ。きっと君がリセットを使っても、女の子が泣きやんだりはしない。

 そんなことは、わかっていた。結局はもう一度、同じことをり返すだけだ。リセットでは何も、解決しない。

 ──もし君があの少女の幸せをいのっているのなら、方法を選ぶな。全力をくせ。君自身のルールを超えて、最善を考え続けろ。

 考えている。ずっと、考えている。なのに思いつかないのだ。一体、どうすればいいのか。どうすればマリが笑うのか、わからないのだ。

「お姉ちゃん」

 マリが、春埼にしがみつく。

 その手に小さな青色のふうとうにぎっているのが見えた。一体、いつから握っていたのだろう。見覚えのある封筒だった。

 以前、そうから春埼が受け取り、マリにわたしたものだ。

 ──お守りみたいなものよ。困った時に、開いてみて。

 そうだ。マリはあの時、封筒をポシェットにしまった。いつも肩からさげているポシェットに。

 彼女はずっと、この封筒を持ち歩いていたのだろうか。こんなもので救われると、信じているのだろうか。

 春埼は言った。

「その封筒を、貸してください」

 封筒を開いてみることに、意味があるとは思えない。リセットと同じように。きっとそんなことで、マリが救われたりはしない。

 だが、ほかたよるものもなかった。これでだめなら、どこかに逃げ出そう。捕まるまで逃げて、リセットしよう。無意味だとしても、他の方法が、わからない。

 春埼は小さな封筒を破って開く。中に入っていたのは、小さなメモ用紙だった。

 そこにはハイフンで区切られた、いくつかの数字が並んでいる。

 この封筒を受け取った時、相麻は言った。

 ──それから貴女のお願いを、きちんと言葉にするの。そうすると、お願いがかなうようになってるわ。

 その意味を、春埼そらは理解した。

 数字のとなりにはれいな字で、あさケイ、と書かれていた。


    ※


 その時、ケイはベッドにころがり、古いミステリ小説を読んでいた。

 もうずいぶん前に買ってきたものだ。初めの方だけ読んで、ほんだない込んでいた。好みに合わないわけでもないのだけれど、なんとなく読み進める気にならない。そんな本だった。

 二章目の終わりに人が死んで、ページをめくろうとした時に部屋のとびらがノックされた。たたき方でわかる。なかとものノックだ。

 ケイは起き上がり、扉を開ける。

「電話だ、ケイ」

 智樹はにやにやと笑いながら、コードレスの子機をケイに差し出した。

「ん、ありがと」

 ケイはそれを受け取って、通話ボタンを押す。智樹は相変わらずみをかべたまま、勝手に部屋の中に入った。

 電話機を耳に当てると、すぐに声が聞こえた。春埼美空の声だった。

「浅井ケイですか?」

「うん」

 フルネームで名前を呼ばれるというのは、なんだか気持ちが悪い。

「お願いがあります。私は、マリを助けたい。協力してください」

 思わず、笑みの形に口元がゆがむ。

じようきようを説明して」

「マリが何者かに追われています。相手は複数人の成人男性です。彼らから、げ切る必要があります」

 おどろきはしなかった。クラカワマリという少女については、しんな点がある。彼女の周りで何が起ころうと、受け入れるつもりでいた。

 ケイはたずねる。

「警察には?」

「……考えていませんでした。すぐにれんらくします」

「いや。しない方がいい」

 社会的な正義がマリの味方なのかいなか、まだわからない。

「ともかく合流しよう。今、どこにいる?」

「商店街です。学校の、少し南西にある」

 ケイは目を閉じ、彼女がいる周囲の景色を思い出す。

「公衆電話を使っているね? コンビニの前? それとも、薬局の前?」

 商店街には、その二しよにしか公衆電話がない。

「薬局の方です」

 と、はるは答える。

「そこから西の方向に進むと、バスの停留所があるのを知っているかな?」

「……いえ」

「すぐ右手にわきみちがあるね? そこに入って、最初の角を左に曲がれ。大通りに出ると、停留所が見えるはずだ」

 ケイは室内の時計に視線をやる。同時に、その停留所の時刻表を正確に思い出した。

「二分後に東へ向かうバスが来る。走れば間に合うから、それに乗って。三つ目の停留所で合流しよう」

「わかりました」

 その声が聞こえた直後、電話が切れた。

 相変わらずにやにやと笑みを浮かべたまま、智樹は言う。

「なんだ、デートのさそいか?」

「似たようなものだね。とうこうに誘われた」

「おお、マジか。青春だな」

「君もついてきて欲しい」

「ん?」

「女の子は二人いるんだよ」

 ケイはコードレスの子機をベッドに投げ捨てる。

 それから、口元だけを歪める笑みを浮かべて、言った。

「さあ、急ごう」

「おお。めずらしくやる気じゃないか」

「当たり前だよ。女の子が助けを求めているんだ。僕たちには全力をくす義務がある」

 なかともも、笑って答える。

「よくわからんが、その通りだ」

 その会話が終わるころには、二人ともくつき終えていた。


 せいいつぱい自転車をいで、一〇分後には約束の停留所についていた。ケイが乗ってきた自転車は、彼の持ち物ではない。中野智樹の父親に、自由に使っていいと言われているものだった。

 上がった息を整えながら、智樹は言う。

「女の子二人って、片方は春埼だよな?」

「もちろん」

「もう一人はそうか?」

「違うよ。君の知らない子だ」

可愛かわいいのか?」

「うん。春埼よりも、ずっと」

 智樹は口笛を吹く。彼は音を出すことは、基本的になんだって上手うまい。

「春埼の可愛さもたいがいだろ。変なやつだけど」

「どうかな」

 ケイは春埼そらを、可愛いと思ったことがない。彼女を表す言葉は、れい、だ。どこまでもじゆんすいに、にごりも歪みもなく、綺麗。

 二人がそんな会話をわしているうちに、バスが停留所にとうちやくした。

 マリの手を引いて、春埼がバスを降りてくる。二人ともワンピースを着ていた。春埼はあわい水色の、マリはチェックの一部分だけを拡大したような、太いラインがななめに入ったワンピース。

 マリを見て、智樹はつぶやく。

「もう一人の女の子って、あの子か?」

「うん。可愛いでしょ?」

「そうだな。でもオレはもうちょい、胸が大きい方が好きだ」

 こちらに気づいた春埼が、小走りに近づいて来る。彼女は一度、口を開き、しかし言葉が思いつかなかったのかまた閉じた。とても人間味のある動作だ、と思う。

 ケイは微笑ほほえむ。

「とりあえず後ろに乗って。移動しよう」

「わかりました」

 となりでは智樹が、マリに名前を聞いている。マリは静かに、うなだれていた。泣きつかれたように。

 はるを後ろに乗せて、ケイは自転車を漕ぎ始める。がしゃん、がしゃんと音を立て、自転車のチェーンが回る。午後五時を少し回った頃。日が暮れるのは、まだもう少し先だった。

 後ろにマリを乗せた智樹の自転車が、隣に並ぶ。

「どこに行くんだ?」

「停留所なんてわかりやすい場所じゃなければ、どこでもいい。とりあえず一度、君のうちに帰ろうか」

 背中に春埼の手がれていた。彼女に触れるのは初めてだな、とケイは思った。きちんと体温のある、人間の手のひらだ。

「春埼。事情を説明してもらえるかな?」

「よく、わかりません」

「君が知っていることだけでいい」

 春埼美空は、ゆっくりと語り始める。

 公園の前で、マリに会ったこと。彼女は黒いスーツの男たちに追われていたこと。マリがにせもので、本物ではないから母親がいなくなったのだと告げたこと。

 それでだいたい、推測できた。死んでしまったくらかわと同じ名前を持つ少女。彼女がひんぱんに、検査を受けていた理由。彼女を追っている人たちの正体。そしてマリが、母親に愛されなかった理由。

 ケイはたずねる。

「春埼。君が前回、セーブしたのはいつだ?」

 だんよりも小さな声で、彼女は答えた。

一昨日おとといの、午後九時過ぎです」

 よかった。ちゃんとセーブしていたようだ。

 次の質問は、マリに尋ねるべきことだった。おそらくマリを傷つける質問。これ以上、マリを傷つけることが、正しいとは思えない。

 ──でもね、切り捨てることには、れているんだよ。

 内心でそう呟いて、はたには平然と、ケイは尋ねた。

「マリ。君は、能力によって作り出された存在だね?」

 彼女は答えない。ただうなだれているだけだ。

「きっと君の母親は、本物の倉川真理が死んだ時、能力を得た。死んでしまった倉川真理と同じ子供を作り出す能力を。その能力で作られたのが、君だね?」

 マリは小さく、うなずいた。

 ケイの背中に触れた、春埼の手に力がこもるのがわかる。──きっと僕は、春埼美空の感情をさぶるためだけに、こんなにもざんこくな質問をしたんだ。そう思った。

 相麻すみれの言葉が、またよみがえる。

 ──アンドロイドは、だれ

 まさか彼女が、こんな事態まで想定して、あの質問をしたのだとは思えないけれど。

 クラカワマリ。

 この少女は、人間そっくりに作られた。

 能力によって、人工的に作り出された存在だ。