2 六月下旬
いつものように
四月にこの屋上で、初めて春埼に会った時と同じように、彼女はじっと、屋上の入り口を見つめていた。
六月二二日の屋上には、もう真夏と変わらないくらいの熱があった。今日は
ケイは足音を立てて、春埼に近づく。
まるで人間味のない少女。でも彼女の額には、きちんと
「暑くない?」
「暑いです」
「
春埼はこくんと、
──アンドロイドは
相麻のあの質問に、この少女は、どんな答えを用意しているのだろう。
春埼はこちらを見ていた。
「貴方は」
「ん?」
「日陰に、入らないのですか?」
「そうだね」
笑って、ケイは頷く。
それから彼女の
「相麻は?」
「人に会うので
「そう」
この辺りには、背の高い建物が少ない。少し離れた場所にある海まで、よく見通すことができた。
風が吹いて、春埼の長い
それを見て、ケイは
「君の髪は、とても
自然にウェーブのかかった、細く長い髪。太陽の当たる角度によっては、きらきらと
春埼は何も答えなかった。ケイは続ける。
「とても綺麗だから、切ってしまった方がいい」
「意味がわかりません」
「現実味がないんだ。その綺麗な髪は、余計に君を人間
綺麗な髪と、あとはまるでガラス球のように
ようやく彼女は、視線をこちらに向けた。
「それが問題ですか?」
「たぶんね。
「私の母は、この髪を気に入っています」
「だから、切りたくない?」
「どちらでもかまいません。どちらでもいいなら、現状
「なら、仕方ないね」
それきり、二人とも
屋上にあった小さな世界は、とても静かだった。
相麻菫の周囲とはまるで
相麻の隣にいる時、ケイは
対して春埼美空が作る世界は、セピア色の写真みたいに静かだ。ささやかな風が、ゆっくりと流れる雲の
二人の少女は、まったく反対の方法で、ケイの意識に
ケイはしばらくの間、春埼美空が作る
「
と、春埼は言った。
彼女の声が聞こえても、なぜだか静寂が
ケイは視線を、春埼に向ける。
「何かな?」
「母親に愛されないというのは、悲しいことですか?」
まさかそんな質問を、春埼の口から聞くとは思わなかった。
だが彼女の
「一般的には、悲しいことなんだろうね」
おそらくは、それが正しい答えなのだと、ケイは思う。
「
──彼女は僕のことを、もうすっかり忘れてしまったはずだよ。
そう答えたかったけれど、答えられなかった。それをケイが口にするのは、とても
「たぶんね」
とだけ、ケイは答える。
「ある少女がいます」
「彼女は、母親に愛されたいと願っています。その方法が、貴方にはわかりますか?」
ケイは首を
それがわかっていれば、あるいはケイは、咲良田には
「わかるわけがないさ。人に愛される方法なんて、場合によってまったく違う。僕はその女の子のことも、母親のことも知らない」
「知れば、わかりますか?」
「どうだろうね。わかるかもしれないし、わからないかもしれない」
「可能性があるのなら、
「試すって、どうするのさ?」
「その少女に──クラカワマリに、会ってください」
いつもよりもずっと、彼女の口数が多い。
春埼美空は今、明確な望みを持っている。そんな彼女を見るのは、初めてだった。
「会うくらいなら、構わないけどね。できればその前に、事情を
「私もよく、知りません。彼女は母親に愛されたいと考えています。その他に、どんな情報が必要ですか?」
春埼に尋ねるべきことを、今は尋ねる。
「君はその女の子が、母親に愛されることを望んでいるんだね?」
返答にはしばらく、時間が
彼女はなんだか不安げに
「はい。おそらくは」
「おそらく?」
「よく、わかりません。ですが、私は彼女に協力することを、
春埼は混乱している様子だった。表情を変えないままに。外見上はなんの変化もないのに、だが今までとは何かが
「それも君のルールで規定されていることなのかな?」
「違う、はずです」
「へぇ。じゃあどうして、君はそんな判断を下したんだろう」
春埼は
「以前、
ゆっくりと、一歩ごとに足元を確かめながら歩くような速度で、彼女は説明する。
──春埼美空はいつだって、まっ白な部屋の中で、まったく同じ形をした二つの白い箱と
一方だけを開かなければならないけれど、どちらが正解なのかはわからない。
例えば二つの箱にそれぞれ色がついていたら、好きな方の色を選んで箱を開ければいい。箱の形が違ったら、その形を理由にしてもいい。
だけど目の前にあるのはいつだって、まったく同じ形をした、二つの白い箱だ。
どちらか一方を選択する
「私にとって、世界はそれほど
ケイは頷く。
二つの箱は、
「君はまっ白な箱の一方を開けたんだと言いたいのかな? つまりは、助けても助けなくてもいい少女を、
「……わかりません」
内心で、ケイはため息をつく。
「どちらでもいいというのなら、僕は興味がなくなった。気が乗らないね。やっぱりその女の子に会うのは、
相変わらず、彼女に表情はなかった。だからすべて、
春埼の
「君がどうしてもその女の子を助けたいというのなら、会ってもいい。偶然ではなく必然として、君がその少女を助けることを選んだのなら、僕も協力しよう」
彼女はまっすぐに、ケイの目を見返した。
「私は、
違うんだ。強制とか、権利とか、そんな話をしているわけじゃないんだ。ただ君の前にあった箱の色が、形が、今までとは違うものだったと言ってくれれば、それでいい。
きっと二つの選択肢の色をつけ、形を変えるのは、人の感情なのだから。春埼美空が感情を持っているのだと、証明してくれればそれでよかったのに。
「じゃあ、仕方がないね」
そう答えるしかなかった。
クラカワマリという少女のことが気になってはいたけれど。だがケイにとって重要なのは、会ったこともない少女よりも、春埼だった。
自身に言い聞かせるように、内心でケイは
──僕はきちんと、春埼美空を理解したいんだ。
せっかく春埼が、興味を示す問題が現れたのだ。それを横から
──知りもしない女の子のことなんて、いくらでも切り捨てて見せるさ。
切り捨てることには、
もう少しだけ春埼が
「……わかりました」
春埼美空が
相麻菫が屋上に現れたのは、それから一〇分ほど
「こんにちは、ケイ、春埼。
「移動って、どこに?」
「生徒会室よ。貴方たちに、会わせたい人がいるの」
ケイは軽く首を
「ならどうして、屋上に呼び出したのさ?」
目的地が生徒会室なら、教室で待っていればよかった。
相麻菫は平然と答える。
「春埼と二人で会話するなら、屋上の方が気楽でしょ?」
その通りではあったが。なんだか先ほどの会話も全部、相麻には
相麻はくるりと向きを変えて引き返す。春埼は
縦に三人、並んで階段を下りながら、ケイは
「会わせたい人っていうのは?」
「生徒会長よ」
「どうしてそんな人に?」
「ある能力を持ってるの。この間、ケイには話したわよね。春埼の
能力を使って思い出すまでもなく、その会話のことは覚えていた。
──もっと
軽く頷いて、ケイは尋ねる。
「どうして君は、生徒会長の能力のことを知っているのかな?」
「一年生の
「それだけじゃない。君は僕の能力のことも、春埼の能力のことも知っていた」
「以前も答えたと思うけれど。情報というのはなんだって、適切な意思を持ち、適切な場所にいたなら、自動的に手に入るものなのよ」
「以前は言い忘れていたけれどね。そんな答えじゃ、
階段を二階分下りて、
「ちゃんと教えてあげてもいいけれど、
「僕は今まで一度も、
小さな声で、相麻は笑う。
「なら
仕方なく、ケイは頷く。
「誰にも話さない。約束しよう」
「ありがと。実はね、秘密の資料を持っているのよ。一年生の頃、生徒会の仕事で職員室に行ったときに見つけて、コピーをとったの」
そんなことが、あり得るのだろうか。
生徒の能力に関する資料が、それほど乱雑に
まったくないとは言えない。学校では、価値の基準に
平然と相麻は続ける。
「生徒会というのは、一見なんの価値もない集団だけど、でも情報の収集には向いているの。単純に職員室に入る
「クラス委員長をしているのも、それが理由?」
「ええ。その通り」
「ところで、もう一つ気になることがあるんだけど」
「なに?」
適切な意思を持ち、適切な場所にいたなら、情報は手に入る。
「適切な場所というのが、生徒会だということはわかったよ。じゃあ、適切な意思というのはなんだ?」
生徒の能力に関する情報を集めようとする意思。その目的。
相麻
相麻は足を止めた。彼女の前に、生徒会室の扉がある。
「そちらは秘密。いつかわかるわよ」
会話を打ち切るように、彼女は生徒会室の扉を、軽くノックした。
線の細い、
彼はいつだって
生徒会室にいたのは、坂上一人だけだった。
彼はパイプ
「初めまして。生徒会長の、坂上です」
彼の言葉は、
彼の正面に立って、ケイは
「二年の
坂上はしばらく口ごもってから、パイプ椅子を指した。
「どうぞ、座ってください」
彼は常に、何かに対して怯えているように見える。──朝礼なんかで発言する場合もこんな様子だ。
ケイと
坂上は相麻ばかりを見ていた。
「ええと、僕は、何をすればいいのかな?」
「能力を使って欲しいの。ケイから、春埼へ」
「ああ、うん、わかったよ」
ケイは内心でため息をついて、
「ちょっと待ってください。坂上さん、
坂上はあくまで、相麻に視線を向けたまま話す。
「説明してないの?」
「そういえば、まだだったわね。教えてあげて」
彼はなんだか
「単純に表現するなら、能力をコピーする能力だよ。右手で
「へぇ。能力を対象にした能力なんてものが、あるんですね」
「うん。他の能力がなければ意味がない、
相麻が何をしたいのかわかった。
彼女はまっすぐ、春埼の
「私は
ケイの能力を春埼が使えたなら、彼女は何もかもを思い出す。もしかしたら、今の彼女が忘れてしまった
「わかりました」
と、春埼は答えた。いつものように、なんの
ほとんど意識もせず、ケイは口を開いていた。
「ちょっと待って。春埼、君は本当に、それでいいの?」
記憶というのは、とても強い力を持つ。それは自分自身の意思なのだから。今の人格を
だが、春埼は平然と言った。
「何か問題がありますか?」
ケイには何も答えられなかった。──僕が拒否することではないんだ、と思う。
坂上は、相変わらず気弱げに微笑んでいる。
「じゃあ、始めるよ」
彼は立ち上がり、不安定な足取りで長机を回り込んで、ケイと春埼の後ろに立つ。それから、「失礼します」と
「この状態で、浅井くんが能力を使えば、春埼さんも同じ効果を受けることになる」
「例えば僕が一年前を思い出せば、春埼も一年前を思い出す、ということですか?」
「うん。春埼さんが自由に能力を使えるようになるわけじゃないんだ。浅井くんが使ったのとまったく同じ効果を受けるだけだよ」
ケイは春埼の横顔に視線をやる。
「春埼。いつを思い出したい?」
「いつでもかまいません」
「君が決めるんだ」
しばらく
「では、七歳の
「どうして七歳なの?」
「特に理由はありません。
ケイは
「わかった。それから、目を閉じた方がいいよ、春埼。今の景色を見ながら、昔の景色を思い出すと、ちょっと気持ち悪くなる」
彼女が指示に従うのを
その直前、
※
春埼
七歳。そう考えても、具体的な記憶はなかった。
小学二年生だった頃のことだ、と意識してようやく、ぼんやりと記憶が
「じゃあ、いくよ」
と、
春埼の意識は、六年前に立ち返った。暗い部屋に明かりを
浅井ケイの声が聞こえた。
「僕たちは今、中学二年生で、
その言葉がなければ、自分はまだ小学二年生なのだと信じてしまいそうだった。浅井ケイの能力。それは、何もかもを思い出す。あまりに明確に、
記憶の中で、春埼美空は、小学校の教室にいた。
休み時間──先ほどまで国語の授業をしていて、もうすぐ算数の授業が始まる。小学二年生の春埼美空は、机の上に算数の教科書と、ノートと、筆箱を並べて、じっと授業が始まるのを待っている。そのすべてを、思い出した。当時使っていた
周囲からは、当時のクラスメイトたちの会話が聞こえる。とても
その声に重なるように、現実の声が聞こえた。相麻
「小学二年生の
小さく首を
「何も」
ただ座って、時間が過ぎ去るのを待っている。休み時間には授業が始まるのを待ち、授業が始まれば終わるのを待つ。その
「小学二年生の貴女は、貴女自身が定義したルールを、もう持っているの?」
今度は、頷く。
「はい。今と同じものを」
明確な言葉で定義されているわけではない。だが現在とまったく同じ内容のルールを、小学二年生の春埼は、すでに自分自身に課していた。
「そのルールを作ったのはいつ?」
「思い出せません」
当時の春埼も、そんなこと覚えていない。
次に聞こえてきたのは、浅井ケイの声だった。
「その頃の君は、母親に愛されたいと、願っているのかな?」
春埼はそっと、首を振る。
「いえ」
小学二年生の春埼美空は、今の春埼美空と、本質的に何も変わらない。
ただ生きているだけだ。同じ形をしたまっ白な箱を二つ、目の前に置いて。その二つに差異があるとも思えないまま、ルールに従い一方を開ける。そんな生き方だった。
ふいに強い頭痛を感じて、春埼美空は頭を押さえる。
目を開くと、相麻菫が、こちらを
「どうしたの?」
と、相麻は言った。
「わかりません。急に、頭が痛くなりました」
頭痛。そう感じたけれど、
息を整えている間に、坂上央介と、浅井ケイの会話が聞こえた。
坂上は
「君の能力には、何か副作用のようなものがあるの?」
対してケイの声は、いつも通り冷静に聞こえた。
「一度に大量の記憶を思い出せば、多少は苦しいものです。日常的には経験しない量の情報を、まとめて処理することになる」
「……なるほど。
「何を思い出すかによります。痛いことを思い出せば当然痛いし、
軽く首を振って、春埼は告げる。
「もう
答えたのは、
「いえ。今日は
「私が苦痛を感じることが、問題ですか?」
「ええ、とても問題よ。ケイが悲しそうな顔をするもの」
春埼は隣に座る、浅井ケイに視線を向けた。
彼の表情は、
「当たり前だよ。人が苦しんでいるのを見るのは、悲しいことだ」
と、彼は言った。
平然と、
※
「
と、相麻
学校からの帰り道、
軽く首を振って、ケイは答える。
「それほどでもないさ。いつも通りってとこだよ」
「
ケイはため息をつく。
「少しは人の話を聞いて欲しいね」
「明らかな
「どうして噓だと思うのさ?」
「すぐ
たぶんそれは、真実だろう。
相麻菫は人の心理を読むのが
ケイは話題を変える。
「
「悪い人ではないわよ」
「たぶん、善人なんだと思うよ。でもなんだか、いつも
なぜ生徒会長なんかをやっているのか、理解できない。
「別にいいじゃない。気が弱くても」
「ま、実害はないんだろうけどね」
「でも何かが気に入らないのね?」
「そんなことはないさ」
「どこが気に入らないの?」
相麻菫は口先だけの噓に、まったくといっていいほど反応しない。
「例えば彼は、春埼に一度も声をかけなかった」
春埼が苦しんでも、視線さえ向けなかった。
「どうして坂上さんは、春埼に声をかけなかったのかしら?」
「さぁね。
「春埼を怖がる理由なんて、ないと思うけど」
「まったくだ。春埼は怖がられる要素を、ただの一つも持っていない。
春埼
とてもリアルなコンピュータグラフィックスを、不気味だと思うようなものだ。人間にそっくりで、だが人間ではない何かを、気味が悪いと思う人はいる。
坂上
「それが許せないの?」
「許せないってほど強い感情じゃないさ。ただちょっと、気に入らない」
相麻は笑う。
「ずいぶん春埼に入れ込んでいるのね」
「春埼に、じゃない。リセットという能力の持ち主に、だ」
「その割には、ケイ。
「……能力と人格は、切り
口に出すと言い訳じみているな、とケイは思う。だが噓ではない。
──
あれほど物静かな少女が。なんの望みも持たないような、ルールに管理されたアンドロイドのような少女が、リセットという強力な力を手に入れた。
「リセットが春埼美空の本質だと、貴方は思っているのね」
ケイは
「
彼女は一つでも
そんなものが。そんなに、
小さな声で、相麻は笑う。
「貴方は春埼が、
「信じられないよ。でも今の時点では、疑う余地がない」
春埼美空はまるで、
より純粋で、より無価値な、まるで形も持たないような、ただの、善だ。
ケイの耳元で
「私が行く前に、あの屋上で、貴方と春埼は何を話したの?」
彼女の
「クラカワマリ、という名前の少女がいる」
母親に、愛されたいと願っている少女。
「春埼はきっと、その少女の涙を消したいんだ」
きっと、とても強く、その涙を消したいと願っているんだ。
「それで、どうして貴方の
思わずため息が
「春埼はその強い感情に、まだ気づけていないんだよ。それが、
なぜだかとても
3 七月
「もう一度私に、過去を思い出す能力を使ってください」
と、春埼美空が言ったのは、七月二日のことだった。
その日も春埼は、浅井ケイ、相麻
「私は構わない。きっと、坂上さんも手伝ってくれると思うわ。あとは、ケイ、貴方
浅井ケイはため息をつく。世の中のことが、すべてどうでもいいのだとでもいう風に。彼は
「君はどうして、過去を思い出したいんだ?」
春埼はその質問を、予想していた。浅井ケイは行動の理由を
「私が感情を持っていた時期を、思い出したいのです」
「どうして?」
「マリの問題を解決するためです」
もうずいぶん前から、春埼は母親に愛される方法について、思い
だが答えは出なかった。代わりに、なぜ答えが出ないのか気づいた。
──私は誰も、愛していない。好きでも
いくら考えてみたところで、好きだという感情がわからなかった。
──そんなこともわからない私が、母親に愛される方法を、思いつくわけがないのだ。
きっと、それは、とても当たり前のことだ。
まず感情を見つけなければならないのだ、と春埼は思う。母親に愛される方法を見つけるためには、それが必要だ。
──感情。
よくわからない言葉だ。感情を自覚した
その違和感の名前が、感情なのかもしれない。春埼は自身の制服の裾を握ってみたけれど、そこに何かを感じることはなかった。
浅井ケイは、春埼に視線を向けた。彼の視線にも、感情は見つからない。
「君は昔、感情を持っていて、今はなくしてしまったのだと思っているのかな?」
春埼は頷く。
「はい」
「どうして?」
「私は
もう覚えていないけれど、おそらく。
涙を流せるだけの感情を持っていた時期があるのだと、春埼は思う。
軽く首を
「まぁいいさ。好きにすればいい」
その日から
浅井ケイと
時間を
目的のものが見つかったのは、二週間後──七月一六日のことだ。
その日、春埼美空は、五歳の頃の自分自身を思い出していた。
道路脇に、
ちょうど歩道と車道を区切る、白線の上だった。
セミは腹を青空に向けて、ジィジィと音を立て、セロファンみたいな
飛べないセミの姿は、とてもストレートに苦しみを表しているようだった。記号的な苦痛と絶望を、ぎゅっと手のひらに
でもセミは羽ばたき続けていた。決して飛べないのに、それでも。
きっと、とても
五歳の頃の春埼美空は、そのセミを助けたかった。これだけ苦しんで、救われないなんてことが、あるべきではないのだと思った。
だから春埼は、そのセミに手を
ふいに動きを止めたセミの姿は、死を連想させた。生きていくために必要なエネルギーが、すべて
春埼は手の中のセミを見つめる。
やがてセミは、再びジィジィと鳴き始めた。ふいにまた羽ばたき、手の中から
危ない、と春埼は思う。だがセミは、春埼の青いワンピースの、胸の辺りにとまった。
春埼は安心して、辺りを見回す。このセミを木にとまらせようと思った。セミは木にとまり、樹液を吸って生きるのだという事を知っていたのだ。洋服にとまっているだけでは、セミが救われることはない。
五歳の春埼は、とても小さい。大きな木の枝には、手が届かない。
辺りを見回して、大人の身長ほどの生け
複雑な形状をしたセミの足は、春埼のワンピースを弱い力で
春埼は細い生け垣の前で、セミをワンピースから引き
──ああ、そうだ。
中学二年生の春埼は、ふいに気づく。
──マリが制服を摑んだ力は、きっと、この強さだった。
とても弱い、服の裾を摑むことしかできない力に、助かりたいという意思を感じた。
五歳の春埼は、生け垣の細い枝にひっかけるようにセミを置く。
長い間、セミは動かなかった。
春埼はじっと、そのセミを見ていた。
風が吹き、生け垣が
セミは少しも動かなかった。棒切れみたいに、アスファルトの上に転がっていた。いつの間にかそのセミが死んでいたことに、春埼は気づいた。
このセミはもう二度と動かないのだ。空を飛びたいと願うこともないのだ。世界から、一匹のセミが、欠落したのだ。
先ほどまで春埼のワンピースを摑んでいた、弱い力を思い出す。だがアスファルトに転がったセミはもう、春埼の服にとまることもない。

ふいに、涙が
目の前の死が、春埼自身に
そう考えて、春埼
中学二年生の春埼美空は、生徒会室のパイプ
なのに春埼美空は、顔を
「どうしたの?」
気がつけば、
「私は、泣いていた。ずっと」
どうして、忘れていたのだろう?
──五歳の
テレビ
まだ、
「どうして君は、泣いていたの?」
「それは、悲しいから」
「何が、悲しいのかな?」
「色々なことが。当たり前にあるものが、すべて」
生きているものが、いつか死ぬことが悲しい。形のあるものが、いつか壊れることが悲しい。そんな、当たり前のルールが、すべて悲しい。
きっとこの世界の
──五歳の頃の
浅井ケイは、落ち着いた声で言う。
「当たり前が、悲しいんだね?」
「はい」
「だから君は、何も選べなくなったんだね? だから、ルールを作ったんだね?」
春埼美空の行動を定める、いくつかのルール。
彼は続ける。
「何もかもが同様に、悲しみに
きっと、そうなのだと思う。
例えばあのセミに、手を
結局、救うことができないのなら。死にかけたセミに手を伸ばすための、別の動機が必要になった。
とても単純で、何かを望むこともない、無機質なルールが。
「一つだけ教えて欲しい」
浅井ケイは
「悲しんでいるのは、
そんなことは、明確であるように思えた。
もちろん、春埼自身だ。理性ではそうわかっていた。
でも、不意に不安になる。あのセミの死を、悲しんだのは春埼だったのか。悲しむべきなのは、あのセミ自身ではないのか。どうして春埼が、セミの死を悲しむのか。
意識もせずに、
「わからない」
と、春埼は呟いていた。
※
時計の針によれば、一分にも満たないほどの、短い時間だった。
たったそれだけの間、古い
浅井ケイと相麻菫は、春埼を保健室に送り届けた。ベッドに横になった
彼女の
空を見上げる。もう七月半ばの空。屋上の世界は、完全な夏に組み込まれていた。セミの声が、どこか低い位置から
「どうして、あんな質問をしたの?」
と、相麻菫が言った。彼女はいつもよりも、少しだけ遠い位置に立っている。
意図して
「あんな質問?」
「そう。悲しんでいるのは、誰なのか。普通、そんなことは尋ねないわ」
「予感があったんだよ」
今までずっと、考えてきたのだ。アンドロイドについて、人間について、そして春埼美空について。考え続けて、一つの予想に至った。
彼女に欠けているものは、なんなのか。それがわかったような気がした。
「春埼に欠けているものは、いってみれば自己の
なぜ春埼がそうなったのか、ケイにはわからない。あるいは生まれた時からもう、すでに持っていた特性なのかもしれない。
ともかく春埼
自分を特別だと思えない人間。
それだけですべてを、説明できるような気がする。
「例えばね、
「おそらく、そうでしょうね」
「それはきっと、みんな自分が特別だからなんだよ。面識のないどこかの誰かよりも身近な人の不幸を悲しみ、身近な誰かよりも自分自身の不幸を悲しむ。
そうやって、バランスを取っているのだと思う。
自分が特別だということは、自分以外は特別ではないということだ。他人の不幸を、自分には関係ないのだと、割り切れるということだ。
「僕だって、そうだ。僕が傷つくのも、僕が悲しむのも、
「誰だってそうよ。誰だって自分のために人を助けて、自分のために人を傷つけるの」
「でも、
例えば、テレビ
セミの死すら、自身の死と同様に感じていたなら、この世界にはどれだけの絶望があるのだろう。
その問題を解決するため、人はフィルターを用意するんだ。自分と他人を明確に区別して、他者の悲しみに対して
でも、その機能を持っていなかった春埼美空は、悲しみ続けることしかできなかった。きっと感情が
「春埼美空は自分が特別ではなかったから、あらゆる悲しみを、悲しみのまま受け取ったんだよ」
常識的に考えれば、それは改善すべき点なのだと思う。
人間として生きる上で、必要な機能が欠落しているのだろうと思う。
だがケイには、春埼美空の人格を、どうしても否定できなかった。
──それだけ苦しんだなら、普通、全部投げ出してしまうだろう?
死に
──なのに彼女は、行動し続けることを決めたんだ。
無防備に悲しみに
救えなくても救おうとすることを、感情をなくしても正しく
ケイは
「自分を持たない春埼だけが、正しいままでいられるのだと僕は思う」
保身も、
「本当に善だと呼べる人間がいるとするなら、それはきっと、春埼だ」
善意というのは、才能だ。
才能と呼ばれるものの中で、最も純粋なのが善意だ。
それを持たない者が、いかに努力で善人になろうとしても、生まれるのはただの
春埼美空は、善であるという一点において、
「それが、
「でも春埼には、
「……そんなことは、わかってるさ」
純粋な善は、とても弱い。誰も傷つけないまま出来ることは少ない。
相麻菫がこちらに近づく。まっすぐケイの
「人は、善人に見守られるよりも、偽善者に救われたいものよ」
「そうだろうね」
「そして、ケイ。人を救えるのは、貴方のように
「僕は違う。僕は、偽善者ですらない」
善人を
両親を捨てて、この街に
「今はそれでいいわ、ケイ。でも、貴方はとても強いから、いずれ
はっ、と、ケイは笑う。
「理解できないね。僕はいつまでも、僕のままだ」
相麻菫はケイに向かって、右手を
「そうよ。いつまでも貴方は、貴方のまま。
「わけがわからない」
「なら、証明してみせましょう」
「証明って?」
「貴方にまるで、善人のような行動をさせてあげる」
相麻は右手を引っ込めて、ふいに
「クラカワマリについて、調べてみたの」
「へぇ。それで?」
「彼女が、病院に通っていることは知っているかしら。私も小さい
相麻菫が、昔?
そんなはずはない、とケイは思う。
「君は去年、
「生まれたのはこの街よ。一度出て行って、去年また
「初耳だね」
「私の過去が気になる?」
咲良田で生まれた、というのは、なんとなく気になるけれど。
「まぁいいよ。それで、クラカワマリがどうかしたのかな?」
「ええ。その病院の先生に、彼女のことを聞いたのよ」
相麻菫は
そして、クラカワマリという少女について、たった一つの
※
保健室で目を覚ました
そこに感じた強い痛みが──それはおそらく悲しみが、もう消え去っていることを
彼は能力を使って思い出したことを、忘れることができない。
でも、春埼美空は違う。春埼は
浅井ケイの能力によって思い出した悲しみを、春埼美空は忘れることができる。
ベッドから降りた春埼は、
保健室を後にして、
セミの声が聞こえた。いくつものセミの声。だが中学二年生の春埼は、その声を聞いても悲しみを感じなかった。
帰路の
一つだけブランコが
「あ、お姉ちゃん」
こちらに気づいたマリが、
マリは笑みを浮かべ、こちらに
これは、笑顔だ。四月末に出会って、もう三か月近く
「ブランコから飛び降りると、危ないです」
と、春埼は告げた。
マリはとても
「ごめんなさい」
それから顔を上げて、また笑う。
「
「生徒会室に行ったり、保健室に行ったりしていました」
「保健室?」
「少し体調が悪かったのです」
マリの顔が、不安げに
「もう大丈夫です。体調は回復しました」
「そっか。よかったね」
「ええ」
おそらくは。
──だが、あの胸の痛みは、本当に失うべきものだったのだろうか?
ふいにそんな疑問が
春埼とマリは、並んでブランコに乗った。マリがそうしたいと言ったのだ。春埼に断る理由はなかった。
小さな子供用のブランコに乗ることにも、ずいぶん慣れた。マリとの会話にも、多少は慣れてきたはずだ。
それは成長なのだろうか、と春埼は考える。
おそらくは、違う。ただ春埼の中に、新たなルールが構築されつつある、というだけのことなのだろう。マリとの会話に適したルールが。
そのルールは、
ブランコに揺られながら、そんなことを考えていた時だった。
公園の入り口に、知っている少年が立っていることに気づいた。
──
なぜ彼が、ここにいるのだろう?
彼の帰り道は、こちらの方向ではない。彼と
浅井ケイはゆっくりと、こちらに歩み寄った。口元だけを歪める
「意外にブランコが似合うね、春埼」
「ブランコに、似合う、似合わないがあるのですか?」
「たぶんね。僕は似合わない」
彼はマリの前で立ち止まる。マリはブランコをこぐのをやめて、なんだか不思議そうに浅井ケイを見ていた。
「クラカワマリさんだね?」
「うん」
「はじめまして。
そう言って、彼は右手を差し出した。
「手?」
マリは首を
ケイは
「
「握手?」
「そう。手と手を
「良い服を着ているね」
と、浅井ケイは言う。
彼の言葉で初めて、春埼はマリの服装に注目した。チェック
マリは
「うん。お母さんに、買ってもらったの」
「ちょっと失礼」
浅井ケイはマリの首の後ろに手を回し、何かを
それから彼は、マリの
「君はどこの学校に通っているのかな?」
「えと、
春埼の知らない小学校だった。この辺りの学校ではない。
浅井ケイは頷く。
「ずいぶん、遠いね。どうしてこの公園に?」
「……今日は検査の日だったから」
「検査?」
「検査の日は、お母さんが
「なんの検査をしているのかな?」
「よく、わかんない。血を採られたり、へんなテストをしたり」
「そう」
浅井ケイは、頷く。
「ところで、マリ。君に一つ、聞きたいことがあるんだけど」
「なに?」
彼は、優しげな笑顔を
「七年前、
浅井ケイが語った言葉の意味を、春埼はしばらく、理解することができなかった。
※
つい先ほど、屋上で、相麻菫は言った。
「倉川真理は、七年前に死んでいるわ」
浅井ケイは「死んだ?」と
だが相麻は平然と頷いて続けた。
「倉川真理は、
相麻菫の話を、
──でも、この街には能力があるんだ。
それは、あらゆる常識が意味を失う力だ。浅井ケイがすべての過去を捨てて、この街に
だからケイは、まっすぐこの公園にやってきた。
事実を確認するために、マリの
「七年前、倉川真理という少女が死んだことを、君は知っているかな?」
本当に、倉川真理という少女が死んでいたとして。それでもなお、こんな質問をするべきではないのだと思う。七歳の女の子に、尋ねるべきことではない。
だがケイは、さらに言った。
「倉川真理が死んだのなら。マリ。君は一体、
マリの顔には、深刻な
彼女が息を
ただ
マリはか細い、無理にしぼり出したような声で、答えた。
「……私は、クラカワ、マリ、です」
「そして、君は生きている。少なくとも体温を持ち、血も流れている。一体──」
ケイは言葉を切り、マリの手を
公園の入り口に、一人の女性がいるのを見つけた。長い
「お母さん」
と、マリが
ケイはその女性から、視線を外せなかった。
──なんて表情をするんだ。
それが、マリの母親に対する、最初の印象だった。
悲しみ、苦痛、恐怖、
髪は明るめのブラウンに染めている。だが彼女の
マリは逃げ出すように、母親に
「いつもありがとうございます」
「いえ」
春埼もまた、表情もなく答える。
いつの間にか、日は暮れかかっていた。
二つの無表情が、赤い夕日に照らされる。
マリの母親は、おそらく事の真相をすべて知っている。マリという少女が何者なのか、きちんと
だがそれを、直接尋ねようという気にはならなかった。その女性の表情が、あまりに
マリは母親の一歩分後ろについて、公園を出て行く。その
マリと母親の姿が見えなくなってから、春埼は言った。
「クラカワマリが死んだ、ということについて、教えてください」
「そのままだよ」
ケイは
「春埼。君はこれから、どうするつもりだ?」
「どうする、というのは?」
「マリに対する接し方。
「今まで通りでは、いけませんか?」
「あの少女には、何か普通じゃない事情がある。それがどういった事情なのかはわからない。でもね、ある程度の
春埼は長い間、じっとケイの横顔を見ていた。
それからゆっくりと、首を振った。
「私は行動を変えるつもりはありません」
「今までと同じように、マリに接するんだね?」
「そのつもりです」
ケイはため息をつく。
倉川真理は、七年前に死んでいる。そんなこと、春埼は気にも留めないだろうという予感はあった。自分自身を
春埼美空は彼女自身に起こる出来事に対して、あまりに無防備だ。
ケイは春埼の
「好きにすればいいさ」
「はい」
「でもね、もし君があの少女の幸せを
君は、もう少し
春埼は何も答えずに、じっとケイの表情を見ていた。
「とりあえず、三日に一度はセーブするように気をつけて。僕と君の能力があれば、
そう告げて、
正体のわからない、
※
一人
──アンドロイドとは、なんだろう?
彼女にとって、それは、すでに答えの出ている問いだった。
アンドロイド。人間そっくりに作られた、人間ではない何者か。
それはプログラムによって
管理されたルールの内側に
それが相麻菫の定義する、アンドロイドだった。
──アンドロイドは、
浅井ケイはいずれ、あの問いの意味に気づくだろう。だがそれは、今ではない。現行の予定では二年後、もう相麻菫がいない世界で、だ。
生徒会室に
部屋の中では、
「あら、まだいたのね」
「うん。君の
にっこりと笑って、相麻は「ありがとう」と答える。
すべて予定通りだった。生徒会室を出る時には、
同じように、これから
鞄を手に取りながら、さりげない口調で、相麻は言った。
「
坂上は
視線を向けると、彼は
くぐもった声で、坂上は答える。
「そんなことはないよ。ちっとも、怖くない」
「そう? 私は、春埼が怖いわ」
もちろん
だが今は、こういう会話をすべき時なのだと知っていた。
だから
「彼女はなんだか、作り物みたい。たまに、とても
こんな言葉をケイに聞かれると、きっと
坂上が息を
「……わかるよ。でも君は、春埼さんの友達なんだと思ってた」
「できるなら友達になりたいわ。でも私には、春埼を受け入れることができない」
この言葉だけは、本心だった。どうしたところで、春埼の友人にはなれない。
坂上は安心したように笑う。
「よかった。ずっと、僕が変なんだと思ってたよ」
「変って、どうして?」
「春埼さんと、あとは浅井くんも。なんだか、まともじゃないと思ってたんだ。でも
まとも、という言葉について、相麻は考える。
それはおそらく、
何もかもが
「そうね。彼らは、まともじゃない」
少なくとも彼らは、大多数の平均ではない。
同意を得られたことに安心したのだろう、坂上は頷く。
「どうして君は、彼らと
「あの二人が困っているからよ。相手に
「そう。君は、いつだって
優しいはずがない。平気でこんな会話をしているのだから。
だが相麻は答える。
「
「僕は彼らに協力してるんじゃない。君に協力してるんだよ」
一呼吸置いた後で、
「ねぇ、君はいつも優しくて、正しいんだと思う。でも
できるなら、否定したかった。
浅井ケイと、春埼
彼らがどれだけ誠実で、善良なのか、いくらだって語れる自信があった。
本当に、そうしたかったのだ。心の底から、そうしたいと求めていた。
──なのに、できない。
相麻
坂上はケイたちへの不満を
ここでケイたちを、
わざわざこのタイミングで、坂上に会った意味がなくなる。
目的を見失ってはいけない。多少でも坂上を安心させるために、相麻はこの会話を始めたのだ。──私は貴方の仲間だと、噓をつきに来たのだ。
だから
「そうね。考えてみるわ」
坂上は安心したように
会話を打ち切るために、
「貴方の目から見て、私は正常なのかしら?」
坂上は、平然と微笑んで答えた。
「うん。君は
「それはよかったわ」
きっと、坂上
坂上は何かを言いたそうに、相麻の方を見ていた。拾われたがっている捨て犬のような目だった。一緒に帰りましょう、と提案すれば、彼が喜ぶことはわかっていたけれど。だが今は、できるなら一人になりたい。
「坂上さん。わざわざ待っていてくれて、ありがとう」
それじゃあさようなら、と声を
なにもかも、順調だ。すべてが予定通りに進行している。当たり前だった。
相麻菫は、未来を知る能力を持っている。彼女が望む未来へと続くルートを知っている。
──でも、私は、
階段を下りながら、相麻菫は考える。
──ただ予定をこなすだけの私は、人間なの?
最適な未来に
相麻菫はそのルートを、
完全なプログラムで
アンドロイドは、
最も人間からかけ
4 八月
足元をスズメが、小さく
公園のベンチに座った
八月一三日。夏休みに入ってもう、三週間ほどが
一人きり、このベンチに座っている間、いつも考えていることがある。
──私は人の感情を、理解することができるだろうか?
夏休みの間、春埼はずっと、感情を
だけど感情はどこにもなかった。
図書室にも、映画館にも、古い
五歳の
どうすれば、感情は見つかるのだろう。
気がつけば足元のスズメは飛び立っていた。春埼は何もない地面を見ていた。もうすぐこの公園に来て、三〇分経つ。今日はマリがやってこない日なのだろう。
春埼は自問する。
──マリが来ないことは、悲しい?
答えは、すぐに出た。
──悲しくない。
そしてベンチから立ち上がり、歩き出す。誰もいないブランコが視界に入った。感情を持つ人は、例えばこんなものにも、何かを感じることができるのだろうか? ただそこにあるだけの物質にも。
公園を出る。マリの声が聞こえたのは、その時だった。
「お姉ちゃん」
と、彼女は言う。通りの向こうから、まっすぐにこちらに走ってくる。いつものように
「助けて、お姉ちゃん」
ああ、彼女は今、悲しんでいる。そうなのだろうと、春埼は思った。
「何があったのですか?」
「逃げないと。
訳がわからなかった。ともかく彼女は、何かから逃げているらしい。
「わかりました。では、逃げましょう」
と、春埼は言った。
二人、手を繫いで、夏の午後四時三〇分を走る。季節によっては夕刻と呼べる時間だが、八月の太陽はまだ高い。
春埼が目指したのは、とりあえず人通りが多い方向だった。
商店街のファーストフード店を見つけ、そこに
前の通りを見通せる
春埼は
「
マリは答えない。ただ、首を
「どうして、追いかけられているんですか?」
彼女はまた、首を振った。彼女も事情を知らないのだろうか?
思い
「黒い服の人が、お母さんはもういなくなった、って」
「その人が、
「私が悪いの。私が、ニセモノだから」
会話が成り立たない。
「ホンモノは、もういないから、ダメなの。私がニセモノだから、たぶんお母さんは、いなくなったの」
ホンモノ。ニセモノ。思い出したのは、浅井ケイから聞いた話だった。──
マリの表情は
泣きながら、春埼のワンピースを
春埼は辺りを
「窓の外を見てください。貴女を追いかけているのは、彼らですか?」
マリは目を
ここにいては、いずれ見つかってしまうだろう。だが外に出て、逃げ続けることはできるだろうか? 一体いつまで、逃げればいいというのだろうか?
──リセット。
と、春埼は
マリは泣いていて、外には黒いスーツの男たちがいる。全部、やり直そうと思った。
だが、浅井ケイの言葉を思い出す。
──君が一人でリセットを使うことは、無意味だ。きっと君がリセットを使っても、女の子が泣きやんだりはしない。
そんなことは、わかっていた。結局はもう一度、同じことを
──もし君があの少女の幸せを
考えている。ずっと、考えている。なのに思いつかないのだ。一体、どうすればいいのか。どうすればマリが笑うのか、わからないのだ。
「お姉ちゃん」
マリが、春埼にしがみつく。
その手に小さな青色の
以前、
──お守りみたいなものよ。困った時に、開いてみて。
そうだ。マリはあの時、封筒をポシェットにしまった。いつも肩からさげているポシェットに。
彼女はずっと、この封筒を持ち歩いていたのだろうか。こんなもので救われると、信じているのだろうか。
春埼は言った。
「その封筒を、貸してください」
封筒を開いてみることに、意味があるとは思えない。リセットと同じように。きっとそんなことで、マリが救われたりはしない。
だが、
春埼は小さな封筒を破って開く。中に入っていたのは、小さなメモ用紙だった。
そこにはハイフンで区切られた、いくつかの数字が並んでいる。
この封筒を受け取った時、相麻は言った。
──それから貴女のお願いを、きちんと言葉にするの。そうすると、お願いが
その意味を、春埼
数字の
※
その時、ケイはベッドに
もうずいぶん前に買ってきたものだ。初めの方だけ読んで、
二章目の終わりに人が死んで、ページをめくろうとした時に部屋の
ケイは起き上がり、扉を開ける。
「電話だ、ケイ」
智樹はにやにやと笑いながら、コードレスの子機をケイに差し出した。
「ん、ありがと」
ケイはそれを受け取って、通話ボタンを押す。智樹は相変わらず
電話機を耳に当てると、すぐに声が聞こえた。春埼美空の声だった。
「浅井ケイですか?」
「うん」
フルネームで名前を呼ばれるというのは、なんだか気持ちが悪い。
「お願いがあります。私は、マリを助けたい。協力してください」
思わず、笑みの形に口元が
「
「マリが何者かに追われています。相手は複数人の成人男性です。彼らから、
ケイは
「警察には?」
「……考えていませんでした。すぐに
「いや。しない方がいい」
社会的な正義がマリの味方なのか
「ともかく合流しよう。今、どこにいる?」
「商店街です。学校の、少し南西にある」
ケイは目を閉じ、彼女がいる周囲の景色を思い出す。
「公衆電話を使っているね? コンビニの前? それとも、薬局の前?」
商店街には、その二
「薬局の方です」
と、
「そこから西の方向に進むと、バスの停留所があるのを知っているかな?」
「……いえ」
「すぐ右手に
ケイは室内の時計に視線をやる。同時に、その停留所の時刻表を正確に思い出した。
「二分後に東へ向かうバスが来る。走れば間に合うから、それに乗って。三つ目の停留所で合流しよう」
「わかりました」
その声が聞こえた直後、電話が切れた。
相変わらずにやにやと笑みを浮かべたまま、智樹は言う。
「なんだ、デートの
「似たようなものだね。
「おお、マジか。青春だな」
「君もついてきて欲しい」
「ん?」
「女の子は二人いるんだよ」
ケイはコードレスの子機をベッドに投げ捨てる。
それから、口元だけを歪める笑みを浮かべて、言った。
「さあ、急ごう」
「おお。
「当たり前だよ。女の子が助けを求めているんだ。僕たちには全力を
「よくわからんが、その通りだ」
その会話が終わる
上がった息を整えながら、智樹は言う。
「女の子二人って、片方は春埼だよな?」
「もちろん」
「もう一人は
「違うよ。君の知らない子だ」
「
「うん。春埼よりも、ずっと」
智樹は口笛を吹く。彼は音を出すことは、基本的になんだって
「春埼の可愛さも
「どうかな」
ケイは春埼
二人がそんな会話を
マリの手を引いて、春埼がバスを降りてくる。二人ともワンピースを着ていた。春埼は
マリを見て、智樹は
「もう一人の女の子って、あの子か?」
「うん。可愛いでしょ?」
「そうだな。でもオレはもうちょい、胸が大きい方が好きだ」
こちらに気づいた春埼が、小走りに近づいて来る。彼女は一度、口を開き、しかし言葉が思いつかなかったのかまた閉じた。とても人間味のある動作だ、と思う。
ケイは
「とりあえず後ろに乗って。移動しよう」
「わかりました」
後ろにマリを乗せた智樹の自転車が、隣に並ぶ。
「どこに行くんだ?」
「停留所なんてわかりやすい場所じゃなければ、どこでもいい。とりあえず一度、君のうちに帰ろうか」
背中に春埼の手が
「春埼。事情を説明して
「よく、わかりません」
「君が知っていることだけでいい」
春埼美空は、ゆっくりと語り始める。
公園の前で、マリに会ったこと。彼女は黒いスーツの男たちに追われていたこと。マリが
それでだいたい、推測できた。死んでしまった
ケイは
「春埼。君が前回、セーブしたのはいつだ?」
「
よかった。ちゃんとセーブしていたようだ。
次の質問は、マリに尋ねるべきことだった。おそらくマリを傷つける質問。これ以上、マリを傷つけることが、正しいとは思えない。
──でもね、切り捨てることには、
内心でそう呟いて、
「マリ。君は、能力によって作り出された存在だね?」
彼女は答えない。ただうなだれているだけだ。
「きっと君の母親は、本物の倉川真理が死んだ時、能力を得た。死んでしまった倉川真理と同じ子供を作り出す能力を。その能力で作られたのが、君だね?」
マリは小さく、
ケイの背中に触れた、春埼の手に力がこもるのがわかる。──きっと僕は、春埼美空の感情を
相麻
──アンドロイドは、
まさか彼女が、こんな事態まで想定して、あの質問をしたのだとは思えないけれど。
クラカワマリ。
この少女は、人間そっくりに作られた。
能力によって、人工的に作り出された存在だ。