あの
例えば、理由のない悲しみが
あるいは彼女の夜が、悲しみで満ちることなど、ないのだろうか。彼女は夢に、意味を求めたりはしないのだろうか。
浅井ケイには、春埼美空という人格が、わかりそうでわからなかった。
だからケイは、彼女のことばかり考えて過ごした。
五月に入り、ゴールデンウィークは過ぎ去って、夏が始まった。
それはまだ、カレンダー上で立夏を
その頃から
三人が南校舎の屋上で顔を合わせるたびに、夏は進行していった。一日の平均気温が上がり、空はより深い青色に
会話の中で、ケイは春埼から、リセットという能力に関する情報を引き出した。
リセットについて理解することは、春埼の人格について理解することよりも、ずっと簡単だった。
春埼美空の能力は、厳密には、時間を巻き
リセットという名前の通り、あくまで配置し直す能力だ。配置し直すことで、過去の世界を厳密に再現する。
一部の時間を、完全に消し去っているわけではないのだ。ただ、みんな、忘れてしまうだけだ。だからケイの能力があれば、リセット前の
春埼の能力は強力な反面、いくつもの制限があった。
例えば事前にセーブしていなければ、リセットを使うことができない。セーブの効果は七二時間で切れてしまう。つまりは、リセットで巻き戻せる時間は、最大でも三日分ということになる。
加えて、リセットしてから二四時間が経過しなければ、再びセーブし直すことはできない。リセットを使っても、同じ時間を何度も
ケイが最も
この
──春埼美空のリセットは、浅井ケイの記憶保持がなければ意味をなさない。
大きな
1 六月上旬
「僕たちは、協力し合おう」
六月七日、月曜日の放課後に、ケイはそう提案した。相麻は何かの用件で
「僕と君の能力が
しかし、春埼は首を
「それは
ケイの能力を知っても、あくまでなんの変化もなく、彼女は静かに、そう答えた。
春埼が何かを明確に否定したのは、これが初めてだった。
「どうして?」
マニュアルを読み上げるように、春埼は
「ルールに従いました」
それだけですべての証明が終わったのだという風に、後は無言だった。
「そのルールについて、
「私が、物事を判断する指針として作ったルールです」
「内容は?」
「いくつかあります。例えば、周囲の
「僕に協力すると、周囲に悪い影響を与えるのかな?」
「その可能性はあります」
「どうして?」
春埼は感情のない目でケイを見返した。
「
敵意も悪意もない、
「リセットした時、私はその記憶を失います。貴方の
「……なるほど、その通りだね」
少し考えて、ケイは
「春埼さん。君は四月二八日の放課後に、この屋上でリセットを使ったね?」
「はい。おそらくは」
「あの時、どうして君は、リセットを使ったのかな?」
「女の子が一人、泣いていたからです」
「女の子が泣いていると、リセットを使うの?」
「誰であっても、泣いている人を見つけた時、リセットを使うことにしています」
使うことにしている。
とても受動的な
「それも君が設定したルールなのかな?」
「はい」
「でもね、春埼さん。君が一人でリセットを使うことは、無意味だ。きっと君がリセットを使っても、女の子が泣きやんだりはしない」
「はい。おそらくは」
「ならどうして、君はそのルールに従うのかな? 僕には理解できない」
淡々と、彼女は答えた。表情もなく、
「無意味であることが、ルールを破る理由にはなりません」
それからケイは、自身の愚かさを、内心で笑った。この少女を、少しも理解できていなかったのだと、ようやく気づく。
春埼美空には、人間味がない。そのくらいのことはわかっているつもりでいたけれど、でも
彼女の欠落は、思っていたよりも、ずっと深い位置にある。
普通、人は、完全な無意味に
人が無意味だと感じながら
だが、春埼美空は違う。
コンピュータが理由も知らないまま、設定された計算をいつまでも続けるように。この少女は、自身に課したルールを、どこまでも守り続ける。おそらくは
アンドロイド。人工的に設定された、人間によく似た何か。
まるでそんな存在みたいに。
過去のどこか一点で、春埼美空は意図的に、自身の意識を設定したのだろう。ルールという言葉で、自分自身をプログラミングしたのだと思う。
この少女は、あまりにも、人工的だ。
「春埼。そう遠くない未来に、僕はきっと君の
その時、ケイは初めて、彼女を春埼と呼んだ。春埼さん、と呼ぶ事を
静かな口調で、彼女は答える。
「私は今まで、誰かを信頼したことはありません」
「そうか。じゃあ、僕が一人目だ」
胸を張って、自信を持って──なるたけそう見えるように意識して、告げる。
春埼は相変わらず無表情で、ケイは笑っていた。
屋上に
その日の帰り道、ケイは相麻と並んで歩いていた。
いつものことだ。
「ケイ。春埼とは仲良くなれた?」
ゴールデンウィークが終わった
首を
「どうかな。ちょっと難しい」
「へぇ。貴方でも難しいなんて言葉を使うのね」
「彼女に限って言えばね。どこにも答えなんてないんじゃないかってくらいに、難しい」
「そうかしら。とてもシンプルな子だと思うけれど」
はっ、とケイは笑う。
「シンプルなのが、問題なんだ。シンプルすぎるものは、複雑すぎるものと同じくらい、理解するのが難しいんだと僕は思う。──例えば相麻は、
彼女は
「あるわよ。とても深く。
少し意外な回答だったけれど、そんなことは問題ではない。
ケイは
「好きだという感情は、複雑かな?」
相麻は首を振る。
「私は、シンプルだと思う。とてもとても、シンプルなものだと思う」
「僕もだよ。好き。たった二文字だ。でも例えば、人を好きになるという感覚を知らない相手に、言葉でそれを伝える方法がわからない」
あらゆる言葉で説明しても、きっと何かが少し足りないのだと思う。
相麻
「そういう時は、何も言わずに抱き締めればいいのよ。心の底から、愛を込めて」
ため息をついて、ケイは答える。
「そんな話をしてるんじゃない」
「同じことよ。シンプルなものを、複雑に考えてはいけない。それはシンプルなまま発信して、シンプルなまま受け入れるべきなの」
「シンプルなものを、受け入れることができなければ?」
「どうしようもないわよ。いつか受け入れられるようになるまで、忘れてしまうのが一番いい」
その通りかもしれないが、でもそれでは何も進展しない。
「つまり
「
「どうしてそう思うの?」
前方で、信号機の表示が赤に変わる。
足を止めて、相麻は答える。
「実は私、少し会話をするだけで、相手のことがわかる能力を持っているの」
「能力?」
「ああ、いえ。ややこしいわね。
彼女の言葉はきっと真実だろう、とケイは思う。
咲良田にある、すべての学校では、年に二回の割合で能力の
「ともかく私は、貴方と春埼のことを、たぶんそれなりによく知っているわ」
「へぇ、興味深いね。一体どんなことを知っているのかな?」
「例えば、ケイ。貴方はどうして、春埼と親しくなりたいと思っているの?」
「リセットという能力を手に入れるために」
ひどい答えだ、とケイは思う。
だが
「こんな質問に、貴方は悪ぶって答える人よ、ケイ。それは、貴方の中の正義感がとても強いから。
「よくわからないね。僕はそれほど、自分が正しいとは思えない」
信号機が青に変わる。ケイと相麻は、同時に歩き出す。
「あるところに、神さまがいたとしましょう」
なにげない口調で、相麻は語る。
「神さまは、一つの実験を行っていた。その実験とは、人を善人にすることを目的にしたものだった。そして実験のサンプルとして、一人の青年が選ばれた」
ケイは頷く。彼女が
「それで?」
「最初の実験として、神さまはその青年の
小さな笑い声を上げて、ケイは答える。
「神さまなら実験なんてしなくても、結果がわかりそうなものだけどね」
「その神さまは、ほとんど全能だったけれど、でもとても
「へぇ、どうして? 全能なら、全知になれそうなものだけれど」
「一度、ほとんど全知と呼べる知識を手に入れたけれど、すぐにその知識を捨て去ってしまったの。だからほぼ全能にして、限りなく無知に近い神さまになった。神さまにだって、色々な事情があるのよ」
全知よりも無知を選ぶ理由というのにも興味があったけれど、相麻の話の本筋は、そんなことではないだろう。
ケイは話を
「いいよ。ともかく神さまは善人を作り出す実験をして、ある青年の偽者を作った」
「そう。でも青年の行動は変わらなかった。決して悪人ではないけれど、善人だとも呼べないような人だった。偽者も同じように、悪でも善でもないまま日々を生きた」
「それで神さまは、満足したのかな?」
「いえ。だから二つ目の実験をしたの。神さまは青年に、ある
「へぇ。それは大変だ」
なんの興味もなさそうに、ケイは答えた。
くすりと笑って、相麻は続ける。
「だから青年は、悲しんでいる人を見過ごせないようになった。自身の痛みを取り除くために、悲しんでいる人すべてに手を差し
「なるほど。それで?」
「青年の偽者も、同じように行動した。こちらは全身に痛みが走るわけではないけれど、でも青年と同じように行動するよう作られていたから。だから青年も、その偽者も、まるで善人のように
「それを見た神さまは、どうしたの?」
「青年と、その偽者に、それぞれ名前をつけたわ」
「どんな名前を?」
「一方には、善。もう一方には、
なるほど、とケイは思う。
「ところで、相麻。この話には一体、どんな意味があるのかな?」
「ただの例え話よ。貴方が
「どこをどう考えれば、そんな話になるんだろう?」
ゆっくりとしたテンポで歩きながら、相麻は告げる。
「ケイ。
考えるまでもない質問だった。
「本物の青年が偽善、偽者の方が善だ」
「どうしてそう思うのかしら?」
「本物の方は、自分のために人を助ける。偽者の方は、なんの意図もなく人を助ける。どちらが
「でも本物は自分の意思で行動しているし、偽者はただ本物に従っているだけよ?」
「そんなことは問題じゃないさ。自分のための
本当の善意とは、
相麻は
「つまり、貴方はそういう風に、潔癖だってことよ。正義感が強すぎるから、自分が正義だと認められない。ほんの少しでも不純物があると、悪人のように考えてしまう。──貴方にとって、純粋な善人なんて、この世界にはいないんじゃないかしら?」
しばらく考えてから、ケイは首を
一人だけ、その例外がいる。とてもシンプルで、とても純粋で、完全に自己を無視して行動できる人間を、ケイは知っている。
彼女の名前を口に出そうとして、ふいにケイは思い当たった。
つい先ほどの会話だ。
──きっと貴方は、もう
と、
──どうしてそう思うの?
と、ケイは
相麻
にっこりと意地悪く、気まぐれな
「きっと春埼
こういう時だ。
相麻菫に、何か絶対的な、支配力のようなものを感じるのは。
あらゆる情報が、ケイが口にする疑問や、感情の動きまで何もかもが、彼女に支配されているように感じるのは。
平然と、相麻は言う。
「貴方と春埼が
「……それは?」
「春埼の過去を調べましょう。今まで彼女が何を体験して、その時に何を思い、どうして今の彼女に至ったのか」
そのくらいのことは、すでにケイも実行していた。
「春埼の過去には、なんの特異性も見つからないよ」
例えばわかりやすく、心に傷を残しそうな事件があるわけじゃない。
「どうかしらね。外から見ただけでは、わからないのかもしれない。ずっと昔、春埼が感情を自覚していた時期があったのだと私は思うわ」
「春埼にしかわからないことを、どうやって知るのさ?」
「もちろん、彼女に聞くのよ」
「
「そうでしょうね。でも、もっと
「記憶を、探る?」
「そう。過去の何もかもを、全部
「どうやって?」
「そういうことに、適した能力を知っているわ。たぶん協力して
気がつけば、いつも相麻と別れる曲がり角に着いていた。
二人は同時に足を止める。とても近い
ケイは相麻を見て尋ねた。
「ずっと疑問だったんだけどね。相麻、君の目的はなんだ?」
リセットを手に入れようとしている、ケイとは
彼女は軽く首を
「クラス委員長の仕事だって言ったはずだけど?」
「とても信用できない」
「でも本当に、貴方と春埼を仲良くさせたいだけなのよ」
「どうして?」
そうすることで彼女に何かメリットがあるのか、ケイにはわからなかった。
相麻は
「
「伝言?」
「そう。いろんな言葉を、人から人に届けるのが、言ってみれば私の目的」
「わけがわからない」
「いつかわかるわよ。
相麻はさらに一歩、ケイに近づいた。額が
「ねぇ、ケイ。貴方が求めているものは、リセット? それとも、春埼美空?」
彼女の、暖かで
「もちろん、リセットだよ」
と、ケイは答えた。
「どうしてそんなに、リセットが欲しいのかしら?」
「便利だからさ」
するりと
「とても信用できない」
またね、と告げて。こちらに背を向け、彼女は歩き出した。
※
同じ時間、春埼美空は、小さな公園にいた。
学校からの帰り道にある公園だった。
「
と、マリに声をかけられて、今は並んでブランコをこいでいる。
四月二七日に出会って以降、マリを
中学二年生の春埼にとって、公園のブランコは低すぎた。足の位置に注意しなければ、すぐにつま先が地面を
行って、
春埼には、ブランコの何が
春埼は表情もなく、一定のリズムでブランコをこいだ。
しばらくして、隣から、笑い声が聞こえなくなっていることに気づいた。
マリに視線を向けると、彼女はブランコを止めて、こちらを見上げていた。
ブランコに
マリはとても弱い力で、春埼の制服の
軽く首を傾げて、マリは言った。
「楽しくない?」
正直なところ、楽しくはない。
春埼が
「
と、春埼は言った。
そう
──なぜ私は、クラカワマリの感情を知りたがっているのだろう?
その理由に、思い当たらない。ルールにない、本来なら必要のない質問だった。
──でも、私の中の何かが、そうすべきだと判断したのだ。
きっと、感情と呼ばれる何かが。春埼の理性を通す前に、その疑問を言葉にした。
あるいはそれは、マリがとても弱い力で、春埼の制服を摑むからかもしれない。なんだかその力は、春埼の意識に強く作用する。
マリは首を
「かんじょう?」
「それは──」
春埼には、感情という言葉を、どう説明していいのかわからなかった。
なぜ、わからないのだろう? 説明できないのは、それを知らないからではないだろうか。
マリが泣き出せば、彼女が悲しんでいるのだと、確信することができる。そして無意味だと知りながら、リセットと
彼女は言った。
「私はお姉ちゃんと、遊びたいよ」
「なぜ、ですか?」
マリは笑った。春埼にもそれとわかるように、はっきりと。
「わかんないけど、楽しいもん」
とても人間的な答えだ、と春埼は思った。
──アンドロイドは、
少なくともこの少女は、アンドロイドからかけ
「ねぇ、中学校では、何をするの?」
と、マリは言った。
春埼はその質問に答えた。とても答えやすい質問だった。どんな授業を受けるのか、昼食には何を食べるのか。明確な答えを知っていた。
「友達とは、何をして遊ぶの?」
と、マリは言った。
その質問に答えることは難しかった。友達という言葉の定義を、春埼はよく知らない。
だが、なぜだろう、マリの質問にはきちんと答えたいと思った。
「友達では、ないと思います。でも最近は、よく話をする相手が、二人います。一人は相麻菫というクラスメイトで、もう一人は
「どんな話をするの?」
「今日は、浅井ケイと、
「しんらい?」
「理論的な
マリは首を傾げた。よくわからなかったのかもしれない。
「私は彼を信用できないと言い、彼は私に信用させてみせると言いました」
今度はなぜだか、マリは
「その人は、お姉ちゃんのことが好きなんだね」
好き。それもよくわからない言葉だ。
だが浅井ケイに限って言えば、
ふいに思いついて、春埼は告げる。
「好きという言葉も、感情の一つです」
マリはもう一度、頷く。
「そっか。私も、お姉ちゃんが好きだよ」
それから、
「あとは、お母さんも好き。でもお母さんは、私のこと、好きじゃないんだ。私が、ニセモノだから、
「
そう
しばらく考えて、春埼は尋ねる。
「
「うん。とっても」
何か自分に、できることはあるだろうか? そう考えて、春埼は
以前、相麻菫に
「貴女に、これをあげます」
「……なに?」
「開いて、願い事を言葉にすれば、それが
「本当に?」
「わかりません。私には、信じられません」
小さな声を立てて、マリは笑う。
「へんなの」
何がへんなのか、春埼にはよくわからなかった。
「でも、ありがとう」
マリはそう言って、青い封筒を深緑色のポシェットにしまった。
それから、三〇分ほど
よれたスーツを着て、
「
マリは首を
「お母さんは?」
「今日は少し、
「……うん」
マリは
「この人は
と、春埼は尋ねた。
「つしまさん、だよ」
ツシマ。マリの
その男──ツシマは春埼に視線を向ける。
「貴女は、春埼さん?」
「はい」
「マリからよく聞いてるよ。いつもこの子の相手をしてくれて、ありがとう」
そう言って、彼はたぶん、笑った。
「
と、春埼は尋ねる。
「この子の、保護者代理みたいなもんだ」
「マリの母親は、なぜ来ないのですか?」
「来るさ、そのうちに。ただ少し、遅れるだけだ。──さぁ、マリ。行こう」

マリはこくりと頷いて、春埼の制服から、手を
※
午後八時三〇分。
シャワーを浴びたばかりなのだろう、
ケイは木製のデスクの前に座り、人差し指で作り物の小さな
その猫は何か
「それ」
と、智樹は言った。
「ずっと持ってるよな。なんかあるのか?」
彼の言葉に、ケイは首を
「別に。なんとなく気に入ってるんだよ」
このキーホルダーが壊れたのは、二回目だ。一度直って、また壊れた。
「そのうち、何か適当な
「ストラップ?
「おばさんが許可をくれたらね」
中野家では、中学生が携帯電話を持つことは許可されていない。今時、携帯電話を禁止するのはちょっと
「いいなぁ、携帯」
そう智樹が
「君が携帯を持つと、能力の意味がなくなるよ?」
中野智樹は、離れた場所にいる人物に、声を届ける能力を持っている。
「オレのは一方通行だからな。相手の声も聞こえる分、携帯の方が便利だろ」
「ま、そうだね」
ケイはそっと猫型の元キーホルダーをデスクの上に戻し、代わりに
もう
「そういや最近、
智樹の声に反応して、ケイは視線を本から上げた。
「噂って、何が?」
「お前と、
「へぇ。それは意外だね」
別に、噂話として楽しいことでもないように思う。放課後、屋上に集まるのが
「ま、三角関係とか好きだからな、基本的に」
智樹の言葉に、ケイは笑う。
三角関係。
「そんなにファンタジックで興味深い関係じゃないよ、僕たちは」
「
「ああ。確かに彼女の
まったく想像できない。同じクラスに春埼がいて、
ケイは再び手元の本に視線を落とした。物語の
ラジオの音楽は愛を
「で、本当のところは、何やってんだ?」
「どうでもいいことを、だらだらと話してるんだよ。マクドナルドにいる同級生たちと同じように」
智樹はさも
「お前なら、
「たまにそんな話もする。それも
「ちなみに、なんなんだ? 相対性理論って」
「光と空間と時間はとても強い
「わけがわからんな」
「そうだね。実は僕も、いまいちよくわかってない」
「で、いつもそんな話をしてるのか?」
「色々だよ。今日は神さまに
正確には、屋上で
「へぇ。その話、楽しいのか?」
「不幸な人の話だよ? 楽しいわけがない」
「なるほど。じゃ、いいや」
小説ではようやく、依頼人の美しい女性が現れた。こういう、古典的な導入は
それから二度、ラジオから流れる曲が変わるまで、ケイと
アコースティック・ギターで雨の日について歌う曲が流れ始めた時、智樹は言った。
「お前がなんの理由もなく、一月以上も同じことを続けるってのは、ちょっと信じられない」
「ずいぶん
「お前が変わったことを始めると、だいたい何かが起きる」
「何かって?」
「この間はどっかの
「そんなこと、毎日どこかでは起こってるでしょ。僕のせいじゃない」
「
未緒というのは、
「
と、ケイは答える。
「自転車の修理費、お前がそいつから回収したって言ってたよな?」
「ちゃんと話したらわかってくれたんだ。意外と善人だったのかもね」
ちょっと、特殊な話し方をしただけで。その副次的な効果として相手が警察に怒られただけで、きちんと自転車の修理代を
「お前はいい奴だよ。でも、平気で
思わず、ため息が
「今回は──」
意図して、今回は、とケイは言った。
「別に、危ないことをしてるわけじゃない。ただ女の子二人と、仲良く話をしているだけだよ」
はっ、と、智樹は笑う。どこか
「十分危ねぇよ。もてない奴らに
「それは大変だね。君が守ってよ」
「おいおい、オレももてない側だぜ?」
「いじめられてる僕を
「おお、なるほど。お前が二、三発殴られてから考えよう」
彼は
「で、どうして
中野智樹は、意外にしつこい。
二度目のため息をついて、ケイは手元の本を閉じる。
「誰にもいわないと、約束してくれるかな?」
あっさりと、智樹は頷く。
「ああ。もちろん」
彼は噓をつかない。
「
と、ケイは言った。
デスクの上の
リセット。それは、ケイにとって、特別な意味を持つ。
※
リセットを初めて体験したのは、小学六年生の、夏休みだった。
その夏、
咲良田は一見、なんの
電車を降り、乗り
キーホルダーには、ケイの自宅の鍵がついていた。だが金具の部分が欠けて、もう意味を成さなくなっていた。
壊れてしまったキーホルダーは、小さな生き物の
ケイはそのキーホルダーを手のひらに
「壊れてしまったのかい?」
「私が直してあげよう。ちょうどいい能力を持っているんだ」
能力、という言葉を聞いても、ケイはそれほど
別に直す必要はない、と答えようと思ったけれど、それよりも先に、彼はキーホルダーを取り上げた。欠けた金具と共に。
もし彼が一度でも手を
だが彼は、手のひらを開いたままだった。彼が軽く、キーホルダーに視線をやると、それだけで欠けていた金具は元に戻った。まるで映像を編集したように。なんの演出もなく単純に、壊れていたキーホルダーが直っていた。
彼はキーホルダーをケイの手に戻す。
「それじゃあ。
にっこりと笑って、彼はケイに背を向けた。
わけがわからなかった。──もちろん、たったそれだけのことで、咲良田の住民たちが不思議な能力を持っているだなんて理解できるはずがない。
ケイは街中を歩き回り、ゆっくりと能力の存在を知っていった。
どれだけ理論的に考えても、この街には当然のように不思議な能力が
絶対に壊れるはずがないと思っていた世界のルールが、簡単に壊れる感触。それは小学六年生のケイを夢中にさせた。この街を理解したいという願望を
それから数日間、ケイは咲良田で生活した。
家に帰らなかったのは、交通費の問題だ。一度この街を
大人たちに見つかれば、両親が住んでいる街に連れ帰されることは
自宅にはむしろ
情報の収集元として目をつけたのは、子供たちだ。
子供は自分の知識を語りたがっているものだし、的外れな質問をしても疑問視されることはあまりない。睡眠の合間に、ケイは自分よりも年下の子供を見つけては、咲良田の能力に関する質問を
ケイには、特に気に掛かっていることが、一つあった。
これほど不思議な街の存在が、なぜ世間一般に知られていないのか。常識的に考えて、隠し通せるようなことでもないし、そもそも咲良田の住民には、能力を隠そうという意識がない。
その理由として手に入れた情報も、興味深いものだった。
咲良田の外に足を
ケイは図書館のインターネットを使い咲良田付近の地図をプリントアウトして、聞き出した情報を元に、どの
その線は、咲良田をすっぽりと囲い込むような円形をしていた。真円ではない、
ラインを
だが、咲良田の外に出ることには、
能力に関する知識を失った自分は、もうこの街には
ケイは公園のベンチに座っていた。ペンキが
──四日。そろそろ、限界だろう。
小学六年生が勝手に家を出て、そのままふらふらと過ごしていい期間は、もうとっくに過ぎている。
さすがに次の行動を決断しなければならない。ケイが両親が住んでいる街に戻るのか、それとも本格的に、この街で生活することを考えるのか。
──僕は、できるなら、この街を離れたくない。
心の底から、そう思う。
一度、咲良田を離れたとして、確実にこの街に戻ってこられる方法があるだろうか。思いつかなかった。インターネットから地図をプリントアウトした時、同時に咲良田に関する情報を
きっと能力に関する情報は、それほど
理由はわからない。咲良田の住民たちの
ではこのまま、咲良田に残り続けるとして。
──つまり、小学六年生までの、僕のすべてを捨て去るとして。
そんなことが、許されるだろうか。
ケイは両親について思い出す。
彼らとの間には、明確な
その隔たりの原因が、ケイにあることは明らかだ。ケイは昔から、人に心を開くことが苦手な子供だった。だが大人と会話することが苦手なわけではない。
例えば学校で、大人たちがどういう言動を求めているのか、簡単に理解することができた。それを
ケイは同じ方法で、両親にも接した。
だがずっと
ケイの言葉に、行動に、発信するあらゆる情報に、本当の感情なんてなかった。数式で問題を解くように、ただ正解を答えていただけだ。
きっと両親は、気持ちの悪い子供だと思っているだろう。なのに自分たちの子供を愛したいと、努力し続けている。とても、とても、善良だと思う。
──でもね、愛したいと努力するのは、愛していないからなんだよ。
彼らが無理をして
悪いのはこちらの方だ。だがこの問題を、どう解決すればいいというのだろう。ケイが彼らの気に沿うように行動するほど、隔たりは大きくなる。
──僕はきっと、彼らを愛している。
それは、真実なのだと思う。
だがその愛は、深いものでも、強固なものでもない。どこにだって簡単に転がっているような愛だ。いずれはぐしゃぐしゃと丸めて、ごみ箱に捨てられてしまうような。
もしもこのまま、ケイが家に帰らなければ。彼らは一体、どうするだろう?
もちろん、悲しむだろう。その大半は本心で、あとのいくらかは義務感で。だが時間が
──当たり前だ。僕はいるだけで、彼らの負担になっているのだから。
いるだけで、彼らを傷つけているのだから。
そう考えて、ケイは笑う。
この思考は、
もし本当に彼らを捨て去るのであれば、その行動の
ケイはもう一度、両親について思い出す。より厳密に、どこまでも正確に。自身がしようとしている罪を、はっきりと自覚するために。
そして、気づいた。
それは
例えば、もう何年も前のある日。母親が着ていた服装を、
そんな記憶がこれまでのおよそ一二年分、すべて。意識なんて残っているはずもないくらい幼い
生まれた
とても自然に、考える。
──ああ、僕は、父さんと母さんを、愛していた。
もう忘れてしまっていたんだ。ずっと昔、ケイは確かに、彼らを愛していた。
強く、強く、この世界の何よりも特別な感情として、確かに。そのすべてを思い出した。
──でも泣いたのは、それを思い出したからじゃない。
彼らの元に帰ることを決めたなら、笑えばよかった。心の底から
手のひらのキーホルダーを
何もかもを思い出しても。
幸福だった記憶や、彼らからの
──僕は、彼らを、捨て去れるんだ。
ただ涙を流すだけで。その程度のことで、全部捨てることができるんだ。
おそらくその能力は、自身がどれだけ
だが涙は、すぐに止まった。
それから二四時間、ケイは今までと同じように、咲良田で生活した。
自身の能力について検証し、咲良田に関する情報を集めた。そしてこの街で、生活する手段について考えた。
小学六年生がたった一人で生きていくことは、とても難しい。必要なものは食べ物と住居だった。数日程度ならどうにでもなるが、長期的な生活を考えるなら、それらを
第一の条件として、安定した生活は、社会的に真っ当な方法で手に入れる必要がある。少なくとも
協力者を探さなければならない。きちんとした力を持った、大人の協力者。一体、どうすればそれを得られるのか、考え続けていた。
その間も、猫型のキーホルダーは手の中にあった。自宅の
まだ迷っているということなのだろう、とケイは考える。まるで
咲良田を
その車から黒いスーツを着た男性が二人と、
濃紺色のスーツを着た女性は言った。
「浅井ケイくん、ですね」
断定的な口調だった。
「
と、ケイは
「管理局の者です」
と、彼女は答えた。
管理局。咲良田の能力を管理する、公的な機関。能力に関する問題以外では、
ケイは意図して、何も言わなかった。まっすぐに、彼女の目を見ていた。本当に彼女たちが管理局員なのか、そんなことを疑いながら。
彼女は表情を
「話があります。車に乗っていただけますか」
にっこりと笑って、ケイは答える。
「話の内容によります。まずそれを聞かせてください」
「
「……へぇ」
不意に、理解した。管理局、能力、咲良田という街の構造、浅井ケイの立場。──そのすべてを
なぜ今まで思い当たらなかったのか、不思議なくらいだ。まずそれを
ケイは尋ねる。
「どうして、わかったんですか?」
「質問の意味がわかりません」
「僕の能力について、どうしてわかったのか、教えていただけますか?」
目の前の女性が、ほんの
「その質問には、お答えできません」
「そうですか。じゃあ、貴女の名前を教えていただけますか?」
「……それについても、
「へぇ。どうして?」
「管理局内で情報を
個人を特定させないためのセキュリティーの一種だろうか。どの程度の効果があるのか、よくわからないけれど。あるいは本当に、ただの伝統なのかもしれない。
「それ、不便じゃないですか?
この会話に意味はない。意識を切り
しばらく
「
「わかりました、索引さん。車に乗りましょう」
ケイは
──どうして、鍵を捨てておかなかったんだろう?
こんな形で答えが出るなんて、最低だ。
黒いスーツを着た男のうち、一人が運転席に、もう一人が助手席に乗り込む。ケイと索引さんは、後部座席に座った。
車が走り出したすぐ後に、索引さんは話し始めた。
「管理局は貴方に関する、一つの決定を下しました」
「それは?」
「咲良田の外に出ることの禁止、です」
「どうして?」
「その質問にはお答えできません」
「貴女の話は、公務員の権限を
「では法律に
なぜ自信を持ってそう断言できるのかわからなかったが。そんなことで、口論しても仕方がない。
ケイは背もたれに体重を預ける。
「ま、だいたいわかりますよ。咲良田を管理する上で、僕の能力が
何かを
自信を持って、ケイは断言する。もし
「咲良田の外に出ても、僕は能力に関する
一歩でも
対して、何もかもを確実に思い出す、ケイの能力。
その二つは、完全に
「なぜ、そう思うのですか?」
「
ケイの能力と、咲良田に留まらなければならないという条件を合わせて考えた時、他の可能性なんてないように思う。
「まぁ、いいでしょう。その通りです。管理局は能力に関する情報が、咲良田の外に
頷いて、ケイは続ける。
「もう一つ、予想できることがあります」
「それは?」
「この街の外に出ると、能力に関する知識を失うという現象。それは、どこかの
咲良田の外に出ると、能力に関する知識を忘れる。それが能力そのものに備わるルールなら、ケイがどんな能力を持っていたところで、やはり忘れてしまうように思う。
だが、その現象自体が、何者かの能力によって作り出されているのだとしたら。
矛盾する能力が
索引さんは、そっけなく首を
「その質問には、お答えできません」
「そうですか。残念です」
ケイは
索引さんは小さく
「ともかく管理局は、
ケイは書類を索引さんから受け取って、ざっと目を通す。
そこには契約に関する、いくつかの
管理局は
それに加えて──
「管理局は、貴方の過去を買い取ります。それなりに高額で」
ケイは書類を読み進める。確かに、そういった内容が書かれていた。とりあえず
「過去を買い取るって、一体どうするんです?」
「咲良田の外の世界において、貴方がいた
なんとも
「それは例えば、僕が死んでしまったように
「いえ。もっと厳密に、貴方がいたという事実そのものがなくなります」
「一体、どうやって?」
「その質問にはお答えできません。ですが、危険な手段ではない。信用して頂いてかまいません」
信じろと言われて、信じられる話でもなかったが。疑ってみたところで、できることも思いつかない。
少し迷ってから、ケイは
「僕の両親は、僕のことを全部、忘れてしまうんですね?」
「ええ。
「いえ。理想的です」
意図してケイは
「基本的には、この契約に同意します。ですからもう少し、きちんと契約の内容を読ませてもらえますか?」
「……わかりました」
「ありがとうございます。できたら車を
走っている車の中で文章を読むと、気分が悪くなってしまうのだ。
文面に興味があったわけではなかった。必要だったのは、気持ちに整理をつけるための時間だ。管理局の意向により、咲良田に
理性的には、なんの文句もない。幸運だとすら思う。だが感情的に考えた時、許せるものではなかった。
──どうして、
過去を、すべて捨て去る。
本来これは、管理局なんかが
本当は、あらゆる意味で言い
目を閉じて、ため息をつく。何かを
その時だった。
目を開いた時、ケイは公園にいた。
ペンキが
咲良田を
ケイは両親への愛を思い出し、それでも彼らを捨て去ろうとして。自宅の鍵のついたキーホルダーを
もう一度、
──僕は、明日の記憶を持っている。
これから起こる事を、ケイは厳密に思い出せた。明日、索引さんに出会い、黒い車に乗せられて、過去を捨て去る契約を
──未来を、思い出した?
わけがわからなかった。
思い当たった可能性は、三つだ。ケイ自身の能力として、未来の記憶を得ることができるのか。どこかの
いや、そんなことよりも。重要なのは、咲良田の外に出ても、能力に関する記憶を失わずにいられる可能性が生まれたことだ。
咲良田に留まる理由が、一つ減った。
──忘れなければ、僕はまたこの街に

常識的に判断するなら、一度自宅に帰るべきだ。索引さんが現れる前に。ケイは本来の居場所に戻り、高校生か、大学生か、ともかく一人で生活できるようになってから、またこの
気がつけば涙は
──でもね、僕はどうしても、もう一方の
今すぐに過去のすべてを捨て去って、この不思議な街で生きていくことが、魅力的に見える。
ケイは少しでも長く、この街にいたかった。
例えば、高校入学時にこの街に戻ってくるとして四年後。四年もの時間を、
そして出来るなら、両親に存在を忘れ去られて、生きていきたかった。もう無理やりに子供を愛そうと努力する、父や母を見ていたくはなかった。彼らのためではない。ケイ自身の願望として。
ほんの四日前、咲良田に向かう電車に乗っていた時のことだ。電話
──
──でもそこに踏み込めば、貴方は決して元に戻れなくなる。
──咲良田は、貴方を
まったく、その通りだ。魔女の予言は、現実になる。
ケイは猫型のキーホルダーから、自宅の鍵を外した。とてもスムーズな手つきで。
ベンチから立ち上がり、公園を出て、ゆったりとしたペースで歩く。
前方に、ごみ箱がいくつか並んでいた。
ケイは
誰に強制されたわけでもない、自分自身の判断として、過去を捨て去ることに決めた。その罪悪感を、僅かな欠けもない完全な形で、浅井ケイは手に入れた。
だがケイにとって、それこそが何よりも重要だった。
過去を捨て去ったケイは、手の中のキーホルダーを見る。母親から
※
ラジオからは、カリフォルニアの海岸に関する曲が、ノイズ混じりに流れていた。
中学二年生の浅井ケイは、デスクの上にある、猫型の元キーホルダーから視線を
「どうして、春埼と仲良くなりたいんだ?」
と、
「彼女はね、とても
と、ケイは答えた。
あの時のリセットに、本質的な意味はなかったのだと、今ならわかる。リセットのすぐ後で、ケイが咲良田を離れようとしても、やはり管理局に捕らえられていただろう。その程度のこともできない機関が、咲良田にある無数の能力を、管理できるとは思えない。
それでも春埼美空の能力に、ケイの心が救われたことは
もしあの時、管理局に強制されて咲良田に
──僕が悪いわけじゃないんだ。どうしようもなかったんだ。と、言い訳できてしまう。
だがリセットが、ケイからその言い訳を
あの能力が、ケイ自身の意思で咲良田に留まることを、決めるだけの時間をくれた。
自身の行動に対して、罪の意識まで失うようなことがあってはならないのだとケイは思う。
リセット。
その能力は小学六年生のケイを、とても無自覚的に救った。
ケイが求めていただけの罪悪感を、ケイに
春埼美空の能力は、