あのころ

 はるそらがリセットと呼ばれる能力の持ち主だと知った日から、あさケイは彼女のことばかり考えて過ごした。

 例えば、理由のない悲しみがおとずれる夜に、彼女は何を思うのだろう。どんな風にねむりにつき、どんな夢を見るのだろう。

 あるいは彼女の夜が、悲しみで満ちることなど、ないのだろうか。彼女は夢に、意味を求めたりはしないのだろうか。

 浅井ケイには、春埼美空という人格が、わかりそうでわからなかった。

 だからケイは、彼女のことばかり考えて過ごした。

 五月に入り、ゴールデンウィークは過ぎ去って、夏が始まった。

 それはまだ、カレンダー上で立夏をむかえたという意味しか持たない夏だった。五月上旬の暖かな日々を、浅井ケイは夏として受け入れることができなかった。

 その頃からそうすみれは、ケイと春埼を、ひんぱんに屋上に呼び出すようになった。平均すると一週間に二、三回の割合で。

 三人が南校舎の屋上で顔を合わせるたびに、夏は進行していった。一日の平均気温が上がり、空はより深い青色にみ、雲はかがやき、制服がはんそでに変わった。

 会話の中で、ケイは春埼から、リセットという能力に関する情報を引き出した。

 リセットについて理解することは、春埼の人格について理解することよりも、ずっと簡単だった。

 春埼美空の能力は、厳密には、時間を巻きもどすものではない。

 リセットという名前の通り、あくまで配置し直す能力だ。配置し直すことで、過去の世界を厳密に再現する。

 一部の時間を、完全に消し去っているわけではないのだ。ただ、みんな、忘れてしまうだけだ。だからケイの能力があれば、リセット前のおくを思い出すことができる。なかともの能力は、リセットされた後でも効果を発揮する。

 春埼の能力は強力な反面、いくつもの制限があった。

 例えば事前にセーブしていなければ、リセットを使うことができない。セーブの効果は七二時間で切れてしまう。つまりは、リセットで巻き戻せる時間は、最大でも三日分ということになる。

 加えて、リセットしてから二四時間が経過しなければ、再びセーブし直すことはできない。リセットを使っても、同じ時間を何度もり返せるわけではない。

 ケイが最もおどろいたのは、リセットの効果が春埼美空自身にも有効だ、ということだった。例えばリセットを使い、三日前の世界を再現した時、春埼の記憶まで三日前に戻ってしまう。彼女はその三日間の出来事も、リセットを使用したという事実も覚えていない。

 このみような特性を知った時、ケイは笑わずにはいられなかった。とても大きな幸運を感じた。

 ──春埼美空のリセットは、浅井ケイの記憶保持がなければ意味をなさない。

 ついになることが約束されているような二つの能力。ケイが春埼の能力を有益だとほつするように、春埼もまたこちらの能力を利用したいと考えるだろう。そう思った。

 大きなかんちがいだった。


  1 六月上旬


「僕たちは、協力し合おう」

 六月七日、月曜日の放課後に、ケイはそう提案した。相麻は何かの用件でおくれ、屋上にはケイと春埼しかいなかった。

「僕と君の能力がそろえば、たいていのことはできる。様々な困難を、きっとあっさり乗りえることができる」

 しかし、春埼は首をる。

「それはいやです」

 ケイの能力を知っても、あくまでなんの変化もなく、彼女は静かに、そう答えた。

 春埼が何かを明確に否定したのは、これが初めてだった。

「どうして?」

 マニュアルを読み上げるように、春埼はたんたんと答える。

「ルールに従いました」

 それだけですべての証明が終わったのだという風に、後は無言だった。

「そのルールについて、くわしく教えて欲しいね。一体どこのだれが、どんな意図を持って作ったルールなのかな?」

「私が、物事を判断する指針として作ったルールです」

「内容は?」

「いくつかあります。例えば、周囲のかんきように強いあくえいきようあたえる可能性があることがらを、私は否定します」

「僕に協力すると、周囲に悪い影響を与えるのかな?」

「その可能性はあります」

「どうして?」

 春埼は感情のない目でケイを見返した。

貴方あなただけが、一方的にリセットの効果を利用できるからです」

 敵意も悪意もない、あきれるくらいにへいたんな声で、彼女は告げる。

「リセットした時、私はその記憶を失います。貴方のうそにも気づけません。あまりに貴方が、主導権を持ち過ぎます。そして貴方を信用するこんきよが、私にはありません」

「……なるほど、その通りだね」

 はるそらは、おろかではない。人を疑うことを、知らないわけではない。きっとだんは、その必要を感じていないだけなのだ。

 少し考えて、ケイはたずねた。

「春埼さん。君は四月二八日の放課後に、この屋上でリセットを使ったね?」

「はい。おそらくは」

「あの時、どうして君は、リセットを使ったのかな?」

「女の子が一人、泣いていたからです」

「女の子が泣いていると、リセットを使うの?」

「誰であっても、泣いている人を見つけた時、リセットを使うことにしています」

 使うことにしている。

 とても受動的な台詞せりふだと、ケイは思う。自身で決めたことさえ、この少女は受動的に語る。

「それも君が設定したルールなのかな?」

「はい」

「でもね、春埼さん。君が一人でリセットを使うことは、無意味だ。きっと君がリセットを使っても、女の子が泣きやんだりはしない」

「はい。おそらくは」

「ならどうして、君はそのルールに従うのかな? 僕には理解できない」

 淡々と、彼女は答えた。表情もなく、よくようもなく、ただ事実だけを語る風に。

「無意味であることが、ルールを破る理由にはなりません」

 おどろきだった。

 それからケイは、自身の愚かさを、内心で笑った。この少女を、少しも理解できていなかったのだと、ようやく気づく。

 春埼美空には、人間味がない。そのくらいのことはわかっているつもりでいたけれど、でもちがった。

 彼女の欠落は、思っていたよりも、ずっと深い位置にある。

 普通、人は、完全な無意味にえられない。

 人が無意味だと感じながらり返す行動は、本質的に無意味ではない。本人にだけはわかる楽しみや、安らぎや、満足感が、そこにはある。

 だが、春埼美空は違う。

 コンピュータが理由も知らないまま、設定された計算をいつまでも続けるように。この少女は、自身に課したルールを、どこまでも守り続ける。おそらくはめいてきなエラーが生まれるまで、ずっと。

 アンドロイド。人工的に設定された、人間によく似た何か。

 まるでそんな存在みたいに。

 過去のどこか一点で、春埼美空は意図的に、自身の意識を設定したのだろう。ルールという言葉で、自分自身をプログラミングしたのだと思う。

 この少女は、あまりにも、人工的だ。

 あさケイは笑う。声には出さずに、心の底から。

「春埼。そう遠くない未来に、僕はきっと君のしんらいを勝ち取ってみせるよ」

 その時、ケイは初めて、彼女を春埼と呼んだ。春埼さん、と呼ぶ事をめた。

 静かな口調で、彼女は答える。

「私は今まで、誰かを信頼したことはありません」

「そうか。じゃあ、僕が一人目だ」

 胸を張って、自信を持って──なるたけそう見えるように意識して、告げる。

 春埼は相変わらず無表情で、ケイは笑っていた。

 屋上にそうが現れて、この会話は終わった。


 その日の帰り道、ケイは相麻と並んで歩いていた。

 いつものことだ。ちゆうまで、彼女と帰り道が同じなのだ。

「ケイ。春埼とは仲良くなれた?」

 ゴールデンウィークが終わったころから、相麻はケイを下の名前で呼ぶようになっていた。とても自然に、それが当然なのだという風に。

 首をって、ケイは答える。

「どうかな。ちょっと難しい」

「へぇ。貴方でも難しいなんて言葉を使うのね」

「彼女に限って言えばね。どこにも答えなんてないんじゃないかってくらいに、難しい」

「そうかしら。とてもシンプルな子だと思うけれど」

 はっ、とケイは笑う。

「シンプルなのが、問題なんだ。シンプルすぎるものは、複雑すぎるものと同じくらい、理解するのが難しいんだと僕は思う。──例えば相麻は、だれかを好きになったことはある?」

 彼女はうなずく。

「あるわよ。とても深く。ほかの何もかもがどうでもよくなってしまうくらい、好きな人が私にはいるの」

 少し意外な回答だったけれど、そんなことは問題ではない。

 ケイはたずねた。

「好きだという感情は、複雑かな?」

 相麻は首を振る。

「私は、シンプルだと思う。とてもとても、シンプルなものだと思う」

「僕もだよ。好き。たった二文字だ。でも例えば、人を好きになるという感覚を知らない相手に、言葉でそれを伝える方法がわからない」

 あらゆる言葉で説明しても、きっと何かが少し足りないのだと思う。

 相麻すみれは笑う。それから、低くおさえた口調で言った。神さまが、世界の真理についてかくにんするような声だった。

「そういう時は、何も言わずに抱き締めればいいのよ。心の底から、愛を込めて」

 ため息をついて、ケイは答える。

「そんな話をしてるんじゃない」

「同じことよ。シンプルなものを、複雑に考えてはいけない。それはシンプルなまま発信して、シンプルなまま受け入れるべきなの」

「シンプルなものを、受け入れることができなければ?」

「どうしようもないわよ。いつか受け入れられるようになるまで、忘れてしまうのが一番いい」

 その通りかもしれないが、でもそれでは何も進展しない。

「つまりはるのことは、一度忘れた方がいいってことかな?」

ちがうわ。きっと貴方あなたは、もう春埼を受け入れている」

「どうしてそう思うの?」

 前方で、信号機の表示が赤に変わる。

 足を止めて、相麻は答える。

「実は私、少し会話をするだけで、相手のことがわかる能力を持っているの」

「能力?」

「ああ、いえ。ややこしいわね。さくにある、不思議な力のことではないわ。そういう意味では、私はなんの能力も持っていない」

 彼女の言葉はきっと真実だろう、とケイは思う。

 咲良田にある、すべての学校では、年に二回の割合で能力のを調べる検査がある。身体測定やけんこうしんだんと同じように。能力の存在をかくし通すことは困難だ。そしてケイが知っている限り、相麻はなんの能力も持っていない。

「ともかく私は、貴方と春埼のことを、たぶんそれなりによく知っているわ」

「へぇ、興味深いね。一体どんなことを知っているのかな?」

「例えば、ケイ。貴方はどうして、春埼と親しくなりたいと思っているの?」

「リセットという能力を手に入れるために」

 ひどい答えだ、とケイは思う。あさケイはただの道具として、春埼そらを求めている。真っ当な感覚があるなら、けんかんを持って当然だ。

 だがそう菫は、微笑ほほえんで答える。

「こんな質問に、貴方は悪ぶって答える人よ、ケイ。それは、貴方の中の正義感がとても強いから。けつぺきしようとも、かんぺき主義とも表現できるくらいに」

「よくわからないね。僕はそれほど、自分が正しいとは思えない」

 信号機が青に変わる。ケイと相麻は、同時に歩き出す。

「あるところに、神さまがいたとしましょう」

 なにげない口調で、相麻は語る。

「神さまは、一つの実験を行っていた。その実験とは、人を善人にすることを目的にしたものだった。そして実験のサンプルとして、一人の青年が選ばれた」

 ケイは頷く。彼女がとうとつじようちような例え話を始めることには、もうれつつあった。

「それで?」

「最初の実験として、神さまはその青年のにせものを作り出した。偽者に意思はなく、ただ本物の青年と同じように行動する。もう一人の自分がいれば、客観的に自分の行いを知ることができて、善人になるのではないかと神さまは考えた」

 小さな笑い声を上げて、ケイは答える。

「神さまなら実験なんてしなくても、結果がわかりそうなものだけどね」

「その神さまは、ほとんど全能だったけれど、でもとてもだったのよ」

「へぇ、どうして? 全能なら、全知になれそうなものだけれど」

「一度、ほとんど全知と呼べる知識を手に入れたけれど、すぐにその知識を捨て去ってしまったの。だからほぼ全能にして、限りなく無知に近い神さまになった。神さまにだって、色々な事情があるのよ」

 全知よりも無知を選ぶ理由というのにも興味があったけれど、相麻の話の本筋は、そんなことではないだろう。

 ケイは話をもどす。

「いいよ。ともかく神さまは善人を作り出す実験をして、ある青年の偽者を作った」

「そう。でも青年の行動は変わらなかった。決して悪人ではないけれど、善人だとも呼べないような人だった。偽者も同じように、悪でも善でもないまま日々を生きた」

「それで神さまは、満足したのかな?」

「いえ。だから二つ目の実験をしたの。神さまは青年に、あるのろいをかけた。それは悲しんでいる人を見つけると、全身に苦痛が走る呪いだった」

「へぇ。それは大変だ」

 なんの興味もなさそうに、ケイは答えた。

 くすりと笑って、相麻は続ける。

「だから青年は、悲しんでいる人を見過ごせないようになった。自身の痛みを取り除くために、悲しんでいる人すべてに手を差しべた」

「なるほど。それで?」

「青年の偽者も、同じように行動した。こちらは全身に痛みが走るわけではないけれど、でも青年と同じように行動するよう作られていたから。だから青年も、その偽者も、まるで善人のようにしようがいを過ごした。以上、おしまい」

 なつとくできない話だった。

「それを見た神さまは、どうしたの?」

「青年と、その偽者に、それぞれ名前をつけたわ」

「どんな名前を?」

「一方には、善。もう一方には、ぜん

 なるほど、とケイは思う。

「ところで、相麻。この話には一体、どんな意味があるのかな?」

「ただの例え話よ。貴方がけつぺきなくらいに善人だっていうことを伝えるための」

「どこをどう考えれば、そんな話になるんだろう?」

 ゆっくりとしたテンポで歩きながら、相麻は告げる。

「ケイ。貴方あなたはどちらが善で、どちらが偽善だったと思う?」

 考えるまでもない質問だった。

「本物の青年が偽善、偽者の方が善だ」

「どうしてそう思うのかしら?」

「本物の方は、自分のために人を助ける。偽者の方は、なんの意図もなく人を助ける。どちらがじゆんすいな善かなんて、考えるまでもない」

「でも本物は自分の意思で行動しているし、偽者はただ本物に従っているだけよ?」

「そんなことは問題じゃないさ。自分のためのこうは、純粋な善ではないよ」

 本当の善意とは、きわめて無自覚的なものなのだと、ケイは思う。

 相麻はうなずく。

「つまり、貴方はそういう風に、潔癖だってことよ。正義感が強すぎるから、自分が正義だと認められない。ほんの少しでも不純物があると、悪人のように考えてしまう。──貴方にとって、純粋な善人なんて、この世界にはいないんじゃないかしら?」

 しばらく考えてから、ケイは首をった。

 一人だけ、その例外がいる。とてもシンプルで、とても純粋で、完全に自己を無視して行動できる人間を、ケイは知っている。

 彼女の名前を口に出そうとして、ふいにケイは思い当たった。

 つい先ほどの会話だ。

 ──きっと貴方は、もうはるを受け入れている。

 と、そうは語った。

 ──どうしてそう思うの?

 と、ケイはたずねた。

 相麻すみれは、あれからずっと、その質問に答えていたのだ。こんなにも回りくどい方法で、だが本質はみ外さずに。

 にっこりと意地悪く、気まぐれなねこみたいに、相麻は笑う。

「きっと春埼そらは、貴方の理想よ。貴方が考える純粋な善に、ゆいいつなり得る存在。そんな相手を、受け入れられないはずないでしょう?」

 こういう時だ。

 相麻菫に、何か絶対的な、支配力のようなものを感じるのは。

 あらゆる情報が、ケイが口にする疑問や、感情の動きまで何もかもが、彼女に支配されているように感じるのは。

 平然と、相麻は言う。

「貴方と春埼がたがいに理解し合う手段として、一つ、有効かもしれない方法があるわ」

「……それは?」

「春埼の過去を調べましょう。今まで彼女が何を体験して、その時に何を思い、どうして今の彼女に至ったのか」

 そのくらいのことは、すでにケイも実行していた。

「春埼の過去には、なんの特異性も見つからないよ」

 例えばわかりやすく、心に傷を残しそうな事件があるわけじゃない。

「どうかしらね。外から見ただけでは、わからないのかもしれない。ずっと昔、春埼が感情を自覚していた時期があったのだと私は思うわ」

「春埼にしかわからないことを、どうやって知るのさ?」

「もちろん、彼女に聞くのよ」

ためしたよ。なんだって答えてくれるけれど、特筆すべきことはない」

「そうでしょうね。でも、もっとしようさいに春埼のおくさぐることができたなら、きっと一つくらい何か見つかると思うの」

「記憶を、探る?」

「そう。過去の何もかもを、全部れいに思い出すの。まるで貴方の能力みたいに」

「どうやって?」

「そういうことに、適した能力を知っているわ。たぶん協力してもらえると思う」

 気がつけば、いつも相麻と別れる曲がり角に着いていた。

 二人は同時に足を止める。とても近いきよで、二人は向かい合う。

 ケイは相麻を見て尋ねた。

「ずっと疑問だったんだけどね。相麻、君の目的はなんだ?」

 リセットを手に入れようとしている、ケイとはちがう。相麻菫が何を望んで行動しているのか、わからなかった。

 彼女は軽く首をかしげた。こちらの顔をのぞき見るように。

「クラス委員長の仕事だって言ったはずだけど?」

「とても信用できない」

「でも本当に、貴方と春埼を仲良くさせたいだけなのよ」

「どうして?」

 そうすることで彼女に何かメリットがあるのか、ケイにはわからなかった。

 相麻は微笑ほほえんで答える。

でんごんが好きなの」

「伝言?」

「そう。いろんな言葉を、人から人に届けるのが、言ってみれば私の目的」

「わけがわからない」

「いつかわかるわよ。貴方あなたなら、きっと」

 相麻はさらに一歩、ケイに近づいた。額がれ合うほど近い距離に、野良猫みたいな女の子のがおがある。風が吹いて、ケイと相麻のほおを、同時にでた。

「ねぇ、ケイ。貴方が求めているものは、リセット? それとも、春埼美空?」

 彼女の、暖かで湿しめった息を感じる。それは、少女の口かられた言葉と混ざり合い、なんだかほのかに甘いかおりを放つ。

「もちろん、リセットだよ」

 と、ケイは答えた。

「どうしてそんなに、リセットが欲しいのかしら?」

「便利だからさ」

 するりとげ出すように身をはなして、相麻は言った。

「とても信用できない」

 またね、と告げて。こちらに背を向け、彼女は歩き出した。


    ※


 同じ時間、春埼美空は、小さな公園にいた。

 学校からの帰り道にある公園だった。だんなら気にも留めずに通り過ぎる場所だが、今日はそこに、知っている女の子がいた。クラカワマリという名前の少女だ。

いつしよに遊ぼう」

 と、マリに声をかけられて、今は並んでブランコをこいでいる。

 四月二七日に出会って以降、マリをひんぱんにこの公園で見かけるようになった。おそらくは、それまでだって彼女はここにいたのだろう。ただはるにんしきしていなかっただけで。

 中学二年生の春埼にとって、公園のブランコは低すぎた。足の位置に注意しなければ、すぐにつま先が地面をこすってしまう。

 行って、もどる、ブランコの動作。移動しているようで、移動していない。ただ見える景色が少しだけ変わり、頰に風を感じる。そんな遊具。

 春埼には、ブランコの何がおもしろいのかわからなかった。別に今に限ったことではない。ずっと昔、マリよりも幼かったころにも、やはりブランコというもののりよくに気づけないでいた。

 となりではマリが、かんだかい笑い声を上げている。春埼よりもずっと不安定にブランコをらしながら。それに合わせて、マリが肩から下げているポシェットも揺れる。──この遊具を楽しむという機能において、私はマリにおとっているのだ、と春埼は考える。そのことに、悲しみも喜びもない。

 春埼は表情もなく、一定のリズムでブランコをこいだ。

 しばらくして、隣から、笑い声が聞こえなくなっていることに気づいた。

 マリに視線を向けると、彼女はブランコを止めて、こちらを見上げていた。

 ブランコにきてしまったのだろうか。春埼はくつぞこを地面に押し付ける。ざざと音を立てて、ブランコが止まる。

 マリはとても弱い力で、春埼の制服のすそつかんだ。彼女はすぐに春埼の服を摑む。そのたびに春埼は、何かを思い出しそうになったけれど、だが結局は何も思い出せなかった。

 軽く首を傾げて、マリは言った。

「楽しくない?」

 正直なところ、楽しくはない。

 春埼がうなずくと、マリは表情を変えた。

 くちびるの形と、まゆの位置を動かし──笑っているのだろうか。それとも泣いているのだろうか。春埼には、笑顔と泣き顔の違いが、よくわからない。マリは今、なみだを流してはいなかった。だが涙を流さなくても、悲しんでいることがあるのだと、春埼は知っていた。

貴女あなたの感情を、教えてください」

 と、春埼は言った。

 そうたずねたことが、少しだけ意外だった。

 ──なぜ私は、クラカワマリの感情を知りたがっているのだろう?

 その理由に、思い当たらない。ルールにない、本来なら必要のない質問だった。

 ──でも、私の中の何かが、そうすべきだと判断したのだ。

 きっと、感情と呼ばれる何かが。春埼の理性を通す前に、その疑問を言葉にした。

 あるいはそれは、マリがとても弱い力で、春埼の制服を摑むからかもしれない。なんだかその力は、春埼の意識に強く作用する。

 マリは首をかしげた。

「かんじょう?」

「それは──」

 春埼には、感情という言葉を、どう説明していいのかわからなかった。

 なぜ、わからないのだろう? 説明できないのは、それを知らないからではないだろうか。

 マリが泣き出せば、彼女が悲しんでいるのだと、確信することができる。そして無意味だと知りながら、リセットとつぶやくことができる。だがマリは涙を流さなかった。

 彼女は言った。

「私はお姉ちゃんと、遊びたいよ」

「なぜ、ですか?」

 マリは笑った。春埼にもそれとわかるように、はっきりと。

「わかんないけど、楽しいもん」

 とても人間的な答えだ、と春埼は思った。

 そうすみれの質問を思い出す。

 ──アンドロイドは、だれ

 少なくともこの少女は、アンドロイドからかけはなれたところにいる。

「ねぇ、中学校では、何をするの?」

 と、マリは言った。

 春埼はその質問に答えた。とても答えやすい質問だった。どんな授業を受けるのか、昼食には何を食べるのか。明確な答えを知っていた。

「友達とは、何をして遊ぶの?」

 と、マリは言った。

 その質問に答えることは難しかった。友達という言葉の定義を、春埼はよく知らない。

 だが、なぜだろう、マリの質問にはきちんと答えたいと思った。

 れながらゆっくりと、春埼は話す。

「友達では、ないと思います。でも最近は、よく話をする相手が、二人います。一人は相麻菫というクラスメイトで、もう一人はあさケイという、別のクラスの生徒です」

「どんな話をするの?」

「今日は、浅井ケイと、しんらいについて話しました」

「しんらい?」

「理論的なこんきよがないじようきようで、相手の判断を受け入れられるか、ということです」

 マリは首を傾げた。よくわからなかったのかもしれない。

 はるは続ける。

「私は彼を信用できないと言い、彼は私に信用させてみせると言いました」

 今度はなぜだか、マリはなつとくしたように頷く。

「その人は、お姉ちゃんのことが好きなんだね」

 好き。それもよくわからない言葉だ。

 だが浅井ケイに限って言えば、ちがうだろうと予想できる。彼が求めているものは、リセットという能力だ。

 ふいに思いついて、春埼は告げる。

「好きという言葉も、感情の一つです」

 マリはもう一度、頷く。

「そっか。私も、お姉ちゃんが好きだよ」

 それから、がお──だと、春埼は判断した──をかべたまま、続ける。

「あとは、お母さんも好き。でもお母さんは、私のこと、好きじゃないんだ。私が、ニセモノだから、きらいなんだ」

にせものとは、どういう意味ですか?」

 そうたずねてみても、マリは答えない。

 しばらく考えて、春埼は尋ねる。

貴女あなたは、母親に好かれたいのですか?」

「うん。とっても」

 何か自分に、できることはあるだろうか? そう考えて、春埼はかばんの中から、ふうとうを取り出す。小さく青い封筒。

 以前、相麻菫にもらったものだ。お守りのようなものだ、と彼女は言っていた。

「貴女に、これをあげます」

「……なに?」

「開いて、願い事を言葉にすれば、それがかなうらしいです」

「本当に?」

「わかりません。私には、信じられません」

 小さな声を立てて、マリは笑う。

「へんなの」

 何がへんなのか、春埼にはよくわからなかった。

「でも、ありがとう」

 マリはそう言って、青い封筒を深緑色のポシェットにしまった。


 それから、三〇分ほどった時、公園に一人の男が現れた。

 よれたスーツを着て、しようひげを生やした男。彼はまっすぐマリの前に歩み寄り、言った。

むかえに来たよ。さぁ、帰ろう」

 マリは首をかしげる。

「お母さんは?」

「今日は少し、おくれるんだ。暗くなると危ないから、病院で待っていよう」

「……うん」

 マリはうなずいたけれど、だが歩き出そうとはしなかった。また、春埼の制服をつかむ。

「この人はだれですか?」

 と、春埼は尋ねた。

「つしまさん、だよ」

 ツシマ。マリのみようはクラカワだったはずだから、きっと父親ではない。もしかしたら両親がこんしているのかもしれないけれど。

 その男──ツシマは春埼に視線を向ける。

「貴女は、春埼さん?」

「はい」

「マリからよく聞いてるよ。いつもこの子の相手をしてくれて、ありがとう」

 そう言って、彼はたぶん、笑った。

貴方あなたは誰ですか?」

 と、春埼は尋ねる。

「この子の、保護者代理みたいなもんだ」

「マリの母親は、なぜ来ないのですか?」

「来るさ、そのうちに。ただ少し、遅れるだけだ。──さぁ、マリ。行こう」

 マリはこくりと頷いて、春埼の制服から、手をはなした。


    ※


 午後八時三〇分。あさケイはなか家の離れにいた。

 シャワーを浴びたばかりなのだろう、れたかみでケイの部屋にやってきた中野ともが、ごろんとゆかころがっている。彼が持ち込んだ古いラジオが、ノイズ混じりの洋楽を流している。見慣れた光景だった。

 ケイは木製のデスクの前に座り、人差し指で作り物の小さなねこをつついていた。ほんの数センチの猫だ。基本的には黒猫で、口の周りと、両手両足の先だけが白い。元々はキーホルダーだったけれど、金具の部分がこわれてしまった。今は置物としても不安定な、ただの猫型の人工物だ。

 その猫は何かやわらかな素材でできていて、指先で押すとへこみ、離すと時間をかけて元にもどる。

「それ」

 と、智樹は言った。

「ずっと持ってるよな。なんかあるのか?」

 彼の言葉に、ケイは首をる。

「別に。なんとなく気に入ってるんだよ」

 このキーホルダーが壊れたのは、二回目だ。一度直って、また壊れた。

「そのうち、何か適当なひもでもつけて、ストラップにでもしようかと思ってるんだけどね」

「ストラップ? けいたい買うのか?」

「おばさんが許可をくれたらね」

 中野家では、中学生が携帯電話を持つことは許可されていない。今時、携帯電話を禁止するのはちょっとじんな気もするけれど、この家に置いて貰っている身としては文句も言えなかった。

「いいなぁ、携帯」

 そう智樹がつぶやいて、ケイは笑う。

「君が携帯を持つと、能力の意味がなくなるよ?」

 中野智樹は、離れた場所にいる人物に、声を届ける能力を持っている。

「オレのは一方通行だからな。相手の声も聞こえる分、携帯の方が便利だろ」

「ま、そうだね」

 ケイはそっと猫型の元キーホルダーをデスクの上に戻し、代わりにほんだなから文庫本を一冊、き出した。

 もうひとつき以上も前に買ってきた、ほんやく物のミステリ小説だ。ケイはここ最近、アンドロイドが登場するSF作品を中心に読んでいたため、すっかり後回しになっていた。

「そういや最近、うわさになってるぜ」

 智樹の声に反応して、ケイは視線を本から上げた。

「噂って、何が?」

「お前と、そうと、はるについて」

「へぇ。それは意外だね」

 ひんぱんに屋上で会っているのだから、誰にも気づかれないはずはないけれど。

 別に、噂話として楽しいことでもないように思う。放課後、屋上に集まるのがしゆだという中学生が、三人いるだけだ。

「ま、三角関係とか好きだからな、基本的に」

 智樹の言葉に、ケイは笑う。

 三角関係。

「そんなにファンタジックで興味深い関係じゃないよ、僕たちは」

はたからはそう見えるって話だよ。しかも一人は春埼そらだ」

「ああ。確かに彼女のれんあいは、興味深いね」

 まったく想像できない。同じクラスに春埼がいて、こいの噂なんてものがあったら、つい聞き耳を立ててしまう気持ちもわかる。

 ケイは再び手元の本に視線を落とした。物語のぼうとう、主人公のたんていらい人に会うために、車を走らせていた。

 ラジオの音楽は愛をさけんでれ、次の曲が流れ始める。

「で、本当のところは、何やってんだ?」

「どうでもいいことを、だらだらと話してるんだよ。マクドナルドにいる同級生たちと同じように」

 智樹はさもおもしろそうに笑い声を上げた。

「お前なら、そうたいせい理論の講義をしてるって方がまだ説得力がある」

「たまにそんな話もする。それもふくめて、どうでもいいことだね」

「ちなみに、なんなんだ? 相対性理論って」

「光と空間と時間はとても強いしんらい関係で結ばれていて、その信頼関係を守るために時間や空間がきようするのがとくしゆ相対性理論。さらに重力のせいで、時間と空間がもっと妥協しなければならなくなるのがいつぱん相対性理論」

「わけがわからんな」

「そうだね。実は僕も、いまいちよくわかってない」

「で、いつもそんな話をしてるのか?」

「色々だよ。今日は神さまにのろわれた、不幸な人の話を聞いた」

 正確には、屋上でわした会話じゃないけれど。いつだって、あんな感じだ。

「へぇ。その話、楽しいのか?」

「不幸な人の話だよ? 楽しいわけがない」

「なるほど。じゃ、いいや」

 小説ではようやく、依頼人の美しい女性が現れた。こういう、古典的な導入はきらいではない。依頼人が犯人じゃなければいいなと、ケイは思う。

 それから二度、ラジオから流れる曲が変わるまで、ケイとともは何も話さなかった。

 アコースティック・ギターで雨の日について歌う曲が流れ始めた時、智樹は言った。

「お前がなんの理由もなく、一月以上も同じことを続けるってのは、ちょっと信じられない」

「ずいぶんこだわるね。何か気になることがあるのかな?」

「お前が変わったことを始めると、だいたい何かが起きる」

「何かって?」

「この間はどっかのだれかが、警察につかまった」

「そんなこと、毎日どこかでは起こってるでしょ。僕のせいじゃない」

の自転車をり飛ばしたやつだよ。そして警察に通報したのは、お前だった」

 未緒というのは、なか智樹の妹だ。現在、小学四年生。春休みに新しい自転車を買ってもらって、その自転車がどこかの誰かに蹴りたおされ、カゴとどろけがへこんでいた。

ぐうぜんだよ」

 と、ケイは答える。

「自転車の修理費、お前がそいつから回収したって言ってたよな?」

「ちゃんと話したらわかってくれたんだ。意外と善人だったのかもね」

 ちょっと、特殊な話し方をしただけで。その副次的な効果として相手が警察に怒られただけで、きちんと自転車の修理代をはらってくれたのはうそじゃない。

 ころがっていた智樹は、腹筋の要領で起き上がる。

「お前はいい奴だよ。でも、平気でちやなことをする」

 思わず、ため息がれる。

「今回は──」

 意図して、今回は、とケイは言った。

「別に、危ないことをしてるわけじゃない。ただ女の子二人と、仲良く話をしているだけだよ」

 はっ、と、智樹は笑う。どこかとがっていた空気をゆるめるように。

「十分危ねぇよ。もてない奴らになぐられるぞ」

「それは大変だね。君が守ってよ」

「おいおい、オレももてない側だぜ?」

「いじめられてる僕をかつこうよく助けたら、君を好きになる女の子もいるかもしれない」

「おお、なるほど。お前が二、三発殴られてから考えよう」

 彼はなつとくしたようにうなずいてから、言った。

「で、どうしてそうたちと会っているんだ?」

 中野智樹は、意外にしつこい。

 二度目のため息をついて、ケイは手元の本を閉じる。

「誰にもいわないと、約束してくれるかな?」

 あっさりと、智樹は頷く。

「ああ。もちろん」

 彼は噓をつかない。

はるそらと仲良くなりたいんだ」

 と、ケイは言った。

 デスクの上のねこが目に入る。昔、キーホルダーだったもの。キーホルダーには当然、一つのかぎがついていた。

 リセット。それは、ケイにとって、特別な意味を持つ。


    ※


 リセットを初めて体験したのは、小学六年生の、夏休みだった。

 その夏、あさケイは、初めてさくおとずれた。それ以降一度も、咲良田の外に出たことはない。

 咲良田は一見、なんのへんてつもない地方都市だった。しかし咲良田に来て間もなく、ケイは能力の存在を知った。

 電車を降り、乗りし分の料金を払ったケイは──元々、どこに行くかなんて決めていなかったのだ。きつは適当に買っていた──さいをポケットにもどした時、指先にれたかんしよくで、キーホルダーがこわれていることに気づいた。小さな猫型のキーホルダーだった。

 キーホルダーには、ケイの自宅の鍵がついていた。だが金具の部分が欠けて、もう意味を成さなくなっていた。

 壊れてしまったキーホルダーは、小さな生き物のなきがらを連想させた。すべての機能を失い、風化するのをただ待っている。取り留めのないさびしさがあった。

 ケイはそのキーホルダーを手のひらにせて、駅を出た。母親にもらってなんとなく使っていたものだが、なければないで困りもしない。捨ててしまおうかと思った時に、背後から声をかけられた。

「壊れてしまったのかい?」

 り返るとそこに、一人の男性が立っていた。二十代の後半から、三十代の前半といったところだろう。清潔な身なりだが、会社員という風でもない。職業のよくわからない男性だった。

「私が直してあげよう。ちょうどいい能力を持っているんだ」

 能力、という言葉を聞いても、ケイはそれほどかんを覚えなかった。いつぱん的な技術をそう表現しているだけなのだろうと思った。

 別に直す必要はない、と答えようと思ったけれど、それよりも先に、彼はキーホルダーを取り上げた。欠けた金具と共に。

 もし彼が一度でも手をにぎり、ケイの視界からキーホルダーをかくしていれば、つまらない手品だと判断しただろう。

 だが彼は、手のひらを開いたままだった。彼が軽く、キーホルダーに視線をやると、それだけで欠けていた金具は元に戻った。まるで映像を編集したように。なんの演出もなく単純に、壊れていたキーホルダーが直っていた。

 彼はキーホルダーをケイの手に戻す。

「それじゃあ。おそくならないうちに、家に帰るんだよ」

 にっこりと笑って、彼はケイに背を向けた。

 わけがわからなかった。──もちろん、たったそれだけのことで、咲良田の住民たちが不思議な能力を持っているだなんて理解できるはずがない。

 ケイは街中を歩き回り、ゆっくりと能力の存在を知っていった。

 どれだけ理論的に考えても、この街には当然のように不思議な能力があふれているのだと納得するしかないと判断したたん、ケイは咲良田に、夢中になった。

 絶対に壊れるはずがないと思っていた世界のルールが、簡単に壊れる感触。それは小学六年生のケイを夢中にさせた。この街を理解したいという願望をおさえ切れなかった。

 それから数日間、ケイは咲良田で生活した。

 家に帰らなかったのは、交通費の問題だ。一度この街をはなれてしまえば、次に来られるのがいつになるかわからない。とにかく今は、この街に関するたくさんの情報が欲しかった。

 大人たちに見つかれば、両親が住んでいる街に連れ帰されることはちがいないだろう。

 すいみんは日中に、小分けして取ることに決めた。例えば遊びつかれた子供が、公園のベンチでついってしまった風に。夜間は人目につかないように身をひそめ、決してねむらなかった。

 自宅にはむしろひんぱんに電話をけ、適当なうそを話した。警察が動き出せば、ケイの居場所なんてすぐにわかってしまうだろう。それを少しでもおくらせるために、両親を心配させるべきではないと判断した。

 情報の収集元として目をつけたのは、子供たちだ。

 子供は自分の知識を語りたがっているものだし、的外れな質問をしても疑問視されることはあまりない。睡眠の合間に、ケイは自分よりも年下の子供を見つけては、咲良田の能力に関する質問をり返した。一つ一つの情報が正確でなくとも、数を集めれば全体は見える。

 ケイには、特に気に掛かっていることが、一つあった。

 これほど不思議な街の存在が、なぜ世間一般に知られていないのか。常識的に考えて、隠し通せるようなことでもないし、そもそも咲良田の住民には、能力を隠そうという意識がない。

 その理由として手に入れた情報も、興味深いものだった。

 咲良田の外に足をみ出した人間は、能力に関する情報を、すべて忘れてしまう。なんの問題も発生しないくらいに、かんぺきに。忘れてしまった知識によって、じゆんが生じるおくは、別の形に置きわる。

 ケイは図書館のインターネットを使い咲良田付近の地図をプリントアウトして、聞き出した情報を元に、どのはんえれば能力に関する記憶を失うのか線を引いてみた。

 その線は、咲良田をすっぽりと囲い込むような円形をしていた。真円ではない、いびつな形をしたえんだ。咲良田の周囲の、ひとのない地域を通るように。なんだか人の意思を感じる形状だった。

 ラインをわずかでも超えると、能力に関する知識を失うのだという。──ケイはできるなら実際に、それをためしてみたいと思った。

 だが、咲良田の外に出ることには、躊躇ためらいがある。

 能力に関する知識を失った自分は、もうこの街にはもどってこないかもしれない。家に帰れない理由が、また増えた。


 さくおとずれて四日目。

 ケイは公園のベンチに座っていた。ペンキがげ掛かった、赤いベンチだった。

 ねこ型のキーホルダーを手のひらに載せて、ぼんやりとながめる。キーホルダーの先には、自宅のかぎがついている。

 ──四日。そろそろ、限界だろう。

 小学六年生が勝手に家を出て、そのままふらふらと過ごしていい期間は、もうとっくに過ぎている。

 さすがに次の行動を決断しなければならない。ケイが両親が住んでいる街に戻るのか、それとも本格的に、この街で生活することを考えるのか。

 ──僕は、できるなら、この街を離れたくない。

 心の底から、そう思う。

 一度、咲良田を離れたとして、確実にこの街に戻ってこられる方法があるだろうか。思いつかなかった。インターネットから地図をプリントアウトした時、同時に咲良田に関する情報をけんさくしていた。だがどれだけ探しても、能力に関する記述はない。

 きっと能力に関する情報は、それほどてつていして消え去ってしまうのだ。とく性という意味において、咲良田にはきわめて強い力が働いている。

 理由はわからない。咲良田の住民たちのにんしきでは、それが能力に関する絶対的なルールなのだということになっていた。だれが定めたわけでもない、自然な法則としてのルール。

 ではこのまま、咲良田に残り続けるとして。

 ──つまり、小学六年生までの、僕のすべてを捨て去るとして。

 あさケイは考える。今、自分が、切り捨てようとしているものを。それは両親であり、友人であり、あらゆる人間関係だ。

 そんなことが、許されるだろうか。

 ケイは両親について思い出す。

 彼らとの間には、明確なへだたりを感じていた。とうめい度が低く、防音性の高いガラスで仕切られているように。たがいの姿はぼんやりとしか見えず、互いの声はとても聞き取りにくい。

 その隔たりの原因が、ケイにあることは明らかだ。ケイは昔から、人に心を開くことが苦手な子供だった。だが大人と会話することが苦手なわけではない。

 例えば学校で、大人たちがどういう言動を求めているのか、簡単に理解することができた。それをうわだけなぞっていれば、たいていの場合は問題ないのだと思っていた。聞き分けの良い子供だと、めてもらえるのだから。

 ケイは同じ方法で、両親にも接した。

 だがずっといつしよに暮らしている相手を、ごまかしきることなんてできない。

 ケイの言葉に、行動に、発信するあらゆる情報に、本当の感情なんてなかった。数式で問題を解くように、ただ正解を答えていただけだ。

 きっと両親は、気持ちの悪い子供だと思っているだろう。なのに自分たちの子供を愛したいと、努力し続けている。とても、とても、善良だと思う。

 ──でもね、愛したいと努力するのは、愛していないからなんだよ。

 彼らが無理をしてかたい微笑をかべるたびに、なんだかとてもくうきよな気持ちになる。そしてケイは、彼らよりもずっと上手に、がおを作ってみせる。でも彼らだって、それがにせものだと知っている。

 悪いのはこちらの方だ。だがこの問題を、どう解決すればいいというのだろう。ケイが彼らの気に沿うように行動するほど、隔たりは大きくなる。

 ──僕はきっと、彼らを愛している。

 それは、真実なのだと思う。

 だがその愛は、深いものでも、強固なものでもない。どこにだって簡単に転がっているような愛だ。いずれはぐしゃぐしゃと丸めて、ごみ箱に捨てられてしまうような。

 もしもこのまま、ケイが家に帰らなければ。彼らは一体、どうするだろう?

 もちろん、悲しむだろう。その大半は本心で、あとのいくらかは義務感で。だが時間がった時、よりく残るのは、おそらく義務感だ。本心は少しずつ、あんに変化していく。

 ──当たり前だ。僕はいるだけで、彼らの負担になっているのだから。

 いるだけで、彼らを傷つけているのだから。

 そう考えて、ケイは笑う。

 この思考は、まんに満ちている。彼らを捨て去ろうとしている自分をこうていするための思考に、引き寄せられている。

 もし本当に彼らを捨て去るのであれば、その行動のざんこくさを、きちんと理解しなければならない。

 ケイはもう一度、両親について思い出す。より厳密に、どこまでも正確に。自身がしようとしている罪を、はっきりと自覚するために。

 そして、気づいた。

 おくが、あまりに、せんめいだ。

 それはきよう的なレベルで。人の能力では不可能だと確信できるところまで、過去の何もかもを、極めて正確に思い出せた。

 例えば、もう何年も前のある日。母親が着ていた服装を、しようさいに思い出せる。服の模様、えりの形、わずかなしわまで。その時点でも、意識していなかった何もかもを。

 そんな記憶がこれまでのおよそ一二年分、すべて。意識なんて残っているはずもないくらい幼いころからの、すべての記憶を、思い出す。

 ほおを伝ったしずくが地面に落ちるまで、ケイは自身が泣いていることに気づかなかった。

 生まれたしゆんかんから、今までの記憶を得て、なみだが流れたことに気づかなかった。

 とても自然に、考える。

 ──ああ、僕は、父さんと母さんを、愛していた。

 もう忘れてしまっていたんだ。ずっと昔、ケイは確かに、彼らを愛していた。

 強く、強く、この世界の何よりも特別な感情として、確かに。そのすべてを思い出した。

 ──でも泣いたのは、それを思い出したからじゃない。

 彼らの元に帰ることを決めたなら、笑えばよかった。心の底からなつとくして、この咲良田を立ち去ればよかった。

 手のひらのキーホルダーをにぎめる。指先が白くなるくらいに、強く。

 何もかもを思い出しても。

 幸福だった記憶や、彼らからのじゆんすいな愛を思い出しても、なお。

 ──僕は、彼らを、捨て去れるんだ。

 ただ涙を流すだけで。その程度のことで、全部捨てることができるんだ。

 さくに来て、四日目のことだった。

 あさケイは、自身に能力が生まれたことを知った。

 おそらくその能力は、自身がどれだけざんこくな人間なのかということを、自覚するためだけに生まれた能力だった。

 だが涙は、すぐに止まった。


 それから二四時間、ケイは今までと同じように、咲良田で生活した。

 自身の能力について検証し、咲良田に関する情報を集めた。そしてこの街で、生活する手段について考えた。かんを覚えるくらいに平然と。

 小学六年生がたった一人で生きていくことは、とても難しい。必要なものは食べ物と住居だった。数日程度ならどうにでもなるが、長期的な生活を考えるなら、それらをかくとくするのは難しい。

 第一の条件として、安定した生活は、社会的に真っ当な方法で手に入れる必要がある。少なくともはたから見る限りにおいては。

 協力者を探さなければならない。きちんとした力を持った、大人の協力者。一体、どうすればそれを得られるのか、考え続けていた。

 その間も、猫型のキーホルダーは手の中にあった。自宅のかぎをつけたまま。何度か捨てようとしたけれど、それはできなかった。

 まだ迷っているということなのだろう、とケイは考える。まるで他人ひとごとのように。どうでもいいことだ。放っておいても、いずれ答えは出るだろう。もしかしたら、両親の元に帰ろうという気になるのかもしれない。

 咲良田をおとずれて五日目の昼下がり、どうわきを歩いていたケイの前方に、黒い車がまった。高級車ではない。だがよくみがかれた車だった。

 その車から黒いスーツを着た男性が二人と、のうこん色のスーツを着た女性が一人現れる。男性は二人とも、三十代の半ばに見える。女性はそれよりもずっと若い。まだ成人して数年というところか。

 げ出すひまもなかった。彼らはケイを、取り囲む。

 濃紺色のスーツを着た女性は言った。

「浅井ケイくん、ですね」

 断定的な口調だった。

貴女あなたたちは?」

 と、ケイはたずねる。内心では、警察である可能性が最も高いと考えていた。あまりそうは見えないけれど。

「管理局の者です」

 と、彼女は答えた。

 管理局。咲良田の能力を管理する、公的な機関。能力に関する問題以外では、いつさい活動しないとされている。なぜそんなところの人間が、小学六年生を取り囲む必要があるのだろう。能力に関する問題を起こした記憶はない。

 ケイは意図して、何も言わなかった。まっすぐに、彼女の目を見ていた。本当に彼女たちが管理局員なのか、そんなことを疑いながら。

 彼女は表情をかべずに言う。

「話があります。車に乗っていただけますか」

 にっこりと笑って、ケイは答える。

「話の内容によります。まずそれを聞かせてください」

貴方あなたの人生に関する話です」

「……へぇ」

 不意に、理解した。管理局、能力、咲良田という街の構造、浅井ケイの立場。──そのすべてをつなぐ可能性を。

 なぜ今まで思い当たらなかったのか、不思議なくらいだ。まずそれをこうりよするべきだった。

 ケイは尋ねる。

「どうして、わかったんですか?」

「質問の意味がわかりません」

「僕の能力について、どうしてわかったのか、教えていただけますか?」

 目の前の女性が、ほんのわずかに視線を動かす。表情を押し殺したまま。

「その質問には、お答えできません」

「そうですか。じゃあ、貴女の名前を教えていただけますか?」

「……それについても、とくが義務付けられています」

「へぇ。どうして?」

「管理局内で情報をあつかう者の、伝統のようなものです」

 個人を特定させないためのセキュリティーの一種だろうか。どの程度の効果があるのか、よくわからないけれど。あるいは本当に、ただの伝統なのかもしれない。

「それ、不便じゃないですか? だんはなんと呼ばれているんです?」

 この会話に意味はない。意識を切りえただけだ。情報を秘匿しようとする立場から、情報を引き出そうとする立場へ。

 しばらく躊躇ためらってから、彼女は言った。

さくいん、です」

 みを浮かべたまま、ケイはうなずく。

「わかりました、索引さん。車に乗りましょう」

 ケイはそつせんして、黒い車に向かって歩く。彼女たちから表情が見えなくなってから、くちびるをかみめた。

 ──どうして、鍵を捨てておかなかったんだろう?

 いまだ、さくとどまるか、帰るのか、迷っていたのに。

 こんな形で答えが出るなんて、最低だ。


 黒いスーツを着た男のうち、一人が運転席に、もう一人が助手席に乗り込む。ケイと索引さんは、後部座席に座った。

 車が走り出したすぐ後に、索引さんは話し始めた。

「管理局は貴方に関する、一つの決定を下しました」

「それは?」

「咲良田の外に出ることの禁止、です」

「どうして?」

「その質問にはお答えできません」

「貴女の話は、公務員の権限をいつだつしているように思えます」

「では法律にうつたえますか? 貴方は確実に、敗北します。しようも起こせないまま」

 なぜ自信を持ってそう断言できるのかわからなかったが。そんなことで、口論しても仕方がない。

 ケイは背もたれに体重を預ける。

「ま、だいたいわかりますよ。咲良田を管理する上で、僕の能力がじやだということは。能力に関するルールの根本にかかわるんだから、当然です」

 何かをさぐるように、索引さんは、こちらの顔を見ていた。

 自信を持って、ケイは断言する。もしちがっていたらずかしいなと思いながら。

「咲良田の外に出ても、僕は能力に関するおくを失いません」

 一歩でもはんがいみ出せば、その存在を完全に忘れてしまう、能力のルール。

 対して、何もかもを確実に思い出す、ケイの能力。

 その二つは、完全にじゆんする。

「なぜ、そう思うのですか?」

ほかの可能性を思いつきません」

 ケイの能力と、咲良田に留まらなければならないという条件を合わせて考えた時、他の可能性なんてないように思う。

 あきれた様子で、索引さんは笑う。

「まぁ、いいでしょう。その通りです。管理局は能力に関する情報が、咲良田の外にれることを許容できません」

 頷いて、ケイは続ける。

「もう一つ、予想できることがあります」

「それは?」

「この街の外に出ると、能力に関する知識を失うという現象。それは、どこかのだれか──おそらくは管理局に所属する誰かが、能力を使って作っているんですね?」

 なかば、確信を持っていた。

 咲良田の外に出ると、能力に関する知識を忘れる。それが能力そのものに備わるルールなら、ケイがどんな能力を持っていたところで、やはり忘れてしまうように思う。

 だが、その現象自体が、何者かの能力によって作り出されているのだとしたら。

 矛盾する能力がたがいに効果をおよぼしあった場合、より強度の高い能力が、効果を発揮する。忘れる能力の強度を、思い出す能力の強度が上回れば、ケイは咲良田の外でも能力に関する知識を思い出すことができる。

 索引さんは、そっけなく首をる。

「その質問には、お答えできません」

「そうですか。残念です」

 ケイはかたをすくめてみせる。どうでもいいことだった。

 索引さんは小さくせきばらいをして、座席のわきにあった金属製のケースから、数枚の書類を取り出した。

「ともかく管理局は、貴方あなたけいやくを結びたがっています。貴方の意思にかかわらず。同意して頂けると、物事はとてもスムーズに進みます」

 ケイは書類を索引さんから受け取って、ざっと目を通す。

 そこには契約に関する、いくつかのこうもくが並んでいた。

 管理局はさくでの、ケイの生活を保障する。対して、ケイは咲良田内に留まり、この契約に関することを誰にも話さない。

 それに加えて──

「管理局は、貴方の過去を買い取ります。それなりに高額で」

 ケイは書類を読み進める。確かに、そういった内容が書かれていた。とりあえずゆうを持って大学を出られるくらいの金額は受け取れるようだ。

「過去を買い取るって、一体どうするんです?」

「咲良田の外の世界において、貴方がいたけいせきを消します」

 なんともぶつそうな話だ。

「それは例えば、僕が死んでしまったようにそうする、という風なことですか? よく小説に出てくるような」

「いえ。もっと厳密に、貴方がいたという事実そのものがなくなります」

「一体、どうやって?」

「その質問にはお答えできません。ですが、危険な手段ではない。信用して頂いてかまいません」

 信じろと言われて、信じられる話でもなかったが。疑ってみたところで、できることも思いつかない。

 少し迷ってから、ケイはたずねた。

「僕の両親は、僕のことを全部、忘れてしまうんですね?」

 さくいんさんは、少しだけ悲しげに目をせる。たぶん良い人なんだろうなと思う。

「ええ。つらいでしょうが──」

「いえ。理想的です」

 わずかなかんもなく、れいに忘れてくれればいいと思う。たぶんその方が、互いにとって幸せだ。

 意図してケイは微笑ほほえんだ。

「基本的には、この契約に同意します。ですからもう少し、きちんと契約の内容を読ませてもらえますか?」

「……わかりました」

「ありがとうございます。できたら車をめてもらえませんか」

 走っている車の中で文章を読むと、気分が悪くなってしまうのだ。

 どうわきに車が停まってから、ケイは再び、手元の書類に視線を落とす。

 文面に興味があったわけではなかった。必要だったのは、気持ちに整理をつけるための時間だ。管理局の意向により、咲良田にとどまらざるを得なくなった、という出来事への。

 理性的には、なんの文句もない。幸運だとすら思う。だが感情的に考えた時、許せるものではなかった。

 ──どうして、かぎを捨てておかなかったんだろう?

 過去を、すべて捨て去る。

 本来これは、管理局なんかがかいにゆうすべき問題ではないのだ。大きな組織の指示だから仕方がないなんて言い訳を、ケイは望んでいない。

 本当は、あらゆる意味で言いのがれできない形で、ケイ自身の意思でのみ、判断すべきことなのだと思う。

 目を閉じて、ため息をつく。何かをあきらめるために。感情を、もうさせるために。

 その時だった。

 あさケイはリセットの効果を、初めて体験した。


 目を開いた時、ケイは公園にいた。

 ペンキがかった赤いベンチに座り、一人きり泣いていた。

 咲良田をおとずれて、四日目。

 ケイは両親への愛を思い出し、それでも彼らを捨て去ろうとして。自宅の鍵のついたキーホルダーをにぎめ、声を出さずになみだを流していた。

 もう一度、おく辿たどろうとして、気づく。

 ──僕は、明日の記憶を持っている。

 これから起こる事を、ケイは厳密に思い出せた。明日、索引さんに出会い、黒い車に乗せられて、過去を捨て去る契約をわそうとする。

 ──未来を、思い出した?

 わけがわからなかった。

 思い当たった可能性は、三つだ。ケイ自身の能力として、未来の記憶を得ることができるのか。どこかのだれかが、時間の流れ方を変えるような能力を使ったのか。あるいは何もかもケイの空想で、この記憶はにせものなのか。

 いや、そんなことよりも。重要なのは、咲良田の外に出ても、能力に関する記憶を失わずにいられる可能性が生まれたことだ。

 咲良田に留まる理由が、一つ減った。

 ──忘れなければ、僕はまたこの街にもどってくることができる。

 常識的に判断するなら、一度自宅に帰るべきだ。索引さんが現れる前に。ケイは本来の居場所に戻り、高校生か、大学生か、ともかく一人で生活できるようになってから、またこのさくにやってくればいい。それが理性的な判断だ。

 気がつけば涙はかわいていた。ベンチで一人、ケイは笑う。

 ──でもね、僕はどうしても、もう一方のせんたくの方が、りよく的に見えるんだよ。

 今すぐに過去のすべてを捨て去って、この不思議な街で生きていくことが、魅力的に見える。

 ケイは少しでも長く、この街にいたかった。

 例えば、高校入学時にこの街に戻ってくるとして四年後。四年もの時間を、にしたくはなかった。

 そして出来るなら、両親に存在を忘れ去られて、生きていきたかった。もう無理やりに子供を愛そうと努力する、父や母を見ていたくはなかった。彼らのためではない。ケイ自身の願望として。

 ほんの四日前、咲良田に向かう電車に乗っていた時のことだ。電話しに、じよしようする女性に言われた言葉を思い出す。


 ──貴方あなたは、貴方の居場所を探している。

 ──でもそこに踏み込めば、貴方は決して元に戻れなくなる。

 ──咲良田は、貴方をらえて放さない。


 まったく、その通りだ。魔女の予言は、現実になる。

 ケイは猫型のキーホルダーから、自宅の鍵を外した。とてもスムーズな手つきで。

 ベンチから立ち上がり、公園を出て、ゆったりとしたペースで歩く。

 前方に、ごみ箱がいくつか並んでいた。

 ケイは躊躇ためらいもなく、自宅の鍵を、不燃物と書かれたごみ箱に投げ捨てた。

 誰に強制されたわけでもない、自分自身の判断として、過去を捨て去ることに決めた。その罪悪感を、僅かな欠けもない完全な形で、浅井ケイは手に入れた。

 はたから見れば、その差異は見分けがつかないほどさいなものなのだと思う。

 だがケイにとって、それこそが何よりも重要だった。

 過去を捨て去ったケイは、手の中のキーホルダーを見る。母親からもらった、猫型のキーホルダー。次はこの先に、決して捨てられないものをつなごうと、ケイは思った。


    ※


 ラジオからは、カリフォルニアの海岸に関する曲が、ノイズ混じりに流れていた。鹿みたいに明るい曲だった。

 中学二年生の浅井ケイは、デスクの上にある、猫型の元キーホルダーから視線をはなす。能力によって一度は修復されたけれど、またこわれてしまったキーホルダー。

「どうして、春埼と仲良くなりたいんだ?」

 と、なかともは言った。

「彼女はね、とてもおもしろい能力を持っているんだ」

 と、ケイは答えた。

 あの時のリセットに、本質的な意味はなかったのだと、今ならわかる。リセットのすぐ後で、ケイが咲良田を離れようとしても、やはり管理局に捕らえられていただろう。その程度のこともできない機関が、咲良田にある無数の能力を、管理できるとは思えない。

 それでも春埼美空の能力に、ケイの心が救われたことはちがいなかった。

 もしあの時、管理局に強制されて咲良田にとどまることになっていたなら、きっとそのことを言い訳に使ってしまう。

 ──僕が悪いわけじゃないんだ。どうしようもなかったんだ。と、言い訳できてしまう。

 だがリセットが、ケイからその言い訳をうばった。

 あの能力が、ケイ自身の意思で咲良田に留まることを、決めるだけの時間をくれた。

 自身の行動に対して、罪の意識まで失うようなことがあってはならないのだとケイは思う。

 リセット。

 その能力は小学六年生のケイを、とても無自覚的に救った。

 ケイが求めていただけの罪悪感を、ケイにあたえてくれた。

 春埼美空の能力は、あさケイにとって特別な意味を持つ。