1 あさケイ──一度目


 四月二七日、火曜日。

 午後四時三〇分に、浅井ケイは学校指定の白いかばんを持って席を立った。とても軽い鞄だった。教科書や辞書のたぐいは、すべて机の中か、ロッカーに入っている。鞄の中身は筆箱と、数冊のノートだけだ。

 中学二年生になって、もう二〇日ほどつ。わかりきっていたことだが、中学二年生の日常は、中学一年生の日常とそう大きく変わりはしなかった。教室、教科書、担任教師、クラスメイト。すべて新しいものに入れわったけれど、以前のものとの本質的なちがいはない。古くなったボルトを外し、新しいボルトでまためる。その程度の差異だった。

 ケイはたまに会話をわすだけの、友人とも呼べないクラスメイト数人に手を振って教室を出る。そのままろうを進み、階段を下りて、げんかん口に向かった。

 歩きながら、考える。

 中学二年生になって、何か大きな変化があるとするなら、それは目の前に一人の少女が現れたことだ。そうすみれという名前の女の子。彼女はケイと同じ、ななさか中学校の二年生で、ケイとは違うクラスに所属していた。

 階段のおどり場で、あるいは廊下の曲がり角で、この先に彼女がいるかもしれないと思うことがある。別にちようじようてきかんが働くわけではない。その予感は当たることよりも外れることの方が、ずっと多かった。

 内心でケイはつぶやく。まるで他人事のように。

 ──要するに、それだけ意識しているということなんだろうね。

 相麻菫に対して、ケイがいだいている感情をたんてきに表現するなら、それはけいかい心だ。

 彼女に初めて出会った四月八日から今日まで、休日を除いた一二日間のうちに、ケイは相麻と一七回もそうぐうしている。二日に三回の割合だ。ぐうぜんとは思えないひんだが、彼女の意図がわからない。意図がわからない相手は、とりあえず警戒しておくことに決めている。

 玄関口に続く、最後の角を曲がる。角の向こうに相麻がいるような気がしたけれど、やはりその予感は外れた。面識のない男子生徒が二人、くつえていただけだ。

 ケイも彼らにならい、靴箱の扉を開ける。もう半年ほど履いているスニーカーの上に、白い長方形のふうとうっていた。

 横長、ハート型の赤いシールで封をしている。けいたい電話のメール機能で、ラブレターと入力すれば、絵文字として表示されるような。あまりに記号的でもうだれも使わないような封筒が、ケイのスニーカーの上に載っている。

 手に取り、裏面をかくにんするが送り主の名前はない。うわきからスニーカーに履き替えたケイは、歩きながら封筒を開く。ハートのシールが、軽快な音を立てて二つに破れた。もしこれが本当にラブレターなら、構造的にけつかんがあるなと思う。

 グラウンドに出て、封筒から便びんせんを取り出した時、強い風が吹いた。

 もうすぐ五月になる時期。空気は暖かいけれど、風はまだはだざむい。手の中でぱたぱたと、便箋がはためく。

 そこに書かれている文章は簡潔だった。全部で二行。一行目に明日の放課後、屋上に来て欲しいと書かれていて、二行目に送り主の名前がある。

 れいな字だな、とケイは思った。感想として、あまりに的外れだということには気づいていたけれど。あるいはこの出来事に、少し混乱していたのかもしれない。

 手紙の二行目には、相麻菫と書かれていた。

 どうしてわざわざ、こんな方法で呼び出す必要があるのだろう。用があるのなら、いつものように勝手にやってきて、一方的にしやべり出せばいいじゃないか。

 ──相麻菫の意図がわからない。

 これから二年間、高校一年生になってもまだ抱き続けることになる疑問を、ケイはこの日も内心で呟いた。


 浅井ケイがさくで暮らし始めたのは、小学六年生の夏だ。

 それから中学校を卒業し、高校に入学して一人暮らしを始めるまでの三年と半年ほどの期間、ケイはなかという家に置いてもらっていた。

 一人で生活するには、小学六年生というのは幼すぎる歳だったし、ケイはある事情で咲良田の外に出ることが許されていない。そして中野家は広く、子供がもう一人住むくらいのスペースは十分にあった。

 相麻からの手紙を鞄にしまったケイは、国道沿いにある書店でほんやく物のミステリを一冊買って、「中野」と表札の出た家に帰った。辿たどり着くころにはもう、日が暮れかかっていた。

 中野家は数年前にて直したばかりで、まだ真新しく見える。門をくぐると、広い庭からトントンとはずむ音が聞こえた。

 そちらに視線をやると、少年が一人、バスケットボールをついていた。

 背の高い少年だ。短くり込まれたかみと、くりんとした大きなひとみ。中野ともというのが、その少年の名前だ。中野家の長男で、ケイと同じ七坂中学校の二年生。

 いつもの光景だな、とケイは思う。Tシャツにジャージのズボンというラフなかつこうも、コンバースのスニーカーも。そしてバスケットボールをついているのも、いつもの光景だ。

 中野家の庭には、バスケットのゴールが一つだけある。古びてさび付いたゴール──中野智樹の父親が、まだ高校生だった頃に備え付けたものらしい。ネットはぼろぼろになり垂れ下がっていたけれど、リングさえしっかりとついていれば、バスケットゴールとしての機能は果たせる。

 中野智樹は綺麗なフォームで、バスケットボールを宙に放った。放物線をえがいたボールは、ゴールリングを通りけてネットをかすめた。

上手うまいものだね」

 と、ケイは声をかける。

 彼はこちらを見て、額のあせを右手でぬぐった。

「おかえり。おそかったな」

「ん、ただいま。ちょっとくらに寄っててね」

「美倉?」

「本屋だよ、国道沿いの」

 智樹はあきれた様子で笑った。

「歩いていくきよじゃないだろ。一度帰ってきて、自転車使えよ」

「それほどじゃないよ。学校からなら片道二五分ってところだ」

「学校からうちまでなら、一〇分で着く」

 彼は「まぁいいや」とつぶやいて、転がっていたボールを拾い上げた。

「バスケしようぜ、ケイ」

「あんまり、体を動かしたい気分じゃないんだけどね」

「体を動かしたくないやつが、往復五〇分も歩くなよ」

「本を読みたい気分だったんだ」

 とはいえ、智樹にはいくつか聞きたいことがあった。そのついでにバスケットに付き合ってもいい。

「待ってて。えてくる」

 ケイは適当に手を振り、庭の裏手へと向かって歩く。

 咲良田をおとずれるまで、もう少し人口密度の高い街に住んでいたケイにとっては理解しがたいことだが、この家にははなれがある。その離れに、ケイは置いてもらっていた。

 離れは智樹の祖父が自身のしよさいにするため用意したものだ、という話を聞いたことがある。元々は和風の建物だったけれど、家を建て直す時にこの離れも新しくしたらしい。洋風のこぢんまりした離れは、なんだか少し大きな犬小屋みたいにみえる。

 ケイはかぎを開けて離れに入る。書斎だった頃の名残なごりで、木製の大きなデスクととびらつきのほんだながある部屋。デスクの上から、小さなねこ型のキーホルダーがこちらを見ている。──正確には、昔キーホルダーだったものだ。金具の部分がこわれてしまって、今は置物としても不安定な、何の機能も持たない作り物の猫。

 ケイはデスクの上にかばんを置いて、制服をぎ、無地のTシャツとジーンズに着替えた。

 バスケットゴールの前にもどると、智樹は手持ちな様子で、ボールの上に座り込んでいた。彼はこちらの姿を見つけて立ち上がる。

「よし、はじめようぜ」

 智樹とのバスケットというのも、中学一年生の頃から変わらない日常の一部だった。

 どちらが先にこうげきするのかを決めるジャンケンに負けたケイは、バスケットゴールに背を向けて立つ。それから軽く、目を閉じた。

 ケイは過去の五感や思考を、完全に思い出す能力を持っている。絶対的なおく力。頭の中では、以前バスケットをした時の、智樹の動作が忠実に再現されていた。はば、スピード、得意なシュートコース、細かなくせ、そういったものがすべて。

 それから目を開いて、ケイは言った。

「君は僕から見て右にかわすフェイントを入れて、左から回り込むつもりだ、と予想するよ」

「……バスケに心理戦を持ち込むなよ」

つうにやったら、僕が君に勝てるわけない」

「ま、いいけどな」

 智樹はボールを軽くケイに投げる。ケイはボールを受け取り、再び智樹に投げ返す。ワン・オン・ワンの正式なルールは知らないが、中野家の庭では守備側が投げたボールを攻撃側が受け取ったしゆんかんから、ゲームが始まるということになっていた。

 ケイは右方向に移動しやすいよう足の位置を調節する。ともは体の重心を落とし、すべるように走り出す。一回、二回、ボールがむき出しの地面でバウンドした。

 智樹はドリブルする手を右から左へと移し変えた。彼の体がかたむく。ケイから見て右側の方向に、智樹は視線をやった。

 それがフェイントだということには気づいていた。彼の体勢、歩幅、視線の先──それに、表情。すべての情報から、彼の次の行動を予想する。過去の類型的な動作を思い出し、その動作を目の前の彼に当てはめる。

 先ほどケイがてきした通りに、智樹は右にかわすようフェイントを入れて、そこからするどく左へと進む。

 ──これもフェイントだ。

 そう確信しながら、ケイは首から上だけ、彼の動きにつられたように振るう。智樹の行動は予想できていた。彼とのきよかんは完全に記憶している。もう視界は必要ない。

 まったく別の方向を見ながら、ケイは前方に足をみ出した。おくれて顔を前に戻す。目の前で、智樹は立ち止まっていた。顔の前にボールをかかげ、軽くジャンプしてシュートの体勢に入る。

 すべて予想通りだった。最速のタイミングで反応できたはずだった。なのに、智樹の口元は笑っている。

 彼がシュートのモーションに入ってから、ボールを手から放すまでの時間が、記憶よりもわずかに速い。ケイはび上がって手をばしながら、確信した。

 ──これは、届かない。

 ケイの手の上を、バスケットボールが通過する。

 ボールを放した智樹の手が、胸の前でこぶしを作るのがわかった。

 ケイは体をひねって、ボールの行方ゆくえを追う。わかりきった結果をかくにんするために。

 夕焼けの空を背景にした、黒いシルエットみたいなボールが、数式で計算しくしたコースを辿たどるように、高く理想的な放物線をえがきゴールリングを通過した。

 地面でボールがはずむ音。智樹は楽しげに笑う。

「今のはかんぺきだった、だろ?」

 舌打ちして、ケイは答える。

「僕と智樹の身長が同じくらいなら、止められた」

 智樹の身長は、ケイよりも一〇センチ近くも高い。

「知るか。お前がチビなのが悪いんだろ」

「智樹が大きすぎるんだよ。僕は、平均よりもやや小さい、くらいだ」

あきらめろ。相対的に、お前の方がチビだ」

「智樹の場合、相対化する対象がせますぎるんだよ。僕の身長は学年の平均より三センチ程度しか低くない。君が平均よりどれだけ高いか考えれば、僕が小さすぎるのか、それとも君が大きすぎるのかはっきりする」

 ははっ、と智樹は笑う。

「お前が何を言おうが、オレが先制したことは変わらないんだよ」

「バスケットは身長で階級わけするべきなんだ。ボクシングのウェイトみたいにさ」

 どうでもいい口論をわしながら、ケイはボールを拾い上げる。

「今日は負けないよ」

 と言ってみたけれど、そんな言葉、ケイ自身も信用していなかった。

 中野家の庭で行われる、ワン・オン・ワンのバスケットは、智樹が二〇点分、あるいはケイが一〇点分ゴールを決めるまで続く。大きなハンディキャップがついているけれど、ケイの勝率は三割というところだ。

 この日、智樹が二〇点分のゴールを決めるまでに、ケイは六得点をあげた。きわめて平均的な結果だった。


 気がつけば日が暮れていた。

 試合終了後、ケイは地面に座り込み、額のあせぬぐう。夜がおとずれる直前の大気は深い青色で、なめらかな湿しめり気を帯びている。

 ケイは智樹に視線をやった。彼は地面にころがって、空を見上げている。

「君、また少し速くなったね」

「そうか? ま、成長期だしな」

上手うまいんだから、バスケットボール部に入ればいいのに」

いやだよ。オレには放送部があるから」

 智樹は小学生のころ、バスケットボールのチームに入っていたけれど、中学校で選んだ部活動は放送部だった。そこにどんな意図があるのか、ケイは知らない。智樹がなんの部活動をしていようが、文句を言うようなことではない。

 ま、いいけどね。と答えてから、なるたけさりげない口調でケイはたずねた。

「智樹のクラスに、ちょっと変わった女の子がいるでしょ」

「変わった女? かみが長いやつか?」

「いや、ショートカットだよ。そうすみれっていう名前」

 彼女は智樹と同じ、二年一組に所属している。

「ああ、うちのクラス委員長だな」

「うん。そう」

 彼女がクラス委員長だということは知っていた。

 簡単に調査したのだ。ケイが調べた限りでは、彼女はなんの能力も持たない、ただの中学二年生の女子生徒だった。プロフィール上のとくちようといえば、去年の春に他所よそからさくに引っしてきたことと、一年生の頃に生徒会の仕事を手伝っていたことくらいか。ちなみに彼女は生徒会を、この春にめている。

 ともは寝転がったまま、軽く首をひねって答える。

「相麻は別に、変わってないと思うけどな。あいつがどうかしたのか?」

「ちょっと気になってね」

「なんだ、こいか?」

「その可能性は考えてなかったよ」

 智樹は視線を空にもどす。黒いかげのような雲が流れていく。

「ま、お前がだれかを好きになるってのも、想像しづらいけどな」

「失礼な話だね。僕は君のことだって大好きだよ、智樹」

「気持ち悪いな、おい。オレは女の子が好きだ」

「好意をなんでもれんあいに結びつけるのはよくないね。僕はスパゲティーが好きだけど、ミートソースに恋しているわけじゃない」

「食べ物と同じレベルかよ」

「ただの例え話だよ」

 実のところ、それほどスパゲティーが好きなわけでもなかった。たまに食べたくなる程度だ。

 智樹はあきれたように首をる。

「ま、別になんでもいいさ。お前が同年代の女の子に興味を持つなんて、前代もんじゃないか。何かあったのか?」

 少し迷ったけれど、ケイは答えた。

「何度か会って、話をした。そして今日、学校を出る時、靴箱に手紙が入っているのに気づいた」

 横長の白いふうとうで、ハート型のシールがついていた。

「相麻からの?」

「うん。明日の放課後に、学校の屋上に来て欲しいってさ」

「そりゃ、ちがいなく告白だろ」

ほかの女の子からなら、僕だってその可能性を疑うけどね。相手は相麻さんだよ?」

「普通に真面目まじめな女の子だと思うが」

 どうやら相麻に対する印象は、ケイと智樹の間に大きなへだたりがあるようだった。彼からはあまり情報を得られそうにない。

 まぁいいさ、とケイは思う。明日になればわかることだ。

「ところで、髪の長い女の子っていうのは?」

 ケイはとうとつに話題を変えた。それまでの話題を続けることがめんどうになった時、よく使う方法だった。

「ん、ああ。髪が長い、変な奴がいるんだよ。ちょっとお前に似てるな」

「へぇ。それは興味深いね」

めつしやべらないし、表情も変えないし、周りの人間になんの興味もなさそうな奴だ。名前は……ハルキ、だったかな」

「どこが僕に似てるのさ? どちらかというと僕は多弁な方だし、表情は豊かだし、名前はあさケイだよ」

「多弁なのは認めるが、表情が豊か?」

 ケイはにっこりと微笑ほほえんで答える。

「僕ほどポーカーフェイスが苦手な人も、そういない」

 智樹は呆れた風に首を振った。

「ま、いいけどな。なんとなく、どっかふんが似てるんだよ」

「まったく具体性がないね」

「単純に言えば、そうだな。いろんなことに心がこもってないように見える」

 智樹は思いのほかしんけんな顔でこちらに視線を向けた。なんとなく気まずくて、ケイは空を見上げる。夕焼けの後の空はのうこん色にみ、世界をうすやみい影でおおう。

 智樹は言った。

「例えばさ、お前、バスケでオレに勝ちたいとも思ってないだろ」

 彼の声には、どこか躊躇ためらいが混じっていた。

 本当は智樹だって、こんな話をしたくはないのだろう。なら初めからしなければ良いのに、とケイは思う。言葉なんて、必要最低限の情報さえ伝達できればそれでいいのだ。コンビニで店員とわす会話みたいに。

「そう見える?」

「見えないよ。点を取られれば、ちゃんとくやしがってるように見えるさ。でも本当は、そんなことに興味ないんだろうなと思う」

「どうして?」

「さぁな。たぶん直感だよ」

「ああ、そう」

 ケイは立ち上がり、ジーンズについた土をはらう。

 うすくらがりの中で、智樹は少しだけまゆを寄せた。

「悪い。変なこと言ったな」

 謝るくらいなら、初めから何も言わなければいい。そう思ったが、このてきも不必要な言葉だろう。ケイは話題を打ち切るために答える。

「別に謝られるようなことじゃないよ。それよりも夕食の前にあせを流したいんだけど、先にシャワーを使ってもいいかな?」

「ああ、いいよ」

「ありがとう」

 適当に手を振って、ケイはともに背を向けた。

 別にバスケットに負けることが、悔しくないわけではないんだけどね、とケイは内心で考える。だが確かに、時間つぶしのバスケットの結果なんかには、それほど興味がないことも事実だった。

 ──結局のところ、智樹の指摘が正しいんだろうね。

 色々なことに、きっと心がこもっていない。


    ※


 翌日、四月二八日、水曜日。その日の放課後、ケイは教室にいた。

 そうから受け取った手紙には、放課後に屋上まで来いと書かれているだけで、正確な時間は記されていなかったのだ。一五分ほど時間をつぶしてから向かうことに決め、ケイは文庫本を開いた。

 昨日買ったほんやく物のミステリ小説だ。後ろに解説がついていて、なんとなくそこから読み始める。解説にはそれほど興味もない。ランチのセットメニューで付け合わせのサラダから食べ始めるような心境だった。この本は四〇年ほど前に書かれて、それなりの部数が売れ、小さな賞を取ったことがわかる。

 ほんの数行読んだところで、ふいに、頭の中に声がひびいた。

 聞きなれた声だった。なか智樹の声。

 ──ケイ、たのみがあるんだ。教室で待っててくれないか?

 智樹の能力だ。はなれた場所にいる相手に、時間を指定して声を届ける能力。

 そのまま解説を読み進めて、ちょうど読み終わるころに智樹が現れた。

「悪い、ケイ。英和辞典貸してくれ」

「いいけど、どうして放課後に?」

「部活で使うんだよ」

 放送部員がどんな目的で英和辞典を使うのだろう。洋楽のタイトルでも訳すのかなと考えながら、ケイは机の中から英和辞典を取り出す。

 それから智樹と少し話をして、気がつくと一五分間が経過していた。彼とはろうを少し進んだところで別れ、ケイは上り階段に足をかける。手紙の指示に従って、学校の屋上へと向かうために。

 昨日、靴箱に入っていた手紙を思い出す。──四月二八日の放課後、南校舎の屋上に来てください。相麻すみれ

 まったく、身勝手な文面だ。とうと時候のあいさつから始めろとはいわないけれど、せめて用件くらいは書いて欲しいものだ。

 学校指定のうわきで、ぱたんぱたんと安っぽい足音を立てながら、ケイは屋上への階段を上り、屋上に続くとびらを開けた。


 屋上には、かみの長い女の子がいた。彼女は表情もなく、ただそこに立っていた。

 相麻菫ではない。

 ケイは、その少女の名前を知っていた。理由は簡単だ。同じ学年にいる生徒の名前を、すべて覚えているだけだ。

 はるそら、というのが、彼女の名前だ。

 中野智樹、そして相麻菫と同じクラスに所属している女の子。

 昨夜、智樹が彼女について、変なやつだと語ったことを思い出す。ケイと同じように、いろんなことに心がこもってない、と。

 春埼美空はじっと、こちらを見ていた。

 だがケイには、彼女が自分を見ているのだとはどうしても思えなかった。もしこの場所にケイが立っていなくても、彼女はまったく同じ表情で、同じ方向を見ているのだろうなと思う。

 髪の長い、その少女の視線は、あまりにへいたんで意思がない。智樹が語った通り、そこに心がこもっているとは思えない。

 ケイは意図的に微笑ほほえんで、まっすぐ春埼に歩み寄る。春埼の様子は変わらない。面識のない男子生徒が近づいても、けいかいも、きんちようもない。

「君、二年一組だったよね?」

 と、ケイはたずねた。

 春埼はしばらく、なんの反応もしなかった。まるでケイの姿も見えず、声も聞こえないという風に。それから彼女は、静かな声で答えた。

「はい」

 返答までのタイムラグに気持ちの悪さを覚えたけれど、表情には出さないよう気をつける。

「君のクラスの、相麻さんを知っているかな」

「はい」

「よかった。僕は相麻さんに、ここに来るよう言われたんだけどね。彼女、どこにいるのか知ってる?」

「いいえ」

 まったく、なんだこの少女は。

 まるで平らなかべに向かって独り言を呟いているような気分になる。

「君の好きな食べ物はなに?」

 と、ケイは尋ねた。「はい」と「いいえ」以外の言葉をしやべらせてみたくなったのだ。

 とうとつな質問に、春埼はおどろいた様子もなく答える。

「ありません」

「そう。じゃあきらいな食べ物は?」

「ありません」

「好き嫌いがないのはいいね。健康的な食生活を送れそうだ」

 適当に答えながら、ケイは内心でともあくたいをついた。──まったく、この子と僕の、どこが似ているっていうんだ。さすがに僕にだって、もう少し人間味というものがあるはずだ。

「ところで、どうして君はここにいるの? 一人きりになりたいのなら、僕は出て行くけれど」

「ここにいるのは、そうすみれに呼び出されたからです。一人になりたいわけではありません」

 思いのほか、長い言葉が返ってきた。

 ケイはため息をつく。

「そういうことは、できればさっき、相麻さんの話をした時に言って欲しかったね」

 彼女は少しだけ首をかしげる。こちらの言葉を理解していないように。

 いちいち気にめるのもめんどうだ。ケイは尋ねる。

「相麻さんに関して、ほかにも何かあったら教えてくれるかな?」

 春埼美空はこくりとうなずく。

「相麻菫はクラス委員長の仕事でおくれるため、先に私だけここに来るよう指示しました」

「その仕事の内容を、君は知っているかな?」

「いいえ」

「なるほど」

 例えばクラス委員長を集めた会議なんかが行われるなら、ケイのクラスの委員長も呼ばれているはずだ。だが担任の教師がそんなことを言っていたおくはなかった。相麻は雑用をたのまれただけなのかもしれないけれど。

 ──ま、なんだっていいさ。

 重要なことは一つだ。相麻はケイと春埼を、同時にこの屋上に呼んだ。なんらかの意図を持ち、二人を出会わせようとした。

「君は、僕も相麻さんに呼ばれている事を知っていた?」

「いいえ」

「それじゃあ、君がここに呼ばれた理由は?」

「わかりません」

「僕と同じだね。まったく、相麻さんも勝手な人だ」

 このみような少女と二人きりで、一体どうやって時間をつぶせというのだろう。しりとりでもしてみようか。春埼がそれをきよすることはないように思えた。今までの会話と同じように、彼女は平然と、しりとりに付き合ってくれるだろう。ケイが「りす」と言えば彼女は「すいか」と答えるだろうし、「からす」と続ければ「するめいか」と言ってくれるかもしれない。

 表情もなくたんたんと、「するめいか」と答える中学二年生の女の子には、正直なところ少しだけ興味があったけれど、実行してもあまりに無益で無意味だった。ケイはもう少しだけ意味のありそうなことを尋ねる。

「君は、相麻さんと親しいの?」

 はるは少しだけ首を傾げた。

「親しい、の定義がよくわかりません」

「例えば、相麻さんとよく話をするの?」

「私が去年一年間で、最もよく会話をしたクラスメイトは、おそらく相麻菫です」

「ああ、去年も同じクラスだったんだね」

 ケイはおよそ一年前──ななさか中学校に入学したばかりのころに受け取った、クラス分けの表を思い出す。確かに相麻菫と春埼そらの名前は、同じ一年四組のらんにある。

「それなら、わりと親しいと言っていいんじゃないかな?」

「ですが私は、おそらく平均的な中学生に比べて、クラスメイトと会話をわすひんがとても低いのだと思います」

「そうなの?」

 春埼はこくりと頷く。

「二年生になってから、学校で最も長く会話をした相手は、貴方あなたです」

 ケイと春埼が言葉を交わしたのは、今回が初めてだ。なんともハードルの低いナンバーワンだった。

「新学期が始まって、まだ二〇日ってところだ。これからいろんな人と話をすればいいさ」

「会話をすることが必要ですか?」

「どうだろうね。別に、絶対に必要だとは思わないよ」

 好きにすればいい、とケイは言った。

 そのせいだろうか。春埼からの返答はなかった。ケイもそれ以上、会話を交わす理由に思い当たらず、屋上の手すりにもたれかかる。

 学校の前の通りを、下校中の生徒たちが歩いていく。彼らのさわぎ声が、わずかにこの屋上まで届いていた。けんそうとのきよかん心地ここちいい。

 しばらくの間、ケイと春埼は、無言で屋上に立っていた。相麻菫はいつ来るのだろう。もう五分ほど待って、それでも来なければ次の行動をせんたくしようと思う。つまりは家に帰るか、本当にしりとりを始めるか。

 ケイがそんなことを考えていると、ずっと屋上の入り口をながめていた春埼が、すぐとなりに移動した。彼女は中学校の前にある通りに視線を向けている。

 何か、春埼の興味をひくようなものがあったのだろうか。この少女が何に興味をひかれるのか、少しも想像できないけれど。

 春埼の表情は、今までと同じ、無色でとうめいだった。そこにはなんの感情も見つからない。ケイも彼女の視線の先を見ようと首をる。

 帰宅中の生徒たちが、雑談を交わしながら歩いていく通り。下校のピークを過ぎたのか、少し人の数は減っているように思う。その通りの向こう、曲がり角の手前に、一人の女の子がいた。

 七坂中学校の生徒ではない。中学生よりも、ずっと幼い。小学校の低学年くらいの女の子。

 女の子は泣いていた。

 転んでしまったのだろうか。迷子になったのだろうか。理由はわからないし、彼女の泣き声がこの屋上まで届くこともない。

 でも確かに、小さな女の子が一人、通りの向こうで泣いていた。

 春埼美空は、なんだかその女の子を注視しているような気がした。

 もう一度、ケイは視線を春埼の方にもどす。風がいて、彼女の長いかみれる。

 その時だった。

「リセット」

 と、それは、ため息みたいに。

 少しかすれた、女の子にしては低い声で、春埼美空は小さくつぶやいた。


    ※


 四月二七日、火曜日。

 午後四時三〇分に、あさケイは学校指定の白いかばんを持って席を立った。とても軽い鞄だった。教科書や辞書のたぐいは、すべて机の中か、ロッカーに入っている。鞄の中身は筆箱と、数冊のノートだけだ。

 中学二年生になって、もう二〇日ほどつ。わかりきっていたことだが、中学二年生の日常は、中学一年生の日常とそう大きく変わりはしなかった。教室、教科書、担任教師、クラスメイト。すべて新しいものに入れわったけれど、以前のものとの本質的なちがいはない。古くなったボルトを外し、新しいボルトでまためる。その程度の差異だった。

 ケイはたまに会話を交わすだけの、友人とも呼べないクラスメイト数人に手を振って教室を出る。そのままろうを進み、階段を下りて、げんかんぐちに向かった。

 くつ箱でハートのシールがついた白いふうとうを見つけ、国道沿いにある書店でほんやく物のミステリを一冊買って、なか家に帰った。そして中野ともに声をかけられて、バスケットをすることになった。

 決まったプログラムに従って行動するように。ケイは智樹とのジャンケンに負けて、バスケットゴールに背をむけて立った。

 軽く、目を閉じる。智樹のはば、スピード、得意なシュートコース、細かなくせ、そういったものをすべて思い出すつもりだった。

 最初にあったのは、ほんの小さなかんだ。

 ──おくの距離が、いつもとは違う。

 そう表現するのは、正確ではないのかもしれない。だがほかに言い表し方もなかった。目を閉じて、例えばひとつき前を思い出そうとした時、その一月前がいつもよりも遠い場所にあるように感じた。

 水にもぐる前に息を止めるように、小さなかくを決めて、ケイは「昨日」を思い出す。

 四月二七日の前日。本来なら、四月二六日があるべき場所。

 だが、そこにあったのも、今日と同じ四月二七日だった。

 意識したとたん、ケイの頭の中に、情報があふれる。今、この時間から、本来なら明日──四月二八日の放課後の、屋上に至るまでの記憶。

 とうとつに押し付けられたおよそ二四時間分の記憶は、頭痛とき気をともなう。かすんでいく意識を無理やりに引き留めるように、ケイは自身の額をつかんだ。

 智樹の声が聞こえた。あわてた様子の声。

「どうかしたのか?」

 ケイは目を開き、無理やりに微笑ほほえむ。

「いや。ちょっと、勝ち目がないなと思ってね」

 過去を思い出したはずなのに、未来が見えた。

 ケイはこのバスケットのゲームに敗北する。智樹が二〇得点をあげる間に、六点しかとることができない。

 ──時間が、巻き戻ったんだ、きっと。

 スムーズにそう理解できたのは、この現象を今までにも何度か経験したことがあったからだ。ケイが記憶保持能力を手にした二年前から、数か月に一度のひんで経験している。

 きっと、だれかが、能力を使った。時間にかんしようする能力を。

 失われた二四時間分の記憶は、頭の中に雑然と溢れていた。

 ケイは記憶を、正しい時系列順に並べなおす。その作業の終わりに、つまりは時間が巻き戻される最後のしゆんかんに、一つの言葉があった。

 屋上に立つ女の子。

 彼女はウェーブのかかった、美しい髪を持っている。

 その髪が、風に吹かれて、揺れる。

 彼女は呟く。

 なんだかため息のような、あきらめの混じった声で。

 ──リセット。

 そうはるそらが呟いた直後、世界の時間が、巻きもどった。

 なんてことだ、とケイは思う。たんてきに言って、きようがくだった。

 一人の少女がリセットと呟いた瞬間に、世界は四月二八日から、四月二七日に戻った。すべて、ぐうぜんなのだろうか。まったく無関係な出来事なのだろうか。

 それとも、春埼美空。あんなにもちっぽけな一人の女の子が、能力を使ったのか。

 世界すべてを、おそらくは宇宙までふくめてすべてを、何もかもまとめて過去に戻す。このあまりに強力な能力を、ぼそりと一言呟くだけで、使ってみせたのだろうか。

 ──まったく、信じられない。

 思わずケイの口から、笑い声がれる。

「本当に、どうしたんだよ、ケイ」

 智樹の声が聞こえた。

「ちょっと楽しいことを思い出したんだよ」

 いつの間にか再び閉じていた目を、ケイはゆっくりと開く。

 不安げな表情の、智樹の顔が見えた。

 だが、そんなことを気にしているゆうもない。

 時間を巻き戻す能力。それはケイにとって、きわめて大きな意味を持つ能力だ。言ってみればかつて、ケイを救ってくれた能力。

 そして、春埼美空はつぶやいた。

 ──リセット。

 あまりにこの能力に、似つかわしい言葉。

「智樹。バスケットをしよう」

 と、ケイは言った。

 さぁ早く、今日という日を終わらせよう。

 明日、もう一度、春埼美空に会うために。


  2 春埼美空──二度目


 春埼美空は、リセットと呼ばれる能力を持っている。

 世界中の時間を的に巻き戻す能力──より正確には、世界の状態を過去の、ある特定の瞬間に復元できる能力。

 リセットには、いくつもの制限がある。

 まず、彼女自身が意図的に「セーブ」した時点にしか時間を戻すことができない。改めてセーブし直すと、前回セーブした時点には戻れない。セーブの効果は、三日間で切れてしまう、など。

 そして、リセットの最大の問題点は、使用者である春埼自身にも効果をおよぼすことだった。

 例えば今回リセットによって消え去ったのは、四月二七日の午後四時三〇分から、二八日の午後四時四五分までの、およそ二四時間だ。世界は一度、四月二八日になり、リセットの効果で二七日が再現された。

 だが春埼自身も、リセットを使ったことを覚えていない。リセットによって消えてしまった二四時間に何が起こったのかわからない。

 四月二七日の午後四時三〇分が再現された時──つまりは前回、春埼美空がセーブを使った時、彼女はななさか中学校の近くにある、小規模な公園にいた。

 学校からの帰り道、泣き声が聞こえたのだ。

 そちらに視線を向けると、公園で一人、女の子が泣いていた。おそらくは小学校の低学年だろう、はるの知らない女の子だった。

 春埼は人の感情を理解することが苦手だ。表情を見ただけでは、それががおなのか泣き顔なのか、判断することができない。ひとみからなみだが流れているのをかくにんしてようやく、ああこの人は泣いているのだと確信することができる。

 今、春埼の目の前にいる女の子は、ちがいなく泣いていた。瞳からぽろぽろと涙がこぼれて、ほおらしている。

 春埼はだれか、泣いている人を見つけた時、リセットを使うことに決めていた。理由はない。もしかしたら昔はあったのかもしれないけれど、もう忘れてしまった。

 ともかく、ルールでそう決まっているのだ。

 だからこの時も、リセット、と呟こうとした。

 しかし思い出す。最近はセーブしていない。セーブは三日間しか効果を持たない。三日以内にセーブしていなければ、リセットすることはできない。

 仕方がなかった。

 セーブ、と春埼は呟いた。次に泣いている人を見つけた時に、きちんとリセットできるように。

 ──リセットによって再現されたのは、このしゆんかんだった。

 春埼はそのまま、公園から立ち去ろうとしたけれど、その前に声が聞こえた。

「あの」

 泣いている少女の声。春埼は再び、そちらに視線を向ける。

 悲しいという感情は、よくわからない。春埼がおくしている限りでは、泣いたこともなかった。──だがなぜだか、涙が熱いものだということは知っている。それが頰を伝うかんしよくを、ぼんやりと想像できた。

 あるいは全部、忘れてしまっただけなのかもしれない。悲しいという感情も、かつて泣いたことも。だがともかく中学二年生の春埼そらには、泣くというこうが、よくわからなかった。

 小さな女の子は言った。

「私のお母さんを知りませんか?」

 それは不安定にふるえる、かんだかい声だった。

「知りません」

 と、春埼は答えた。母親どころかこの少女のことも知らない。

 少女はまだ、春埼を見ていた。だからしばらく待ってみたけれど、次の質問はない。ただずっと、泣いているだけだ。

 おそらくこの少女は、母親をさがしているのだろう。要するにまいだ。

 迷子に出会った時の正しい対処法を、春埼はよく知らなかった。警察に連れて行くべきなのだろうか。だがいつぱんに、そうさくされる側の人間は、なるたけ移動しない方が良いといわれている。

 最も効率的なせんたくを探す。

 結果、この少女を公園に残し、春埼だけで警察に向かうことを決めた。この少女のとくちようを伝えれば、あとは上手うまく対処してくれるだろう。

 春埼は目の前の少女を観察した。白いポロシャツ、チェックのスカート。肩から深緑色のポシェットをさげている。かみほおに掛かる程度の長さで、髪留めでまえがみを上げていた。

 春埼はたずねる。

「どこで母親とはぐれたのですか?」

 その少女は何も答えない。じっと春埼の顔を見ているだけだ。

 はぐれた、という言葉の意味がわからなかったのかもしれない。そう考えて、春埼は質問を変える。

「今まで貴女あなたが何をしていたのか、教えてください」

 少女は、ぼそぼそと答える。聞き取りづらい声だった。

「検査で、病院に、いきました」

 病院内ではぐれたのだろうか。確かにこの公園の裏には、規模の大きい病院がある。それならばまず、病院にれんらくを入れるべきかもしれない。

「貴女の名前を教えてください」

 と、春埼は言った。外見と名前がわかれば十分だ。

 少女は震えた声で、くらかわまり、と答えた。──クラカワ、マリ。漢字の表記まで尋ねる必要はないだろう。春埼は病院と警察に連絡を入れるため、その場から立ち去ろうと向きを変えた。

 その時だった。

 なぜだか少女──マリは、春埼の制服のすそつかんだ。その意図が、よくわからない。

「放してください」

 と、春埼は言った。

 だがマリは答えない。ただ泣いているだけだ。

 無理にでもこの少女の手を引きはなすべきだろうか。マリが制服を摑む力は、とても弱い。ごういんにひっぱれば問題は解決する。

 だが春埼は、なぜだかそうしようという気にならなかった。マリが制服を摑む力から、ばくぜんとした何かを連想していた。きっと、ずっと昔のさいな出来事を、もう少しで思い出しそうで、だが思い出せなかった。

 制服の裾を摑まれたまま、春埼は自身が取ろうとした行動について説明する。マリはこの公園で母親を待ち、その間に自分は病院と警察に連絡する。それがおそらく一番効率的な対処法なのだと伝える。

 だがマリは、春埼の制服の裾を摑んだまま、泣き続けるだけだ。

 春の終わりの公園。桜の木は花を散らし、あわい緑色の葉をつけていた。今年の春は、少し寒い。太陽の光は暖かだが、風は冷たかった。

 春埼は制服の裾を摑まれたまま、じっと少女の答えを待っていた。


 マリの母親が現れたのは、それから二〇分ほどった時だった。

 そのころにはもう、マリの泣き声は聞こえなくなっていた。彼女は制服を摑んだまま、春埼の体にもたれかかるようにしてねむっていた。

 マリの母親のとなりには、一人の少女がいた。知っている少女だった。春埼のクラスメイト。

 そうすみれというのが、彼女の名前だ。

 なぜ彼女が、マリの母親と共にいるのだろう。わからなかったが、どうでもいいことだ。

 頭を下げる母親にマリを引きわたし、はるは公園を後にした。

 さも当然だという風に、相麻菫は春埼の隣に並ぶ。

「謝らなければいけないことがあるの」

 彼女は言った。

「貴女とあの女の子が出会った時、私は公園の入り口にいたの。声をけようかと思ったんだけど、めた。なぜだかわかる?」

「わかりません」

 相麻菫はくすりと笑う。

「貴女がどうするのか、興味があったの。だから、ごめんなさい。貴女には何も言わずに、私は一人であの子の母親を捜しに行った」

 それがなぜ謝らなければならないことなのか、春埼にはわからなかった。

 だがわざわざかくにんする必要も感じない。春埼はもくもくと歩き続ける。

「貴女はまるで、善人みたい」

 相麻菫は楽しげに、春埼の歩調に合わせて歩く。その足音に乗せるように、流れるようなリズムで話す。

「泣いている女の子を助けようとして、服を摑まれればはらいもせず、眠りについたらその体を支えて。まるで心のやさしい善人みたいだけれど、でもあの子がどうなろうと、本当は興味もないんでしょう?」

 歩きながら、春埼はうなずく。

「はい」

 躊躇ためらう理由もなかった。あの少女の服装も、泣き顔も、きっと明日になれば忘れてしまう。今日の出来事なんて、ひとつき後にはもう思い出せない。

 彼女の母親が見つかったことにだって、特別なかんがいはなかった。どうでもいいことだ。春埼そらはあらゆることがらに対し、公平に無関心だ。

 相麻は続ける。

「ずっと、貴女あなたに興味があったのよ。貴女は善意を持たない。ぜんからは、たぶん最も遠いところにいる。なのにその振るいだけを見れば、まるで善人みたい。一体どうすればそんな人格が生まれるのか、とても興味があるわ」

 春埼にとっては、なんの興味もない話題だった。

 四月二七日、午後五時。夕暮れにはまだ早いが、太陽の高度はずいぶん落ちていた。春埼と相麻の足元に、長いかげびている。同じ方向に、決して交わらずに。

「貴女を見ているといつも、まったく同じ形をした、二つの白い箱を連想するの」

 落ち着いた声で、相麻菫は語る。

「貴女はいつも、まっ白な部屋にいて、まったく同じ形をした二つの白い箱と相対している。一方だけを開かなければならないけれど、どちらが正解なのかはわからない」

 意味がわからなかった。

 春埼はそのまま、「意味がわかりません」と告げた。

 相麻菫は、みをかべて答える。

「つまり貴女にとって、世界はそれほどへいたんなものだって意味よ。例えば二つの箱にそれぞれ色がついていたら、好きな方の色を選んで箱を開ければいい。箱の形がちがったら、その形を理由にしてもいい。だけど貴女の前にあるのはいつだって、まったく同じ形をした、二つの白い箱」

 やはり、意味がわからなかった。

 いまさらになって思い出す。相麻菫は、去年も春埼のクラスメイトだった。その頃から彼女は、とうとつに現れて、意味のわからない話をした。今と同じように。

「例えば、春埼。私が貴女に、何かお願いをしたとしましょう」

 春埼美空は前だけを見て歩き続ける。

 相麻菫は春埼の横顔をながめながら続ける。

「それを聞き入れるか、それとも断るのかが、二つの白い箱。貴女は私に好かれたいとも、きらわれたいとも思っていないでしょう? こうしんも、めんどうだと思う感情も、きっと貴女にはない。判断の材料なんてどこにもありはしないのに、それでも貴女はどちらかの箱を開ける」

 春埼はそうすみれの声を聞きながら、しかしそれを理解しようとはしていなかった。たんてきに言ってしまえば、理解する必要性を感じなかった。

ためしてみましょう。明日の放課後、南校舎の屋上に来てくれないかしら?」

 躊躇いもなく、春埼は頷く。

「わかりました」

 相麻菫は、くすりと笑う。

「貴女はどうして、私のお願いを聞いてくれるの?」

 表情もなく、春埼は答える。

「ルールに従いました」

「ルール?」

「私には、いくつかのルールがあります」

 だれに強要されたわけでもない、じゆんかつに日々を送るために設定したルールが。

 それは例えば泣いている人を見つけたら、リセットを使おうとするように。人にたのまれたことは、基本的に断らない。

 春埼はそのルールに従って生きている。単純なプログラムで動く、コンピュータのようなものだと思う。さいな判断にも、事前に用意されたルールが必要になる。

「ルール、ね。まぁいいわ」

 相麻菫はかばんの中に手をっ込み、そこから何かを取り出す。何か──小さな、青いふうとう

「お願いを聞いてくれるお礼に、これをあげる」

 差し出されたそれを、はるは受け取った。

 青い封筒は、きっちりとのりけされている。おそらく切るか破るかしなければ、中身を取り出せないだろう。

「お守りみたいなものよ。困った時に、開いてみて。それから貴女のお願いを、きちんと言葉にするの。そうすると、お願いがかなうようになってるわ」

 信じられる話ではなかった。だが、否定する必要もない。

 春埼は小さくうなずいて、その封筒を鞄の中にしまう。

 曲がり角で、相麻菫はふいに足を止めた。

 気にも留めずに、春埼美空は歩き続ける。

 背後から、彼女の声が聞こえた。

「明日の放課後、ちゃんと屋上に来てね」

 足を止め、頷いて、春埼はまた歩き出した。


    ※


 四月二八日、水曜日。

 その放課後に、春埼美空は、相麻菫の指示通り南校舎の屋上にいた。

 相麻からは教室を出る直前、クラス委員長の仕事で少しおくれるのだと伝えられていた。

 春埼はフェンスの前に立ち、じっと屋上の入り口を見つめる。待つことは苦痛ではない。ほかにすべきこともないのだ。自宅に帰り、机の前に座っているのも、屋上でクラスメイトを待っているのも、そう大きな違いはない。

 背後からはけんそうが聞こえていた。グラウンドではいくつかの運動部が練習をしている。その周囲を回り込むように、帰宅する生徒たちがさわぎながら歩いていく。

 空はよく晴れていた。んだ青色の空。だが春埼が、そのことにかんがいいだくことはない。空をれいだと思ったことはなかった。例えば花も、風も、となりの校舎から聞こえてくるすいそうがく部の演奏も。それらがすべてこの世界から欠落したとしても、春埼の意思にはなんのえいきようあたえない。

 それは悲しいことなのだろうか、と春埼は考えた。

 なぜそんな疑問を抱いたのか、春埼自身にもわからなかった。

 わからないことは苦痛ではない。クラスメイトを待つことと同じように。時間がてば、いずれ解消されるだろう。答えが出るか、あるいは疑問そのものを忘れてしまうか、そのどちらかの結末で。

 五分経っても、一〇分経っても、屋上には誰も現れなかった。

 ほんのわずか、風が吹いた。その程度の理由だったのだと思う。春埼は何気なく、視線を動かした。グラウンドの向こう、学校の前の通りへと。

 そこに、一人の女の子がいた。

 一人きりの屋上で、春埼そらは彼女を見つけた。

 ──クラカワマリ。

 その名前をスムーズに思い出せたことが、少し意外だった。だがその理由は明確だ。彼女はまた、泣いていた。昨日、公園でそうしていたのと同じように。躊躇ためらいもなくなみだをこぼしていた。

 きよが遠いせいだろうか、泣き声までは聞こえない。

 顔をゆがめて、涙をこぼしながら、マリはよろけるような歩調で通りを歩いていた。

 昨日、マリを見つけた時点で、セーブを行っている。今回は問題なく、リセットできるはずだ。

 ため息のような口調で、春埼はつぶやく。

「リセット」

 しかし春埼の視界は、なんの変化もしなかった。グラウンドからは喧騒が、隣の校舎からは吹奏楽部の演奏が聞こえていた。そしてマリは一人、泣きながら歩いていた。

 春埼美空は、ようやく気づく。

 自身が同じタイミングで、すでにリセットを使っているのだろうということに。一度リセットを使ってしまうと、セーブはその効果を失う。また新たにセーブし直す必要がある。

 ──おそらく私は、リセットしてから、同じ行動をり返したのだ。

 今までに、何度も経験していることだった。

 春埼はリセットの効果で、リセットしたことを忘れる。覚えているのは、リセットしようとして、だがそれが出来なかったことだけだ。

 ──本当に私は、リセットと呼ばれる能力を持っているのだろうか?

 春埼の能力に関する知識は、すべて管理局と呼ばれる、公的な機関から聞いたものだ。管理局は、さく中の能力を管理する。そして能力に関する問題を取り除くために活動する。

 管理局は春埼の能力を、きわめて強力だが単体ではまったく無意味なものだと評価した。その通りなのだろう。リセットと一言、呟くだけでは、世界は何も変わらない。そんなことで少女の涙が、消え去ったりはしない。

 マリはまだ、泣いていた。

 彼女の元に行くべきだろうか? 制服のすそつかまれるために。そうすることに、リセットと呟く以上の意味はあるだろうか?

 やがて、通りの反対側から、マリの母親が現れるのが見えた。

 二人が出会ったとき、マリは泣きむだろう。

 リセットも、制服の裾も関係なく。はるかんしない形で、彼女の悲しみは解消されるだろう。

 どうでもいいことだ。

 背後で、とびらが開く音がする。春埼がり返るとそこに、そうすみれと、そして春埼の知らない男子生徒がいた。


  3 あさケイ──二度目


 浅井ケイにとっては二度目の四月二八日、水曜日。

 放課後になるとすぐ、ケイは英和辞典を摑んで、教室を出た。

 リセット前のこの時、ケイは教室でしばらく時間をつぶしてから、靴箱に入っていた手紙の指示に従って、屋上に向かった。

 だが今回はちがう。二年一組の教室を目指して、歩く。──二年一組。なかとも、相麻菫、そして春埼美空が所属するクラスだった。

 春埼に会う前に、かくにんしておきたいことがある。

 どうしてケイを呼び出した先に、相麻ではなく春埼がいたのか。なぜ春埼がリセットと呟き、そのしゆんかん、時間が巻きもどったのか。それらの出来事に、どれだけ相麻が関与しているのか。

 ろうの向こう、目的の教室から、中野智樹が現れる。彼はこちらに気づき、片手を上げる。

「よう、ケイ」

「やあ。これ、貸してあげるよ」

 ケイは英和辞典を彼のむなもとに押し付ける。

「ん? 辞書?」

「部活で使うんでしょ」

「おお、そうだった。……なんで知ってんだ?」

 リセット前に聞いたからだ。だが、事情を説明するのもめんどうだった。

「色々あるんだよ。ところで相麻さんは、まだ教室にいるのかな」

「ああ、いたよ。呼んでくるか?」

「いや、いい」

 ケイは教室の方を気にしながら、智樹と会話を続けた。

 部活動について、音楽について、気になっている映画について。

 ふいに、頭の中に、声がひびいた。目の前でアクション映画について語っている、中野智樹と同じ声。

 ──ケイ、たのみがあるんだ。教室で待っててくれないか?

 リセット前に聞いたものとまったく同じ言葉だ。

 そうだ。今までだって、そうだった。智樹が使った能力は、時間が巻き戻っても効果を発揮することを、ケイは経験的に知っていた。

 今みたいに、一度目の四月二八日に届いた声は、二度目の四月二八日にも聞こえる。

 確認のために、ケイはたずねる。

「智樹。今、このタイミングで声が届くように、僕に能力を使った?」

 そう尋ねると、彼はげんそうに首をひねる。

「いや。どうしてだ?」

「ちょっとね」

 ケイは声が聞こえた理由について考えるが、いまいち構造がわからない。

 なやんでいると、二年一組の教室から、相麻菫が現れた。彼女はこちらに気づいた様子もなく、背を向けて歩き出す。

 ともかく今は、相麻のことを優先しよう。

「ごめん、智樹。ちょっと用ができた」

「ん、ああ。オレもそろそろ、部活に行くよ」

 軽く手を振って智樹と別れ、ケイは歩き出す。足音をひそめ、少しきよを置き、相麻菫の背中を追いかけて。

 彼女はまっすぐに廊下を進む。理科室や美術室なんかの、とくべつ教室が入ったとうに向かって。ひとの少ない方向だった。

 周りに人がいなくなると、足音が気になった。できれば相麻の目的地がどこなのかを知りたかったが、気づかれずについていくのは難しいかもしれない。

 相麻は棟の奥にある、上り階段に足をかけた。ケイもそっとその階段に近づく。一つ上の階にある音楽室から、かすかにすいそうがく部の演奏が聞こえた。

 階段を上りきり、廊下の先に視線を向けたとき、不意に相麻と目が合った。

 彼女は微笑をかべる。

「こんにちは、浅井くん」

 いつからこちらに気づいていたのだろう。内心でため息をつきながら、ケイは尋ねる。

「何をしているの、相麻さん」

「クラス委員長の仕事よ」

「こんなところで?」

 ただの廊下の真ん中に、クラス委員長が行うべき仕事なんてものがあるとは思えない。

 そうは軽く首をかしげて答える。

「別に、場所はどこでもよかったのよ。南校舎の屋上でさえなければ」

「どういうことかな? こんなものを出しておいて」

 ケイはポケットから、靴箱に入っていた手紙を取り出して見せる。白いふうとうにハート型のシール。典型的なラブレターみたいな手紙。

「それ、可愛かわいいでしょ。どきどきした?」

「君の名前を見つけるまではね」

「雑貨屋で買ってきたの。靴箱に入れるには、ぴったりだと思って」

「封筒の良ししはよくわからないけどね。呼び出しておいてその場にいないっていうのは、ちょっとひどいんじゃないかな」

 相麻はやわらかく微笑む。

「ごめんなさい。どうしてもある女の子と貴方あなたを、二人きりで会わせてみたかったの」

「それが、クラス委員長の仕事?」

「そう。半分くらいは、私のしゆだけど」

 まったく意味がわからなかった。

「君が僕に会わせたい相手っていうのは、はるさんかな?」

 そう尋ねると、彼女は細いあごを少しだけ動かしてうなずいた。

「ええ、その通り。どうしてわかったの?」

「色々あるんだよ」

 一日分時間が巻きもどったことについて、くわしく説明するつもりはない。相麻が春埼の能力をあくしているのかもよくわからなかった。

「僕と、春埼さんを二人きりで会わせることが、どうして委員長の仕事になるのかな?」

 と、ケイは尋ねた。

 相麻はにっこりと笑う。

「あんまり彼女と親しい人っていないのよ」

「それで?」

「貴方と春埼を会わせてみたら、友達になるかなと思って」

 屋上に行きましょう、と言って、相麻は歩き出す。

 ケイは彼女のとなりに並んで、ため息をついた。

「それが、クラス委員長の仕事だとは思えない」

「そうかしら? クラスのみんなの人間関係に気を配るのは、わりと重要な仕事だと思うけれど」

「僕は君のクラスの人間じゃない。春埼さんに友人を作りたいんなら、君のクラス内だけでどうにかして欲しいね」

「不可能よ」

 微笑んだまま、声の質をいつさい変化させず、相麻すみれは断言した。

 躊躇ためらいもなく、言い切った。

「彼女の友達になれるような人が、そうそういるわけがないわ。私のクラスには、きっと一人もいない。だったらほかのクラスの人をたよるしかないでしょ」

「二年一組には、ともがいるよ。なか智樹。人と仲良くなることは、僕よりもずっと上手うまいはずだけどね」

つうの女の子が相手なら、中野くんでいいのかもしれないけれど。春埼は無理よ。あの子はあまりに、異質だから」

「君はどうなの、相麻さん」

がんってみるけれど、たぶん無理だと思う。私と彼女は、とってもあいしようが悪いのよ。ちょっと信じられないくらいに」

 相麻はほのかにみを浮かべたままで、「きっと、彼女と友達になることはできない」と言った。

 なんだかそれは、意外な言葉だった。なぜ意外なのかは判断できない。ケイは相麻のことを、それほどよく理解しているわけではない。

 それでも、何かが意外だ。──彼女と友達になることはできない。ていこうのある言葉だった。

 二人は東校舎の二階を通り抜け、わたろうに向かう。

 ケイはたずねた。

「春埼さんが友達になりにくいタイプの人だっていうのはわかるよ。でもどうしてその相手に、僕を選んだのかな?」

「一番相性が良いからよ」

「そのこんきよは?」

「だって、貴方と彼女は似ているから」

 以前、智樹にもてきされたことだった。かたをすくめて、ケイは尋ねる。

「一体、どこが似てるのさ」

「価値観、ふん、人格、思考。それらを統合した、ばくぜんとした何か。それは水と氷の関係に似ているけれど、少しちがう。あるいは空気と真空かもしれないし、しんこうと法律かもしれない。でも、そうね。重力と引力──これが一番、しっくりくるわ」

 まったく、わけがわからなかった。

「少なくとも、空気と真空が似ているとは思えない」

「そう? とうめいな箱に入れてかざったら、どちらも同じようなものじゃない」

「そんなことは、物事の本質じゃないよ。空気と真空は、三日月とバナナよりも違う」

「つまりは、そういうことよ。貴方たちは、本質が少し違うと思うの。でもきっと、近づけると、とても自然に自動的に混ざり合うわ。空気が真空にあわく広がるように」

 ケイは首をった。

「まったく具体性がないね」

「そうね。シンプルに表現するなら──」

 同じ話題で、智樹は「いろんなことに心がこもってない」と言った。

 そう微笑ほほえんで、

「とても真面目まじめに生きているところが、そっくりなの」

 と、言った。

 中野智樹とは真逆の評価に思える。

あさくん。貴方あなたが、はると親しくなることを望むなら、協力するわよ」

「僕が彼女と仲良くなることに、意味があるのかな」

「あるわよ。貴方たちが、二人でいることには大きな意味がある。そうね──」

 相麻はケイの耳元に口を寄せて、小さな声でささやく。

「春埼が持っている能力の効果を、教えてあげましょうか?」

「……知ってるの?」

「ええ」

「どうして?」

 相麻がかべる、笑みの種類が変わる。不思議の国のアリスに出てくるチェシャねこみたいな、意地が悪そうな笑顔に。

「適切な意思を持ち、適切な場所にいたなら、欲しい情報は手に入るものなのよ。自動的に、なんだって」

 まったく答えになっていなかった。

 それを指摘する前に、彼女は話をもどす。

「ねぇ、浅井くん。引力と重力の違いはなに?」

「引力は、他の質量から受ける力だ。重力は、引力に遠心力なんかの、別の力が加わった場合の合計の力」

 例えば地球が様々なものをひきつける力が引力で、それに地球の回転で生まれた遠心力を合わせた力が重力だ。だから重力は、遠心力の分、地球の中心から赤道の方向に少しずれている。

 相麻菫はうなずく。

「春埼さんは引力みたいに、じゆんすいな一つの力。貴方はそこに、別の方向を向いた力が加わっている。つまりは、重力」

「彼女の方が純粋だってことは、認めるよ」

「でも貴方の方が、本来の力は強いわ。せめぎあっている分、少しけずれてもいるけれど」

 二人は渡り廊下を通って校舎を移動し、階段を上った。

 南校舎の、最も高い位置。相麻は、屋上へと続くとびらを開く。

 音を立てて、風がいた。

 扉の先では、かみの長い女の子が、こちらに背を向けて立っていた。

 あの、泣いている少女を見ているのだろうか? 時間が巻き戻る前に、あきらめにも似た声で、「リセット」とつぶやいた時と同じように。

 ゆっくりと振り返った春埼そらの顔は、あらゆる感情を否定するように、無表情だった。


 四月後半の日差しは暖かだが、風が吹くとまだ少し寒かった。

 屋上のすみに座り込み、南の空を見上げて、相麻すみれは言った。

「私たちは、話をしましょう」

 ため息をついて、ケイはたずねる。

「話って、どんな?」

「なんだっていいのよ。そうね、例えば私は、一年を四つの季節に分けることに、なんだかていこうがあるの」

 ケイは手すりにもたれかる。

「でも、季節は有益だよ。例えば八月の暑さを、夏のせいにすることだってできる」

「夏を否定しているわけじゃないのよ。ほら、もう桜は散ってしまったし、もうすぐ四月が終わるでしょ? 私はそこに、春の終わりを感じる。でも、夏はまだ、遠すぎる」

 相麻は春埼を見て尋ねた。

「ねぇ、これからおとずれようとしている季節はなに?」

 春埼はゆっくりとまばたきをするくらいの時間を置いて、答える。

「来週末は、立夏です」

 立夏。夏の気配を感じる時季。こよみの上では、この日から夏が始まる。

 相麻は微笑ほほえんだ。

「そう。夏は思っていたよりも、ずっと近いところにあるのね」

 それから彼女は、もう一度、空を見上げる。

 ケイもなにげなく、同じ方向に視線を向けた。

 四月末の、南の空。それは春と夏の間にある。無重力を連想させる春のあわい空から、強い吸引力を持った夏の深い空へと、移り変わるちゆうの空。

 その空はどちらかというと、春の淡さをより多く残しているように感じた。夏は来週末よりも、もう少し遠いところにあるように思う。

「じゃあ、もうすぐ訪れる夏を、私たちはこの場所で過ごしましょう」

 と、そう菫は言った。

「何度も何度も、この屋上で顔を合わせて。たがいを理解するために、色んな言葉をこうかんしましょう」

 ケイは軽く、首をかしげた。

「そうすることに、意味はあるかな?」

 興味のないふりを装いながら、ケイは考える。

 相麻の提案は、りよく的だ。はるそらが時間を巻き戻す能力を持っているのであれば、ぜひとも親しくなりたいところだった。

 だが一方で、相麻が何を考えているのかがわからない。クラス委員長の仕事として、春埼に友達を作りたいだけなのだとは、とても思えない。

 相麻は微笑む。

「意味。そんなものは、それぞれが勝手に見つければいいのよ。私たちは、ただ会って話をするの。電線に並ぶスズメみたいに。ほんの羽休めとして、いつしよにいるの」

「目的のない行動はきらいだ」

「じゃあ、何か適当な意味を付け足すわ」

 彼女は少しだけ思考するような時間を置いてから、言った。

 細いあごを上げて南の空を見ながら、落ち着いた声で。

「私たちの中に、アンドロイドがいると仮定しましょう」

「アンドロイド?」

「ええ。人に似せて作られた、人工的なだれか。それはまるで人間そっくり。手をにぎっても、キスをしても、血液を調べても、人工物だとはわからない。他者への共感の度合いを測定して、ようやくそれが人間とは別物なのだと推測できる。何か、そういう小説があったわよね?」

 ため息をついて、ケイは答える。

「アンドロイドは電気羊の夢を見るか? ──フィリップ・K・ディックが、一九六八年に書いた」

「そう。あの物語に出てくるアンドロイド。私たちのうち、誰か一人が、ああいうアンドロイドだったと仮定しましょう」

 SF小説に出てくるような、せいこうなアンドロイドなんて、この世界には実在しない。

「その仮定の意味は、なんだろう?」

「ただの質問よ。──アンドロイドは、誰?」

「何か意味のある質問なのかな」

「ええ、きっと。アンドロイドは誰なのか、どういうこんきよでそれを主張するのか。そのことについて答えを出すのが、私たちが三人で集まることの、とりあえずの意味にしましょう」

 ケイは軽く、肩をすくめる。

せきついを調べてみればいい。電気羊のアンドロイドは、それで判別できることになっている」

「それじゃあ、仮定の意味がないでしょう? 私たちは全員、ただの人間よ。その中で思考して、誰がアンドロイドなのかを予想するの。そして夏の終わりに、答え合わせをしましょう」

 アンドロイド。

 その言葉で、最初に連想するのは、春埼美空だった。

 表情がなく、意思というものを感じさせない、一人の少女。彼女について、ケイはあまり情報を持っていない。でもなんだか、彼女はいくつかのプログラムに従って行動しているだけのように見えた。まるで人工的に作られた存在みたいに。

 春埼美空は今だって、だまって相麻すみれの話を聞いているだけだ。

 つまり、春埼について考えろ、ということだろうか?

 屋上で何度も顔を合わせて、春埼美空を観測する。そのこうには、確かに意味があった。

 彼女を──時間を巻きもどす能力の持ち主を、できることなら理解したい。

「春埼も、それでいいかしら?」

 と、相麻はたずねた。

 春埼はわずかに、首を傾げる。

「私はその本を読んだことがありません」

「なら、読んでみて。今度貸してあげるわ」

「わかりました」

 気がつけば日が暮れかかっていた。

 夕日に照らされて、

「夏が始まるころに、私たちはまた、ここで会いましょう」

 と、相麻菫は言った。