プロローグ



 何も聞こえなかった。

 河口付近ではばが広がった川の流れはおだやかで、波の音を聞くには、海が少し遠すぎる。近くの通りに人の気配もなく、夕日はひっそりと空を染めているだけだ。

 セミの声くらいなら、どこかから聞こえてきてもよさそうなものだけど、不思議と耳をすませても、今は何も聞こえなかった。

 物静かなテトラポットの上に、あさケイとはるそらは、並んで座っていた。

 八月三〇日の夕暮れ時は、ねつ気味の額みたいに暖かく、なんだか意識がはくになる。浅井ケイは目を閉じた。

 まぶた一枚分のやみの中で、思い出したのは、一人の少女のことだ。

 そうすみれ。不敵で、どくで、気まぐれな、ねこみたいに笑う少女。ある日とつぜん、死んでしまった女の子。

 彼女に初めて会ったのも、このテトラポットの上だった。

 二年前の四月八日、ちょうど午後六時ごろ。夕焼け時のテトラポットの上で、二人は出会った。

 ──あの時、僕は、ただ一人でいたかったんだ。

 だれとも顔を合わさず、言葉をわさず、夕日を見ていたかった。

 そこに誰かが現れても、相手にするつもりなんてなかったのに。

 相麻菫は言った。

 ──泣いているの?

 そのシンプルな質問に、思わずケイは、反応してしまった。

 どうしてそう思うの、と、たずね返してしまった。

 ケイは誰かと、出会うつもりなんてなかったのに。相麻菫は無理やり、浅井ケイと出会った。

 目を開く。

 あのころと変わらない、夕焼けのあかねいろ。そののうが、目を閉じる前よりも、少しだけくなっているような気がした。

 ゆっくりとした口調で、ケイは尋ねる。

「アンドロイド当てを覚えているかな?」

 となりで春埼が、少しだけ首を動かすのがわかる。こうていでも否定でもない。わずかに首をかしげる動作。

「相麻菫の質問ですか?」

 ケイはうなずく。

 あれは二年前の、四月二八日だった。ケイたちは中学二年生で、三人は放課後の屋上にいた。中学校のしき内で、一番南側にある校舎の屋上。

 あの時の相麻とまったく同じ言葉を、ケイは口にした。

「私たちの中に、アンドロイドがいると仮定しましょう」

 浅井ケイ、春埼美空、そして相麻菫。三人がそろっていたのは、それほど長い期間ではない。二年前の四月末から、同じ年の八月が終わるまでの、半年にも満たない間だけだ。

 あの頃、ケイはずっと、彼女が出した問題について考えていたように思う。

 ──私たちの中に、アンドロイドがいると仮定しましょう。

 アンドロイド。人間そっくりに作られた、だが人間ではない何か。

 相麻菫は、ケイと春埼に尋ねた。

 ──アンドロイドは、誰?

「僕たちが初めて、顔を合わせた頃の話だ」

 ケイと春埼の関係は、あの日から始まった。アンドロイドが誰なのか、相麻菫が尋ねた日から。

 ケイはゆっくりとおくり起こす。中身がわかりきっている箱の中を、かくにんするように。忘れられるはずもない、二年前の出来事を、やわらかな力でまたなぞる。