Part 01: 子どもの頃から千雨は、雨が好きではなかった。……というより、むしろ嫌っていたと思う。 なのに、その嫌いな文字を名前として呼ばれたり書いたりするたびに否応なく意識させられるので、なおさらイラついた気分になったに違いない。 千雨: 『……名前を本人の意思次第で変えてもいいなら、私はこれからは「千鮫」にしたい』 いつだったか。千雨がそんなことを言った時、周囲は大笑いしたが……正直、私は笑えなかった。 笑わそうとして出た冗談でもなんでもなく、それが彼女の本音だとわかっていたからだ……。 それは子どもの頃……確か、小学校低学年の時だったと思う。 学校の宿題で、自分の名前の由来を親に聞いてみよう――というものが出た。 もっとも私たちは放課後、子ども向けに解放された集会場の中で宿題をしたり、遊んだりしていたので……。 そういう宿題が出されるということは、社宅の年上の子たちから話で聞いていた。 だから進め方は手慣れたもので、各々で親から聞いた話を自分でメモに書いたり、親に書いてもらったり、頭に叩き入れたり……。 とにかく、それぞれの方法で名前の由来を調べて宿題に向き合った。 もちろん私もその一人で、母から聞いた自分の名前の由来……。 『お母さんの名前の雪絵から一文字もらって、お父さんがつけてくれました』と書いた。 ……だけど正面に座っていた千雨は、何も書かずにただメモを睨みつけるだけだった。 美雪: 千雨って、いい名前だよね。 千雨: そうか?……私は嫌いだ。 美雪: ……私は、いい名前だと思うよ? 千雨: お前は……美雪は、いい名前だろ。お母さんから一文字もらったとか、いい話じゃないか。 美雪: んー、でも私は7月生まれだから……名前に雪がつくのは変だって言われたことがあるよ? 7月に雪は降らない……そんなのは、わかっている。でも私は、「美雪」と名付けられた。 正直、季節的にちょっと変だとは自分でも思う。でも、私は今は亡き父がくれた母に由来する自分の名前がすごく気に入っていた。 美雪: 千雨の名前は、お父さんがつけたんだよね? 千雨: あぁ。けど、私が生まれた時に病院に向かう途中で大雨が降ったから「千雨」って……なんか変じゃないか。 ……その話は、私もおじさんに聞いたことがある。 千雨が生まれた2月下旬は寒い日で……にもかかわらずその日は雪ではなく、大雨が降った。しかもかなりの豪雨が。 だから、仕事先から慌てて戻ったおじさんが病院についた時、全身雨でびしょ濡れで……。 我が子が生まれた感動より、雨に濡れた上に冬の風に吹かれて冷え切った身体は、寒さで震えていたそうだ……。 私の記憶違いでなければ、それが彼女の名前の由来だった。 千雨: だいたい、美雪の「雪」は綺麗だからいいだろ。逆に「雨」には……良いイメージなんてない。 そう言って千雨が広げたプリントの端を掴むと、安っぽいわら半紙がぐしゃりと歪んだ。 千雨: 雨が降るたびに「雨女」だって言われる……。この前だって、私は何もしてないのに「お前のせいで遠足に雨が降った」って。 美雪: それは、……。 確かに、そんなことが去年あった。 ただ、前々から天気予報は雨だったので当然そうなるとわかっていたものであり、悪口を言っていたのはごく一部だ。 でも、彼らは遠足を楽しみにしていたから予報通りに雨だったのが悲しくて……誰かに八つ当たりせずにはいられなかったのだろう。 美雪: (……まぁ、そんなことは千雨には関係ない) だから、私が教室でそのことを指摘したら……相手は躍起になって私の否定を「否定」した。 最終的にクラスが女子対男子の真っ二つに分かれ、担任の先生が大慌てするはめになったほどだ。 そんな最中も、千雨本人はぼんやりとした表情で特に気にしていなさそうな素振りだったけど……。 美雪: やっぱり、気にしてたんだ。 千雨: 別に、気にしてはいない……ただ、親父が私がそう言われる可能性を想像してなかったってのが嫌なんだよ。 千雨は大きなため息をつきながら、集会場の床に大の字に寝転がる。 千雨: もうちょっと考えて名前つけてほしかった……ってのはそんなに贅沢な話なのか? 美雪: …………。 千雨: …………。 千雨: いや……悪かった。お前にこういうの聞くのは、卑怯だった。 美雪: え? いや、いいけど……? そう言って千雨は、どんな話をしたのかは口をつぐんで一切言おうとしなかったので、私も当時それ以上は何も聞けなかった。 当時は千雨の真意がわからずに困惑したけど、……今ならわかる。 命名者が父親であるのは同じ。だけど私の父親は死に、千雨の父親は生きている。 千雨は自分の名前について、父親に文句が言える……けど、私は死んでるからそれすらも言えない。 せいぜい空っぽの墓に向かって、一方的に告げるくらいが関の山だろう。 ……その不平等さに気づいた千雨は、私に愚痴を言うのをやめたのだと思う。 結局彼女は宿題に、『生まれた日に雨が降ってたから』と簡素な、でも紛れもない真実だけを書いて提出した。 その目元はちょっと腫れていて……なんとなく、あの後でおじさんと話をして喧嘩したんだろうなと思った。 ……でも、私は知っていた。正確には、その出来事の直後に知った。 千雨の名前の由来が、実はひとつだけではないことを。 Part 02: 宿題を提出してからしばらくのこと。麻雀のメンツが足りないから、ということで千雨の家に呼ばれた時――。 確か千雨はその時家におらず、理由は忘れたけど他のメンツが席を外れて私と千雨のお父さんの2人になった。 千雨の父: 実はな、千雨の名前には秘密があるんだ。 なんておじさんが唐突に言い出したので、私は驚いた。 美雪: え……? 千雨の名前の由来って、生まれた日に大雨が降ってたからじゃないの? 千雨の父: それもあるけど、実は別の意味もあるんだ。なんだと思う? 美雪: えー? え、えーっと……。 千雨の父: さんー、にー、いーち……はい、回答! 美雪: 元カノの名前? 千雨の父: イマドキの子はそういうこと、よく知ってるな?!……いや、違う。違うぞそれは。断じてそうじゃない。それだけは断言できる。それは本当だいや本気で。 千雨の父: ……でもそういう可能性があるかもなんてうちのママには絶対絶対言わないでくれよ? 美雪: んー、なんで? 千雨の父: 自分の娘に元カノの名前つけた、とかそういう疑惑がほんの一瞬でも出たらおじさん、いろんな意味で大変なことになっちゃうんだ。 千雨の父: ほら、チョコあげよう。おいしいぞー。 美雪: あ、ありがとう……。 押しつけられたチョコを口に入れながら、私は首を傾げたが……まぁ、そういうものなのかと一応納得することにした。 美雪: それで、千雨の名前にはどんな秘密があるの? 千雨の父: それはな、千雨が20歳になった時に教えるつもりなんだ。 千雨の父: もうひとつの理由だが、実はうちのママにも言ってない……が、美雪のお父さんには話したことがある。 美雪: そうなの? お父さん、なんて言ってた? 千雨の父: 知りたいか? 美雪: うん! 千雨の父: じゃあ、千雨が20歳になった時に教えてやろう。だからそれまで、あいつと仲良くしてくれるか? 美雪: ……?千雨と私、今もこれからも仲良しだけど……? 千雨の父: あ、いや……ごめん。そういう問題じゃない。ただ、ずっと仲良しでいるって言ってくれるとおじさんが嬉しいからな。 千雨の父: ……約束してくれるか?千雨の名前にはもうひとつ意味があるって、20歳になるまでナイショにしてくれるって。 美雪: うん、いいよ。 手早く指切りを交わして、私は約束を守り続けた。 20歳になるまで、ナイショにすると。 千雨(制服): 今年も出たみたいだな、名前の由来の宿題が。 ぱしゃ、と千雨が水溜まりを蹴り上げながらぼやいた。 ……中学2年の、夏直前。 道場通いをやめた千雨とガールスカウトをやめた私は多少時間にゆとりができて、放課後や休日にのんびりと寄り道や買い物を楽しむ余裕があった。 ……でもその日は朝から雨が降っていて。街に繰り出す予定を中止し、大人しく学校から直接帰ることにしたのだ。 美雪: この宿題が来ると毎年社宅の子たちにお姉ちゃんの名前の由来は、って聞かれるから、あ、今年もそういう時期かーってわかるよね。 千雨(制服): だな。そういう意味じゃ、私の由来の『生まれた日に雨が降ってたから』ってのは説明が楽でいい。 千雨(制服): 他のやつみたいに、これにはこういう意味があって……ってわざわざ長々と話す面倒がないしな。 そんなことをうそぶく千雨だけど、私たちの代で宿題が出た当時のことは覚えている。 自分の名前の由来の適当さに腹を立てていた幼い彼女が、翌日になって宿題を提出する時に不機嫌な顔をしていたことを。 美雪: あのさ。私たちの代で宿題が出た時……千雨、おじさんと喧嘩しなかった? 千雨(制服): よく覚えてたな、私も今まで忘れてたってのに。あの時は、……確か……。 千雨(制服): ……。悪い、やっぱ止めとく。聞いて楽しい話じゃないからな。 美雪: 親友の私にも、話せないようなこと……? 千雨(制服): 自分から公言するなよ、恥ずかしいやつだな。……まぁ、事実そうだから別に構わんが。 千雨(制服): 相手が親友どうこうの話以前に親父とは売り言葉に買い言葉で大喧嘩して、母さんが仲裁に入ってなぁなぁで終わって……。 千雨(制服): いつも通りで終わった……が、今思えば、ちょっと激しかったかもな。私が名前を変えたいって言ったから。 美雪: え……? そんなこと言ったの? 千雨(制服): あぁ。由来はともかく、自分でつけた名前を変えたいと言われてカーッとなったんだろ。結構な喧嘩になった。 美雪: 千雨、そこまで自分の名前が嫌だったの……? 千雨(制服): 嫌だったのは、名前そのものじゃなくて……「雨女」事件だな。 千雨(制服): お前が覚えてるかはわからないが……あの時遠足中止の件で色々言われて、お前が言い返してクラス中を巻き込んだ大喧嘩になっただろ? 千雨(制服): からかってきた連中にしてみりゃイジメどころか、場を盛り上げるほんの冗談のつもりだったのかもしれないが……。 美雪: 覚えてるよ。でも、盛り上がるためなら千雨のせいで雨が降った、なんて言いがかりをつけていいわけがない。 私が覚えている限り、千雨と一緒にどこかへ出かけた時……天気が雨だったのはほんの数回だ。よって「雨女」だと思ったことは一度も無い。 よしんば千雨が「雨女」だとしても、それは本人のせいでも意図もないのだから千雨を責めるのはお門違いだ。 ……だから私は当時、クラスの男子が言いがかり極まりない蔑称を口にした時、即座に否定した。 でも向こうも一度責めたからには引くに引けなくなったのか、千雨が「雨女」だと言う主張を曲げず……。 千雨(制服): あぁ、そうだな……お前はあの時もそう言ったな。 千雨(制服): 今思えば、小学生のバカさ加減を詰め込んだような事件だった。 美雪: 確かに、小学生ならではって感じの馬鹿馬鹿しい大喧嘩だったよね。 今は同じクラスに、当時喧嘩した男子が何人かいるけれど、千雨も私もそれなりに仲良くできていると思う。 千雨(制服): はっ、ガキは思い込み激しいからな……。 ぼやく千雨に、苦笑いを返す。冷静に思い返せば、確かに自分もそういう時期があった。 つまり、たくさんの人が経験すること。きっと千雨自身も通ってきた、よくある若気の至りってやつだ。 千雨(制服): まぁ、結局名前変えたところでからかう側は別の手段を使ってくるだけだから、意味がないって親父はわかってたんだろうよ。 千雨(制服): 説明が下手くそだから、娘ひとりを納得させられなかっただけで。 美雪: はは……。 ぎこちなく笑う私を横目に、千雨は空を見上げ不機嫌そうに口元を歪めた。 千雨(制服): ……雨が強くなってきたな。こんなところで油なんか売ってないで、とっとと帰るぞ。 美雪: あ、うん……。 美雪: 名前の由来……か……。 千雨と別れて帰宅した直後、母に頼まれた私はお使いのため再び公園へ戻り、スーパーへの道を行きすがらふと空を見上げた。 鉛色で覆い尽くされた空はいまだに雲が分厚く、雨が止む気配は全く感じない。 たとえば農家など、雨が降らないと困る人たちが確実に存在するとはよくわかっているけれど……。 今日のように天候が悪いと、私たちにとって色々な行動が制限される「い」やな日になることはどうあっても否定しようがなかった。 美雪: ……あれ? ふと顔を戻して周囲に目を向けると、植え込みの中で鮮やかに咲く花が視界に映る。 紫陽花だ。この季節ならではの花たちはいっぱいに開き、普段は地味な公園の景色を美しく彩っていた。 その中のピンクの紫陽花に目を留めると同時に、足を止める。 美雪: (そう言えば、昔あったなぁ。紫陽花の偽物騒動……) ……青と紫しか知らない社宅の子が、ピンクの紫陽花を見つけて紫陽花の偽物がある、と騒いだ事件のことだ。 美雪: (近所にも白とか、ピンクとかの紫陽花が増えてきたな。土壌変わった? ……そういえば、土壌に左右されない紫陽花の品種が出たって、誰かが言ってた気がするけど) カラフルな紫陽花の中を歩きながら、なんとなく思う。 ……その子の知識の中で、紫陽花は青と紫が全て。ピンクのものは存在していなかった。 それと同じように、千雨にとって自分の名前の由来に生まれた日の天気以外の理由は存在していないはずだ。 少なくとも、今のところは。 美雪: (突然、実は名前に別の理由があったって知ったら、千雨は驚くかな……) おじさんと交わし、今も守り続けている小さな約束を思い出す。 美雪: (あと6年? ……結構早いな) 20歳になったら開かされる事実がどんなものか、私もまだ知らない。 その時が来て真実が明かされたら、千雨はどう思うだろう。 喜ぶかもしれないし、やっぱり大した意味じゃないと呆れるかもしれない……。 いや、その場合はもっと早く言え、と胸ぐらを掴んで振り回す可能性が高い。 美雪: (お父さんがもう一つの理由を知った時の反応も気になるし……20歳になるの、楽しみだなぁ!) ……今思えば。あの時、私はすぐにでも千雨のおじさんに連絡を取り、今すぐ名前の由来を全部吐くように迫るべきだった。 なぜなら……それからしばらくして千雨のお父さんは惨殺されバラバラ死体で見つかり、20歳の約束は果たされなくなったからだ。 ……ただ、そんな後悔は今さらだ。 残ったのは、父親と和解する機会を永遠に喪って傷を癒やせずに至る千雨と……。 20歳の約束をしたことすら、誰にも話せなくなってしまった私だけだった――。 Part 03: 一穂(私服): ……誰も悪くないのに、約束が守れないってなんだか悲しい話だね。 雨の買い物帰り、一穂と2人並んで傘を差しながら帰宅する道中……。 紫陽花を見つけた私が声をあげたのをきっかけに、千雨という友人とその名前の由来、そして20歳の約束について話すと、一穂は興味深そうに聞いてくれた。 一穂(私服): それで、20歳になったら教えるって約束のこと……千雨……さんには、言ってないの? 美雪(私服): うん……もうひとつの由来、聞けなかったからね。そんな状況でこんな約束したんだって言っても肝心の由来がわからないから。 美雪(私服): 無意味に気にさせると思うから……多分、ずっと黙ってると思う。 一穂(私服): そっか……。 曖昧に頷く一穂には、千雨の父が亡くなったことは言ったものの……バラバラ死体で見つかったことは言っていない。 美雪(私服): (千雨といい、一穂といい……私もあっちこっちに隠し事をしてるよね) もちろん、考えなしに隠しているわけではない。本人たちに言わない、話さないのは理由がある。 けれど、普段は意識の外に追い出している隠し事をしていると言う後ろめたさは、思い出す度にチクチクと胸に刺さって……。 美雪(私服): 一穂は自分の名前、誰がつけたかって聞いてる? 一穂(私服): あ、えっと知らないの……もしかしたら小さい頃に教えてもらったかもしれないけど、忘れちゃって。 一穂(私服): たぶん、お父さんかお母さんじゃないかな? 美雪(私服): そっか……でもいい名前だよ、一穂って。 一穂(私服): えへへ、ありがとう。 ぎゅっ、と。一穂が自分の傘の取っ手を握る……ちょっとだけ、勇気を振り絞るように。 一穂(私服): ……あのね、最近思うの。私、この名前でよかったなって。 美雪(私服): おぅ、何かきっかけみたいなものがあったの? 一穂(私服): あったというか、気づいた……で、いいのかな? 美雪(私服): ん? 何が? 一穂(私服): えっとね……美雪ちゃんの名前には雪の字があって、菜央ちゃんの名前には菜っ葉の菜があって、私の名前には稲穂の穂の文字が入ってて……。 美雪(私服): (雪、菜、穂……あぁ) 美雪(私服): 全員、名前に自然由来の字が入ってるね。言われるまで気がつかなかったよ。 一穂(私服): でしょ?私もね、ちょっと前に気づいたばっかりなんだ。 一穂(私服): 私……美雪ちゃんみたいに上手に人とお喋りできないし、菜央ちゃんみたいに器用じゃないし……。 一穂(私服): 美雪ちゃんの話の中に出てくる千雨さんって人みたいに、強くないけど……。 一穂(私服): それでも、共通点があるって気づいたら……なんだか、嬉しくて。 一穂(私服): 名前のこと、特に何も思ってなかったけど……これでよかったって、最近は思うんだ。 美雪(私服): …………。 家族全員を失った一穂が、自分の名前の由来を知る日は永遠に来ない。 でも、この名前でよかったと語る横顔は、雨雲の中でもとても晴れやかで……。 美雪(私服): そっか……それも、大事だよね。 一穂(私服): え? そ、それって? 美雪(私服): 名前の由来も大事だけど……自分で自分の名前に意味を見いだすのも、大事だなって。 美雪(私服): まぁ、千雨の場合名前にサメが入ってるから、ある意味もう見つけてるようなものかもしれないけど! 一穂(私服): ……サメ? 美雪(私服): サメが好きな子なんだ。平成に戻ったら、紹介するよ。 一穂(私服): わ、私サメとかよくわからないけど……それでも、仲良くなれるかな? 美雪(私服): 仲良くなれるよ、きっと。だからさ……。 美雪(私服): 一緒に平成に帰るために、頑張ろう! 一穂(私服): うんっ!