一


「ライターの火で溶かしながら、煙を吸い込んで……そうそうそう。そしたら肺まで飲み込んで……あっ、ダメだよ、咳をしたら。……効いたかな? 効かないでしょ。だって、咳をしちゃって、成分を吐き出しちゃったんだもんな。よし、もう一回やってみよう」

 そう言って宇見戸は、僕の手にしたガラスパイプのボウルの中に敷かれた小さな金網の上に、白く半透明の欠片を、二つ三つ追加する。

「なんだか、プラスチックを溶かしたような匂いだね」

 僕は苦い顔をして言うと、使い込まれた茶色い汚れが内側にこびりつく宇見戸持参のそのパイプを握り直した。

 そしてもう一度、さっき彼から教わったとおりに左手の100円ライターに火をつけ、それを結晶に近づけ、ゆっくりと吸った。すると炎が結晶の方に引き寄せられ、ジリジリと欠片が溶けて白い煙となり、吸気と共に僕の口の中に入ってくる。うまいものではないが、宇見戸に言われるまま気道の奥まで吸い込んだ。

 毒物を吸い込んだという身体の拒否感と、肺がむかむかとするような不快感があり、咳をしたくなるのを、呼吸を止めてぐっと我慢する。

「どう? 効いて来たでしょう?」

 宇見戸の問いに僕は首を横に振ると、もう呼吸を止めているのも限界だったので、咳と共に吐き出した。

「やっぱり、何度やっても全然効かないな。体質と合わないのかもしれない」

「おかしいなあ」

 と、宇見戸は首をひねる。

 実際、自分でもどうして効かないのかさっぱりわからない。

 最初にやったオシノさんは、吸った途端にゲラゲラと笑いが止まらなくなって、そのあとはぐったりと横になった。タミさんは静かに天井を見上げたままにやにやと笑っている。

 5‐MeO‐DMTというのは、いわゆるサイケ系に分類される薬で、吸い込むと視界がきらきらと鮮やかに変化するらしい。『トリップする』とはよく言ったもので、文字通り別世界への旅に出たような気分になるそうなのだ。

 宇見戸がまず気に入って、タミさんもその勧めでハマり、ダウナーよりもアッパーよりもサイケでしょう、と語っていたのは知っている。が、僕にはさっぱり効果がないのが残念だ。

 今日初めて使ったせいかとも思ったけれど、それが原因だとしたら、オシノさんにあんなに覿てき面めんに効くはずもない。やはり体質と合わないのだろう。

「おかしいなあ」

 もう一度つぶやきながら、宇見戸は手を差し出す。僕はパイプの吸い口を袖で拭ってから、その手に返した。

 そうして彼も旅に出てしまうと、僕は一人で現実世界に取り残される。皆がうっとりと薬の作り出した世界に遊ぶなかでぼんやりと座っていてもつまらない。

 座卓のまわりにぐったりと倒れた三人をそのままリビングルームに置いて、自分の部屋に戻った。

 文鳥を籠から出して少し遊んで、そしてWEBサイトを見て回り、煙草を吸おうとしたらライターが一つもない。薬を吸うのに使っているライターを借りようと部屋を出ると、目が覚めたオシノさんがもう一度薬を使うところだった。

 白い煙を吸い、彼女は再びひっくり返る。ライターとパイプを握ったままだったので、僕は立ち上がると彼女の手を掴み、指を開かせて、その二つを取りあげた。オシノさんはそうされているのにも気づかないようだった。

 パイプは座卓の上に置き、ライターで自分の煙草に火をつける。正直なところ、僕は煙草の薬効も、一度たりとも実感したことがない。少しクラクラする程度で、落ち着きもしないし、吸うのをやめても特に欲しくもならない。完全に惰性で吸っている。どうしてこう、何かを楽しむ能力にかけているのだろう? ギャンブルにもはまれなかったし、仕事で評価されても充実はせず、サイトを褒められてもさほど嬉しくはない。ただただ乾いている。

 煙草の長さが半分になる頃、廊下の向こうに人影があるのに気がついた。それは遊びに来ているオシノさんの妹だった。フローリングの上に転がっている自分の姉と、その友人である僕たちを、まるで汚物でも見るようなしかめっ面で見て、そしてそのまま無言で玄関から出て行った。

 まだ若い妹さんに、良くないものを見せてしまった。けれど、姉であるオシノさんはそれに気づかないで、笑い続けている。


 真赤が出て行ってから、この花園シャトーには以前より多くの客が訪れるようになった。

 宇見戸も前よりも頻繁に訪れるようになったし、その他、よく知らぬ人が楽しげに笑っていることがよくある。社交的なタミさんやオシノさんがネットの知人を呼んでいるのだと思うが、正直なところ、誰の伝手で来たのかいちいち訊ねるわけでもないので、何故いるのかよくわからないことも多い。

 目を覚ましたり、外から帰ってくると、どこかで見たことがある人や、見たこともないような人が家でくつろいでいるというのは何やら混沌とした状況である。僕は、家に知らない人間がいることは気にならない。むしろ、退屈しなくていい。

 こうしたゆるやかな環境は、他に行き場がないような人を呼ぶのか、何かから避難するかのようにこの部屋にやって来る人間もいる。

 先週はよっちゃんが泊まっていた。憶えているだろうか? いつだったか、真赤が主催したオフ会で、僕らは集団で女性を襲う恐ろしい人たちだと、でたらめを吹き込まれて出席を取りやめた、あの女性である。

 以前に聞いた話では、お嬢様学校に通う世間知らずの箱入り娘であった筈だが、あれから一年が過ぎ、僕らがそうであったように、彼女にも紆余曲折の人生があったらしい。

 ネットで知り合った大阪の大学生と、駆け落ち同然で千葉の家を飛び出し、相手のアパートで同棲をしていたというのは、僕も伝え聞いていた。

 それがうまく行かなくなって、先日相手の男と大喧嘩をしてこちらに舞い戻ってきたのはいいが、厳格な父親から鉄拳でもって制裁を受け、家にも居づらいということでこの花園シャトーにやって来た。

 オシノさんは京都にいた頃に、同棲中の彼女たちとよく会っていたのだと言う。あの頃は、横抱きにする、いわゆるお姫様だっこで急に町中を走り出したりして、仲睦まじい様子を周囲に見せつけていたのにとオシノさんは感傷めいた口調で言った。

 インターネットは人生を狂わせる。最後は、避妊するしない、妊娠したのしないの、というような切実な部分での言い争いをし、相手の無責任さに愛想が尽きたそうである。親は怒っているし、大学も辞めてしまったし、これからどうしよう。そして生々しい言葉で、その大学生の悪口を言っていた。

 僕もその大学生はネットなどでよく会話をする知り合いであったのと、よっちゃんの顔についた痣が真赤のそれを想起させるのとで、なんとも言えず、無言で相づちを打っていたように思う。

 結局どういう選択をしたのか、僕は知らないが、よっちゃんはいつの間にかいなくなっていた。

 そしてそのかわりに、いつのまにかフカミが泊まり込んでいた。

 フカミというのは、以前の『RM』でデパスを砕き入れたクッキーを配っていた女子大生である。サイトの日記には、映画と音楽と紅茶と向精神薬を大量に飲んだという記事ばかり書いていた。最近髪の毛を金髪にして、行動も以前よりいくらかアクティブになった。ろくに自宅に帰らず、知人の家を遊び歩いているようだ。

 ついこの間、僕もその遊びにつき合わされたばかりだった。まず新宿で公開されたばかりの映画を観に行った。デビッド・リンチの『マルホランド・ドライブ』を観たような気がするが、睡眠不足でクタクタだったので内容を憶えていない。その後、近くに彼女の友達のアパートがあるというのでついて行った。てっきりその友達が一人で暮らしているのかと思っていたが、そうではなく、同じ大学の男と二人で住んでいる部屋だった。

 フカミの友人とその男は恋人同士でもないらしいが、ただの友達というわけでもない。しかし性交はしているらしい。好きだからしょっちゅうしている。と聞いてもいないのにフカミはぺらぺらと喋った。

 留守にしている男の部屋で過ごすことになった。フカミはさっさと寝てしまい、その友達と二人で会話をすることになる。初めて会った女と、知らない男の部屋で、何を話したらいいのかと戸惑ったが、相手は僕の名前を知っていた。サイトを見たことがあると言う。テキストサイトを見るような人なのか。そうなると話が早い。

 彼女は精神医学について専門的な勉強をしていて、フカミが過剰に薬を服用したり、人にやたらと依存したりするのを身近な症例として観察しているのだと言う。だからフカミについて僕の見解が欲しいのだと言った。そうして僕らはフカミの奇行についていくらか話した。

 翌日になると、彼らの大学の仲間がもう一人やって来る。その青年は最近大手のインフラ企業に就職が決まったらしく、フカミたちに誇らしげに就職活動のコツなどを話していた。

 この彼に、フカミは僕を「ネットで知り合った人」と紹介する。これが良くなかったらしく、「へー、それはおめでとう」と彼は皮肉めいた口調で言い、それ以降目の前にいる僕をまるきり無視した態度をとって、それから一言も口をきこうとしなかった。

 その時は失礼なやつだと腹が立ったが、後から考えると、出会い系サイトか何かで知り合ったと勘違いされたのかもしれない。フカミの人柄や、あの時の説明の仕方を思い出すと、そう受け取られても仕方がなかった。普通の人間は、インターネットに日記をあげている連中のコミュニティがあるなんて知るはずもないのだろうし。

 それはわかるが、それにしてもあんな態度はない。きっと、綺麗なものばかり見て、劣ったものや汚いものは全否定しても、何も痛まない人生を送ってきたのだろう。僕はしばらく不快だった。

 そのフカミが、最近やたらとタミさんにちょっかいを出している。だから、家に泊まりに来ていたのだろう。滞在している間は、タミさんの部屋の床に毛布を敷き、そこで寝起きをしていた。そこまでされてしまえば、他人のそういった関係に興味の薄い僕の目にもあからさまである。

 もっとも、そうやってフカミが寝起きをしていてもなにも変わらない。この家の住人は、客人がいてもいなくても同じ行動をとる。起きて、ネットをして、雑談をしながら食事をして、一緒に映画を見て、ゲームをして、また眠る。部屋は初めから汚れっぱなしの上、所有権がはっきりしないものばかりだから、転がっているものを誰がどう使おうが勝手だし、ここにいつまで居ても、いつ帰っても、それは自由だ。

「まるでここはシェルターみたい」

 と、フカミは言ったことがある。

 オシノさんは、前に勤めていた店長がゲイのベーグル屋を一ヶ月もせずに辞めて、ネットの知人と遊んでばかりいる。タミさんは相変わらず業務が少なく遊んでいるだけで時間が終わるシステムエンジニアと、プログラミングの仕事を単発で引き受けることで生計を立てているが、最近恋人とうまくいっていないのか、以前より若干元気がなく、薬の量も増えたようだ。

 僕も相変わらずで、働きもせずにふらふらとしながら、週に一度か二度は原宿の真赤のマンションへ顔を出している。逆に、彼女がこの花園シャトーへ足を運ぶ機会はほとんどなくなっていた。彼女は最近本格的に高校卒業資格取得のための勉強を開始していて、T川君に時々相談をしたりしているようだ。

 T川君はT川君で今度東京大学の合格発表があるそうで、オシノさんとタミさんは彼の運命の瞬間を見届けに行くつもりらしい。今年は実家に戻った後心を入れ替えて猛勉強をしたとのことだが、本人は自信なさげですでにあきらめ顔をしていた。初めの年に受かっていた滑り止めの私立も、一昨年辺りから合格出来なくなって、今年は結局受けなかったそうだ。もしこれ以上学力が伸びないとしても、彼はこのまま一生浪人を続けるのだろうか。

 まあ、僕が心配するようなことでもない。将来の話をするならば、僕は誰かを心配出来る立場ではない。

 幻覚剤で散々遊び、薬がなくなると宇見戸は泊まらずに帰っていった。そして、それぞれが部屋にひっこむ。すると、家は途端に静かになった。

 僕は煙草を吸いながら、PCに向かっていた。とあるテキストサイトを運営する女が、自分の恋人との性交を動画配信すると告知していたのをたまたま見つけて、経緯を眺めていた。

 最近は、ただサイトで文章をアップロードするのみならず、音声を使ったネットラジオなどを配信する人なども現れて、宇見戸などもこの間テスト放送をしていた。が、動画をリアルタイムで配信するというのはあまり見かけない。

 若い女がプライベートの性交を公開するという企画の話題性は抜群で、多くの人々が配信が行われているサイトに接続し、付属のチャットルームでコメントを打ち込んでいる。

 やがて配信を開始する時間になったが、なかなかはじまらない。そしてようやく画面がついたと思えば、天井の照明のようなものが映っているだけで、ちっとも動かないのである。次に映像が切り替わると、青い何かが映っているようだが、あまりにもぶれていて何が何だかわからない。配信設定が悪いのか、回線の速度に問題があるのか。

 結局画面はそのまま動くことがなく、かわりにその女はチャットルームにログインして「今バックから入れたところです」などと発言をし、そのまま実況をはじめたので、馬鹿らしくなってウインドウを閉じた。

 そしてそのままPCの電源を切ると、泥のように眠り込む。


 その日、僕は真赤のマンションに泊まっていた。そして、着替えがなかったので彼女の長袖のTシャツを借りている。

 一見すると女物には見えないデザインではあるけれども、仔細に観察すると布地が薄く、若干素肌が透けているのが気色悪い。眠るときはアルコールが入っていたので気がつかなかったが、朝になって自分のこの姿を見ると憂鬱でたまらない。それを言うと、寝癖がついたままの真赤は笑う。

 花園シャトーに引っ越す時に生活用品を持ち去られたこの部屋には、かわりの新しいものが買い足されている。新しい羽毛布団、新しい椅子、新しい机の上には、やりかけの問題集と参考書が広げたままだった。

「水屋口さんも、そろそろあのマンションを出た方がいいんじゃない?」

 真赤はまだ二人でどこかにアパートを借りて住むという計画を捨ててはいないらしい。しかし、僕としては、今くらいの頻度で会うのが丁度良いように思う。

 そもそも、引っ越しどころか、このまま花園シャトーで生活を続けるのも難しい状況だった。真赤がいなくなって生活費の負担が減ったとは言え、収入がない以上、遅かれ早かれ行き詰まるほかない。

 ならば働かなければならないが、その意欲はもうない。何かに対する情熱とか、欲望はどうやって持てば良いのだろう?

 なりたいような職業もない。物欲も少なくて、金があれば浪費してしまうが、なければないでさほど困らない。仮に何か熱烈に欲しいものがあったとしても、運良くそれを手に入れられたらすぐに醒めてしまい、満たされた時間が長く続かない。これも結局違うのかと、ただ空虚な気分だけが残る。

 いつも精神には漠然とした飢餓感があるのに、何を手に入れたらそれが薄まるのか判然としない。僕は一体何が欲しいのだろうか? 小学生くらいからずっとその状態が続いていたように思う。何も見つからないままただ時間だけが過ぎて、人生が終わりに近づいてゆくのが怖くて、たっぷり眠りたくとも寝付けず、やっと眠れても三時間くらいで目が覚めて、いつも気が立っている。

 あれから僕は少し大人になったが、何ももたないのは変わらない。それどころか、真赤との出会いを経て、ますます何がなんだかわからなくなった。

 嗚呼、僕はもっと貪欲に何かを求めて生きてゆきたい。そして分厚く生きてゆきたい。欲というのは世界に対する愛着だ。それか、どうせ何もないのなら、いっそのことこだわりをもって非生産的でいてやろう。反動的でいてやろう。私は全てを否定する霊です、って、これは何の言葉だっけ? 『ファウスト』のメフィストフェレスだったかな? あれは初めて自分の小遣いで買った海外文学だったっけ。そして初めて読んだ戯曲でもあった。東武ストアの二階にあった小さな本屋で、イージーリスニングの流れるなかその文庫本を手に取ると、どれだけ長い間棚ざらしにされていたのか、背表紙も中身も茶黄色っぽく変色していたんだ。内容はちっとも理解出来ないながらも、遠い場所の遠い時代の人間の言葉に触れられるというそれだけでひどく興奮した。あの頃はとにかく身の回りの全てが嫌で、離れた世界のことばかり考えていた。生活というものを嫌悪していた。食事や満腹感が嫌いだった。掃除機や冷蔵庫が嫌いだった。そして他人が最初から持ってるようなものは、何にも欲しがったりしないと心に決めていた。

 とにかく、人並に無意味を恐れるのはやめよう。僕は今までそうだったように、これからも人生を空費してゆくべきなのだ。意味意味うるさいやつは、七三分けにでもしていればいい。僕は勇ましく自分の思想を実践する。具体的にどうするのかというと、黴臭い万年床でだらだらと寝て暮らす。

「勉強はどう?」

 僕は真赤のやりかけの問題集を見ながらそう訊ねた。

「試験内容を見た限りじゃ、そんなに難しくない。ちゃんとやれば来年度中に資格がとれると思う」

「へえ、それは凄いね。真赤も人生の目的というものに向かって頑張っているのだな。T川君の影響を受けたのだろうか。しかし、立派になったもんだなあ。ただただ泣きわめくことしか出来なかったのに」

「そんなひどくなかったでしょう」

 真赤はいやな顔をする。

「でも、そしたら、普通に高校に通うより早く受験資格が取れちゃうんじゃない?」

「うん。もし来年とれたら、そのあとの一年は全部受験勉強に充てようと思う。あっ、そうだ。文鳥は元気?」

「元気だよ。でも、やっぱり情緒不安定で、すぐに噛みついたり唸ったりする。機嫌が良い時は、籠から出しても肩や頭にのってまとわりついてるんだけど」

「アハハ、相変わらずティッシュやカーテンを見せると怒っちゃう?」

「怒るよ。白くてふわふわしたものが大嫌いなんだな。なんで、どう見たって平和的なものをあれほど憎んでるんだろう」

 今日はT川君の合格発表ということで、タミさんとオシノさんが同行して三人で本郷の東大キャンパスまで行っていた。合格したならタミさんがそのT川君の表情をカメラにおさめ、オシノさんは一緒に喜び、不合格ならば二人で慰める算段らしい。

 オシノさんはT川君と親しくもない、面識があるかどうかもよくわからない間柄のはずなのに、よく行ったものだ。あの人のああいうところは、僕はいつも感心してしまう。

 そして発表を見た後は、みなでこのマンションに集まる予定になっていたのだ。

 僕は服を着替え、炬燵で横になって連絡をまつ。すると、オシノさんから電話が有って、予想通りと言ったら失礼だが、T川君の不合格を伝えた。

「彼はどんな感じ?」

『真っ青で、死にそうな顔したはる。それで、ひとっことも喋らあらへん』

 オシノさんは音が割れるほどの大きな声で、実に明るく楽しそうにそう教えてくれた。

「ねえ、オシノさんの笑いごえが聞こえるんだけど、もしかして、合格したの?」

 向かいに座っている真赤にも聞こえたらしく、そう訊ねて来たので、落ちたと教えてやると彼女も笑う。

『それよりもな、うち、テレビにインタビューされたんやで』

「え?」

『受かった人がバンザーイ、バンザーイって言ったはるから、うちも一緒になってバンザーイってやってたら、取材に来てたテレビの人がうちのことを合格者と勘違いして、アナウンサーみたいな人が今の心境を聞かせてくださいって聞いてきゃはってん』

「なんて答えたの?」

『嬉しいです、って。あとなんか適当に答えといた。あれ、放送で流れるんかなあ。そしたら、観た人はうちのこと東大生やと思うんかなあ。ほんまは中卒やのに、悪いことしてしまった。アハハハ!』

 その後真赤の家に集まってお茶などを飲み、花園シャトーに引き上げることになる。夜に人が来るので皆で鍋をやる予定になっており、その会食に真赤も誘ったのだけれども、彼女は顔をしかめて、行きたくないと首を横に振った。どうしてそこまで激しく拒否をするのか、ちょっとわからない。

 その日僕らの住まいを訪れたのは、フカミと、オシノさんの友人と、僕が普段から一緒にネットゲームをして遊ぶことの多いマツオさんであった。

 このマツオさんが、就職活動のために山口から東京に出て来るというので、泊まるところがないなら泊まっていったらどうだろうという話になり、今日のこの場が設けられたのである。

 駅前のスーパーで買い込んだ食材で寄せ鍋を作って、コンロに乗せる。それをみなで囲んで、煮えるのを待つ。

 マツオさんは面接の手応えが良くなかったとため息をつく。彼と同い年のフカミは、就職活動をするつもりがないと言う。まっとうな就職活動とは縁のない残りの連中は、へえそうなのと、感情のない相づちを打つ。

 そして鍋が煮え、タミさんがその写真をとってから、一同は箸でつつきはじめた。ビールやチューハイの瓶が手渡され、アルコールがまわりはじめる。

 どういう話の流れか、マツオさんのリクルートスーツがあまりにも堅苦しいという話になり、するとタミさんが、自分は色々な衣装を持っているからそれを着たらいいと言い出す。そして返事も聞かずに彼が自分の部屋から持ち出した段ボール箱の中には、体操服だの、セーラー服だのが入っていた。どうしてこのような衣装を持っているんだ、という誰かの質問には、タミさんは含み笑いをして答えない。

 結局マツオさんはそのなかからセーラー服を選んで身につけ、スカートの下に毛ずねをむきだしにしている。皆がそれをデジカメやら携帯電話のカメラやらを構えて撮影しはじめる。するとマツオさんの方も、可愛げなポーズをとってサービスをしてみせる。それを見て皆がどっと笑う。マツオさんは寡黙で真面目な人だと思っていたのに意外だった。

 話し疲れた僕は、喧噪を離れて一人部屋に戻って休憩をとる。すると、籠の中の文鳥は、止まり木を、嘴で押し上げては戻し、押し上げては戻しを延々と繰り返している。いつもカタカタとこの無意味な単純動作を繰り返すせいで、嘴が止まり木と接触する部分には無数の裂傷が出来ている。あまりにも無惨なその姿に、やめなよ、と声をかけると、グルルルと恐ろしい威嚇の声をあげる。指を出すと怒りながら噛みついて来る。

 僕の文鳥は、やっぱり発狂してしまっているのだろうか?

 どうしてお前はそんなことばかりするのだろうかなあ。眠いときも目を擦りながら餌をやって、大事に育てたのになあ。文鳥の飼い方、という本に書いてあるとおり、なつっこい文鳥になるよう育てたはずなのになあ。

 僕は籠から文鳥を取り出して、机の上に移動させる。この机も、椅子も、逆野がいる時につぶれた会社のオフィスから貰ってきたものだ。頑丈で、広くて、なかなか具合が良い。

 この文鳥は、一応手乗りではあるのだ。だから機嫌が良ければ向こうからすりよって、肩や頭に飛び乗り、遊んでくれとせがみだす。しかし、機嫌が悪いとなれば、今のように、まるで狂犬病にかかった犬のように凶暴になる。

 精神異常なら、薬が効いたりはしないだろうか? 僕は机の引き出しからハルシオンの銀のシートを取り出し、一錠を机の上に置く。そして灰皿で叩いて砕き、その一番小さな破片をやろうとしたら、文鳥は、勝手に一番大きな欠片をついばんでしまう。嘴を掴んではき出させようとしたけれど、すでに飲み込んでしまっている。

 あきらかに投与しすぎた。これからこいつはどうなるのか? 死んでしまうのか? 鳥と人間は体の仕組みが大分違うものな。薬なんか、簡単に飲ませちゃいけない。僕だってわかっているのだ。

 見守っていると文鳥は突然飛翔して、そのまま壁にぶつかり、毛布の上に落ちた。落ちたあとも、体のバランスをとれないまま、不安定に羽をばたつかせ、ヨタヨタと小さな飛翔を繰り返す。まるで酔っ払ったかのようだ。

「その鳥、どうしたの?」

 いつの間にか、オシノさんが部屋の入り口のところに立って見ている。

「なんだか精神が苛立ってるから、ハルシオンを飲ませてみたんだよ。そしたら、なんだか変な効き方をしちゃった。ハルシオンって、鳥の精神にも影響するものなんだね。アハハ」

 僕が笑ったら、オシノさんは眉間にしわを寄せて、嫌な顔をした。


 春が過ぎ、季節外れの台風が来て、それが去ると急に蒸し暑くなった。

 何度体験しても、夏というものは嫌いだ。日が高いうちは起き上がる気力さえ出ない、うだるような暑さで、かといって夜になっても気温は下がってはくれない。窓を開け放しているのに汗をかき、その暑気のなかで、僕はひたすら滅入っている。こんなにいやな季節はないと、ぶつぶつと文句を言いながら、作業をしている。

 何をしているのかというと、スーパーマーケットなどで貰ってきた段ボールに、服やら小物やらを詰めているのだった。僕は明日、この花園シャトーを出て行く。

 ネットの知人であるところのヤマダさんが、この春にとある大学を卒業して、無事就職して、それは良かったのだけれども、昨今のIT人員の不足のせいで文系であるのに無理矢理システムエンジニアにさせられて、つらいつらいとその暗い感情を毎日自分のサイトに書き綴っていた。

 僕はそれを知っていたので、先日彼と会ったとき、『蟹工船』という小説をプレゼントした。これはどういう小説かというと、凍てつくオホーツク海に船を浮かべて蟹を捕っている男たちが、その過酷な労働のためにバタバタと倒れ、耐えかねてストライキなどを行うというお話で、とにかくその地獄のように凄惨な労働のシーンが素晴らしい。これを苦しむ彼に手渡したのである。

 渡されたヤマダさんは、複雑な表情で受け取ると、恨めしそうに僕を見た。無職の僕を見た。

 そう、僕は相変わらずちっとも働いておらず、だから収入というものがない。思い返してみれば、スーツを着てオフィス街をうろうろしていたのは、丁度去年のこの季節だったのだ! あれから一年が過ぎたとは、とても信じられない。その間、僕は何もしていない。

 いくら花園シャトーの固定費分割制度が安価な生活を実現しているとは言え、これだけ無為の時間を消費してしまえば、さすがに貯金も尽き果てて、にっちもさっちもいかなくなった。しかし僕はもちろん労働する気がない。そんなくだらぬものをするくらいなら、死んだ方がましなのだ。

 そうして、もう逆さに振っても何も出なくなったころ、丁度良いタイミングで、母親が家を貰った。書き間違いではなく、本当に家を貰った。資産家である祖母が、一戸建てを一つ提供したのである。

 その家というのが変わっていて、作り自体はいわゆる二世帯住宅に似ているが、それよりもさらにはっきりと居住空間がわかれていて、内部で繋がる部分がなかった。玄関は別で、さらにトイレも風呂もそれぞれについており、丁度ワンルームマンションのような独立した構造が、一階部分に二つあるのだ。将来的にはこれを人に貸して賃料をとり、生活費の足しにするためにこんな作りになっているらしい。

 当面はうちの三男が住むことが決まっていて、そして空いているもう一つの構造部分に、僕が住んだらどうだろうと、母は言うのだ。彼女は二階部分に暮らすらしい。

 母のそばで暮らすのに、抵抗がないではなかったが、今更僕にこだわるような体面もプライドもあるでもなし、結局のむことにした。

 そうして、いよいよ明日家を出ることが決まり、先刻サイトを更新した後に荷造りを開始したというわけである。

 ここのところ、もうずっと死んだようにぐったりとして、何もせずに生きて来たものだから、こうして散らかっている本を重ねて紐で結んだり、無駄なものをゴミ袋のなかに捨てたりと、忙しく立ち回っていると、それだけでまるで立派な仕事をこなしているような気になって、自分が価値のある男になったような気になって、実に楽しかった。空気がきらきらと輝いていた。

 しかし、よく考えてみれば、こんなものはただの身の回りの片付けである。経済的にも、社会的にも、なにも生み出していない。しかも、そもそも僕が本当に価値のある男であったなら、こんな風に金がなくなって全軍撤退、というような事態に陥る筈もなかったのだ。夏の夜中にこんなちまちまとした作業をする時点で、それは寂しく悲しいことなのだ。

 そのことに気がつくと、すっかり気が滅入ってしまった。そして、今はきわめてスローで乱雑なやりかたで、その作業を進めている。

 本と衣服を片付け終わると、PCまわりのケーブルやら何やらを取り外し、これも段ボールに詰め込んだ。次に押し入れに取りかかると、真赤が置いていったバッグやら下着やらがまだ残っているので、それはビニール袋にまとめた。そして、さらにその奥に、引っ越して来た時にしまい込んで、そのまま手をつけていなかった段ボール箱があるのを見つけた。

 蓋を開けてみると、花園シャトーに来る前に逆野と二人で住んでいた、それよりも前、事務所の固い床の上で寝泊まりしていたあの部屋で使っていた携帯CDプレイヤーなどが詰め込まれている。

 それを手に取って眺めると、様々な感情が脳裏に蘇った。

 あの時僕は、人生の有為転変というものを感じながらこれをしまい込んだものだ。長年不和だった父親はいなくなり、営業開始時に新築の香りをかいだ店と、思春期を過ごした家は売り飛ばされ、兄弟や母親とも離散する。自分はこれから身一つになって世の中に出て行く。これまで人生に存在した全てが様変わりして、けれど、なくしたものへの感傷よりも、これからの人生への期待の方がはるかに大きかった。

 気がつけば、あれから二年と七ヶ月、この花園シャトーに来てからは一年と十ヶ月が過ぎてしまった。二十一才だった僕はもう二十四才になっている。

 この間、一体僕は何をしていたのだろう?

 ひとつひとつ思い出すと、ぞっとしてしまう。

 少年時代を支配していた狭い家の中での小さな悩みから解放されて、境遇の似た友人たちと共に、この広い世界で新しい人生を構築するつもりだった。

 なのに、蓋を開ければ僕はちっとも解放されてなどいなかった。社会のなかで新しく手に入りそうなものを求めようとも楽しもうともせず、自分の幼少期に損なわれた部分のこと、あるいは損なわれたと思い込んでいる部分のことばかり気にして、一歩も前に進むことが出来なかった。そしてタイミングよく真赤が現れると、これを救い出すことで自分の損なわれた魂も救済しようと、そんな期待を抱いてしまった。

 これが根本的に間違っていた。実際には僕が手をさしのべるべき深刻な、そして構造的な問題など彼女の環境にはほとんど存在しなかったし、その精神に抱えていたいくつかの問題は、時間の経過と共に本人が勝手に解決してしまった。今思うと、結局のところ、彼女のそれは誰にでも訪れる思春期の苦しみであったのだろう。多少は極端であったにしろ。

 僕は完全に道化になってしまったわけだが、ただ、もし仮に僕が当初想定していたような経緯で物事が解決されていたとしても、僕をとりまく状況は何も変わらなかったのかも知れない。他人を救済して、それで自分の欠損を埋めようという考え自体がまるきり見当外れなのだと、今なら理解出来る。

 他人を本質的な部分で救い出すなどということは、はなから出来るものではないし、仮に他人の再生に手を貸すことが出来たとしても、それによって自分の致命的な何かが解決するなどという、虫の良い話はありえない。それは結局自分自身の成長によって人生に織り込んでゆくしかないのだ。

 真赤が自分の成長によって更生し、次の段階へ進んでゆくのを見ながら、それを実感したがもう手遅れだった。気がつけば僕は当初の目的を完全に見失い、そして、どっぷりとつかった痴情だけが残った。滅亡した文明の残骸のような痴情だ。

 もっとも、彼女にとっては最初から単なる痴情関係のつもりだったのかも知れない。いや、おそらくそうだろう。それを僕の方が勝手に勘違いをして、精神の救済だなんだと息巻いて一人できりきり舞いをして、その挙げ句に自分と相手と状況に絶望しただけのことだ。そして、やらなくていいことばかりをして、ひたすら相手と自分を台無しにすることだけに労力を費やした。

 作業は夜が明ける前に終わった。

 翌日には連絡をしておいた友人が何人か駆けつけて、机などの大きな荷物を運び出す作業や、トラックの運転を手伝ってくれた。新しい住まいに到着したのは夜の七時で、みなで食事をして解散となる。僕は、いつだったか逆野と一緒にトラックに乗り込んだ朝のことを思い出した。

 今の僕は、あの時とは、何もかもが正反対だ。


 こうして、僕の花園シャトーでの生活は静かに幕を閉じた。


二


 意識を鮮明にしたままでいるのがいやでいやでたまらない。家でじっと休んでいても、外をうろうろと徘徊していても、どこもかしこも死臭のようなものが漂っていて、まるで世界中が墓場になってしまったようだ。

 夕方になるころには、もう今日という一日を終了させることしか念頭になくなっており、眠剤を飲んで、アルコール飲料を飲んで、九時か十時には寝入ってしまう。そのまま永遠に夜が続くのなら少しは気持が落ち着いたままでいられるのだろうけれども、朝は必ず訪れて、そして僕は目を覚ます。意識が鮮明になると、そこには、逃げ出すことの出来ない退屈でみじめな世界があって、うんざりとする。

 僕は、他の一切に対して意欲を失って、ただネットの日記だけを書き続けている。もっとも、僕が書いているのはもはや日記と呼べるようなものではないのだけれども。

 僕の日常には書くべき素材というものがなく、強いて言えば書くという行為そのものしか残っていない。そうなると、僕は文章を書く自分を書くほかなくなり、そして、それを繰り返しているうちに、書くという行為をしながらにして同時にそのことを書くという、全く新しい文章作成術を発明してしまったのである。

 これによって僕は永遠に内容の存在しない文章を書き続けることが出来る、あまりにも純粋なネット日記書きになってしまった。

 ここは都心から少し離れた場所だし、同居人がいるわけでもないから、誰も訪ねることはない。思えば、はじめてサイトを立ち上げたのも、こんな、世界からは見放された寒々しい部屋でのことであったなあ。それから二年が過ぎたわけだけれども、アハハ、結局同じところへ戻って来てしまったのだね。ただ一つ違うのは、昔の部屋にあったドアは世界に通じる出口であったけれども、この部屋のドアはここに来るのに使った入り口であって、出て行くドアは存在しない。

 真赤はここにはあまりやって来ない。

 原宿のマンションでT川君に教わりながら大学入学資格検定のための勉強をしているので、僕が一人暮らしの部屋に男を入れないでくれと言うと、いやそうにする。たまに遊びに行くと「私の方からも、そっちの家に行かないといけないんだよね」と言って、いやそうにする。僕が終電を逃して歩いて帰るときなどに暇つぶしに電話などをかけると、いやそうにする。腹が立って、じゃあもう別れると脅すと「絶対に私が別れないと思ってるから、そんなこと言うんだよね」と、冷静に返す。離れて暮らすようになって、憑きもののようなものが落ちたのかもしれない。

 彼女は今、自分のサイトの更新は停止していたが、オフ会には積極的に参加しているらしい。先日は、都内で一人暮らしをしている男のところに泊まったという事実が明らかになったが、本人は何もなかったと言い張っていた。僕はそれを信じていない。

 夏は去ったが、まだきびしい残暑が冷房を必要としていた。平日の昼間、薄暗い部屋にこもって外のまぶしい太陽を眺めながら機械のはき出す冷たい風を浴びていると、ああ、自分はまさに敗北者であるなあと、深く実感する。実際それは事実であるし、自分の責任だからしっかりと受け止めねばならぬのだろうけれども、やはり不快な感情というものは存在する。

 気晴らしのため、パソコンを起動して、いつも通りサイトの文章を考えることにした。

 そして真っ白なテキストエディタを前にあれこれ考えていると、真赤から、

『クサノさんにあんまり変なことを訊かないで』

 と、インスタントメッセージが届く。

 彼女の言うところによると、どうも、僕は昨夜クサノに対して、真赤との浮気を疑い、それをしつこく問いただしたという話なのである。

 僕はそんな行為をちっとも覚えていなかったが、MSNメッセンジャーのログを確認すると真赤の言う通りだった。確かに僕は根拠もなくクサノを責め立て、真赤に手を出すのはやめろなどと絡んでいる。クサノの、なんとか穏便にやりすごそうとしている返答が気の毒だ。

 丁度クサノがオンラインだったので、昨夜の非礼をわびると、

『いいんです。誤解が解けたなら』

 彼が優しいのは、もう僕のことは諦めているからだろう。

『ミズヤグチさんはそれでいいんですよ。それが面白みなんです』

 などと白々しくクサノが言うのに、アハハハハと乾いた笑いを返す他ない。

 慣れたつもりでいたけれど、クサノのような人間まで巻き込むようではあまりにもだらしがない。

 この状況がよろしくないのは、さすがに僕だってわかっている。そして、それを打開するには何をしたら良いかというのもわかっている。

 結局、働けば良いのである。何とすれば、人間というのは多少性格や生活に暗い陰があろうとも、まっとうに勤労し経済的価値を生み出していれば、この社会において一個の人間としての扱いは受けられるものだからである。逆に言えば、いかに心優しく、健全に生きていたとしても、経済的な能力が皆無ならば一人前とは見なされない。いわんや、人格破綻者ならばなおさらである。

 もう二度と働くものかと思っていたが、ここへ来てさすがに心細くなった。

 自分が金持ちだろうが貧乏だろうが知ったことか。評価され尊敬を受けようが、無視されいないものとされようが黙殺する。善人でも悪人でもいい。今までの僕は、精神の外側にあるいかなるものも軽蔑し、内側にあるものだけで、そこに宮殿のような何かを構築しようとしていた。が、それは叶わぬ夢だった。徹底的に失敗してしまった。

 そして失敗してしまうと、他人の目が過度に気になり始める。こうなってしまったからには、もうこの生き方を諦めて、全く別の生き方、つまり、他人の評価を強く意識しながらやってゆく他ないのではないか?

 今からでも働けばまだ遅くはないだろう。どんな仕事でもいいから職に就き、自分の生きるために必要な分を稼ぎ、誰に迷惑をかけることもなくなれば、引け目を感じずに正々堂々と生きてゆけるに違いない。そうしたら、この部屋も出て行くことが出来る。離れつつある真赤も僕を見直すに違いない。細かいこだわりを捨てて、世の中と上手くやってゆくんだ。そうして空っぽな喜びを集めて人生を満たすやり方を選んだっていいじゃないか。

 それに、毎日何かしらやるべきことがある、という義務を帯びた状況が今の僕の生活には必要に思えた。

 けれど、働くにしても、どこならばこの僕が働くことが出来るのだろう?

 上司も同僚も優しくて、給料も十分だった、あんなに気楽な職場でもやっていけなかったじゃないか。採用してもらえたとしても、僕はすぐにまた飽きてしまうのではないか? あのときと同じように、給料なんぞ貰ったってこんなものは無意味だと、人生を無価値なものにしているだけだと、そんな閉塞感に襲われてしまうのじゃないか?

 そう考えるうちに、自分のような不適格者はどこでも通用しないという絶望感と、あはは、そんなのは働かぬための言い訳だろう、迷惑だから外面だけでも取り繕えよ、そうやって人生の敗戦処理に専念するのだこの怠け者が、という、ただ自嘲するだけの感情が騒がしく争って何も出来なくなる。お得意の一人いたちごっこが始まる。そうして時間だけが無為に過ぎてゆく。それがいつものパターンだ。

 そんな折りに、意外な朗報があった。

『文章を書く仕事がありますよ』

 と、さほど親しくないネットの知人が持ちかけてきたのである。

 彼女から教わった番号に電話をすると女性が出た。責任者の番号だと聞いていたので、てっきり男性が出ると思っていた僕に、彼女は説明をしてくれた。

『すぐに書くってわけじゃないです。最初は、会社に来てゲームをして貰います』

 詳しい話は後日に直接会ったところでしてくれると言う。

 電話とはいえ詳細の説明を避けたのが怪しいけれども、たとえば違法アダルトビデオのパッケージの文章を考えるような仕事でも、給料が貰えるならば大歓迎だ。何しろ、ゲームをして、文章を書くということならば、普段からやっている。自分にも出来そうだ、と思える時点でもう選択の余地がない。

 まだ何一つ決まったわけではないが、意外なことに、こういったやりとりがあっただけでも僕は嬉しかった。

 さっそくこのことを伝えようと真赤に電話をかけると、僕が用件を切り出すよりも先に、彼女の言葉が携帯電話から流れ出す。

『よく考えたんだけど、私達、もう別れた方がいいと思うの』

 その言葉を聞いたとき、僕の手は震え、背中には産毛が逆立つようなぞわぞわとした感覚が生まれた。

「えっ、どういうこと?」

 しっかり聞こえていたにも拘わらず、僕はそう尋ね返した。

『嫌いになったわけじゃないけど、もうこれ以上付き合えない。好きじゃなくなった』

 真赤の声は落ち着いており、思いつきや、何か突発的な衝動によって口にしているわけでもなさそうだ。つまり、彼女は冷静な判断と強い意志に基づいて、この台詞を口にしているというわけか。

 僕は眩暈がするほど驚いた。まったく想定不可能な事態というわけでもないし、はっきりとした予兆だってあったのに、今更驚くことが出来るというのは、僕はやはり真赤のことを心のどこかで見くびっていたのだろう。彼女が以前言った通り、何を言っても彼女の方から別れを口にするはずがないと、そう思い込んでいたのだ。

 もちろん、経緯や状況を考えればそれはあり得ないことで、常識的な感覚の人間からすれば、こんな人間に女がついて来る方がおかしい。この結末に関してはまったくもってざまあみろという他ないのであろうし、僕だって落ち着いた時ならばそれくらい考えることは出来るはずなのだが、実際直面してしまうとそう簡単にはいかない。

 ほとんど携帯電話を取り落としそうになりながら、唾を飲み込んだ。

「いつからそんなことを?」

 動揺しきった不安定な声で訊ねてしまう。

『この間、水屋口さんの家で喧嘩したでしょう?』

「う、うん」

 彼女が言っているのは、おそらく先週の出来事だろう。

 いつもの様に彼女が泊まりに来ていて、そしていつもの様に口論になった。

 僕は大声で騒ぐ彼女に腹が立ち、部屋から締め出してドアに鍵をかける。すると真赤はしばらく玄関の前でわんわんと大声で泣く。やがて静かになると僕も心配になって、再びドアを開いて彼女を招き入れた。その時彼女は缶コーヒーを一つ握りしめていた。聞くと、通りかかった僕の弟が、落ち着いた方が良いと渡してやったらしい。

『あの、外に出されて泣いてた時、気持がすっとさめたの』

 と、真赤は言う。

 しかし、そう説明されても僕は相手の心情が想像出来ず、言葉が頭に入らず、アワアワと言い訳にもならぬ言い訳をしてしまう。今までもっとひどい喧嘩なんかたくさんあったのに、どうして急に。つもりつもったものがあるのよ、と、真赤は冷たくあしらって、いささかも揺らぐ様子がない。

 これまで僕は女から別れ話を切り出されても引き留めたことがなかった。そんなことをしても無駄なのは知っていたし、自分の敗北に追い打ちをかけるだけだということもわかっている。出来うる限りクールに受け止めたい場面だ。けれど、この時僕は不覚にも判断力を失って、生まれて初めて引き留めの言葉を口にした。

「どうか、どうかもう一度だけ考え直してくれないか。おれが悪かったところは、なんとかして修正するから」

 すでに敗北宣言に近いその言葉は、

『無理』

 の一言でもって否定されたのであった。

 これで完全決着である。僕はすっかり自制心を失って、その後も、せめて最後に直接会って話し合おうだの、どこが悪かったのか冷静に教えて欲しいだの、重ね重ね要求をしたけれど、真赤の面倒くさそうな態度でことごとく一蹴され、そして最終的には相手の一方的な切断によって通話は終了した。見事と言うほかない。

 僕は目の前が真っ暗になって、全身が脱力するのを感じた。がっくりと床の上に膝をつき、首を折るようにうなだれ、カクカクと操り人形のように肩をふるわせたかと思うと、そのまま布団に顔を突っ伏した。そして、その目からあふれる滂沱の涙と、口から漏れる慟哭は、最後のものを失った悲しみか、ついに来たるべき時が来たという納得に似た感情か、悔恨のなせるものか。最近の僕は、自分の感情にうまく名前をつけることが出来なくなっている。とにかく、いかにも敗北者らしい姿であった。

 まあそんな訳で、長いようで短い、短いようで長い、二人の関係は一応は解決をみたわけで。腐敗した共依存関係は見事解消したわけで。破綻が目に見えていたチキンゲームに見事勝利したのは真赤選手となりました。

 彼女が僕と同じように状況を認識していたとは限らない。おそらく彼女なりの理由があってこの答えに至ったのだろうけれど、結果としては、お互いにとって正しい選択だというのは僕も同意が出来た。これ以上彼女の時間を盗まなくて良いのだという解放感もある。

 だから、その快勝に対して賞賛をしたいという気持も勿論あるけれども、しかしそう割り切れるものでもないのだからいやになってしまう。

 翌日になって、何度も電話をかけて通話拒否をされ、そして次にMSNメッセンジャーをブロックされるまでメッセージを送った。連絡の手段がなくなると布団にうずくまって、亀のようになってぴくりとも動かない。

 途中でゆっくりと一度起き上がって、そして何をするかと思えば自分のサイトの更新で、何やら自虐的な日記を書き、それが終わると文鳥に水と餌をやり、薬を飲んで、また亀に戻る。しばらくたって、電話が着信の音を立てると、弾かれたように起き上がり、それまでが嘘だったかのような素早い動作で手を伸ばす。しかし、それは真赤ではなく、先日仕事の話で連絡をした女性担当者であった。

 面談の日取りが決まったので、それを伝えるために電話をかけて来たのだと、彼女は事務的な口調で伝える。

 そんな下らぬことで今の僕を煩わせるな、と思ったが、彼女も仕事なのだ。

『この日の夕方が良いんですが、それが無理なら火曜日の昼頃から……』

「すみません。もういいです」

 言いかける彼女を遮って、

「やっぱり、働かせてもらうのはやめます。あの、彼女にフラれたので、だからもういいです」

 ありのまま言うと、

『あ、そうですか。わかりました』

 笑いを含んだ声で言われた。

 そして通話は終わる。結局、これはなにをやる仕事だったのだろう? わからないまま終わってしまった。

 それから、僕は部屋に引きこもってサイトの更新を続けた。そして他人のサイトを閲覧した。すると、不思議と心が落ち着いて、その他のことを何一つする気が起きない。

 何週間か、ひたすらネットだけを見て暮らしたが、しかし問題なのは、そのような生活をしていると、真赤があいかわらずオフ会で遊び回っているという話も耳に入ってしまうことだ。そして苛々とする。あの野郎、またあちこちで色目を使っているんだろうな。確かに僕はまともでないにしろ、オフ会に来るようなテキストサイトのやつらだって、似たような年格好で、社会的責任なんか果たしていないような屑ばかりじゃないか。そんな連中を相手にするのだったら、僕を拒絶した意味がない。

 つい先日は、Nとかいう阿呆の主催するオフ会に参加したらしいが、なんだこいつ。内容のない気取っただけの、下らぬ文章を書きやがってと、昔に真赤自身がこきおろしてた相手じゃないか。あれは嘘だったのか? いつも口から出任せばっかりだよ。贔屓目なしにしたって、こんなやつなら僕の日記の方が、よほど知られている。評価されている。こんな軽薄な連中と、夜通し騒ぎ遊ぶために僕は切り捨てられたのか。まったくがっかりだ。頭の悪い、くだらない女だ。

 部屋にじっとしていられない。僕はある夜中、思い立って部屋を出た。

 もう残暑も終わろうとしており、長袖Tシャツ一枚の僕には少し涼しい風が吹いていた。

 結局この二年間は何だったのだろう。僕は何をしていたのだろう。いたいけな少女に取り返しのつかないことをしてしまった。貴重な二年間を奪ってしまった。アア、イヤダ、イヤダ。

 家から出ても安全ではない。すれ違う人間が皆、僕を非難しているような気がする。何か反論をしたかったが、そのための材料を一つも見つけ出すことが出来ない。無理矢理笑ってみたら、人が振り返る。

 すぐに夜の徘徊から戻ると、僕はタミさんに電話をかけて、少しの間泊めてもらえないだろうかと頼んだ。

 とにかくこの部屋に居たくなかった。そもそもここは僕の場所ではなく、母の家なのだ。こんなところに甘えていては、母も弟も僕を軽蔑するだろう。もうこれ以上見下されるのはいやだ。

 僕が抜けた後、タミさんはしばらくはオシノさんと二人で花園シャトーに住んでいたが、今は引き払って都内の別の場所にアパートを借りて移り住んでいる。最近会っていないし、新しい部屋をまだ一度も訪ねたこともなかった。そこに行って、つもる話をして、そうしたら、路上ででも暮らそう。冷たいコンクリートの上で一年生活したんだから、風と雨さえ防げば、どうにだって生きていけるはずだ。僕のことなぞ知る人のない場所で、誰とも関わらないで生きてゆきたい。僕は水屋口悟という名を持つ人物の人生に幕を引き、名もない路上の生き物として暮らしてゆくのだ。

 タミさんは快く許可してくれたので、僕は今後必要になりそうなものをスポーツバッグに詰めると、少し寝て、昼になってから家を出た。

 ただ歩いているだけなのに、風景がグルグルとしてめまいがする。薬を飲まないのがいけなかったのか。僕は歩きながらポケットが膨らむほど詰め込んでいる錠剤のシートを一枚取り出すと、指で一錠ずつ押して全部の錠剤を手のひらの上に出し、口に放り込んだ。そして空っぽになったシートを逆のポケットに入れる。

 口のなか一杯の錠剤を奥歯で噛みつぶしても何の味もしない。僕はいま何の薬を飲んだのかな。まあ、どれだって一緒だ。実際のところ、何をいくら飲んだって、全く効きやしないのだから。気持を落ち着けるのは、薬の効果ではなく、馬鹿げた飲み方をするという行為そのものなのだ。もし医者が片栗粉の固まりを処方しても、気づかずに飲み続けるだろう。

 踏切で立ち止まると、太陽の光がやたらにまぶしかった。電車の車輪が線路を踏むゴツゴツとした音が耳の裏にこびりつく。隣で携帯電話を使う男の口臭がにおう。二人の中年女が、先日この駅で起きた人身事故について話す声が、電車の騒音の合間合間に聞こえる。──血がばーっと流れ出して──白い靴下が──小柄なおん──まだ若いのにねえ──。

 遮断機が上がって再び僕は歩き出す。

 平日の昼間のガラガラの電車に乗って、途中の駅で気持ちが悪くなって吐いて、ああ、そう言えば食事らしいものを全く食べていないなあ。何か食べたような気になっていたけれど、よく考えればあれは文鳥に餌をやっただけだった。母の部屋に籠を移動させ、これが最後だからと多めに餌と水をやったら、自分が食べたような気になっていた。どうしてこういう取り違えが起こるのだろうかなあと、ぼんやり考えていると、何故か僕は目的地ではない駅で降りていた。

 それは、真赤が住む街だった。

 ああそうか、都内に来ると言えば、いつもこの街に来ていたからなあ。意識レベルが低下して夢うつつだったから、ここへ来てしまったのか。

 そうして僕は、せっかくだから真赤のマンションでも見て帰ろうと、よせばいいのにそちらの方向へ足を向けたのである。

 真赤のマンションの前に立ち、僕は不思議でしかたない。ついこの間まで気軽にインターフォンを押し、そしてオートロックを開けて貰っていたのだけれど、今はもう他人の家であるから、そんなことをしたら怒られてしまう。場合によっては通報されてしまう。嘘みたいだなあ。そもそも僕は電話で別れを告げられてから一度も顔を合わせていないので、全て夢のような気がするのだよね。

 僕は運というか、巡り合わせの悪い方なので、どうせ出会えるとは思っていなかった。玄関の前で少し考えて、これが現実なのだな、と受け入れられるような雰囲気になったら帰ろうと思っていた。しかし、なぜかこんな時だけ運が良く、というか、やはり巡り合わせが悪い故なのだろうか、真赤と出会うことになってしまった。

「あっ」

 と僕は声をあげ、

「あっ」

 と彼女も同じように驚いた。

 道の向こうから歩いて来た真赤は、今日もどこかに遊びに行っていたのか、よそ行きの服を着て、よそ行きの化粧をしている。他人として見ると案外美しい。

 真赤は困ったような顔をして、僕も言葉を口にすることが出来ない。

 しばし見つめ合ったあとに、

「ごめん」

 謝ると、彼女はため息をついてから、

「上がってく?」

「いいの?」

「だって、こんなところで座ってたってしょうがないでしょう。それに、なんだかみじめで可哀想だし」

 そして僕は久しぶりにその部屋に足を踏み入れた。以前と変わらずがらんとした部屋で、生活感はあまりない。

「文鳥はどうしてる?」

「元気だよ」

「ねえ、あれ私に頂戴よ。私のお母さんも、あの文鳥のこと気にいってたの」

「ダメだよ。お前じゃ死なせちゃう」

 僕は初めてこの部屋に来た時のことを思い出した。その時真赤は、家族からおかしな薬を飲ませられているという話をして、それから、合い鍵をくれた大学生の話をしていたっけ。その次に行ったのは確か正月で、二人で蟹を食い、真赤はその合い鍵の大学生に鍵を返したという話をした。別れを告げられた大学生はこのマンションに押しかけ、包丁を突きつけた。その時真赤は思わず笑ってしまったと、楽しそうに言っていたっけ。

 思えば、あの笑顔を見た時に、いつか自分がその大学生の立場になってしまうのではないかと、漠然とした不安を抱いたような気がするが、まさか本当になってしまうとは思わなかった。数奇というよりも、愚かである。

 もっとも僕は彼女に危害を加えるつもりなんかこれっぽっちもない。ミネラルウォーターを出してくれる真赤に、これからタミさんのところに行くつもりで、その途中でちょっと寄ってしまったのだと説明をした。真赤は聞いているのかいないのか、中途半端に笑う。

 そして、やくたいもない雑談をしていると、思いの外楽しかった。この先も、友達としてやっていけるのではないかと思い始めたころ、急に彼女はこんな話を切り出した。

「そう言えばね、水屋口さん。私、もう別の人と付き合ってるの」

 うすうす感づいていたとは言え、笑顔でそう言われるとさすがに心乱れた。が、僕は平静を装いつつ、

「誰? おれの知ってる人?」

 そう尋ねると、

「ヤマダさん」

 と答え、そして僕の表情を窺った。

「ああヤマダさんか」

 僕もよく知っている。初めて会ったのは真赤が主催した『たけしさんオフ』で、その後何度も顔を合わせる機会があり、この間は蟹工船をネタにからかったばかりだ。

「あの人ならいいんじゃない。おれなんかよりちゃんとした人だよ。日記見る限りあいかわらず仕事大変そうだけど、大丈夫かな」

「でも、付き合うようになったのは、別れてからだよ? だから、かぶってる時期はなかったの」

「そう。それは別にどうでもいいけど、ヤマダさんと聞いて安心した」

 僕は心からそう言った。

 そして話すこともなくなり、そろそろ帰ろうかと僕が思い始めた頃である。

 部屋のインターフォンが鳴った。

 訪問販売か何かだと思ったが、真赤はそのまま部屋にあげるつもりらしい。どういうつもりなのか不審に思っていると、入ってきたのはT川君であった。

「ミズさん、久しぶり」

 T川君は堅い表情のままそう言った。

「私がこっそり呼んだの。タミさんにも連絡したから、もうすぐ来ると思う」

「なんのために?」

「水屋口さんが居座ってるから」

「えっ、何でだよ! 無理強いなんか一つもしてないだろう? 帰って欲しいって言えば帰ったのに。このあとタミさんのところに行くつもりだってことも、話したじゃないか」

 真赤は何も答えない。

 ああなるほど、真赤は最初からこうするつもりで、ことを荒立てないように柔和な態度を作っていたということか。すんなり部屋にあげるなんて、おかしいと思っていたんだ。

「そうか、結局おれの言葉を何一つ信じなかったってことか。アハハ、そうか、そういうことか」

 その態度を見るに、自宅に押しかけた時点で、問答無用と判断されていたのだろう。つまり、真赤にとっての僕は、もうすでに会話の通じぬ頭のおかしい不審者になり下がっていたということなのだ。

「あなたの弟にも連絡したわ。これから迎えに来るって」

 真赤の言葉を聞いた時、おそらく僕の顔は真っ青になっていただろう。

 いくらなんでも、家族まで巻き込むことはないじゃないか?

 子供の頃は喧嘩もしたが、大人になってからは弟とはほとんどお互いのプライベートの話をしたことがない。そりゃ何も言わなくたって兄がまともな人間ではないことに気がついてはいるだろうけれども、そこには男兄弟同士のプライドというものがある。必要以上に踏み込まないというのが暗黙の了解だった。

 真赤だってそれはわかっているはずである。なのに、兄弟をこんな場所に呼び込むというのか。えげつないことをする。

「番号はどこで?」

「前に水屋口さんが倒れた時、家族に連絡しようと、携帯から控えておいたの」

「嗚呼! 畜生!」

 僕は居ても立ってもいられなくなって、窓の方へ走った。そのまま遥か下のアスファルトの上に身を投げ出したかったのだが、鍵をあけるのにもたついているところで足下にT川君が絡みついた。僕は不摂生が祟ってちっとも体に力が入らず、彼を振り払うことが出来ない。離してくれとわめいても、T川君は聞こうとはしない。

 そうしてもみ合っていると、いつのまにかタミさんがやって来ていた。前もってタミさんの家に訪ねる連絡などをしていたわけだから、彼がそのことを言って弁護してくれることを期待していたのだが、何も言わずに突っ立っている。そして悲しげに僕を見ている。

 彼も、真赤に何か吹き込まれたのだろうか? そして、真赤と同じように僕を言葉の通じぬ獣のような状態だと思っているのだろうか? いや、フラれたあとの僕の取り乱した態度を見て、もうこいつは気が狂ってしまったと、彼自身がそう見放したのかもしれない。

 T川君が何か僕に言っている。耳がつんとしてしまって聞き取れないが、どうせ、真赤の味方をしているのだろう。誰かが「T川君は真赤のことが好きだ」って言っていたけれど、実際そういうことなんだろうな。それでおめおめとこんなところにやって来て、走狗となり下がっているんだ。

 もうここには誰も味方はいない。そして、弟たちにも全て知られてしまった。そう思うと、頭の中でブツリと何かが切れたような気がした。

「ぶっ殺してやる」

 僕はそう言って床に落ちていたハサミを拾うが、それはすぐにT川君にもぎとられる。彼が素早いというよりも、僕がお話にならぬくらいに遅かったのだろう。T川君が床に落としたハサミは、真赤が素早く回収した。

 そして、この行動がT川君を怒らせてしまったらしい。それまではどこか控えめであった彼はにわかに積極的になり、彼の方から僕に飛びかかってきて、そして馬乗りになる。格闘技で言うマウントポジションというやつだ。

 そういえば彼は、格闘技中継を視聴するのが好きなのであったなあと、僕はぼんやり思い出す。今、自分が見た格闘家の動きを思い出しながら、実践しているのだろうか。やっぱりそれは、マニアとしては嬉しいのだろうか。

 その姿勢のまま彼が殴ろうとして来るので、僕は足を使ってそれを邪魔しようとしたのだけれど、今度はタミさんがそれにしがみつくので、守れない。T川君が固く握りしめた拳が僕の頬のあたりに直撃した。

 下半身をタミさんががっちりと抱え込むように押さえ込み、上半身にはT川君が馬乗りになって、膝でもって僕の両腕をうまく制御している。大人二人にこんな形で組み付かれては、何をどう逆らっても無駄である。僕はまるきり身を守ることが出来ず、上から振り下ろすT川君の拳をひたすら顔面で受け止め続けるだけだ。T川君は完全に逆上してしまって、無防備な相手に加えるにしては、ちょっと大げさすぎるほど真剣に僕を殴っている。

 このままでは殺されてしまいそうだ。せめて足が使えたら。しかし、タミさんは僕がこんなに手ひどく殴られているのに、あいかわらず僕の足をしっかりと押さえ込んでいる。T川君に、真赤に、加勢している。

 嗚呼、何ということだろう! 僕は今までどんな時だって、仮に、真赤と同じベッドに寝ていた時だって、タミさんを信じて味方をして来たのに。少しも責めようとは思わなかったのに。僕の味方をしろだなんてちっとも思ってはいないから、せめて、中立の立場でいてくれたっていいだろうよ。

 全身の力を抜いて抵抗をやめることで降伏のしるしにしようと思ったのだが、ふと見ると、必死の形相をするタミさんとT川君の後ろで、真赤が笑っているのが見えた。クスクスと、心底おかしそうに。

 そりゃあ楽しかろうさ。自分の指図で、大の大人達が思い通りに殴り合っている。僕はその笑顔で降参を取りやめた。動けなくなるまで無駄なあがきを続けて、前歯が欠けるまでT川君に殴られた。

 全ての体力を使い果たし、動こうにも動けない状態になった僕は、布テープで全身をぐるぐるに巻かれて、フローリングの上に転がされた。部屋の端にある鏡に、芋虫のような自分の姿が映っている。これではまるでグレーゴル・ザムザ。ある朝虫に変身した彼はその醜い姿によって家族から見放されたが、僕も元恋人や元友人達に話の通じぬ異常者として見下されている。

 やがて弟達がやって来た。どちらか一人で来るのかと思っていたが、次男と三男の二人が揃っていた。彼らが兄のこの無様な姿をどのような面持ちで見たのか、僕は目をそらしたのでわからない。ただ、この部屋の、このメンバーに自分の肉親が混ざっていることに堪え難い違和感を覚えた。

 二人が乗って来た車に乗り込んで、家に向かう。もう二度と戻らないと決意した場所に、こうも早く引き戻されるはめになった僕は滑稽だった。タミさんも同じ車に乗って、付き添ってくれた。T川君と真赤がどうしたのかは知らない。

 既に日が落ちている。真赤の家に着いた時、まだ太陽が高かったのを思うとあまりにも早い日没に思える。そんなに長く滞在した実感はないのだ。しかし、はるばる遠くから車でやって来た弟たちが到着したことを考えると、正しい時間が過ぎているのだろう。

 僕は後部座席で、ドアに寄りかかるようにして座っていた。奥まで詰めたティッシュにせき止められた鼻血が逆流し、喉を伝って胃まで落ちてゆく。顔や体のあちこちに、ジンジンと火照ったような感覚はあったが、分泌された脳内物質が痛みの表面を覆ってしまったのか、刺激の大部分を隠している。

 途中、夕食をとろうということになってハンバーグショップに立ち寄った。店内はガラガラにすいていて、広いホールに客は僕たちだけだった。

 そこで僕はハンバーグセットを頼んだが、口がうまく動かなくて食べにくい。そしてどうにか咀嚼してみても、何の味もしない。風邪などひいていないはずなのに、突然味覚異常になるなんてことがあるのだろうか。最初から味のないハンバーグなんじゃないか? だから、こんなに客入りが悪いのだ。

 確かめてみたかったが、弟達やタミさんは普通の顔をして喰っている。彼らには特別奇妙な料理ではないということだろうか。ここで味がしないなどと言ったら、またおかしなやつだと思われそうなので、黙って食べた。

 兄がこんな無様な姿をさらしているのを見た弟たちが気の毒で、僕の方からはなにも言えない。すると三男の方から、一体どういう流れでこのようなことになったのかと尋ねて来る。今日直接口をきいたのは、これが初めてだった。かいつまんで説明をすると、それは彼が真赤の口から聞いたものとは大分異なっていたようで、

「話が違うじゃねえか。あの女ふざけやがって! 今から戻ってぶっ殺そう」

 弟は椅子から立ち上がりかける。

 自分のために弟がそんな風に怒ってくれるのを意外に思いながら、彼をなだめた。


 必死で意識を別のことにそらしていても、二十四時間気を張り詰めることは出来ない。

 間隙を縫うかのように、殴られ床に転がる僕を笑う真赤の顔が浮かんで来る。タミさんがT川君が見下ろしている情景が浮かんで来る。そして一度浮かぶと、そこに居座って去ろうとしない。

 みんな、僕を見るな。あざ笑うな。軽蔑をするな。どこか穴の中へでも隠れて、全ての視線から、他人の僕への感情から、逃げてしまいたい。

 押し入れの中に布団を持ち込んで眠ってみても精神に他人の視線がからみつくのを感じる。見られているのは肉体ではなく精神なのだ。僕はあの部屋で真赤によって心の根っこの部分を引きずり出され、皮を剥かれ、どくどくと脈打つ血管も、触れられたならば死に至る心臓も乱暴に暴かれ、嘲笑された。それは決して人に見せてはいけない部分なのに。

 金を借りるとか、嘘をつくとか、そういったありきたりな恥辱とは決定的に違う、もっと致命的で人に触れられたくない部分だ。真赤にはかつて見せたこともあったが、それは信用していたからだ。なのに、今はみんなが知っている。家族だって知っている。最も不名誉な形で目撃されてしまっている。こんな恥を晒して、どんな顔をして生きてゆけばいいのか。誰に対しても人間らしい顔をして接することなど出来やしない。今までは虚勢などを交えつつ、一線を守っていたのに。

 嗚呼、兄弟はどう思っているのだろう? かつて父親が家を滅茶苦茶にしたとき、僕はそれなりに着実に働いて、進んで建設的な活動をして、いくらかは株をあげたと思うのだが、長男としての立場を築いたつもりでいたのだが、もうこれで完全に台無しになった。タミさんやT川君はどう思っているのだろう? まだ、僕より真赤を信じているかもしれない。僕には味方はいない。僕自身でさえ擁護は不可能だ。こうなるともう笑うしかない。アハハハ! 母親が心配している。みな僕という人間を忘れてくれないだろうか。いなかった者としてくれないだろうか。

 秋頃に遊びに誘われて、出かけたくはなかったが、誰とも顔を合わせたくはなかったが、いやもう何だっていいやと逆に開き直り、またぞろ井の頭公園まで出かけていった。

 宇見戸やら、クサノやらとフリーマーケットを冷やかすという、まあいつも通りの会合なのだけれども、僕はそわそわして仕方がない。

 こいつらは僕のことをどう思ってるのか。素知らぬ顔をしているが、ネットの世界は狭いし、裏で噂されているに違いない。なのに、普通の顔で接しやがって。なんとか反撃をしたかったが、しかし僕にはそれらの思惑から身を守るすべがない。

 結果、やたらと笑ってばかりいることになる。そのみっともないヘラヘラはおやめなさいよ、と、自分で自分に言い聞かせようとしても、ままならない。いやんなってしまった。身の置き場がなくなってしまった。そして、そのまま池に飛び込んでしまった。なんという失態だろう。あいつは女にフラれておかしくなったと、わざわざ自分で宣伝をしてしまうとは。

 それ以来もう外には出ていない。メッセンジャーも起動をしない。そうしてネット日記だけを書き続け、そして気がつけば冬である。あっという間に冬である。驚くほどに何もしないままに季節が過ぎた。なのに失われた何かを取り返す光明は見えない。まともな人間の、ふりさえ出来ない。これは最早死ぬ他にはないと思った。死ぬべし。目的が出来ると、久しぶりに心が持ち上がったのがおかしい。

 死体が糞尿を漏らすのがいやだったので、まず、食事も水も口にしないで三日を過ごしてみた。空腹感はあったけれども、それより高揚感が上回る。暖房はつけない。部屋の空気は冷え切って清潔だ。悪くない雰囲気だ。さてどうやって死のうか? 酒を飲みながら考えていると、携帯電話が鳴る。

 相手はT川君であった。真赤のマンションで殴られはしたけれど、別に僕は嫌っていないし、いいやつだとは思っている。しかし、他の多くの知人と同じように音信不通だったのも事実だ。

 突然何の話かと思って電話を取ると、僕がサイトに自殺予告をして、それを読んで驚いてかけて来たのだと言う。

 えっ、そんな馬鹿な。あわててパソコンの電源を入れて確認をすると、確かに『電気サーカス』の一番上には「死にます。さようなら」と一行だけの日記があがっている。

 僕は動揺した。覚えてはいないが、薬に酔っ払っていい気になって、つい書いてしまったのだろう。なんと恥ずかしい。インターネット日記でもって全世界に自殺予告をしてしまうとは、メンタルヘルス系かまってちゃんサイトのアガリじゃないか。これでついに僕も満貫八千点。おめでとう、おめでとう。くらくらとめまいがするのに耐えつつ机の前を離れ、ベッドに倒れ込む。

 これは確かに人間としては情けない為し様ざまであるが、耐えることが難しい所業であるが、しかし、これはこれで正しかったのだ。何しろ僕はテキストサイト管理人なのだから、責任と矜持がある。どんなに無様なことであっても、あまさず自分の全てを文字にして公開する義務がある。だからもう、それはいい。憂うことはない。それよりも、こう宣言をしたからには最早後戻りは出来ないと、それだけを心得ろ。

 俄然やる気を取り戻した僕はやおら立ち上がって、パソコンデスクの後ろに回り込み、電源やら、マウスやら、繋がっている全てのケーブルを力任せに引き抜いた。そうしておいてからパソコン本体を抱え上げ、玄関まで運ぶと、三和土のコンクリートに叩きつける。僕の自作のそのパソコンは、乾いた音を立てて二回はねると、セックスピストルズのステッカーが貼られた蓋がはじけ飛ぶ。メンテナンスをしやすいように、普段からネジをつけずに使っていたからだ。もう一度持ち上げ、叩きつける。今度はフロントパネルが欠けたが、しかしフレームは元の形を保ったままで、もしかしたらこれではまだ動作してしまうかもしれない。念のため、流しに持って行き、ハードディスクドライブとCPUの辺りを蛇口から流れ落ちる水で濡らした。

 まだ物足りないような気もしたが、食事を摂取していない僕の肉体はカロリーが足りない。そこでもう息が上がってしまったので、それはそのまま流しに置いて部屋に戻る。

 そして具体的に死の方法を選びはじめると、それを邪魔するかのように次々と電話がかかってくる。いや、実際邪魔するつもりなのだろう。みな日記を見てかけているのだから。

 相手はネットで知り合った人間ばかりである。思えば意外と長いつき合いになるクサノ。そして新しく真赤の恋人となったヤマダさん。それから、なんで僕の携帯番号を知っているのかよくわからぬ、サイト管理人の人々。

 こう引き留められるとまるで人気者になったようで嬉しいが、実際にはただイベント的に盛り上がっているだけだ。そうした例は他人の事件で何度も見て来ている。誰かが自殺予告をしたり失態を演じると、どれだけ多くの人間が、心配面をしながらイベントの高揚感に浸ろうと接近するものか。とにかく、ニヤニヤしている場合ではない。何人かが僕の家に訪れようとしているらしい。お祭り会場が僕の部屋になる前に終わらせる必要がある。

 テキストサイト界の人間が発見者になるのなら、僕の死に様はおそらく日記のネタにされるだろう。それならば、少しは見栄えの良い死に方が必要だった。考えているうちに、体の反応が鈍りはじめる。アルコールと消耗のせいだ。このまま眠って、部屋で救出されてしまっては意味がない。僕は這いずるようにして玄関から外に出た。

 外は雨が降りしきっている。空気は冷たく、吐いた息がすぐに白くなる。

 これだけ寒ければ、弱った今の僕ならば眠っているうちに死ねる。凍死はそう悪くはない。僕は駆けつけた人々に発見されぬよう、隣の家の敷地に侵入し、その植え込みの陰になるように横たわった。体には、薄い毛布を一枚まきつけている。これが雨を吸えば、良い塩梅で体を冷やしてくれる筈だ。

 そうして僕は眠りについたのだが、死ぬことは出来なかった。僕は病院で目が覚めると医者にこっぴどく叱られ、家に帰される。すると、部屋には「昔のミズさんに戻って」というT川君の書き置きと、彼のプレゼントらしい筋肉少女帯のシングルCD、『香菜、頭をよくしてあげよう』が置いてあった。


 体が快復するまで母親の近くで寝起きさせられた。

 十分な食事と睡眠を与えられ、そうして三日ほど安静にしていると歩き回れるようになったので、僕は久しぶりに自分の部屋に戻った。

 そこにはあいかわらず閉塞感が漂っている。依然として心中に燻るものはあったが、失敗してしまった以上は繰り返すつもりはなかった。こうなっては生きてゆく他ない。あの日毛布をかぶって部屋を出たときそのままとなっている部屋を片付け、そしてまとめたゴミを玄関に運ぶと、流しに放置されていたパソコンが目に入る。

 試しに繋いでスイッチを入れてみると、ビープ音と共に電源ユニットのファンが回り、ハードディスクドライブを読み取るカリカリという音がした。そして、モニターにはWINDOWS2000の起動画面が表示される。

 一時的な復旧かもしれないが、ともあれ僕はほっとため息をつく。パソコンなしの生活を考えるとぞっとする。これがなければ、僕は何をしたらいいのかわからない。もし完全に壊れていたら、もう新調する費用はないのだ。

 そして何気なくメーラーを立ち上げると、ものすごい勢いでメールを受信しはじめる。どこかの業者にスパムメールでも送りつけられたのかと思ったが、そうではない。それは、サイトの読者からのメールであった。

 その総数は二百通あまり。そのほとんどには、僕の自殺を引き留めるような文言が綴られている。『あなたが死んだら自殺者が出るよ』なんて、脅迫めいたものまである。予想外の反響に対して、僕は白々しいものを感じた。ネットの日記書きなぞに、よくこんな感情的な文章を書けるものだ。しかし、その一方で本当はもっと感動しなくてはいけないのだという罪悪感もあった。

 義務感に促され、古いものから読んでゆくと、その間にも新しいメールが次々と届く。そうか、僕は自分のサイトに言葉を放置したままだったのだ。書き換えるのを、忘れていた。

 すぐにメールの確認をやめてテキストエディタを立ち上げ、そして、こう書いた。

『僕はまだ死んでいません。死のうとしたのは事実ですが、サイトにアップした直後に友人などが家におしかけてきて、僕の母親をよび、救急車をよび、なにもできないまま注射などを打たれてしまいました。死ぬと書いておいて死ななかったのはまったく厚顔の至りというか、実に恥ずかしいことなんですが、僕はいきのびてしまいました。僕を止めてくれた多くのひとたちには感謝していますが、いまだ憂鬱感が消え去らないのも事実です。でもこれは僕が生きていくいじょう一生涯つきまとうものであろうと予感しています。とにかく、いまは僕は死んでいません。それだけは事実です。ご迷惑をかけてもうしわけありませんでした。』

 可能な限り正確に状況を報告しなくてはいけないのはわかっていたが、文章を書こうとすると、脳の内側がドロドロとしてうまく言葉が紡げない。

 いつもの倍以上の時間をかけて書き上げると、推敲どころか、読み直す気力さえ残っておらず、そのまま『電気サーカス』のトップページに上書きした。

 それから、届いたメール全てに目を通し、それが終わると、少し眠った。


三


 生きてゆくと決めたからには、働いて、食い扶持を稼がなくてはならない。

 年が明けると僕は切り替えきれない気持ちのまま就職活動を開始する。

 まずコンビニで入手した求人誌や、ネット上の応募広告を眺めて条件のあう仕事を探した。僕としては、やはりパソコンを扱うデスクワークが良いのだが、どうも以前よりもその類の募集が減っているように思われた。

 単純に一月という時期的な問題なのか、それとも一時のブームが去りつつあるのかは判別がつかないが、求人が減って競争率が上がっているのだとしたら、技術的には専門性のあるものを何も持っていない僕には難しい状況だと言える。飲食店やコンビニなどは相変わらず募集が多かったが、今更そういった一時しのぎのアルバイトをしたところで意味がない。社会と真面目に付き合って行くと決めた以上は、雇用形態はともかく、今後のキャリアになる職務内容でなければいけないのだ。

 とりあえず人材派遣会社にでも登録をしておこうと、電話で問い合わせると、簡易的なテストを受けるという運びとなった。

 当日、少し早めに家を出る。鉛色の空が重く、風が吹き、道行く人はみなマフラーや立てた襟で頬を隠すように歩いている。僕は十分に着込んだつもりだったが寒くてたまらない。アスファルトを早足で行くと、久しぶりに歩いたせいで膝が僅かに痛んだ。

 人材派遣会社は電車で十分ほど行った駅のすぐ近くのビルに入っている。エレベーターの照明が薄暗く、あまりいい雰囲気ではない。

 僕を対応したのは、しわ一つないスーツを身につけた若い男で、言葉遣いは丁寧であるものの愛想笑い一つせず、説明の仕方もあまりにも素っ気なく、早口で、全体としては失礼な印象だった。こうした会社では登録者に対してそうした態度をとるものなのか、この社員の教育がなっていないのか、ちょっとわからない。何にしろ、他人と折衝する役割の人間が無愛想であるか、逆に愛想が良すぎる企業というものはロクなものではないと、かつてサービスマンとして企業を訪問していた経験から、警戒心が働く。

 履歴書を渡したあとに通されたのは、駅のトイレの個室と大差がないような狭い部屋だった。一旦コートを脱いだが、部屋に暖房が効いている様子もなかったので、すぐに着直した。

 筆記試験を受けるのなど久しぶりだ。大学にいたときは、はなから単位など取れても取れなくてもいいようなつもりで臨んでいたから、試されるという意味を持ったテストとなれば、大学の入学試験まで遡ってしまうのかもしれない。

 大丈夫だろうか? 僕はただブランクがあるというだけでなく、薬物漬けのふざけた生活のせいで脳細胞が死滅してしまっている。まるで自信というものがない。若干身構えていたのだが、しかし配られたプリントに印刷された質問は、そう難しいものではなかった。

 これなら今の僕にも容易に回答出来るだろうと、安堵しながら鉛筆を手に取り、そしてまず名前を書こうとしたところで驚いた。

 指が震えて、文字がまっすぐに書けないのである。

 自覚している以上に凍えていて、指がかじかんでいるのだろうか? 鉛筆を置き、両手を揉み、指に吐息を吹きかけてから再び鉛筆を手に取る。震えは収まったようだが、やはりどこか指先の勝手が違った。

 まともな文字が書けない。僕はもとより文字が上手い方ではなかったが、その水準と比較しても、あまりにも拙い、まるで文字を覚えたての幼児が書いたような線しか引けないのだ。消して書いてを繰り返しても、同じように紙面に現れる歪な文字を眺めながら、ほとんど悪夢を見ているような気分だった。

 何度指先をほぐし、温めても、ちっとも文字は見られるようなものにならない。肉体が原因ではないということだ。まさか緊張しているのだろうか? 僕は今まで、どんな場所でどんな試験を受けても、少しも緊張などしたことがなかったというのに。

 最初の問題で躓いたまま何度も消したり書いたりを繰り返している僕に、担当の男は冷たい視線を向ける。最初の最初で何をやっているのだと、無能なやつが来やがったと、思っていそうな顔だ。嗚呼、答えなんかわかっているんだ! こんな程度の低いテストでいい気になりやがって。字が良くならなくとも、時間は刻一刻と迫っている。僕はそのあまりにも拙い文字のまま、回答欄を埋めた。

 時間ギリギリになんとか全ての問題を終わらせる。僕は、どっと疲れてしまった。正答率はそれほど悪くはないはずだが、文字を読み取って貰えるだろうか。読めたとしても、こんな稚拙な文字の人間を雇おうと思うものだろうか。

「じゃあ次は、こちらの部屋に来て下さい」

 休む間もないまま、別室に移動してタッチタイプの速度テストを受けさせられることとなる。与えられたのは古いWINDOWSマシンで、テスト用のアプリケーションソフトが起動していた。

 男が操作方法を説明してくれる。それによると、これは独自の変換方式を持ったソフトのようで、話からするとMS‐IMEに寄せた作りになっているようだ。普段ATOKを使っている僕には馴染みのない操作方法だが、全く使ったことがないわけではない。

 キータイプはそれなりに速い方だから、ここでなんとかさっきの失点を取り返したかった。好成績を収めれば、キーパンチャーの仕事にありつけるかもしれない。

 しかし、こちらもダメだった。やはり、指がまともに動かない。そしてそれ以上に、普段と違う変換方式に頭が対応出来ない。間違った操作をしては消すのを繰り返してばかりだった。

 どうしてしまったんだろう? これくらいの変化だったら、いつもその場で適応出来たじゃないか? そういった能力には、多少は自信があったんだ。なのに、どうしてこの程度のことが出来なくなっているんだ? 想像以上に僕の脳の機能は壊れてしまっているのだろうか? もう僕には、人並みに出来ることなどないのか?

 泥沼でもがくような気分のまま入力し、試験は終わった。結果は知らされないそうだが、散々だろう。


 案の定、いつまで経っても人材派遣会社からは紹介の話が来なかった。

 その間、僕も待ちぼうけているわけでなく、求人誌の情報を頼りに面接をいくつか受けてもみたが、話してみると募集と内容が違ったり、相手の方から断られたりで、いつまで経っても仕事を見つけることが出来ない。

 必ずしも求められているスキルの水準が僕の手に余るほど高度すぎるというわけでもなく、たとえば「OSのインストールが出来ますか?」というような、ごく初歩的な質問をされることもあったが、そうした企業にも落とされた。

 どこへ面接に行っても、スーツを着た若者が何人も並んでいるのを見かける。やはり、求人を眺めた時に予想した通り、この業界も、もはや以前のような売り手市場ではなく、人があぶれはじめているのだ。僕のような、あらゆる意味での半端者が入り込む隙間は多くはない。

 そうして二月も終わり、三月が近づく頃になっても僕は職を見つけることが出来ないでいた。そんなおり、タミさんの家でみんなで集まるという話に誘われ、久しぶりに遠くまで足をのばしたのである。

 中央線の朱色の車両を荻窪で降り、電話をするとすぐにタミさんが迎えに来てくれた。真赤の家での事件から時間が経って、つき合いは元通りに戻っている。駅のそばの定食屋で、僕はビールと子持ち鰈の煮付け定食、タミさんは秋刀魚の塩焼きがついた定食を食った。

 アパートは歩いて十分ほどの場所にある。手すりに触れると赤錆が付き、ドアを閉めてもすきま風が入るような古い建物だったが、広さは2DKほどあり、住み心地は悪くなさそうだった。

 その日は、オシノさんと、宇見戸と、カワキタというイラストサイトをやっている学生がやって来ることになっている。皆が集まるまでの間、二人で世間話をした。

 僕はこうして仕事も見つけられぬ状況だが、タミさんも経済的には逆境を強いられているらしい。

「まだ食っていけるけど、先のことを考えればフリーのプログラマーなんか、長くやるもんじゃない。技術はどんどん新しいものが出て来るし、年をとればいつか対応出来なくなる。組織のなかに居れば、管理職になって生き残れるんだろうけど、フリーは所詮使い捨てだよ」

 何か別の職業を模索しているそうだが、今のところ目処はつかないのだと言う。

 花園シャトーに引っ越したばかりの頃は、毎日のようにこうしてタミさんと二人で話していたが、真赤がやって来てからは機会が減り、今は住まいが離れてしまっているから面と向かって話すこと自体が減った。だからこうしていると、なんだか懐かしいような気がする。

 お互いの暗い近況報告が終わると、共通の知人の噂話となり、そのとき丁度時の人となっていたクサノの話となった。

 彼は、ふっつりと行方をくらませてしまったのである。

 他人との交流が少なくなっていた僕は、とんと情報に疎くなっていたのだけれども、それでも、あののっぺりとした顔の男は数ヶ月前に仕事を辞めてからは定職につこうとせず、恋人や友人達に金を借りて暮らしていたというのは人づてに聞いている。それが、突然連絡がつかなくなり、アパートからも姿を消してしまったというのだ。

「親しくしてるやつら何人かで電話をしたんだけど、一回出ただけで、その後は何度かけても繋がらないらしいよ」

 と、タミさんが言う。

「実家に帰ってるんじゃないの? 確か、あいつ地方の出身だったんじゃなかったっけ」

「それが、どうも実家にも帰ってないようなんだよ。両親もクサノがどこで暮らしてるのか知らなくて、クサノとつき合いがあった人間に尋ねるような有様らしい」

「そりゃ大変だな。でも、話からすると、この間井の頭公園で会った時も借金まみれだったってこと?」

「うん、そうなるね」

「ちっともそうは見えなかったけどな。どうしちゃったんだろうね。クサノって、そんな滅茶苦茶なことをするタイプじゃなかったのに」

「おかしくなっちゃったんだろうね」

「金を貸してた連中はどうしたの?」

「その時は怒ってたけど、今はもうなんともないんじゃないか」

「どうして?」

「親に全額払わせたからな。息子が失踪して困ってる、田舎の親に」

 タミさんは笑って、

「それはひどいな」

 僕も笑った。

「まだ誰もこないな。そうだ、水屋口さん、人を呼ぶ?」

「人って、誰を?」

「この間、ヒガシさんが女を連れてきたんだ。白人とのハーフっていう話だったんだけど、おれたちが想像するようなハーフとは違うんだよ」

「どう違うのさ」

「なんだかプロレスラーみたいなんだ。すごく積極的で、電話番号とか教わっちゃった。もしかしたら呼んだら今からでもここに来るかもしれないけど、どうする? 呼ぶ?」

「いや、いいよ。それは」

 僕が渋い顔をすると、

「そうだな。正直、おれも来られたら困る」

 タミさんはもう一度笑った。

 それから僕たちは、とある有名サイトを管理している男の悪口を言い、最近自殺が確認された女のサイト管理人の話をした。

 そうしているうちにやがて宇見戸がやって来て、そのすぐ後に、別のオフ会に参加していたオシノさんと、あとカワキタという、オシノさんと仲の良い人物が到着する。そして近くのコンビニで買ったものを飲食しつつ、益体のない話をあれこれとした。

 宇見戸は、『RM』で築いたテキストサイト界の人脈を使って、また別のタイプのイベントをはじめるつもりらしい。それは、これまでのようなオフ会じみたものではなく、もっと見世物として観客から金を取るようなものになるのだそうだ。どちらかと言えば、それが本来宇見戸がやりたがっていたイベントらしく、目をきらきらさせながら構想を語っている。

 オシノさんは、中央線沿いに一人暮らしをし、あろうことかオフィスレディになってしまったらしい。このいい加減な人間が、スーツを着て、清潔なビルのなかで働けるだなんて、どんなインチキを使ったのかと思えば、ネットの知人の紹介であるようだ。どうせすぐ辞めるだろうと、からかえば、仕事はしっかり果たしていると反感を示す。

 カワキタは学生であるから、その場にいる人間で、何の社会的役割も持たないのは僕だけだった。それを意識してしまうと、自分だけひとり低い場所に立っているような気分になって、なかなか自分から何かを話し出そうという気にもなれない。

 それから話題はあちこちに飛び、やがて真赤の話になった。

「増岡ってさ、なんだかやたらと花園シャトーの面々を毛嫌いしてないか? どうも、『あの花園の人たちは』みたいに括って、良くないことを言っているらしいよ」

 とタミさんが言うと、

「なんでなんかなあ。もうみんな一緒に住んでるわけでもないやん、そんなグループみたいなのを作って行動してるわけちゃうのに」

 オシノさんはため息をつく。

「やっぱり、よほど嫌な思い出だったのかなあ。冷静に考えてみりゃ、あんまりにも酷すぎる生活だったからね。若い女の子なら、思い出したくもないのが普通だろう」

 タミさんはそう言って笑った。

「あっ、そう言えばおれもこの間のオフ会で増岡に避けられたんだけど、あれも、みんなと同じファミリー扱いされてるってこと?」

 カワキタがそう口を挟むと、

「それは単に嫌われてるんじゃない?」

 宇見戸に真顔で指摘され、苦い顔をする。

「そう言えば、水屋口さんは真赤ちゃんと連絡とってへんの?」

 オシノさんがそう尋ねるのに、

「いや、全然とってないよ」

 首を横に振って返す。

「まあ、あいつは今もネットを楽しんでるみたいだし、それはそれでいいじゃない」

 タミさんは話に飽きつつあるのか、膝の上でギターをいじりはじめた。

 僕は真赤に対して思うところがないでもないが、今更ここで語るべき関係でもないし、そもそもどんな言葉で語ればいいのかがわからない。宇見戸やカワキタも、そんな僕に幾分かは配慮しているようだ。彼らはオフ会などで真赤と頻繁に会っているのだが、そこでの彼女の不品行の話などはしなかった。随分派手にやらかしていると、僕でさえ噂では聞いているのに。

 なんとなく沈黙が生まれてしまうと、

「真赤ちゃんは嘘をつく子やからなあ」

 オシノさんは、うつむきながらぽつりとそう言った。

「どうしたの? 急に」

 僕がそう訊ねると、

「あんね、うち、あの花園シャトーに行く前は、水屋口さんたちにいじめられてるって聞いてたん」

 そう言って、オシノさんは苦い顔をする。

「おれと水屋口さんが、真赤をいじめてるって?」

 タミさんはギターをいじる手をやめて、きょとんとした顔で訊ねる。

「うん、ひどい目にあわされてるって言ってた。だから、うち、最初はあの子を助ける気満々で引っ越したんやけど、実際行ってみたら全然違って、むしろ真赤ちゃんに皆が振り回されてる感じやん? 男のなかに女一人で、お姫様みたいな感じで。だから、びっくりしてしまって……」

 オシノさんは肩をすくめる。

 その言葉で僕は、彼女が花園シャトーに来た最初の夜、包丁で手首を擦りながら泣いていたのを思い出した。

 あのときオシノさんは、真赤に煙草のことで陰口を言われたのにショックを受けたと僕らに説明していたが、今の話が事実ならば、それだけが理由ではなかったのかもしれない。聞いていた状況と、現実が違いすぎたというのもあったのだろう。

 それからもう一つ、京都旅行の際に、僕と一緒に会いに行くことをギリギリまでオシノさんに伝えなかった件も思い出した。いつもの真赤のしくじりかと思っていたが、そんな嘘をついていたのだとすれば、いくらかは筋が通る。自分をいじめている張本人と、二人で旅行に出るというのは不自然な話だろう。

 しかし、いくらなんでもそんな嘘をつくものなのだろうか? いや、最初から真赤のそうした性格については許容していたわけだから、それを怒るつもりもなければ、そこまで驚きもしないし、オシノさんを信じないわけでもないのだけれど、すぐにばれる嘘をついたというのが不思議だったのである。

 そうして再び生まれた沈黙のなか、オシノさんは真赤の実家に行った時のことを話し出す。

 真赤はよく両親に虐待を受けているようなことをほのめかしていたが、オシノさんにも同様の話を伝えており、たとえば「部屋に閉じ込められて出してもらえない」というような話も聞いていたらしい。しかし、実際にその実家を訪ねてみると、たとえば鍵をかけて人を閉じ込める設備はなく、至って平凡な住宅だったのだそうだ。

 父親や母親も、想像していたよりもずっとまともで、真赤と会話をしているところを見ても、事前に聞いていたような特殊な関係は想像出来なかったらしい。

「そのことは、前もちょっと言ってたね」

 僕が言うと、

「うん」

 オシノさんはため息をつき、

「……もっとちゃんとあの子と話したかったなあ。最後は、すごく嫌われてしまったし……」

 繰り返し、真赤と完全に打ち解けることが出来なかったことを嘆いていた。

「どうしてそんなに嫌ってたんだろう。オシノちゃんは、何にも悪いことしてなかったよね? むしろ話だけ聞いてると、すごく大事にしてたみたいなのに」

 カワキタが不思議そうに言う。

「オシノさんに対してコンプレックスがあったんだよ。増岡は、全然家事とか出来なかったじゃん。でも、オシノさんはそういうの得意だから、気にしてたんだろう」

 タミさんが言うと、

「そんなん、全然気にすることちゃうのに」

 オシノさんは肩をすくめて、

「何も出来ひんかった。もっと何かしてあげられたような気がする」

「まあ仕方ないよ。あいつが自分で選んだんだから」

 タミさんが珍しくとりなしたが、オシノさんは割り切れない様子だった。

「いつやったか、真赤ちゃんが薬を飲んでぐったりしててね。なんか暴れたか、泣き喚いたか、病気か、そういう時だった。心配して近づくと、あの子、うちのことを見て『オシノさんは本当に綺麗な顔してるなあ』なんて言うんよ? ねえ、あんな綺麗な子やのに、うちなんかのことを見てそう言うの。うち、あれがどうしても忘れられへん」

 そしてオシノさんは沈黙する。

「まあ、なんというか、色々あったね」

 タミさんは苦笑して、再びギターをつま弾き始める。

「とりあえず、ここまで誰も死ななくて良かったよ。増岡だけでなく、みんな滅茶苦茶だったし」

 僕もそう言って、肩をすくめた。

「それはそうだね。最初に来た時の増岡なんか、酷かったもんなあ」

 そんな風に笑い合っていると、オシノさんはしかめっ面をして、

「ねえ変ちゃう? さっきから水屋口さんも、畳沢さんも、真赤ちゃんのこと、なんで増岡ってハンドルネームで呼ぶん? 前はそんな呼び方しいひんかったやろ?」

 と、抗議するように言った。


 そして夜が更け、明け方になるころ、みなは眠りについた。

 余分な寝具があるはずもなく、みな床の上に雑魚寝となり、自分の上着を体にかけている。真冬とかわらない気温であったけれども、暖房設備は小さなガスファンヒーターが一つあるだけで、最大風量にしても部屋を温めるには到底足りず、寒かった。

 僕は堅いカーペットの上で何度も寝返りをうち、ほんの少しは眠れたようだったが、しかしすぐに目を覚ます。夜はもう明けており、部屋には窓から白い光が差し込んでいた。みなはすやすやと寝息を立てている。よくこんな環境でこうも眠れるものだ。僕は一時のように眠れないということはなくなっていたが、それでもこれでは熟睡は出来ない。

 眠りについたのは夜が明ける少し前だったから、みなが目覚めて活動をはじめるのは昼過ぎになるだろう。それまで一人で物音も立てずに待つのはつらい。僕は二度寝を試みたがどうしても寝付けず、煙草を買いに出ようとして、そこで財布がなくなっているのに気がついた。

 黒いコートのポケットにも、穿き古したデニムのポケットにも、コンセントを借りて充電している携帯電話のそばにも見あたらない。最後に見たのは、深夜に近くのコンビニエンスストアーに買い物に行った時だ。あの道中で紛失したのだとすれば今すぐにでも外へ出て探さなくてはならないが、そのためにはまず部屋の中に確実に存在しないことを確認する必要がある。

 みなを起こさぬよう物音に気を遣いながら探したが、どうしても見つからなかった。やはり外で落としてしまったのだろうか? 深夜でも人通りがあるこの街の路上に、無防備に落としてしまったのだろうか?

 その可能性を考えると、首筋のあたりが冷たくなった。中身は諦めがつくにしろ、財布の方は取り返しがつかない。

 焦って捜索を続けていると、物音でオシノさんを起こしてしまった。寝ぼけた目を薄く開き、こちらを見ている。

「オシノさん、財布がないんだ。真赤にもらった財布が、どこかにいっちゃった」

 オシノさんがその行方を知っているはずもなく、口にしても仕方がないことを、僕は言わずにはいられなかった。相当に動揺をしているのだと自覚したが、どうにもならない。

「ねえ、どこにあるか知らないかな? 確か、コンビニに行った時はあった筈なんだけれど……」

 聞いても意味がないのはわかっていたが、オシノさんだったら、僕が動揺している心情を理解してくれるような気がしたのだ。

 オシノさんはただ寝ぼけていただけらしく、僕をぼんやりと見つめると、そのまま何も言わず目蓋を閉ざした。

 その後、僕はトイレの床に落ちている財布を無事発見した。安堵のため息をついた後、部屋に戻って来てオシノさんにそれを報告してみたが、彼女はもう完全に眠りに落ちてしまって、何の反応も示さなかった。


「いやあ久しぶり、元気だったかい? 顔色が悪いじゃないか。ちゃんと食べなきゃ駄目だろ。あっはっは。私なんか、この年でも毎日食欲があって、何でも腹一杯食べられるぞ」

 久しぶりに会った柾木さんは、相変わらず快活で陽気であり、昔に僕が不義理をして辞めたことなどまるで忘れてしまっているかのようなわだかまりのない態度であったものだから、こちらの方が面食らってしまう。

「またうちで働いてくれる気になったって話だけれど、もう大丈夫なのか? 健康の方は?」

「はい」

 と僕は頷く。

「あの時は、申し訳ありませんでした」

 場所は渋谷の中華料理店だった。奇しくも、最後に柾木さんと会ったその場所である。あの時僕は、仕事を辞めたいと相談をしたのだっけ。

 あれから一年以上が経ち、僕は全く逆の目的でここに柾木さんと相対している。もう一度働かせてほしいと、僕の方から持ちかけたのだった。

 いくら就職活動をしても採用されないというのは、単に面倒だという以上に屈辱だった。

 お前は社会に必要とされていない。一銭の価値もない。面接で落とされるたびにそう言われているようで、腹が立って仕方がなかった。僕は、私生活はともかく、こと仕事においてはまだいくらか自尊心が残っている。

 僕だって、その気になりさえすれば、人並みの収入など、それなりに簡単に確保出来るのだ。まずはともあれそれを証明して自尊心の足しにしなければ、これ以上やっていかれない。前向きに生きていかれない。この最後のちっぽけな自尊心さえなくしてしまったならば、あとはもうひたすら暗い穴蔵のなかに閉じこもって暮らすしかなくなってしまう。

 一度辞めた場所におめおめと舞い戻るのは情けない話だったが、そこは割り切ってしまえばいい。もはや僕には守るべきメンツというものもない。以前のように、給料が高すぎるのがいやでいやで仕方がないと、正気とは思えぬ理由を口にしたのは完全に過去の話だ。

 そう開き直ってしまえば、柾木さんに久方ぶりの電話をかけるというのも、実に気楽な仕事だった。

「急に連絡して来たから驚いたよ。普通、逃げたら帰っては来ないものだからねえ。どういう心境の変化があったんだ?」

 柾木さんは運ばれて来た料理に口をつけながら言った。僕は、待ってましたとばかりに口を開く。

「僕の亡くなった祖父は商売人だったんです。元々は、田舎の大家族の下の方の弟で、ろくに学校も出ないまま丁稚奉公で東京に来た人なんですけれどもね、それなりに商売を成功させて、最終的には都内にいくつも土地を持つような身分になりました。医者が住むようなマンションだって持ってるんですよ。このあいだ、新年の挨拶で僕もそこに顔を出したんですけれどね、その巨大なマンションを見上げながら、自分も同じことがしてみたいと、せっかくだから挑戦してみたいと、そう思ったんです。相続権的には一円も貰えない関係ですが、一代でこれだけのものを築き上げたその血を引いているのに、このまま無職じゃいけない。くだらないこだわりを捨てて、ちゃんと働こうと思ったんです」

 全くの嘘でもないが、事実とも言えない。とにかく、安易に金を稼ぎたいという肝心な部分には極力触れずに、そのうろんな誰のものともつかぬ心情をべらべらと語ると、

「そうか、それはいいじゃないか。やっぱり若者は夢がないといかん」

 柾木さんは真に受けてくれたのか、聞き流しているのか、判別のつかないいつもと同じ笑顔でそう頷いた。

「そういうことなら、協力させてもらおうじゃないか」

「ありがとうございます」

「それで、昨日連絡を貰ってから、さっそくどこで働いてもらうか考えたんだけれどね」

 やはり柾木さんは以前とかわらず話が早かった。

「前の職場で、もう一度働いてみたらどうかと思うんだがね」

「えっ、また、プリンターやらパソコンやらを直すんですか?」

「ああ。どうしても足が向かないと言うのなら他の場所も紹介出来るが、せっかく身につけたスキルなんだから活用した方がいい。条件は……そうだな、私はきみが辞めると言った時に、給料を上げると約束したろう? その上げた額でどうだ?」

 予想外の提案であったが、僕に断る理由などあるだろうか。その時僕は、ほとんど逡巡を見せなかった。

「わかりました。それでよろしくお願いします」

 そうして僕は、翌日、早速会社へと向かったのであった。

 通勤のピークタイムを過ぎた電車の中は閑散としている。ゆったりとした姿勢で座席に腰掛けると、差し込む太陽の光が後頭部と肩を温めた。

 高いビルが建ち並ぶ間に敷かれた線路を、電車は縫うように走って行く。家で調べた通りならば、目的の駅につくまで一時間と十分。以前花園シャトーから通っていた時は三十分も掛からなかったのを思うと随分と遠くなったものだ。

 これから毎日、この時間を通勤のためだけに使うのだと考えると気が重い。しかし、この仕事で得られる収入と、他の平均的な職場のそれとの差を考えれば、充分に採算はとれている。そう考えて自分の感情を押しつぶす。

 こんな自己操縦はいやだなあ。どうも、金によって人間本来の自由性を飼い慣らそうという不潔な試みであると感じてしまう。しかしそれが、僕に欠けていたものなのだろう。結局のところ、自由は何も生まなかった。

 そして目的の駅に到着した。僕が乗っていた電車はそのまま線路を走って、いずれはあの懐かしい街も通過するのだろう。花園シャトーがあった、みんなで住んでいた街を走ってゆくのだろう。

 およそ二年ぶりとなるその駅の構内の様子は、僕が毎日通勤していたころと何も変わらない。エスカレーターを使い、売店の前を通ると、当時の感情が鮮明に蘇る。あの頃僕はガヤガヤとした部屋で真赤と暮らし、朝から晩まで脳に薬を効かせ、生活と労働とで疲労困憊した毎日を送っていた。そして、常にドロドロとして熱い何かを感じながらこの改札を行き来していた。それに比べていまの僕の心境は、とても静かで平和だ。あの頃と比べて良くなったものなど何一つあるわけでもないのに。

 隔世の感を覚えつつ僕は改札を通り抜け、階段を上り、懐かしいビルの前に立つ。そして、いつかやったようにビルのガラスで髪型とネクタイを整えると、これから自分はあのオフィスに舞い戻るのだという実感が否応なく押し寄せて、俄に緊張してきた。

 一方的な告知で職場を去ったこの僕が、すんなり受け入れられると考えるのは虫が良すぎる。当時の同僚は、無責任なやつだと、快くは思っていないはずだ。面倒くさいが、それらは全て僕の自業自得なのだから仕方がない。まずは、そういった逆風を全て受け止めきったところから、再出発をしなくては。かえって責任が取れて良かったじゃないか。ずっと、気にしてはいたんだ。

 そうやって、しばらく頑張れば、きっと以前のような信頼を取り戻すことが出来るだろう。そうしたら、また以前のように、彼らの月給よりも遥かに多額の給金を受けとるのだ。それまでは、意欲を鉄のように固めて精神の表面を覆わなくてはならない。

「よし」

 小さく呟いて気合いを入れると、僕はロビーへ足を踏み入れた。

 エレベーターを会社の階で降りる。社員達は外に出払っている時間で、フロアはひっそりとしていた。左手の奥にある喫煙所をふと覗いてみても誰もいない。かわりに、性能のよさげな空気清浄機が静かに作動しているだけだった。前に僕がいた時はなかった。新調したのだろう。

 懐かしい社名のプレートが貼り付けてあるドアを開け、事務所に入る。以前と変わらぬレイアウトで長机が並べられており、右手の方では二人の社員がA4モノクロレーザープリンターを前に格闘している。

 上着を脱いでワイシャツ姿になり、袖を肘まで捲り、カバーの外れたプリンターを、それ以上分解するのは手順に不安があるのか、あちこちからのぞき込んでいる。二人とも僕よりもだいぶ年上に見えたが、あの機械のあの段階で苦戦しているということは、まだ入社したばかりなのだろう。

 そして正面には管理職の席があった。以前はいつもマトバさんが座っていたその席には別の人物が座っている。あれは確か、上野拠点のアライさんだったと思う。僕も研修時に何度か上野拠点に出勤したが、その時にお世話になった覚えがある。この会社に入るまではプロを目指してバンド活動に精を出していたという妙な経歴の人で、音楽の話で盛り上がった。

 彼は丁度電話を受けている最中だった。相手は、客先に派遣されたサービスマンからのヘルプの電話だろうか? 技術的な指示を出している。そして、目の前に来た僕に気がつくと、片手で拝むような格好をして、待って欲しいというジェスチャーをする。

「やあ、久しぶり。待ってたよ」

 電話が終わると、アライさんは気さくな調子でそう言った。

「久しぶりです。今はアライさんがこれやってるんですね」

「そうなんだよ。マトバさんが新しく出来た事務所に行っちゃったからね。ついこの間からおれがここを任されているんだ。とにかく急がしくってさ、水屋口君が戻って来るって聞いて嬉しかったよ。頼むぜ」

 アライさんは僕の肘の辺りを小突き、笑ってみせると、また受話器を手に取った。

「部長にきみが来たって伝えよう」

「えっ、部長にですか」

「そうだよ。まあ、緊張するなよ。大丈夫だから」

 僕が思わず問い返したのには、理由がある。

 一番最初、柾木さんと共に面接を受けたときの担当官こそが、今話に出ている部長なのだ。彼はその長身と、威厳のある雰囲気、そして時折見せる激しい性分から、この事務所でももっとも恐れられている人物であった。

 理屈なく怒ったりはしないが、理由があれば猛烈に怒って、叱責された社員が涙ぐむほどだ。怖い人なのである。僕らは影でひそひそと、あれは元々カタギではないのでは、という話を真顔でしたこともあった。

 以前半分失踪の様な辞め方をした僕も、やはりそのことで怒鳴られるだろう。いや、あの部長のことだ、場合によっては鉄拳制裁もありえる。まあ、一発くらいなら、殴られても仕方がないか。こう見ても元々僕はスポーツマンだし、顧問に殴られた経験もある。あんなものはね、実際は、それほどのこともないんだ。

 自分を鼓舞しながら待っていると、すぐに部長が部屋に入ってくる。彼は目つきの鋭い人物で、無愛想な顔で僕の方を見た。

「おう、水屋口か」

「はい。また、よろしくお願いします。以前は申し訳ありませんでした」

 頭を下げると、

「そうか、またよろしく頼むぞ」

 部長は思いの外優しげな態度で右手を差し出したので、それを握る。

「お前は確かミタと同じ頃に入ったんだったよな」

「はい」

「あいつは大分成長して、今やここのエースとして車でバリバリまわってる。昔はお前の方が上だったろうが、同じつもりでいるなよ」

「わかっています」

 思ったような叱責がなかったことに、内心で安堵のため息をつくと、部長はニヤリと笑って、

「お前、ぶっとばされるんじゃないかって思ってただろ? 今回は許す。でも、二度はないからな」

 僕の肩をぽんと叩いてから部屋を出て行った。

 それから僕は、アライさんによって、先ほどの新入社員たちを紹介される。片方は背が高く、片方は少し太った、僕より年上の新入社員たちは、驚いたことに僕の名前を知っていた。僕が入ったばかりのころに人柱として送り込まれた先で大型インクジェットプリンターを偶然直してしまったことなどを、先輩から聞いたのだと語る。

「だから、どんな人かと思っていたんですよ」

 太った方の新入社員が、真鍮のような色で輝く腕時計をはめた手で、自分の顔を撫でながらそう笑った。

 それが終わるとその日の用はなくなったのだが、アライさんがミタ君と会えと言うので、それを待つことにした。

 その間、倉庫管理のおじさんに二年ぶりの挨拶をし、バイク便の人に新しい携帯番号を教え、そして事務所の棚を見て、明日から使うために持ち主のなさそうな工具を集めていると、見覚えのあるカバンを見つけた。

 それは、僕が二年前に置いていった工具カバンで、当時はまだ新しかったものが、使い古され、あちこちがすり切れている。

「あっ、水屋口さんじゃないですか」

 手に取って懐かしんでいると、ミタ君が帰ってきた。彼は久しぶりに見ても目の覚めるような美男子で、僕の姿を見つけると嬉しそうに微笑む。

「すぐ書類を片付けますんで、煙草でも吸いながら待っててくれませんか?」

 彼の言葉に僕は頷きを返すと、言われた通り喫煙所で彼を待った。

 ポケットに入れたロングピースのソフトケースがしわくちゃになっている。折ってしまわないように慎重な指先で最後の一本を取り出し、伸ばし、咥え、そして火をつけた。ピース特有の甘い香りのする煙を肺に吸い込むと、成分が脳に効くのを感じる。最近は煙草も節約しているので、たまに吸うと効き過ぎてしまう。

 吸いながら、中学生の時に見せられた、喫煙者の肺の解剖写真を思い出す。まるでヘドロにひたしたバスケットボールのように、ざらざらしたオレンジ色の肺に、黒く不潔に汚れたタールがこびりついていた。僕の肺もああなっているのだろうか。

 その空気清浄機は、灰皿も一体化したテーブル型のもので、吸いさしの煙草をその灰皿の部分に置いてみると、立ち上った副流煙を勢いよく吸い込んだ。その吸い込む様子を何気なく眺めていると、ミタ君が大股でやって来る。

「お久しぶりです。相変わらず痩せてるみたいですけど、お元気ですか?」

「うん、まあまあ。ミタ君は?」

「おれは体が丈夫ですからね。あ、ライター借りていいですか?」

 頷きを返すと、彼は清浄器の上に置いていた僕の百円ライターに手を伸ばし、マイルドセブンに火をつけた。

「いまはここのエースになったって部長から聞いたよ。凄いものだねえ」

「そんな、大したものじゃないですよ」

 ミタ君は照れ隠しに笑うと、

「聞いたかも知れませんけれど、新しい拠点を立ち上げて、ベテランの人たちがごそっと異動したんですよ。それで運転出来るのがおれくらいになったから、自然と大物を任されるようになって。……でも、車でまわるのは本当に楽ですよ。おかげで、少し太っちゃいました」

 彼はそう言って、傍目にはちっとも変化のない自分の腹を叩く。

「人手不足だって、アライさんも言ってたよ」

「そうなんです。新人もなかなか定着しないんです。でも水屋口さんが戻ってくれたなら安心ですね」

「大したことは出来ないよ。レーザープリンターしか扱えないし」

「水屋口さんならすぐに覚えますよ。そんなに難しくないですし。そしたら、すぐにおれのこと追い抜かしますよ」

「それはかいかぶりすぎだよ」

 僕は肩をすくめて、

「でも、そんなに人がいなくなっちゃったのか。キサラギさんとかももういないの?」

「はい。コダマさんも異動しましたよ」

「モトヤマさんは?」

「水屋口さんの少し後に辞めました」

「アラガキさんは?」

「います。ヤオイタさんも居ます」

「そうなんだ。確かに大分かわったな」

「まあ、また会えますよ。そうだ、真赤ちゃんは元気ですか?」

「どうだろう。もう連絡もとってない」

「えっ! そうなんですか。残念だなあ」

 ミタ君は眉をひそめて、

「じゃあ、今は彼女いないってことですか?」

「うん。ミタ君は彼女いるの?」

「ええ、まあ。……でも、それなら、水屋口さん、休みの日は時間あります? あるなら、フットサルやりましょうよ。結構前からみんなで集まってやってるんです。楽しいですよ」

「ああ、あの話、結局実現したんだ」

 僕は言って、吸い終わった煙草を灰皿の上で潰し、そのまま吸い殻入れに落とした。

「いつから働くんですか?」

「明後日からという話になってるよ」

「なるほど。きっとブランクもあるし、最初は誰かと二人でまわるんでしょうね。それできっと、車を使ってるおれと組むんですよ。そうしたら、また昔みたいに二人で一緒に仕事出来るじゃないですか。懐かしくないですか?」

「そうだね」

「おれ、ドットプリンターとか、インクジェットプリンターとか、一応一通り出来るようになったんですよ。だから教えてあげますね。おれが水屋口さんに機械のこと教えるなんて、なんだかおかしいですけれど。……でも、本当に戻ってくれて良かったなあ」

 その後昼食に誘ってくれたのを断って、僕は帰りの電車に乗った。

 来た時同様車両のなかは閑散としており、揺れるたびに、全ての吊り革が一糸乱れぬラインダンスを踊る。僕はそれを見るともなしに見ていた。

 胸のなかがざわざわとして、収まる気配を見せない。

 どうして皆あんなにも優しかったのだろう? いくら時間をおいたとは言え、みな以前の僕の辞め方は知っている筈だ。それどころか、僕がいない間に入った人間にまでその噂を伝えている。あの厳しい部長だって、本気で怒るようなそぶりは一つも見せなかった。

 てっきり、何かしら責任をとらされると思っていたのに。彼らの敵意を覚悟していたのに。そもそも僕なんぞは、ただ、高い給金だけを目当てにし、ここへ舞い戻って来たのだ。あんな風に受け入れられてしまってはいけない。

 僕は全く彼らを信用してはいなかった。もうずっと僕は、社会のどこへ行っても不必要の烙印ばかりを押され、頭から無能者という扱いを受け、受け入れてくれる場所などどこにもなかったのだ。それが当たり前だと、すっかり慣らされていた。

 本当に、どうして彼らはあんな平和な態度で、この僕を迎えたのだろう? あそこでは働けない。働く資格がない。

 いまさっき与えられたばかりの皆の温かい態度と期待を思い出すと、涙がぼろぼろとこぼれて止まらなかった。

 それから一ヶ月ほど勤めたが、やはり誰も彼も僕に優しかった。職場は明るく楽しかった。僕は心が痛んだ。そして、そこに馴染むことが出来なかった。ここは、自分がいるような場所ではない。その資格がない。もっと非人間的な場所が似合っている。

 アライさんに相談すると引き留められたが、僕にはもうそれに応じる気はない。頑として固辞し、すぐに柾木さんにも電話をかけた。

 やはりここでは働くことは出来ないという旨を伝えると彼も驚き、理由を聞きだそうとしたが、僕はそれを口にすることは出来なかった。すると彼は、気にいらないのなら別の職場を用意してくれると提案してくれた。僕はそれも断った。

 柾木さんは理由を聞きたがったが、僕は言えなかった。素直に気持ちを語ったら柾木さんは理解してくれただろうか。してくれなかっただろうか。そもそもこんな感情を理解してくれる人間なんかいるのだろうか。自分でさえも理解が出来ない。

 そして僕は、再び就職活動をはじめたのだが、もう自分が何を探しているのかわからなくなっていた。毎日やたらと眠く、ほとんど考えることが出来なくなって、面接のない日はひたすら布団のなかで時間を過ごす。

 何度か柾木さんから電話があったけれども、僕は出なかった。

 しばらく経ったある日、母親が僕に一通の封書を手渡した。それは、柾木さんからの手紙であった。

 事務用の白い封筒に、彼の直筆で僕の名前が書かれている。切手もなければもちろん消印もない。どうやら柾木さんは自宅を訪ねてくれたらしい。僕はそのインターフォンに気づかなかったようで、そして訪問が空振りに終わった彼は、置き手紙としてその場でこれをしたためたのだろう。

 書面には僕を心配するような言葉と、人生にとっての仕事というものについての話などが丁寧に綴ってあったようだが、とてもつらくて、その文字をまともに読むことが出来なかった。

 読みかけのまま元通り封筒に戻し、机の一番下の引き出しにしまい込む。

 その翌日に、僕は母親に会って、もし可能ならば自分を精神病院にいれてくれないかと頼んだ。


四


 新しくかかった医者の診断によると僕は鬱病ということになっていた。実際その病気なのかどうかは知らない。以前のようにわざわざ嘘をついて診察を受けたわけでもないが、精神科医を信用してもいなかった。

 そして、鬱の患者というものには専用の病棟があるらしい。そこは、従来の精神科病棟という言葉がもつイメージとは違って、仕事や人間に疲れたサラリーマンなどが、心と体を癒やすための快適でモダンな場所なのだそうだ。

 本来ならば僕はそこに入院するべきなのだけれども、この不況のせいか、どこも満床で入る余地がないと医者は言う。空きが出るのを待つのがおすすめだが、どうしてもすぐに入院したいのなら、鬱だけでなく様々な病を持つ患者が入院する、もっと古典的かつオーソドックスな精神科病棟に行くことになるのだそうだ。

 僕は隔離された場所に入れてくれるならどこでも良かったし、辛気くさい鬱病患者に囲まれて暮らすだなんて想像するだけでもうんざりしたし、それにどうせ精神科の病院に入るのなら、その精髄を体験したいという思いがあったので、むしろ、そうした古典的な病棟の方が喜ばしいくらいであった。

「構いません」

 と即答すると、

「本当に大丈夫ですか? ちょっと、変わった人ばかりですよ?」

 医者が念を押す。随分失礼なことを言うものだと、内心おかしく思いつつ、

「問題ないです」

 うっかり苦笑してしまうと、医者は変な顔をした。

 そうして僕は晴れて入院することが出来た。ネットの知り合いにはそうした病院で暮らした経験を持つ人間が何人か居る。だから僕は世間の人が思う程特別な印象は持っていなかった。

 とは言え、やはり実際にこの目で見たわけではないから、入る前は、『カッコーの巣の上で』や、『17歳のカルテ』といった映像作品で描かれた世界を多少なりとも想像していたのは確かだ。実際のところはそれと似た部分もあったし、まったく似ても似つかぬような部分もあった。

 僕が入院したところは、病棟という言葉から想像されるよりもずっと粗雑な建物である。

 壁にはベニヤ板のような薄い板が張り付けられており、壁紙も施されないむき出しのままだった。床板はニスが剥げてざらざらになっている。

 窓に錆び付いた鉄格子がはまっていることさえ除けば、そのがらんとした病室の風景は、小学校の頃に通っていたプレハブ校舎とかわるところがなく、なんとなく、郷愁に駆られる。全く、あの頃はつらかった。今はこんな境遇だけれど、自分がこうなってしまった経緯を理解出来るだけ、何もかも理不尽で逃げ場もなかった少年時代よりはずっと楽だ。

 ベッドは、塗装の剥げた鉄パイプで出来た簡素なものが六つ並んでいる。すでに五人が生活をしており、僕が入ることで満床となった。

 医者が事前に脅していたとおり、そこで暮らす人々は少し変わっている。

 まず僕の隣のベッドのSさんは、これはあまりコミュニケーションがとれない病気を持っているようで、まるきり黙っているかと思えば、ブツブツと独り言を言いながら部屋の中をグルグルと歩き回ったりもする。そして、限度を超えて回り続けると、気分が悪くなって倒れてしまう。

 そのSさんの一つ向こうのベッドのDさんは、ほとんど少年といっていい年頃の人物だった。普段は利発に受け答えをしていて、そういうときは健康な人間と区別がつかないのだけど、何かスイッチが入ってしまうと、自分が酷く殴られてしまっただとか、物を盗まれただとか、ありもしない被害を加害者の実名付きで訴えて周りを困らせた。

 また、向かいのベッドのOさんは、朝から晩まで体をゆすりながらドラゴンボールのアニメのオープニング曲のさびの部分を繰り返し歌ってばかりいる。挨拶をしても、返事をしないことが多い。

 そして、入り口に一番近いベッドのTさんは、背筋のまっすぐとした老人で、この病室では一番まともに見えるのだけれど、突然声をあげて泣き出すことがある。家族に捨てられるようなかたちで、ここに暮らしているらしい。外で何をしたのだろう?

 勿論、この病室の人間だけが特別変わっているというわけでもなく、病棟の全ての患者が同様の病気を持っている。廊下を歩いていると、何かしら病気の影響を受けた行動を見ることになる。勿論それでいちいち驚くような人間はここには一人もいない。

 外では奇行とされるようなことも、ここでは全て許されているのだ。訳のわからぬ独り言を言っても、動作を行っても、それが自分や他人を傷つけるものでなければ誰もそれを咎めはしない。全てがありのまま自然に存在しているなんて、これは実に希有なことだ。

 そして、ここにはなんの目的も存在しない。決まった時刻にナースステーションの前に並んで薬を飲まされる以外は、治療らしい治療は存在しないのである。皆朝から晩まで、思い思いの生活をしている。喫煙所で他の患者と将棋を打ったり、ホールのテレビをぼんやりと眺めたり。そうして時間は穏やかに流れてゆく。それが治療なのだと言われれば、そうなのかも知れないが、その言葉が持つような積極的な空気はここには存在しないのだ。

 完治することのない精神疾患というものは多いと聞いている。そうした病気を患うと、何十年もここで暮らすことになるのだろうし、その生活が長期に亘れば社会復帰など望むべくもないのだろう。実際ここの患者は老人ばかりだが、おそらく彼らには生涯迎えが来ない。ここでこのまま一生を終えるのだろう。もしかしたら、ここは一種の姥捨て山のようなものなのかもしれない。

 絶望的と言えばそうだろう。患者にもそれを感じる者もいる。全てとは言わないが、何人かは、いずれは社会に復帰して、家族などと共に暮らしたいという願望があるようだ。そうした人にとっては牢獄と大差のない場所であるに違いない。しかし、患者の何割かは、そんな願望も持ってはいないようであった。そしても僕も、全くそういった感情は持っていない。外で散々失敗して自らここに来たのであるから、望む方がおかしいというものだ。

 それに正直なところ、入院してすぐに、僕は、ここが自分にとってひどく過ごしやすい場所であることに気がついてしまった。

 まったく、ここは素晴らしい場所だ。外出が制限され、会話をする相手もおらず、もちろんインターネットからも隔絶され、音楽も自由に聴くことは出来ないのだが、それらは苦痛ではなかった。粗末な壁や錆びた鉄格子は、僕を外の世界の面倒くさい全てから遠ざけてくれる。僕はここではまともな人間でいる必要はなかったし、ただ大人しく黙っていればそれで責任を果たしている。好かれることもないし、嫌われることもない。話の通じない人間にわかるように馬鹿みたいな話を繰り返さなくてもいい。。それは純粋な安堵感であって、外の世界では決して得られることがないものだった。

 ここに来て僕は、何かに対して希望を持つといったことが、期待を持つといったことが、自分にとっては単なるストレスでしかなかったことに気がついた。そして、外には何一つ欲しいものがないことにも気がついた。何かを欲しいような気がしていたのは、そうでなければいけないという義務感でしかなかった。

 まったく気楽な生活だった。そこでの僕の一日を説明すると、このような具合になる。

 まず起床。するとすぐに朝食が運ばれてくるので、ベッドでそれを食べる。そして、すぐに二度寝をする。しかし、大抵は看護師に起こされることになる。午前中は外出も出来ないので、ぼんやりと病室で過ごす。

 すぐに昼になって昼食をとる。日に三回の食事は量も味付けも物足りないもので、決してうまくはない筈なのに、生活が単調すぎるせいか、やたらと心が躍って一日の楽しみになっている。間食もするようになり、体重も増えた。僕は高校生くらいからほとんど体型が変わらなかったので、これは驚くべきことだ。

 昼間の限られた時間は外出を許されているので、昼食をとると、僕は大概駅前の小さな本屋に行って何かしら本を買う。酒が飲みたければ、この外出のときにパック酒を買ってこっそり飲んだりもする。

 そして帰って来ると、夕食までの間に、買って来た本を読む。普段よりも集中出来るせいか、病院で僕は結構な本を読んだ。司馬遼太郎の『翔ぶが如く』、楳図かずおの『わたしは真悟』、トーマス・マンの『魔の山』、内田百の『阿房列車』。買い置いた本がない時は、テレビの横に文藝春秋の芥川賞掲載号だけが十年分くらいあったので、受賞作を読まずに石原慎太郎と宮本輝の選評だけを読んだりもした。

 楽しみにしている夕食をとると、消灯までの間、また本を読んだり、昼の間に買ったおやつを食べたりして過ごす。

 薬は、食後のきまった時間に与えられる。ナースステーションに水の入ったマグカップを持って並ばされ、看護師の前で飲まされるのだが、僕はそこでは飲むふりをして、すぐにトイレで捨てていた。病院で処方された薬は、どうも外で飲んでいたものよりも強いようで、頭がぼんやりとして馬鹿になってしまうので気にいらなかったのである。

 僕の病院での生活は、大体こんな具合だった。

 入浴が週に二回しかないため、いつも湯船には患者達の垢が浮かび、悪臭もするためにシャワーしか使う気になれなかったのと、看護師がいちいち赤ちゃんに話しかけるような口調で語りかけてくるのの二点が気にいらなかったが、あとはおおむね満足だった。こんなに健康的な生活を、かつて送ったことがあっただろうか?

 日が経てば経つほど、なぜもっと早くここに来なかったのだろうかという思いばかりが強くなる。まったく僕は、精神病患者として、精神科病棟で一生を過ごすべき人間であったのだ。それにもっと早く気づいていれば、くだらない遠回りをして、他人や自分を傷つける必要もなかったというのに。

 外でしてきたことを思い出すと、僕は恥ずかしくてたまらない。なんとか適応しようとして、そして結局出来なかった。自分の心の中に何も見つけることが出来なかった。幸福を感じる感性を育てることが出来なかった。他人を愛したり他人に愛されたりすることが出来なかった。やらないでいいことばかりしてしまった。ここに居れば、もうあんな醜態をさらすこともないし、何かを望もうという気にもならない。

 そうして僕は環境が許さなくなるまでそこで生活するつもりであったのだが、しかし意外な転機が訪れた。

 入院する前に面接をしていた企業から、あまりにも遅い合格の通知が届いてしまったのである。

 一晩悩んだ結果、僕は病院を退院し、その企業に勤めることに決めた。

 精神科病院は確かに良い場所だけれども、いつでもまた入ることが出来る。しかし就職というものはそうはいかない。時間が経てば経つほど職歴の空白期間が伸び、難しくなるだろう。それならば、今はとにかく働いて、自分の入院費を作るべきではないだろうか? ここでの生活は楽しいものだが、その費用が親から出ているというところだけは心が痛んでいる。

 そこで僕は、その連絡を受けた翌日には医者に退院を申し出た。

 もとより自分から希望しての入院であるから、出たいと言えば即日退院となる。このあたりの事情が他の患者と違うのは、若干申し訳ないところではあった。


 そして僕は見事に社会復帰を果たしたのである。意外であるけれど、まったく考えられないような復帰であった。

 新しく働くことになったのは、新宿にある小さな編集プロダクションである。

 考えられないほどの低賃金。作っているのはポルノ雑誌。人員の不足を補うために何でもさせられる。という過酷な環境ではあったけれど、僕はすぐに辞めたりはしなかった。

 気づかぬうちに僕はかなり回復していたのだろうか? 向精神薬に頼る必要もなかったし、妙な熱が出ることもなかった。

 それでもはじめのころは病院での生活ばかり懐かしんでいたものの、やがてそのことも忘れた。編集プロダクションでの仕事自体は決して楽しいものではなかったが、とにかく忙しく、余計なことを考えている暇がなかったのである。

 一年ほどでその会社は倒産し、なくなってしまうのだが、その経験は僕に労働の習慣を取り戻してくれたらしい。すぐに次の仕事を探し、そして求職中もつなぎのためにアルバイトなどをした。ビルや工事現場の仕事、交通量の調査、ティッシュ配り。何もしない期間を作って、前のように堕落してしまいたくはないと、とにかく手を埋めた。そうした建設的な行動が出来る自分が不思議だった。

 すると、昔は決して褒めてくれなかった母親なども頻繁に褒める言葉を口にするようになる。その言葉を少年時代に欲しかったと思ったが、悪い気持ちはしない。

 母親は朝早く起きて弁当なども持たせてくれた。母親の作った弁当を食うなんていつ以来だったろう? 冷えて少し固まった白米を、工事現場で頬張った。そうして、ぼろぼろと涙をこぼしたりもした。

 テキストサイトを見ることはなくなっていた。周りの人間も、かつて狂ったように日記を更新していたのが嘘のように、サイトを閉鎖したり放置している。

 以前に「電波系ネットアイドル」を自称していた臥村あつるなども、もうサイトを運営しておらず、メッセンジャーでいつ話しかけても編み物をしている。何故そんな女性らしさ、おしとやかさをアピールしているのだ、何か企んでいるのかと、僕が率直に疑いを口にすると、自分はもとよりそういう静かな人間であったのだと、元に戻っただけだと、にべもない。

 彼女は僕がサイトをはじめたばかりの頃からの、最も古い知り合いの一人で、一度くらいは会ってみたいと思っていたのだが、結局そうした機会はなかった。そのまま彼女はほとんどメッセンジャーにログインしなくなり、いつのまにか消えていた。

 彼女の生活がネットやそこでのつき合いを必要としなくなったのだろう。そしてそれは僕にとっても同様だった。

『電気サーカス』は、就職をした初めの頃こそ多少更新もしていたものの、いつしか更新が途絶え、そのうち存在そのものを忘れてしまった。大分後になってサーバーに残っていた全てのデータを消したが、その時も、なんの感慨も心にはわき起こらず、その無感動は僅かに寂しさをもたらした。かつての日記中毒が嘘のような、あっさりとしたものだった。

 テキストサイト全体が、衰退してゆく時期であったらしい。ブログが現れ、それを芸能人なども利用するようになり、インターネットというもの自体が性質を変えて行くと、書き手や読み手も入れ替わった。

 もちろん、日記やサイトを辞めたからといってインターネットから離れたわけでもない。

 インターネット自体は以前よりもずっと便利になり、生活のあらゆる場所に入り込んで来てしまっているから、それ自体を断ち切ることは出来ようはずもない。

 そうではなく、パソコンを起動したとしても、それを使ってネットで知り合った多くの人々と連絡をとるようなことはなくなったということだ。

 そうしてコミュニティそのものと疎遠になってしまえば、イベントの誘いや、飲みに行こうというような誘いが携帯電話に掛かる事もなくなる。僕はことさら距離を置こうと思ったわけではないが、そうした過程を経て、いつのまにか『ネットの人々』とのつき合いも薄れていった。


 そうして、全てが記憶のなかだけの存在になりつつあった、ある日のことだ。僕は、古くなった携帯電話の交換に備えて、電話帳の整理をしていた。そこでふと、真赤の名が目に入ってしまったのである。

 その文字を目にすると、時間は経ったとはいえ胸が痛む。あの子に取り返しのつかないことをしてしまった、という思いは未だに消え去ってはいない。

 何と言っても彼女は多感で影響を受けやすい年頃で、そして僕は成人であるにも拘わらず最悪だった。彼女が何かを探していたように、僕も何かを探していたのだとしても、言い訳にもならないだろう。僕のせいで彼女の人生そのものに暗い影を落としてはいないだろうかと、時々思い出してしまうと、そのたびに胸が苦しくなる。

 真赤はコミュニティのなかでも比較的目立つ人間だったから、直接連絡を取らなくなってからも、その噂を耳にする機会はあった。見事大学に受かった、というのは数少ない良いニュースで、あとは気が滅入るような情報ばかりだ。

 ──オフ会のたびに違う男と帰って行く。美容整形手術をした。豊胸手術をした。大学で教授の愛人をやっている。市民活動家になって、仲間と共に役所に理不尽な無理難題をふっかけている──。

 ネットの連中の口にする噂だから、信用する価値があるとも思えないし、コミュニティとの繋がりが希薄になった僕には真偽を突き止める方法もないのだが、しかし聞けば気鬱になってしまう。

 あいつは今どうしているのだろうかと、ふと、発信ボタンを押した。

 繋がるとは思っていなかった。以前は着信をブロックされていたのである。しかし、相手ももう僕の名前を削除し、ブロック設定も消えていたのだろう。呼び出し音が鳴ってしまった。

 すると、自分でかけておいたくせに、にわかに緊張してしまう。

『……もしもし?』

 と、警戒をあらわにした声は、まさしく僕の知っている真赤の声だった。

 実に二年ぶりだろうか? 挨拶をしても、相手は気がつかない。名前を名乗ると、やっと彼女は「あっ」と驚きの声をあげた。

 それから僕たちは、三十分ほど世間話をした。

 彼女は今とある有名大学の学生で、外国人の友人などとシェアルームをしているらしい。そしてそれなりに楽しく学生生活を送っているようで、声が明るかった。僕が会社に勤めているという話をしたら、真面目に労働が出来ると人間だとは思わなかったと、からかうように笑った。

 そして一通りお互いの近況報告などが終わると、彼女は最後にこう言った。

『これから、時々電話とかしようよ』

 僕は曖昧な返事をし、通話を終える。

 彼女の態度をどう受け止めるべきか戸惑っていた。

 その態度は拍子抜けするほど明るく、軽かった。当時の多くの事柄も忘れているようだ。よく忘れられるものだという気もするが、僕が重く考えすぎていたのだろう。そして、終始僕のことを『ミズさん』となれなれしく呼んだ。

 以前はどんな時でも『水屋口さん』と呼び、そんな砕けた言い方はしなかった。大学生になって、彼女が成長して色々な人間と出会うにつれて、対人感覚が変わったのだろうか。何か、普通の女子大生と話しているような気がする。ちょっと話しただけで特別な印象を受ける、あの感覚は全くなくなっていた。

 何しろ、思っていたほど悪く思われてはいないようだ。その翌日に僕は彼女にメールを送った。電話をしてもよいかと、問うメールである。

 しかし、送ってしまってからすぐに後悔をした。彼女はもう僕の知っている特別な真赤ではなくなっているようだし、新しい生活を送っている。それなのに連絡をしようというのは、ただ女ならば誰でも良いような、情けない下心でしかなく、そんな自分が気色悪かった。

 そして返事が来る前に、僕は怒ったようなメールで、前の内容を取り消した。相手は意味不明だったろう。或いは、相変わらず僕が精神を患っていると思ったろう。いずれでもいい。これで終わりにしなくてはならない。

 その返事はこなかった。

 これが真赤との最後の接触で、その後は彼女がどうしているのか、噂としても耳にしていない。