七
組み上げた『HGUC 1/144RX-78-2 ガンダム』に、様々なポーズを取らせて遊んでいると、真赤が、構って、構って、と服を引っ張って僕の体を揺さぶって来るので鬱陶しくてしかたない。無視を決め込んでいたら、
「出来上がったんだからいいじゃん。いつまでいじってるの?」
感情の起伏が激しい真赤は、この段階でもう半分涙声になっている。僕はその目の前に、ガンダムをかざし、
「まあまあ、そんなに興奮しないでちょっと見てごらんよ。これが一番最初のガンダムなんだよ。ほら、良く出来てる。格好良いでしょう?」
なだめてみたが、しかし彼女はガンダムを受け入れようとしない。
「もう、いや! 私より1/144ガンダムの方が好きなのね! ばか!」
そう捨て台詞を残して部屋を出て行った。これで安心して、心ゆくまでガンダムを鑑賞できるぞ。気楽になった僕は、ごろりと部屋に横になる。
先日から、僕は会社に行かずに部屋でのんびりと過ごしている。といっても、会社を辞めたわけではない。いずれ辞めるだろうとは思うけれど、とりあえずまだ辞めてはいない。
先日から東京の外れにあるメーカーのビルで、研修を受けろという話だったのだけれども、それがどうにも馬鹿馬鹿しくて、いやになっちゃったのである。
どうも、完全な初心者向けの研修だったようで、内容が実にくだらない。研修が進めば高度になるのかと言えばそうでもなく、資料に最後まで目を通してみても、知らないことが存在しない。そして実際に出席しても「レーザープリンターのプロセスは、現像、転写、印刷である」というような話を一時間もかけて説明されたり、「社会人は報告、連絡、相談の、ホウレンソウが大事」などという、わかりきった話をしたり顔でされてしまう。
こんなものを毎日聞かされては、退屈のあまり性格が歪んでしまう。僕はこれ以上性格を歪めたくなかったので、もう行かないことに決めたのだ。
これに関してはちっとも罪悪感がない。というのはね、つい最近僕の給料制度が変わったんですよ。これでね、月額固定制から、一台修理をするごとに報酬が出るという歩合制になった。すると一台も修理をしない研修では給料が発生しない。むしろ交通費の分だけ損をする。これは、行く方が愚かというものでしょう?
という訳で、久しぶりにまとまった時間が空いた。今日で三日休んだことになるが、あと一週間、このまま研修が終わるまで休み続けるつもりである。この時間をどう楽しもう? さしあたって、この三日間は、万年床の上で寝転がり、音楽を聴いたり小説や漫画を読んだり、TSUTAYAで借りて来た映画を真赤と一緒に観たりした。それでも時間が余ってしまって、ついに、サイトの日記までも更新してしまった。停止状態のまま何ヶ月も放置していた『電気サーカス』の更新を、再開してしまったのである。
それがどうしたという話ではあるが、僕にとってはほんの少しは意味がある。やはり日記サイトというものは麻薬だ。書き始めてしまうと、文章を書かない一日には価値がないような気がして来る。だって、日記に書かなければ、人生というものは日めくりカレンダーが毎日捨てられてゆくように、一日一日というものを過去に捨てていってしまうものでしょう? 考えたり感じたことも、喪われてしまうのでしょう? それを、日々文章にすることで引き留める、とまではいかないにしても、少なくとも書くことで、あらゆる喪失に対してあらがっているような気分にはなれた。人生に価値を持たせる闘争に参加しているような気になれた。僕は喪失が怖いのだ。
日記を書く理由は人それぞれだと思う。僕はこうだが、たとえば真赤の場合は、その行為について、不思議な言い方で表現していたっけ。
「苦しいことがあると、増岡君が出てきて、いつもなんとかしてくれるの。サイトもその一環みたいな感じ」
真赤は、自分のハンドルネームである増岡について、いつもそんな風に親しみを込めて『増岡君』と呼ぶ。僕はそれを不気味だなあと思うが、人それぞれだから口には出さない。人間なんぞ、お互いを不気味不気味と言い合っていたら、きりがないものだ。
ネットへの関わり方というものは人それぞれで、そこには正解も間違いもないのだろう。それは書く方にとっても、読む方にとっても。そこでは、年がら年中祭りが行われているようなものだ。
しばらく仕事にうつつを抜かしているうちに、僕も以前よりはいくらかテキストサイト界の事情に疎くなっていたが、それでも、『PARTY』の管理人の自殺騒動については耳にしている。
そのLOMOと名乗っていた管理人は、サイト上に掲載しているプロフィールでは、二十歳前後の女、ということになっている。
ロリータファッションに身を包んだ本人が写った写真と、ポップでキッチュなイラストをあしらったサイトデザイン、ほんの少し心の病んだところを窺わせるようなテキストが、女性を中心に人気を博していたらしい。彼女の自殺騒動について書かれたサイトには、そういう風に書いてあった。
まあ、僕のようなその界隈とは遠い人間でも、名前とサイト名くらいは知っていたわけだから、有名であったのは間違いない。で、そのLOMO女史が、自宅のベッドの上で手首を切って自殺をしたというのである。同居していた弟が発見し、その状況などを報告した記事が最後の更新となった。
以前にも、有名なサイトの女管理人が自殺をして話題になったことがあった。あの時はニュースにもなって、疑う余地はなかったが、今回はどうなのだろう。確たる証拠があるわけでもない。ネットでは多くの人が言葉通りに事実として受け止めたが、狂言だと断じる人も多いらしい。実際、この界隈では狂言自殺で注目を集めようとするお調子者はありふれている。
僕としても、手首を切って、それで死んでしまうというのがどうもピンと来ない。失血死するには、どれほど深く切ればいいのか。真赤なんか、畑を耕すみたいに手首をザクザクと切っていたけれど、未だにぴんぴんしている。
半信半疑といったところだが、いずれにしろ、今後も結論が出ることはないだろう。LOMOとネット以外で会った人間は存在せず、確かめるすべはない。が、それでいいのだと思う。本当も嘘もなく、何もかもが平等で、みなの前に公開されたものが全てであるというのが、この界隈のいいところだ。狂言でも中傷でも犯罪でも、みんな好き勝手にやればいい。そうして好きに騒げばいい。そういう滅茶苦茶な場所だから、僕も自由に書けるのだ。
ガンダムにビームライフルを持たせ、いろいろな射撃のポーズをとらせていると、段々他の種類のプラモデル、ザクだのグフだのも欲しくなって来た。もう発売されているのか、T川君に聞いてみようかしらん。あ、色を塗る道具も欲しい。それならばT川君が持っていて、前に、使いたいなら貸そうかと言ってくれていたっけ。
それにしても、なんて暑い部屋だろう! Tシャツにハーフパンツという格好なのに、じっとりと汗が浮かぶ。やっぱり、一度みんなでエアコンを導入するための予算会議が必要だな。このままじゃ二人ぶんの汗を吸い込んで湿った布団が腐ってしまう。
何か飲もうかと思いかけたころ、早足で真赤が戻って来る。涙ぐんでいる。
「どうしたの?」
「……T川君に怒られたの。勝手にアイスを食べたからって」
「食べたの?」
「うん。チョコミントのやつ」
「そりゃ怒られても仕方がないだろうよ。大体ね、お前は人のものを勝手に食い過ぎなんだよ。おれやタミさんはおおざっぱだから何も言わないけれど、T川君はそうじゃないんだから」
「わかってるけど、すっごい怒り方だったから、びっくりしちゃって……」
「でも、泣くことはないだろうに」
「だって、私、男の人が怒るとこわくって仕方ないんだもん」
わああ、と声をあげて泣き始める。
さりげなく被虐待児童のトラウマみたいな話を盛り込みやがって。わからないでもないが、それにしても、こんな簡単に泣くやつだっただろうか? 前も感情的にはなっていたけれど、もっと複雑で得体の知れないかたちで発露していたはずだ。最近、どうも、退行が進んで、幼児的になっているような気がする。外に出ると相変わらず大人びて意地悪でプライドが高いところばかり目につくが、家だとまるっきりの子供だ。
それはともかく、T川君には悪いことをした。アイスを勝手に食べてしまうなんて、重罪だ。謝ろうと思ってリビングルームに出ると、彼はテーブルに個別包装のアイスをずらりと並べている。
「何やってんの?」
尋ねると、彼は振り向きもせずにこう答えた。
「油性ペンで名前を書いてる」
さて、そんな具合に面白おかしく休日を過ごしていたのだが、研修が終われば日常業務は滞りなく再開された。されてしまった。
「いやあ、今日は眠たくって仕方ないよ。昨日夜遅くまでメールのやりとりをしていたからさ。ほとんど眠れなくってね」
ヤオイタさんはそう言ってわざとらしく笑う。
今日のヤオイタさんは、派手な黄色のネクタイをしていた。この人はいつも高級なスーツを身につけ、いくつもの眼鏡を使い分け、身だしなみに気を遣っている。徒歩組だから、僕と同じように、客先を回るだけでもへとへとになるはずなのに、よく毎日こう整えていられるものだ。
「おれは寝たかったんだけれど、相手がなかなかメールをやめようとしないから。まったく、困っちゃったよ。しつこくってさあ」
ヤオイタさんは自分で言って、自分で笑う。その声が、朝の静かな部屋に響いた。
エレベーターを降りた左手のスペースには空気清浄機が設置され、喫煙所として利用されており、朝と夜にはいつも数人が集まって煙草をふかしている。今も、始業前の一服をすべく、社員たちが集まって気怠い雑談をしていた。
僕も眠い目を擦りながら、自分の煙草をくわえている。
「メールなんか、誰としてたのさ」
アラガキさんが、尋ねて欲しそうなヤオイタさんの態度を察してか、面倒そうにしながらも言った。
「こないだ一緒に行ったお店の女の子だよ。覚えてるかい? 新宿の、あのオレンジのドレスを着てた子」
「覚えてないな」
「ほら、二十歳って言ってた、一番可愛かった子だよ。店ではナンバーに入ってるんだって自慢してたじゃない。そんな人気があるような子が、しつこくメールして来るなんて、営業にしたって、熱心なものだよねえ。おれは何度も寝たいって言ったんだけどさ。相手がそのたんびにちょっとだけ話したいって言うから」
「それは凄いですねえ。そういう場所って行ったことがないんですが、そんなこともあるものなんですね」
ミタ君が素直に感心したような声をあげる。
「いやあ、何をあんなに気に入ってくれたんだろうねえ。今日の夜もまたメールするって言ってたし、あまり営業熱心なのも困っちゃうな。あははは」
「楽しそうでいいなあ。おれなんか、最近は全然いいことなんかなくなっちゃったよ。何かあればいいんだけれどねえ」
キサラギさんはそう言って、ため息をつく。
「今度キサラギさんも一緒にその子の店に遊びに行こうよ」
「そうかなあ。つれて行ってくれるって言うんなら、行こうかなあ。でも、あまり金を遣いたくないんだよなあ」
「たまにはいいじゃない。キサラギさんも嫌いな方じゃないでしょう?」
「そうだけど、どうしようかなあ。ナベヤマ君も行く?」
『ナベヤマ』というのは、マトバさんがつけて、会社で普及した僕のニックネームだ。顔が似ているというタレントの名前を二度もじったものだが、すでに原型を失ってしまっている。
「それは面白そうですね。機会があれば、行きますよ。行ったことないですし」
「水屋口さんはそんなところに行っちゃだめですよ。真赤ちゃんが怒りますよ。だからキサラギさん、代わりにおれが行きましょうか?」
「いや、ミタ君は来なくて良いよ。きみが来ると女の子はみんなそっち行っちゃうから、面白くない」
ヤオイタさんはわざとらしく顔を顰めた。
「そんな店に行って、何が楽しいのかねえ。僕にはお金の無駄としか思えない。それよりもね、みんな、保険に入りなさいよ。あれはいいものだ」
コダマさんが、煙草の灰を灰皿に落としながら言う。
「この間僕はね、ガン保険と生命保険に入ったんだよ。そうしたら、毎日楽しくってしかたない。もっと早く入っておけば良かったと心から思ったよ」
「ええっ、保険加入のどこが楽しいんですか?」
ヤオイタさんがのけぞって大げさに驚くと、
「だって、これでさあ、ガンになっても大丈夫じゃないの。むしろ、たくさんのお金が入って嬉しいくらいだ。そしたらもう、毎日あくせく働く必要なんかないし、残りの人生を遊んで暮らせる。それを想像するだけで毎日楽しいよ」
「遊んで暮らせるって言ったって、早死にしちゃったら意味ないでしょう」
「いやいや、よく考えてみなよ」
納得出来ないヤオイタさんに、コダマさんはニヤニヤと笑いながら言う。
「このままさ、ちっとも面白くない仕事を朝から晩までやりながら生きてくなんて、地獄じゃない。僕は家族がいるから仕方なく働いているんだけど、考えるだけでうんざりする。これが定年まで続くんだ。そしてやっと終わったら、もう年寄りになっている。それならね、今すぐガンになって、奥さんや子供達とのんびりとした時間を過ごした方がいいじゃないか。僕は面倒な仕事をしないで済むし、家族も保険金で幸せに暮らせる。全てうまくいく」
「そうですかねえ」
ヤオイタさんは、訊かなければ良かったとでも言いたげな、渋い顔をする。
「遊び人のヤオイタ君にはわからないかもしれないけど、そういうものだよ。本当に、家族さえいなければもっと楽なんだけれど。でもね、家族ってとてもいいものなんだ。見てよ」
するとコダマさんは財布から写真を取り出して、僕らに差し出した。
そこには、コダマさんによく似た、幼いながらに顔立ちの整った幼女が二人並んでいる。コダマさんも、四十になったかならぬかという年ですでに前髪が頭頂部近くまで後退しているが、もし頭髪が豊かならば、さぞかし美男子であったろう。
「可愛いだろう? こんなに可愛いのに、朝僕が起きた時には早すぎて、仕事を終えて帰ったときは遅すぎて、どちらにしても寝ている。休日しか一緒に遊べない。寂しいじゃないか。娘なんか、大人になったら父親を無視するものなんだろうけど、今は、お父さんお父さんってなついているのに」
コダマさんは微笑みを浮かべたまま写真を仕舞う。
「だからね、毎日毎日、早くガンにならないかなあって願ってるんだよ。そして娘達と遊びたいなあって。もしガンが見つかったら、即座に会社やめるけど、その時はみんなごめんね」
「はあ、まあガンで仕事やめるってなったら誰も止めはしませんが」
ヤオイタさんは釈然としなさそうだ。
「なんだか、変な話になっちゃってますね。きっとコダマさんは疲れてるんですよ。ああそうだ、一緒に遊戯王カードやりませんか?」
ミタ君が、無理に話題を変えた。
「最近仕事が終わった後、事務所でマトバさんとよくやってます。子供の遊びと思うかもしれないですけど、あれで対戦すると結構面白いんですよ。どうですか?」
「いや、それはちょっとなあ」
コダマさんは苦笑して、肩をすくめる。
「そうですか。残念です。あ、じゃあフットサルはどうでしょう? 社会人になると、運動をあまりしなくなるし、どうかなって、前から思ってたんです。おれも最近、友達と休みの日によくやるんですけど、未経験でも楽しいですよ。女の子が差し入れ持ってきてくれたり、試合のあと飲みに行ったりして。そのビールがまたうまいんだ」
「いや、いいよ。僕は疲れてないし」
コダマさんは難色を示すが、
「え、女の子も来るの?」
ヤオイタさんが、目を輝かせて食いついた。
「ええ、友達の妹とか、その女友達とかがいつも来てくれます」
「へえ、そうなんだ。じゃあさ、うちらでチーム作って、そのミタ君たちのチームと試合しようよ」
「あっ、それはいいですね! きっと面白いと思います。ユニフォームとかも揃えましょう。おれ、仕事の途中にスポーツショップに寄ってみつくろっておきますから」
「それがいい。そしたら、ちゃんと友達の妹とかにも声をかけておくれよ」
「はい、でも来てくれるかどうかは保証しないですよ? それよりスポーツを楽しんでくださいよ」
「当然だとも。なあ、みんな、やろうよフットサル」
と、ヤオイタさんはにわかに皆を誘いはじめるが、その場にいた誰もが、苦い顔で黙っている。
その沈黙を破るかのように、マトバさんが皆を呼ぶ。
今日の業務がはじまるのだ。
「ナベヤマ君、今日の一件目はどこなんだい?」
朝礼が終わり、出発の準備をしているとキサラギさんに声をかけられた。
「三軒茶屋のあたりですね」
「駅の近く? だったら、おれの通り道だから近くまで送ってあげるよ」
「あ、本当ですか。助かります」
「そのかわり、積み込み手伝ってくれよ。ちょっと大荷物なんだ」
キサラギさんに言われるまま席を立つと、引き上げ修理が終わったA4モノクロレーザーが一台と、ビニール袋に入れられたドットプリンターの機構部分が事務所の前に並べられている。これを車に積み込むということらしい。確かにこれは一人では大変そうだ。僕はモノクロレーザー。キサラギさんはドットプリンターのユニットを抱え、エレベーターに乗り込む。駐車場はビルの裏手にあり、一番奥に使い込まれてくたびれかけた社用車が停まっている。
「ナベヤマ君の荷物は?」
全ての荷物を積み終わると、キサラギさんはそう尋ねた。
「今日は大したものはないですね」
「じゃあこのまま出発しよう」
そして僕たちは車に乗り込んだ。
まだ朝だというのに、車内の空気は蒸したように温かく、キサラギさんは冷房をつけ、風量のつまみを最大までひねった。古い車のエアコンは、すぐには効いてくれず、最初はただかび臭いだけの風をはき出すばかりだ。
「こんな日は、歩きだと大変だねえ。まいっちゃうでしょ?」
「そうですねえ。特に大手町のあたりとか、きついですね。あの街、コンクリートと、ガラスしかないですから。ああいう環境だと地表は何度くらいになるんでしょう? みんな地下を使うものだから、上には人がいなくて、死の街みたいですよね」
「おれもあの辺はいやだな。車を停めるの大変だし、昼飯食うにもちょうどいい店がないしねえ」
五月が過ぎ、梅雨が終わり、そして夏が訪れている。ということは、この会社に勤めるようになってから、二ヶ月と半分ほどが過ぎたことを意味する。
自分のスーツ姿を見るのにも馴染み、訪問先で社名を名乗るのにもようやく違和感がなくなって来た。まだ扱える機種はレーザープリンターとPCのみではあったけれども、それらのトラブルであれば大抵は独力で処理出来るようにはなったので、ミタ君とのコンビを解消し、一人で毎日都内のあちこちの会社を訪問している。そして給料も、研修時のほぼ倍になった。
倍と言うと嘘みたいだけれども、事実である。柾木さんの会社ではそれが当たり前らしく、やはり僕と同じように柾木さんの会社から派遣された人物に、トミタさんという人がいて、彼は僕とは別の事業所で働いているのだけれども、
「これ、間違いじゃないんですか?」
と、その金額に驚いて思わず柾木さんに確認してしまったという話が伝わっている。
実際自分の口座に四十万円も振り込まれた時には、僕も驚いた。ついこの間まで、カラオケ屋で朝から晩まで働いて、月十数万の給料だったのである。
柾木さんは、一体いくら中間マージンを抜いているのだろう? ボランティアではないのだから、いくらかは取っている筈なのだけれど、それがよそより格段に少ないことは確かだ。金銭のことをどう考えているのか。初日に貸して貰った二十万円の話も、一言もしない。だからまだ一円も返済していない。まったく奇妙な人物である。ろくでもない若者の生計を助けることに、何か情熱でもあるのだろうか。
もちろん、好条件につられて引き受けた仕事なのだからそれで構わないのだけれども、かといって貰いすぎにも困ったもので、たとえばつい先日隣の席のアラガキさんと収入の話になった。するとどうも、彼は僕の月給は二十万にも及んでいないと想像しているようなのである。実際には僕はその倍以上の額を貰っているのだが、彼がそう発想したという事で、この職場で正社員として働いた場合の相場も想像がついてしまう。
そして話している雰囲気からすると、やはり、僕はアラガキさんよりも多く貰っているようなのだ。もちろん、仕事は彼のほうがずっと出来る。僕はその時不自然に沈黙してしまったけれども、妙に思われなかっただろうか。
もしかしたら、僕は、事務所の大部分の社員よりも高い収入を得ているのかもしれない。そう考えると、居心地が悪い。はっきり言っていやな気分だ。
しかし、マージンを抑えただけでこれほどの収入になってしまうということは、よその派遣会社は一人につきいくら抜いているのだろう? 日本は中間業者が非常識なほどに搾り取るのがいけない、と人が言っているのを、これまでは単なる現場の人間の被害妄想による怨嗟の声と思っていたけれど、事実なのかもしれない。
「これでまだ夏がはじまったばかりだって言うんだからねえ」
キサラギさんはハンドルを握りながらため息をつく。
「夏は嫌いですか」
「ナベヤマ君は好き?」
「暑いのは嫌いです」
「だろう」
キサラギさんは渋い顔をする。
この人は、僕がここで働くようになってから、最も良くしてくれた人で、仕事における技術的な要点や、現場での振る舞い方のほとんどを、教えてくれた。根が親切らしく、工具を買いに行く時も、一緒に秋葉原に行って選んでくれたほどだ。僕が一人で回るようになってからも、場所が近ければ一緒に昼食を摂ったり、今日のように車に乗せてくれたりしている。
キサラギさんは事務所でも有数の技術を持つ人ではあるけれども、出勤状況に問題があって、週に一日か二日は必ず欠勤をしていた。僕がそれと同じくらい欠勤をするのも、彼の影響を受けたからだ、とは言わないが、会社が欠勤というものに対して甘いのは彼の存在も一因だろう。とすれば、間接的に彼が僕のサボり癖を助長していると、言えなくもない。
まあ、そんな下らぬ言い訳はともかく、彼の欠勤は、どうもその精神の繊細さが原因らしい。食事のあとに薬を飲んでいて、何を飲んでいるのかと思ってシートに印刷された文字を見ると、ドグマチール、と、僕もよく知っている名前があった。あ、その薬僕もちょっと前に飲んだことがありますよ、と言うと、彼は少し驚いてから、自分には鬱の傾向があって、病院に通っているのだと教えてくれた。
数年前に両親が死んで、それ以来どうも精神の調子が優れないのだと言う。今は、親が残した一軒家に一人で暮らしているのだそうだ。
「暑いのはいやだなあ。前はそんなに嫌いじゃなかったんだけれど、ここ数年、うんざりして仕方ないよ。休めればいいんだけど。あっ」
彼は前方を急に横切る軽自動車に舌打ちをする。
「もうすぐ、お盆休みがあるじゃないですか。その時にのんびりしたらいいんじゃないですか?」
僕がそう言うと
「いや、お盆も出勤しなくちゃならないからなあ。毎日誰かしら会社にいなくちゃいけないんだ。何日かは休めるだろうけど、そんなに大きな連休にはならない」
「そうなんですか」
「うん。でも、出社するのは社員だけだから君は休めるよ。そしたら、どこか遊びにでも行きなよ。旅行なんかどうだい? おれも、前は旅行が好きで、一人でどこにでも出かけてたんだけれどなあ」
「今は行かないんですか?」
「そうだねえ。もう楽しくなくなっちゃったから」
キサラギさんは小さく笑って、
「あんなに旅が楽しかったのに、今は不思議とつまらなくなっちゃった。なんでかなって考えてたんだけどさ、最近わかったんだ。おれが旅行好きだったのって、旅そのものよりも、帰って来て土産話をするのが楽しかったんだよ。あれを見た、こんなものがあったって。……今はどこへ行っても、帰って来た家は真っ暗で、話を聞いてくれる人間なんか誰もいないから、ちっとも面白くないんだ。困っちゃったなあ」
「キサラギさんは、はやく結婚した方がいいですよ」
言うと、彼は無言で肩をすくめる。
交差点の手前にある薬局の前で車を降ろされた。
三軒茶屋のごちゃごちゃとした町並みには、アスファルトが焼けたような、夏特有のにおいが立ちこめている。そして、道ばたで地図を広げて行き先を確認する僕の腕には、みるみる汗がにじんだ。
三軒茶屋での一件目の仕事の内容は、二台のモノクロレーザーの給紙不良だった。どちらもパーツを交換するまでもなく、ローラーとセンサーの内部清掃にて正常動作に復帰。保証対象外のリサイクルトナーを使っていたので、これが故障の原因になる可能性があると客に伝えて退散する。
次は歩いて十分ほどの場所にある建設会社。PCのLANが繋がらなくなったという案件で、調べてみると、単なる設定の失敗だったので十分で作業完了。
次の訪問先は午後に訪ねる予定であったが、思ったより早く終わってしまったので、電話をしてみると、今すぐ訪問してもいいとのことで、予定を繰り上げてそちらへ向かう。
田園都市線を使って渋谷駅を降り、汗だくになりながら井の頭通りをのぼっていって、やがて右手に見える大きな建物がその場所だった。正式名称は日本放送協会。通称NHK。
テレビ局に来ると、どこかに顔を知っている有名人でもいないかと、無意識に探してしまうのが我ながら俗だった。裏側の玄関を入ってすぐ、右手に設置されたソファーのところで、この間はヨネスケを見たっけ。
ヨネスケに遭遇するのはそれが初めてではない。大学生だったころ、新宿の裏通りをあてもなく一人でぶらぶら歩いていた時もヨネスケを見た。路上でスタッフらしい無精髭の男を相手に、恐ろしい顔で怒っていたのを覚えている。
このロビーで見たヨネスケも、ソファーの正面に座った男に怒っていた。それを見る僕はだらしのない若者の格好からスーツ姿に変わっていたが、ヨネスケは変わらず怒っていた。どうして僕は二度も怒れるヨネスケに巡り会うのか。何か縁があるのか。
今日は有名人は見当たらない。受付のところに三人ほどが列を作っていたので、僕もその後ろに並ぶ。
NHKは入館手続きがややこしい。受付のところで担当者の部署と名前を告げると、おばちゃんが内線で当人に確認を取る。そこで無事確認が取れると黄色い入館証が渡される。これに担当者のサインを貰って、帰る時に守衛に見せなくてはならない。
僕もいろいろな場所に足を踏み入れたが、こんな面倒な手続きが要るのはここだけだ。民放のテレビ局はもう少し緩やかだ。やはり日本の主要な放送局だけあって、厳重なのだろう。そんな場所に、正当な手続きで堂々と足を踏み入れることが出来るようになるとは、僕も大したものだ。えらいものだ。
貰ったばかりの入館証を守衛に見せて、構内に足を踏み入れる。NHKの建物は、妙に複雑な構造で迷いやすい。クーデターなどが起こって、武装集団などが占拠しようと押しかけた時、防戦がしやすいようにわざとわかりにくく作ってある、という都市伝説がまことしやかに流れているが本当かどうかは知らない。
エレベーターで上がってドアをくぐる。この間は地下の、ケーブルが床を這い回る狭くて暗い部屋だったが、今日は広く明るいオフィスだった。いくつもの島が並び、その端に一台ずつプリンターが置いてある。あのどれかが故障しているのだろう。
しかし、このオフィスには無数の男女が働いていて、こうして見る限りどうといった違いのない平凡な人々であるが、こんな企業で働いているということは、皆、僕とはまるで違う人生を送ってきた人間なのだろうなあ。比べものにならぬくらい、まともな人生なのだろうなあ。そういった人たちは、どんな気持ちで世の中を見ているのだろうか。同じような色彩で目に映っているのだろうか。と、想像出来もしないものを想像しても仕方ない。担当者が来たので、僕は仕事に取りかかる。
故障内容は排出部での紙詰まり。二日前にモトヤマさんが訪問して修理をしたが、すぐに現象が再発してしまったらしい。その時の作業報告書を見せて貰うと、定着器内部の清掃を行ったと書いてある。おそらく、ヒートローラーにこびりついたトナーを、ガリガリと削り落としたのだろう。
最近、こうした再修理の仕事を振り分けられる機会が増えてきた。他人が一回修理を試みて失敗したものを、僕が改めて修理する。これは、それなりに技術が評価されているということで、そりゃ男たるもの仕事の能力を認められて嬉しくないことはないのだが、それは同時に作業の難度が上がり、時間効率が落ちるということを意味しているわけで、一台いくらで給料を貰っている僕としては痛し痒しである。
「いやあ、おととい修理に来て頂いて、すぐ翌日にまた詰まっちゃったんですよ。で、その時のまま手を触れずに置いてあります。そのままの方が原因がわかりやすいと思って。どうですか? 私の所見では以前と同じ、定着器の場所で詰まっているようなんですが。前の修理では処置しきれなかったんですかね」
その四十がらみのでっぷりと太った男は愛想の良い早口で言った。
『定着器』というような言葉の使いかたから、自分も機械に対して無知ではないのだというようなほのめかしが伝わって来る。
悪意は感じないが、「どうです、私も知ってるでしょう? 凄いでしょう? 見直したでしょう?」という意図が透けて見えるの。僕にそんなアピールをして、何の意味があるのだろうか? こういう場所で働くいい大人でも、案外子供っぽいのだな。
再修理は大抵難しいものだが、今回は案外簡単な内容であった。定着器の排紙部に、小さな黒い爪がいくつかついているのだが、その部分に用紙がひっかかって、アコーディオンのように折りたたまれた形で詰まっている。紙を取り出してよく見ると、爪が半分外れ掛かっていた。ただ紙が詰まっただけではそんなふうに外れたりはしない。
この爪の裏は、トナーがこびりつきやすい場所だから、モトヤマさんはそれを取り外して清掃し、そして取り付け直すという作業をしたのだと思う。その時に、うっかり取り付けをしくじってしまったのだろう。状況的にそうとしか考えられない。テストでは偶然正常動作してしまったものだから、その場では気がつかず、帰ってから再発して恥をかくはめになったのだ。よくあることだ。僕もやったことがある。
爪を取り付け直してからテストをすると、今度は何事もなく排紙された。念のため、客に頼んで二十枚ほど連続印刷をしても、問題がない。
「いやあ、すっかり直りましたね。何か、前の処置に間違いがあったんですか?」
「いえ、前の作業で直した場所とは別のところにトラブルがあったんです。不具合が複合していると、なかなか発見が難しいものですから」
作業自体に失敗していたとも言いにくかったので、そう誤魔化した。
「ああ、じゃあやっぱり、こうして止まった状態のままにしておいたのがよかったんですね」
「そうですね。ありがとうございます」
話を合わせると、担当者は上機嫌に何度も頷いていた。
報告書を渡し、入館証に確認のサインを貰い、これで無事に作業が完了した。まだ少し時間は余っている。館内の見物でもしてから帰ろうか、というところで僕の体に異変が起こった。
急に鼻血が出てしまったのである。
炎天下を歩きすぎて、のぼせてしまったんだろうか? 慌ててトイレに駆け込んで、鼻を流水で冷やすが一向に止まる気配がない。
嗚呼、こんなところでNHKの社員が入ってきて、洗面台を赤く染めている姿を見られたらいやだなあ。変に心配されたくないなあ。
どうしようかと考えて、ふと、駅前で貰ったポケットティッシュがあったのを思い出す。シャツを汚さないように上体を倒して洗面器に顔をつっこんだような姿勢のまま、ズボンの後ろポケットに入っていたそれを指先でひっぱりだし、鼻腔に詰め込んだ。
外から見えぬよう、硬く丸めたものを奥に入れたが、これで出血をすべて受け止めるにはあまりに心許ない。トイレを出て少し歩くと、すぐにこぼれ落ちそうになる。僕は顔を若干仰向けにして、血液が喉の奥に流れ落ちるようにして、それをごくごくと飲みながら廊下を歩いた。食道の奥から、生臭い血液のにおいがする。通り過ぎるNHKの社員たちが、エリートたちが、不審げにちらちらと視線を送って来る。
せっかくだから、ここの食堂で昼食をとろうと思っていたのに、これじゃあとても無理だなあ。焦ってトイレを出てしまったのがまずかった。早く表に出て、どこかのトイレに飛び込んで、もう一度しっかりと処置をしなおさなければ。
仕事はうまくいったのに、どうしてこんな情けない事態に陥ったのか。僕は、天下のNHKのなかで、よその会社の名前を名乗って、誰だか知らぬ他人のプリンターを直して、鼻から血を出して、一体、何をしているのだろう?
その日の夜はいつもより少し早く仕事を上がり、真赤と焼き肉を食いに行った。
平日だというのに店内は混雑しており、その盛況に入り口でまごついていると、黒いエプロンを身につけた店員がやって来て早口でカウンター席に案内される。
右隣は三十代くらいの二人組のサラリーマン、左隣は熟年のカップルがいて、それぞれ目の前に黄色がかった金属の七輪を置き、炭火で畜肉の薄切りを炙っては食っていた。
最初のオーダーで、僕はビール、真赤はウーロン茶を頼み、あと肉を何皿か頼んだ。店員が去ると、僕はネクタイを緩め、シャツの一番上のボタンを外した。
ここはまだ開店したばかりの牛角だった。この店は、少し前に渋谷で人気となって行列を作っていたのを知っていたが、瞬く間にあちこちに店舗を増やしている。こうして家の近くに出来たので、真赤と待ち合わせ、どんなものかと様子を見に来たのだ。
その店は思ったよりも手狭なしつらえで、客は肩をくっつけるようにして席に座っていた。こんなに狭い空間で、一席ごとに炭火を使っているのだから煙たくなりそうなものだが、頭上のダクトが七輪から立ち上った煙やら匂いやらをぐんぐんと吸い込んでゆく。
えらく力強いものだなあ。男らしいなあ。僕にはない何かを持っている。
一体どういった機構になっているのか、上体をねじまげてなかを覗こうとしても、真っ暗でよく見えない。しかし、もし急に停電が起きて、この換気が止まったとしたら、僕らはみな一酸化炭素中毒で死に絶えるのだろうか。狭い店内で死屍累々たる腐臭を放つのだろうか。とすると、この力強い設備が僕らを救っているのだなあ。
そんな感慨をよそに、飲み物と獣肉がやって来る。
「昼に鼻血を流したから、その補給として一杯食べないと」
真赤が笑いながら僕を馬鹿にする。
そりゃ食うさ。そのために来たのだからな。しかし、週に二回は焼き肉屋に来ているような気がするよ。真赤は偏食家で、揚げ物やら練り物やらが食えぬが、獣肉はすこぶる好むのだ。肉ならばなんでもいいらしく、ビーフジャーキーやらサラミやらを与えても、ひどく幸せそうにかじる。大体いつだって肉さえ与えておけば上機嫌だ。本質的に血のにおいが好きなのかもしれない。だから、わざわざ自分の手首を切ったりするのだろうか? 生理になると人格が豹変し、おそろしくて近づけなくなるのも、そのあたりと関係しているのだろうか?
今までは低収入なのもあって、焼き肉屋など滅多に通えるものでもなかったが、しかし、焼き肉屋というものは面白い所だと思う。人間、スーツなどを着て、オフィスなどというような名称の場所で、すまし顔でビジネスやら何やらしてみても、こんな狭いところにぎゅうぎゅう詰めになりながら、血の滴る牛肉の薄切りを、直火で炙って食って喜んでいるのだ。野蛮だなあ。人は、ぎゅうぎゅう詰めになって、牛肉なのだなあ。ぎゅうと、ぎゅう。わざわざ繰り返しても真赤は気づいてくれず、夢中で生焼けの肉を頬張って、
「今日の仕事はどこに行ったの?」
と、つまらぬ質問をしてくる。
「三軒茶屋とか、渋谷とか、恵比寿。あ、そうだ、恵比寿ではガーデンプレイスに行ったな」
「ガーデンプレイスって何?」
「知らないの? 恵比寿にある、マンションとかカフェとかが一緒になった複合施設というやつだよ。スカイウォークって言ってさ、恵比寿駅から、くっそ長い歩く歩道を使って行くんだ」
「歩く歩道?」
「うん」
「アハハ、『歩く歩道』じゃなくて『動く歩道』でしょ」
「……とにかく、その恵比寿ガーデンプレイスに行ったんだよ。今日。そしたら、バーか何かのオープンテラスで、白人がうまそうにビールをジョッキで飲んでやがってさ。平日の昼間から、顔を真っ赤にしてやがるんだ。こっちは汗だくになって働いているってのに、あれは何をしてるんだろうね?」
「お金持ちなんじゃないの」
「そうかもしれないな。まあ、きっと、時間に縛られない優雅な身分なんだろう。貧乏には見えなかったし。大体、恵比寿は金持ちしかいないんだよ。学生時代さ、駅から十分くらいのところに友達が住んでて、おれもよく遊びに行ってたんだけど、あの辺りの道を歩いてるとさ、白人がでっかい犬連れて散歩してるのを良く見るんだ。あっ、すみません」
そこで僕は届いたおかわりのビールを一口のみ、
「……懐かしいな。あの頃は、よく夜中に友達と一緒に食べに行ったりしてたっけ。知ってるか? 背脂がたくさん入ったギトギトのラーメンがブームだったんだよ。当時恵比寿はラーメンでも有名で、あちこちに雑誌で取り上げられた店があったんだ。で、あるとき、おれたちもその一つに行ってみようってことになってね。はやりとは違った、さっぱりとした上品な味のラーメン屋だったんだけどさ、行くと店の前にでかい外車が停まってるんだ。どこのお大尽が来てるんだろうと思いながらのれんをくぐると、深夜でがらがらの店内の奥の席に、一人、山城新伍がいたんだよ。山城新伍知ってる? びっくりしちゃったよ。で、山城新伍は一人で来てたくせにさ、テーブル一杯に料理の皿を並べて、全部一口ずつ食べただけで、あとは残して帰っちゃったんだ。芸能人ってのは豪快なもんだ。だけど、片付けてる店の人は寂しそうだったね。そりゃ、沢山頼んで貰えれば売り上げにはなるだろうけれど、自分で作ったものをほとんど捨てるのはね。あれは切ない姿だなあって、友達と話してた。やっぱり人生というものはね、金だけじゃ語れないんだよ」
「ふうん」
僕はいい気になって話していたのだが、真赤はいかにも興味がない、という生返事をよこすだけだ。
「まあ、そういうわけでね、当時はガーデンプレイスにもよく行ったのさ。クリスマスになるとイルミネーションが綺麗でねえ。友達と酒を飲んだ後に見に行って、別に騒いでたわけじゃないんだけど、噴水のところで水をぱしゃぱしゃやってたら、深夜に何を不審なことをやってるんだって、警備員に怒られたりもした。しようがないから、その後は渋谷まで歩いていってね、駅前で、女の人に声かけてた。早朝だったから、みんな心底不快げな態度で断って、そりゃあひどいもんだったよ」
「それは、楽しそうなことで、なによりです」
「あ、怒った?」
「怒ってないけど」
「なんだか懐かしくなっちゃって」
「怒ってないから」
と言いながらも、あからさまに不機嫌な態度であった。そうして、焼いた肉をぱくぱくと食べている。
「あ、そうだ。じゃあお盆の話をしようか?」
七輪の上の肉がことごとく真赤に食べられてしまったので、僕は新しいカルビを網の上に並べながら尋ねる。
「夕方に、連休のうちに何かやりたいことがあったら考えておけって言ったでしょう? 何か決めた?」
「うん、決めた」
「何?」
「私、京都に行きたい。それで、オシノさんに会おうよ」
「オシノって、こないだお前が二人で会ったって言ってた人だっけ?」
「そうそう、京都に住んでる私の友達の女の人」
「タミさんがいつもニコニコしてるって言ってた?」
「そう」
真赤が言っているのは、もちろんインターネットの人物である。最近仲良くしているらしく、頻繁にメールをやりとりしているのは僕も知っている。タミさんもオフ会で東京に来ていたその人と一度会ったことがあるらしいが、僕は見たことがない。
「水屋口さんに紹介したいの」
と、真赤が他人を、しかも女性を紹介しようというのは滅多にないことなので、意外だった。
「ねえどうかな。京都に観光しにいって、ついでにオシノさんに会うの」
「悪くないよ。おれも旅行は好きだし、お盆休みに少し遠くまで足を延ばして、観光してみるのはいいと思う。でも、オシノさんって人はさ、おれのことなんか知らないだろうし、そんな風に押しかけるみたいに、二人で会いに行っても大丈夫かな。冷静に考えたら、おかしいだろう。おれとお前で揃って、京都に会いに行くだなんて。一緒に住んでるとは知らないだろうし」
「大丈夫。本当にいい人なんだから。それに、水屋口さんのサイトは知ってると思うよ」
「サイトを知ってるんじゃ、ますますいやな感じだな」
僕は苦い顔をしたが、京都に行くこと自体は異論がない。真赤がそこまで言うのなら、ということでその話はそこまでにし、そうして僕たちは牛肉をむさぼり食い、タクシーで家に帰り、風呂に入ってからカビ臭い同じ布団で寝た。
「なんだか、このプリンター、ベタを印刷するとムラが出るんですけれど」
作業を終わらせた僕に、待ち構えていたかのように、担当者が言う。
彼はデザインパーマをかけて、誰か知らない外国人の顔がプリントされたTシャツなどを着ている。僕にはあまり良い柄のシャツとは思えないけれども、やはりそこは、デザインやらアートやらを職業にする、感性の優れた人間にしかわからない良さというものがあるのだろうか。
「色のバランスもね、どうも微調整が出来なくて、思ったような発色が出来ないんですよ。何か、機械的な調整はないんですか?」
僕は個人経営のデザイン事務所に来ていて、担当者はその社長であった。と言っても、まだ若い。三十に届くか届かないかといったところだろう。これからデザインの世界で戦っていこう、というあふれんばかりのモチベーションが、プリンタの発色にもこだわらせているらしい。
「機械の調整によって色味を変えるというのは、ちょっと難しいですね」
僕は肩をすくめて見せた。
そうは言ったが、実は、裏技的な技術として、とあるネジを緩めたり締めたりしてトナーの供給量を変え、発色のバランスを変えるという方法もあるにはある。が、そのネジは本来そういった用途のものではなく、緩めることによって別のトラブルの原因にもなるし、出来ればやりたくはなかった。
「じゃあ、これがこのプリンターの仕様だっていうんですか?」
「ええ、申し訳ありませんが」
インクジェットプリンターならまだしも、このタイプのカラーレーザーは、オフィスの書類に色をつけるといった用途に用いるべき物で、プロのデザイナーを納得させるだけの発色能力は最初から持ち合わせていないのだ。
担当者は、なおも納得出来ずにしかめっつらで立っている。
こういったクレームはよくあるので、僕は持ち歩いているサンプルを複数見せて、どれも中間色に弱く、広い面積にベタやグラデーションをやらせるとムラが出来てしまうということを説明した。取扱説明書にもそのあたりの説明は掲載されているので、一応示すが、まあそれでは了解しないのはわかっている。
「それはおかしいじゃないですか。テレビのCMでは、有名タレントを使って、まるで写真のような画質だとか、立派なこと言っていますけれど、実物とまるっきり違うなんて。誇大広告って、訴えますよ?」
それはまったく同感で、何度も同じクレームに当たる僕としても、あんな、美辞麗句に満ちたCMなど、さっさと訴えられて、そして現実に即したものに改善して欲しいと常々思っているのだ。が、まさかそう正直に本心を吐露する訳にもいかない。
「申し訳ありません」
頭を下げて、愚痴るだけ愚痴らせれば、そのうち気が済むだろう。大抵の人は、プリンターのことで長時間怒り続けるよりも重要な仕事を抱えているのだ。思った通り、言いたいだけ言って気持ちが落ち着いたのを見計らうと、すかさずサインを貰い、その場を後にした。
もう十九時になっており、夏と言えども空は暗くなりはじめ、かわりに無数の電灯に明かりがともっている。東京は、夜になればなったで昼とは別の活気を持ち始める。
今日はもう帰れるだろうか? 追加の仕事があるのだろうか? この中途半端な時間でもう一件入れば、終電コースになりかねない。おそるおそる事務所のマトバさんに報告の電話をすると、幸い帰社を許されたので、ほっとため息をつく。
こうして、僕の盆休み前の最後の仕事は終わったのであった。明日からは晴れて、連休である。そうして、京都旅行である。
休みのことを考えながら事務所に戻ると、モトヤマさんが生真面目に資格の勉強をしており、それをヤオイタさんにからかわれている。向こうでは、太っちょのナガノさんがまた何かやらかしたらしく、「ぶーちゃんはもうちょっと、ちゃんとしてよお。おれも怒っちゃうよお?」と、マトバさんが悲鳴を上げている。部屋の端ではアラガキさんが珈琲を飲みながら伝票整理している。今日は早めに会社に帰れたつもりでいたが、みながそれよりも早く帰っているのに驚く。
夜の事務所は外回りを終えた解放感から、穏やかで静かな空気が流れている。そのなかで、僕は今日作業した分の書類を済ませた。
マトバさんの席にある提出ケースににはうずたかくファイルが積み上げられ、チェックを待っている。僕は、その一番上に自分のファイルを載せた。
書類をチェックするのはマトバさん一人だから、いつもここで時間が掛かる。机に伏せていると、そのまま眠ってしまいそうになったので煙草を吸いに出た。
すると、喫煙所のところでキサラギさんとミタ君が、煙草を吸いながら床に作業内容が未記入の報告書を並べているのに出くわす。明日の朝の仕事の振り分けを行っているのだろう。お盆初日となる明日も、会社は営業を行い、キサラギさんもミタ君も出社するのだ。休みを取る僕は若干気まずさを覚えつつ、自分の煙草に火をつける。
「明日も結構仕事入ってるんですか?」
居心地が悪いままそう訊ねると、
「まあ、少なめかな。どうってことないよ。安心して連休を遊んでおいで。彼女とどこか行くんでしょ?」
キサラギさんはそう言って笑う。
「なんだか悪いみたいですね」
「なんだったら、働いて行ってもいいんですよ? 給料は出ないかもしれませんが」
からかうように言うミタ君と、冗談を言い合っていると、マトバさんのOKの声が聞こえ、僕はキサラギさんたちに軽く会釈をしてからエレベーターに乗り込んだ。
若干体が熱っぽい。別段病気というわけではないのだけれど、ここのところずっと、微熱が下がらず、七度から、七度五分あたりの体温をゆらゆらと上下している。真夏の街を歩き続けているせいで、体温調節機能がおかしくなってしまったんだろうか。自律神経でもいかれてしまったんだろうか。いずれにしろ、この連休の間に、快復してくれたらいいのだけれど。
買い換えたばかりの革靴の感触を気にしながら家に帰る。やっとこれで休める。ため息をついた僕を真赤がご機嫌で出迎える、のは良いのだけれど、足を踏み入れた部屋全体に、異様な匂いが漂っていた。
「なにこれ?」
悪臭に顔を顰めながら尋ねる。
「あのね、ゴミ箱がにおって、部屋全体が臭くなっちゃったから、水屋口さんの香水を振りかけたの」
「えっ、何でそんなことしたの?」
「いい匂いでしょ?」
真赤は嬉しそうに言うが、僕はすっかり腹が立ってしまった。
そりゃ、好きで買った香水だけれど、部屋にこんなに大量に振りまかれていたら気分が悪い。有り体にいって、げろを吐きそうだ。
そもそもね、ゴミが臭かったなら、捨てて掃除して換気すればいいじゃないか。何故、香水なんぞを振りまいてしまうんだ? 一日中働いて、クタクタになって、やっと帰って来た自分の部屋で、どうしてげろを吐かなきゃいけないんだ? ちょっと想像して欲しい。外で汗まみれになって、家ではげろまみれになる生活を。それに、明日から旅行だというのに、何にも準備していないのもおかしいよ。メールで、まとめておけって言ったでしょう? ネットを見ていたら時間を過ごしてしまったって、いつもいつもそればっかりじゃないか。まったく、何を考えて居るんだ。
大声で怒ると、真赤はわんわんと泣き出した。よかれと思ったのに、無惨に怒られてしまったのが切ないのだろう。その心情を思うと気の毒だったけれど、僕だってくらくらとしている。わかったよ、もういいよ、と言い捨ててそれでおしまいにしようと思ったのだが、真赤はなかなか立ち上がろうとしない。うんざりとする。
どうしたの、とまだ態度に怒りを残したまま尋ねると、ひっくひっくとえずきながら、涙目で僕を見た。
そこで立たせて、あっ、と気がついた。真赤は座ったまま小便を漏らしてしまっている。下着と、万年床の端を濡らしてしまっている。僕はそれを見て、うっかり声を立てて笑ってしまって、もうどうでも良くなった。そして、その後始末をしてやった。
「もう仕事やめてほしい。働かないでほしい」
シャワーを浴びて、清潔な服に着替えた真赤は、まだ泣きそうな顔でそう言った。
「仕事をするようになってから、いつもイライラしてる」
「そんなことないよ」
「そんなことある」
「ただスケジュールがタイトになってるからそう見えるだけだって」
「違う」
まあ、違うかもしれない。実際のところ、自分でもそう思う。が、働かない訳にもいかぬ。多少忙しいとは言え、ここより条件の良い仕事が、そうそうあるとは思えない。金銭面でも、人間関係的にもだ。
「お願いだから、もうやめてよ。そうしたら私が働くから。それで、水屋口さんは家で好きなことしてて。それが一番いいと思う」
「何言ってるんだよ。そんなの、出来るわけないじゃないか」
真赤は繰り返し主張し、そして僕が繰り返し否定する。やがて彼女は渋々引き下がったが、納得はしていないようだった。
最近真赤は、ことあるごとに辞めろ辞めろと言う。ある朝なんぞ、スーツに着替え家を出ようとする僕の腕にすがりつき、
「今日は、全然眠れてないじゃない! 仕事に行かないで! もうやめて!」
と泣くのだ。
しかしそんなわけにはいかない。僕だって仕事が好きというわけでもないけれど、休みがちではあるけれど、客と約束をした日は休めない。強引に出ようとしたが真赤は離さない。綱引きのような格好で玄関を出て、通路まで引きずったが、裸足のまましがみついている。このまま表の往来までついて来たら、彼女の足の裏はずたずたになってしまう。それに、部屋に押し戻したにしても、こんなに興奮したままでは心配だ。タミさんもT川君もいない日だったのである。
困ったな、と途方にくれかけたところで、騒ぎを聞きつけた106号室の逆野が眠そうな顔で出て来たので、
「ちょっと、こいつを頼む。今日誰もいないんだ」
と押しつけて会社へと向かったのだ。
確かに僕は、最近よく真赤を怒っているような気がする。しかし、そうしないと稼げないのだし、仕方がないじゃないか。何だか、末期的な生活を送っているような気がして、狭い部屋がいつもよりも暗く感じられた。
真赤をなだめて、それから深夜までかかって二人で旅行鞄に荷物を詰め込んだ。それでも終わらなかったので、翌朝に早く起き出して準備を済ませ、すると、すでに九時を過ぎている。僕たちは慌てて家を出た。
電車を乗り継いで新横浜まで行くと、朝早いとは言えやはり盆休みであるせいか、新幹線の指定席は売り切れている。自由席には乗りたくないので、グリーン車の隣り合った席を二枚買って、一枚を真赤に渡した。
予算は充分に用意している。僕らは普段、特別節約したり我慢をすることはなかったが、それでも毎月収入の半分ほどが余っていたので、それが貯金になっていた。僕らは案外金を遣わない。コンビニで値札を見ずに商品をカゴに入れたり、歩くのが面倒な時、たまにタクシーを使うくらいのものだ。服は青山の安売りのスーツで十分どころか、ブランド物というものが嫌いなのでむしろ望ましい。他の日用品も、大体そのような具合である。そして、休みは家で寝ているのが一番楽しい。
どうしてこんなに小市民なのだろう? もっと夢と希望にあふれる若者ならば、いくら金があっても足りないはずなのに。僕は足りないどころか、余らせてしまう。僕にしては多いにしても、世間からすれば特別な高給取りとも言えない額なのである。
自分の世の中に求めるものの少なさに眩暈を覚えつつ、新幹線の座席に腰をおろすと、すぐに眠くなった。
体調は相変わらず良くなかった。寝起きに体温を測ったら、三十七度三分を示していた。今のうちに眠った方がよさそうなのだけれど、電車の中では眠れないたちだし、せっかくの久しぶりの新幹線が勿体ない。どうしようかと考えていると、
「ゲームボーイ貸してよ。遊びたい」
「ウイニングポストしかないけどいいの?」
「うん、やる」
バッグから取り出して渡してやると、ニコニコと笑った。ウイニングポストというのは、競走馬を育成してレースに出すゲームなのに、競馬のことを全く知らない真赤がやって面白いものなのだろうか?
真赤の機嫌は、昨日の今日で大分改善されている。朝からお喋りで、ゲームをやり始めても、出て来る競馬用語などをいちいち僕に尋ねてくる。
そうしているうちに新幹線は動きだし、ゆっくりと新横浜のプラットホームを離れた。
遠くに出かけるのは、久しぶりだ。京都に行くのも、久しぶりだ。前に行ったのは、二年ほど前だったろうか?
それは寒い冬のことで、同行者はなく、僕は一人だった。
花園シャトーに来る前の、逆野と二人で2DKのアパートに住んでいた頃である。アルバイト代を貯めて、ぎりぎりの費用しかない貧乏旅行だった。
京都、大阪とまわって、結局一週間くらい関西に滞在したのだろうか。夜になると雪の舞う京都で、安い旅館にチェックインした僕は下品な金髪姿で、薄汚れたジーンズを穿いていた。フロントの女は露骨に不審の視線を向け、口調もぞんざいで、僕は内心で舌打ちしたのを覚えている。
あの時僕は自分の部屋で文鳥を飼育していた。出かける時に、餌と水をやっておいてくれるよう書き置きを残したのだけれど、逆野は読んでいなかったらしい。帰るとその小鳥は、乾燥した草を編んだつぼ巣のなかで硬くなっていた。毛の生えそろわぬ小さな雛から育てたのだけれども、可哀想なことをしてしまった。鳥が死ぬことを落鳥と言うらしい。その叙事的なニュアンスが、かえってもの悲しくて、いい表現だと思う。
「あっ、そうだ」
僕は相変わらずゲームに熱中する真赤に声をかけた。
「帰って来たら、文鳥を飼わない?」
「文鳥?」
真赤は顔を上げる。
「うん、連休のあとの休みにでもペットショップに行ってさ、雛を買ってくるんだ。生まれたての、ちっちゃいやつ。ゲームで競走馬を育てるより、きっと楽しいと思うよ」
「いいと思うけど、でも、どうしよう。私、何かを育てるの下手なの。観葉植物とかも、すぐ枯らせちゃう」
真赤は寂しそうに言う。
「そうなの?」
「前に言わなかったっけ? あの原宿のマンションでもね、サボテンを育てようと思ったんだけど駄目にしちゃった。サボテンを枯らす人なんて知ってる? 自分でも、ちょっと異常だと思う」
「まあ、それでも大丈夫だよ」
「本当?」
「おれは一応雛を育てたことあるから、やりかたをわかってる。任せっきりにしなければ大丈夫でしょう。二人で育てよう。お前は生き物を育てたほうがいい」
「うん、それならいいな。飼ってみたい。……でも、どうして急にそんなことを言い出したの?」
「何というか、おれたちの生活に欠けているのはね、心のうるおいだと思うんだよ」
「うるおい?」
「そうだよ。元々殺伐とした生活を送っているけれども、特にここのところ、乾燥の度合いがひどすぎるように感じる。このままじゃ、いいことなんか何も起こらない。そして精神が破滅する。だから生活に何か変化が必要だと思わない? そもそもね、二人っきりで、あの閉塞した狭い部屋で文句を言い合ってたら荒廃するのも当然なんだよ。生き物などを育てたら、ほんの少しはなごむんじゃないか?」
僕の理屈はともかく、動物を飼うというのは真赤も賛成のようだった。うんうんと頷いて、了承の意を示す。
そして新幹線は走り続ける。
久しぶりに乗った新幹線は随分と快適で速かった。前の時は切符をけちったものだから、遅くて遅くてしかたがなかった。ほら、いまは静岡でしょう? 僕は窓の外の富士山を指さす。ここは、タミさんの故郷だ。嗚呼、浜松でウナギを食べたいな。そんな時間はないか。
「以前におれが一人旅をした時は、東海道本線っていう電車を使ったんだけれどね、これが遅くて、いつまで乗っていても静岡で、一生静岡から出られないんじゃないかと思ったよ。しかも、乗ってるうちに段々暗くなって来てね。乗客も少ないし、聞いたこともないような名前の駅に止まるしで、まるで銀河鉄道に乗ってしまったみたいだった。愛知に入る頃には完全に日が暮れていて、そして滋賀の米原で乗り換える頃には、真っ黒な夜空から雪がちらほらと舞い降りていた。今でも思い出すよ。この世の果てに来たような気がしたんだ。その雪を見ながら、今日のうちに京都にたどり着けるかなあと、どこかで宿泊しなくちゃいけないのかなあと、不安にもなった。あれに比べると、新幹線ってのは速いね。いくら静岡が広いといったって、昼のうちに京都に到着するわけだからね」
僕が語るのに、真赤は聞いているような聞いていないような顔をしながら、車内販売のジュースを飲んでいる。
彼女が京都に行くのはこれがはじめてなのだそうだ。関東の学生は、中学か高校の修学旅行で一度は京阪を訪れるのだが、それもない。
「あっ、登校拒否してたから?」
「ううん。学校はサボってたけど修学旅行は行ったよ。ただ京都じゃなかった」
とのことで、初めての京都を大層楽しみにしているようだった。そして京都でネットの友達と会うのも、楽しみにしているようだった。
「そう言えばさ、オシノさんにはちゃんと伝えてあるの? 一緒に行くのがおれだってさ」
「う、うん」
口ごもるのが不審だったので尋ねると、どうも真赤はオシノさんに対し、他人の家に居候をしていることは伝えてあり、そこの住人と一緒に京都に行く、とも伝えているようなのだが、その同伴者というのが男で、しかもこのミズヤグチであることはまだ伝えていないらしいのだ。
「どうして?」
「なんとなく……」
「これから会うってのに言わない理由が全然わからないな。相手がびっくりしちゃう。今からでも遅くないから言ってきなよ。新幹線のなかからでも電話かけられるでしょう?」
と促すと、渋々席を立った。
「なんだか驚いてた。あ、そうなの、そうなの、って何度も言ってたよ」
帰って来た真赤は、おかしそうにケタケタと笑う。
そうして僕たちは京都駅に到着した。
新幹線を出るとうだるような暑さで、ホームから見える京都タワーが、真夏の日差しを浴びてギラギラと輝いている。
京都駅構内の壁は、石だかタイルだか知らぬが、真っ黒でつややかな素材で全面が覆われており、和を意識しているのだろうけど、僕にはむしろSFめいて見えた。前に来たときはこうだったろうか? 思い出せない。
オシノさんとは祇園四条という地下鉄の駅のあたりで待ち合わせをすることになっていた。少し時間があったので、駅構内の喫茶店でお茶を飲んでから出発する。
キャスターのついた旅行鞄をガラガラと引きずって、街に出た。雑然とした関東平野で暮らしてきた人間には、京都市の碁盤の目状に整えられた道路も、四方を山に囲まれた閉塞感も物珍しく、歩いているだけで旅情を覚える。
祇園四条駅というのは四条大橋のそばにあるらしい。あの有名な牛若丸と弁慶の逸話があるのは、あれは五条だったっけ。河原町の繁華街を抜けて、ゆったり流れる鴨川に掛かった橋を渡ったところに、地下鉄の入り口があり、そこで待っていると女性が遠くから自転車を漕いでこちらへやって来るのが見えた。鴨川べりをサイクリングとはなかなか風情があるなと思っていたら、それがオシノさんだったらしく、真赤が呼びかける。
「お久しぶり! これがミズヤグチさん」
近くへ来て、自転車を降りたオシノさんと挨拶を交わした真赤は、そう言って僕を紹介する。
「どうも。水屋口です」
「あっ! は、はじめまして、オシノです」
オシノさんは何故かあたふたと焦りながら会釈を返した。あがっているのだろうか?
オシノさんは十九歳と聞いていたとおり、年齢相応に見える。黒い髪をひっつめでまとめ、夏だというのに長袖のシャツを着ていた。
「遠かったですか?」
二人と会うのに若干緊張しているのか、硬さの残る京都訛りで彼女は言った。
しかし、自転車で来ているということは、本当に近くに住んでいるのだなあ。旅行に来た先で、その地の人とこんな風に挨拶をすることになるインターネットというものに、いまさらながら不思議な感慨がある。
「ああ、オシノさん、会えて嬉しい!」
真赤も喜んではしゃいでいる。人に会ってこんな反応をする彼女は珍しい。一体どこが特別なのだろうか?
「まあ、ここで立ち話をしていても仕方ないから、どこかに入ろう」
炎天下の路上に立ちつくしているのが辛かった僕は、額の汗を感じながらそう提案した。
「オシノさんは、面白い観光地を知ってますか?」
「いや、あの、うちはそういう、面白い場所とか全然知らなくて……」
オシノさんは戸惑いを見せる。
「僕お寺とか見るの好きなんで、普通に有名な観光地とかでもいいですよ。金閣寺とか銀閣寺みたいなところでも、地元の人間としてお勧めがあったら」
と尋ねてみても、オシノさんはやはりわからないと首を横に振るばかりだ。
それどころか、僕が今あげた金閣寺や銀閣寺の位置さえ知らないと言う。一度も行ったことがないと言う。むしろ、そういう寺がこの近くあるのかと、はじめて聞いたとでも言いたげな態度である。
「もしかして、京都で暮らしはじめたのは最近なんですか?」
「いや、生まれたときからずっと京都なんだけど、市内じゃなかったんです。それに、そういうものに全然興味がなかったですし」
オシノさんは渋い顔をする。
「興味ないって言ったって、ここで生きてればいやでも目に入るでしょう。京都なんかそこらじゅうお寺とか神社じゃないですか。向こうの山なんか名刹だらけじゃないですか」
僕が彼女の背後の山をさすと、
「へえ」
感心したように言う。大丈夫なのだろうか?
ここで立ち話をしていても汗をかくばかりだ、少しでも涼しかろうと、鴨川のほとりを歩きながら行き先を考えることにした。
真赤とオシノさんが楽しげに会話をしている間、話に交じれない僕はバッグを引きずり、砂利を踏みしめながら、ときどき相づちを打っている。
川を渡る風はほんのり冷たくて、汗にぬれた首筋に心地がよかった。
ふと顔をあげると、鴨川沿いの飲食店は、どの店も、川岸にバルコニーのようにせり出した、木組みの座敷を持っている。これが、『床』というやつか。話には聞いたことがある。まだ明るかったが、ちらほらと酒を酌み交わす客の姿が見えはじめている。
「あれ、涼しいのかなあ。ああいうところで食事出来ないのかな?」
オシノさんに尋ねてみると、
「どうなんやろう? 使ったことないからわからないけれど、でも、なんだか高そうですねえ」
要領を得ない返事がかえって来る。本当に京都在住なのだろうかと、段々心配になってきた。
とにかくどこかで食事をしようということになり、僕たちは川岸を上がる。
飲食店が軒を連ねているが、やはりオシノさんはどの店も知らない。甚だ頼りにならぬ現地人だが仕方がない。歩きながら目についた店を適当に選んで、足を踏み入れる。そして席に案内されると、飲み物と、看板メニューであるという汲み上げ湯葉を注文した。
「オシノさんは、アルコールは飲まなくていいの?」
「うちはいいです」
「そうかあ。遠慮しないで、食べたいものはなんでも頼みなよ。ガイド料ってことで、おれが出すから」
「いや、いいですよ。何もしてないし」
「大丈夫だよ。旅費は余裕あるし」
と促しても、結局オシノさんは遠慮して自分では何も選ばなかった。
そして僕はここで看板料理である汲み上げ湯葉を頼んだのだけれど、これが間違いだった。
四角い鍋に豆乳が張られ、これを下からコンロで熱すると、表面に湯葉が張る。そうしたら箸でつまみ上げて、ポン酢やらなにやらをつけて食すのだと、運んできた店員が説明をした。
はじめのうちは面白くもあり、美味しく食べられるのだが、とにかく量が多かった。汲み上げても、汲み上げても、次々と湯葉が出来上がる。鍋には一リットルほど豆乳が張ってあるのだが、もしかしてこれが全て湯葉になるのだろうか? いくら面白くとも、所詮は豆乳のタンパク質の味である。真赤とオシノさんは途中で飽きて、他の料理を注文して食べ始めた。残った僕は、目の前で次々と出来上がる湯葉を放置することも出来ず、結局最後まで延々と湯葉のみを食べ続けた。
店を出ると、真赤はもうしばらく湯葉は食べたくないと、うんざりした顔で言う。僕は、出来ればもう一生口にしたくないような気分であった。
辺りはもう暗くなっている。古着屋でアルバイトをしているというオシノさんは、真赤に紙袋一杯の服を渡して、自転車で去って行った。
「いい人だったでしょう」
「うん」
ほとんど会話をしなかった僕は、豆乳臭いげっぷを吐きながら、適当にあわせた。
真赤とオシノさんは、ネットの話ばかりをしていた。京都でも、やっぱり話すのはテキストサイト界のゴシップなのかと思うとおかしかった。
長時間の移動は思いの外体に疲労を残している。まだ少し早い時間ではあったけれども、荷物を持ってうろうろするのも面倒くさい。今日はもう休んでしまおうということで、僕たちは予約をしておいたホテルに向かった。
僕が選んだのは、京都の風情も何もない、ごく平凡なビジネスホテルである。
冷房のよく効いたロビーで、フロントには中年の女が立っている。仕事のおかげで、どんなかしこまった場所でもなんとも思わずに出入り出来るようにはなったけれども、スーツを着ていないと、そして真赤を連れていると、多少他人の目に自分たちがどう映っているのかが気になった。
真赤は十六歳である。二十四歳の僕と二人、どちらも年相応にしか見えない。このフロントの女がどんな風に判断するのかと想像すると、若干の警戒心が出てしまう。
「予約の水屋口です」
よそ行きの声を作って自分の名前を告げると、宿泊者の名前を書けと、用紙とボールペンを手渡された。
僕はそれに『水屋口悟』と書き、真赤にペンを譲る。すると、それを手に取った彼女は僕の顔を見てニヤッと笑い、そのまま迷うこともなく、『水屋口真赤』と書いたのである。
真赤は満足げな顔でその用紙をフロントの女に渡す。その隣で僕は、若干照れくさかった。
翌日は九時に目を覚ます。
今日も一日をたっぷり使って観光を楽しんでやろうと、先に起きてガイドブックなどを眺めて今日の予定を立てていたら、やがて真赤も起き出して来た。
「どこに行くの?」
「決めてないけど、清水寺でも行こうかと思ってる」
そして、僕はオシノさんからどんな服を貰ったのか、ちょっと見てみようと提案した。真赤はうんと頷き、ベッドの上に一枚ずつ広げる。
「どれが似合うと思う?」
尋ねられたので、僕はそのなかから青いワンピースを指さし、
「これがいいんじゃないかな」
と言うと、真赤はそれに着替える。そして、アハハ、アハハ、と笑いながらベッドの上で何度も飛び跳ねた。
スプリングがギシギシときしみ、音を立てる。ホテルでそんなことをしたらいけない、と注意をすると、おとなしくやめた後に、それでも気持が抑えられないのか、「えへへ」と笑った。
真赤が朝から楽しそうだから、やっぱり僕も気分がいい。
テレビをつけるとニュース番組をやっていて、小泉総理の靖国神社訪問が扱われていた。
「毎年毎年誰が総理でもニュースになるんだから、そろそろ夏の季語にしたらどうだろう? こいつを見ると、お盆が来たなあ、夏休みだなあ、という気分にならない? おれは、駄菓子屋で五十円で買ったかき氷の味とか、学校の水道水の鉄さびた味を思い出すよ」
と真赤に聞いてみたけれど、彼女は苦笑しながら肩をすくめる。それよりも、ニュースを伝えるアナウンサーの声に関西なまりがあることの方が気になるようで、やっぱり東京とは雰囲気が違うね、と、ブラウン管を眺めながら何度も繰り返していた。
その日も良く晴れて、焼けたアスファルトが陽炎を作り出している。今日はまず清水寺を見に行く予定だったけれども、余りにも暑くて仕方がなかったので、途中で日差し避けの帽子とミネラルウォーターのペットボトルを買った。真赤にも、何か頭にかぶるものを買った方がいいんじゃないかと勧めたが、帽子というものが嫌いなのか、首を左右に振った。
土産物屋がところ狭しと並ぶ坂を、生八つ橋の試食をつまみながら登って清水寺に辿りつく。僕は中学校の修学旅行と、前に一人で来たときと、そして今回で三回目であったけれども、真赤はこれが初めてだった。
前回に来たときは紅葉の季節も終わった寂しい時期で、人影も少なく、肩を寄せる熟年カップルを幾組か見かけただけだったが、さすがに連休となると混雑している。観光客でごったがえすなか、汗だくになりつつ、本堂だの清水の舞台だのを見て回り、音羽の滝の目の前の店で休憩を取った。滝の水がちょろちょろと流れ落ちるのを見ながら、僕は冷や奴をアテに日本酒、真赤はコカコーラを飲んだ。
せっかくだから、ひねりのない王道の観光らしい観光をしてみようという欲求はこうして清水寺を訪問することで、とりあえず満たされた。すると、あとはひたすら食うばかりであった。
市街に戻ると汁の色の薄い饂飩を食い、電車に乗って大阪に移動した。アメリカ村でたこ焼きを食い、道頓堀のまわりをふらふらと歩いた後に、お好み焼きを食った。そして早い時間にホテルにチェックインすると、夜に小腹が減って、真赤を誘って外に出た。
僕らが泊まったホテルは繁華街からは少し離れた場所にあり、付近には店が少ない。もう遅い時間ということもあり、なかなか営業をしている店を見つけられなかったところ、やっと見つけたその店は、木目の流れの美しい柱が印象的な、居酒屋であった。店内も純和風造りで、カウンターと、座敷の席が一つあるだけというこぢんまりとした店である。常連と店主が和気藹々と会話する、アットホームな雰囲気に、入るのを尻込みしていると、
「いらっしゃい」
と明るく声をかけられたので、引き返すわけにもいかなくなった。そうして僕たちは、奥の座敷に案内される。
大阪弁の飛び交う店のなか、関東弁の僕たちは自然小声で囁き合いながら、鮎の塩焼きを食ったり、日本酒を飲んだり。店の雰囲気も、料理の内容も、なかなかに贅沢であったけれど、どれも安く、新宿や渋谷の値段に慣れている僕からすると、ほとんど驚くような価格であった。
さらに、気さくに話しかけて来た店長に、
「美味しいです」
と素直に感想を伝えると、刺身を一皿サービスされてしまったのである。
店を出た僕たちは、すっかり気分が良くなって、こんな店がうちの近所にあったなら毎日来るのになあ、残念だなあ、どうして大阪なんだろう、などと話し合った。
翌日は心斎橋のふぐ料理店で「大阪ではね、当たると大変なことになるから、ふぐを鉄砲って言うんだよ」と、例によって余計な雑学をひけらかしながら、てっさとてっちりを腹一杯食った。
そして再び電車で京都に移動すると、新幹線の切符は来たとき同様、並んで座れるのはグリーン車しかのこっていなかったのでそれを買う。発車時刻を待つ間に、駅内のデパートをうろつき、試食が旨かったわらび餅を、うぐいす粉ときな粉、二箱ずつ買った。これを旅行の土産にして、帰ったらみなに振る舞うつもりだったのだけれど、電車が静岡にさしかかるころには、二人で全てたいらげてしまっていた。
新横浜で新幹線を降り、私鉄を乗り継いで、そうして僕らの街に帰って来たときは、もう真っ暗になっている。
月を見ながら僕たちは、花園シャトーまでの道のりを歩いていた。
夜蝉がジイジイと暑苦しい鳴き声を上げている。僕が引くバッグのキャスターが、アスファルトの上でガラガラと音を立て、手には震動を伝える。
真赤はオシノさんから貰った服に上下を包み、半ばスキップするように歩いていた。
いつも体の具合が悪そうにしているくせに、旅の高揚感のせいか、妙に元気で、旅行中は一度も疲れたところを見せなかった。一方僕は、この街に帰って来たあたりでバカンスの魔法は解けて、旅の疲労が体にも精神にものしかかり、眠くてたまらない。
「カメラある?」
真赤がそう尋ねるので、僕は旅の間に使った使い捨てカメラを取り出し、手渡した。
「まだ大分フィルム残ってるじゃん」
「そう? ちょっと、貸して」
取り戻したカメラで、道路の先からこちらを振り返る真赤の姿を適当にパシャリパシャリと連続して撮影し、フィルムを使い切る。
「もったいないよ」
「良いんだ。使い切らないで保管してると、現像に出すの忘れちゃうから」
「それ、現像に出すの?」
「そりゃそうだよ」
「そうかあ。私、現像に出すのが厭だから、カメラって好きじゃない。だって、プライベートの隙だらけのところが、現像する人に全部見られちゃうんでしょう?」
「そうだな。お前の間抜けなところがたくさん写ってるよ」
「ああいうのって、どうなんだろう。みんな、いやじゃないのかな」
真赤は顔をしかめる。
そして歩き出すと、ジッという音と共に足下から黒い小さな塊が飛び上がった。
「きゃっ」
真赤が驚きの声を上げ、飛び上がった何かは、すぐにまたアスファルトの上に落ちる。
水銀灯の青白い光の下、目をこらして確認すると、それは、弱った油蝉であった。
近づこうとするとその跫音に反応して、蝉はまた飛び上がり、そしてすぐにポトリと落ちる。必死で逃げようとしていも、死期が近づいて、もはや空を飛翔するだけの力が残されてはいないのだろう。
もう誰も助けることは出来ないのだ。
僕は近づくと、手を伸ばし、その蝉を拾い上げた。蝉は手の中で、ジッ、ジッと断続的に鳴き、羽をばたつかせる。そのまま近くの草むらに向けて放り投げると、もがく蝉は歪な放物線を描きながら暗闇に吸い込まれてゆく。
僕はバッグのところに戻ると、そのハンドルを掴み、また歩き始めた。キャスターは再びガラガラと音を立て始める。
八
アメリカで未曾有のテロ事件が起きた影響で、赤坂のアメリカ大使館付近には、大がかりな検問が敷かれていた。
車の通行を制限するバリケードが築かれ、警察官が辻という辻に立ち、道行く人間の足を止めている。高層ビルが建ち並ぶこの現代的なオフィス街で、こうして全ての通行車両をいちいち止めるような物々しい警備が敷かれているという光景は、現実感がない。赤坂にバリケード、というと、僕は昔に遊んだゲームを思い出す。
あのテレビゲームは、東京の街に大量に悪魔が出現し、路上をうろついていると悪魔に取り憑かれた人や、ゾンビとなって蘇った警察や軍隊が襲って来るというストーリーだった。あれには赤坂が登場し、そこにいるアメリカ大使は悪魔の化身で、東京にミサイルを落としたりする。僕はあのゲームで、東京の赤坂にアメリカ大使館があるということを知ったのだっけ。
あのゲームの主人公は悪魔を召喚するコンピューターを持っていたが、今の僕はプリンターの修理パーツを持っていた。そのパーツは、金属とプラスチックで出来ていて、配線が飛び出している。そして、たくさんの工具や計器も鞄に忍ばせている。
僕の目的の会社は検問の内側の、アメリカ大使館のすぐ近くにあったので、必定警察に呼び止められることになった。
「なんですか? これは?」
案の定不審な顔をする警官に、これはプリンターの部品で、修理に使うんですよと説明すると、それだけで通行は許可された。分解などをさせられるかと思っていたのだが、機械について、思ったより追及されなかったので拍子抜けだ。まあ警察も、検問はしたものの、本当にテロが起きるとは考えていないのかもしれない。
そうして赤坂で仕事を終えると、次は目黒に飛んだ。そこの作業は時間が掛かり、終わって外に出ると、すっかり雲行きが怪しくなっている。歩き出すと、すぐに雨がぽつぽつと降り出した。傘を買うためコンビニを探そうにも住宅地のど真ん中で、雨宿りする場所もない。駅までも遠い。
間もなく土砂降りになって、鞄を体で隠すようにしながら走り出すと、息が切れた。もう夏は終わったというのに、炎天下を歩いた体はどこか壊れてしまったのか、今でも微熱が落ちないまま続いており、喉の奥が痛く、いつもうっすらと吐き気がする。
ずぶ濡れになりながら駅まで辿り着いたころにはポケットの内側まで水が入り込んでいて、取り出した携帯電話も濡れている。いくらボタンを押しても、電源が入らない。先週新品に取り替えたばかりなのに。僕はゴミ箱に叩きつけるように携帯電話を投げ捨てた。
花園シャトー107号室は、今日も足の踏み場がないほどに散らかっている。廊下に放り出された誰かのTシャツを、濡れた靴下を穿く僕の足で踏みつけて歩く。奥の扉から光が漏れている。あの部屋は、つい先週までT川君がいたけれど、今は逆野が使っている。
逆野がU君と折り合いが悪くなったとかで、部屋を交換したのだ。彼らが共同でやっていた音楽サークルも、抜けたらしい。僕は経緯を全く知らなくて、結果だけを知らされた。一体、どんなトラブルがあったというのだろう。ついこの間まで、仲間を呼んでわいわいと騒ぎ、仲良くやっていたのに。
一方、タミさんの部屋の明かりは消えている。もう眠ったのか、それとも遊びに出かけているのか。共同生活をしていると言っても、おたがいの行動を把握しているわけではない。
濡れたシャツを洗濯機に入れて、自分の部屋のドアを開けると、明かりをつけたまま真赤は寝ている。奥の鳥かごで、文鳥の雛が、物音を察知してチュンチュンと鳴いている。真赤とホームセンターで選んだ時は、まだ桃色の肌にうっすらと細い羽毛が生え始めたばかりの醜い姿であったが、序々に鳥らしくなって来ていた。
鳥かごのそばに置かれた給餌用のスポイトには使った形跡があったけれども、真赤の餌のやり方は恐ろしく下手くそなので、信用出来ない。適温のお湯でふやかした餌をスポイトの先端から押し込み、雛の口元に近づけると大きく開く。欲しがるのをやめるまで餌を与えると、もう日付が変わっていた。明日は休むことが出来ない。今すぐ寝ても睡眠時間が足りない。体に蓄積された疲労が回復しないまま次の朝がはじまる。真赤は、行かないで欲しいと訴える。
柾木社長に電話をし、近いうちに仕事を辞めたいのだと相談すると、一度会って話をしようという流れになった。
午前中で仕事を切り上げさせてもらって、渋谷の中華料理店で社長と落ち合う。昼時を過ぎた店内は客もまばらで、僕と社長の他には、学生らしいカップルと、新聞を読みながら紹興酒を飲む初老の男がいるだけだった。
柾木社長が飲めと言うので、僕はビールの中ジョッキと、つまみの小籠包を注文する。あとは社長が、二、三品適当に見繕った。
「いやあ、うまくやっているそうじゃないか。評判を聞いているぞ」
彼とは、面接の日の後も何度か会っていたが、いつも変わらぬ笑顔だ。
「最近では、新人を連れて教えたりしているんだって? まだ数ヶ月なのに、大したものじゃないか」
「休みが多くて申し訳ないです」
「そうなのか? しかし、報告書を見ると、台数はしっかりこなしているから問題ないだろう。神田に行ってるヨシノ君は、月に八十件くらいしかまわってないぞ? きみより断然少ない。そうか、短時間で効率的に仕事をするタイプなんだな。素晴らしいことじゃないか。あっははは」
少し雑談をして、飲み物と料理がやって来て、それに箸をつけると本題に入る。柾木社長は僕を引き留めるつもりらしく、新しい条件を提示した。
「一台につき、五百円、いや千円増やしてやるからどうだ? そしたら、月五十万くらいは行くだろう。そんなに稼いでるやつは、なかなかいないぞ」
「有り難い話ですが……」
破格とも言えるその申し出は、かえって僕を憂鬱にさせるだけだった。
給料は今のままでも過分なのだ。僕の仕事のクオリティに見合っていないほどに貰ってしまっている。好条件を目当てにこの仕事を選んだとは言え、これはあまりにひどすぎる。不当であるというのは、多くても少なくても気持が悪くて仕方がないものだ。それをさらに増額して貰ってもちっとも嬉しくはない。何事も、適度に行われるというのが一番気持ちが良い。
しかし、給料が多いのはいやだと、そう思うままに言ってしまったら、頭の変なやつだと思われるだけだろうか?
「なあ、それで、一年だけ我慢して頑張ってみてくれないか? それだけ増やせば、月に三十万くらいは貯金出来るだろう。一年後には三百万になる。今の君は、金なんか大した価値がないと思っているのかもしれないが、実際に金を持てば、見える世界が変わる。考え方も変わる。本当は五百万は欲しいところだが、三百万でも、私の言っていることは理解出来る筈だ」
柾木社長は、珍しく真剣な表情をして、そう言った。
「そういう世界をね、見て欲しいんだよ。きみは私の若い頃に似ている」
こんな台詞を実際に言う人がいるのかと驚いた。
しかし、それは過大評価というものだろう。確かにそれなりに仕事をこなしてはいるが、それは単に無理をしているからで、だから体も精神も疲れ切っている。
何を言われても決意は変わらなかった。体調が優れないことを説明し、どうしても辞めたいのだと伝えた。しかし彼は引き下がらず、
「とりあえず、少し考えてくれ。またこういった場を設けるから、その時まで結論を保留してくれないか?」
僕はもう決まったことでこれ以上考えるつもりはないと答えたが、柾木社長は譲らない。僕は失望した。
その話し合いが思いの外に疲労したので、勝手に辞めてしまうことにした。
そして翌日から、さっそくその準備に取りかかることにする。やりかけの仕事を片付け、僕が辞めた後も誰も困ることのない状態にしなくてはならない。パーツ待ちのまま保留しているクライアントを二件持っていたので、倉庫責任者のお爺さんに無理を言って予定より早めに取り寄せて貰い、修理を完了させた。
そうやって皆に隠したまま退職の準備を進め、そして最後の日は、久しぶりにミタ君と二人でまわることになり、彼と一緒に会社のフットサルチームのユニフォームを選んだ。
その翌朝、僕はマトバさんに長期休養することを電話で伝え、柾木社長には退職のメールを送って、最初に借りたきり一円も返済していなかった二十万円を一括で振り込んだ。すがすがしい気分だ。そして二度と会社には行かなかった。
九
こんなに夜が更けているのに、席の三分の一くらいが客で埋まっているのだから、東京というのはやはり都会なのだなあ。僕が子供の頃に住んでいた町では、夜九時にもなれば、ガラガラになってしまう。そこまで田舎ではないと思っていたけれども、やはり新宿歌舞伎町とでは比べものにならない。
壁際の席には、黒い服を着て、じゃらじゃらとシルバーを身につけ、髪の毛をとんがらせた男達が辛気くさい顔で何かを語り合っている。テーブルにギターケースなどを立てかけているから、バンドマンなのだろう。マクドナルドの白々しい照明の下で見るバンドマンは、ライブハウスのステージ以外では不潔でみすぼらしく感じられる。
向こうの席には、ロングTシャツの中年男がノートパソコンを開いて、何やら熱心にキーボードを叩いていた。二つとなりの席には、スーツ姿にゴールドのアクセサリーを所々にあしらった男と、若い女が何か語り合っていた。あれは、タミさんが二人の会話を盗み聞きして「AVの面接をしてるぜ」などと言っていたけれど、そうなのかな。あの子が女優を務めるのなら、僕も視聴をしてみたい。どこの作品に出るのだろうなあ。あのスーツの人も男優として出演するのだろうかなあ。
そしてこちらの席では、先ほどから宇見戸を中心に、テキストサイト界で爆発的な流行となった『フォント弄り系』について、悪口を言いあっている。
「ああいうやり方もあるとは思うんですけど、あれがテキストサイトだって言われると、ちょっと違う気がするのは確かですね」
クサノは眠そうな目つきでボソボソとつぶやいていた。
「いままでのテキストサイトの主流は、なんというかな、文学やアートなどというわけでもなく、かといって週末の夕方にテレビでやってるようなあからさまなものでもない。たとえるなら、教室の端で一人で好きなことをやってる人たちの集まりだったじゃないですか。でもフォント弄り系って、教室の真ん中で大きな声で楽しく騒ぐ人気者タイプのコンテンツですよね。見てる人も、これまでの読者じゃなくて、そういうのが好きな、『普通』の人で、それがメディアとかの影響で外からたくさんやって来た」
「そうですよ! まったく、その通りだ。僕は断然賛成ですよ!」
宇見戸は、こんな時間だというのに、まるで爽やかな朝日の中にいるかのように活力があふれている。この人が疲れた顔をしているところを、見たことがない。
「なんというか、薄いんですよ。実に、薄っぺらいものですよ! 僕にはちっとも面白さがわからない。あんな、まともに文章を書かずに、改行をたくさんして、文字をやたらと大きくしたり、色を付けたり。あんなの、バラエティ番組のテロップと同じ、馬鹿向けの演出じゃないですか」
「いや、僕は手法そのものにケチつける気はないんですが。あれ自体は面白いと思いますし」
クサノはいつもの半笑いを口元に浮かべて宇見戸をいなすと、
「ただ、あまりにも人気が出すぎてしまって、ああいうものが『テキストサイト』の代表であり、全てであるような言われかたがされるようになると、これまでひっそりやってた遊び場が荒らされたような気分はありますね」
その隣で、Tシャツを着た人物が、うんうんと頷いている。彼もテキストサイトの管理人で、今日の『RM』でDJをやっていた筈だが、名前を思い出せない。名のある人なのだろうが。
今回で三回目となる『RM』は、最初と比べると随分と規模の大きなイベントになっている。会場も広く、参加者も増えて、遠い地方から来た人も、それなりにいたようだ。京都のオシノさんも来ていた。背の高い大阪人を連れて来て、この僕に、握手をしてやって欲しいと言った。ファンなのだという。
再びサイトを頻繁に更新するようになったせいか、最近そういった扱いが増えた。
この間も、宇見戸に誘われて井の頭公園のフリーマーケットに行った時、どこで聞きつけたのか、僕に会いたいとかいう男女が現れた。宇見戸から連絡が来て、若いカップルがミズヤグチさんと話したいって言ってますよ、女の子可愛いですよ、というようなことを言うのである。僕に会うことをデートコースに組み込むとは、エキセントリックな恋人達だ。そして観光名所にされた僕はどんな顔をして会えばいいのだろうか? 恥ずかしい。
丁重に断って欲しいと言ったら、宇見戸は「あの人は人間が苦手だから。ごめんね」と追い返したそうだ。いや、人間が苦手って、ちっとも、そんなことはないのだけれども。
あの時はうまく逃げたが、狭い会場のなか、オシノさんの紹介なので逃げられない。相手はおずおずと手を差し出してくる。うわあ、本当に、僕と握手がしたいのか。なぜ無職の男の手なんか握りたいのか。僕ら同じインターネットの仲間でしょう? ファンだというのがそもそも信じられないが、手を握りたいというのはなおさら理解出来ない。そもそも僕は、好きな作家やミュージシャンの手を握りたいとは思ったことがなく、サインを欲しいと思ったこともない。その肌に触れたいとか文字が欲しいなんて不純だ。純粋に作品を評価するのが、最大限の敬意じゃないのだろうか? さらに言えば女の身につけた衣服だの、身の回りの物だのに執着を示す同性の気持もわからない。そんなものはただの付属物ではないか。
僕は知らない男の手なんか全然握りたくなかったが、しかしわざわざ来てくれて申し訳がない。ヘラヘラ笑って握ったのだけれど、握ったその瞬間から、自分の姿を客観視した映像が脳裏に浮かんで困った。──あの人は、人に握手など求められているようですが、どんな方なのですか? あれは、ネットに自分の私生活などを書いている方ですよ。へえ、それは大層ご立派なことですねえ。とても真似できませんわ。あはは、あはは。私は絶対にそんな勘違いした野郎と関わりたくはありません。
さてそんな具合で、僕はすっかり疲れてしまったのである。イベントが終わると、オシノさんは真赤や、何人かの女性のサイト管理人とどこかに遊びに行き、僕はタミさんはじめ運営陣の連中が引き上げて来るのを待ち、そのまま終電を逃してこのマクドナルドにいるというわけだ。なぜ待ってしまったのだろう。待たずに一人で帰っていれば良かった。眠くてたまらないし、部屋に残して来た文鳥が心配だ。
タミさんは三人分のソファー席を一人で占領して寝息を立てている。宇見戸とクサノは『フォント弄り系サイト』の悪口をやめていた。宇見戸がジョージ・A・ロメロについて語っているようだ。ゾンビに秘められたメタファーがどうのと、熱っぽい語り口で。クサノはそれを半笑いのまま頷いている。僕が名前を忘れてしまったもう一人の誰かは、時々宇見戸の記憶違いを指摘して、宇見戸はそのたびに些細なことで人の話を遮ってしまっては困る、という風に鼻を鳴らした。
時間がゆっくりと流れている。僕は眠気に耐えきれず、テーブルの上に腕枕を作り、そこに顔を埋めた。
仕事を辞めてしまうと、することがなくなった。早起きをする必要も、スーツを着る必要も、髪の色を黒いままにしている必要もなくなった。それで毎日が明るくなるだろうと、楽しくなるだろうと、少しは期待していたのだけれどもなあ。蓋をあけてみたところ、ちっとも明るくならない。楽しくならない。体も治らない。暗澹としている。
ただ自由だけはあり余っており、使い道がないほどだ。毎日毎日、日記を更新しても時間が残る。勢い余って、TSUTAYAでビデオを借りて来て、嫌がる真赤と共にガンダムとZガンダムを初めから終わりまで連続で視聴したり、プレイステーションで真赤と共にシーマンを育てたりしていた。
これでいいのでしょうかねえ? いや、よかあねえだろう。仕事のおかげで貯金は出来たが、そんなものすぐになくなるに決まっている。体が健康になったって、こんなに簡単に体調を壊す僕に、もう一度社会人生活がつとまるのだろうか?
こちらは不安で仕方がないというのに、真赤は至って楽しそうだ。僕が労働をしていない方が良いらしい。毎日上機嫌で、ニコニコとしている。ネット麻雀をやりたいと言うので、ルールを教えてやると、うしろで見ててと言いながら、一日中それをやっている。たとえば生理などが来て、突如として不機嫌になる日もあるにしろ、もう手首を切ったり、壁に頭を叩きつけるなどということはなかった。
それは良いのだけれど、良い筈なのだけれど、安穏としている彼女を見ている僕はどんどんと息苦しくなる。
真赤は年若な少女であるから、生活のことなど心配する習慣がなく、怠惰な日を気楽に楽しんでいられるのだろう。しかし、成人の僕はそうはいかない。責任というものがある。
同じ無職といえど以前はまだ余裕があった。金などなくなっても、働けばどうにでもなるという自信があった。が、あれは無知故の驕りであった。
現実は、これといった不満のない良い仕事についたにもかかわらず、一年も勤め上げることが出来なかった。情けなく体を壊してしまった。労働意欲は低かったとはいえ、その気になれば、うまくこなせると思っていたのに。まったく見込みが甘かった。
家賃と光熱費は、元々安いものをみなで割ったら一人三万円。「月に七万円稼げば生きていけるなあ」と逆野が言っていたが、まさにその通り。僕は真赤の生活費も支払っているけれど、それを足しても月に十万もかからない。数ヶ月とは言え、プリンターを直して貯めた金がまだ何十万か口座にあったから当分は暮らしていけるが、僕はその間にもう一度働けるのだろうか?
前の職場での体験を思い出すと、鳥肌が立つ。自分の体調が不調なのがわかっているのに、無理矢理起きてスーツを着、炎天下を半分意識を失いながら歩く。次の日もそれが続くのがわかっている。休んでも何も回復しない。それでも働く。インパール作戦に参加しているみたいな気分だ。
ああでなければ僕に社会人はつとまらないのか。すっかり恐ろしくなってしまった。厭になってしまった。やはり、僕は会社勤めというものが出来ない人間なのか。社会で生きていけぬのか。あ、それは前から知っていた。
じゃあもういい、働いてなどやるものか。労働なんて、かったるくってやってられない。それで死ぬのなら本望である。武士は食わねど高楊枝。僕はここで死ぬる。アハハ、こいつはまた馬鹿なことを言っているなあ。と、一人なら、そう放言したいところだが。
これが潮時というやつなのかもしれない。当初の目的を忘れてはいけないだろう。そもそも僕は保護のために彼女をこの家に連れて来たのだ。
今の真赤は既に自傷などの問題行動をしない。彼女の親も、事前に聞いていたほど彼女に干渉せず、案外自由にさせているので拍子抜けだ。自傷をしない、虐待もない、となれば、既に保護すべき理由が見当たらなくなっている。今や真赤は、ごく普通の、きままに遊び暮らす中卒無職の少女なのである。そろそろ次の段階について考えなければならない時期が来ている。
僕はもうすっかり疲れてしまった。最近はもう、何の気力もないのだよね。手の届く場所に引っかかるものがないまま落下してゆく感じ。それをふうんと眺めている感じ。この有様じゃ、このまま生活を共有するわけにもいかないでしょうよ。将来有望な彼女の時間をただいたずらに盗むことになってしまう。彼女の人生を台無しにしてしまう。仮に生活費を工面出来たとしても、もういけないだろうよ。やはり潮時なのだ。
しかし、それはいやだなあ。実に受け入れがたいなあ。理屈では、このままではいけないと、わかっているのに。まったく、僕はどんな愚かなことをしているときも、大体いつだって理屈ではわかっているのに。こんな状態でも人並みに欲を持つのか僕は。
宇見戸たちがテキストサイト論を語り合っている横で僕は、うつらうつら、そんなことを考えていた。
そうしてそれから数日が過ぎたとある夜、家で寝ていた僕は急に息苦しくてたまらなくなった。
胸が痛み、呼吸が出来ない。助けを求めようにも、真赤は眠っている。揺すっても起きない。
部屋を這い出てリビングに行くと、逆野の部屋の電灯がついて明かりが漏れている。救急車を、と呼びかけると、彼は立ち上がった。助けてくれるのだろうかと一瞬希望を持ったが、彼は電灯を消し、そしてベッドに横たわった。あっ、なんて野郎だ、寝ぼけてやがる。
このまま死ぬのではないかと諦めかけたが、真赤が気がつき、タミさんを起こし、救急車を呼んでくれた。
やがて救急隊員が到着する。真赤のためには何度か呼んだことがあるが、自分が運ばれる側になるのは新鮮だった。えらいことになってしまったなあと、救急車に揺られていたら、ここで困ったことが起きた。病院に着くその前に治ってしまったのである。
あんなに苦しかったのに、胸が痛かったのに、もう何も感じない。突発的な過呼吸だったのだろうか? みんなを騒がせてしまったのに、これではあんまりだ。そのまま苦しいふりを続行しようかとも思ったけれど、さすがにそれは迷惑だと思いとどまる。しかたなく救急隊員に正直に自分の容体を告白すると、引き返すわけにもいかぬから診察を受けなさい言われた。
病院では宿直の医者が寝癖がついた姿で現れて、真赤とタミさんがその態度の滑稽な様子に笑いを噛みしめる。
まず尿検査をさせられ、そのあとレントゲンを撮られた。なんで呼吸が苦しいのに、呼吸器ではなくいきなり尿検査を? あっ、薬物検査を受けさせられたのか。何か検出されていたら通報されていたのだ。と、帰りのタクシーの中で気がついた。急病なのに、犯罪者扱いされて悲しかった。侮辱されたようで腹立たしかった。違法薬物は、いつ検査されたとしても出やしないのに。僕は合法的ジャンキーではあるが、覚醒剤だの麻薬だのには手を出していないのだ。疑ったって、何もでないぞ。ざまあみろ。
また、ある朝目が覚めると、財布と携帯電話がなくなっている。
あれ、前に使ってからどこにも出かけていないのにおかしいじゃないか? 家の中でなくなったのに、見つからないのはおかしいじゃないか?
「えっ、出たよ? 昨日みんなで新宿で遊んだじゃない」
真赤は何を目的にそんなでたらめを言うのか。僕は新宿なんか行っていない。そんな記憶はない。
しかし真赤は行った行ったと主張する。宇見戸と、タミさんと、クサノと、カラオケ屋に行って、飯を食ったのだそうだが、そんな面白げなこと、していないだろう。ちっとも覚えていないなんてこと、あり得ないでしょう。ちょうどICQがオンラインになっていた宇見戸に訊いてみたら、彼も真赤と同じことを言う。二人で示し合わせたようにも思えないし、事実なのだろう。僕は狐につままれたような気分だ。
「大丈夫?」
と真赤は僕に問う。
「大丈夫」
と答えたが、全然大丈夫じゃない。大丈夫じゃない。
薬の副作用なのかしらん。ハルシオンかロヒプノールを飲んで、酒を飲んで、そのまま出かけてしまったから、戸外での記憶がすっぱり抜け落ちてしまった。そういう可能性は考えられる。
しかし、一日を完全に喪失してしまうとは、あまりにもひどい。それが事実だとしたら、僕は人間失格じゃないか。どうも信じられない。僕は夢を見ているのではないだろうか? 目の前に映っている全てが嘘のような気がする。
宇見戸からカラオケ屋と飯屋の名前を聞いて、電話をしてみたが落とし物はなかったとのこと。記憶と財布と携帯の三つを失ってしまったというわけか。酷すぎる。僕の意識としては、ただ部屋で寝ていただけなのに。
呆然としている僕の事情にお構いなく、真赤があけたばかりのピアスの穴に消毒薬を塗ってくれと言う。彼女の耳たぶにはピアッサーについていた金色のピアスが光っている。
これは昨日頼まれて、僕があけてやったものだ。尖端恐怖症のくせに、あれだけ注射を拒否して僕と医者を困らせたくせに、なぜピアスやリストカットは平気なのだろう。
とにかく、真赤は喪失のショックから立ち上がれない僕に、消毒して消毒してと迫る。仕方ないのでマキロンの透明な液をその穴に染み込ませると、普段うるさい真赤なのに、殊勝にも我慢をして唇を噛む。
キャッシュカードは財布と共になくしたが、通帳は別に持っておいたので、駅前に行って金を下ろす。するとちょうど昼時だったので、近くのデパートにあるインドカレー屋に行った。本格的なインドカレーを食わせる店で、夜は高くなるが、ランチなら安い。
ナンを食って、インドビールを飲んだら少し人間らしい気持ちを取り直した。真赤と雑談などをして笑い合っていると、となりの席で一人で食べていたおばさんが、店の割引券を差し出して、受け取れという。
「いいんですか?」
「いいのよ、二人で使ってね」
僕は寝間着代わりのTシャツとデニムズボンにサンダルを履き、頭には寝癖がついていた。真赤も長い髪をぼさぼさにして、化粧っ気もなく、変な眉毛をしている。
平日の昼間からデパートでランチを食うこの僕と真赤の汚い格好が、どんな印象を彼女に与えたのか。青春らしく、微笑ましい二人に見えたのかしらん。どうもそんな様子が見受けられる。
有り難く割引券を受け取ると。おばさんは笑って店を出て行った。
僕の毎日は、支離滅裂になってゆくばかりであった。薬を飲み、酒を飲み、インターネットのゲームをプレイし続けている。そうしても常に念頭には先行きの不安があり、何をしてもちっとも面白くはない。強いて言えば、馬鹿げた行為によって人生を無為に消費している喪失感が面白かった。
部屋でブルーハーツのCDを流しながら本を読んでいると、いつもこればかり流しているので飽きた飽きたと真赤が訴える。じゃあ何が聴きたいのかと尋ねると、かぐや姫だの、チューリップだのと、渋いリクエストをする。
僕は別にこだわっていた訳ではないので、言われた通りに従った。何をしたところで余りにも無味乾燥で、感情がなくなったようで、だから、昔好きだった曲を流して、何か思い出せないかと無駄な努力をしていただけのことだ。
レコード屋の中古のアルバム、深夜のお笑い番組、本屋の片隅で黄色く変色した新潮文庫。僕の思春期は大体この三つで埋め尽くされていて、あの頃はそれらに触れる度、こんなに面白いものがあるのかと思ったものだ。
僕は文鳥の篭をのぞき込んだ。鳥の成長は早く、すでに雛から若鳥へと姿を変えている。
手乗り文鳥にしようと、手のなかで餌を与えて育てたその鳥は、ひどく情緒不安定だ。機嫌が良いと、チュンチュンと可愛げに鳴きながら、手のひらやら肩やらに飛び乗り、うるさいくらいにつきまとうのだけれど、何の加減か攻撃的になって、手のつけられない時がある。これは日光の入らぬ部屋で昼夜のない不規則な生活に付き合わせているからか、それとも、単に飼い主に似たのだろうか。考えてみれば、ホームセンターで見かけた時点で、嫌がる他の雛の上に何度ものしかかって傍若無人に振る舞っていた。それを元気な証拠と判断して買ったのだが、ただ乱暴なだけだったとは。
今日は機嫌が良くなかったらしく、遊んでやろうと差し出した指に、グルルルルと高いうなり声をあげながら噛みついた。睡眠時間を削り、大事に育ててやったのに、厭なやつだ。情けなく噛まれている僕を見て、真赤は呵々と笑う。
部屋には『神田川』が流れている。真赤が最近やたらとこういう曲を好むのは、フォークソングに登場する貧乏な男女に、自分の生活を重ね合わせているのだろうか。漫画なども、そういった傾向のものを楽しんでいる。
つい先日も、彼女が感動して涙を流しているから、どんな漫画を読んでいるのかと思えば、無職で働かずに遊んでばかりいる阿呆な亭主と、それを支えて賢明に働く妻の姿を描いた作品であった。これに自分の境遇を重ね合わせているのだとすれば、僕は甚だ面白くない。
しかも彼女はただシンパシーを感じただけでなく、影響まで受けつつあるようで、
「私、これから勉強する。大検を受けて、医者になる。そしたら水屋口さんを養ってあげるから、好きな文章を書きなよ」
と前触れもなく言い出したりもする。
素晴らしい! そうしてくれれば、僕は労働しないで生きてゆけるじゃないか! 良いことを思いついたものだね。感心な子だね。ああ、おかげで気楽な人生を送れるなあ。嬉しいなあ。
と、素直に喜べたらいいのだが、とてもそんな気持にはなれぬ。なれるはずがない。怒るので言えないが、本当は僕は、彼女には僕のいない幸福な未来を手に入れて欲しいのだ。そうした視点でみると、事態がますます悪化していると断じざるをえない。泥沼にはまっている。憂鬱であった。
「へえ、医者になったら、凄いね」
どうせ一時の気の迷いだから、言っているだけだから、すぐに忘れるだろうと、内心冷や汗をかきつつそう誤魔化すのである。
ただ、この無職を養うという話は別として、大学入学資格検定を受けて進学するというプラン自体には賛成だった。だから、最近はそれとなく彼女の向学心を促すような振る舞いをしていたのだが、案の定、というべきか、彼女は自分で言ったことなど忘れたように別のことを言い出した。
南こうせつの歌声を中途で停止させると、
「私、アルバイトをする」
と宣言して家を出て行った。そして、コンビニエンスストアーで求人情報誌を入手して来たのである。これが、冷たい風が吹き始めたとある秋の日の昼下がりのことだった。
アルバイトをしたい、と言っても、中卒十六歳の彼女に出来る仕事は限られている。接客などのありふれた肉体労働ならなくはなかったが、彼女は時給の面で納得が出来ないようだった。
「この仕事をやってみたい」
と、彼女が指を差したのは、IT系の派遣社員である。時給はコンビニアルバイトの倍ほどであるが、条件に、高卒以上、十八歳以上、と書いてある。どちらも満たしてはいない。
僕は止めたのだけれど、本人はどうしてもそれをやりたいと言ってきかない。こうなった真赤に対し、その行動を止めるすべを僕は知らない。
例によって、何か言わなくともそのうち放り出すだろうと黙っていたら、今回は違った。真赤は自分で先方に連絡を取り、偽の年齢と学歴を書いた履歴書を準備すると、所持している服のなかから比較的地味なスカート、制服のブラウス、灰色のジャケットという、一見社会人に見えなくもない姿で面接を受けに行った。そして帰って来ると「受かった」と僕に報告したのである。
「明後日から、契約先の会社の社内コールセンターで働くみたい」
唖然とする僕に、真赤は上機嫌で言う。
「身分証は、求められなかったの?」
「コピーで良いって。だからなんとかなると思う」
真赤はひとかけらも不安なところを見せずに言ったかと思うと、ヘッドフォンで音楽を聴いていたタミさんに保険証を渡し、これをスキャンして、PCで生年月日を加工してくれないかと依頼した。すると彼は「やったことないけど、やってみよっか?」と軽い態度で了承し、作業を開始する。
スキャナーで保険証を読み取り、PCにデータとして取り込んだのちに、フォトショップで修正を加える。元の文字を消し、多数のフォントの中から違和感のないものを選んではりつけ、ノイズをかけて後からのせた文字を全体に馴染ませるのだ。微調整をしながら何度かプリントアウトをすると、笑ってしまうほど精巧な偽造コピーが出来てしまう。それを持って行くと、正式に真赤のアルバイトが決まった。
あまりにもずさんな手続きだからどこかの中小企業かと思ったが、派遣先の企業の名を彼女から聞いて驚いた。それは日本人なら誰もが知っている電機メーカーであった。その古く大きな社屋の一室で、社内のあちこちの部署から内線で掛かって来るPCのトラブルに対応するのが彼女の仕事だと言う。
いい職場に決まったものだが、真赤はさほどPCに詳しくはない。ICQやウインドウズメッセンジャーを会社のPCにインストールして、彼女自身の手に負えないトラブルが来た時は、その場で僕やタミさんに解決法を訊くかたちになった。僕はともかく、タミさんならば、かなり高度で専門的なトラブルも即座に解決出来るので、真赤はそれを顧客に伝えたり、言われた通りに操作することで、日々の業務をこなすこととなる。
「職場の人が誰も解決出来ないことを解決するから、なんだか、すごく優秀な人間だって思われてるみたい。えらそうな役職についてるおじさんとかもね、パソコンのこと全然わからないから、丁寧な口調で質問して来て、私が教えてあげてるんだよ」
数日働いて、すっかり調子に乗った彼女はカラカラと笑う。
十六歳なのに、中学校卒業が最終学歴なのに、素性が露見することなく、むしろ年長の人から敬語を使われ、尊敬され、気分が良いらしい。
「私の設定上の年齢と同じような年の人が一人だけいるんだけどね、その人と、子供の時に流行っていたものの話題になった時は少し困った。ふーん、あ、そうだねーとか、ずっと相槌だけ打って誤魔化したの」
すぐに業務が立ちゆかなくなるだろうと思っていたが、しかし今のところ、その兆候もない。
タミさんによるフォローがあるとは言え、嘘で塗り固めた身分と、他人から借りた知識でもって堂々と仕事をするその度胸と行動力に、僕はただただ絶句するばかりだ。それも、あんな大企業で。
世の中は、案外雑な作りをしているのかもしれない。しかし、それにしたって僕が十六歳だったとしたら、到底同じことが出来たとも思えない。大人の今でも無理だ。真赤は、年上の社会人とまざって、よく平然と立ち回れるものだ。精神構造が違っているのだろう。まったく、実に大したものだ。その才能を、良い方に活かすことは出来ないのだろうか。
一〇
ウルティマオンラインというゲームがあるのだけれど、最近は朝目が覚めるとPCに張り付いて、そればかりプレイしている。
それは古典的な剣と魔法で戦うファンタジーの世界を舞台にしたオンラインゲームである。今までのゲームでは、こういった世界では人間が操作できるのは主人公ひとりで、他の登場人物などは製作者が用意した仕組みでしかなかったのだけれども、このインターネットに接続してプレイするゲームは、他の登場人物もみな誰かが操作しているのである。そこで、そのキャラクターと共に魔物を倒したり、冒険したり、いやそれどころか、家具や武器を作って売りに出したり、その原材料となる木材を切り倒して販売したりも出来るのだ。
これはまさに子供の頃に夢見た仮想世界そのものなのだが、実現してみると想像とは大分違った。徒党を組んで他のプレイヤーに嫌がらせをしたり、縄張り争いをしたり、陰口をたたき合ったり、ゲーム内で稼いだ金を他のプレイヤーに現実世界の金で売ったり。さらに、サーバーに人口が増えてくると、どこへ行っても人や住宅が溢れ、一等地の価格は高騰し、不動産屋が跋扈する。そうして家が乱立して住宅地となった隙間を魔物が歩いている。かつて想像していたのは、本物みたいな冒険だったのに、実現したのはそれよりもずっとリアルなものだった。
まったく夢のない世界であるが、これはこれで面白いし、最近新しいサーバーが出来たということもあり、四六時中プレイしている。
今日は知り合いのマツオさんと一緒に、鉱山に行って、延々と鉱石を掘り続けていた。
マツオさんは山口に住み、余り更新しないテキストサイトを運営している人で、『RM』の時、会場の端っこで大人しくしているもの同士、なんとなく仲良くなった。
僕もマツオさんも現実では働いていない怠け者であるのに、ゲームのなかでは延々とツルハシを振り、山で採掘した鉱石を売るという健全な肉体労働をしているのがおかしい。
そうして単純作業に汗を流していると、時々鎧や槍で武装した不心得者が馬に乗って現れ、僕ら二人を一方的に殺して、死体をばらばらに解体し、その辺りにばらまき、わざわざ屈辱的な状態にしてから去って行くのだが、それにもめげず、すぐ生き返って掘り続けている。ゲームのなかの僕らは現実とは違って実に健気だ。えらいものだ。
真赤もキャラクターを持っていて、普段は一緒に遊ぶのだが、今日は出かけていて家にいない。仕事ではない。またオフ会に出かけているようだ。仕事は、もう飽きてしまったようで、週に半分ほどしか行かなくなっている。辞めるのも時間の問題だろう。ほら見ろ、あんなにやりたいと言ってやり始めたのに、長く続かなかったじゃないか。そういう根気のないところが、あいつはよくない。僕とおんなじだ。
そういう訳で、今日の僕は家に一人だった。気が楽であった。プライバシーというものはさほど大事でもなかったし、そんなものが日常になかったからといって気にもならないのだけども、余りにも長い時間他人とべったりと過ごしていると、それだけで息苦しいものだから、このような日はありがたい。解放された感覚がある。
午後の三時になる頃、マツオさんは遅い昼食を摂りに行くということでログアウトしたので、僕もゲームを一旦やめた。そして他人のサイトやら、2ちゃんねるやらを眺め、自分のサイトを更新し、するとやることがなくなったので、ごろりと横になる。
朝から何も食べていないけれど、ちっとも食欲というものがなかった。口にすれば食べられないこともないが、面倒くさい。人間はどうして何かを食わないと生きて行かれないのか。頼んだ訳でもないというのに。どうして息を吸わねば生きて行かれないのか。頼んだ訳でもないというのに。一生というものは、何かにつけ、勝手に押しつけられたものが多すぎる。どうしてみな大人しく受け容れられるんだろうなあ。僕にはとんと理解が出来ない。
傍らのローボードの上に置いてあったウイスキーに手を伸ばすと、広げたままの婚姻届が目に入る。
先日仕事から帰って来た真赤が、やたらと浮かれた調子でもって、これに記入しろと言った。わざわざ仕事を早退し、役所に行って、そしてこれを貰って来たのだそうだ。見ると、彼女の記入すべきところにはすでに文字が書かれている。
「別にいいけど、お前の年齢的に、保護者のサインがないと有効な書類にならないんだぞ?」
「いいから、いいから」
そう言って押しつけられたのはシャープペンシルだった。
これで書いたって正式な書類にはならないだろう、とは思ったのだけれども、まあ、おままごとなのだな。ちょっと前に、交換日記をやろうと言い出したのと一緒だ。こういうときは逆らっても疲労するだけなので、大人しく従うことにしている。四の五の言わず、書きゃあいいんだ。どうせ提出しやしない。
そして自分で見るのもいやになるほどの、僕特有の汚い字で、名前やら住所やらを書いた。
それからもう一週間ほど過ぎたように思うが、まだローボードの上に広げたままである。上にコーヒーが入ったマグカップでも置いたのか、茶色い輪のしみが出来ている。
これ、そろそろ捨ててもいいのかな? 勝手に捨てたら怒られるのかな? すぐ怒るからなああいつ。
僕はまだ手をつけていないウイスキー瓶の封を切って、そのままラッパで一口流し込む。すると、空腹にアルコールが染みてきつかった。買い置きのスナック菓子もないから、仕方なく、ハルシオンとロヒプノールを何錠かシートからほじくり出して、ぽりぽりと囓った。錠剤の科学的な味は、ジャックダニエルのつまみとしてはあわない。
瓶を抱えたままカビ臭い万年床の上に横たわる。今日も花園シャトー107号室は静寂の底に沈んでいる。住人は在宅であっても部屋にこもってPCに向かっているのが常だから、人がいるいないに拘わらず、この家は静かだ。
逆野はもうすぐこの部屋を出て行くらしい。そして、恋人と一緒に暮らすのだそうだ。
いつの間にそんな相手が出来ていたのだろう? それに、引っ越すような金があったのも不思議だ。そもそも、あいつは今何をしているんだ。働いているのか? 会話はしょっちゅうしているけれど、聞いたことがなかったな。こんな最低限のプライバシーも存在しないような、ほとんどドアを開けっ放しの共同生活でも、意外にお互いのことを知らない。きっと、あいつの方も、僕の身の上にいま何が起こっているか、僕がどんな気持ちで毎日を生きているか、何も知らないのだろう。僕らはあまりにも他人に関心がなさすぎる。
そう言えば、隣の106号室の浪人生のT川君も、まだやって来たばかりだが、近いうちに出て行くと言っていた。U君が音楽サークルの仲間を家に招いたりするのが気に入らないらしい。こんな状況じゃ、とても受験勉強が出来ないと、東大に受からないと嘆いていたのだが、まだ合格する気があったのかと、こちらの方が驚嘆してしまう。
T川君が出て行った後は、U君が一人で向こうの家賃を負担することで話がついているようだけれども、よくそんな資金力がある。U君が働いているという話を聞いたことがない。音楽サークルというものは、そんなに儲かるものなのだろうか。それとも、家が金持ちなのだろうか。
いつの間にか、ウイスキーが残り少なくなっていた。今日の僕の体はちょっといつもと違っているな。こんなに度数の高い酒なのに、きつかったのは最初だけで、あとは水のようにするすると飲めてしまう。喉や胃が熱くなるような感覚もない。まるで内臓が鋼になったようだ。
瓶を放り投げ、目を閉じる。
真赤が、不安げに、生理が遅れていると語っていたのを思い出す。彼女は痩せすぎているせいか、周期が安定せず、予定通りに訪れる方が珍しい。なのに、なんで今回はわざわざあんな風に切り出したのだろうな。まさか子供が出来たとでも言いたいのだろうか? そうしてそれは、僕の子供なんだろうか? 働きもしない、その意欲もない、なんにもない、この僕の。だとしたら傑作だよね。
いつだったかタミさんと話したっけ。子供自体はちっとも嫌いじゃないけれど、自分の遺伝子を受け継いだ、自分の複製品であるのだと思うとぞっとしないねって。好きな女と、知らない誰かの子供なら、まだ素直な気持で育てられるだろうけれども、自分に似ているところがあったなら、それは余分だねって。とてもとても、正気ではいられないねって。アハハ、一生自分の子供なんか抱きたくねえなって。
もしその子供が男だったら、僕や僕の父親に似た、どうしようもない人間に育つのだろうな。本人は厭かもしれないけれども、生まれる前からそれは決まっているのだから、残念、それは諦めておくれよ。僕や僕の父親も、そうでない人間になりたかったのは確かなのだから。それはもう、宿命的に運命的に決まっているのだ。
まあ、真赤のことだから、どうせ思わせぶりに語って僕の反応を窺っていただけだろう。そうに、決まっている。
いつの間にか眠りに落ち、そして目が覚めると、見知らぬ場所だった。
真っ白な天井、真っ白なベッド、それを狭く取り囲む真っ白なカーテン。
ここは一体どこだろうと、身動きをすると、左腕に違和感がある。そっと顔の前に持ち上げてみれば、かすかな痛みと共に、半透明のチューブがぶらりとぶら下がり、それは頭上の点滴へと伸びていた。
何故僕はこんな管で薬物など投与されているのだろう? チューブに触れようとした右手を見て、驚いた。右の手のひらから肘にかけて、血が一面にこびりついている。指の間のあたりなどはまだぬるぬると湿気を帯びているが、端の方は茶色く乾きはじめており、動かすと細かく剥離した血液がぽろぽろと顔の上に落ちた。一体これは、どうなっているのだろう?
ちっとも事情が理解出来ず、狼狽えていると、シャーと音を立ててカーテンが開かれ、看護師が現れる。
「じゃあ、お部屋変えますよー」
僕はその中年女に有無を言わさず背を起こされ、そしてわけがわからぬまま示された車椅子の上に体を移動させられた。
どうやらここは、病院らしい。看護師が押す車椅子は、患者の間を縫うようにしながら、ずんずんと進む。
「こっちはトイレですよー」
「これは、ナースステーションねー」
押しながら看護師は一方的に説明をするが、僕は相変わらず事情を掴むことが出来ないで戸惑っている。何かの理由で病院に来てしまったというのはわかったけれども、この血みどろの我が右手はなんなのだろう? その上体に力が入らず、まるで球体の上に乗せた板に座っているかのようにユラユラと、定かでない。これは、どう考えたっておだやかではない。
黙っていれば看護師から何か説明があるだろうと大人しくしていると、別な病室の別なベッドの上にごろりと寝転がされた。そして看護師は「じゃあゆっくり休んでくださいねー」と感情のない声で言うと、流れ作業のような一連の動作で、シャーとカーテンを閉めて行ってしまうのである。
これは不味い。非常に不味い。もし率直な言葉を文字に顕すことが許されるのならば、うわあ、やべえ。
僕は壁からちょろんと伸びたコードの先にくっついているボタンを見つけ、押した。僕の予測が正しければ、これはナースコールであろう。仮に全く別の何かであったとして、こっぴどく怒られたとしても、知ったことか。この異常事態を説明しない方が悪いのである。
「どうしました?」
案の定、看護師はすぐにやって来る。
「何時ですか?」
看護師は七時だと言う。朝か? 夜か? 夜だと言う。一体何日の夜だろう? 看護師は数字を口にしたけれども、無職になって脳のうちからカレンダーが失われていた僕には、それを聞いたところで何かを推測することが出来なかった。僕が最後に意識を持っていたのは、何月何日だ?
それにしてもこの血はなんだろう。僕の血か? それとも誰かの返り血か? だとしたら、犯罪かもしれないし、迂闊なことは言えないな。たしかイギリスで、ハルシオンを飲んで記憶をなくしている間に殺人を犯した例があったように思う。そういう可能性も、視野に入れなくてはいけない。僕は誰かを殺したのかもしれない。真赤だったらいやだな。
そんな具合に慎重に発言を吟味していると、看護師は忙しいらしく、再びシャーとカーテンを閉めてしまう。そして天井が狭くなる。そして僕は再び一人取り残される。
ああ、なんなんだこれ。全然意味わかんねえ。入院規則の説明とかしなくていいの? ほったらかしでいいの? 知らないで滅茶苦茶な迷惑をかけちゃうかもよ? というか、そもそも、一人ぼっちってのはどういうことなんだ。みんなで共同生活してたじゃないか? どういう経緯で、あいつらと切り離されてしまったんだ。なんか手に血とかついてるし。やっぱり僕は誰かを殺したのか? ホント狂ってる。ああわかった、これは夢なんだな! そうだきっとそうに違いない。じゃあ、覚めればきっと現実に戻っているって寸法だ。
そう思って、眠り、目が覚めても状況は何も変わらない。
嗚呼、夢ではありませんでした。全然夢ではありませんでした。
一体これはどうしたことか。もう一度ナースコールを押すべきか。でも、仕事の邪魔をしちゃったらまずいもんな。他にもっと重病人がいるかもしれないし。どうしようどうしよう、と考えていると、パチンと電灯が消えて、あたりが真っ暗になる。
消灯時間になったらしい。ということは、夜の十時か、十一時になったんだろう。病院の消灯時間ってそれくらいの筈だものな。さっき夜の七時だということは、三時間程度うたた寝をした計算になる。よし、まっとうな推測が出来ているぞ。これは、頭脳が動き始めてくれた証拠に違いない。さっき目覚めた時は、ほとんど何も考えられなかったもの。
冴え始めたこの頭脳で、状況を再確認しよう。まずはそれからだ。
今僕は、ベッドに横たわり、点滴を受けている。体は安旅館の浴衣みたいな、やたらにスカスカとして、ぺらぺらとしたものを着せられて、その下はパンツ一枚だ。他になにも身につけていない。ということは、つまり、僕はいま体一つとパンツ一枚のみを全財産として、この見知らぬ病院にいるということか。まったく驚愕の事実である。ウルティマオンラインで殺されると、こんな状態で生き返るけれど、まさかそれが現実に起こるとは信じられない。
他に手がかりは何かないか? ポワロになったようなつもりで推理を続ける僕は、ベッドの脇の床の上にバッグが一つ置いてあるのを見つける。全く見覚えのないバッグであるけれども、僕のそばにあるのだからきっと僕のものだ、と決めつけ、中を漁る。すると、出て来るわ出て来るわ、見覚えのある僕の服が。
汚れたジーパン、黒いセーター、小豆色のシャツ、そして財布……って、この財布はおれのじゃねえ。僕の財布は、前の財布を落っことした時に百円ショップで間に合わせに買った、穴が空いて小銭がぼろぼろと落ちる、そんな財布なら持たない方がマシだと人によく笑われるぼろ布であって、こんなまともな長財布ではない。あっ、そうか、これは真赤の財布だっけ。どうして他人の財布がここにあるのだろう?
開いて中身を確認すると、札入れのところには何もなくて、何故か小銭入れのところに小銭と一緒に折りたたまれた一万円札が入っている。この意図の不明な、頭のおかしい人間の仕業としか思えない収納を行ったのは、まず真赤に間違いない。素晴らしい、入院する僕のために、用立ててくれたのだな。
それと、底の方に本が一冊。タイトルには「機動戦士ガンダム」と書かれているのだけれども、絵柄が僕の知っているものと違う。見たことのない絵だった。そしてパラパラとめくってみると、シャアらしい仮面をつけているけれど全く似ていない人物と、アムロらしいけれどもゴリラにしか見えない人物が、じゃがいもみたいなロボットに乗って戦っている。その戦闘シーンも、画面の中で一体何が起こっているのかが不明瞭で、お世辞にもうまい漫画ではない。
読んでいるうちに、僕はむらむらと腹が立って来た。一体なんなのだろうこれは? あまりにもつまらない! 真赤はどういうつもりなのだ? 何らかの理由で意識を失った僕を、説明もなく一人ここに残し、インチキなガンダムの漫画を置いて、さっさと帰ってしまうなんて!
冷静に考えれば、病院に連れて来てくれて、金と身の回りのものを用意してくれて、おそらく善意の暇つぶしとして漫画も用意してくれたのだろうが、僕はそこまで思い至らなかった。
あのやろう、よくも意識を失っているおれを放置して帰りやがって。なんで、目が覚めるまで付き添わないんだ! 心細いじゃないか!
僕は怒りのままに財布を掴み、ベッドから立ち上がると、患者たちの寝息に満ちた病室を出た。非常灯の緑がかった照明を、リノリウムの床が濡れたような質感で反射している。
さきほど看護師に説明されたのを思い出しながらナースステーションの近くまで行き、そこで公衆電話を見つけた。
旧式電話の重い受話器を持ち上げ、もどかしい指先で財布を探ると十円玉がなかったが、人の金なので惜しまず百円玉を投入する。そしてダイヤルした先は、真赤の携帯電話であった。
「水屋口だけど、真赤?」
『うん。大丈夫?』
真赤は尋ねてくるが、僕はすっかり興奮していて、それに返事をするよりも先に言葉がついて出る。
「おい、ガンダムがバッグに入ってたんだよ! ガンダム!」
受話器の向こうは沈黙する。僕はお構いなしに続けた。
「お前、ガンダム入れただろ? ガンダムだよ!」
一夜明けて、真赤とT川君が二人で病院を訪ねてくれた。
ちょうど昼食時だったから、僕のベッドにはくたくたにゆでられた、箸でつつくだけで崩れる粥のような饂飩が供されており、最初はそれを食べながら彼らの話を聞いていたのだが、話の内容が次第に僕の食欲を奪った。
その日、夜になって花園シャトーに帰って来た真赤は、僕が万年床の上でひっくりかえっていびきをかいているのを見つけた。普段いびきなどかかないのにと不審に思った彼女が、いくら声をかけても目を覚まさない。揺すっても目を覚まさない。そして傍らに空になったウイスキーの瓶と、錠剤を抜かれたシートが散乱している。
これはまずいと、救急車を呼んだ。
ここまでは僕の想像の範囲内であったが、ここから先が違った。
僕は昨日の夜七時に目が覚めるまで、意識もなく眠りこけていたと信じ込んでいたのだけれど、それは勘違いであった。そして、誰もそばに居てくれなかったというのも、間違いだった。
病院に運び込まれた翌日に、真赤やらタミさんやらが見舞いに来てくれていたらしい。その時僕は目を覚ましていて、対応をしたのだと言う。その態度が、尋常ではなかった。
「病院に連れて来るなんて、余計なことするなよ! おれはあのまま死んだほうがよかったんだ! なんで助けたんだ! 君たちは、何か勘違いをしているよ」
などと、大変な剣幕でわめきちらし、彼らを追い返したのだそうだ。知らなかったけれど、信じたくないけれども、おそらく真実だろう。だから僕は、七時に目覚めた時に一人ぼっちだったのだ。自分で追い払ってしまったのだ。
それに限らず、全体的に僕は自分で意識を失っていると自分で思っていた時間に、起きていて、へらへらととんでもないことを喋ったり、行っていたらしい。
たとえば搬送された時も、精神科にかかってるというようなことを自らの口で救急隊員や看護師に告げて、それによって「薬物中毒だ! 薬物中毒だ!」と職員たちを騒がせた。また、医師が治療や検査のために体に繋げた様々な管や電極も、むきになって自分で引きはがし、治療を妨害していたのだと言う。
言われてから確認してみると、確かに点滴跡のまわりに、絆創膏がいくつも貼ってあった。これが医師や看護師と格闘して管を引きはがした痕跡か。僕の手が血だらけだったのも、それか。この血を拭いもせずに放置していたことから考えると、それが出来ないほどに、僕が反抗的だったのかも知れない。
そりゃ看護師も改めて説明しないわけだ。外から見れば僕はずっと覚醒していたのだし、この血みどろも、自分でやったことなのだ。覚えていない、とはまさか思っていなかったのだろう。あっ、目覚めた時別室だったのも、暴れるから隔離されていたということか?
なんということだ。僕の行為としては、近年まれに見るほどに弾力性のある話である。華々しい話である。そんな形で他人に理不尽に当たるなぞ、普段は億劫でしないのに、正気を失った僕は何と活発なのであろう。そして、逆の立場だったら僕は完全に呆れ果てて関わりを絶つところだが、彼らはこうして病院に来てくれている。聖人なのだろうか。
事実なのは疑いがないが、それでも信じられない。僕は目覚める前から、すでに目覚めていたなんて。しかも、ろくでもない言動を重ね、果てしなく、どうしようもなく、周囲に迷惑をかけていたなんて。
「あのまま死んだ方がよかった」「なんで助けたんだ」だなんて、僕の口がそんな言葉を叫んだというのが奇妙だ。生きていてもしようもないとは、常々思ってはいるけれども、これまで意識の表面の自覚できる部分に、そんなにはっきりとした考えを持ったことはなかった。死にたいなんて、思ったことはないはずだった。僕は執念深く生きたがるタイプの筈なのに。ましてや、それを人に向かって叫ぶとは。それが僕の本心だとしたら嫌だなあ。
しかし、とすると、つまりこの一連の行為は、外から見れば僕が自殺をはかったということになってしまうのだろうか? ということは、これは、僕の自殺未遂なのだろうか?
なんという情けないことを。僕にとっては自己イメージが揺らぐほどの驚きであったが、彼らは平然として、笑顔さえ浮かべながらごく日常的な態度で語っている。それを見ると、彼らは以前から僕を、このようなことをいつしでかしてもおかしくないような人間だと印象していたようにも感じる。
普段通り接してくれるのは有り難いと言えば有り難いが、そう考えると、それはそれで別な衝撃があった。いや、そんなはずはない。ちっともそんなことは思っていない。と、口に出して言ったとしても、これほど説得力が欠けた状況もないだろう。
「今日も、また怒ってたらどうしようって、T川君と話しながら来たんだよ。でも、大人しくなってくれたみたいで安心した。もう大丈夫?」
真赤は僕に不安げに訊ねる。
「大丈夫。いろいろ言ったみたいだけど、今は全然そんなことは思ってない」
そして僕は、饂飩を再び食べ始めた。味はうまくなかったが、それが喉を通り胃の腑に落ち、体に吸収されてゆくのが感じられる。脳が何を思惟しようが、肉体は栄養を摂取してくれる。生きようとしている。
話を聞いてみると、ガンダムは真赤の仕業ではなかった。それを入れたのは、T川君であった。僕が病院に運ばれたのを聞いて駆けつけてくれると、真赤が用意した荷物のなかにそのガンダムを忍ばせてくれたのだそうだ。
僕は無知故に知らなかったのだが、その本は、内容の奇抜さに一部の趣味人の間で話題となっている作品らしい。ガンダムマニアでありハードコアマニアであり好事家でもある彼は、それをわざわざ自分の書架から持って来て、入れてくれたのだそうだ。
「そんなに、ガンダムがショックだったとは思わなかった」
とT川君が落ち込んでいる。いや、こちらこそ大変な思い違いをしていた。申し訳ない。ガンダム、有り難く思います。有り難く思います。
申し訳なく頭を下げる僕に、
「昨日は、真夜中に電話して来るなり、ガンダム、ガンダムって連呼するから大笑いしちゃった」
真赤はそう言って、思い出し笑いをするのであった。
一一
年末が近づくと、T川君と逆野は花園シャトーを去って行った。
そのとき僕と真赤は逆野が居た六畳間に移り、そこでようやく、体をくっつけなければ居場所のない、四畳半の棺桶での窮屈な二人暮らしから解放された。
が、この棺桶には次の住人が訪れることになっている。
部屋が余っているのならオシノさんを呼びたいと真赤が言い出した。しかしそれはどうだろう? 僕とタミさんは当初難色をしめした。
僕らには異存はないが、オシノさんはどう思うのか。この家庭は乱雑で、プライバシーがなく、真赤ならともかく、まともな若い女が住めるような場所ではない。その上、オシノさんは僕やタミさんとは二、三回顔を合わせた程度で、お互いのことをほとんど何も知らない。さらに、彼女は現在京都在住で、引っ越すとなれば生活が全部かわってしまう。
到底了承するものとは思えなかったのだが、真赤はどういう誘い方をしたのか、オシノさんは二つ返事で了承し、花園シャトーにやって来ることが決まってしまった。
オシノさんはすぐにやって来た。
その日僕は明け方に眠りについて、昼過ぎに目を覚ます。そして、まともな窓のある部屋に暮らすありがたみを噛みしめる。サッシ窓の向こうの空の色を見ただけで、即座に昼か夜かの判別がつくのがなんとも言えず嬉しい。僕らは遂に人並みの昼夜を手に入れたのだ。性格がねじ曲がってしまった文鳥も、これで正気を取り戻してくれるだろうか。
さわやかな気分で部屋を出ると、キッチンには見覚えのないカラフルな食器がいくつも並んでいる。それまでは僕やタミさんが一人暮らし時代から使い込んでいる薄汚れたマグカップや皿しかなかったのに、誰が買ったのか。
不審に思っていると、棺桶の方で物音がするのに気がつく。覗いてみたら、オシノさんが部屋の壁に木の葉の形をした緑のプラスチック片などを貼り付けて部屋を飾り立てていた。僕はそこでようやく気がついた。ああ、今日が彼女の引っ越しの日だったのか。
そういえば部屋が全体的に片付いている。掃除もしてくれたらしい。有り難いことだ。
「あ、どうも」
オシノさんが僕に気がついて振り返ったので頭を下げると、
「これから、よろしく!」
愛想良く彼女は返事をした。
「大丈夫? わからないこととかある?」
彼女の景気のよさに圧倒されながら訊ねると、
「それなら、うち、パソコンの設定の仕方とか全然わからへんのやけど、あとで畳沢さんに頼んでもええのかなあ?」
「いいと思うよ。サーバー管理してるのは彼だし。……それより、本当にこの部屋でいいの? 正直、人の住むところじゃないよ?」
こんな部屋を押しつけてしまったという気まずさを感じつつそう訊ねると、
「平気平気」
オシノさんは、こともなげに言った。
そうしてそこで立ち話をしていると、すぐにタミさんも起き出して来て、腹が減ったと言う。言われみれば僕も空腹で、それならばと、オシノさんが料理を振る舞ってくれることになった。
「料理出来るの?」
タミさんがいぶかしげに訊ねると、
「京都に居るときは普通に家で食事作ってたんやで。
オシノさんは自信に満ちた表情をする。
それならば、勿論僕らに異存があろうはずがない。頷くと、オシノさんはキッチンで支度を始め、僕とタミさんは布団を外した炬燵机を取り囲んであぐらをかき、出来上がりを待つ事になった。
「今日仕事は?」
寝起きでぼんやりとした顔のタミさんに僕は訊ねる。
「午前だけ行ったんだけど、仕事がなかったから家に帰って、ちょっと別注のプログラムを書いてから寝てた」
「じゃあずっと家に居たんだ。真赤がいないんだけど、どこに行ったか知ってる?」
「原宿に、冬服をとりに行くとか言ってたかな」
「今日オシノさん来るんだから、家で出迎えれば良かったのに。あいつはそういうところを全く考えないよなあ」
そんな話をしていると、すぐにオシノさんの料理は出来上がった。さきほどのカラフルな器に盛られた、ネギの載った饂飩が僕らのテーブルに供される。
そして、いただきます、と僕とタミさんは言って、それぞれ自分の器に手をつけたのだが、これがどうにも味が薄かったのである。関西風饂飩は関東のものと比べて醤油などを控えるというのは知っていたが、それでも薄い。ほんのり味がついているという程度の、ほとんどお湯と言うべき汁であった。
旨くない。もっとも、料理の味付けというものはそれぞれの家で違うものだ。これがオシノさんの家の味なのかもしれない。だとしたら文句を言うのも可哀想だ。僕は黙って食べていたのだが、
「これ、味が薄くない?」
タミさんは僕が言えなかったことをはっきりと言った。
「え、そ、そうかな? うち、京都風の味付けやから、そう感じるんやと思うけど」
オシノさんは慌てふためいたりして、どうも様子がおかしいのである。
それを見たタミさんは無言で立ち上がると、キッチンの戸を開き、饂飩を作るのに使ったと思われる粉末ダシのパッケージを取り出した。
「これ、規定量の半分くらいしか残ってなかったと思うけど、これで二人分作ったの? だから薄いんじゃね?」
日頃より人の欠点や失敗を暴くのに快を感じることの多いタミさんは、ニヤニヤと笑いながら言う。
「いや、そんなことないで。気のせいやで」
オシノさんは、誤魔化すように笑った。その笑い方は、ほとんど間違いを認めているのも同然だった。
タミさんは冷蔵庫から醤油を取り出して自分の器に振りかけると、残りを僕に渡す。僕は同じようにそれを饂飩の出汁に溶かし、よく混ぜてから食事を再開した。
「ひどいよなあ。ただケチるだけじゃなく、京都風だとか言って嘘つくなんて。おれたちが知らないと思って」
タミさんはそう言って笑う。
まったくその通りだ。しかも、これから同居しようという初日の、最初に作った料理でそんな大胆な誤魔化しをするとは。まったく、図太いなあ。信じられないなあ。と、僕とタミさんがからかって笑いながら食べるのを、オシノさんは向こうで苦笑いを浮かべたまま見ている。
夕方ごろに真赤が戻って来ると、彼女もオシノさんの到着を喜んだ。そして、遅い時間に四人でファミリーレストランに行って、歓迎会というわけでもないが、揃って会食をした。そこから帰って来ると、僕は昼過ぎまで眠っていたというのにやたらと眠く、マットレスの上でうとうととしてしまう。
──そして何時くらいだろうか? 僕は部屋の外からの物音で目を覚ます。それはキッチンの方から聞こえている。小さないびきをかいて熟睡している真赤を寝床に残して、僕は立ち上がった。
そうして戸を開けると、キッチンの床の上に、パジャマ姿のオシノさんが居た。正座した膝に覆い被さった、ちょうど柔道で言う『亀』のような格好で彼女はうずくまり、すすり泣きをしているのである。
「どうしたの?」
「……切れへんねん。包丁が、切れへんねん」
見ると、彼女は右手に包丁を持ち、その刃を左手首にこすりつけていた。
錆が浮き、刃のあちこちがかけたその古包丁は、確かにオシノさんの言う通り切れ味が悪い。トマトでも切ろうものならば、まな板の上で潰してしまうようななまくらで、それを使ってみたところで、彼女の左手首には血こそにじむが、深い傷は出来ない。
そこで僕は初めて見たのだけれど、オシノさん腕の内側には手首から肘の付け根まで、リストカットの傷跡が蛇腹のようにみっしりと敷き詰められている。
常習者なのか。ならばそう無茶はしないだろう。僕は内心で安堵した。
「どうしたのさ。さっきまで元気だったじゃん。何か悪い夢でも見たの?」
「切れへん……包丁が……」
彼女は泣くばかりで話にならない。そうしているうちに、タミさんもやって来る。
「それ、真赤も来たばっかりの頃、同じことして、同じこと言ってたねえ」
タミさんは苦笑しながら言う。
「そう言えば確かに。そんなこともあったなあ」
僕も思い出して、懐かしくなった。
こういったときに騒いでも仕方がない。夜の暗がりのなか、僕たちは明かりをつけずに彼女のそばに立って、気持ちが落ち着くのを待つことにした。一方、僕らにこうした場合の対応方法を、いやというほどに学習させた張本人である真赤は幸せそうな顔で眠り続けている。
やがてオシノさんは動揺しない僕らに失望したのか、携帯電話を取りだし、どこかにかけはじめた。通話相手と繋がったようだが、彼女はまともに話す事が出来ず、受話器に向かって泣き続けている。
「切れへんねん。この家、包丁が四本もあるのに切れへん……」
そんな訴えをしているが、いや、それは心外だ。確かにその包丁はなまくらだが、四本のうち一本くらいはまともな包丁があったと思うのだけれど。使えない包丁ばかり四本も置いてあるだなんて、いかにも破滅的な家庭のようじゃないか。
ともかく、こんな電話を続けさせていては、いくらなんでも相手が気の毒だ。僕は彼女の手から携帯をもぎ取るようにして奪った。
「初めまして、このたびオシノさんの同居人になった水屋口です」
『あ、どうも。話は聞いてます』
電話の相手は関西訛りの女であった。オシノさんが何度か話題に出していた、子供の頃からの親友に違いない。
「包丁はもう取り上げてるんですけど、本人が今ちょっとアレなんで、こっちも事情が全然わからないんです。さっきまで、全然そんなそぶりもなくて楽しそうにしてたんですけど、急にこうなっちゃって。こういうときって、普段はどういう風に対応してます?」
僕の説明にオシノさんの友達も、戸惑っているようだ。
話を聞くと、年がら年中こんな調子というわけでもなさそうなのである。何か理由があるのだろうが、それは友人にもわからない。
「わかりました。じゃあ、とりあえず落ち着くまで様子を見てみます」
と言って、電話を切った。
しばらく切れない包丁で手首を擦り続けたオシノさんは、
「カッターナイフ買って来る」
と部屋を飛び出ようとする。
感情的になって飛び出す女を追いかけるのも、僕達は慣れている。後を追って連れ戻してみても、彼女はまだ取り乱しており、今度は実家に電話をかけて「京都に帰る」などと訴えはじめた。そのようにして、結局明け方近くまで彼女は泣き続けた。
まったく、どうしてこんな状況になったのか。落ち着いてから僕たちは訊ねた。
「真赤ちゃんが怒ってたから……」
と、オシノさんは言いにくそうに言う。
夕食のあと、部屋に戻った真赤は「私は喉が弱いから目の前で煙草を吸われると困る。でもオシノさんに直接言えない」などというようなことをごちゃごちゃと僕に言っていた。話を聞いてみると、オシノさんはドアの外でそれを聞いてショックを受けたらしい。
「真赤はただ何かを責めたい気分だっただけで、別にオシノさんが悪いわけじゃないよ。気にしなくていい」
と、タミさんが慰めた。
「そうだよ。意味があって言ったわけじゃない」
僕の見解もタミさんと同じだ。真赤が気分でものを言うのはいつものことであるし、責任を感じる必要はない。そもそも、僕だって煙草を吸っているのに普段あいつは文句を言わないのだ。
しかしオシノさんはなかなか飲み込めないようだった。真赤は外での態度と家庭内の態度では違うところがあるし、戸惑うのも無理はないだろう。
彼女は手首を切るのをやめたものの、ショックは冷めやらず、その後部屋に戻っても泣いていたようであった。
最初からこんな調子でこれからの生活を過ごせるのだろうか。心配になったが、しかし、明くる翌日のオシノさんは昨夜のことなどなかったかのように元気を取り戻している。
昨夜電話をした友人が、昼頃に心配して駆けつけてくれたのだが、あまりにも普段通りなので拍子抜けしていた。
そうして、オシノさんも僕らのメンバーの一人になったのである。
一二
病院で新しい薬を出して貰ったのだが、その副作用がひどかった。
寒気を伴った不快感で脂汗がだらだらと流れてとまらない。吐き気がする。頭痛がする。精神に腐った肉のようなものがつめこまれている。体はぴくりとも動かない。
嗚呼、内臓の全てを口から吐き出して、すっきりとしたい。意識が、意識が、眠いわけでもないのに、はっきりと目を覚ましているのに、ゆらゆらとして、目を開けていられない。
こんな不快感を、かつて味わったことがない。焼酎を一升あけて倒れた時でもまだマシだった。昨日も同じ目にあって、もしやとネットで調べたところ、副作用のきわめて軽い薬だと書いてあったので、その時は他の何かが原因なのかなと、自分の勘違いだったのかなと、情報を信じて再度服用してみたらこのありさまだ。腕を上げることすら出来やしない。朝からひたすらに寝転がっている。半死半生の芋虫のようだ。
水、水を取ってきてくれ、と、口に出して言ってみたけれど返事がない。真赤のやつはどこへ行ったのだろう? こんな僕を部屋において、どこへ行きやがった。耳を澄ますと、どこかから、彼女の笑い声が聞こえる。リビングで誰かと話しているのか。
水は我慢して、そのまま横たわって嵐が過ぎるのを待っていた。一体いつ収まってくれるのか? もう何時間もこうしている。睡眠の世界に逃げこみたかったのだけれど、苦痛がひどくてそれも出来ない。自分の内側の苦しみから目をそらすために、何か他のことを考えようとしたが、うまく思考が逸れてくれない。まったく、地獄とはこのことだ。人間の肉体とは、これほどの苦痛を感じることが出来るのだと、感心してしまう。今まで何の薬をどんな飲み方をしても、ほとんど副作用らしい副作用もなかったのに、なぜ副作用が少ないと評判の薬でこんなに苦しむことになってしまったのか。薬効には個人差があるといっても、肉体の構造は似たようなものじゃないか。
ただただ耐えるしかない。時間が過ぎて、体が薬を分解してくれればこの苦しみは必ず去ってくれる。それまでは石や水になったようなつもりで、まさしく明鏡止水の気持で過ごそう。昔剣道やら空手やらを習っていた時に、先生に言われた言葉を思い出そう。
そうしてじっとしていたら、今度は便意がやって来て、僕をマットレスの上から追い立てようとする。さすがに明鏡止水の精神であっても糞便を寝床に垂れ流すわけにはいかなかったので、死力を尽くして立ち上がる。リビングで真赤とタミさんと、僕の知らん、いつの間にか訪れていた客が楽しげに談笑しているのを横目に、断絶という言葉を心中で復唱しつつふらふらとよろめく足取りでトイレに入る。
そしてなんとか用を足し、ふと見ると正面の戸が開いている。そこはかつて僕と真赤が住み、今はオシノさんが住んでいる棺桶だ。彼女は女性らしく、壁に飾りなどを貼り付けて部屋を洒落た感じにしているが、その狭さが変わるわけではない。布団を敷いたらもう足の踏み場もなくなってしまう住みづらい部屋だ。
そして彼女は今、その敷き布団の上に大の字になって眠っている。パジャマがめくれて腹が露わになっている。僕はどこで寝るにも体を丸めてしまう癖があるから、あんな風に豪快に手足を広げて眠れない。真冬なのに、あれほど大胆に腹を出すことも出来はしない。
思えばオシノさんも随分と早くこの部屋での生活に馴染んだものだ。一応女性であるし、いろいろと不便があるのではないかと危惧していたのだけれど、杞憂だった。僕や真赤やタミさんが脱いだ端から衣服を突っ込んで、着るものがなくなるか、あふれだして入らなくなるまで回さないのが我が家の洗濯機なのだけど、気づいたらいつのまにか彼女の下着もそこに放り込まれるようになっている。
アルバイトもはじめたし、料理も時々作ってくれる。掃除は、最初はやろうとしていたようだが、あまりにも他の住人の散らかし方がひどいので、なかば諦めたようだった。よくネットの人間と遊びに行っている。最近髪の毛を切って、というより刈り込んで、オレンジ色の坊主頭になった。女性の断髪といえば昔は失恋がどうのという連想がされたそうだが、そんな気の利いた理由があるわけもなく、単なるオシャレのつもりらしい。
僕は洗面所で手を洗うと、来た時と同様、談笑を続ける真赤たちのそばを横切り、そしてマットレスの上に体を投げ出した。
オシノさんが生活に馴染んでくれたのは良かったのだけれども、真赤とどうもうまく行っていない。真赤は年が明けてから出勤せず、そのまま仕事をやめてしまって、今はほぼ一日中家にいる。はじめのころは、オシノさんと二人であちこちに出かけたりしていたのだが、ちかごろはどうも彼女に対する態度がとげとげしくなっている。そしてオシノさんはそれを気に病んでいる。あの真赤が率先して彼女を呼んだのに、どうしてそんな理不尽な態度をとるのだろうか。何が気にくわないのだろうか。やっぱり同性は駄目なのか。異性みたいに、彼女の思い通りにならないからか。
排便したせいか、体が少し落ち着いたような気がする。あいかわらず四肢に力は入らぬけれども、静かにしていれば、苦痛が僕の精神の水面に波を立たせるようなことはない。あと二、三時間すれば、起き上がれるようになるかもしれない。
気がついたらリビングから笑い声が聞こえなくなっている。真赤たちは、どこかに食事でもしに行ったのだろう。
あれ、さっき、僕にも行かないかって声をかけてくれたかな? かけられたような、かけられていないような。今さっきのことなのに思い出せない。どうだったかなと、考え込む僕を邪魔するかのように、文鳥がチュンチュンと啼く。うるさいなあ。やめて欲しいのに、声はおさまるどころか一層けたたましくヒステリックになって、チュチュチュチュチュと狂ったように神経質な歌を奏でるのだ。
少しうとうとして、目が覚めたら大分すっきりとしていた。
窓の外はもう暗くなっている。喉が渇いていたので部屋を出ると、石油ファンヒーターの前で、みなが輪になって談笑をしていた。オシノさんが、アルバイトをしている駅前のベーグル屋に、タミさんが冷やかしに来た時の話をしている。
「畳沢さんが帰ったあとな、何度も何度も『あの子どういう人なの?』って、しつこく聞いてきはるねん。気色悪いくらい。あの店長、絶対ゲイやわ」
「ええ、そうなのお?」
「間違いない。確実にゲイ。接客のときも、男と女では対応が全く違うし」
オシノさんは真顔で力説し、タミさんと真赤が笑い転げている。さっきいたはずの客は、もう帰ってしまったようだ。親しそうにしていたのだけれど、結局誰だったのだろう? 僕も知っている人だろうか?
僕は水を飲むと、次は空腹を思い出した。冷蔵庫を開けてみても、何も入っていない。寒々しいほどに空っぽで、タミさんが使うポジフィルムだけが端の方に積み上げられている。仕方なく扉を閉める。
いつの間にか話題が変わって、宇見戸について話していた。週末に、彼がこの家に遊びに来るとは僕も聞いている。あの男は最近すっかり5‐MeO‐DMTという薬の虜になっていて、それを一緒に吸って楽しもうという話だった。それで、オシノさんがすっかり興奮してしまっている。彼女はドラッグにはさほど興味はないようだが、宇見戸のことが好きなのだ。
「宇見戸さんって、どんな髪型とか服が好きやと思う?」
と、不安げにタミさんに相談すると、
「とりあえず坊主は良くないと思うよ」
彼は笑いながら答える。
「じゃあ、カツラ買って来た方がええかなあ?」
「宇見戸のどこが好きなの? あんなの汚いおっさんでしょ」
「だって、純粋やん」
オシノさんは、体をくにゃくにゃとさせて恥ずかしがっている。
食べ物がないのにがっかりした僕は、部屋に戻って布団のなかに潜り込んだ。夜中に真赤が入って来て抱きついて来たところで一旦目を覚まし、そのあとは朝まで眠りこけた。
一三
「ねえ見て見て。この物件いいと思わない? 家賃もそんなに高くないし、お風呂とトイレも別だし、ちょっと古いけど、でも許容範囲でしょう?」
眠くて眠くてたまらない僕の事情にお構いなしに、真赤は冊子を押しつけてくる。迷惑ではあるが僕も良くなかった。二日ほど前に、いつかここを出て二人で暮らしてみようか、などと、口にしてしまったのだ。
しかし、少し現実的になって考えればわかるだろうに。引っ越しとなれば、敷金礼金手数料、それから荷物を運ぶための代金。何かと出費がかさむ。そして僕らにそれを賄うだけの経済力があるかと言えば、あるはずがない。
真赤も知っている筈だ。僕らは二人で一つの銀行口座を使っていて、ついこの間まで彼女が働いていた給金も、そこに振り込まれていた。その残高を見れば、僕らにはそんな余裕などないのは自明である。むしろ、貧窮が目の前に迫っている。こないだだって、真赤が持っていた母親のカードを使ってしまったじゃないか。まああれは、僕の欲しいゲームを買ってしまったんだけど。
とにかく、引っ越しするのは不可能なのである。どうしてその現実を無視出来るのか。いかに年若といえども、その道理がわからないはずもない。僕だって相当金銭的にはルーズだけれども、度をこえている。彼女が目の前の現実を見えぬかのような態度で陽気に引っ越し先の話をすればするほど、僕は意思の疎通がとれない全く別の世界の生き物が目の前にいるような、あっ、これはもしかしたら恐怖。
「ほら、場所だって、水屋口さんがいいって言ってた三軒茶屋だよ。どう?」
そんなに二人きりで暮らしたいのか、それとも、ここを出て行きたいのか。いずれにしろ困った。彼女は満面の笑みであるけれども、僕はそのプランを否定せざるを得ない。
確かに、いずれはここを出て行く必要はあるだろう。が、今すぐというのは無理だ。だからもう少し後に状況がととのったら、その話をもう一度しよう。大体、人が眠いのにそんな話をするな馬鹿野郎。
言うと、真赤は不機嫌になって部屋を出て行く。
怒らせてしまったようだが、それよりも僕は眠かった。今日は二時間も寝ていない。何故かと言うと、昨日はオフ会で朝まで飲んでいた。真赤は行かなかった。だからあんなに元気なのだ。
うとうとしはじめると、すぐにまた真赤が戻って来る。そして僕をたたき起こす。何かぐずぐずと言っている。
僕は眠たいのと、薬が効いているのと、彼女のしつこさに、そんなことどうでもいいじゃないかと、怒ると、彼女は抗議する。そうしてしつこくやりあううちに、彼女は顔を赤く紅潮させて足でもって蹴って来る。あっ、やりやがった。僕は同じくらいの力で蹴り返す。相手もさらに蹴る。それを繰り返しているうちに僕は面倒になって、最終的に無視をしたら、声をあげて泣く。
泣き疲れて真赤はすやすやと眠りこけた。それを見て、僕はため息をつく。
まったく僕らは感情をむき出しにして、まるで獣のようだ。
毎日この調子で、些細なことを原因に言い争ってばかりいる。この喧嘩の声はきっと外にも筒抜けだろう。僕らは二人だけで住んでいるのではなくて、他の友人たちも戸を隔てたすぐ近くに住んでいる。怒鳴りあってばかりの僕と真赤を、タミさんはおそらく気にしていないだろうが、オシノさんは悩んでいるかもしれない。
これはあれだよ、忌まわしき共依存というやつだ。僕と真赤は精神と感情を共有しあって泥沼になっている。自分と相手の区別がつかなくなって混乱している。なんとかしなくちゃいけないが、どうしたら健全化するのか。とにかく、しんどい、しんどい。
最近性格も似てきたような気がする。何もかもが近すぎて息苦しいんだ。少しでも離れないと呼吸もまともに出来そうにない。眠った真赤をそっとその場に残し、僕は服を着替えると、玄関で靴を履き替えて外に出た。
空はどんよりと鉛色をしている。一月の風は肌を切るように冷たい。僕は、マフラーに首をうずめた。このマフラーは、前に真赤が捕まっていたあの長いマフラーで、そしてコートの下に着たセーターは、つい先日買ったばかりの分厚いものだ。真赤と一緒に買いに行って、あいつにも何か買ってやりたかったのだけど、いらないと言うので買ってやれなかった。そうして僕だけ服を買った。いつか埋め合わせをしてやらなくては。もう少しいろいろなことが良くなったら。そんな日が来るのだろうか。
僕は母親のアパートに向かっていた。親と会いたくはないが、真赤がいないところでゆっくりと眠って、もう少しまともな頭になりたかった。今の僕には、冷静に考えなければいけない問題がいくつもあるはずなのだ。
到着したのは暗くなってからであった。母親は僕の突然の来訪に驚いている。そして「今日もくさい。薬の臭いがする」と顔をしかめる。
僕は会話をしたくなかった。物置にしている狭い部屋に布団を敷いて貰って、そこに横になる。疲れているのに興奮してちっとも眠れない。ようやく意識が遠のきかけると、携帯電話が鳴った。真赤からのメールである。返事をしないと、次から次へと送って来る。
『どこに居るの?』『母親のところで一晩休む』『やめて! 今すぐ帰って来て!』『無理。明日帰る』
そして、ついには電話が掛かってきた。
僕の携帯電話はJフォンの製品で、装着されたカメラで、撮影した画像をメールで送れるという革新的なシロモノだ。この前に使っていたドコモの携帯電話は、腹が立ってうっかり道路に投げつけた拍子に壊れてしまった。あの時は誰と電話をしていたんだっけ。真赤だっけ? 思い出せない。おかしいな、健忘が出るような薬は、ほとんど飲んでいない筈なのに。僕の自慢の脳細胞は、この不摂生と過剰な薬物によって、あらかた死滅してしまったのかもしれない。それとも元々こうだったろうか。
出たくはなかったがコールをやめてくれない。仕方なく出ると、真赤は電話口で声をあげて泣いている。何か言おうとしているようだ。けれども、ちっとも言葉にならない。何もかも思ったとおりだ。僕は無言のまま通話を切った。それでも何度も何度も繰り返し電話をかけて来るので、僕は電源をオフにする。
日付が変わる前には寝入ったと思うけれども、そう長くは寝ていられなかった。まだ暗いうちに目を覚ます。時計を見ると四時半。しっかりと八時間くらい睡眠をとりたかったのだが、五時間程度しか眠れなかったという計算になる。悪くはないが十分な休養とも言えない。実際、体の節々に粘り着いた疲労が、痛みとなって感じられた。
携帯電話の電源を入れると、真赤からのメールを何件も着信している。
『電話に出て』『死にそう』『つらい』だのと、どれも短い言葉であった。
真赤は、ちょっとでも離れると身も世もなくなって我を失ってしまう。これがきっと、ある種の人間に良く見られる、いわゆる『見捨てられ不安』というやつなのだろう。真赤と一緒に、それについて書かれたサイトを見たことがある。全くこのとおりだと、本人も笑っていた。
その彼女の弱点をよく知っている僕は、だからむしゃくしゃしていると、「じゃあ別れる」と、半分本気で、半分試すつもりで言ってしまう。あまりにも残酷で、良くないとはわかっているのに言ってしまう。すると真赤は泣き叫ぶ。軽く言っただけでも狂乱する。そうして彼女が苦しむと、僕の溜飲がいくらか下がるのだ。何の溜飲だか知らないが。そのあと僕は反省して優しくする。すると、真赤も泣いていたことなど忘れたようにすぐに機嫌を取り戻し、近くにまとわりつく。
まともな関係じゃない。
今回も、メールを読んだ途端に僕は反省した。僕は真赤を愛しているわけだから、こんな風に逃げて、寂しがらせてしまったのは悪かった。どういう形であれ、逃げてはいけなかった。
すぐに身支度をして、始発で花園シャトーへと向かう。そして夜が明け、すがすがしい朝日の差すなか、僕らの幸せな家庭に帰って来た。
みな眠りこけているらしく、シンとしている。真赤も泣き疲れて眠っているだろう。そしたら僕は優しく揺さぶって起こしてやるのだ。彼女はきっと、思ったより早く僕が帰って来たことに、驚き、喜ぶに違いない。
しかし、どういうことか。部屋に戻ってみても、布団がもぬけのからなのである。どこかへ出かけた形跡もない。万が一とは思うが、これはもしかして。
僕は物音を立てないよう、そっと部屋を出て、隣のタミさんの部屋に入る。そして、ロフトベッドのなかで寝ている人間の姿を爪先立ちで確認すると、案の定、タミさんと抱き合うようにして真赤が眠っていた。
僕はほとんどわけがわからなくなりながら、ただタミさんを起こしてはいけないと、こんな状況なのに何故かそんなことが気になって、そっと真赤のパジャマの裾をつまみ、引っ張った。
すると彼女はううんとうなり声をあげる。もう二回引っ張って振動を与えると、ようやく目を覚ます。そして僕の顔を見つけ、驚きに目を見開く。
僕は降りるようジェスチャーで伝え、彼女は怯えながらそれに従った。かろうじて着衣は乱れてはいなかったけれども、だからといって何の保証にもなっていないのはわかっている。
リビングルームまで連れて来ると、僕はそこで真赤を殴った。まるで手応えがない。逃げようとする真赤の薄っぺらいパジャマを掴み、引き倒し、もう一度殴りつけてみても、ぴんぴんとしていて効いた様子がない。大の大人が華奢な少女を、手加減なしで殴っているというのにどうしてこんなに効き目がないんだろう。薬のせいか? 疲労のせいか? まるで夢のなかでもがいているように、体の動きが鈍く、ちぐはぐだった。
子供の時は引っ越しばかりしていたので、地元のやつとよく喧嘩になった。あの頃は、こんな感じじゃなかったのに。もっとうまく殴れたのに。
無我夢中で彼女を叩いたけれど、結局僕の息が先に上がって、その隙に逃げられてしまう。真赤は鼻血で汚れた顔に恐怖の色を浮かべて僕を見る。追う姿勢を見せると、裸足のまま玄関から外へ駆けて行った。
僕はのろのろと立ち上がり、キッチンで水を飲み、それからスニーカーを突っかけて部屋を出た。今度は殴るつもりではなく、保護するつもりだった。真赤はマンションの前のところで、見知らぬ人からティッシュを受け取り、それを顔に押し当てている。親切な誰かが介抱してくれているのだろう。それを確認すると、僕は来た道を引き返した。
精神も体も鉛のように重かった。部屋に戻るとマットレスに倒れ込み、目をつむる。そして眠りに落ちる間際、救急車のサイレンの音を聞いたような気がした。あれは、真赤を連れに来たのだろう。
絶望感と共に目を覚ました。部屋のなかは朝と同様静かだった。起き出して、オシノさんとタミさんがいないのを確認する。どこかへ行ってしまったのだか知らないが、僕一人しかいないのなら好都合だ。
僕はトイレで用を足すと、リビングに置いてあるカラーボックスからLANケーブルを一本取り出した。そして部屋に戻り、引っかける場所を探す。
丁度良い高さでそれらしいものと言ったらカーテンレールくらいしかなかったけれども、あれに人間の体重を支えるほどの強度がないのは真赤が実証済みだ。あいつの失敗がこんなふうに役に立つとは思わなかった。あ、確か、見上げるほど高くなくとも、腰が浮くくらいの高さがあれば十分なのだっけ? どこかで、聞いたことがある。
押し入れを開けると、中には衣料を仕舞ったカラーボックスが置いてある。僕はLANケーブルの先端に転がっていたペットボトルを結びつけると、カラーボックスの一番上の引き出しに入れ、そしてケーブルだけが外に出るように引き出しを閉じた。そして、そのたれ下がったケーブルで輪を作る。
手でケーブルを引いてみても、強い手応えがあってびくともしない。これなら支障はないだろう。僕はカラーボックスに背を向けるような姿勢をとり、あごと首の境目に輪をかける。すると正面に窓があった。驚くほどの青空で、太陽の光が美しい。
少しずつ膝の力を抜くと、段々と首がケーブルの圧力で締まってゆく。そうして徐々に圧迫感が強まって来る。まだこの辺りなら、立ち上がって、なかったことに出来る。今はその気はないが、もっと苦しくなっても、僕は死の恐怖を越えて、それをしないでいることが出来るのだろうか? 躊躇って、立ち上がってしまうのではないか? そんな不安が頭をよぎったが、それは全くの杞憂だった。
首吊りに苦痛がないというのは本当だった。細いものが首に食い込む痛みはあれど、窒息はしないのだ。そして、頸部の圧迫がある一点を越えると、まだ耐えられないような苦しみはないにも拘わらず、思考は完全に論理性を失った。意識の中に薄灰色の靄がたちこめて、僕はこの状況に至るまでの経緯を忘れてしまう。自らの意志で首を吊ったということを忘れてしまう。
遠ざかる意識のなか、このままでは死んでしまうという危機感はあるのだが、どうやったら解決出来るのかがわからない。思い出せない。この首にからみつく何かから逃れなくちゃいけないとも思うのだが、どうやったらそれが出来るのかがわからない。膝に力を入れて、立ち上がればそれで苦しみから逃れられるのに、酸欠の脳はそれに気がつかない。首にかかったケーブルに手をかけるという最もシンプルな行為にさえ考えが及ばず、僕は、目の前の空間に無我夢中で手を動かしていた。
やがて視界の端から白くなって、そのあと意識を失ったらしい。そのままどれくらいの時間が過ぎたのか。気がつくと、僕は衣服の山に埋もれていた。どうやら体重で傾いたカラーボックスが丸ごと落ちてしまったらしい。
僕は失敗してしまったのだ。
まだぼんやりとする意識のまま、マットレスに座り込む。そのままじっとしていると、リビングルームの方から物音が聞こえる。
どうやら動けるようになっていたようなので、立ち上がって部屋を出て行くと、いつの間にかタミさんが帰っており、僕が以前に拾って来て貼った、選挙ポスターを剥がしている。
「どうしたの?」
「これから警察が家に来るんだって。だから怪しいものは剥がしておこうと思って」
タミさんは作業をしながら答える。
「ああそうか。おれの件で来るのか」
「うん」
「オシノさんは?」
「真赤と一緒に病院にいる」
「そうか」
それから僕はタミさんを手伝い、二人で部屋のあちこちに点在する『警察に見られてはいけないもの』を片付けた。
それは、面白い形をしているからと、使わないで壁に貼り付けてインテリアにしていたマジックマッシュルーム。誰か知らないやつが置いていった使い道のない大麻。振り子のところに永谷園のふりかけを貼り付けた時計も、悪く勘ぐられそうな気がしたので外した。それから、インターフォンの受話器の上に貼った僕らの生活標語もあまりいい印象は与えないだろう。
『なるべく、キメ過ぎない。
なるべく、違法なものには手を出さない。
なるべく、死なない。』
「何度見ても笑っちゃうよ。なんで、『なるべく』ってついてるんだろう」
とタミさんは言う。
「まあ、守れる範囲でやればいいと思ってさ」
「最初から守る気なんか全然ないようにしか見えないよ」
タミさんは苦笑して、その張り紙も剥がし取った。
それから間もなくして、制服姿の警官が二人やって来る。彼らは僕の名前を確認すると、真赤に暴力をふるって怪我を負わせた件で来たのだと告げた。
事情を聞きたいので、これからパトカーで一緒に警察署まで同行して欲しいとのこと。僕には断る理由がなかったので、はいと頷く。
一旦部屋に戻って上着を着てから外に出る。マンションの前にパトカーが停めてあって、警察官が後部座席のドアを開ける。ここから乗り込んで、奥の席に座れと言う。向こう側のドアは、乗せた人間が逃げられないようにロックしたまま開かないようになっているのだと、聞いてもいないのに説明してくれた。
そうして僕は警官の一人と共に後部座席に座った。逮捕というわけではないのか、手錠をされることはなかった。
走行するパトカーのなかで、やたらと警官は世間話をしようとする。鬱陶しく思いながら返事をしていると、
「それはなんだい?」
と、僕の方を見ながら言った。
「え?」
「首のところに、青い痣がついてる」
言われた部分を指先で撫でると、確かに少し痛む場所がある。
「ああ、これはさっき、首を吊ろうとした時の痣だと思います。死のうとしたんですけど、失敗して、死ねなかったんですよ」
ぞんざいに言うと、警官はそれ以降は署につくまで沈黙していた。
警官であるならば、もっと恐ろしいものや、過激なものを目にしているはずなのに、これくらいで黙ってしまうとは案外繊細だ。
パトカーが警察署に到着した時には、もう日が暮れていた。
まず僕はよくわからない書類に拇印をとらされ、そして事情聴取がはじまった。
映画やドラマで見るような、電気スタンドの置かれた机がある、狭い部屋でやるのかと想像していたのだけれど、そういった本格的なものではなかった。僕はまだ逮捕されたわけでもなさそうだから、参考人かなにかといった形での事情聴取なのだろう。人気のない廊下の黒い長椅子に腰掛けさせられて、僕と一緒にパトカーで来た中年の制服警官が、クリップボードを片手にメモを取りながら質問をする。
あの部屋には友人たちと住んでいる。僕と真赤は付き合っている。昨日は一晩外出し、そして帰って来たら彼女が友人と同じベッドに寝ていたので逆上して殴打した。時々差し挟まれる警官の問いかけに答えながらそう説明した。何かを隠す必要は感じなかったので、ありのままを話した。
時間の感覚を失ってしまっている上に、携帯電話を家に忘れて来たので正確なところは判然としないが、スムーズに進んだので三十分もかからずに取り調べは終わったろう。警官はボールペンを胸にしまうと、無線を取り出してどこかと連絡をとった。
その言葉には隠語が使われていて、聞いているうちに、「イチ」と呼ばれているのが僕で「ニ」というのが真赤だと想像がついた。「イチは今私と一緒にいます」「ニはまだ病院にいますか」というような使い方をしている。すぐにそれとわかる符牒を使う意味がわからない。
それによると、真赤はこれからこの警察署にやって来て、僕はこのままここでそれを待つことになるようだった。警官の断片的な言葉からそう予測を立てていると、通話を終えた警官がそれと同じことを言った。
そのまま、僕は随分と長いことその廊下で待たされた。どれくらいの時間が過ぎたのか。建物の内側にある廊下らしく、窓らしきものもなかったので空の色で時間の推移を知ることも出来ない。ただ、ひどく長い時間待たされて、ひどく冷えた。こういう場所にいるとあの四畳半を思い出す。薄暗い照明の下でうつむくようにして座っていると、途中警官が温かい缶コーヒーを買ってくれたので、それを飲む。
しばらく経って、玄関ロビーに場所を移動させられた。ロビーの壁はガラス張りで、その時空の色を見て、夜になっていることを知った。
ロビーには車庫証明を取ったり、様々な手続きを行うような受付があったが、この時刻になるともう利用者は誰もいない。奥の机で女性の警官が書類整理をしている、カサカサとした紙の音が聞こえる。ほとんどの照明が消えて薄暗く、静かで、まるで深夜のような雰囲気だった。
片隅にある椅子に座るよう指示されたのでそうしていると、やがてタミさんがやって来て、僕と目礼を交わしてから隣に座る。
もうすぐ誰かが僕に、これからの処遇を告げるだろう。それについて、特に思考すべきことがなかった。そして何も感じもしなかった。僕はここでは何も決定する必要がないのだから、気が楽だと思った。問われたことにはすべて正直に答えたのだから、あとは誰かが彼らに都合の良い結論を下してくれるだろう。
どうやら、真赤も既にここへ到着しているらしい。僕とタミさんの座っているこの場所からは見えないが、警官たちが事務をしている机が並んだその向こうにある衝立の、さらに向こうからボソボソと複数人が話す声が聞こえる。僕にしたように、警察が、真赤から事情を聞いているのだろう。
そちらの方を見るともなく眺めていると、若い警官が現れてこちらの方へやって来た。
「きみが水屋口君?」
その問いかけに、無言で頷く。
「いやあ、彼女を殴っちゃったんだね。相手は、いま、そこにいるんだけど、かなり怪我をしてるよ。そこまでひどいってわけじゃないけど、当分痣は消えないだろうね」
その青年は困ったような態度である。
「事情は聞いたよ。好きな女の子がそんな状態だったら耐えられないよ。僕も最近結婚したばかりなんだけど、もし女房のそんな状況を見たら、やっぱり殴っちゃうかもしれない。警察が言うことじゃないけど、男としてさ」
何も言わずに黙っていると、彼は一方的に共感を示す。
「でも、どんな事情があれ、暴力は暴力だからね。良くないことだってのはわかるよね? 彼女が事件にしないでくれって言ってるから、このまま帰れると思うけど、もう二度とこんなことはしちゃだめだからね」
そして彼が去って行くと、今度は若い女の警官がやって来た。こちらの方は、何も言わずとも怒っているのがその顔つきから明らかだった。
「さっき田舎のお母さんが遠くから来て、今彼女と一緒にいるんだけど、娘のひどい有様にすごく驚いているわ。殴られたところが腫れちゃって、お岩さんみたいなのよ? 男が女を殴るなんて最低よ。人間の屑よ。これから本人が被害届を出せば、立派な事件になりますから。その結論を、そこでもう少し待っていてくださいね」
吐き捨てるように一方的に言うと、また衝立の向こうに戻って行く。
それからさらに僕らは待たされた。僕とタミさんは一言も喋らなかった。別に怒っていたわけではなくて、ただ話題がなかっただけだ。真赤が僕を訴えるか、どうか、少し考えたけれども、今自分を取り巻いている多くの問題や、いやなことと比べたら、それほど重要な違いがあるようには思えなかった。
やがて話がついたようだ。衝立の向こうから真赤が現れる。彼女は、小太りの中年女に肩を抱かれるようにしており、顔が見えない。あの女が真赤の母親だろう。実物を見るのは初めてだけれど、写真を見たことがあった。
彼女たちは僕らの前を横切ろうとしている。そのまま、玄関の前に停まっているタクシーに乗り込むつもりなのだ。そうして栃木に帰るのだろう。
目の前を通り過ぎる時、真赤がこちらを振り向いて、目が合った。怪我の具合が気になったが、顔の大部分はタオルで隠されていてよく見えない。
すると母親が、立ち止まってしまった真赤の背を押して歩くよう促した。そしてこちらを振り向くと、僕の顔を凄い目で睨み付ける。
親子が通り過ぎていったそのあとを、どこに居たのかオシノさんが小走りで追いかけて、そしてなぜか同じタクシーに乗り込んでしまった。
「オシノさんも行っちゃった」
僕が言うと、
「行っちゃったね」
タミさんも頷いた。
結局真赤は被害届を出さなかったようで、そのあと僕はタミさんに身元引き受け人になってもらい、その日のうちに家に帰った。
これで真赤と今生の別れになると思ったが、そうはならなかった。すぐ次の日の真夜中に彼女から電話が来る。
『ごめんなさい、あんな事して。でも本当に何もなかったの』
「それはもういいよ。おれが悪かったんだから。それより怪我は大丈夫?」
『電話が繋がらないから、なんだか頭がうわーってなっちゃって、どうしようもなかったから……』
「いいよ、わかってるから」
『ごめんなさい』
何度も謝る真赤を促し、これからどうするつもりなのかという質問に答えさせると、このまま少し実家で過ごして怪我がある程度良くなったら、また帰って来るのだと言った。ただ、ここに戻るのではなく原宿のマンションで暮らすことになるらしい。それは当然のことだ。むしろ、その方が良い。
あのまま栃木まで行ってしまったオシノさんも、そのまま真赤の実家に滞在している。一緒に帰って来る予定だそうだ。今は別の部屋でぐっすりと眠っているという。
『うちのお母さんがね、警察で水屋口さんとタミさん見たでしょ?』
電話を切る間際、彼女は笑いを含んだ声でそう言った。
『それで二人を比べてね、水屋口さんの方が好みだって、そう言ってたんだよ。私に、同じ好みだねって』
あの時の彼女の母の、僕を見た目つきを思い出すと、とてもそうは信じられない。第一、娘を殴り倒した相手をそんな浮いた台詞で語る人間が居るだろうか。
もしかしたら、真赤はこんな愚にもつかない見え透いたお世辞で、僕の機嫌を取ろうとしているのかもしれない。そう考えると物寂しくなったが、僕は何も言わずに「うん」と返した。
結局のところ、彼女が帰って来るのなら、僕はそれでいいのだろう。
言っていた通り、真赤とオシノさんは一週間ほどで栃木から戻って来た。
久しぶりに見る真赤は、目の周りと口の周りに青黒い痣をつけており、一週間たってから初めて見た自分の暴力の痕跡に、僕は何も言えなかった。
一方、真赤は真赤で引け目があるらしく、もじもじとしたまま話し出せないでいる。
「真赤ちゃんのおうちでめっちゃ優しくしてもらって、楽しかったあ」
その二人の脇でオシノさんは目を輝かせて土産話をはじめる。
「高そうな鉄板焼きのお店に行って、フォアグラの載ったステーキを食べさせて貰ったりしたんやで」
それから、神社にお参りに行っただの、何故か真赤の父親から小遣いを貰って小物を買っただのという話をするのに、僕は曖昧に頷いて、真赤は控えめに補足した。
そうしてその話が一通り終わると、
「あのね、これ水屋口さんに買って来たの」
真赤はやっと僕に向かって口を開き、バッグから紙箱を取り出して僕に突きつけた。受け取ると、箱には『COMME CA DU MODE』と印刷がしてあった。蓋をあけると、中には二つ折りの革財布が入っている。
「ずっとボロボロの財布使ってたでしょ。だからちゃんとした財布があったらいいかなって」
そう言って、真赤は不安そうな顔つきで僕の表情をうかがう。まだ責められると思っているのかも知れないが、こちらにはもうそんなつもりはなかった。
「ありがとう。さっそく使わせて貰うよ。小銭がポロポロと落ちてすぐなくなるから、困ってたんだ」
笑ってみせると、それで彼女もやっと安心したのか、嬉しそうに微笑んだ。
久しぶりに107号室のメンバーが全員揃ったので、坂を下りたところにあるいつものガストまで繰り出した。
夕食時の店内は混雑している。やって来た店員に、人数と喫煙非喫煙を答えると、レジで会計をしていた大学生グループが振り返り、真赤の痣だらけの顔をジロジロと見た。しかし見られた真赤本人は気づかないのか、気にしていないのか、オシノさんと笑いながら話し合っている。
会食が始まるとまたオシノさんは栃木での出来事を語り、真赤はネットの噂話について話したがった。僕とタミさんはほうれん草とベーコンのバターソテーを頼み、ほうれん草というものは実に美味しいものだなあという話をした。それから、宇見戸が新しく始めようとしているイベントの話をした。それは、『RM』のようにひっきりなしに音楽をかけて踊るのではなく、もっとゆったりとした場所で、映像などを流しつつ、ソファーに座って歓談するようなイベントなのだそうだ。スマートドラッグの類を持ち寄ったりもするらしく、タミさんは大変楽しみにしているのだという。
真赤はそのまま一晩泊まった。そして翌日も昼過ぎまで花園シャトーで過ごしたが、暗くなる前に帰さなくてはと、四時頃に僕は彼女を促して家を出た。
歩き慣れた駅までの道を、二人並んで夕日に照らされながら歩いた。真赤からはかたさが取れ、普段通りの態度に戻っている。そして、とめどもなく喋り続けている。コンタクトレンズを片方だけなくしたから、風景がおかしな感じに見えるとか、実家にいるときに買って貰った新しいスニーカーの履き心地が悪いとか。
彼女を改札口で見送ってから、家に帰った。朝にやるのを忘れていた文鳥の水換えと餌やりを済ませ、サイトの日記を更新した。
トイレに行くために部屋を出ると、オシノさんは換気扇の下で煙草を吸っている。タミさんの部屋の戸は開きっぱなしで、ヘッドフォンをつけてPCに向かっているのが見える。
そうして、まるで何事もなかったかのように僕らの生活は再開された。僕は違和感にとり残されている。
「真赤ちゃんのご両親って、なんか言ってたのと違ったなあ。家でいじめられてるって聞いてたけど、全然そんな感じしいひんかった」
少し後になって、オシノさんは独り言のようにそう言っていた。そして他にはこうも言ってたっけ。
「お父さんは、ちょっと水屋口さんと雰囲気が似てたような気がする」