一


 もう一ヶ月以上働いていないのであって、社会的かつ生産的な活動というやつをなんにもしていないのであって、これで、いいの? いいの? 僕は本当に生きていて、いいの? とか思ったり思わなかったり、定かでない今日この頃なんですが、さあて、実際生きるべきか死ぬべきか、どっちでしょうかね? などと質問形式をとってみた僕は、何もわかりはしないのです。わかりたくもないのです。だって、わかるのが恐ろしい恐ろしい恐ろしいので、わかりそうになったら酒を飲むことにしています。朝でも昼でも、目を開いたその時に酒を飲みます。僕はとにかく酒を飲みます。酒酒酒。酒だ酒をよこせ。いえ、よこしてください。明日も酒、明後日も酒、死ぬまで踊り続けますよアハハ、って別に可笑しくはありません。ちっとも可笑しくなんかないんだ。なんでかっていうとそれは僕自身のことなので。他でもない僕自身のことなので。そら僕だって、僕自身のことだろうが他の誰かのことだろうが、わけへだてなく、差別なく、えこひいきなく、マザーテレサのような平等と博愛の精神で一様に笑い飛ばしてやりたいって気持ちはあるのですが、でもそれをしたらどうにもならんと思うのですよ。だって僕は僕なのだから。僕はもうちょっと、自分のことに関して、真剣になったほうがよいと思うのです。笑い飛ばすよりも、深刻に、思い悩んだほうがよいのです。どうも、そのほうが真っ当な人間反応のようなので。それに僕が僕のために真剣にならなければ、誰も僕のために真剣になる人なんかいないじゃないですか。それはあまりにも、寂しいじゃないですか。だから、ほら、僕は本気だと宣言してゆくのです。まったく、なんて『僕』という文字の多い文章だろう!

 というわけでもう昨日のことになってしまったんですが、つうか、一昨日だったかな? それが一昨日とか昨日とか今日とか、もうわからないな。というのは、夜九時に起きて、翌日の昼過ぎに寝て、そして二時間も寝たら起きるって、そんな生活してたら、もはや夜零時に日付変更、という全世界的な事実と精神がうまく馴染めませんので。だから、昨日とか一昨日とか言われても、ぱっと直感的に理解できないのです。で、とにかく、その日目覚めて朝一番、というか夜一番、時間にして二十一時半ごろ、ラーメン屋に行きました。僕はラーメン屋に行きました。同居人の女を伴って。そうです、真赤です。ご存じですか? アア、それなら良かった。

 隣で眠っているそいつをたたき起こして、テクテクと歩行してゆくと歩き始めたばかりなのに、暗い空から白い雪がぽろぽろこぼれるように降りはじめます。嗚呼! もうそんな季節ではない筈なのにまだ雪が降るのか。傘を持たずに家を出たものだから僕はひどく寒かったんですが、でも引っ返して傘取りに戻るなんて、雪に負けたようでいかにも業腹なので、そして面倒だったので、そのまま雪に降られながら歩きました。寒いのも濡れるのも、厭なものはなんだって、どうでもいいやって諦めてしまえば、そのうち不快を通り越して良い気分になるって……わかるかなあ。僕はそういうのが案外得意なんです。寒くて顔の皮膚とかこわばって、すると不思議とワクワクしてきて。一方同居人は辛そうにしていましたが。もうちょっと厚着すりゃあいいんだよ。馬鹿だなあ。とにかく、そんな感じで歩き続け、いよいよ寒さに凍えきってしまうころ、ようやく僕らはラーメン屋についたのでした。

 そこは何度も足を運んだことのある馴染みの店で、僕は普段通り小町Aセットとかいうやつを注文したんですが、これは半ラーメンに半チャーハンと御新香がついて650円とかいう良心的な価格を設定されているので、最近割と気に入っているメニューなんですよねって、いや、それはいいのだけど、それにしてもここのラーメンもチャーハンも油っこい。本当に脂っこい。特にチャーハンのしつこさはどうだろう? はらいっぱい食べたら吐くよきっと。いやあ実に模範的なジャンクフードだなあ。なんて、文句を言いながらも、そして実際半分以上残したことも有りながらも、めげずにしょっちゅう通っている僕は確かにどうかしてるというか頭おかしいのですが、一緒に行ったツレときたら、それに輪をかけて本当に完全に最高に頭がおかしくて、己の分のラーメンを食べながら、その食べている物体にむかって言うのです。

「なんかこれ屠畜場から流れ出るどぶ川みたい。ほら豚骨のラーメンでしょう? だからスープに豚の肉からしみ出たエキスが一杯で、屠畜場の排水もきっとそんな感じだと思うから成分は一緒。このネギがドブ川の藻で、この紅生姜が赤虫、うわあ、リアル、気持ち悪い、気持ち悪い。アハハ」

 とか、僕がなんにも相づち打たないでも、電波を受信したみたいに一人で喋って笑って、喋って笑って、この背脂はウジ虫みたい、と箸でつついて、そして嬉しそうに食っているので、余りにもひどいありさま。とても正気の沙汰とは思えない。正視に耐えない。なんて、可哀想な人間だろうかなあ、と心優しい僕はこっそり胸のうちで涙して、しかし彼女のために笑顔は崩さず、最初から最後まで話を合わせてやったのです。まったく、僕はすばらしい人間だなあ。

 そうして腹を満たすと身体が温まり、来る時にあれほど寒かった道が心地よく感じられるのだから人体というものは不思議です。並んで歩きながら、ふと見上げると、空に月がぽっかり浮かんでいる。

「なんか、月の周りがボワボワってしてる」

 彼女も僕につられて見上げたらしく、ふとそんなことを言う。

「あれは、おぼろ月だな」

「そういう呼び方をするの?」

 聞いたこともないという顔をする。まったく、学のない人間というものはみじめなものです。

「うん、そうなのだ。じゃあ、おぼろ、って漢字で書ける?」

「書けない」

「駄目だなあ。月に龍で、朧。覚えとけよ、こんなの世間の常識だぜ」

 せっかく僕が親切に教えてやったのに、同居人はあからさまに、なんだそんなこと偉そうに、といった感情を顔に出しやがり、感謝の念など微塵もない。心貧しい人間というものは哀しいものだよなあ。

 そしてその後は、この憐れで可哀想で愚かな少女のために、知識というものがいかに大事か、それをないがしろにするということがどれだけ寂しいことか、吉田松陰の牢獄での逸話を交えた、有り難いお説教をくれながら帰路をトボトボ歩いていた。そして説教をしている僕の頭のなかではずっと、この住宅街に存在しているはずの、平和な毎日になんの疑問も抱かずにすやすや眠っている人々のことばかり、気になってなってしかたがない。僕らが歩いている道は高台にあり、見下ろすと下界に甍を並べる家々の明かりが見える。アア、この同じ空、同じ地面、同じ空気、全部同じ舞台を使っているのに、家のない少女に前途のない僕は偉そうに説教をしている。のに比べて、彼らは家族と仲良く、母猫を枕に並ぶ子猫のように穏やかな眠りについている。まったく、この世は大変な場所なのだから、そんなに平和に寝るな、起きるな、通うな、笑うな、泣くな、と、これは僕のひがみだって、それはわかっているのですけれど。それにしたって、僕らは一体何者なのだろうかなあ。

 などと考えて、どうしても考えてしまって。まったく、暗い夜道を歩いてるせいで、こんなにしんみりしてしまったのだね。

 そして、見上げた空には朧月。

 こんなにまんまるい月が見えるってことは、あっ、そうだ、雪はやんでいるってことじゃないか。そして実際もう雪など降っていない。ちっとも気が付かなかった。そうか、もう雪は降っていなかったのか。

 一人感心していると、

「……てことでしょう?」

 真赤はなにやら真面目臭い顔で言って、そうして僕の返事を待っている。

 しかしながら、僕はすっかり自分のなかに夢中になっており、彼女の話なんかまったく聞いちゃいなかったので、さて困った。一体、どうしたものか──。


 真赤がやって来て一週間ほど経った頃から、僕と彼女は同じ部屋で寝起きしている。

 一人でも狭苦しい四畳の部屋に、二人で暮らすというのは正気の沙汰ではないと人は思うかもしれないが、まあ確かにそれはその通り。敷き詰められた万年床の上で、二人が横になれば寝返りも打てず、片方が座れば、もう片方が座る場所も自然と決まってしまうような有様だった。

 それほどの窮屈な空間に、しかも僕は無職、彼女も高校入学までは自由の身であるから、人に遊びにでも誘われなければ食事の他には外出の用もなく、ほぼ二十四時間閉じこもっている。そして、それぞれのPCでインターネットを閲覧している。ひたすらひたすらインターネット。しかし、それで退屈ということもないのだから、なんというか手軽なものだね。

 まだここに来てからそれほどの時間は経っていないはずだけれども、ひどく長い時間が過ぎたような気がするよ。こうして、何をするでもなくただ生きているだけなのに、何故だか毎日イベントがあって、一日一日が濃厚なのだ。

 最初に驚かされたのは、彼女が来て三日目か、そのあたりのことだったと思う。まだ僕らが別々の部屋で暮らしていた時期の話なのだけれど、その前日はいつものように僕とタミさんと真赤の三人で食事をして、そしていつものようにそれぞれの部屋で眠りについた。その段階では、それを予期させるような出来事など何一つなかったんだ。

 僕はその朝目が覚めると、冷蔵庫に飲み物を取りに行く。中学校の剣道部時代の寒稽古を思い出すくらい、ひどく寒い早朝で、僕は温かい布団から出たくはなかったのだけれど、酒を飲んでしまうと、どうにも水分が欲しくなるのだから仕方がない。体をさすりながらダイニングルームへ足を踏み入れた。

 この家ではほとんど自室の戸を閉めるという習慣がなかったので、タミさんの部屋も、真赤の部屋も開け放したままになっている。だから見るつもりがなくとも、ダイニングからは各部屋の様子が把握出来てしまうのだけれど、そこで僕は気がついてしまった。真赤が部屋にいない。布団がもぬけの殻なのである。

 どこへ行ったのだろう? コンビニにでも行ったのだろうか? でも、あいつは金なんかほとんど持ってはいないはずだ。何か言付けをされていないか、タミさんの部屋を覗くと、低いいびきをかいて眠っている。僕は直接本人に尋ねるべく、真赤の携帯に電話をかけて、そうして異状を知ったのだ。

『あ、水屋口さん……』

 ふわふわとした声で電話に出た。僕はどこで何をしているのかと訊ねたが、相手の返答は全く要領を得ない。ぶつぶつとわけのわからぬことを言っている。そして、一方的に通話を切られてしまう。

 僕はさっぱりわからない。どうしたんだ? 薬が変な風にまわったのか? それとも、遂に狂ったのか? いや、やはり共同生活がいやになって、出て行こうとしているのかもしれない。ああ、その線はあり得るな。そうだとしたら僕には止めることは出来ないが、しかし、だからといってこのまま放置するわけにはいかない。どういう理由にしろ、明らかにその態度が普段とは違っていたのは確かだ。まともな精神状態には思えない。

 すぐにもう一度電話をかけ直す。本格的に会話を拒否するつもりなら携帯電話の電源を落としているかもしれないと、そう危惧したが無事コール音がなり、彼女はそれに出た。

 どうやら僕と言葉のやり取りをしようという気はあるようだ。いくらかほっとしながらもう一度問いただすと、

「なんか……なんだろう? 頭がおかしくなっちゃって……だから、歩いてるの。すごく気持ちいいよ。アハハ」

「歩いてるって、どこを?」

「どこだろう? わかんない……あっ、太陽がまぶしいね」

 そして、ひたすらうわごとのような言葉を繰り返すのである。

 これはまずい。なんだか知らぬが、まずいのは確かだ。

 僕はすぐに家を飛び出て、朝靄が漂う街で彼女の姿を探した。といっても、闇雲に探しても見つかるはずがない。かといって、彼女に電話をしても、どうも意識がおぼろげで、近くに居るのか遠くに居るのか、どれくらいの時間を歩いていたのか、全く状況を把握出来ていないようだった。

 そこで、ひとまず僕はその場所から動かぬよう指示し、そしてあたりの風景の特徴や、電柱に記された住所などを確認させる。そこでも彼女はまともに答えなかったものだから、大分手間取ってはしまったが、それでも、なんとかある程度の情報は手に入れることが出来た。

 思ったより遠くへは行っていないようなのだけれど、しかし僕だって完全にこのあたりの地理を把握しているわけでもない。そして地図も持っていない。道ばたに掲示されたおおざっぱな地図で地名を確認し、電柱に書かれた番地を確認しながら、三十分ほど住宅街をさまよい歩き、それでようやく彼女を発見したのであった。

 そろそろ若草が萌えはじめる季節で、道の左右の黄緑の鮮やかさが目に痛い。アスファルトは舗装工事が終わったばかりで、濡れたように黒かった。真赤は起きたままの格好で出てきたらしく、寝間着にしていた水色のワンピース姿で、細く白い足と腕を折りたたんでしゃがみ込んでいる。

 近づくと、彼女は無表情に僕を見上げた。

 呼びかけても反応が鈍く、普段不必要なほどに機敏な目が、いまはとろりと淀んでいる。

「帰ろう」

 と白い息を吐きながら言っても、微動だにしない。

「帰りたくないのかな。もしかして、一緒に住むのがいやになったの?」

 そう言って、肩をすくめてみせると、

「……いやじゃない」

 やっと言葉を口にした。

「じゃあ一緒に帰ろう」

 そうして立たせると、彼女は裸足のままだったので、背中におぶってマンションまでの道を歩いた。

 彼女はどうも、特に寝起きが不安定になってしまうらしい。このように、朝起きるといなくなっているというのは、この後も、二、三回あった。そのたびに僕は携帯電話でおぼろげな情報を入手してその居場所を探すのだ。そして、裸足だったら背負って帰り、靴を履いていたら手を引いて帰る。

 それだけじゃない。自傷をしたり、突然感情を乱して大声をあげるようなことも増えてきた。自傷というのはもちろん、刃物で手首の皮膚を切り裂くことだ。

 外で会っていたときは見せなかった部分だが、本人の口から話は聞いていたので驚きはしなかった。しかし一緒に暮らすとなった以上、僕にもなんらかの対応が求められている。

 そこで僕は自分の方針を決めた。

 まず、彼女がどんなに滅茶苦茶なことをしても、ただ迷惑だというだけで怒ったりはしないし、無理にやめさせたりもしない。僕の経験では、こういうときに一番いやなのは、自分の悲しみや怒りの表現を、ただうるさいと言ってやめさせられることだから、それは絶対にしたくなかった。かといって、行為を無視したりもしない。気持ちが収まるまで、そばについていてやる。そして本当に危ない行為以外は、気が済むまでやらせる。

 僕は自分が思春期だった頃、周囲の大人にして欲しかったことを、彼女にしてやろうと決めていた。

 そりゃ、目の前で手首を刃物で切り裂き、血液がどくどくと流れ出していたりすれば内心穏やかではいられない。子供の頃は血だの人の怪我だのを見てもなんとも思わなかったのに、年々弱くなるのはどうしてだろう? 見ているだけでめまいがしてしまうよ。

 だけど、こっちまで感情的になってはいけないのだと、ぐっと我慢をする。言ってみれば、これは僕と真赤の信頼ゲームなのだ。彼女は身を切って、僕を驚かせるようなイベントを巻き起こす。僕は決して驚かずに、ただ限度を超えることだけはないよう見守っている。

 最初のころはぎこちなかったが、人間というのは面白いもので、案外慣れるものだ。

 今や、早朝の真赤探しは、散歩と推理を兼ねた健康的なゲームであり、そして彼女が手首を切ったならば、僕は「アホだなあ」と笑顔さえ浮かべつつその刃物を取り上げ、傷口を拭いてやり、すると、彼女も血液を流しながら、安心したような微笑みを返す。この一連の流れは伝統芸能のように決まり切った型であり、そしてまたごくありふれた仲の良い挨拶となっている。おはようリストカット、おやすみリストカット。

 ただ、真赤の方も色々な手段を考えるもので、失踪やリストカットにこちらが慣れてくると、また新しいテストを開発する。それはもう、毎日毎日数え切れないくらい様々なパターンがあって、いちいち思い出せないくらいだ。

 今ぱっと思い出せるのは、あれはいつだったかな? 急に壁にむかって頭をぶつけはじめたときは、その動きが面白かったのでうっかり止めるのを忘れて笑ってしまったっけ。それから、そうだ、首を吊ろうとしたこともあり、あれも傑作だった。

 確か昼下がりのことだった。万年床で横になってうとうととしていたら、ごそごそ音がする。何かと思って目を開けると、真赤のやつはカーテンレールに紐を引っかけ、輪を作って、そこに首をかけている。そして目があった僕に、いつもの楽しそうな笑顔を浮かべた。

 あっ、首吊りはまずい! リストカットやらなんやらより圧倒的に死が近く、これもいつもの行動の延長線上とは思うが、それでも万が一の事故がある。

 僕はさっと立ち上がると、彼女はそれを確認してから本を積んで作った踏み台を飛び降りた。それはまさに、僕が抱き留めるのがぎりぎりで間に合うかどうかの絶妙のタイミングである。素早く動かなければ間に合わないが、寝起きの僕はそう上手くは動けない。寸前でモタついてしまった。

 真赤の首が吊られてしまう! 刹那背筋が冷たくなったが、しかしカーテンレールというものは、そんなに丈夫に取り付けられてはいないのだね。バリバリと音を立てて窓枠から剥がれ落ち、彼女は布団の上に盛大にひっくり返った。真赤は足を天井に向かって跳ね上げて、スカートがめくれ、下着があらわになってしまう。

 まったく、あまりにもひどい転び方で、その時もやはり僕らは二人で大笑いをしたっけ。

 これらはまだ僕ら二人だけのやり取りで済んだから良かったのだけど、あともう一つ、人を巻き込んでしまったこともあった。

 その日僕は珍しく朝から出かけていて、昼過ぎに家に戻ってきたんだ。すると、その音を聞きつけた真赤が、まるでよく懐いた犬がやるように、待ちかねていたと言わんばかりの勢いで部屋から飛び出し、「おかえりなさい!」と僕を出迎える。それだけなら、可愛らしいところもあるものだと、僕もうかうかと気分がよくなっていたのだろうけれど、そのあとに満面の笑みのまま僕の顔をじっと見つめ、そして小首をかしげて見せたのがいけなかった。

 もう彼女の表情にすっかり詳しくなっていた僕は、それによって、こいつ、また何かいたずらをしやがったなと、すぐに気がついた。

 何と言ったらいいか、まるで、その真赤の態度は満点のテストをもったいつけて隠す小学生のようなのである。こういう場合の真赤は、いつだって、他人にとってはうんざりするような、碌でもないニュースを伝えようとしているのである。

 そんなもの僕は聞きたくはなかったが、しかし訊ねないわけにもいかぬので、訊ねた。

「おいお前、また何かしたろ?」

 すると、真赤は嬉しそうにはしゃぎながら、

「煙草食べちゃった」

 と言う。

「どれくらい?」

「一本全部」

 僕はすぐさま彼女の首根っこをひっつかんでトイレに駆け込んだ。「ぎゃっ」と悲鳴が聞こえたような気がしたが、知るものか。

 世間には、灰皿の水を飲んで死んだやつもいる。煙草のニコチンは致死性の劇薬だそうだが、その致死量はどれくらいのものだろう? 真赤は四十キロあるかないかの細い身体であるから、一般的な成人のそれよりも少ないのは間違いない。

 僕は便座を跳ね上げた便器に真赤をうつむかせ、その口の中に指を突っ込んだ。人を吐かせたことなどなかったので、上手く出来るかどうか心配だったが、指先で彼女の喉の奥を刺激していると、すぐにその背中が震え、温かい液体が食道の奥からあふれ出す。

 そして、出るわ出るわ、煙草の茶色い葉が。そして葉を包む紙が。さらにフィルターが。それは紛れもなく、僕が普段から愛飲しているロングピースのものだ。丸々一本食いやがったのか。サンマを食う時だって頭と骨くらいは残すってのに。いや、煙草のうちどこが食うところでどこが残すところなのかは知らないが。

 彼女は僕になされるがままで、少しも抵抗しなかった。涙を流し、顔を顰め、胃の中を全部吐き出すのは相当に苦しかろうけれども、悲鳴すら上げない。そしてひたすら嘔吐する。嘔吐をやめそうになっても、少し指先で喉の奥をつつけばまたはき出す。これを人間ポンプというのだろう。

 地獄のような苦痛だと思うが、真赤は体を震わせて耐えている。やめてよ、死にたいのよと、逆上したりもしない。ということは、やはり僕がこうやって吐かせるのもあらかじめ織り込み済みだったのだろう。彼女が何かしでかして、僕がそれを解決する、これはやはりいつものゲームなのだ。

 けれども、そんなにいつもいつも上手に助けられるわけじゃないって、わかっているのだろうか? そもそも、僕が彼女の笑顔の裏に気づかなかったらどうするつもりだったんだ? 僕がすぐに気がつくことを期待して、確信して、こんなことをしたのだとしたら、どれだけ僕を篤く信用しているって言うんだ? そこまでギリギリのことをして相手を試さないではいられないなんて、どれだけ歪んだ性格をしているのだろう。まったく可愛いやつだなあ!

 やがて胃液しか出なくなり、そしてついにそれも出なくなると、僕はようやく彼女の顔を上げさせる。顔全体が涙と鼻水と胃液でどろどろに濡れて実に不細工だった。それをタオルで拭ってやる。

「苦しかったろ」

「うん」

 真赤はこっくりと頷く。

 一応煙草を全て吐き出させたつもりだが、これだけで充分な処置と言えるのかどうか。僕は携帯電話を取り出して、人生で二度目の一一九番をかけた。ちなみに一度目は、小学生の時に友達と一緒にいたずらでかけた時のもので、消防車が来て大騒ぎになってしまったっけ。つまり正規の目的でかけたのは、これが初めてである。

『どうしました?』

 と、てきぱきとした口調の女が出る。

「あの、煙草を食べちゃったんです。ちょっと留守をしてる間に飲み込んじゃったみたいで……一応吐かせたんですけれど、これって大丈夫なんでしょうか? こういう状況に直面したことがなくて……」

『わかりました。留守中に、煙草を誤飲してしまったと』

「誤飲というか、まあ意図的に飲んだのだとは思うんですが、いや、そういう話ではないんですよね」

 的確かつ迅速に説明しようとして、かえってしどろもどろになってしまう僕に対し、さすがに場慣れしているだけあって女性は冷静だった。

『それで、飲み込んだ煙草はどれくらいの量かわかりますか?』

「一本くらいだと思うんですが」

『それでは、誤飲してしまったお子さんはいくつですか?』

「十五才です」

『えっ』

 終始冷静だったその女性が、驚いた。

 あっ、そうか。赤ん坊の誤飲事故だと勘違いしているのか。確かに僕の説明を思い出してみると、そう聞こえる。そもそも、赤ん坊以外の誰が好んで煙草など飲み込むのだろう?

 嗚呼、我が家の頭のおかしいのがばれてしまった。僕は急に恥ずかしく、いたたまれない気分になった。

「あの、小さい子じゃなくて、それなりに大きい女の子なんです。つまりその、自殺未遂みたいなかたちで、わざと飲んでしまって……」

 屈辱的な気分で説明を続けると、一応救急車をよこしてくれたのだが、隊員のおっさんも大きすぎる誤飲者の姿と情けなく狼狽えている僕を見れば苦笑するばかりだ。そしておっさんは僕の不安につき合おうとはせず、やたらと書類にサインをさせようとする。なんの書類かと問うと、搬送は必要ないという意志表示をするためのサインなのだそうだ。

 あっ、このじじい、このまま手ぶらで帰るつもりらしいぞ。後でどうなっても責任はとらない、という宣言の書類に、サインなんか、させようとしやがって。

「胃洗浄とかしなくて、大丈夫なんですか?」と訊ねても、おっさんは「アハハ」と笑う。

 煙草なぞ多少飲んだところで平気だということなのだろうか? それとも僕らのような阿呆な若者は勝手に死ねということなのだろうか?

 納得がいかない。どうにかして病院へつれていってほしかったが、しかし真赤本人までもが僕の服の裾を引いて、もう諦めてくれとでも言いたげな態度を見せている。結局僕は折れて、おっさんの差し出すボールペンを真赤に渡し、その名前を書かせた。

 救急車が去ってからも僕はしばらく不安だったが、本人はけろりとしたものだ。汚れた服を着替えると、あとは完全に普段通りの態度に戻った。

 これらのことが、この僅かな間に立て続けに起こったのである。しかも、ほとんどがこの狭い四畳半のなかで。

 僕だって常に聖人のように対応出来るわけでもないから、時々向精神薬でも飲ませて大人しくさせたくなる。しかし本人はこの間のかつ丼屋での失敗のせいか、すっかり向精神薬が嫌いになってしまった。適切に服用すれば心が落ち着くのだからと無理矢理勧めて、やっと飲む。

 しかし、気がついたのだけれど、年長者という立場をかざして、健康のためだと強弁して、本人の意志を屈服させて薬を飲ませるだなんて、彼女の母親がしたことと全く同じなのだよね。面倒だからそうしてしまう。なるほどこういう心理メカニズムで、人は他人の意志に対して傲慢になってゆくのだな。

 とにかくそんなわけで、彼女がやって来てからの毎日はまさに嵐のように過ぎていたわけなのだが、ときおりこうして、台風の目のように平和に過ごすこともある。

 いま彼女は僕のすぐ背後にいた。いつも寝間着代わりにしている赤いチャイナドレスを着て、そして湿った万年床の上に足を伸ばして座っている。

 チャイナドレスなどを普段着にする人間を僕ははじめて見たのだけれど、これは原宿の大中で買ったものらしい。なんでこれを買ったのか。彼女の服のセンスはちょっと僕には理解出来ない。そして、太ももには僕が与えたノートPCを置き、何やら熱心にモニターを眺めていた。どうせテキストサイトを閲覧したり、北朝鮮のくだらない情報を集めたり、最近興味を示しはじめている『モーニング娘。』の画像でも観賞しているのだろう。

 一方僕は、ネットの知人とICQで雑談をしていた。

 相手は『臥ふし村むらあつる』というへんてこなハンドルネームの女である。

 彼女ももちろんサイトを持っていた。極彩色をふんだんに用いて、あちこちが無意味に点滅するという、正気とは思えぬデザインで、日記には、天皇だの愛国だのという言葉をふんだんに用いた疑似右翼的な文章を書きつらねたものが彼女のサイトで、そこでは自らをネットアイドルと称していた。僕がネットを始めたばかりのころに、彼女からメールを貰ったことで親しくなった。奇矯なサイトを運営しているが、話してみると常識的な人物である。

 真赤よりもずっと古い知り合いということになるのだが、僕とあつるとは会ったことがない。しかし、あつると真赤はオフ会で何度か顔を合わせている。

 そういう縁があったので、つい先日、うっかり僕は真赤と同居していると話してしまった。ネットの人間には基本的には隠しているのだが、あつるなら口もかたそうだし、ほとんど正気を喪っている僕たちに冷静で正しい意見を言ってくれると思ったのである。

 するとあつるは、

『それはよくないことですよ。未成年にそんなことをしてはいけません。いますぐ帰したほうがいいです』

 と、想像してはいなかったが、言われてみると実に冷静で正しい、反論しようのない正論を言い放ったものだ。

 それに対し僕は、もっともだなあ、やはりあつるは目を覆いたくなるほどに不道徳的な、屑のような人間ばかり存在するインターネットの世界において、数少ない信頼出来る真っ当な人間だなあと感心したのだけれど、真赤は激しく憤慨して、あつるを中傷するような言葉を口にしていた。自分の行動を批判されるのは、何より嫌いなのだ。

 そのあつるとICQをして、宇見戸の悪口を言い合っていた。別にとりたてて語るようなこともない、ごく日常的な会話である。

 タミさんは恋人と遊びに出かけており、家の中には僕と真赤だけだった。部屋の中には二人がキーボードをパチパチとタイプする音だけがあり、外からはちり紙交換の声と、そして子供たちが遊ぶ声がきこえた。

 その静寂をやぶるように携帯電話が着信音を鳴らす。真赤のピンク色の携帯電話が、布団の上で着信を告げるLEDを光らせていた。僕はそれを拾って真赤に投げて渡す。

 電話の相手は母親らしく、真赤は顔を顰めながら訴えるような視線をこちらによこした。僕はいつも通り、出るように促した。通話さえ拒否してしまったら完全に行方不明になってしまうし、それはいくらなんでも行き過ぎているように思えたので、母親からの電話には出るように言っていた。

 だから、真赤の母親は、いま自分の娘がマンションを離れて得たいの知れぬ人間と同居しているところまでは知っていることになる。なのに、保護者の持つ正当な権限を用いて無理に帰らせようとも、警察に通報したりもしていないのだから、母親も奇妙な人物だ。元々、父も母も好き勝手にやっている家庭だから、今更一人娘が同じようなことをしても気にしないのかしら。それとも、真赤が上手く言いくるめているのかしら。

 何にしろ、両親の態度には今の生活を脅かすようなものは見当たらない。たまに電話をかけてきても、この母娘は業務連絡のような、生存確認のような事務的な内容をかわしているだけのようだ。どうも、結果として半ば親公認のような状態になってしまっているのは、連れてきた当初は想像もしていないことだった。

 そしてこの電話も、これから高校に入学するにあたっての、ひどく事務的なやりとりであった。

 僕らは、このまま長く暮らすことになるのだろうか? つい先日、近くの児童相談所にも相談に行かせたのだけれど、担当員の態度が気にいらなかったらしく、

「なんだか薄っぺらい人。きっと薄っぺらい人生を送ってきたんだよ。何にもわかってない偽善者で気色悪い」

 と、真赤は腹を立ててしまってもう二度と行く気がないようだ。

「入学までにやらなくちゃいけない課題とかが届いてるらしいから、近いうちに一回田舎に取りに来いって言ってる」

 通話を終えると、彼女は顔を顰めながら僕に報告する。

「それなら戻ったら?」

 あつるとの雑談を終えていた僕は、寝転がりながらそう答えた。

「戻ってもいいの? またここに戻って来れなくなるとか、心配しないの?」

「戻って来れないの?」

「多分戻ってこれるけど……」

「そうだろう」

 僕はごろりと寝返りを打って、サイドテーブルに置いてある爪切りに手を伸ばした。その背中に、真赤は言葉を投げかける。

「ねえ、私、本当に高校に行かなくちゃだめかな?」

「そりゃそうだよ。それが最優先だ。どうせまたここに戻ってこれるでしょ? そしたら、少し遠いけど、ここから通えば良い」

 僕は起き上がり、足の爪を切りながらそう答える。

「どうしても通わなくちゃだめ?」

「どうしても通わなくちゃだめだよ」

 真赤はため息をついた。

 そして彼女がインターネット閲覧に戻り、部屋が静かになると、再び子供の声がきこえはじめる。嗚呼、いい風情だ。これはこれで平和なものだなあ。僕らの人生の平穏というものは、或いはこういったものなのかもしれない。

 両足の爪を切り終わった僕は、再び横になり、ぼんやり天井を眺めた。そうしてウトウトする僕の肩を、真赤がつついて振り向かせる。

「ねえミズヤグチさん。たけしさんが、また変な文章を書いてるよ?」

 真赤はお気に入りのテキストサイトの更新状況を、ニコニコと笑いながら報告する。

「ああ、そう。そりゃすごいね」

 僕の気のない返事に彼女はちょっと唇をとがらせてから、視線を膝の上のノートPCに戻した。


二


 花園シャトーにいつもと変わらぬ夜が訪れ、宇見戸がやって来た。

 僕は呼んだ覚えがないから、タミさんが招いたのだろうか? 彼はちょくちょく宇見戸と会っているらしいが、僕が直接宇見戸と会うのは例のイベント以来である。

 久しぶりの宇見戸は、よれよれのネルシャツによれよれのジャケットをひっかけた、相変わらずの汚い格好であった。前に見た時よりもこころなしか髭が伸びて、その乱雑な伸び具合が不潔感を一層向上させている。

 最近は本業の書き仕事もせずに、やくたいもない遊びやら、怪しげな活動やらにふけり、ひどく貧しい生活を送っていると風の噂で聞いていた。が、こうして見る本人の態度にはちっともそんな悲壮感はなく、不自然なほどに上機嫌である。

「ミズヤグチさん! RM以来ですね。そろそろサイト再開しましょうよ。楽しみに待ってるんですから」

 玄関で出迎えた僕に、ニコニコと笑いながら彼は言う。それから、ちょうど部屋から出て来た真赤を見咎めると、

「あっ、増岡だ。ずるいですよ、ミズヤグチさん。増岡は最初に僕が唾をつけたのに、横取りするなんて」

 拗ねたような声色で言う。

 彼をダイニングに案内すると、タミさんがコンビニエンスストアで購入してきた焼きそばを食べている。寝起きらしく、髪の毛にはまだ寝癖がついたままのタミさんに、宇見戸は軽く手を挙げて挨拶をした。

「タタミザワさんもこんばんは。いやあ、RM、良かったって評判ですよ。もう少し暖かくなったらまたやります。次はもっと大きな箱でやるつもりなんで、その時は、タタミザワさんもまたDJやってくださいよ」

 そう言っているので思い出したのだけど、宇見戸はタミさんのことはDJに誘うのに、どうして僕には一言もないのだろう? いや、誘われたいというわけでもなく、むしろ、もし仮に誘われたって、あんな風に人前に立つなんてことは決してしたくはないのだけれど、誘われなければ誘われないで考え込んでしまう。適材適所ということか。

 部屋には座布団もなかったので、僕たちはフローリングの上に直に座った。タミさんは食後の緑茶を飲み、真赤は冷蔵庫のコーラを取り出す。僕は部屋からズブロッカの瓶を持ってきて、宇見戸は持参した缶ビールを開けた。

 彼は具体的な用件があってやって来たわけでもないらしい。前から一度ここに遊びに来たいと思っていたところ、偶然仕事の手が空いたので、タミさんに連絡をして寄ったのだと言う。

「仕事が暇って言いますけれど、普段は忙しいんですか? なんだかいつも遊んでるような感じですけど」

 僕が言うと、

「ひどいなあ」

 宇見戸は愛想笑いをして、

「これでも、いろいろと働いてるんですよ。最近は、本業の他に、芸能関係や、演劇関係の仕事をしてましてね。まあ、これは全然お金になってないから、確かに遊んでると言われればそのようなものなのかもしれませんが。……あっ、それで、今日言おうと思ってたことがあったんだ! ねえ増岡、ちょっと芸能活動とかしてみない?」

「えっ?」

 完全に油断していた真赤は唐突な話に目を丸くする。

「いいと思うんだ。きみは不思議な雰囲気があるし、絶対ウケるから」

「私が?」

「うん。だから、今度事務所においでよ。僕が社長に紹介してあげる。きっと社長も気に入ると思う」

 誘う宇見戸に、真赤は露骨に眉をしかめてみせる。

「そんな嫌な顔しないでさ。別に怪しい話じゃないし。僕がちゃんとついて、絶対に悪いようにはならないようにするから」

「おもしろそうじゃん。やったら?」

 黙っている真赤を、タミさんは無責任にはやし立てる。

「いや、それは、やりたくない。顔出しとかきらい」

 真赤は渋い顔のまま拒んだ。

「そうかい? 残念だな。でも、一応考えておいてよ。また誘うから」

 宇見戸はあっさりと引き下がると、

「そういえば、知ってますか? どうも、近い将来キノコが規制されるそうなんですよ」

 すぐに話題を変えた。相変わらず落ち着きのない男である。

「キノコってマジックマッシュルーム?」

 タミさんの言葉に宇見戸は頷き、

「まったく、残念ですよ。実のところ、僕は世の中に数多い薬物のなかで、あれが一番好きなんですけどね。やっぱり、ダウナーよりもアッパーよりも、サイケだなあ。タタミザワさんは、やったことありますか?」

「うぅん、キノコは一度だけ試したことがあるけど、全然効かなかったなあ。もしかしたら、あれは偽物だったのかもしれない」

「インチキな製品もたくさん出回ってますからねえ。でも本物は凄いですよ。……ミズヤグチさんは?」

 宇見戸は僕を見るが、こちらはまるきり経験がなかったので首を横に振る。

「そうですか。二人とも、もったいないなあ! 法律で規制される前に、一度ちゃんとしたものを体験しましょうよ。人生観が変わります。今度ここに来る時に持ってきますから。あっ、でも気をつけてください。キノコって、ちょっと飲み込めないくらい不味いんですよ。だから、トマトスープにするのが食べやすくていいですよ。あの酸味が良い具合にキノコの乾物特有の癖を消してくれて。トマトじゃなくてもいいですけど、とにかく、元の味を打ち消す調理法じゃないと。持ってきたら僕が調理しますから、一緒に食べましょう」

 宇見戸はやたらと積極的だ。その手の人間と接するたびにいつも思うのだけれども、薬物愛好者というのは、どうしてこう無闇と人に勧めたがるのだろう?

「へえ、そうかあ。いいかもなあ」

 タミさんは薬の完全に回った平和な笑顔でそう答える。

「まあ、タダなら」

 僕も軽い気持ちで相づちをうつと、

「よし、じゃあ決まった。今度日を空けておいてください。いやあ楽しみだなあ。最近はケミカルばかりが流行ってますけど、キノコは自然のものですから! なんでも自然の方が体にいいんですよ」

 宇見戸は満足げに頷いた。

 そして彼は上機嫌になって、今はインターネットでも手軽に本物が購入出来るから大変に便利だ語り出す。信頼出来るサイトさえ知っていれば、何も難しいことはない。どこそこのサイトの、ナントカという管理人も大変に薬物を愛好する趣味人で、その人物ともよく情報を共有しているのだとか、なんとか。

「でも、彼が好きなのは『5-MeO-DIPT』だからなあ。知ってますか? セックスの時に飲むと良くなる薬です。あの手の薬には僕は全然興味がないんですが、彼は反対に性的なものしか買わない」

 と語るのはいいのだが、宇見戸以外の誰もその管理人のことを知らなかった。じゃあ見てみよう、ということになって、皆でタミさんの部屋に移動し、肩をくっつけるようにしてモニターを見る。

 宇見戸のサイトからリンクを張っているというので、そこからクリックして移動すると、トップページにヴィジュアル系ミュージシャンのような独特のメイクと髪型の男の顔があらわれた。いかにもナルシスティックな風情のその人物が、先ほどから宇見戸が話題に出していた人物だと言う。

 その写真を見て、あっ、私もしかしたらこの人に会ったことがあるかもしれないと真赤が声を上げた。

「この写真は白く飛ばしているけれど、実物はもっとごつごつしていてジャガイモみたいだったの。とっても不細工。なのにこんな感じで化粧を厚塗りしてるから、すごく気持ち悪いの」

 そう言いながら思い出したのか、クスクスと笑う。

 それは言い過ぎではないかと思ったが、サイトを見てゆくと同じ感想を持たざるを得なかった。モデルのように格好つけたポーズ、日記には、女装して性交しただとか、薬物で気を失っただとかいう話と、やたらと画数の多い漢字ばかり並べたポエムが掲載されていた。

 それを見る真赤の笑いは止まらない。タミさんもニヤニヤとしている。宇見戸は自分の言葉が、うっかり友人をさらし者にするような結果になってしまい、気まずそうだった。

「まあ、これくらいにしましょうよ。他のサイトを見ません?」

 と宇見戸が言うと、タミさんはマウスを操作して、そのサイトが表示されたウインドウを閉じた。

 そのまま僕たちは、次々と別のサイトを開いて、その管理人について褒めたりくさしたりをしていった。ここのやつはこういうやつで、ああいった女と付き合っている。この管理人はこんな下品な文章を書いているけれど、年のいった立派な大人である。この人のテキストは素晴らしく、誰もマネ出来ないような画期的なスタイルで運営しているのだが、会合の類には出てこないので皆どんな人か興味津々である。などなど。

 宇見戸はイベントなどを開いているだけあって、さすがによく知っているのだが、タミさんが予想外に詳しいのがちょっとした驚きだ。知らぬ間に宇見戸などと遊びに出かけ、ネット上の知己を増やしているらしい。真赤もそれなりに詳しく、気づけば僕は黙ってうんうんと相づちを打つだけになっている。

 僕もそれなりに長い期間サイトをやっていたけれど、ネットでの関わり合いばかりで、現実での交流はきわめて少ない。そもそも、自分から会おうとしたことは一度もなかったのだ。宇見戸が強く誘わなければ、おそらく未だに誰とも会っていなかったろう。元々社交的ではないという性格もあったが、それ以前に僕は、ネットに日記を書いている人間同士で会うなんて、無粋で興ざめなものだと考えていたのだ。そういう思いは今でも多少はある。

 なのに、その僕がただ会うどころか、そこで知り合った人間を家に招き入れて一緒に暮らしているのだから、人生とはわからぬものだ。

 それにしても、タミさんはあまりにもテキストサイト界というものに馴染みすぎだ。

 彼がその界隈と接触したのは、僕と一緒に宇見戸のオフ会に行った、あれが初めてのはずだが、気がつけば僕などよりずっと知己を広げている。休みともなれば頻繁に遊びに行っているし、その過程で女性の連絡先などもいくつか入手しているのじゃないだろうか? 恋人ではない、しかし女性らしき相手と電話をしている光景を最近よく見る。普段は人畜無害のような顔をしていながら、実に抜け目のないことだ。

「畳沢さんが時々書いてる夢日記も、すごく面白いよね。もっとちゃんとした日記サイトにしたらどう?」

 宇見戸がいつも通り真心の感じられぬ愛想の良すぎる声色で言う。

「ええ? いいよ。おれのサイトはそもそもテキストサイトじゃないし。仕事の営業用だから」

 タミさんは嫌な顔をして否定する。

 そして宇見戸とタミさんがもうあれはテキストサイトだ、いやそうじゃないだのといった不毛なやりとりをしていると、真赤が唐突に「私、オフ会を主催したい」と言い出した。

「たけしさんを呼んでね、みんなで鑑賞するオフ会をやってみたいの」

 たけし、というのは、真赤が非常に気に入っているサイトの管理人である。

 どういうサイトかと言うと、彼女が増岡名義でやっているのと似たタイプの、女性に縁がない独身男性が自分の欲求を日記として書き綴るというものだ。

 ただ叙情的かつ空想的な真赤とは傾向がちがって、もう少し性的願望や欲求について直接的な書き方をしていた。

 明るく害のない無邪気な口調で、自分の性器のことを語ったり、風俗店の体験談を書き連ねたり、通りすがりの女子学生に卑猥な妄想をしたと告白してみたり、とにかく女と性の話題しかしないのである。

 ネットではよくあるタイプの日記とも言える。女だったら、モテる私の華麗なセックスライフ、男だったら、モテないおれの自虐ユーモア、という具合に書くのが一つの定番となっている。それぞれ、そういったスタイルで多くの人を集めた大手サイトがあるから、その影響かもしれない。

 僕は、そうやってあまりにも具体的に、率直に性欲について書いている文章というものは好みではないのだが、否定するつもりもない。書きたいことがあるのなら、それでいいのだと思う。書いているものは違うにしろ、僕も本質的には同じ病を患うテキストサイト管理人なのだから、否定してなんになるのだろう?

 とまれ、そういうわけで僕はその人物に特別な印象は持たなかったのだけれど、彼女はやたらと気にいっており、遂にこのたけしさんを呼んで、オフ会をやりたいとまで言い出してしまっている。

 一度オフ会を開いてみたい、というところまではいい。しかしなぜ、その『たけし』という人物を主賓にしなければならないのだろう。どうして、そこまで好きなのだ? いや、彼女がキワモノや、グロテスクなものに惹かれるのは最近わかって来てはいるけれども、全世界に向けて自分の性器と性欲と、女性の肉体についてばかり書いている人である。それが悪いとは言わないが、いくらなんでもあんまりじゃないか。

「だって、面白いんだもん。すっごく変わった人なんだよ」

 真赤は意地の悪い笑顔を浮かべながら言う。

「会ったことあるの?」

「ほら、前に行ったオフ会に、彼も来ていたんですよ」

 横から宇見戸が言う。ということは、こいつと真赤がキスをしたというそのオフ会のことか。

「ただのオフ会なのに、紺のジャケットに、ピンクの蝶ネクタイまでしてたの。髪の毛も油でテカテカでね、丸い眼鏡かけて、ほっぺが赤くて、そうだなあ、腹話術の人形そっくりだった」

「お米を持って来たんだっけ?」

 宇見戸の言葉に、真赤は頷き、

「そうそう! お米を五キロも持って来たの。私へのお土産だって言って。どう思う? お米だよ?」

「そりゃ、お前が普段から飯を食っていないとか日記に書いていたからだろ」

「そうだけど、そんなの持ってこられたって困っちゃうよ。重いし、家に持って帰ったって炊飯器もないし。そもそも、初対面なのに食べ物ってどうなの?」

「まあ、見知らぬ相手に渡すようなプレゼントではないだろうけれどさ。悪い人ではないんじゃないの?」

「悪い人だなんて言ってないよ。私だっていい人だとは思う。でも、面白いんだから! 本当に!」

 露骨に気が乗らぬ態度を示す僕に対し、真赤は熱心に推す。

「ネットで見るのと印象がかわらない人でしたよ」

 宇見戸も話したことがあるのだろうか。

「なあ増岡、そう言えば、あのお米は結局どうしたの?」

「どうなったんだろう。私が持って帰らなかったのは確かだけど。誰かがもらったのかな?」

「ひどいなあ。うっちゃったのか」

 宇見戸は肩をすくめる。

「そのたけしって人は、そんなにおかしな人なの? 大丈夫なの?」

 タミさんが尋ねると、

「変わってはいますけど、危ないような人じゃないですよ。ちゃんとしたサラリーマンをやってるそうですし。しかも、優良企業です」

 そして宇見戸が口にした企業は、誰もが知っているであろう業界大手の通信会社であった。そこでそのたけしさんは、携帯電話のオペレーションシステムを開発しているのだと言う。

「驚いた。立派じゃないか。世間に胸を張って誇れる。少なくともおれたちよりはよほどまともな人間だ」

「まだ入ったばかりだから、大した仕事はしていないと思うよ」

 真赤は笑いもせずに否定する。

「ひどいこと言うなあ」

 僕が顔をしかめると、

「ねえ呼ぼうよ。あの人はすごいよ。ICQで話してても、ものすごいんだもん」

「呼んでどうするの?」

「呼ぶだけでいいんだよ。そうして呼んだら、みんなでその発言や行動を鑑賞するの。特別なことは何もしなくても、それだけで楽しいはずだわ。もちろん、本人にはその趣旨を伝えずに、あくまでも普通のオフ会だって話すんだよ。あっ、そうだ! 私の誕生パーティって名目にしたらどうかな? ちょうど誕生日ももうすぐだし。それで、表面的にはそうしておいて、本当は『たけしさんを囲むオフ』なの。想像しただけで、面白そう!」

 真赤は実に性格が悪い。こんなに目をきらきらとさせて、表情を輝かせて、屈託のない喜色を浮かべたまま、その会合がいかに愉快なものになるかを熱弁している。

 しかし聞いているうちに僕も反対するほどの理由がないのに気がついた。

 たけしさんには何の恨みもないが、他人をおちょくるというのは本来楽しいものだし、そこまで言うのなら一度その姿を見てみたくもある。なんにしろ、真赤と二人、狭い部屋でひたすら二酸化炭素を吐き、空気を淀ませているよりはましだろう。

「わかったよ。やろう」

 と僕が言うと、彼女は人の悪い微笑みを浮かべ、具体的な計画について話し始めた。


 会場となったのは、ビルの四階にある居酒屋だった。

 エレベーターが故障していたので、薄暗くかび臭い階段を、タミさんと二人でカンカンと跫音を響かせながら上がってようやく辿り着く。

 その、奥まった座敷の部屋には、僕たちが到着した時点で既に参加者の殆どが到着して席についていた。

 先に家を出た真赤も、上座の方で宇見戸やクサノと談笑している。

 そう言えば、クサノと会うのも久しぶりだけれども、最近彼はテキストサイト界で自分の勢力を広げているそうじゃないか。多くのサイト管理人たちと交流を持ち、つるみ、そのグループをまとめて『周辺』と呼んだりするらしい。クサノ周辺。クサノは自分のサイトをほとんど更新しないくせに、そういう裏での人間関係で勢力を伸ばしている。

 そのクサノと、軽く挨拶をする。彼と話している真赤とも、頷きあう程度で済ませる。既に何人かは僕らの関係を知っているし、そこまでむきになって隠蔽しきろうという気もないけれど、おおっぴらに公開するつもりもなかった。おたがいサイト持ちだという理由もなくはないが、本来そうした関係を不必要に誇示するのは好きじゃない。

 そうして、僕とタミさんは真赤や宇見戸とは反対側になる、部屋の端の方に陣取った。

 今日このオフ会に集まったのは、主催者である真赤がICQで直接誘った、彼女の知り合いばかりである。みな二十前後。僕と同じような年頃の、学生だかフリーターだか知らないが、さほどの社会的責任を背負ってはいなさそうな連中ばかりであった。テキストサイトでオフ会を開くと、示し合わせたわけでもないのにこのような年頃の連中ばかりが集まる。最も時間をもてあましている年齢層ということなのだろう。

 僕とタミさんは近くの参加者たちと自己紹介し合う。それは、サイト名とハンドルネームを名乗り合う、もっとも恥ずかしい例の儀式であり、名乗り合った後に「ああ、あなたがあの人でしたか。サイトは知ってます」「こっちこそ、読んでます」と名乗り合うまでが様式美であった。テキストサイト界はきわめて狭いものだから、こういう内輪の会にやってくる連中なんか、会ったことはなくともサイト名くらいは知っているのが普通なのだ。

 僕の隣になったのは、一つ年上の大学生で、留年者の屈託した日常を綴っている『ヤマダ』という人であった。上品な顔立ちをして、上品なセーターを身につけた、見るからに育ちのよさそうな人物だ。こういう人間も日記書きなどというしょうもない趣味にはまるものなのか。

「今日はこの後知人の家に行かなくちゃならないから、早起きして家で日記を更新してからきたんですよ」

 と自嘲気味に笑った。

 サイトを更新しているうちに、妙な義務感を覚えるようになって、更新しない日を作れなくなってしまったらしい。誰に頼まれたわけでもないのに、と自嘲するその気持ちは僕にもよくわかる。

 サイトを始めるときには、誰だって、どうやったらアクセスを増やせるかなんてことを考えるものでしょう? それで、ちょっと検索すれば、人を集めるためのノウハウを箇条書きにしたようなうさんくさいサイトが沢山見つかって、そこには必ず『更新頻度をあげること!』と書いてある。

 それにうかうかと従って、毎日更新をするようになると、日記を書かなければ一日がぴりっとしないような、物足りないような、中毒状態になってくる。しかも、知らぬうちに連続更新記録が伸びたりすると、これはもう辞められない。僕もそういう時期が、ないわけではなかった。皆が一度は通る道なのだ。

「今日来てる人は、全員がサイト持ちなのかな」

 誰に尋ねるでもなく、半ば独り言のようなつもりで口にすると、

「どうなんでしょうね。メールに書いてあった名簿では、何人か、サイトがない人も居ましたけど」

 とヤマダさんは首をひねる。

 名簿なんか存在していたのか。僕も連絡メールを貰っていたような気がするけれども、面倒くさいのでちっとも読まなかった。

「ミズヤグチさんも、ちゃんと『電気サーカス』って書いてありましたよ。サイト持ってる人は、みんな載ってたんじゃないかな。それであらかじめ予習してきました」

 そう話すヤマダさんは不自然なほど目を合わせようとしない。

 人の目を見て話すのが苦手なのかな? こんな真っ当そうな人でも、やはり日記中毒になってしまうくらいだから、どこか人格に癖があるのだろう。そうでなけりゃ、インターネットに日記など書く筈もないのだ。

「クサノは新しいサイト名で載ってましたよ。あいつ、しょっちゅうサイト名を変えるから、わかりにくい」

「クサノと知り合いなんですか?」

「しょっちゅう飲んでます」

「あ、それじゃあ『クサノ周辺』ってことなんですか?」

 と言うと、さすがにいやな顔をした。本人達が直接呼ばれて嬉しいような呼称ではないのだろう。もしかしたら、2ちゃんねるかどこかで蔑称として使われているのかもしれない。

 気まずいまま目の前の割り箸の袋を触ったりしていると、僕らの前に最初のドリンクが配られる。すると、宇見戸が立ち上がって挨拶をする。

「飲み物も出席者も全員揃ったみたいですね。たけしさんがトイレから戻って来たら乾杯をしましょう」

 言葉だけ聞くとおかしなところはなにもないようだが、今日の会合の本当の意味を知っていると別の響きがある。そりゃ、肝心の主賓がいなくちゃ何もはじまらないものな。

 しかし、戻ってくるってことは、その噂のたけしさんはもう到着していたのか。どんな人なのだろう、とワクワクしながら待っていると、一人の人物が、恐縮しながら部屋に戻って来る。

 頭をテカテカに固め、紺のジャケットに派手な黄色の蝶ネクタイという、一風かわった出で立ちの彼が、たけしさんであった。前のオフ会の時も、ああいった服装で来たという話は聞いているからすぐにそうとわかる。

 これが普段着とも思えないから、めかしこんだ一張羅なのだろうか? 少なくとも冗談で着てきたわけではなさそうだ。ラフな格好の他の参加者たちと比較すると明らかに浮いているのだが、本人はそれを気にする様子もない。

 たけしさんは、上座の方の、真赤や宇見戸の近くに座った。若干人見知りの気があるのか、最初は大人しくしていたが、宇見戸の音頭で乾杯を行うと、すぐに上機嫌になって誰よりも高い声で笑い始めた。

 僕は下座の方でそれをちらちらと眺めながら近くの人間と雑談などをしている。噂通りたけしさんは個性的な人物のようで、出来ればこのままこの遠巻きの距離を保ち、なるべく接触しないようにしたいなあと思っていたのだけれど、真赤が僕を指さして紹介しやがった。

「あれが電気サーカスのミズヤグチさんですよ」

 と、声は聞こえないが口の動きでそう言っているのがわる。すると、たけしさんがこちらを振り向き、目が合った。離れたまま会釈をすると、彼はすぐに立ち上がり、いそいそとこちらへ近づいて来る。

「どうも、たけしです! 日記を読んでます! 面白いですね! すっかりファンになっちゃいましたよ」

 たけしさんはあがっているのか、落ち着きのない甲高い声で喋る。

「今日はとっても楽しいですよ! ネットで見たいろんなサイトの人がいるし、みな仲良く話しかけてくれるし」

 と、屈託なく笑っている。

 今日は本当は彼を囲むオフ会で、だから皆は積極的に話しかけているのだけれど、そうとは気づくはずもない。

 さて、一体僕はここで何を話せばいいのだ?

 当たり障りなくサイトの話をすればいいのだろうが、僕は正直いって彼の文章は好きではない。お世辞を言ってもいいのだけれど、なんだかそれもいやらしい。かといって、こんなところで批判するのも筋違いだ。じゃあ他の話をすればいいと言っても、僕らネット書き同士にサイト以外のどんな話題があるって言うんだ?

 黙っていても間が保たない。だから僕は、どんな仕事をしているのですか? と、既知の事柄を白々しく質問にしてみた。現実の世界に立ち入ったことを聞くのはマナー違反ではあるのだが、彼は包み隠さず具体的な企業名やらそこでの仕事の内容やらを事細かく話してくれる。いやそれだけでなく、他の何を尋ねても汗をかきながら話してくれる。聞いているこちらの方が、そんなに詳しく喋っていいのかと、心配になってしまう。警戒心というものがないのだろうか? いや、ただ、いい人なのだ。日記には自分の性欲の話ばかり書いているが、いい人なのだ。

 たけしさんの屈託のない笑顔がまぶしかった。こういう純粋な人物だから、真赤は持ち前の歪んだ愛情を発揮して、嗜虐性を発揮して、今日のような会を催そうと思い立ったのだな。得心がいった。

「じゃあまたメールを送ります! ICQの登録もお願いします!」

 彼はそう言うと、また宇見戸や真赤のところへ戻って話し始めた。彼は、とにかく真赤と話したいようだ。しどろもどろになりながら言葉を連ねている。真赤はそれにいちいち大笑いをしている。

 テーブルの上にはコースの料理が並んでいるが、皆あまり手をつけずに、雑談に興じていた。鶏軟骨の唐揚げから、冷めた油のいやな臭いが立ち上っている。フライヤーの揚げ油の交換を怠けていると、こういったものが出来上がるのだ。僕はそれを一つつまんで、口に放り込んだ。

 この会は『たけしさんを囲む会』であり、彼を笑いものにするという前提があるのは確かだけれども、皆で示し合わせてたけしさんの行動を観察する、という以上の悪巧みは何も準備していない。だから、一通り彼との挨拶が終わってしまうと、後は普通のオフ会と変わらない。

 企画の張本人である真赤はたけしさんと話し込み、他の参加者はそれぞれで固まって、思い思いの話題に花を咲かせている。

 タミさんは向こうで宇見戸と話していた。僕は、隣のヤマダさんや、席を移って近くにやって来たクサノと話をしている。クサノはゲームの専門学校を出てアダルトゲームメーカーに勤めている、という噂を聞いていたので確認してみると、苦笑いをしながら認めた。毎日イラストにモザイクを入れさせられている、と笑いはしたが、それ以上具体的なことは言いたがらなかった。

 僕は久しぶりに外へ出て、飲み会に参加して、同居人以外の人間とも存分に話して気分が良かった。真赤も、たけしさんとたっぷり話せて満足したようだ。そして、今日の主役であったたけしさんも、最後までニコニコと笑い、楽しんでいたようだ。

 トラブルもなく、真赤の初めての主催によるオフ会はこれで無事終了の運びとなった、と言いたいところだが、帰ってから、余計なおまけがひとつあった。

 真赤の知り合いで、今回のオフ会にも誘った「よっちゃん」という女性がいる。

 彼女はサイトを持たずに読者として様々な管理人と交流を持っている人物で、真赤の話によると、箱入りのお嬢様でとても可愛い、ということで僕も少なからずその存在に興味があったのであったのだけれど、それが突如の欠席となった。理由が不明瞭ということで、真赤も不審がっていたのだが、オフ会が終わって数日後に詳細が明らかになったのである。

 よっちゃんの方から真赤にICQで接触があった。

『大丈夫? 何もされなかった?』

 と、彼女は不穏な第一声を送ってよこす。

 大丈夫とはどういう意味か? 真赤には質問の意図がわからない。尋ね返すと、よっちゃんは少しずつ事情を語る。

 彼女は他に用事があって欠席したわけではない。行こうと思えば行けたし、実際、本人も直前までそのつもりであった。しかし、前日になって、出席を取りやめることを決意させる理由が出来た。

 それは何かというと、

「あの連中は、女の人に薬を飲ませて強姦とかしてるグループなんだって。行ったら何されるかわからないよ」

 と、ICQで彼女に吹き込む者がいたというのだ。

 その人物はこう続ける。『たけしさんを囲む会』の主催グループは、とんでもない不良集団で、普段から薬物を用いて乱交を行って、女性を傷つけたりしている。今回のイベントも、そのような淫猥な宴となるであろうから、よっちゃんのような世間知らずでいたいけな女の子は参加しない方がいい。

 まんまと信じ込んでしまったよっちゃんは、それで怖くなってしまったのだと言う。

「はあ?」

 真赤は思わず声をあげ、それまでは一人でキーボードを叩いていたのだが、ここで僕を呼んだ。

「ひどくない?」

「ひどいな。つうか、誰だよそいつ?」

 よっちゃんに問いただしてみると、その名前を口にする。その人物は、いわゆるテキストサイトとは少し違う、ポップなGIFアニメなどを並べた、決して気持ち悪い心情吐露などは掲載しない、いかにも女性に好かれそうなサイトの管理人であった。

「サイトは知ってるけど、全然接点がないやつじゃん。お前の知り合い?」

 真赤は首を振る。

 その人物は、真赤とも面識がないし、おそらくは宇見戸とも会ったことがないはずだ。少し遠いコミュニティに属しているらしい。とすると、ネットの上だけの噂で、そんな話を吹き込んだのか? それにしたって、女性に乱暴をするためにオフ会を開いているなんて、全く心当たりのない、ひどい中傷である。

 そいつのサイトを見ると、臥村あつると親交があるようだったので、僕はすぐに彼女に話を聞いてみた。

『彼に悪気はないと思いますよ。ついうっかり、そう言っちゃったんじゃないでしょうか』

 なるほど、悪気がない人間が、他人に集団強姦魔だのというレッテルを貼ったというのか。いたいけな女性を騙し、震え上がらせたというのか。あー、よくあるよくある。ついやっちゃうよね。

『あまり怒らないでください』

 つい皮肉を言ってしまった僕を、あつるはそうなだめた。

『宇見戸さんは、サイトでよく薬とかの話をしてたりして、イメージがあまり良くないから、それを誤解して、そう思い込んだのかもしれない』

 そりゃ宇見戸のイメージが悪いと言われれば多少納得してしまうところもあるが、しかしあの男だって、ろくでもない人間ではあるが、しようのない屑ではあるが、誰よりも純粋に薬物を愛しているだけで、その酩酊感を愛しているだけで、それを悪用して女に乱暴をするような人物ではない。それに勿論、今回のオフ会にはそんな要素は存在しなかった。酷い目にあったのはせいぜいたけしさんくらいで、彼をちょっとからかったくらいでレイプ犯にされたらたまったものではない。

 勘違いによる言いがかりとしては、あまりに度が過ぎた犯罪じゃないか。それを、ろくに接点もないやつが、さも真実めいた口調でよっちゃんに吹き込んだのである。

 僕も真赤も、すっかり怒り心頭であった。

 事実だったら何を言われても仕方がない。仮に嘘だとしても、どこかの掲示板や仲間内で陰口をたたいているだけならまだいい。が、僕らと直接交流のある人間の間に、そんな中傷を流そうとするのは気に入らない。人間関係への工作なのだろうか。卑劣である。

 直接抗議をして、僕らがレイプ犯かどうか確かめてもらおうじゃないか。そして僕はあつるから相手の連絡先を聞き出そうとしたが、彼女はどうかやめてくれと、懇願してくる。

『あの人は病人だから、ゆるしてあげてください。本当に、重い病気で、ずっと病院にいるんです。ネットばかりしていて、世間のこともよくわからないんです。だから宇見戸さんの噂をなんとなく聞いて、それを膨らませちゃったんだと思います。ほら、サイトの写真見てくださいよ。帽子かぶってるでしょう? これ、治療のせいで脱毛しているのを隠してるんです』

 言われて見ると、確かに、明らかな夏の背景にニット帽をかぶった写真が掲載されている。そして青白い顔だ。

 病人だろうが、老人だろうが、子供だろうが、インターネットでは平等じゃないか。仮に彼が重篤な病にかかっていたのだとしても、だからといって僕は承服しかねる。おい、それがなんだと言うのだ。病人であっても、世間知らずであっても、僕らおんなじ人間じゃないか。病人だって言うだけで、特別扱いして欲しいと言うのならそうしてやってもいいが、それは見下してるってことだよ。それじゃお互いにあんまりだ。

 そう主張してみても、あつるは必死に止める。そして、真赤までも重病という話を聞いてすっかり意気消沈してしまっている。そして、あつるへ怒りのメッセージをカチカチと打っている僕の肘のあたりをつつく。

 仕方なく、僕は引き下がった。

「まあしょうがない。結局これは、人を陥れていい気になっていたおれたちも、陰ではあることないこと言われ、軽蔑されている、という話なのだろう。それがインターネットなのだ」

 あつるとの会話を終えた僕が苦々しくそう言うと、真赤はまるでくしゃみを我慢するような、何とも言えぬ複雑な表情を作った。


三


 桜の咲く季節は短い。やって来たかと思えば、もうすぐに去ろうとしている。花園シャトーから駅まで行く坂道の、左右の桜も花をつけ、風がひとなぎする度に、崩れるように花びらが舞っていた。

 去年のこの季節は、カラオケ屋の連中と、夜に上野公園に花見に行ったのだっけ。シェフが作った料理を弁当に、店のウォッカやらジンやらを瓶のまま持って行って、レジャーシートの上に並べ、その場でカクテルを作って飲んだ。その後、近くに住む店長の家に泊まる、ということになったのだけれど、そこでベッドを見たアルバイトの女の一人が僕に耳打ちしてきた。ここで彼女とやってると思うと複雑だね、と、そんな耳打ちをされる僕の方が複雑な気分だった。それから一年後、僕は花見をせず、金を借りに行くために桜の咲く坂を一人で上っている。

 見込みが甘かった、というのは僕の場合大体いつもそうなのだが、今回も、状況が差し迫るまでまともに考えようとはしなかったせいで、金が足りなくなってしまった。

 真赤と一緒に暮らすようになって、食費やら交通費やらが二倍になることをあまり深刻に考えていなかったのだよね。その上、ネットの連中とのつき合いまでも頻繁になってしまったせいで、外食の機会も増えた。真赤と一緒に行った場合は勿論彼女の分も支払うわけだから、その出費たるや。

 そう贅沢をしているわけでもないはずだが、もとより収入が一円たりともないのだから、このような生活をしていれば、そりゃ、金というのは自然に降ってくるようなものではないのだし、なくなるわけだ。

 それで僕は母親に電話をかけて、どうか当座を凌ぐ金を貸してもらえないだろうかと、金の無心をしたのがつい先日のことだ。その時、それなら顔を見せに来いと交換条件を出された。そういった経緯のため、僕は真赤を家に置き、こうして桜の坂を上っているのである。

 桜の季節というのは、人の動きのある季節でもある。

 花園シャトーにも、新しいメンバーがやってこようとしている。といっても、最初から入居が決まっていた、不動産に見に行ったうちの一人でもあるT川君がやってくるというだけのことだ。みなの予想通り無事東京大学の入学試験に失敗した彼は、四月から入居することが決定した。

 今日も、朝から花園シャトーを訪れていて、入居前にいくつかの大きな荷物を運び込んでおくということで、何やらがちゃがちゃとやっていたのだ。出かけるところだった僕は、そこで少し彼と話した。

「いつの間にか女の子が住んでたなんて、びっくりしたなあ」

 T川君は、びっくりした、という言葉の割にはあまり感情的な変化のない顔で言ってた。

 彼は何につけても表情を変えない。浪人生としての年数がかさむにつれて、徐々に感情が鈍くなり、無表情になっているという評判を耳にしてはいたが、なるほどこういうことなのか。

 今年の試験はどうだったのか。いや、落ちたのは知っているけれども、手応えは良くなっていたのか、来年への希望はあるのか。僕が率直に尋ねると、

「いやあ、滑り止めも受からなかったよ。去年は合格したのになあ」

 そして彼は、ははは、と乾いた声で笑った。

 浪人をして集中的に勉強をしているのに成績が落ちているということは、もうこの先も絶望的でしかないような気がするのだけれども、本人もそれは自覚しているようなのだけれども、それでも来年には再び挑戦するつもりであるようだった。

「大丈夫なの?」

 うっかり言ってしまうと、

「水屋口さんこそ、大丈夫なの?」

 と、言われてみれば確かに僕のほうがひどい状況であった。返す言葉もない。

 金がなくなった僕は母親にそれを借りに行く。母親の新しい住まいには僕は一度も足を運んだことがない。だから行き方もわからない。駅から電車を乗り継いで、埼玉県の住宅街の、一度も降りたこともない駅に降りて、そこから電話をすると、母が迎えに来てくれる。

 そうして彼女が暮らすアパートまで歩き始めたのだけれど、母親と並んで歩くというのが、どうにも気まずかった。それに、『母親のアパート』という場所へ足を向けるのも、なんというか、我ながら不思議ではあるのだけれど、ちょっと恥ずかしいような気分がする。

 いままで、母親というものは、実家を守っているものであったのだが、こうして外でアパートなどを借りてしまうと、何か急によその人になったような気がして、そしてそこに足を踏み入れるとなると、他人のプライベートな部分に立ち入るような、妙な落ち着かなさがある。

 僕が家を出た後、家族はバラバラになってしまった。

 引きこもりだった上の弟は知り合いの柔道整復師の先生の家に住み込み、その仕事を手伝いながら専門学校に通っているらしい。

 居酒屋で一緒に働いていた下の弟は、これから行く母のアパートで一緒に住んでいる。やはり資格をとるために学校へ通っているという。

 母は毎日パートタイムに働きに出ていて、そして、父はあのままどこへ行ったのか知らない。

 僕たちが住んでいたあの家は、銀行に差し押さえられて競売にかけられた。その後はどうなったのだろう? 誰か知らぬ人が買って、住んでいるのかもしれない。あの建物にはさほど思い入れはなかったし、ずっと疎遠でいたはずなのだが、もう帰るべき場所がどこにもないのだと思うと、なにやら特有の感覚がある。

 しかし、これが俗に言う一家離散というやつか。そう意識はしていなかったが、確かにそれにあてはまる。テレビなどでそういう言葉を耳にすると、なにやら重い響きがあるが、体験してみるとごく普通のことだ。世の中の大抵の出来事というものは、そうなのかもしれない。外から見ていかに特殊な状況でも、自分が体験してしまえば当たり前の日常なのだ。世の中の『当たり前』の中には、とんでもないものが詰まっている。電車などで人が並んでいると、みな同じように見えるが、あれらもみな全く違った感覚を持って、それぞれの特別な世界で生きているのだろうなあ。

 そんなことを考えているうちに、アパートに到着する。新しくもなく、綺麗でもない、壁の薄汚れたごくありふれた安アパートが建ち並ぶ、そのうちの一軒であった。こんなところに、息子と二人、パートタイムで肉体をすり減らしながら暮らしているのか。

 母の実家は昔から商売をして豊かであるし、少女時代から華道やら茶道やら琴やらを習い、私立で一貫教育を受けていたなどという話を聞く。結婚後も、その実家からの手助けがなかったわけではないようだし、まともな相手と結婚していたら、このような生活を選ぶようなこともなかったろう。それが、亭主選びを間違えたばかりに、もう中年を過ぎようという年になって、全てが急転回し、こんな生活をする有様になってしまったのだ。人生というものはなんと虚しいものなのだろう。馬鹿馬鹿しいものなのだろう。

 部屋にあがってしんみりしている僕に、母親はお茶を出す。友達の誰それからの頂き物である、というのだけれど、僕には味の違いがわからない。緑茶なんか、薄いか濃いか、熱いかぬるいかくらいしかないような気がする。

「あいつは?」

 弟のことを問うと、

「学校に行ってる。お金貸すことも言ってないから、秘密にしなさい」

「おれが自分から言うわけないでしょう。そもそも連絡もとってないから、話す機会もない」

「たまには会ったらいいのに。兄弟なんだから」

 と母はため息をつく。

 部屋は質素で、生活感がない。切り詰めているのだろう。今は母がパートで働いている。その収入だけで生活がまわるとも思えないから、居酒屋時代に貯めた現金を切り崩しているだろう。弟たちの学費も、そこから払っているに違いない。それなりに貯めたとは言え、減って行く一方なら、いつか終わりも来る。そんな場所から僕は、金を借り出そうとしているのだから、アハハ、不孝な話であることよ。

 僕の方からは言うべきことがなかった。友人と暮らしていることや、バイトを辞めたことは既に伝えてあるし、真赤のことは詳しくは話せない。正直なところ、さっさと金だけ受け取って帰りたかったが、そうした効率的な行動をとりたかったのだが、はっきりそう言うのも気が引ける。向こうからうまく金について切り出してくれないものかと願いながら、母の話を聞いている。

 さきほどから携帯電話がポケットの中で何度も振動をしていた。真赤がメールをよこしているのだと、とらなくてもわかる。あの寂しがり屋は、別行動をしているとひっきりなしに何かしら送って来るのだ。そして、返事をしないまま放置していると、段々感情的になって来て、そのうち電話がかかって来る。

 その前に金を借りられないだろうか? そわそわしていると、やっと母は席を立ち、茶色い封筒を持って来て、机の上に置いてくれた。僕はそれをとって、中を確かめたかったが、さすがに不調法なのでそれはせず、そのまま封筒ごと財布に入れる。

 目的を果たし、次は帰るタイミングを探し始める僕の前で、母はさらに雑談を続ける。

「なんだか、臭くない?」

 上の空で聞いていた僕に、母はそんなことを言って、顔をしかめた。

「さっきから気になってたんだけど、やっぱりそう。悟の体がにおうのよ。どうしてかしら」

「まさか。風呂は毎日入ってるよ」

 言うにことかいて、人にくさいというとは、いかに親と言えども失礼じゃないか。顔を顰めながらそう答えると、

「でもにおうのよ。なんだか薬みたいなにおい。これは何のにおいかしら」

 母は不思議そうに首をかしげる。

 そして臭い臭いとさらに連呼するのだが、僕には到底そんなにおいがするとは思われない。くんくんと、自分のシャツの襟元をかいでみても、なんのにおいも感じ取れない。

 薬臭いと言えば、確かに僕はこのところ向精神薬を習慣的に飲んでいるけれども、それが体臭に出るという話を聞いたことがないし、人に指摘されたこともない。僕より大量に服用している人間だって、そんなにおいはしない。当事者は気づかないにおいなのだろうか?

 いやそんな筈もないだろう。しかしそれを話すと、母はそれが原因で間違いない、と決めつけた。

「そんな薬なんか飲むの、やめなさいよ。すごく気持ちの悪いにおい。嗚呼、臭い。臭い」


四


「それはなんのコスプレ?」

 T川君は真赤のチャイナドレス姿を見て、目を丸くする。

 彼女が部屋着兼寝間着だと説明すると、納得したような、していないような、判じかねる表情をしてから、

「かわってるね」

 と、言った。

 僕らはダイニングルームでペットボトルのお茶を飲んでいた。今日の彼は機嫌が良いらしく、近くにあるどこそこのスーパーが安くて良さそうだった、駅前のなんとかという飯屋は不味そうだった、この街って意外にいろんなものがあるんだねえ、と、散策の結果を報告する。何か良いことでもあったのか、と思いながら聞いていると、やはり良いことが有ったようだ。

「ねえミズさん、おれさ、来月にRX78-2ガンダムの新しいプラモが出るから予約しようと思うんだ。すごく出来が良さそうなんだけれど、ミズさんもどう? 買う?」

 と、いつも通りのポーカーフェイスであったけれど、口調にはその喜びが隠しきれない。

「プラモデルなんて懐かしいな。そのガンダムって最初のやつ?」

「うん」

「じゃあ買う。おれのも予約して」

「わかった。おれがやっとくよ。あとそうだ、今月はジムが出るんだけど、そっちもどう?」

「それはいらない」

「ガンダムより安いよ」

「いらない」

「そうかあ。残念だなあ。おれはジムの方が好きなんだけどなあ。あ、じゃあ、真赤って言うんだっけ。きみはどう? ジムを買わない?」

「いらない」

 真赤はまるきり興味がなさそうに首を振った。

 部屋に帰ってから僕は、自分が子供の頃にどれだけガンプラが流行ったか、という話をした。

 当時僕はBB戦士というやつが好きで、それは手に持たせた銃からBB弾というプラスチックの弾丸を発射出来るプラモデルである。あれで猫を撃っても、威力が弱くて気づかないくらいなのだけれど、楽しかった。お前は若いから知らないだろうけど、そういうブームがあったのだよ。他にキンケシという玩具や、ビックリマンというシール付きのチョコレートがあって、小学校の裏の公園で売り買いをして怒られたのだよ。

 懐かしくなって僕はつい多弁になったが、真赤は気まずそうに愛想笑いを浮かべるだけである。そして、そもそもガンダムを観たことがないと言う。ロボットが出てるということくらいしか知らない。

 そうなのか。僕が子供のころはしょっちゅうテレビ埼玉で再放送をしていたのに。その他にも、妖怪人間ベムとか、アタックNo・1などが放映されていたのだよ。

 しかし、やはり真赤は僕の昔話には関心がない。部屋の端に落ちていたカールの袋を手にとって、中が空なのを確認すると、また放り投げた。

「そういえば昨日はご飯を食べたっけ?」

 真赤は首を横に振る。

 となると、僕らはこのチーズ味のカール一袋を二人でわけあって、それで一日を過ごしてしまったということか。しかしそれでも、大して空腹は感じていない。真赤も、それほどでもないと言う。ちっとも動いていないからな。

 思えば昨日はトイレ以外部屋を一歩も出ていない。ネットを見て眠るだけだったっけ。あっ、ということは風呂にも入っていないのか。これはいけない。人間として最低限の矜持を放棄してしまっている。することが何一つないのが僕らを堕落させているのか。

 既に四月になっている。真赤は晴れて高校生になったのだが、しかしこの怠け者は、入学式のあと一回だけ登校して、それきり通っていなかった。行けと言っても本人は面倒がって行こうとしない。

「どうして学校に行かないの?」

 ふと訊ねてみると、

「だって、ちっとも面白くなさそうなんだもの」

 どうやら、このまま二度と登校をするつもりはないらしい。

 勿体ないなあ。せっかく女子高生になったのに。女子高生という身分は、このやたらと若い女がもてはやされる日本社会において、ちょっとしたステータスなのだぞ。それが、このまま退学をしたら、中卒無職になってしまう。なんだこの、現実的かつ華やかさに欠けた四文字は。同じ四文字なのに、女子高生と中卒無職、この印象の違いはなんなのだろう。僕は女子高生として学校に通って欲しかったが、本人は平然としたものだ。

「そうかあ、私も中卒無職かあ」

 他人事めいた風情である。そして、この花園シャトーでみんなでいた方が楽しいから行かない、と断言する。

 そうかそんなに楽しいか。それは知らなかった。お前の口からそんな言葉が出るなんてなあ。あっ、そう言えばお前、最近は自傷もめっきり少なくなっているんじゃないか? 毎日が楽しいから、もうそんなことはしなくなったんだね。成長したんだね。それはとても喜ばしいことだ。

 それならばまあ、いいか。普通の少女のように、女子高生になれなくとも、ひとまず一歩前進したわけだし。僕もこれ以上口を酸っぱくするのはやめよう。そもそも、人にあれこれ言うような立場ではないんだ。

 真赤が中卒無職になりそうだというのなら、僕はもう既に高卒無職である。しかも大人なのだ。なのに何もしていない。生きていていいのだろうか、と自問したくなるほどに何もしていない。

 真赤の世話で忙しかった頃はそれ以外のことは考えないで済んでいたが、彼女のケアをすることで、何か有意義な活動をしたつもりになっていたが、こうして彼女が落ち着くと、本当に無為に時間を浪費してしまっている自分が残る。

 母親から借りた金も、もう尽きようとしていた。特別贅沢など望まなくとも、存在するだけでそれなりの金がいるのだ。ガンダムのプラモデルまで、頼んでしまった。

 働かなくてはいけないと、重圧がのしかかる。しかし、ちっとも労働意欲というものがわかない。このままずっと、この部屋で時々真赤などと下らぬ雑談などをしながら眠っていたい。

 なんとか、働かずに気ままに生きてゆけぬものだろうか? 寝転がりながら、ひたすらにその方途を思案していたが、うまい儲け話が思い浮かばない。そして、次第に金のことばかり考えている自分が気色悪くなって来る。このおれという人間は、金のことで滅入るような小人ではないのだ。もっと、高尚なことで悩みたいのだ。金みたいなくだらないものについてなにも考えず、苦労などせず、暖かい国でのんびり暮らせないものか。美女でもはべらせながら、というと真赤が怒る。

 結局何も思いつかない。世間には、社会で抜け目なく効率良く成果を出し、ろくに働きもせずに快適な暮らしを実現する人間も少なからず存在するようなので悔しいが、どうも、僕にはその才能がないらしい。真っ当に汗水たらして働かなくてはならない側の人間なのだろう。しかし、そうとわかった上でも働く気にはなれない。

「私、またアルバイトやろうかな」

 腕組みする僕の目の前で真赤がぽつりと言う。

「またって、どういうこと? 働いた経験があるの? 子供のくせに」

「うん。そんな大した仕事じゃないけど」

「ちっとも知らなかった。どんな仕事をしてたのさ。いかがわしいものじゃないだろうな」

「違うよ。雑誌で、ちょっと記事を書かせて貰ったりしてたの」

「一体、どんな記事を書いてたの?」

「色々」

「色々ったって、中学生が何を書こうっていうのさ」

「色々は色々だよ。あれ、またやろうかな。でも、連絡とってないしな」

 そして、真赤は考え込む。

「ちっとも知らなかったな。そんなことをしていたのか。でも、もし本当に働きたいなら、この間宇見戸が言ってた、芸能事務所に入るって手もあるじゃん」

「あれは絶対にいや。どうせ仕事なんかないし、それに、雑誌のときも顔出しだけは頼まれてもしなかったもの」

「顔出しを頼まれる雑誌ってどんな仕事だよ。まあいいや。とにかく、お前は働かなくていいと思うよ。おれが働くから。やっぱりそれしかないでしょう?」

「出来るの?」

「大丈夫、その気になれば、すぐに見つかるから」

 真赤は不安そうな顔をする。そんなに僕が信用出来ぬのだろうか。それならば、なおさら僕は働かねばならない。見損なってもらっては困る。

 僕はまるっきりの虚勢をはったわけではない。アテは、あることはあるのだ。

 つい数年前までは、PCを使って通信をする、というのは一部の好事家の密やかな愉しみだったような気がするが、今や猫も杓子もインターネットである。不気味な趣味とされ、密やかなものとされていた世界が、一躍脚光を浴びて、先進的なものとなったのだ。

 コンピューターやらネットやらにまつわるものを『IT』と、正体不明のアルファベットで呼んで、もてはやすようになったのはいつからだろう?

 関連企業も躍進し、いわゆるITバブルが到来しているらしい。その余禄のようなものが、僕の周囲にまで影響してきている。具体的に言うと、PCを使えるというだけで、やたらと好条件のアルバイトが増えている。

 世の中は急速にインターネットというものに傾きかけているが、技術者の数がまるで追いついていない。それどころか、当たり前の操作が出来る人間さえほとんどいない状況なのである。

 たとえば、WindowsのOSをインストールした経験があるとか、自力でLANを組めるといった程度のスキルがあれば、あるいはなくとも、ただ日常的にPCに触れているというだけのさほど知識のないような人間でも、サポートセンターやら何やらで立派に勤めを果たせてしまうらしい。特に今までITと縁がなかった企業はスキルの相場を知らないらしく、そうした場所でのアルバイトは、場合によっては、専門的なプログラマーよりも好条件で雇われたりしているのだそうだ。

 僕もにわかには信じられなかったが事実らしい。業界の黎明期ならではの、価値の混乱が起きている。

 逆野は少し前からそういったアルバイトに従事していた。先月までやっていた仕事は『サーバーの保守業務』というやたらと難しそうな名前のついた業務であるが、その実態は、一時間に数分PCを操作するだけで、あとは漫画を読んでいても、ゲームをやっていても、一晩眠りさえしなければ時給千六百円が発生するという恐るべき現場であった。僕がやっていたカラオケ屋でのアルバイトと、単純に時給を比較すると倍近い効率性がある。

 そんなふざけた仕事を一体どこで見つけ出したのか、というと、どうも逆野のネット友達の紹介のようだ。ネット友達の一人が、IT関係の様々な仕事を扱う派遣会社の社長と親しくしており、ネット界隈にはいくらでも存在する、PCとネットくらいしか取り柄のないような若者達に仕事を与えているらしい。

 僕も、誘われてはいたのだ。仕事のアテならばある、と真赤に宣言したのはこれが念頭にあってのことだった。

 本来ならばやりたくはない仕事である。条件は確かに良いのだけれども、飽き性の僕はどちらかといえば動きのある仕事の方が好きで、じっと一人でモニターに向かうというのは、趣味ならばともかく、労働としては好ましくなかった。しかし、こうした仕事があるのに、あえて低賃金で働くのも馬鹿馬鹿しい。何より、求人誌を集めて、めぼしい仕事を探して、写真を貼った履歴書を準備する、という手間がないのがいい。

 僕は昔からそういう手続きが何よりも嫌いで、高校受験時には願書を自分で提出しろと言われたのが面倒くさく、結局どこにも届けを出さないで、公立学校の願書受付日のぎりぎりになって担任に呼び出されたという経験がある。その点、この仕事は逆野に声をかけるだけで手続きが終わるのだ。

 早速、その日の夜にバイトから帰って来たばかりのスーツ姿の逆野を捕まえて、仕事をやる気になったむねを伝えると、それから二日後に早速相手の会社から連絡があった。

『もしもし、これは水屋口君の電話ですか?』

 と、喋りつぶれたしゃがれ声で相手は言う。

『逆野君から話を聞いているよ。柾木です。はじめまして』

 柾木、というのが派遣会社の社長の名なのは知っていたが、イメージと違った。逆野やその仲間たちが柾木さん、柾木さん、と気安げに言っているのを聞いて、勝手に若いように思っていたけれども、思ったよりも年配者の声である。

『逆野から、仕事を探しているって話を聞いたんだが、今は何をやっている? 紹介して、すぐに仕事に取りかかれるのかい?』

「あ、はい。無職なのでいつからでも大丈夫です」

『わはは、そうかそうか。無職か。収入がないのは、きついだろう。それなら、ちょうど今すぐ紹介出来る仕事があるんだが』

「お願いします」

『ええと、PCのシステムをセットアップする仕事なんだ。技術的にはそんなに難しいものではないし、教えてくれる人もいる。君だったら、問題なく出来るような内容だよ』

 よく知りもしないのに、君だったら、とは随分調子の良い物言いだ。

「それなら出来そうですね」

『だろう? 仕事自体は簡単なんだ。ただ、その勤務形態が少々特殊でね。……ねえ君、海外に住んでみないか?』

「え?」

『インドだとか、タイだとか、あのあたりの国をまわってね、PCのセットアップをして欲しいんだよ』

 柾木社長の言葉は、余りにも予想外で、僕は咄嗟に返事が出来ない。

『こっちでは考えられないような広い家に一人で住めるぞ。物価も安いから、金も貯まる。短くて二年、おそらく三年の仕事になるから、帰ってくるころにはまとまった金が出来ているだろう。若いんだし、いい経験になる。君はラッキーだ』

 いかにラッキーと言われたところで、さすがにうんとは返せない。そりゃ、この部屋でひきこもっているのはまずいとは思っていたが、まさか部屋どころか国まで飛び出すことになるとは考えていなかった。

 いやそれはちょっと、と言葉を濁すも、もう少しだけ考えてみてくれよ、と、相手も譲る様子がない。

 困った。通話を終えてから、ため息をつく。

「どうだった?」

 隣で見守っていた真赤がおそるおそる訊ねる。

「三年間東南アジアで暮らせと言われた」

「えっ?」

「海外に滞在してやる仕事らしい。ほとんど帰ってもこれないんだって」

 真赤は絶句したのちに、

「そんなの行かないで。行っちゃ駄目だからね。絶対」

 と、泣きそうな顔をしてすがりつく。

 実のところ、以前から僕はタイにもインドにも興味があった。

 タイは、タミさんがお勧めの旅行地であり、インドは改めて説明するまでもなくヒッピーやらジャンキーやら地球上全ての屑どもの聖地である。僕は海外旅行というものに行ったことがなかったが、いつか行くならこれらの国と決めていた。幸いなことに、僕は今まさに完全に社会からドロップアウトした身軽な根無し草で、あるいはそうした大冒険が、人生を変えてくれるという可能性もある。うってつけの仕事である。

 だから、少し前だったら、もしかしたら引き受けていたかもしらん。えい、少年よ大志を抱けとばかり、未知の国へと旅立っていたかもしらん。しかし、今はそうはいかない。なぜならば、真赤がいるからだ。

 真赤はやたらと心配しているが、僕としても、彼女を置いたまま遙か遠く東南アジア諸国を周遊する気はなかった。確かにそれは、知見を広げ、人間的に成長させてくれるのかもしれないが、僕はすっかり堕落してしまっている。はっきり言って僕は、この花園シャトーでみんなとダラダラと暮らしながら、生活費を楽に稼いで遊び暮らしたいだけなのだ。人生的なロマンに溢れた情熱のジャーニーを望んでいるわけではないのだ。

 えらい仕事を紹介されてしまった。これしか紹介出来ないというのなら、断るほかない。しかし、そうすると、求人誌を集めて、履歴書を書いて、正攻法で職探しをしなければならないぞ? うわあ、それはいやだなあ。それくらいなら、タイへ行こうかなあと、思ってしまいそうになるが、真赤の前では口に出来ない。

 うじうじと考えて、返事も出来ないでいると、数日後に再び柾木社長から電話が掛かってきた。

『この間の話は気が進まないようだったから、別の仕事を用意して来たよ』

 彼は深刻に悩んでいた僕をあざ笑うかのような気軽な口調でそう言った。

 そうして新しく紹介された仕事は、前に持って来た奇想天外な提案と比べると、随分と常識的なものであった。

 プリンターやPCの出張修理を行うというものである。派遣されるのは以前に逆野も期間限定で働いていた会社で、もちろん、勤務地は日本国内だ。しかも、僕の住んでいる街から電車の乗り換えなしで行ける。

 何故最初にこちらを紹介してくれなかったのだと言いたくなるような、ほとんど理想通りの条件だ。勿論僕には断る理由がなく、了承をした。


 よく晴れて、青空が高く、日差しの暖かい日だった。僕はタミさんから拝借したスーツに身を包み、タミさんの所有である革靴を履いている。そして脱色と染色を繰り返して無惨な色になっていた頭髪も前日に黒く染めており、ビルのガラスに映った姿が、まるで別人のようで落ち着かない。

「じゃあ、この近くで待ってて。終わったら連絡するから」

 どうしても一緒に来たいと言うので連れてきた真赤に告げると、

「うん、うまく行くといいね」

 そう言ったものの、彼女はその辺りをうろちょろして離れようとしない。

「ほら、社長が来ちゃうからさっさとどこか行って」

 シッシッと、犬猫を追い払うような手振りをすると、真赤は笑い、スカートをひらめかせながら去って行った。

 普段身につけないネクタイの、結び目の形にどうも違和感があって仕方がない。扉のガラスに反射した自分の姿を見ながら何度も直していると、柾木社長があらわれた。

 電話やメールでは何度かやりとりをしたが、実際に会うのはこれが初めてだ。禿頭の人物で、若かりしころはさぞかし美青年であったろうと思われる、二重の目元が涼しい人物であった。

 挨拶もそこそこに、彼はビルの中に入るように促す。思った通り、ここに派遣先となる会社が入っているそうで、僕はこれからそこの責任者と面接をすることになっているらしい。

「そう言えば、逆野は元気にしてるか? 最近会っていないんだ」

 玄関ホールでエレベーターを待っている間、柾木社長はそう尋ねて来る。

 はいと頷くと、彼は笑声をあげ、

「それはよかった。いやあ、彼にはよく働いてもらっているからね。ここの会社でもよくやってくれたから、こうして今回の話に繋がってるわけなんだよ。きみも感謝しないといけないぞ」

 そこでエレベーターが到着したので、僕らは乗り込んだ。彼は五階のボタンを押す。僕は黙ってそれを眺めている。

「今日の面接の注意点なんだけれどね。私は先方にきみのことを、逆野と一緒にホームページを作っている仲間だというふうに伝えてある。それから履歴書は、勝手ながら、大学の中退ってところだけ卒業に直させてもらってから渡した。だからその辺りはうまくあわせてくれ。まあ、ほとんど私が喋るから、頷いてくれるだけでいい」

 この人だって僕のことなど殆ど知っちゃいないのに、かわりにどうやって面接を切り抜けるつもりなのだろう?

 それに、ホームページを作る仲間ってどういうことだ? おそらく、逆野と僕の関係性と、ITスキルの両方をアピールするつもりなのだろうけれど、あまりにも曖昧模糊とした表現で、もし僕が面接官で、そんな漠然とした説明をされたら、戸惑ってしまうだろう。そもそも、ウェブページやウェブサイト全般を『ホームページ』と間違った呼称で呼ぶこと自体に、世間では当たり前になっているとはいえ、むにゃむにゃとした割り切れぬものを感じる。

 まあ、僕が今なにを思ったところで、任せろと言うのなら、そうする他はないのだけれど。

「わかりました」と頷くと、「頼むよ」と彼は言う。

 それにしても、どうせ改竄されるのなら、最初から卒業と履歴書に書いておけばよかった。どうして事実をありのまま書いてしまったんだろう? なんだかこれじゃ、僕が馬鹿正直な、純朴な青年みたいで恥ずかしいじゃないか。

 後悔していると、エレベーターは目的の階に停まる。出張修理の会社だからだろうか、この平日の昼という時間、人の気配は少なく、静かであった。僕らは会議室に通される。担当者が来るまでの間、何度かオフィスの方から電話が鳴る音が聞こえ、それに応対する誰かの声が聞こえた。

 小さいけれども、清潔で、きちんとしたオフィスである。僕は本当に、これから毎日ここに通い、仕事をすることになるのだろうか? 今でこそ黒い頭をし、地味な色のスーツを身につけてはいるが、これは言ってしまえばかりそめの姿のようなもので、その実態は連日向精神薬やアルコールに耽り、さらうように連れて来た少女を部屋に住まわせ、傲岸に他人を見下している痴れ者である。それらしい場所で働いた方が、僕も居心地良く働けるのではないだろうか。なんというか、こんな場所には敵意を覚えてしまうのだ。僕は。

 あれこれと余計なことを考えてしまって、何やら落ち着かない様な気分でいると、やがて担当者がやって来て、面接がはじまる。

 と言っても、事前に柾木社長が言っていたとおり、殆ど僕が口を利く機会はなかった。柾木社長と担当者はそれなりにつき合いのある間柄らしく、彼らが雑談をするばかりで、僕に関してはほとんど顔見せ程度の、面接とも呼べない面接だったのである。

「パソコンはいくらか触っているそうだけど、他に何か、機械をいじった経験は?」

 というのが、おそらく、僕自身が答えた唯一の質問らしい質問だったように思う。

 そうして、面接は十分ほどで終わってしまう。あまりにもあっけない。こんなもので、本当に採用不採用の判断が出来るのだろうか? 相手は、柾木社長の手前面接という場を設けただけで、体よくあしらわれるのじゃないだろうか? 僕は不審だったが、柾木社長はあくまで陽気だった。

「あの感じなら、きっと大丈夫だよ。万一都合が悪くても、すぐに次の仕事を紹介してやれるから問題ない」

 僕はその陽気さと、あまりにも親切すぎる物言いがどうにも信じられない。

「決まった場合は、すぐ働いて貰うことになるだろうけれど、予定の方は大丈夫か?」

「それは、問題ありません。なんにもしていないですし」

「そうか」

「それじゃあ、今日はこれくらいで。どうも、ありがとうございました」

 真赤を待たせたままの僕は、早く解散したくて、そう頭を下げたのだが、

「あっ、そうだ」

 柾木社長は別れの挨拶をしない。

「今日帰ったらすぐにきみの銀行口座をメールで教えてくれないか?」

「えっ、口座を?」

「うん。そしたら、すぐに金を振り込んでやろう。働いてないということなら、生活が苦しいだろう?」

「まあ、確かにそれは……」

「二十万で足りるか?」

 どういうつもりなのだろう? 僕は、まじまじと相手の顔を見つめてしまう。

「アハハ、何も気にすることはない。返すのはいつでもいい。稼ぐようになって、余裕が出てからでいいんだ。じゃあ、これから頼むよ」

 そう言って手を差し出す。握手をしろということらしい。僕がおずおずとその分厚い手を握ると、彼はニコリと笑って、去って行った。

 確かに金を貸すと言われたような気がしたが、どうにも信じられぬ。狐につままれたような気持ちのまま、その夜に言われた通りメールを送ると、翌日の午後には返事が来て、採用の決定と、口座に二十万円を振り込んだという報告が書かれている。半信半疑で銀行に向かうと、確かに二十万円が振り込まれていた。

 信じがたいことに、面接に行っただけで二十万円貰ってしまった。いや、厳密に言えば借りたということなのだろうけれど、利息も期限もない。

 初対面の相手に、会ったその日のうちに金を貸すとはどういう了見か。何か良からぬ下心があるのではないだろうか? だとしても、僕なんぞ騙したって搾り取れるものなんかないだろうに。釈然としなかったが、金は金だ。

 僕は早速その金で、真赤をつれて牛角に行った。ピートロのわさび醤油、大変美味しかったです。


五


 僕が新しく就いた仕事は、PCやプリンターの出張修理というのが主な業務内容なのだけれども、勿論、新人の僕がいきなり一人で客先に派遣されるというようなことはない。

 研修中ということで、事務所で同期の新人と共にプリンターの分解、組み立てを行ったり、先輩社員について行ってその仕事ぶりを観察するのが、いまの僕の業務の全てである。

 出社は朝九時で、帰宅も夜九時を越えるという長丁場ではあるけれども、機械いじりは子供の頃に遊びで電子工作をやった時のような気分で、レーザープリンターの部品を一つ一つ取り出しては、へえ、今まで皆が使っていたこの機械の中身はこんなことになっていたのかと、面白い。客先を回るのも、先輩社員が運転する車の助手席に乗って、のんびり雑談などしているだけで、先輩も皆良い人ばかりであったから、昼食のあとの眠気に気をつけるくらいで、特別困難なこともない。思っていたよりも職場にはうまく馴染め、今のところなんの不満もなかった。

 ただ、とにかく電車がつらかった。特に帰りの電車がつらかった。前にアルバイトをしていたときはこんなに苦しかっただろうか? ちょっと思い出せない。

 プラットホームに到着し、ドアが開いた途端、ドア付近の乗客が二、三人ほどホームにこぼれ落ちて来るような混雑具合で、もうどう見たってこれ以上乗れっこないというような車両に、客たちは無表情のまま、ドアの縁に手をかけ、ねじ込むようにして体を車内に押し込んでゆく。粛々と人と人が圧迫し合う中へ身を投じてゆく。

 冷静にこう状況を分析してみると、すさまじいものだ。恐ろしいものだ。その様子を見ているだけで、僕などは圧倒されてしまう。現代人という存在は、もっと複雑で豊かな精神を持ち、泣いたり笑ったりする、いい生き物じゃなかったんだろうか。どうしてこれほど無感情になれるものなのか。

 この状況は、二、三本見送ってみたところで緩和されるわけでもなく、終電まで似たような状態が続く。だから観念して、やって来た目の前の電車に乗り込むしかない。運命を受け入れるしかない。

 サラリーマンとは、おっとろしいものだなあ。世間のごくありふれた冴えない大人たちも、こんな壮絶な毎日を日常としていたのか。僕も、たまになら我慢が出来たが、これが毎日続くのだと思うとたまらない。日々同じ時間に寝て、同じ時間に起きなくてはいけないという時点でつらいのに。正直言って、労働内容以外の部分で、早くも辞めたくなっている。会社に行きたくなくなっている。僕の立場ならそれも容易だろうが、世のお父さんがたはそれも出来ぬのだなあ。

 僕はいままで、心中のどこかで、平凡な会社勤めを軽んじる節があったが、これからは改めようと思う。彼らは強靱な精神と肉体を持った、僕などには及びようもない偉人たちであった。僕もいずれは、彼らと対等に胸をはって話すことが出来るようになるのだろうか。ちょっと、自信がない。

 気がつけば、働き始めて二週間が過ぎていた。前述の通り、職場では大体うまくやっている。現場責任者のマトバさんが、僕の顔がナントカというテレビタレントに似ていると言い出して、そのタレントの名をもじったあだ名を僕につけ、それがすっかり職場全体に定着してしまった。入ったばかりなのに、本名を呼ぶ者が、同期で入ったミタ君以外既に誰もいない。それほどに、親しまれているということなのだろうか。僕も自分の好かれやすさに恐ろしくなってしまうほどだ。

 給料は、いずれ一人で外を回るようになったら台数に応じた歩合制になるのだが、いまは研修期間中ということで月給として二十万が毎月降り込まれている。現状、生産性のある仕事を何もしていないのを考えると、充分過ぎる給与である。

 僕の条件を決定しているのは柾木社長らしいが、彼は金銭面に関して、厳しく管理するつもりもないらしく、最初に借りた二十万についても何も言わない。書類一枚よこさない。

 気が向かなくて、もう二日ほど具合が悪いと休んでしまったけれど、特にそれで給料を減らすというわけでもなさそうだ。これでいいのだろうかと、こちらが不安になってしまう。

 とまれ、僕は自分の仕事をするだけだ。朝は七時半に起き、八時に家を出て会社へ向かう。業務が終わると夜遅くになっており、家に帰ってからの手間を減らすため、電車に乗る前に真赤に連絡をする。

 これから帰るから、風呂を温めておいてくれ。食事を用意しておいてくれ。

 彼女もこの状況が面白いらしく、喜んで言いつけを聞いてくれる。甲斐甲斐しく家事をやってくれる。つい先日など、挽肉をこねて手作りハンバーグを作ってくれた。彼女が生まれて初めて作ったそのハンバーグは、外側は真っ黒に焦げ、中は完全に生であった。そして、いれたニンジンは下ゆでをしなかったために硬くカリカリとしている。これが皿の上に月見だんごのように山盛りになっていた。T川君がいなかったので、僕とタミさんと真赤の三人で食べた。ほとんど残してしまったけれど、みな笑っていたっけ。

 こんな日常的な風景は、今までの人生ではなかったことで、案外嬉しいものだ。もしかしたら、これが平凡な日々の喜びというやつなのかもしれない。

 だとしたら、思いがけず僕はそれを──諦めていたものを、手に入れてしまったということなのだろうか? それならば、電車がつらいなどと不平を言わずに、労働を続けて行くべきなのかなあ。このまま、アウトサイダー気取りはやめて、更正に向かって努力をするべきなのかなあ。どうもそれには、気後れしてしまうような、反発してしまうような、複雑な感情はあるのだけれど。

 けれども、実際のところ更正出来るかどうかといったら難しいところだ。困ったことに、最近、薬の量が増えてしまったのである。

 毎日規則正しく会社に通うため、生活リズムを整える必要が出てきた。しかし、長年の間に染みついた不規則生活のせいで、自力ではうまく眠れない。だから、眠るときには意識を落とす薬を飲み、そうすると昼の気分がすっきりとしないので、起きている間は気持を持ち上げる薬を効かせている。気がついたら、昼も夜も薬漬け。遊びに使うよりはまっとうな服用の仕方ではあるだろうけれど、全体的な量は明らかに増えている。まったく、労働は体に悪い。

 さて、そんな具合で今日もつつがなく一日の業務が終了した。同僚に挨拶をしつつ、会社のビルを出ると、僕は携帯電話を取り出して真赤に電話をかける。彼女は今朝、家を出る時に、具合が悪そうにしていた。しょっちゅう体調の不良を訴える彼女なので、いつものことだろうと、そのままにして来たが、普段なら頻繁に送りつけて来るメールが、今日は一通もなかったので心配だった。

 長い呼び出し音のあと、やっと出た彼女の声は弱々しい。

『凄く寒気がするの。早く帰って来て……』

 今にも死にそうな声である。どうも、今日は正真正銘具合が悪かったようだ。風邪でも悪化したのだろうか? だとしたら、ぞんざいに扱って悪いことをした。とにかく寝ていろと告げて、携帯電話を仕舞うと、ビルから出て来た同期のミタ君が背後から声をかけて来る。

「水屋口さん、いよいよ明日からおれ達、二人で外を回るみたいですよ。さっきマトバさんが言ってました」

 一つ年下の彼は、興奮を隠しきれぬ声で言う。なるほど確かに先輩のフォローなく僕らだけで仕事をするとなれば一大事だが、しかし今は真赤のことで頭が一杯だったので、駅への階段を降りながら曖昧に返事をする。

「いま電話してましたけど、相手は誰ですか? 恋人ですか?」

「あ、うん」

「そうですか! それは良いですね! それにしても、明日からのことを考えると、緊張するなあ。しませんか? 水屋口さんは機械が出来る人だからなあ。おれは全然出来ないから、心配ですよ……。あ、おれのホームはこっちなので、それじゃあまた!」

 ミタ君と挨拶を交わして別れた後、僕は不覚にも動揺していた。

 うっかり肯定をしてしまったけれど、そうなのだろうか? 真赤は僕の恋人なのだろうか?

 彼女との関係をそういった形で認めたのは、これが初めてだった。今更、と言われるのかもしれないが、僕としてはそういうつもりではなかったのである。しかし実態は確かにそうなのだ。そんな生臭い言葉であらわされる関係であるのだ。

 急に現実を突きつけられたような、冷や水をかけられたような気分であった。


 気持ちは焦るが電車の速度はいつもと全く変わらない。すし詰めの満員電車に乗って、坂を上って下って、そして半分駆け足で花園シャトーへ帰って来て、時計を見ると二十三時。ほぼ普段通りの定刻である。

 もうすでに体は疲れ切っているというのに、これから夕食を食べて、風呂にも入って、それから眠って、明日も七時に起きて、それだけでもう僕は精一杯なのだけれど、その上真赤を病院に連れて行かねばならないというのだから、陰々滅々たる気分である。しかも明日は、はじめて責任のある仕事をすることになっている。

 帰ってくる間に多少でも症状が緩和されていないかと期待したものの、そう上手くはいかなかった。真赤の元々白い顔が今は青ざめている。万年床のなかにうずくまり、悪寒がすると、途切れ途切れに苦痛を訴えている。

 やはり、仮病や演技のたぐいではなさそうだ。本当に具合が悪いのだ。病院へ連れて行かなくてはならぬらしい。僕はもう、へとへとだっていうのに。このまま眠ってしまいたいのに。そもそも、具合が悪いといっても、話を聞くかぎり風邪のようじゃないか。我慢して寝ていたら治るんじゃないか? 真赤ちゃん少し頑張っておくれよ。自分の体の力で治しておくれよ。未練がましくそう思ったが、さすがに本人には言えない。

 そして僕は、一一九番に連絡をした。

 救急車が来るまでの間、痛がる腹をさすってやったり、昼からの状況を尋ねたりしながらも、僕は眠くてたまらない。機能を停止したがる体が、意識が、やたらと重い。目の前で同居人が苦しんでいるというのに、やはり僕は冷淡なのだろうか? 非常事態に対し、日常的な気分で接するのに慣れすぎてしまったのかもしれない。普段の彼女の自傷ならそれでもいいが、本当の体調不良にはそれではいけないのだと、頭ではわかっているのだけれど。──それにしたって、普段だったらこれほどに眠くはならないのに。眠りたい時には目が冴えて、起きていたい時に眠くなる。この自分の精神のままならなさといったら。

 夜の静けさのなか、病人は苦悶の声をあげている。熱を測ると三十八度。確かに高いが、風邪だとしたら特別な高熱とも思えない。何か他の病気なのか、それとも苦痛を大げさに訴えているのか。信用しない訳ではないけれど、医者でない僕には何の判断もつかない。睡魔を気取られぬよう声色を作りながら、安心させるべく話しかけていると、ようやく遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてきた。

 部屋のドアを開けた救急隊員に事情を説明する。今回は、以前のような情けない理由ではなく、真っ当な体調不良であるから、気後れすることもなく病状を伝えることが出来た。そして救急隊員達は担架で彼女の体を運び出し、僕はそれに従って路上に出る。

 ぽつりぽつりと並んだ水銀灯の明かりに羽虫がたかっている。この辺りは繁華街という訳でもなく、夜の闇は濃かった。救急車の白色は、その暗がりにぼんやりと浮かんでいる。

 隊員が後部ドアを開き、そこから彼女を乗せる。そして誰かに促されるまま、僕も乗り込んだ。全員が乗り込むと、救急車は走り出す。

 壁際には、メーターやモニターのついた機械が並んでいる。何に使うのかはわからないが、今は電源がオフになっている。年のいった隊員が、真赤の腕をとって何やらごそごそとやっている。血圧やら、体温やらを測っているのだろうか?

 前の席に座った救急隊員が、電話か、あるいは無線なのか知らないが、通信機器でもって誰かとやりとりをしている。当然ながら相手の声は聞こえないが、病院を探しているのだろう。どうも、あちこちで断られ、なかなか向かうべき病院が決まらないようだ。

 じゃあ、いまこの車はどこへ向かって走っているのだろう? 気づけば、窓の外は見知らぬ風景で、赤や黄色のネオンが灯っていた。サイレンはその煌めく街に鳴り響き、救急車は停車した車の間をすり抜けてゆく。交差点も信号もお構いなしだ。不思議な光景だな。なんだか、知らない世界に迷い込んでしまったみたいな気分だ。

 やがて車窓の風景はネオンの街から、鬱蒼とした林にかわる。車は坂を上っているらしい。花園シャトーからそう遠くは離れていない筈だが、普段の移動手段が徒歩と電車の僕は、少し離れるとすぐに土地勘がなくなる。本当に、この車はどこへ向かっているのだと不安になり始めると、その坂の上に病院はあった。

 救急車は建物の裏側に停まり、真赤はストレッチャーごと車外に運び出され、『夜間・救急入口』と赤地に白文字で書かれた看板のかかったドアから、病院に入る。そこで病人の身柄は救急隊員から、病院の医師に引き渡された。

 レントゲンを撮ったり、各種検査をするということで、僕は廊下で待たされることとなる。

 夜の病院の廊下は静かだ。建物自体には、多くの入院患者が眠りこけているのだろうけれど、奥の暗闇には人の気配がなく、自分たちしかいないような錯覚にとらわれる。眠気はいくらか覚めていた。検査というのはどれくらいかかるのだろう? 一旦外へ出て、時間をかけて煙草を一服し、そして戻ると、さっきまで暗かった玄関脇の診察室に明かりが灯り、奥のベッドに真赤が横たわっている。

 彼女は医者と看護師に囲まれて、何やら説得されていた。

「ちょっとだけ頑張って、我慢すれば済むから」

 中年の看護師が懇願するような声色でいう。どうも、真赤が何か、彼らを困らせるような態度をとっているらしい。そっと近づくと、振り返った若い医者は苦笑を浮かべる。

「いやあ、困りました。採血をしたいんですが、どうしても注射がいやだと言っていて、出来ないんですよ」

 ああそうか。真赤は尖端恐怖症だったっけ。針が怖くてしかたないのだ。手首を平気で切り刻むくせに。

「わかりました。……おい、真赤。このまま治療を拒否してたら、調子が悪いのが治らないぞ。頼むから、我慢しておくれよ」

 僕は真剣に懇願した。こんなことで時間を無駄に消費しても、真赤の病状は治らないし、医者や看護師も困らせてしまう。

 しかし、僕がいくら頼んでも、真赤は泣きそうな顔で、頑なに首を左右に振るばかりだ。

「まったく、小学生だってそこまで怖がらないよ。こんな夜中に、病院の人たちにわざわざ診て貰ってるのに、恥ずかしいなあ」

 僕がため息をつくと、その状況がよほど滑稽に見えたのか、医者と看護師は笑った。

 それから、僕が三十分ほど説得し、そしてそのあと医者が十分ほど説得をすると、真赤もしぶしぶ了承し、採血を行うことが出来た。

 直前まで注射針に対する悪意の言葉を吐き、その瞬間には腕から全力で顔を背け、僕の手をぎゅっと握る様子には流石に看護師も苦笑をしたが、一度やってしまえばケロリとしたもので、その後に点滴を取り付けると、そのまま眠ってしまう。

 医者が言うには、腎臓が腫れているとの事で、熱や身体の痛みの原因もそれらしい。だから今は点滴で炎症を抑える薬などを投与しているそうだ。

「点滴が終わり次第、帰れますよ。薬を受け取るのを忘れないで下さい」

「今日は本当に済みませんでした。色々とご迷惑を掛けて」

 頭を下げると、医者は何も言わず、ただ笑いを返した。

 そうして僕は、ベッドのそばの椅子に座って、点滴が落ち切るのを待つ事になる。

 真赤の抵抗で冷や汗をかいたせいで、もう完全に睡魔は去っていた。時計を見ると、もう日付は変わり、朝に気持のよい体調で出勤するのは絶望的な時刻になっている。こんなコンディションで、機械を直したり、客と会話したり出来るのか?

 もう明日のことを考えるのはやめよう。ため息をつく僕の目の前で、真赤は、すやすやと安らかな寝息を立てている。もう苦しそうにはしていない。

 それにしても、医者たちは僕らの関係をどう思ったのだろう? スーツを着た僕と、十六歳の真赤は、兄妹と解釈するには年が離れているし、苗字も異なるから、肉親と勘違いしようがない。不審がられても仕方ないが、彼らはそんな態度は見せず、あくまで優しかった。むしろ僕と真赤のやりとりを、微笑ましく見ているようだった。それが僕には何とも言えず不思議であった。他人から見て、僕ら二人は自然なものに映ることが出来たのだろうか? 少しは、まっとうな二人に見えたのだろうか?

 普段の荒んだ生活を考えると、とてもそうは思えないのだが。

 やがて点滴が落ちきって、呼んだタクシーが来ると、僕らはそれで帰ることになる。眠りから目覚めた真赤は、いくらか元気を取り戻していて、僕の苦労など知らず、家に帰るのを喜びはしゃいでいた。

 まだふらつく真赤の腰を支えて、暗い駐車場に出る。夜空には月も星もなく、黒いカラーのタクシーを一瞬見つけられなかった。

 看護師はタクシーに乗り込むところまで見送って、

「また具合が悪くなったら、遠慮しないで救急車を呼びなさい。タクシー代わりにしていいんだから」

 と、やはり優しい言葉を窓越しにかけてくれた。


六


 朝起きた時から具合が悪くてたまらない。じっとしているのに風景がゆらゆらと揺れて、足下は感覚が薄くて綿の上に立っているよう。喉がひりひりと痛み、口の中に苦い味がする、のは、向精神薬の副作用かもしれないが、とにかく体全体に違和感があって、洗面台の前に立つと、顔の中心に赤い発疹がいくつも出来ている。

 これは世に言う蕁麻疹というやつじゃなかろうか。食べ物やら薬やらのアレルギーで起こると聞いたことがあるけれども、僕は昨日なにを食べたっけ。トンカツだったかな? しかし、今までの人生で何度もトンカツを食べたことはあるが、こんな事態が発生したことはない。とすると、それが原因ってことはないだろう。薬だって、昨日は常備のものしか服用していないはずだ。もしや、体質が変化してしまったんだろうか? それとも、疲労のせいで、抵抗力が弱くなっているんだろうか。いずれにせよ、なんで、よりによってこんな日に。今日だけは絶対に休めないというのに。

 今日は五月一日の火曜日であった。ゴールデンウィークに挟まれた出勤日で、こんな日に休んでしまったら、ああ、あの野郎、仮病なんぞ使って己の手で大型連休を作り上げやがって、と、会社の皆は思うだろう。本当に病に伏せっているのに、そう思うだろう。

 これまで、僕は仮病を使って不正に欠勤をしたことは何度かあった。いや、正直に告白するならば、むしろ新人としてはあり得ぬような頻度で休んでいると言っていい。会社ではすっかり虚弱の新人という立場が与えられ、気がつけば、電話一本で簡単に休みが貰え、しかも心配の言葉さえかけられてしまうようになっている。この甘い環境はさらに僕の欠勤癖を加速させ、研修期間中であるにも拘わらず、社会人意識は既に危機的状況に陥っているというような有様であった。

 だから、仮病で休むということ自体に罪悪感があるわけではない。しかし、いや、だからこそ、今日は休みたくはなかった。正真正銘の病気だとしても、絶対に休みたくなかった。それが、僕のプライドというものだ。

 なぜならば、今日休むことによって得られるものが、余りにも大きすぎる。今日明日と休めば、分断されていたゴールデンウィークが連結され、恐るべき巨大連休を手にすることが出来てしまう。それはいくらなんでもやりすぎだ。僕はほどほどのズルと、ほどほどの我慢は自分の人生に認めているけれど、大きすぎるものはどちらにせよ好きではない。罪悪感が有る。

 だからこそ僕は、今日だけは、何があっても休むまいと決めていた。なのに、よりによって本当に具合が悪くなるだなんて、どうしたものか。

「休めばいいじゃん。家で寝てなよ」

 と、真赤は繰り返す。全く僕の考えが理解出来ないようだ。

 まあ確かに、そうだろう。普段仮病で休んでるくせに、こんな時には無理に出勤しようとするだなんて、いくらなんでも人格が破綻している。前述のように、僕なりに理屈はあるにはあるのだが、それを踏まえても、やはりおかしい。単なる天の邪鬼と言えばその通りだ。しかし、これが人間の性分というものだ。やるなと言われればやりたくなるし、ただでくれると言われれば、ノーと言いたくなるじゃない。どうにもならない。

 とまれ、そんな訳で僕は、くそうくそうと、自分の体を励ましながら出社をしたのである。

 朝礼の開始される八時半の、五分ほど前に事務所に到着する。

 僕らの会社は、一人ずつにデスクが与えられているのではなく、会議室にあるような長机を並べて思い思いの場所に座る形式だった。というわけで特に指定があるわけでもないけれど、習慣でそれとなくはそれぞれの席が決まっている。僕の場合は、初出勤の日に座った一番後ろの中央の席が、そのまま自分の席になっていた。

 もう社員のほとんどは出勤しており、雑談をしたり、今日のスケジュールを確認している。そして隣の席のアラガキさんは、眠そうな顔で栄養ドリンクを飲んでいる。

「おはようございます」

「おはよう」

 彼は僕の方を見たが、蕁麻疹については何も言及しなかった。

 やがて、主任のマトバさんの合図によって朝礼がはじまる。その日は、新しく追加された対策パーツの使い方と、発売されたばかりのインクジェットプリンターの修理における注意すべき点についていくつかの連絡があり、マトバさんは実例を挙げながら説明をする。それが終わると、社員一人一人に今日の仕事の振り分けが行われる。ゴールデンウィークの間の日といえども、その依頼の数は普段と変わらないようだ。世間というものは、案外几帳面に動いているらしい。

 僕はミタ君と二人一組で呼ばれ、他の社員と同じようにクリアファイルを受け取る。中には三枚綴りの作業報告書が三組入っており、それぞれに依頼主の名前やアドレスと、対象の機種名、おおざっぱな故障内容などがドットプリンターで印刷されている。

 今日は、どんな仕事が入ったのか、どこの場所に向かうのか。ファイルから取り出した作業報告書を机の上に並べ、地図を片手にミタ君と共に眺めていると、マトバさんが声をかけた。

「今日の作業はね、全部定着器の交換で済むと思うよ。その南青山のエラーコード吐いてるやつも定着器だから。三本持って行って取り替えてくるだけ。楽勝でしょう?」

 マトバさんはいつも朗らかで、親切だった。

 新人である僕たちはよくミスをするが、まるで怒るそぶりも見せず、穏やかにアドバイスをしてくれる。客先で予期せぬトラブルに遭ったときなど、何度も電話をしてしまっても、丁寧に対策を教えてくれる。会社の雰囲気が和やかなのは、この人の人柄に依存するところが大きいように思う。

 それはいいのだけれど、彼もやはり僕の蕁麻疹には触れない。その後、他の社員とも二、三言の言葉を交わすも、誰もそのことを指摘しようとはしない。

 顔の中央に出来た異変なのに、誰も触れないとはどういうわけか? 髪型を変えたての少女のように、とにかく誰かに気づいて欲しい、という期待があるでもなかったのだけれども、こうも触れられないと拍子抜けがする。かえって触れられたくなって来る。せっかく、不調をおして出勤しているのになあ。誰か褒めてくれたっていいのに。

 しかし、僕が過剰に気にしているだけで、実際のところ、他人にとっては取るに足らない疾患なのかもしれない。僕は知らず知らずに自分の不調を大げさに受け取る、悪い癖があるのかもしれない。だとしたら、欠勤しなかったのはまさに英断と言うべきではあるのだが。あるいは、普段から誰も僕の顔など見ていない、というおそるべき可能性もありえる。

 どうもしっくりしない気分のまま、依頼元に電話をし、故障状況の再確認と、訪問のアポイントメントを取った。

 その間、ミタ君は倉庫から今日使うであろう定着ユニットを三台持ち出して来る。

 大型カラーレーザープリンターの定着ユニットは、幅四十センチほどの直四角柱型をしており、プラスチックと金属で出来ているものだからそれなりの重量がある。このままでは持ち運びにくいから、縦に三段重ねにしてビニールロープでくくり、プラスチック製の取っ手を二つつける。見栄えは著しく悪いが、おそらくこれから半日、最悪の場合は丸一日持って歩くことになるのだから、実用性を重視せざるを得ない。

 それから僕たちは、作業で使う道具が揃っているのを確認する。数本のドライバー、テスター、ラジオペンチ、ウエス、清掃用のエタノール。

「ダルマもあったほうが便利だよ。おれの工具鞄から持っていきなよ」

 机の上に道具を並べていると、マトバさんがそう忠告をしてくれたので、彼の鞄から、文字通りグリップがダルマのように丸いプラスドライバーを取り出して、それも、持って行くことにする。そして僕たちは事務所を後にした。

「今日は暑くなりそうですね」

 青空に輝く太陽を、まぶしそうに見上げながらミタ君は言う。

「そうだね」

「あっ、水屋口さん」

 駅に向かって歩き出したところで、ミタ君が声をあげる。

「顔になんか、ブツブツが出来てますよ? 大丈夫ですか?」

 と、やっと気づいてくれて、僕は非常に嬉しかった。


 ミタ君というのは、非常に容姿に優れた人物である。背が高く、足が長く、整った顔つきはアジア人離れをしており、その容貌に関して欠点らしいものが見つからない。僕がこれまでに出会ったどんな人間よりも、容姿という点においては抜きんでて優れているように思う。おまけに人当たりがよく、言葉も達者で、うまく喋るのだ。

 今僕とそのミタ君は大戸屋で昼食をとっていた。スーツ姿では汗ばむような気温で、二人とも上着を背もたれにかけている。

 彼は唐揚げのついた定食を注文し、僕はマグロの刺身の載った丼を注文していた。お互いそれを食べ終わり、今はくつろいでネクタイを緩めていた。

「水屋口さんて、育ちがいいんですね」

 とミタ君は言う。

 どういう意味だろうか? 自慢ではないけれど、育ちの悪さには定評のある僕である。何故急にそんなことをと尋ねると、僕が食べ終えた丼に米粒を残しているのを見て、そう感じたらしい。

「おれは食い意地が張ってるから、どうしても最後の一粒まで残さず食べちゃうんですよ」

 単に行儀が悪いだけの僕の食事を、そんな風に自嘲しながら褒めるのは、他の人間が言ったら嫌味になるのだろうけれど、それを感じないのは人柄なのだろうなと、僕は思った。

 彼はなんというか、屈託のなく、陽のあたる場所でまっすぐに育ったような人物なのである。人間性に影という物を感じさせない。僕や、タミさんや、真赤や、それに多くのインターネットの住人とは、まるで別の天体に住む人種のような気がする。僕の住んでいる惑星では、男は大体ヤク中で、女は大体手首をかき切っているのに。

 その彼は、僕の方が一歳年上だということと、彼に比べて僕の方が多少機械の知識があるということから、いつも敬語を使って立ててくれている。彼の方が、二週間ほど早い入社だから、ほぼ同期とは言えほんのちょっと彼の方が先輩なのである。が、そんな風情は見せない。

「体調、大丈夫ですか? つらいなら、早退した方がいいですよ。あとはおれに任せてくれればいいですから」

 と、今もそう気遣ってくれる。さぞかし、女性に好かれることだろう。

 彼は派遣社員として半分アルバイトのような状態で働いている僕とは違って、まっとうに正規雇用された正社員であった。このような人物が、どうしてこんなメーカーの下請け修理会社というような地味な場所に就職したのか。もっと適正のある仕事が他に存在するのじゃないかと、どうにも不似合いな気がしていたのだけれど、先日その理由を知る機会があった。

 その日、僕と彼がプリンターの修理のために訪れたのは、芸能事務所である。宇見戸が真赤に紹介しようとしていたような怪しげな零細事務所ではなく、小綺麗なオフィスを構え、エレベーターに乗ると、テレビで見たことのある芸能人と一緒になってしまうような会社であった。

 そこでの作業内容は、新人の僕らにとってはやや難しいもので、二人がかりで相談しながら修理に当たっていると、事務所の職員が、彼にタレントにならないかと声をかけたのである。どうも、冗談ではないらしく、受け流そうとするミタ君に、個人的な質問を繰り返し、そして何度も何度も誘いかける。

 もちろんその職員も、貧乏くさい宇見戸とは違って、小綺麗なスーツなどを着た、見るからに業界人といった印象の人物であった。

 結局ミタ君は最後まで笑いながら断っていたけれど、その場にいた僕は、仕方がないとは言え、自分がまるっきり無視されてしまったことが面白くない。外に出てから、タレントになればよかったじゃん、とやっかみ半分で言うと、彼は、

「いや、いいですよ。おれは、ああいう仕事はもうやらないんです」

 と、思いの外きっぱりと言う。僕はその言い方が気になって、さらに尋ねた。

「おれ、前は雑誌のモデルとかやっていたんです。でも、ああいう業界は、地に足がついていないと感じたんです。それで、身につけた技術で稼ぐような、地道な仕事をしたいと思ってここに就職しました」

 そしてミタ君は、自分の父親が職人で、それに知らず知らずに影響を受けたとか、転職を決めたとき、直接何も言わなかったが父親が嬉しそうにしていたのが良かったとか、いろいろと語ってくれた。そして僕は、そのあまりにもまっとうな考え方に、聞きながら、くらくらとめまいがした。

 ああそうか、だからこんな、ろくにパソコンも触ったこともないような若者が、こんな会社の社員になったのか。僕のようなアルバイトまがいの派遣社員ではなく、正社員として就職しているのか。そういうことだったのか。

「そう言えば、真赤ちゃんは元気ですか?」

 ミタ君は煙草に火をつけながらそう言う。大戸屋は全面禁煙の店も多いが、その店舗にはまだ喫煙席があった。

「元気かどうかは微妙なところだけど、まあ、いつも通りかな」

 僕も自分の煙草を一口吸った。

 やはり体が弱っている。煙草がちっともうまくない。いつもだったらうっとりとするような香料の甘いにおいが少しも感じられず、スカスカとした煙の味しかしない。

「真赤ちゃんって、体が弱いんでしたっけ? 大変ですね。……でも、いいなあ、家に帰ると誰かが待ってるなんて。癒やされるでしょう」

 ミタ君には、一緒に暮らしている異性がいるということと、その下の名前だけは話していたけれど、それ以上は伝えていない。

 まさか、家にいるのはその女だけでなく、同い年のプログラマーもだとか、さらに隣の部屋の髭の男と、寝癖の男もいるとは、思うまい。さらに、その女も、十五歳になったばかりの中卒無職で、親の与えた部屋を飛び出してやって来たとは、想像もすまい。ましてや、インターネットで知り合ったなどとは。

「いいなあ、おれも彼女作って一緒に住みたいなあ。まったく、羨ましいですよ」

 お世辞とわかっていても、そう褒められると悪い気はしない。僕は、えへへ、えへ、と、自分でも厭になるくらいだらしなく笑った。

 その日の仕事は、マトバさんの言う通り、全て定着器の交換をするだけの簡単な仕事だったので、午前中のうちに与えられた三つの予定を全て終了してしまった。

 これで帰れるのならば楽なものだけれども、さすがにそうは行かない。昼食後に事務所へ電話をすると、新しい仕事が与えられた。午後は僕とミタ君はそれぞれ一人ずつに分かれて、別行動で客先をまわるとのこと。

 回収した定着器はミタ君が持ってくれると言うので彼に預け、マトバさんから伝えられた住所に向かう。

 地下鉄を一度乗り換えて、表参道駅で降りる。真赤が住んでいたアパートから歩いて十分もしない場所だ。この仕事では、この街をよく歩く。個人のデザイン事務所が多い地域で、彼らは大概何らかのプリンターを所有しているからだ。

 そして、これから僕が訪れる会社もそういった類の業種であるらしい。マトバさんが言うには、おそらく定着器を交換することになるだろうとのこと。まったく、今日は定着器の交換ばっかりだ。レーザープリンターのトラブル全体のなかでその部位の故障が多いというのもあるが、作業と故障原因の切り分けが簡単というのもあり、新人の僕らにはその仕事ばかり与えられる。苦しむことがないのはいいけれど、同じことばかりさせられるのも飽き飽きだ。

 空は相変わらず晴れている。排気ガスの刺激臭が鼻をつく。僕はメトロの出口のすぐそばに立てられた石灯籠にもたれかかりながら地図をひろげた。風が強く、バタバタと暴れる紙面を押さえつけながら、メモの住所と地図上の位置を照合する。

 目的の会社は思ったよりも近かった。僕は、途中にあった自動販売機で栄養ドリンクを買って飲み、それからロラゼパムの白い錠剤を三錠、口の中で噛みつぶしてから歩き出す。

 僕にとって、この薬はいくら飲んでもさほど効き目が実感出来ない。それでも噛んで砕くのは、ただ、ほんのり甘いような味がするのが好きだったからだ。


 インターフォンを押して、社名を名乗る。ここで使うのは、僕が属している派遣元でもなく、ミタ君などが属す派遣先でもなく、事務所に業務を委託しているメーカーの名前である。

 誰でも知っているその大企業の名を、まるで自分が所属しているかのように使うのは騙しているようで気がひけたが、それが社会というものなのだろう。相手は勿論そんな詐称には気づかない。お待ちしておりました、と、丁重な言葉で通してくれる。

 オフィスの中は、壁も天井も、何もかもがオレンジばかりで、間接照明しかないものだから、薄暗い。不規則に置かれた机の上には、おきまりのアップル社製PCが設置され、若い男女が仕事をしている。

 体にぴったりとしたカラフルなボーダーのロングTシャツを着た担当者の案内に従って、狭いらせん階段を上がってゆくと、そこは広いロフトになっており、ネットワークで繋がれたA3カラーレーザープリンターが置かれていた。

 白っぽい配色といい、サイズといい、旧式の洗濯機に似たその機械は、購入するとなるとそれなりに値が張るようだが、対象製品が高価だからといってベテラン作業員が派遣されるわけでもない。むしろサイズが大きく、部品も大く出来ているため、扱いやすい機種として新人がよく派遣される。実際僕も最初の頃はこの機械と、A4モノクロレーザープリンターの分解と組み立てばかりやっていたので、時間さえかけれロータリーフレームだって一人で取り出すことが出来る。

 ロータリーフレームというのは、機械の中央で回転する巨大な金属フレームである。四色のトナーをはめ込むようになっており、回転しながら転写ベルトに一色ずつ載せてゆくのがその役割だ。

 機械の中枢に固定されている巨大なパーツであるため、ほぼ全てのユニットを取り出さなければ、取り外すことが出来ない。レーザーユニットだの、ディベロッパーだの、牛の解体で言えば、肝臓だの腸だの、そういった内臓を一つずつ摘出し、肉をはぎ取り、そうしてほとんど骨だけとなった状態から、最後に腰骨を手に入れる様なものだ。そしてもちろん、ただ取り出すだけではなく、元通りに組むことも出来る。

 つまり、これの取りつけ取り外しが出来るということは、バラバラのユニットの状態からでもプリンターを組み上げて、動作させることが出来るということである。

 この一ヶ月間で、なんとか僕はこのロータリーフレームの取り外しを行い、そして組み直して動作させるというところまでは出来るようになっていた。もっとも、十回挑戦して全部成功させられるかと言えば、微妙なところだが。さらに言えば、分解と組み立てが出来るというだけで、全てのパーツの役割を理解しているわけでもないのだが。

 とまれ、今回原因として疑われている定着器の交換というのは、そのロータリーフレームの取り出しとは比較にならないほどに容易い仕事である。

 ユニット丸ごとを交換して良いのならば、数本のネジを外し、電流を供給するハーネスを外し、信号を送るハーネスを外し、そして新しいものを逆の手順で取り付ける。ものの五分もあれば終了だ。

 もし定着ユニットのなかのヒートローラだけを交換しなくてはならないというのならば厄介な作業になるけれども、そういったややこしい案件はまだ僕にはまわってこない。

 交換に使うパーツは、すでにマトバさんの手配したバイク便によって届けられ、プリンターの横に置かれている。スムーズなのは有り難いが、普段は届けにきたバイク便に、新しいものと交換に古い方を持ち帰って貰っていたのだが、それが出来ないというわけだ。荷物が増えると思うと気が重い。

 とにかく作業をしなければいけない。さっそくそれを取り付けて、印刷テストをしてみたのだけれど、しかし困ったことに症状が改善しなかった。定着ユニットがはき出した用紙には、本来印刷されるはずのテストパターンが存在しない。紙面が、かすかにトナーで汚れているだけだ。定着器を交換する前と同じ状況である。

 マトバさんの見立てが外れたらしい。少し前の、指示されたことしか出来なかった僕なら慌てたところだけれど、今はもう動揺しない。自分で原因を探せば良いのである。

 定着器でないとすれば、どこが原因か? そもそもトナーがまともに載っていないということは、転写ベルトか、レーザーまわりか。特定の色に異常があるわけではないから、ディベロッパーの可能性は低い。簡単に取り外せるパーツなら良いが、たとえば転写ベルトの故障なら、大手術になってしまう。それを思うと、慌てはしないにしても、多少ヒヤリとはする。事務所では成功させているとはいえ、客先で一人で、そこまで細かく分解したことはない。ミタ君と二人でなら一度だけあったが、一人では心細い。

 さっきまでの余裕を失って、汗をかきながら調べていると、定着ユニットを引き出してその隙間からのぞき込んだ場所、本来あり得ない位置に用紙が挟まっているのを発見した。引っ張り出すと、トナーまみれになっている。あっ、まさかこれが原因だったのだろうか?

 祈るような気持でテスト印刷をして、ほっとする。無事、テストパターンが正常に印刷されたのだ。おそらく、内部にひっかかった用紙が、定着前のトナーをかき落としていたのだろう。

 なんとか直って良かった。作業後マトバさんに電話で報告をすると、

『へえ、そんなトラブルがあるんだ。おれも初めてきいたよお』

「僕もびっくりしました」

『でも、自分で原因を見つけたのはえらいじゃん。難しそうな現象が出ていてもね、原因はだいたいそんな簡単なものだったりするんだよ。でも、それを見つけるのが意外と難しい。関係ないところをバラバラにしちゃったりもする。そういう簡単なトラブルを、簡単に見つけられたのなら、もう一人前のサービスマンだな』

 マトバさんはなかなか上手く褒めるものだと関心していると、

『で、早速だけど、すぐ近くに次の仕事があるんだ』

「どんな仕事ですか?」

『悪いけど、人柱に行って欲しいんだ。いいかなあ?』

 やはり飴のあとには鞭があった。

『人柱』或いは『人質』と、僕らが呼んでいるのは、要するに時間稼ぎのことである。

 社員全員が同じスキルを持っているわけではないため、難易度の高い仕事が入れば、当然直せる人間は限られてくる。そして、難しい仕事が立て込んでしまえば、当然全員が出払って、誰も直せなくなる。

 しかし、保証契約の内容には、故障をしたらすぐに作業員をよこさなくてはいけないというものもあって、そのまま放置も出来ない。そこで、僕のような新人がとりあえず先行して、直せる人物が来るまでの情報収集と、客に対する場つなぎをするのだ。

 この生け贄じみた派遣のことを、僕らの事務所では『人柱』と呼んでいた。

 あまり楽しい仕事ではなかったが、仕方がない。言われた通り客のところに向かうと、最新式のインクジェットプリンターが置かれている。操作パネルのランプが緑と赤に光っていて、これがフェイタルエラーの証だということは聞いたことがある。

 確かに、これは僕には直せない。僕は、この機種どころか、インクジェットプリンターというもの自体を分解したことがない。出来そうなものなら直してやろうとも思っていたが、これは無理だ。手のつけようがない。フェータルエラーというものは、その多くは修理の難しい致命的な障害が発生していることを意味している。

 しかし、自分に能力が足りないのを客に悟られないように、なんとか誤魔化さなくてはならないのだから大変だ。どこか遠くへ行ってくれれば楽なのだが、プリンターはオフィスのすぐ近くにあり、依頼者は自分の席からこちらの様子をうかがっている。

 まったく困ってしまった。ケースの外し方さえもわからないので、分解しているようなふりさえも出来ない。仕方がないので、排出口の隙間にドライバーを突っ込んで、意味もなくガチャガチャやっていた。

 そうして何度も電源を入れたり落としたりしていると、急にフェイタルエラーが消えたのである。あ、どうしたんだろうと、壊しちゃったのだろうかと不安になったが、テストプリントのやりかたもわからない。客は知っているだろうけれども、まさか訊くわけにもいかない。電話でマトバさんにやりかたを聞いて実行してみると、なんと、正常に印刷されてしまった。

 自分でも信じられなかったが、電話報告をしたマトバさんも、思ったより早く手が空いて駆けつけてくれたキサラギさんも、驚いていた。それから何度テストしても不具合が再現しなかったため、そのまま報告書を提出し、するともう遅くなっていたので、キサラギさんの車で帰社した。

 事務所に戻ると、僕が新機種のフェイタルエラーをあっというまに直したことが話題になっていて、やたらと賞賛された。これは奇跡だと、すごいすごいと、褒めている。一方僕は本当に本当に具合が悪くなっている。目眩が明らかにひどくなっている。どうしてこんなに調子が悪いのか? 倒れそうになりながら書類処理を済ませると、すぐに会社を後にする。

 顔がとにかくむずかゆい。駅のトイレに入って確認すると、蕁麻疹が顔全体に広がっていた。

 嗚呼、まるでヒキガエルのような顔をしているなあ! こんな醜い顔で歩いていたのか僕は。恥ずかしい。

 顔を隠しながら、家まで帰ると、真赤を無視して、すぐに布団に倒れ込む。布団の中でそっと顔に触れると、皮膚は岩のように硬く歪に起伏していた。