六


 まだ正月と呼べる時期のうちに正月らしい何かをしたい。それならば、手っ取り早く、普段食べないようなものを食べたらいいのではないだろうか?

 そんな話になったので、インターネットで僕が活毛蟹を注文し、それが昨日真赤のマンションに届いた。

 早速それを二人で食おうということになるが、いくらなんでも毛蟹だけでは食卓が成立しない。新宿で待ち合わせをし、駅の近くの高島屋でローストビーフだの僕が飲む日本酒だのを買い込んだ。

 そうしておめでたい食材で高島屋のマークが入ったレジ袋がパンパンになったのを見ると、なんだかまっとうな正月のようで、それだけで僕は嬉しかった。

 そして僕たちは、広大な新宿駅を、このビニール袋がすれ違う人にぶつからないよう気にしつつ、山手線のホームへ向かって歩く。

「大丈夫?」

 しばしば人混みに流されて離れ離れになりそうになる真赤を、僕はそのたびに足を止めて振り返る。

「ミズヤグチさんは、どうしてそんなに早く歩けるの? こんなに人がいっぱいいるのに」

 真赤はむくれながら言う。

「慣れだよ。そうだな。そんなふうに、人が来るたびにいちいち大げさに回避するのがいけないんだと思う。もっとこう、人を個人でなく流れとして感じつつ、体をタテにしてうまくすれ違っていかないと。なるべく直進しながら、最小限の動作で」

 真赤はわかったようなわからないような顔をしてじっと僕を見る。

 そして歩き始めると、またすぐにはぐれそうになってしまって、彼女は僕を呼び止めるのだ。

「もう、待ってよ」

「待ってるじゃんか」

 僕はため息をつく。

「だって、全然追いつけなくって……。あっ、わかった、こうすればいいんだ」

 そして彼女は空いている方の手で、あいかわらず長すぎる僕のマフラーを掴んだ。

 僕は散歩紐に繋がれている犬のような不格好さがいやだったが、真赤はむしろそれを楽しむかのように笑っている。

 その状態で歩き始めると、確かにはぐれることもなく、真赤は僕のあとをぴったりとくっついて人混みを行くことが出来るのだが、やっぱりこれはどう見たって犬のようだ。

 開き直って僕は、本当に散歩にはやる犬のように、いやむしろ橇を引くトナカイのように、ぐいぐいと彼女を引っ張るようにして人混みを進んでやった。すると真赤は「あはは」と童女のように阿呆のように声を上げて笑いながら、マフラーをますます強く握りしめる。

 そうして、僕たちは彼女の部屋にやってきた。そこは以前と変わらず物のないうすら寒い場所で、ベッドの上には脱ぎっぱなしのセーターが放り出してあった。

 届いた毛蟹はどこかと問うと、流しの横の発泡スチロールの箱がそれだと言う。

「なかを見てみた?」

 真赤は苦い顔で首を横に振る。

「なんかこわい」

「へえ、こわいんだ」

 僕はからかうつもりで笑ってやってから、早速開封作業に取りかかる。

 白い発泡スチロールの箱は透明なビニールテープで留められていた。そのテープに包丁で切れ目を入れてから蓋を外すと、充填豆腐のようにみっちりと、砂のように細かい木の破片が詰まっている。

「これなに?」

 僕の肩越しに真赤が箱の中を覗いている。すると彼女のつけた香水の匂いが漂った。子供っぽい、甘ったるい香りだ。

「おがくずだよ」

「どうしてそんなのが入ってるの?」

「生きた蟹とか海老を発送するときには、少しでも長生きさせるようにこれをたっぷり詰めるんだ。いままで見たことない?」

 真赤は不安げに首を横に振る。

 僕はおがくずを指先でほじくり、ゴムで手足を縛られた毛蟹を一杯つまみ上げると、彼女の前にぶらさげた。

「うわあ。本当にこれからこれを食べるの?」

 のけぞって避けながら彼女は言う。

「うん、焼いて食う。旨いよ」

 それから僕は彼女のキッチンを借りて、二杯の毛蟹を、高島屋で買って来たばかりの蟹バサミでさばいた。足を一本ずつ切り離し、胴体の大きな甲羅を剥がすのだ。

 そうして生きて動く蟹を切断する様子を、真赤はキッチンの入り口の柱の裏に隠れつつ、まるでスプラッター映画のワンシーンを観るかのような恐ろしげな表情で眺めている。そしてもがく蟹にハサミを入れるたび、小さな悲鳴をあげるのでやりにくいったらない。僕は炬燵に他の食材を並べてくれるよう頼んで、追い払う。

 全ての準備が終わると、会食がはじまった。

 カセットコンロに網を乗せて蟹を焼き、それを眺めながら他の料理をつまみ始める。真赤はローストビーフなどは旨い旨いと言って食べてくれるが、焼けた蟹には積極的に箸を伸ばさず、取ってやっても喜びはしない。むしろその殻を剥くのさえ面倒そうにしている。

 残酷な場面を見ていやになったのか、それとも、そもそも蟹が好きではないのだろうか? せっかくの今日の目玉であるのになあと、高かったのになあと、僕はがっかりしたけれども、顔には出さないようにして、日本酒を片手に彼女の分まで蟹を食べ続けた。

「ねえミズヤグチさん。明後日、宇見戸さんのイベントに行く?」

 蟹の身を箸でほじっている僕に、真赤はそう話しかける。

「そのつもりだけど」

 宇見戸の企画したイベントが二日後に迫っていた。新宿のクラブにテキストサイトの関係者を呼び集めるダンスイベントだ。前もって言われていたとおり、僕は無料で招待されていた。

「そうなんだ。いいなあ……」

 真赤は眉間にしわをよせる。

「真赤は行かないの? あっ、未成年だからああいう場所でオールナイトは無理か」

「ううん、そういう理由じゃないの」

 彼女は首を横に振って、

「私、家に帰らなくちゃいけないみたい」

「家って、栃木?」

「うん。親がそうしなさいって言ってるの」

 今年の冬に控えた高校受験のために、少し前から戻って来るよう催促されていたらしい。真赤は今までそれを無視しつづけていたのだが、しかし、そろそろそれも限界で、親は彼女を問答無用で連れ戻すために、明日ここにやってくるのだと言う。

「その親の判断はごく当然だな」

 そもそも義務教育を受けるべき年齢の人間が、一人でこんなところに住んでいるのが異常なのだ。

 彼女の話によると、彼女が所属している中学校は東京にあるのではなく、地元の栃木にあるらしい。それも、私立の良い学校のようだ。なのに、何故単身東京へ出て来て、周りもそれを許していたのか、その方がまったく不自然な話なのである。

 可能ならばここらでまともな人生に戻るべきなのだ。こんな風に目的もなく東京に滞在してネットの連中と交流しているのは、人生にとって何一つプラスがあるとは思えない。

「そんなの全然よくないよ」

 と、真赤自身は不満があるようだ。

「やっぱり親とうまくいかないの?」

「実家だとネットも出来ないし、携帯電話も取り上げて、使わせてくれないと思う。前も家にいるときはそうだったから。お母さんは、私のすることになんでも干渉して、ペットみたいに管理しようとするの。だから、帰ったらもう連絡がとれなくなるかもしれない。──ミズヤグチさんはどう思う?」

 真赤が欲しがっている答えはわかっていたが、僕はそうは答えなかった。

「おれは、高校は行けるなら行ったほうが良いとは思うけど」

「そうなのかなあ」

 あてがはずれたらしく、彼女は露骨に顔をしかめる。

「親とうまくいってないのは知ってるけど、その話に関しては親の方が常識的なこと言ってるな。そりゃ中卒だって一つの生き方だろうけど、世間は厳しいからね。お前は実感がないだろうけど、おれはドロップアウト組だからなあ。バイト先でも、フリーターよりも大学生の方がやっぱきらきらしてるもの」

「なんかつまんない意見」

「そりゃ、ここで遊び暮らしてればそれなりに楽しいだろうけど、それで受験をサボろうってのは、いくら何でもどうかと思うよ。仮に高校に行かないとして、どうするつもりなのさ? 就職するつもりもないだろ? そもそも、仮に働こうとしたって、世間はこの大不況だ。中卒なんかが社会に出て行っても、お先真っ暗だよ」

「でも、宇見戸さんも中卒だよ?」

「それこそお先真っ暗のいい例じゃないか」

「ひどい」

 真赤は笑ったが、しかし僕の口にした一般論に賛同するつもりはないらしい。

「女子高生には、ちょっとなってみたい気がするけど……」

 と、言葉を濁すばかりである。

 僕も、実のところは自分の口にした意見を全面的に支持しているわけでもない。

 結局二人とも黙ってしまって、皿の上の料理をひたすら食べ続けた。

 真赤は相変わらず蟹を義理程度にしか食べようとしない。そして僕は「うまいのにな」とブツブツ言いながら、ひたすら蟹を食い続ける。二杯分の味噌を甲羅の上に集め、それをじっくりとコンロで焼きながら酒のつまみにしていると、真赤は、そんな黄色とも茶色ともつかぬ、まるで腹をこわした犬の糞のようなものをよく食べられるわね、とでも言いたげな奇異の視線をチラチラとこちらに向けて来る。だから、僕はことさらに旨い旨いと連呼して、酒をあおった。

 未成年の部屋に残してゆきたくはなかったので、帰るまでに一瓶全部空けてやろうとペースを速めていると、頭がズキズキと痛くなって来る。僕は真赤にミネラルウォーターを注いでもらい、がぶがぶと飲んだ。

 ああ、明日この子は田舎へ帰ってしまうのか。あの漢方薬ばかり飲ませる母の許へ。行き過ぎた関係を持つ父の許へ。

 さっきは帰ったほうが良いと言ったが、感情的な話をしてしまえばとの反対だった。彼女の言った言葉を全て事実として想像すると胸くそが悪くなる。

 しかし、だからってどうすればいいんだ? 親と一緒に居させたくないからおれと逃げようと、駆け落ちでもしようっていうのか?

 実際のところ、全ての情報は真赤の口から語られたものばかりでほかに確証もない。そして、僕は真赤に対してそんな立ち入ったことを言う間柄でもない。腹が減ったと言えば飯を食わせ、意見としては一般論を述べるくらいが限度だろう。

 僕が彼女に自分の損なわれた少年時代を仮託して、入れこんでしまっているのは確かだけれど、それに突き動かされてしまってはならない。僕がしていいのは『親切』という言葉で表現出来る範囲の行為だけだ。この境界線を越えたら、僕は単にネットを使って年下の少女をたぶらかすろくでなしになってしまう。

 そりゃ、現状でも他人からすればそうとしか見えないのはわかっている。そして、仮にたぶらかさなくともろくでなしなのもわかっている。しかし僕にも矜持というものがあるのだ。

 とにかく今はこの真赤。どうしたものかなあ。どうしようもないなあ。今自分が正しいと思い込んで何かをしても、とんでもない間違いになってしまったら取り返しがつかないものなあと、ユラユラ思案していると、いつの間にかテーブルの上の料理は全て片付いて、空っぽの皿ばかりになっていた。

 体が重い。ごろりと横になってつけっぱなしにしたままのテレビを観ると、笑っていいとも! をやっており、今日が平日だということを思い知らされる。

 日本人は勤勉だ。学生はまだ休みだろうが、企業の多くはもう普段通りの業務に戻っているだろう。一方僕はこんな訳のわからぬ少女のマンションで、蟹を食って酒を飲んでアルコール臭いげっぷをしている。

 テレビを観ながら雑談をしていたら、いつもどおりインターネットの話になって、そこで真赤は、最近はやたらと北朝鮮に興味があって、調べていると言った。

「チュチェ思想って言うんだよ」

 と目をきらきらと輝かせている。

 彼女は、その社会思想について書かれたサイトや、子供達が笑顔で踊る動画やらを、日がな一日眺めているのだそうだ。

 北朝鮮がプロパガンダ用に作った映像や、彼らの主張は、何かと斜に構えがちなインターネット上の若者たちに、独特のユーモアとして人気があるのは僕も知っている。真赤もそれに異様な関心があるらしい。

「日本でも革命が起きて、みんなで金日成キムイルソン様を崇めたらどうかな? とっても幸せそう。だって、地上の楽園なんだよ?」

 彼女は「地上の楽園」と何度も繰り返しては、一人で笑っている。

 こうした北朝鮮話は、確かサイトの日記にもそんなことを書いていた気がするから、彼女のお決まりのユーモアなのだとは思うが、どうもその口ぶりには、共産主義、洗脳教育、人間性の欠如、といったものに対する歪んだ愛情が感じられる。もしかしたら、心の何割かでは、本当に革命を求める気持ちがあるのではないだろうか?

「それって冗談だよね?」

 最初は適当に相づちを打ちながら彼女の饒舌に耳を傾けていたものの、あまりにも賞賛するのに次第に不安になって来た僕はそう訊ねた。

「あはは」

 笑うだけで、否定も肯定もしない。僕が嫌な顔をしてしまうと、

「あのね、私、友達から白痴って言われてたの。馬鹿っぽいからだって」

 真赤は急にそんなことを言い出す。

「馬鹿ではないと思うよ。むしろ頭は良いんじゃないかな? おれの喋り方はおかしくて、昔から聞き直されることが多いんだけれど、いつも当たり前に伝わってるから驚いてる。こんなのはじめてだ」

 褒めてみても、やはり彼女は否定も肯定もせずに同じように笑っている。でもどこか嬉しそうな、照れくさそうな。

 そして、僕たちはさらに会話を続けた。


 真赤は上機嫌になると、話題がまるでチェスのナイトのようにぽんぽんと飛び跳ねる癖があるらしい。さっきまで自分の腕や足を切り裂いてネットにその画像を公開する少女たちについて、自分も自傷はするがその行為をとても恥ずかしく思っているから公開など思いも寄らない、彼女たちには距離を感じる、というようなことを述べていたかと思えば、それが終わらないうちに生まれ故郷である栃木の話をはじめ、次の瞬間には少女に対して偏愛があるという話題になっていた。

 こうした話し方をするのは、頭の回転が速すぎる人や、精神が不安定な人の特徴だと聞いたことがあるけれども、彼女の場合は両方のように思う。

 どれくらい話していたのだろう? 二人で足を突っ込んでいる炬燵の温度が少し高いので、酒を飲んでいる僕だけでなく、真赤の顔まで赤くなってしまった。

 一旦話を止めて温度を下げようとしたのだけれど、調節ダイヤルのついたコントローラーが見つからない。炬燵布団をめくってそれを探すと、確かに目的のものは見つかったのだけれども、真赤の無防備な下半身まで視界に入ってしまう。

 僕は慌ててコントローラーをひったくり、

「まったく、熱いなあ。2くらいの目盛りにあわせればいいかな? それとも1でいいかな?」

 などと意味のない独り言をつぶやきながら顔を上げたのだけれど、真赤はそんなことよりも話の続きをすることに急いていて、すぐにお喋りを再開する。

 熱に浮かされるように話し続ける真赤の目はらんらんと輝いていた。以前誰かが彼女の目つきがおかしいと言っていて、僕ははっきりいってその台詞を下心の見え透いた生臭く大仰で漫画じみた浅ましい世辞だと閉口した記憶があるのだけれど、今になってその意見に同調したくなってきた。

 真赤の目は、その部分だけまるで別の生き物のように輝きが目まぐるしく変化して、彼女の内面性をどろどろと垂れ流している。これは思春期特有の目なのかしらん。人格異常者特有の目なのかしらん。

 面白い目をしているものだなあと、肴もなくなって、いよいよ苦しくなって来た日本酒を無理矢理流し込みながら眺めていると、また彼女の話が飛んだ。

「そういえば、ミズヤグチさん」

 真赤が何気なく世間話を言うような態度を取り繕ってはいるものの、その声の響きには、どこか今までにはなかった雰囲気があった。それが何を意味しているのかはさっぱりわからないけれど、これまでとは違うことを言うつもりなのだろうか?

 僕は内心ではそう思ったが、ここは変化に気づかぬふりをした方がいいのだろうと判断し、鈍い顔を作って彼女の言葉の続きを待った。

「ついこの間、あの鍵の人がまた来たんだ」

 真赤が目をそらしながら言うと、僕は息苦しくなった。

 正直なところ、どんな話題にしろその人物の話を聞きたくはなかったのだ。そして、あんまり詳しく聞いたら滅入ってしまうだけなのはわかっていたのだけれども、しかしそんな態度を見せる訳にもいかない。

「鍵の人って?」

「ほら、あの大学生の、合い鍵の人なんだけど……」

「ああ、なるほど」

「私、あの人から貰ってた鍵をあの人のアパートのポストに入れて来て、それからもう会わないようにしようって電話したんだ。そしたら一昨日、向こうからここにやって来たの」

「ここって、このマンションに?」

「うん。すごく真剣な顔してた」

「そりゃ、それが普通じゃないかな。相手にすれば、ふられたって形になるんでしょ?」

「そうかもしれないけど、でも私はそんなつもりじゃなかったから。……ずっといやだったの。別に好きってわけでもなかったし……」

 そう言って真赤は困ったように顔を顰める。

 具体的に、二人はどういう関係だったのか? わざわざ縁を切らねばならぬほどだということは、そういう関係だったと理解していいのか? そして、その男との間の何がそんなにいやだったのか。そもそも、なぜ知り合ったんだ?

 一つずつ疑問を尋ねてみようかとも思ったが、どうせ僕の想像を裏付けるだけだろうし、その場合ひどく憂鬱になりそうな気がしたので黙っていた。

 そして、酒杯をあおって、不自然に空いてしまった間を埋めてから、こう続けた。

「で、ここに来てどうしたの?」

「うん」

 真赤は僕の葛藤など気づかぬような顔で、こくりと頷いてから、

「そしたらね。あのキッチンから包丁を取って来て、私を殺して自分も死ぬとか言うんだよ」

「えっ」

「こうやって、包丁をこっちに向けて構えて来たの」

 真赤は身振り手振りを交えて説明してみせる。

「あ、そうなんだ。それは、いわゆる修羅場というやつだな」

「そうみたい。それでね、顔を真っ赤にして、とても思い詰めた顔をしてるから、それを見たらすごく可笑しくなって、私うっかり笑っちゃったんだ。相手には悪いと思ったんだけれど」

「そこで笑ったのか! それは酷いな!」

 僕が感情を隠しながら無理矢理笑って見せると、

「うん。だって、こんなメロドラマみたいなことを現実にする人がいるって知らなかったんだもん」

 真赤もクスクスと笑う。彼女は僕と違って自然に笑っているようだ。

「そして、あの人の前で笑いが止まらないでいたらね、なんだか知らないけれどあの人すごく落ち込んで、泣きながらトボトボ帰っちゃった。それで、私は結局刺されなかったみたいなの。へんなの」

 けろりとした顔で、小首をかしげた。

「なるほど、そりゃ命拾いしたね。危ないところだったじゃん」

 僕は内心で、その時の彼女の振る舞いに驚きながらも、そう言った。

「そうだね。でも、気の弱い人だからどっちにしろ出来なかったと思う」

 真赤は笑顔のまま言うと、

「だからもうあの人とは関係がないんだ」

 と言って、僕の顔を見た。

 日本酒がなくなると会食は終わり、二人で食べ終わったものを片付けはじめる。

 金属ボウルに山盛りになった蟹の殻を生ゴミの袋に捨て、ローストビーフやサラダの入っていたプラスチック容器を高島屋の袋に詰め込んで口を縛り、そしてカセットコンロを箱にしまっていると、炬燵の上で真赤の携帯電話が鳴った。

 流しで食器を洗っている彼女に呼びかけてそれを伝えると、足音軽くかけて来て携帯を手に取ったのだが、その液晶画面を見たまま凍り付く。

「どうしたの?」

「……さっき言ってた人が電話かけてきた……」

 真赤は困惑した顔で僕の方を見る。

「あの人、お母さんと知り合いだから、明日私が栃木に帰るのを知ったんだと思う。……どうしよう?」

「出ちゃ駄目だ」

 僕はさっきの話で男に対しての嫌悪感が抑えがたくなっていたので、ほとんど反射的にそう言ってしまった。

 真赤は頷きを返し、そのまま携帯電話を握ってその場に立ち尽くす。僕はその姿を食い入るように見つめている。

 部屋には、キッチンで流しっぱなしのままにしている水の音と、携帯電話の呼び出し音の音が響いていた。そして、長い長い呼び出し音が終わると、今度はメールが相手からのメッセージを着信する。僕は読まないうちにそれを消去するよう言い、それから、相手の電話番号とメールアドレスを拒否するよう指示した。彼女は素直にそれに従った。

 着信拒否設定などしたことがないと言う真赤が試行錯誤しながらその操作を終えると、安堵のため息と共に、ついに今まで躊躇していた部分に踏み込んでしまったのを自覚した。

 そのあと僕らはそろってマンションを出て、竹下通りのマクドナルドでお茶を飲んで心を落ち着けてから、原宿の駅前で別れることとなる。

「あの、ミズヤグチさん……」

 その別れ際、真赤は挙動不審になりながら僕の方を見上げた。

「どうしたの?」

 行き交う人混みを背景に、もじもじとするばかりで何も言い出さない彼女を促すと、漸く口を開いた。

「栃木に帰っても、どうにかして携帯電話を取り戻すから、それが出来たら連絡してもいい?」

 うんと頷きを返すと、彼女は安心したように笑った。


七


 宇見戸が企画したイベントには『Reefer Madness』という名前がつけられている。

 僕は知らなかったのだけれども、ICQで彼が鬱陶しいほどに繰り返し説明してくれた話によると、大麻を題材にしたアメリカの古い映画のタイトルをそのまま拝借したものらしい。

 その映画は大麻の有害性を人々に啓発するためのキャンペーンの一環として制作されたプロパガンダ映画でありながら、大麻の害を極端に誇張し過ぎてしまった結果、現実離れした内容となり、グロテスクで悪趣味なおもしろ可笑しいカルト映画になってしまった作品なのだと言う。そうした、作品の制作経緯に由来する本末転倒な部分と、そこに描かれた若者達の大麻を吸った後の狂乱、退廃ぶりがこのインターネット文化に耽溺する若者を想起させ、彼らが一堂に会して暗闇で踊るというこのイベントにふさわしいと宇見戸は思ったらしい。彼の言葉を借りれば『これ以上に正確な名詞など存在しない』のだそうだ。

『このイベントでですね、ミズヤグチさん、僕らの築きつつあるこの文化は新しいステージに向けて一歩前進するのですよ。人と人の出会いが化学的な変成を促し、エモーションを生み出すのですよ。そういう場所を作ってゆきたいのですよ』

 宇見戸はICQのメッセージウインドウが瞬く間に文字で埋め尽くされるほどの勢いでその情熱を語った。

『でもこれって結局、場所がクラブなだけで、有りようはただの大規模オフ会でしょ?』

 その時僕は揶揄するつもりでそう言ったのだけれども、彼は大真面目に返答をしてくれた。

『いやいや、これは普通のオフ会と違って、暗いところで曲が流れているわけですから、一人で行っても、誰とも喋れなくとも参加出来るんです! これは画期的ですよ! これなら、今までオフ会というものに二の足を踏んでいたような、インターネットに多く存在する、人と接するのが苦手な人達でも気軽に参加出来るんです』

 さて、その『Reefer Madness』である。

 宇見戸は『RM』という略称で普及させたいらしいそのイベントは、彼自身の手によって告知用サイトが作られ、昨年の十二月からインターネット上に公開されていた。

 黒い背景の上にしたたり落ちる血を模した赤いフォントの文字が並び、さらに筋骨隆々の男が半裸で黒いマスクをかぶって鞭を持って立っているイラストが貼り付けられている。みんなに参加してほしいと言いつつ、どうしてこんな不気味なデザインにしたのかよくわからない。おそらく、目的を考えずに自分の趣味を発揮してしまったのだろう。宇見戸には、そういったところがある。

 これで本当に人が集まるのだろうか? 誰も来なくて、会場の利用料が払えなければ、宇見戸も相当な損害を被るのではないだろうか?

 知り合いのサイトで宣伝してもらっているし、参加の確約がとれている人間もそれなりにいるから、赤が出たとしてもそう大げさなものにはならないと彼は言っていたが、どうも僕には信じられない。ネットとクラブはあまり相性がいいようには思えないし、宇見戸は何かにつけ楽観的で、その手法はずさんすぎる。一般参加者が誰もいない会場で、招待客とちびちび酒を飲むことになるのではないだろうか?

 しかし、それはどうやら僕の方が間違っていたようだ。日が近づくにつれて、そのイベントは話題になり、あちこちの日記で取り上げられているのを目にした。宇見戸というのは僕が思っているよりも遣り手だったようだ。

 そして上手い具合に盛り上がったところで、『RM』が開催されるその日が訪れたのである。

 僕は目が覚めた時から気分が悪く、内臓が腐ってしまったような不快感があった。

 昨日真赤のところで日本酒を飲み過ぎたせいだろう。あの程度のアルコールで体調がおかしくなってしまうとは、身体が弱っているのだろうか?

 ああもう、こんな体調で外に出たくない。電車に乗って新宿まで出かけて、なんだよクラブって、薄暗い狭い場所で曲にあわせて踊るだなんて、冷静に考えれば馬鹿みたいな話だ。

 そもそも僕は、仮に音楽グループのライブに行ったとしても、前の方で悪魔に取り憑かれたように激しく首を振っている連中を見て、あいつら恥ずかしくないのかなあと冷淡な気持ちのまま後ろの方で酒を飲んでいるタイプなのである。

 およそ熱く燃え上がることのない性格で、中学生の時に塾の講師に『ツンドラ』などという不快なあだ名をつけられて、気分を害してそのまま塾を辞めたほどだ。

 よく知らぬ人と話すのも苦手だし、大体ネットの人間なんてろくなもんじゃない。それは僕を含め、これまで出会った全ての人間が証明している。

 やっぱり行けませんと宇見戸に連絡してしまおうかしらん?

 迷いながら布団のなかでだらだらしていると、DJとして出演するタミさんが先に部屋を出ていった。そして部屋が静かになってしまうと、どういうわけか気分が翻り、結局行くことになった。我ながら自分の気持ちが理解出来ない。

 新宿駅で降り、歌舞伎町一番街を抜けて、コマ劇場前広場に出て、確かこのあたりが会場だったはずだが、見つからない。入り口の目印でも教えて貰おうと宇見戸に電話をすると、親切なことに迎えに来てくれた。

 会場は僕が迷っていた場所のすぐ近くの、細い裏道を入ったところにある小さなクラブであった。入り口に立てられた看板には『Reefer Madness』と、確かにイベントの名が書かれてある。

 地下の入り口へ向かう下り階段には、今回の参加希望者と思われる人々が開場を待つために並び、その列は路上まで溢れ出ていた。

「すごいじゃないですか」

 驚いて僕が言うと、

「前売りだけで四十枚近く売れてますが、この分だと当日券もかなり出るでしょう。いやあ、この店のキャパは百人くらいですから、来てくれた人が全員入れるといいんですが」

 宇見戸は喜びを隠しきれないようで、笑みがその髭だらけの顔を覆っている。

 階段に腰掛けて並ぶ人々の視線を浴びながら開場前の店内へ足を踏み入れる。すると、入り口のところにはスタッフが立っていて、宇見戸が何か言う。「ミズヤグチさん、手を」

 と言われた通り右手を差し出すと、その女性スタッフはその甲に何やらスタンプを押した。見ると黒いインクで『STAFF』と書いてあるのが読み取れる。何にも手伝いをする予定がないのだけれど、スタッフ扱いされてしまっていいのだろうか?

 若干後ろめたい気持ちで暗い店内を奥に進むと、DJブースの周りで数人の若者が立ち働いていた。

 そのなかにはタミさんの姿も見えるから、あそこに居るのが今日のDJ達なのだろう。とすれば、他の若者たちも日記サイトの管理人に違いない。僕がよく知っているサイトの書き手もいるのだろうが、こうして眺めても、顔を知らないので誰が誰だかわからなかった。

 彼らは従業員らしい人物から機材の説明を受けている。僕はタミさんに声をかけようかとも思ったが、諦めて、壁際の椅子に腰をかけた。店内は、従業員や、宇見戸の協力者らしい人物やらが忙しく動き回っている。僕にはやるべき仕事も話し掛けるべき知り合いも居なかったので、ただ座ったまま無為に開演を待った。

 PAにトラブルがあったらしく、若干時間がおして、開場時間を五分ほど過ぎたところで客入れがはじまった。すると、ドアの外に待機していた人々がホールへ流れ込む。

 開演の際に、宇見戸あたりがマイクで挨拶でもするのかと思ったが、そういったものはなく、客入れがおおかた終わったところで最初のDJがライトに照らされたブースに登場し、音楽を流し始めた。

 すると、ホールの客達は踊りはじめる。目の前の人間の顔つきさえ判別がつかぬような暗闇のなか、赤や青の照明が明滅し、流れる音楽にあわせて若い男女が身体をくねらせるのだ。

 これは僕には到底無理だ。酒を飲んでも無理だ。あいつらは恥ずかしくないのだろかなあと、まるで別の人種のように感じる。

 こういった文化に馴染みがないのは僕だけではないだろうが、見ていると、そのような外見の人間でもまわりに流されて、不器用に踊り始めたりしている。彼らには場の雰囲気に適応していこうという意志を感じる。しかし僕はまるきり逆で、時間が経てば経つほど醒めて、冷静になってしまうのだ。

 この感覚はライブハウスなどに行った時と同じだ。出演しているバンドが好きで、曲なども好みであるけれど、まわりの客が頭を振り乱していたり、もみくちゃになって、明るくて広い場所ならば絶対にしないような動作をしているのを見ると、なにやってるんだこいつらは、と、ひどく冷淡になってしまう。こんなことなら、自分の部屋で体育座りをして目をつむってCDを聴いていた方が良かったと思ってしまう。

 或いは性交の時とも同じだ。相手の女が、なんだか妙に盛り上がって、卑猥な言葉を発したり、おおげさに喘いだりすると、心がさめざめとして、シラけて、何もかもが馬鹿馬鹿しくなってしまう。黙って普通にしていてくれないかなと、思ってしまう。

 こういう場所で、うまくノレない。馴染めない。だからみんなと仲良くなれないのだろうな僕は。しかし、そういう僕だからこそテキストサイトなどをむきになって更新しているのだ。彼らのように、恥ずかしげもなく踊って楽しめるような自意識の形であったならば、僕の場合ははじめからネット日記などという回りくどいものを書いていなかったろう。インターネットに耽溺する理由などなかったろう。

 一口にテキストサイト持ちと言っても色々居るものだ。彼らが文章を書く動機は、僕とはまるきり違うのだろう。全く、実にうまく踊れるじゃないか。ネット日記というものは、うまく踊れない屑が自宅でこっそりと書いて、うまく踊れない屑が自宅でこっそりと読むからこそ、かけがえのない素敵なものとなっているのに、これじゃあ興ざめだ。そんな風に踊れるのなら、もっと明るくて広い世界に行けばいいじゃないか。

 何だろうこの、明確な理由もなく沸き立つ敵意。彼らのような人間こそが、僕の生涯の敵に違いない。一人残らず滅亡してしまえばいいのに。

 そうやって、心中でひたすら呪詛の言葉を投げかけつつ酒を飲んでいると、僕の他にも踊りの輪に入れずにいる人物がいるのに気がついた。それは僕と同じ年頃の青年で、商店街の床屋でカットしたような、毛先がまっすぐ整った黒い短髪に、高校生が制服の上に着るようなダッフルコートを着ている。そして片手にドリンクの入ったグラスを持ち、壁際に佇立して踊る人々を眺めている。

 時々入り口の方からやって来る人と「すみません、通してもらえますか」「あっ、すみません」「ありがとうございます」「あっ、すみません」などというようなやりとりはしているが、雑談をする相手はいないようだ。

 彼もきっと、僕のように、自分の部屋で一人文章を書いている時は自由になれるけれども、こんな場所では戸惑いと嫌悪感ばかりが先に立ってしまう人種に違いない。同好の士を求めてここに来たものの、自意識が邪魔をして踊ることも出来ず、話しかけるべき知人もおらず、孤独感を噛みしめているのだ。時々音楽に合わせて身体を揺すってみたりしてみても、すぐにくじけてやめてしまう。

 ああいう人物は好感が持てる。僕と友達になれそうな奥ゆかしく誠実な人材である。チラチラと向こうを見ていると、相手も時折視線を返し、お互いを意識しているのだが、話しかけるには至らない。何故といってそれは、どうも、教室の仲間はずれ同士がいつの間にか友人関係になるような、みじめな近づき方のような気がするからである。まるで、負け犬同士の傷の嘗めあいのようでみっともない。

 なんとかお互いのプライドが傷つかない接触方法はないかとあれこれ考えていると、

「ミズヤグチさん」

 と、さっきまで忙しそうにしていた筈の宇見戸が僕に話しかけて来た。

「いやあ、なんだかんだで、いいイベントになりましたよ」

 宇見戸は腹が立つほど満面の笑みを浮かべている。

「そうですか?」

「そうですよ。ミズヤグチさんも楽しいでしょう!」

 彼は若い女を連れていて、彼女も僕に挨拶をしてくる。そしてサイト名と、ハンドルネームと思しき名前を口にした。どこかで聞いたことはあるけれど、どんなサイトだったかは思い出せない。

「『電気サーカス』って、私も知ってますよ。あっ、そうだ。これ、今日作って来たんですよ」

 と言って、彼女は手元の紙包みを開いて見せる。

 暗く色彩の偏った照明のため定かではないが、そこには白っぽい破片が重なっていて、甘いバターの匂いが立ち上った。

「クッキー?」

「そうです。でもただのクッキーじゃなくて、デパスクッキーです。デパスの錠剤を砕いて、生地と混ぜて焼いたんですよ」

「馬鹿みたいにたくさんの薬が入ってるんですよ。何シートくらい使ったんだっけ?」

 彼女の斜め後ろにいる、友人らしき女がそう訊ねると、

「どれくらいだろう? 家にあるの全部使っちゃったから、分量的には小麦粉の半分くらいあったかしら。一日中ずっとすり鉢ですってたんですよ!」

 そう言って首をひねった。

 デパスというのは向精神薬の名前だったと思う。僕は飲んだことがないが、その商品名はよく耳にするから有名な薬なのだろう。おそらく不安を取り除いたり、気持ちを穏やかにする薬の筈なのだが、まさかクッキーの材料としての用途があるとは知らなかった。感心していると、彼女はそれを僕にも勧めてくる。

「いかがですか? クッキー自体作るの初めてだったんで、ちょっと固かったり、デパスが細かくなってなくて、塊があったりしますけど。良かったら、食べてみてくださいよ」

「意外とおいしいですよ。甘くて」

 横合いから宇見戸も口を挟む。そりゃクッキーというものは大体甘いものだろうよ。いずれにせよ、そう言われては、僕としても尻込みするわけにはいかない。

「食べるなら、半分くらいにしておいた方が良いですよ。一枚に、何錠分のデパスが入ってることやら」

 友人の女の忠告を聞きながら、僕は一枚取って口にした。

 確かにちょっと固いけれども、言われなければデパスが入っているとは気づかない。普通の手作りクッキーと、あまり変わらないような味わいである。焼きたてということもあってまだほのかに温かく、それなりに旨い。

 それを伝えると彼女は喜んで、友人と共に去ってゆく。そして向こうで、別のサイト管理人達にクッキーを配り始めたようだ。面倒になったのか、ろくに説明もせずに配っているようだが、受け取る方は薬物入りだと理解しているのだろうか? どうもそうではなさそうな気がするのだが。

 口の中に残ったクッキーの欠片をビールで流し込みながら、さっき視線によって控えめに意思を通わせていたダッフルコートの彼を探したけれど、すでにさきほどの場所にはおらず、見えなくなってしまっている。僕が人と喋っているのを見て、人混みのなかへと移動したのだろう。僕に失望したのだろうか。だとしたら、悪いことをしてしまった。彼を裏切ってしまった。

「ミズヤグチさん、見てくださいよ。いろんな人が来てくれてますよ」

 宇見戸は僕の罪悪感にお構いなしに、指をさして彼の顔見知りの名前とサイトを教えてくれる。

「あそこの色っぽい女性が『Paraiso』の彩子さん。その向こうにいる大きな人が、『百ひゃく日にち』の吉田君。それで、むこうで喋ってる輪の真ん中にいるのが『ロンドン』のジャックさんです」

 名前は聞いたことがある。いずれも、それなりに大きなサイトであったはずだ。

「紹介しましょうか?」

 宇見戸は知り合いらしく、そんな風に言う。

「いや、いいです。みんなに囲まれて、楽しそうに談笑してるじゃないですか。邪魔したくないです」

 かぶりを振ると、

「ミズヤグチさんはもっと社交的になった方が良いと思うけどなあ。……あっ、ちょっと呼ばれてるみたいなので行ってきます。最後まで楽しんでいってくださいね!」

 そして宇見戸は向こうで手招きする女二人組の方へ、人混みをかき分けながら歩いてゆく。

 気がつけばホールにはアラベスクの『Hello Mr.Monkey』が流れ、七十年代にタイムスリップしたような雰囲気になっていた。

 これはタミさんの番が来たのかな? 彼がセットリストを作るために、あの花園シャトーで何度も聴かされて、僕の耳にも馴染みのある古いディスコミュージックである。

 背伸びをしてDJブースの方を見ると、案の定ライトの下でタミさんが上機嫌で身体を揺らしていた。あの微笑みからして、今日も相当薬を飲んでいるんだろう。何か話しかけたかったが、若い女達に取り巻かれて楽しそうにしているのを見てしまうと、心が萎えた。

 友人といえども所詮他人だ。やはり僕は暗い自室で誰とも接することなく文章を書くのが似合っている。そうしている限り誇りを持っていられる。何故こんな下らぬ場所へ出てきたのだろう? 気持ちがどんよりとして来て仕方がない。

 気分転換に表の空気でも吸おうと出入り口へ向かうと、壁際のソファーに見覚えのある顔を見つけた。

「あっ、クサノ君」

 うっかり声をかけてしまってから、よせば良かったと後悔をした。彼もまた、自分の友人たちと一緒であった。そして、仲間内の会話が盛り上がっているところに、知らぬとは言え、僕が水を差してしまったらしく、一同が同時に振り向いたのだ。

「ああ、ミズヤグチさんも来てたんですか。お久しぶりです。この間の宇見戸さんのオフ会以来ですよね」

 と彼は愛想笑いで取り繕うものの、さほど親しい間柄でもない僕に急に挨拶をされて迷惑、といった風情が見え隠れする。僕も、普段だったら声をかけなかったろうが、あまりにも寂しくなってしまったが故に挨拶をしてしまったという自覚があるから惨めだ。

「えっと、この人が『電気サーカス』のミズヤグチさん」

 ぎこちない仕草で仲間に僕を紹介してくれるが、彼らは無言のまま小さく頷くだけだ。紹介なんぞされたところで僕のサイト名も、ハンドルネームも、知ってなどいないのだろう。

 彼らは気まずい視線を僕に向けている。クサノはこの場を取りなす気はないようで、無責任な愛想笑いを浮かべて成り行きを見守っている。その態度は、どうも状況を可笑しがっているようにも見受けられる。こいつは案外性格の悪い人間なのかもしれない。

「じゃ、また後で」

 僕は逃げるようにその場を後にした。

 僕の他にも会場を出て階段を上ってゆく者達の姿がちらほらと見受けられる。イベント自体はオールナイトだけれども、交通や明日の都合で最後までつきあえないという人もいるのだろうし、イベント自体があわなかった人もいるのだろう。

 駅へ向かって歩いて行く人々を見ると、僕もこのまま帰ってしまおうかとも思ったが、そうはしなかった。わざわざ招待して貰った義理があるし、それに、まだ何か楽しいことがあるかもしれないと、貧乏根性のような気持ちもある。

 すぐ近くにセブンイレブンがあったので、その出入り口の前に設置された灰皿のところで、身を切るような寒風に首をすくめながら煙草を一服する。酔いと人混みの熱気に火照っていた身体に冷気がしみ入り、ロングピースを一本吸い終わる頃には指先がかじかんでいた。そうして気持ちを切り替えると、再び地下の会場へと戻った。

 相変わらずフロアでは身体を揺らして踊る人々がいて、そして、その周りにはアルコールのグラスを片手に談笑する人々がいて、そして、どこにも混ざれずに一人でいる人々がいる。

 流れる音楽の雰囲気がさっきと違う。タミさんの番が終わって、次のDJがブースに立っていた。あれは誰だろう? きっと、サイトを聞けば知っているのだろうけれども、こうして顔を見てもさっぱりわからない。

 かかっている曲は、四つ打ちの目立つハウスミュージック。僕には曲名がわからないが、どこか聞き覚えがあるような気もするから有名な曲なのだろう。その筋肉質の人物は、カクテルグラスを片手に、笑顔で機材を操作している。

 僕は壁際のスツールに腰を下ろした。さすがに目の前がくらくらとしている。今僕の脳は、アルコールとニコチンに加え、デパスにまで浸されている。人と比べてどうやら僕の精神は薬剤の効きが鈍いらしいという事実を最近知ったところだが、これだけ雑多に投与されれば、さすがに無影響というわけにもいかないらしい。

 外界と内界の間に一枚膜が張ったようだ。目に映るものはめくるめく照明と音楽で騒がしいにもかかわらず、心はひどく静かで穏やかだ。さっきのようなささくれた冷たさとは違う。これを文章に書くとしたら、どう例えたら具合の良い表現になるのだろう? なんというか、そうだな、まるで〝すあま〟みたいなんだ。和菓子屋で売ってる、あのピンク色の、歯ごたえにも味にもおよそ刺激というもののない、もったりとした菓子が、今の僕の精神だ。──この喩えで、どれくらいの人に伝わってくれるだろうか? 大人になってこの菓子のことを人に話すと、そもそも存在を知らなかったり、知っていても旨いとは思わないという感想が返って来る。それを思うと、この表現ではなかなかうまく伝わらないかもしれない。僕はあの抑揚のない味が好きだったのになあ。

 言葉というものは難しい。結局初めから同じものを持っていなければ本当の意味は伝えられないのではないだろうか。とても簡単なことを、とても簡単な言葉で言ったつもりでも、悲しいほどに通じない相手もいる。目の前にいるのに、宇宙の端と端で会話をしているような気分になる。

 とにかく、今の僕は目に映る世界の全てが自分と無関係になってしまって、心にちっとも干渉しないんだ。元々人混みのなかで一人きりになるのは好きな方だったけれど、その普段の感覚とも違う。ああ、これは随分と楽なものだ。けれどもひどく人工的だ。タミさんがよく言う、「向精神薬は馬鹿になる薬だ」というのはこの感覚のことなのかな? 違うかな? 考えながら、手の中のジントニックのグラスをちびちびと飲んで、この浮遊した高度の維持につとめる。

 ホールの向こう側のソファーに、二人の若者が折り重なるようにして横たわっている。あれは、デパスクッキーを貰っていた人たちじゃなかったっけ? 単に酔いつぶれたにしても、眠り方が妙な気がする。薬のせいで昏睡状態になっているんじゃないかしら。知らずにアルコールと向精神薬を併用すれば覿面に効いてしまうからなあ。

 一服盛った犯人であるあの女子大生は、カウンターの方で友人と愉快げに談笑していて、悪びれる様子もない。おもしろいものだ。

 終電も終わり、古い言い方だと丑三つ時に近づくホールは、あまりにも混沌としている。デビルマンの最初の方にこんなシーンがなかったっけ? 可笑しくなって僕は一人にやにやと笑い、うつらうつら過ごした。

 そして穏やかに『RM』は終わりを迎える。音楽が止み、会場を後にする客達は、あるいは興奮に火照った顔で異性と話しながら、あるいはつまらなそうにうつむき加減で、様々だった。

 昏睡して倒れていたやつらも、宇見戸に起こされると目覚めることが出来たらしい。足下がふらふらとおぼつかず、恥ずかしそうに笑っている。二人とも自分が飲まされたものにまだ気がついていない様子だから、酒に酔いすぎたのと勘違いしているのかもしれない。

 参加者たちはこれから家に帰り、PCの電源を入れ、自分のサイトを更新するのだろうか。そうして今日の感想を書くのだろうか。どの有名サイトの誰に会って親しくなったと自分の社交性を誇ってみたり、顔をつきあわせていた時の愛想の良さとはうって変わった冷淡な態度で辛辣な陰口を叩いたり、批評家気取りでコミュニティ論評をしてみたり、あるいはそんな会になど初めから参加しなかったかの如く一言も触れずに普段通りの日常日記を書いたりするのだろう。

 あらかた人が帰った後に、僕は宇見戸とタミさんに挨拶をした。これからスタッフや参加DJたちと一緒にラーメンを食べに行くからどうかと誘われたけれども断った。

 路上に出るとどぶ臭い風が吹いている。嗚呼、新宿は確かに臭い街だ。夜明け前で人通りも少なく、客引きの黒服が足早に道を行く通行人に申し訳ばかりに声をかけている。

 それを横目に歩きながら僕は、イベントの成功に酔って上機嫌になっていた今さっきの宇見戸の顔を思い出す。

 わざわざ今日のために関西から来てくれた人もいたのだと、興奮して僕に語っていた。そしてもう一度このようなイベントを、もっと大きな会場でやりたいとも言っていたっけ。終わったばかりなのに気の早いことだ。何を食ったらあんなに精力的になれるのだろう? 僕など後半は全く誰とも話さず端のほうでぼんやりしてるだけで、へとへとになっているというのに。

 しかし、これからはテキストサイト界の住人達も、ネット上だけでなく現実の世界でも会って、交流を深めてゆくのだろうか? いや、それは今更か。ネット黎明期、まだパソコン通信だとか呼ばれていた時代からそうだったし、そもそも僕の人間関係だって、既にネットと現実の違いがなくなりつつあるのを感じている。

 それにしても、今日ホールで楽しそうに談笑していた人たちは、一体どれくらいお互いの名前や素性を教え合っていたんだろう? サイトにきわどいことを書いているようなやつは、あまり素性を知られたくないだろうな。僕だってそうだ。なるべく日記のなかでは固有名詞は伏せている。そうでなければ、自由に書くのは難しいもの。

 ある種のテキストサイト管理人達は、こういう場所に来ても、本当の名前や素性を隠し、自分で作ったハンドルネームやウェブサイトを名刺代わりに社交するのだろう。一種の仮面舞踏会だ。さっき僕は踊っている人たちを非難してしまったが、彼らも仮面をつけているから踊れたのかもしれない。

 外から見れば、こういったコミュニティはさぞかし気色が悪いものだろうし、なかにいる僕からしても可笑しい。けれど、そんな場所にしか居場所がない人間だっているのだし、もちろん僕が例外だと言うつもりはない。

 あれだけ薬物を摂取したわりには、僕の足取りはしっかりとしている。ホールの片隅で座っているうちにほとんど抜けてしまったのかもしれない。なんだ、デパスなんて有名な薬だけれど大したことはないな。

 電車を乗り継いで、自分の街へ帰って来た。駅を降りるともう空が白んでいる。濁った頭でいつもの上ったり下ったりする長い道を行きつつ、携帯電話を確認した。やはり真赤からのメールは来ていない。携帯電話を取り上げられてしまったのだ。彼女は今頃栃木の実家で眠っているのだろうか。

 白い息を吐きながら最後の長い坂を上り、花園シャトーに到着する。ドアの前でポケットを叩いて鍵を捜していると、隣の部屋から騒ぎ声が聞こえた。

 そう言えば、昨夜に逆野がサークル関係の人々を招いて新年のパーティを行うと言っていたっけ。

 彼らの楽しそうな声を聞きながら、僕は鍵を開け、誰もいない部屋に足を踏み入れた。


八


 タミさんが分けてくれる向精神薬の錠剤を飲んでいるうちに、次第に薬が好きになって来た。となれば、やはり僕も自分で病院から調達する段階に達したということだろう。

 病院に行って、適当な病状を騙って、大量に薬を手に入れて、いつでも好きなときに思う存分薬物濫用をするのだ。そうして僕は、ネットに蔓延する薬物濫用ブームに乗って、最先端のネット日記書きとなるのだ。

 という訳で僕は、タミさんにお勧めの心療内科医を聞いて、バイトが休みの日にさっそくやって来たのだった。

 ビルの三階まで階段を上りドアを開けると、アイボリーの柔らかい色の壁紙に、渋い色合いの材木で出来たカウンターなどがしつらえられた、落ち着いた雰囲気の受付が僕を出迎える。足を踏み入れるとゆったりとしたインストゥルメンタルなどがかかっていて、なるほど確かに精神を病んだ患者を出迎える病院らしい雰囲気だった。

 僕は普段からあまり病院を使わない人間で、子供の時に風邪で何度か小児科に連れて行かれた以外は見舞いでしか訪れたことがない。さらに、精神を扱う病院となれば、これが初めてである。しかも、今日の僕は治療のためでもなく、レクリエーショナルに濫用すための薬をちょろまかそうという、後ろめたい目的で来たのである。人から『世の中をなめている』と罵倒されがちな僕でも、少なからず緊張をしていた。

 そもそも、僕は、決して育ちが良いわけでもないし、道徳心が特別強いわけでもないが、重大な反社会的行為というものは行ったことがない。そりゃ子供の時にいたずらくらいはしたけれど、しかし、たとえば万引きをしたり、自転車を盗んだり、シンナーやライターのガスを吸ったりというような、非行少年がやるようなことは一度もしたことがなかった。なんだかそういうのは、ただ親や教師に逆らうのだけが目的のように思え、みっともなく、格好の悪い行為に思えたのである。

 そんな僕にとって、詐称でもって医者を欺いて薬物を手に入れるというのは、人生史上なかなかに悪辣な行為と言えよう。

 以前だったらそんなことはするべきではないと思ったかもしれぬ。しかし、今の僕は一家も離散し、学校も辞め、将来のあてもないその日暮らしの落伍者である。この先は過酷な人生が待ち受けているのだろうし、こうしたアウトロー的な行為に慣れてゆくのも必要なのではないだろうか? もっと人間としてタフになって行く必要があるのではないだろうか? それに、自分にもそうした行為を遂行する能力があるのかどうかという点にも興味がある。

「あの、診察を受けたいんですが」

 受付に座っている中年女に向かい、すっかり固くなってしまった声でそう言うと、

「初診ですか?」

 愛想の悪い中年女は、眼鏡越しの上目遣いで僕を見ながらそう言った。

「はいそうです」

 寒いところから温かいところへ入ったせいで流れ出る鼻水をすすりながら僕はそう返事をする。

「保険証をお持ちですか?」

 財布のなかに妙なしまい方をしたせいで、折り目のついてしまった保険証を取り出すと、カウンターの上に置く。

 女はやせ細った手を伸ばしてそれを受け取ると、かわりに問診票の挟まれたクリップボードとボールペンをカウンターに置き、空欄を埋めるよう言う。

「そこの長椅子を使ってください」

 その場で書き始めようとする僕に、その女はぴしゃりと言った。

 どうにもその無愛想が気になる。こういう病院で、こういう態度をとっていいものなのだろうか。せっかくインテリアなどを凝っているのに、こんな女を雇ったら意味がなさそうだ。でも、そういった施設としてのいい加減さが、僕らのような薬物濫用者には好都合で、タミさんが勧めてくれた理由なのかもしれない。

 そんなことを考えつつ、オレンジ色の長椅子に腰を下ろし、問診票への記入をはじめた。指名、住所、連絡先、そして大病の経験やらアレルギーやらの型どおりの質問を、我ながら厭になるような汚い手書き文字で埋めた。そして、一番下の『受診の理由をお聞かせください』の項目でそこには「気持ちがやたらと落ち込む」「理由もなくイライラとする」「夜に眠れない」と記入したのである。

 これは、来る前にあらかじめ決めておいた回答であった。

 今日の僕の目当てはベンゾジアゼピン系の薬である。それを得るためには鬱病や、不眠症などといった診断を引き出すのが手っ取り早いのだそうだ。不眠というのは、僕にも多少はケがあるので、嘘をつくにしてもやりやすい。

 そうして完成させた問診票を手渡すと、女はそのままソファに座って呼び出しを待つように言う。このまま診察となるのだろうか? 鬱病を疑われるような症状を書いた場合、詳細な診断テストを受けさせられることもあるという話を聞いていたので、それらしく答えられるようDSM-ⅣやらICD10やらについて簡単に予習をして来たのだけれど、その必要はなかったのかもしれない。

 持参した文庫本を読みながら待っていると、廊下の向こうのドアが開いて女が出て来た。

 ウェーブのかかった黒く長い海草のような髪の毛で顔の左右を覆っているので年齢はわからないが、今身につけているような、ピンク色のかわいらしいニットが似合う年でもないだろう。彼女は長椅子の、僕が座っているのと反対側の端に腰掛け、処方箋を待つ。うつむいたまま微動だにしない。この人は何の病気かなあと、不躾に見ていたら、ドアの向こうから男性の声で僕の名が呼ばれた。

 診察室に居たのは短く髭を生やした小太りの男で、白衣の下に黄色いシャツなどを着て、柄物のネクタイをしめた医者というよりも予備校で英語の教師でもやっていた方が似合いそうな、どこか軽薄な感じのする人物だった。机に片肘を突きながら、僕が先ほど記入した嘘の問診票に目を通している。

「他の病院で受診されたことはないんですか?」

「はい、ここが初めてです」

「不眠、と書いてありますけれど、全く眠れない日もあったりしますか?」

「そういう日もあります。そうでなくても普段から寝付きが悪くて、布団のなかで何時間もうだうだしていて、明け方にやっと眠るような感じです」

 と答えたが、これも嘘であった。眠れなかったのは少年時代や、最近では遅番と早番が入りまじって昼夜逆転を強いられた日くらいのもので、実際にはぐっすり眠れている。

「なるほど」

 もくろみが露見しないか内心緊張している僕の目の前で医者はうんと頷くと、机の上にあった小冊子を手に取り、それをめくりながらメモ用紙に何か文字を書いている。

「気持ちが落ち込むというのは?」

「なんだか身体が重くなって、何もやる気が出なくなるんです」

「なるほど」

 その後も医者は僕に質問をしながら、僕の方などほとんど見ることもなく、ひたすら手元の小冊子をめくり、メモを書き足してゆくのだ。一体何をそんなに熱心に見ているのかと目をこらしていると、彼がページをめくった瞬間に、誌面に錠剤の写真が掲載されているのが見えてしまった。

 あっ、もしかしてこの医者、カンニングしながら診察しているのか? どうも、辞書を引くようにして、僕が答えた症状で薬を検索しているようじゃないか。診察の言葉も形式的すぎるような気がする。態度もどこかぎこちない。少なくとも、経験が浅いのは確かなようだ。

 こんな人間が開業して、世の悩める人々の治療をしているのか。ひどい話だけれども、今日の僕にとっては幸運な巡り合わせと言えるだろう。相手の顔もろくに見ないような医師ならば、何を言ったって露見しやしない。なるほどタミさんも「あそこなら簡単に薬をくれる」と言うわけだ。

 それ以降気が楽になって、事前に考えていたよりも大げさに症状を膨らませて受け答えをしていると、五分ほどで診察は終わった。

「じゃあ、寝付きを良くする薬と、眠りを深くする薬と、気持ちを持ち上げる薬を出しますので、受付で処方箋を受け取って帰ってください。今日はお疲れさまでした。お大事に」

 そうして僕は再び受け付けで待たされた。そこでは、診察を受ける前とは別の緊張で、そわそわしてしまう。

 向精神薬濫用者にとって、処方箋というのはいわば通知表である。自分の望みの薬を望みの分量得るために、いかに適切に医者を誘導できたか、その結果がそこに明らかにされるのだ。

 もし、レクリエーションには向かないつまらぬ効果の薬ばかりをずらずらと並べられたならば、手間も診察料も無駄になってしまう。我々が常に欲しているのは飲めば気持ちのふわふわとする抗不安剤のたぐいで、それ以外の、たとえば三環系抗うつ剤などはいらないのである。

 さて、今回はどういう薬が並ぶのか。初めて手にする処方箋であるし、全部が当たりであることまでは望まないが、一つ二つは使える薬があって欲しい。

「水屋口さん」

 そわそわして待っていると、受付の女が僕の名前を呼んだ。

 近くの調剤薬局の場所などについてくどくどと説明する女の言葉をほとんど聞かず、ひったくるようにして処方箋を手に取ると、明朝体で印刷された薬品の名前を一つずつ確認した。すると、まさに欲しかった薬が二つ、処方されている。

 まず、ハルシオン0・125mg。

 金色のアルミ包装をされていることから『金ハル』と通称されている薬品だ。イギリスでこれを服用した患者が殺人事件を起こしたなどと、悪名としての知名度ばかりが異様に高い薬である。一般的に知られているのはこの倍量の0・25mgの方で、銀色の包装と錠剤の鮮やかな青色が有名な通称『銀ハル』であるけれど、成分は変わらない。

 そしてもう一つ。その下にサイレースと書いてあるのは、確かロヒプノールのゾロだっけ? 厳密には違ったのだっけ。同じ成分なのは確かだとは思うが、まあいい。とにかくこれは知名度はハルシオンほどではないけれど、それと同じような効果がハルシオンより長く続く、タミさん一押しの薬である。

 他に二種類ほど処方されているが、そちらの名前は聞いたことがない。家に帰ってから調べなくては。いずれにしろ、四種のうち二つが当たりなら、及第点だ。

 早速クリニックを出て、近くの調剤薬局に薬を出して貰いに行くと、おりしも風邪の流行る季節である。入ってすぐのスペースに用意された長椅子一杯に、マスクをした病人たちが腰掛けていた。

 彼らは弱った身体で抗生物質やら解熱剤やらを受け取るために順番を待っているシリアスな人たちだ。一方僕は至って健康で、自分の娯楽のために使う向精神薬を受け取るためにここに来たふざけた人間である。しかし僕は臆面もなく受付に処方箋を渡し、彼らに混じって自分の薬を待った。

 さすがに混雑しているだけあって、随分と待たされる。持参した文庫本の短編を一つ最初から最後まで読み終わったところでやっと名前が呼ばれた。

「水屋口悟さんで間違いないですね?」

 頷くと、若い女の薬剤師は錠剤のシートを並べながら、服用方法の説明をする。

 内心でどう思ってるのか知らないが、さすがプロだけあって、風邪薬の患者に対する態度と変わらない。

「これは辛くなった時に頓服してください」「これは眠る前に」「グレープフルーツジュースは飲まないように」

 というような言葉を上の空で聞き流し、僕は生まれて初めて自分の名前で処方された向精神薬を受け取ったのである。二週間分の錠剤と、それらの薬の効果や飲み方などが画像付きでプリントされた紙が二枚、白いビニール袋に入れて渡され、僕はそれを充実した気持ちでバッグに仕舞う。

 さあこれで今日の仕事は終わりだ。部屋で酒でも飲みながら早速この錠剤を試してみよう。あっ、その前に食事をした方がいいだろうか? せっかく駅まで来たのだし、飲食店がそこらじゅうにある。

 何を食おうか? ケンタッキーフライドチキン、ミスタードーナツ、ファストフードで済ませるべきだろうな。今日はさほどの金は使えない。診察料と薬代で、財布のなかは大分軽くなっている。健康保険が適用されているから大した額ではなかったけれど、何しろ僕は時給千円にも満たぬフリーターなのである。

 もっとも、これだけの出費でもクラブやネットで怪しい連中が売りさばく金ハルやサイレースのぼったくり相場を考えればそう割りの悪いものではない。

 確か、銀ハルが一錠五百円程度で売られていたんじゃなかったろうか? 金ハルがその半分の値段だったとしても二百五十円。二週間分の十四錠が処方されたから三千五百円の市場価格となるわけで、これだけで既に今日の支払いをペイしている。しかも、その上にサイレースまでついてくるのだ。

 手間はかかったけれども、実に良い買い物をした。安価に、大量に、そして何より正規の手続きでもって薬を手に入れることが出来たのだ。盛り場などで雰囲気にのせられて高く買うやつらはまったく愚かだ。初めての僕なのに、こんなに手際よく入手してしまえるのだから。

 さらに今後通院を重ねれば、処方箋はもっと無駄がなく豊かなものになってゆくだろう。そして、確か、公費負担の割合を増やして、さらに価格を引き下げてもらえる制度もあったはずだ。いずれはそれを利用して、ほとんどタダみたいな値段で薬を手に入れられるようにしよう。最終目標はそれだ。そうした制度を使うと、何か制限がつくのだっけ? どうだったかな。まあいいや、どうせもうまっとうな道を歩むことはない。

 まったく、僕は実に聡明で抜け目のないことだ。いや、こんなものは屑の所業だというのは自覚しているが、しかし屑の世界にも勝者と敗者はいるわけで、今回に関しては紛れもなく僕は勝ち組であった。

 僕は帰り道を歩きながら、自分の人生を思い返し、反芻する。少年時代から、自分がまともな人間になれるだなんて一度も信じたことはなかった。もとより想像していた通りの人生と言っていい。まったく、思い出してみれば本当に、希望というものを持ったためしがなかった。それが人並みに生きていたほうがおかしかったのだ。

 人間は結局ふさわしいところに落ち着くのだろう。

 曇り空からちらちらと舞い落ちているのは、綿埃のような雪だった。このままじゃ僕は路上で凍えてしまう。

 もう食欲はない。一刻も早く家に帰って、アルコールで、向精神薬で、脳のなかの全てを誤魔化しましょう。そうしましょう。


九


 湿っぽい万年床の上に、昨日帰ってきた時のロングコート姿のまま、ごろり仰向けに横たわっている。天井があまりにも小さくて、改めて自分が寝起きするこの部屋の狭さを知る。

 嗚呼、白い壁が圧迫感をもって僕を取り囲んでいやがるなあ。そして窓の磨り硝子には、どの季節でもどの時間でも代わり映えしない表情のない灰色の明かりが灯っている。全く殺伐とした部屋だ。

 万年床の足側の、開きっぱなしの押入の、上の段には衣服が畳みもせずに積み重ねられ、下の段には自作のデスクトップパソコン。枕元にはダイニングの本棚に入りきらなかった本が積み上がり、その右側の部屋の隅には姿見の鏡が立てられて、顔が映る部分だけ、埃が拭い取られている。逆の隅には安物のCDラジカセが転がり、THE HIGH-LOWSのアルバムが入れっぱなしだった。壁際には学生時代に買ったローボードが置かれ、その上には同じく当時使っていたエアコンが、工事を頼むのが面倒で設置しないまま、ホースを固定する白いテープで幾重にも巻かれた姿で転がっている。

 その他、雑誌だのバッグだの雑多なものが床に敷き詰められており、僕はしばらくフローリングを見ていない。そして、こんなに狭く、密閉されているにも拘わらず、ひどく寒いのである。息を吐くと室内なのに白く曇った。いやになるほど僕らしい部屋である。

 気持ちが冴えないので意識を落とそうと思った僕は、近くのスーパーで購入したズブロッカで、サイレースとハルシオンを二錠ずつ飲んでいる。本来なら眠くなってくれてもいいのだけれど、世界はちっとも閉じてくれなくて、虚しい気持ちでじっと天井を見つめるほかなかった。

 すると、廊下を歩くタミさんの足音が聞こえて来る。床を蹴るような乱暴な音だ。これは、彼がラリっている時の足音だと僕は知っている。

 彼は二十四時間常になにかしらの薬を飲んでいるのだけれど、一際深い酩酊にあるときはこんな風に歩く。今日は出かけていたんじゃなかったのかな? それとも部屋でずっと寝ていたのかもしれない。タミさんは一度眠りにつくと、そのまま丸一日起きて来ないこともある。羨ましいことだ。

 彼はそのままトイレに入り、排尿し、そして部屋へ戻っていった。家のなかはあまりにも静かで、僕の部屋はトイレの目の前だから、すべてがあまりにも明瞭に聞こえてしまう。思えばここにはプライバシーというものが存在しないが、案外僕らはそれを気にしないものだな。ここに来るまで僕は自分のことをもうちょっと神経質な人間だと思っていた。

 それにしても、何にもしたくない。指一本動かしたくない。そろそろアルバイトもやめ時のような気がする。慣れた職場につらいことは何一つないけれど、毎日毎日同じことの繰り返しで、最近退屈を感じ始めている。それに、金をほとんど遣わない僕は、少し貯金が出来て来て、それも労働意欲を奪っている。

 このアパートは良くないな。皆で光熱費やら家賃やらを折半しているため、あまりにも安く暮らしてゆける。さらに、このシェアルーム生活がはじまった当初から入居が予定されており、物件探しにも立ちあったT川君がそろそろ入居するらしいから、もっと安くなる。お互い気を遣わないし、暇があれば気楽に会話やゲームなどをして時間をつぶせるし、何もかもがあまりにもだらけきっている。だから一層怠惰になる。

 嗚呼、やめたやめた。考えることさえ面倒くさくなっちゃった。何にもやる気がおきやしない。これはどうしたことだろう? 本当に鬱病になったのかな。まさかそんな筈もないが、いくら探しても自分のなかに情動というものが見あたらず、どこまで行っても空っぽなのだ。

 そういえば、最近はサイトの更新も滞っているような気がする。別段意識して停止させているわけでもないし、物を考えないわけでもない。ただ、書くことをすっかり忘れていた。

 このところの僕は精神だけ過去にタイムスリップしたようで、寝ても覚めても子供の頃のことを思い出す。僕は元々トラウマの多い人間だけれど、家を出てからは、ずっと思い返すこともなかったのに。真赤のことを考えているからだろうか?

 ──もっとも、真赤はきっかけではあったにしろ、これは必然的でもあるのだろう。僕は少年時代の様々な問題を、解決したつもりでいても、結局何も解決してなかったんだ。全てを忘却に任せて逃げようとしていただけなのだ。どんなに遠くまで来たって、どんなに昔と違う生活をしたって、脳の中身に蓄積したものは捨てられるはずもない。だからこんなに思い出す。

 今日は雨が降っているようだ。この隔絶された部屋にいると外の世界の情報はほとんど入って来ないが、雨音はかすかに聞くことが出来る。そして、僕の一番古い記憶のなかでも、冷たい雨が降っていた。

 ──あれはいくつくらいだろう? まだ三歳やそこら。下手すればそれより前かもしれない。とにかく、その脳裏に浮かぶイメージの、地面がやけに近いのは、僕がそれだけ小さかったということだ。国道沿いの歩道を小走りする僕の目の前を父が歩いている。

 僕はその背中に呼びかけるけれども、父は気がつかない。どんどん離れてゆく。

 こんなに雨が降って、こんなに寒いのを、父に知って欲しかったけれど、彼は振り返らない。家のドアをあけてなかへ入ってゆく。その頃僕の一家は祖父の家の隣にある倉庫の二階に住んでいた。ドアを開けるとすぐ上り階段になっている。父はそれを上ってゆく。

 幼い僕には階段の一段一段が、手を使わないとあがれないほどに高かった。遠ざかってゆく背中を、このまま行かせてはいけないと、僕は慌てて駆け出した。すると、ドアの前の段差に足ふき代わりに敷いてあった新聞紙で足を滑らして、あっと思った瞬間には、段差の角が迫っている。

 そのまま僕は角に頭をぶつけ、意識が飛んだ。雨の中で失神していたらしく、頭から血を流して倒れているのを通りかかった叔父が見つけた時は、死んでいると思ったらしい。事実、彼が通りかかるのが遅ければ僕は死んでいただろう。

 母もその怪我の件は覚えていたけれど、僕が「お父さんを追いかけていったのに、振り返ってくれなかった」と言った時は、そんな筈はないと信じてくれなかった。確かに、幼い頃の記憶であるし、僕の父への普段からの印象もあるから公平性も欠くかもしれない。それに、冷静に考えてみれば、いくら彼だって、すぐ後ろで幼い我が子が何度も呼びかけ、盛大に転倒したら、気づかぬ筈も、見て見ぬふりをする筈もないとは思う。だから、母の言う通り事実ではないのかもしれない。しかし、僕の記憶では確かにそうなっているし、その雨粒の肌触りさえ、いまこの自分の皮膚の上に鮮明に蘇らせることが出来るのだ。

 それは別に、嫌な思い出でも、苦痛を伴う思い出でもない。それは夜祭りで見たきらびやかな輝きと同じように、重要な精神の一部だった。こうして白い雨の音を聞き、あの光景が脳裏に思い浮かぶと、それはどこか懐かしく落ち着くような気がする。もちろん、今思うと父親の無責任が不快にもなるのだが、しかし回想すればどうしても懐かしさがそこにある。

 こういう精神のメカニズムというのは、特別なものではないのだろう。

 どんなものだって、人生のごく最初の時期に接したというだけで、無条件で愛に似た執着心が含まれてしまう。そしてその人の一部になってしまう。あとでどのようにそれを憎もうともだ。僕の父親も言っていたらしい。自分が殴られて育ったから、大人になったら自分の子供には暴力をふるいたくないと。しかし、結果として彼はそれが出来ず、僕はいつもひどく殴られた。だから、いずれ僕もそうなるのだろう。

 僕が思うに、親が子供を虐げるという行為の最も良くないところ、そして悲しいところは、何かを憎みながら同時に愛着するという、この壊れた感情を幼い出来たての精神に植え付けてしまうことだ。何が好きで何が嫌いなのかもさっぱりわからなくなり、自己嫌悪と自己愛の区別も付かない。

 僕だって、ギリシャ神話の登場人物みたいに放縦に、その瞬間に嫌いなものは全面的に憎みたいし、好きなものは全面的に肯定してみたかった。僕の場合、それらはいつだってごっちゃになっていて、何を見たって、愛しているのか憎んでいるのか、訳がわからない。自分の感情を規定することが出来ない。ただ、奥の方に黒いなにかが渦巻いている。

 真赤のことを考えようとすると、あるいは、彼女と接し、話をきいていると、僕はいつもその黒いものを思い出す。そして昔のことを思い出す。思い出したくもないのに。思春期までの全ての記憶を消したら、僕は真人間としてやり直せるのだろうか?

 ありえないことを願うほど愚かで無為なことはない。結局のところ、ブルドーザーのように生きてゆく他ないのだ。車体の前方につけられた巨大な鉄の爪で、どんな荒れ地も踏み越える頑丈なキャタピラで、力強くずんずんと前進する。何の役にも立たぬがらくたどもが、複雑に入り組み、うずたかく積み上がり、道をふさいでいようとも、速度を落とすことなく一方的に押し運び、通った場所を平野に変えてしまう。そうやって生きてゆくしかないのだ。

 そんなことを考えていると、携帯電話がライトをぴかぴかと光らせて着信を知らせた。手に取りモニターに表示された名前を見て、思わず声を上げる。

『もしもし……』

 受話器から流れ出したのは、久方ぶりに聞く真赤の声であった。


 タミさんは笑みを口元に浮かべつつ、膝の上のノートパソコンの画面を眺めている。声を出さずにニヤニヤと、悪い表情をしている。人を陥れるのが愉快でたまらぬといった顔じゃあないか。しかし、おそらく僕も同じような笑みを浮かべているのだろうと思うとあまり悪くも言えぬ。

 花園シャトー107号室は今日も冷え込んでいた。僕とタミさんはいつも通り、石油ファンヒーターの前で膝をくっつけるようにして毛布にくるまっている。夜が更けて、あちこちの物陰には闇がわだかまっている。

 僕たちは先ほどから宇見戸をからかって遊んでいた。特別彼に恨みがあるわけでもないし、何かされたわけでもないのだけれど、たまたま僕たちが暇をもてあましているときに、彼がうかうかとICQにサインインをしたのがいけない。

 宇見戸がタミさんに送ったものに僕が返事をする。またその反対に、僕に送ったものにタミさんが返事をする。

 これがどんなからかいになっているのかというと、たとえば宇見戸がこの間の『RM』の礼などをタミさん宛に送信したとしよう。すると、まずタミさんがそのメッセージの内容を目の前にいる僕に伝える。

「おい、宇見戸が、ありがとうって言ってるぜ」

 それを聞いた僕は、自分のICQから宇見戸に、

『え、僕はDJなんかしてませんよ?』

 と送るのだ。

 すると、僕とタミさんが一緒に住んでいることを知らない彼は、てっきり自分が送信間違いをしたのだと勘違いして、

『すみません! タタミザワさんに送ったつもりなんですが、どうしてこんなことになったのか……。ログはちゃんとなってるのに、おかしいなあ……』

 などと、あたふたとした様子で謝ってくるのである。

 これを繰り返していると、宇見戸はすっかり混乱し、しまいには自分自身の正気を疑い始めてわけのわからない言葉を吐き出したので、僕らはそれを見て笑っていた。

 そうして、自分たちより年長の、この宇見戸の人間性を楽しんでいたのだけれど、やがて彼はへとへとに疲れて返事をしなくなり、僕たちも飽きたので真相を打ち明けた。すると宇見戸は『人間不信になりそうです』とメッセージを残してサインアウトしてしまう。

 彼がいなくなってしまうと、僕たちは本格的にやることがなくなった。しかしまだ夜は長い。タミさんは向精神薬の錠剤を追加して、僕はフォアローゼズの瓶を部屋から取って来る。

 時々石油臭い風をはき出して停止するファンヒーターの電源をその都度入れ直しながら、僕らはこの花園シャトーに来てから僕たちの間で起こった変化について、あれこれと話した。

「最初のころはさ、こんなふうに、退廃しきってただダラダラと暮らすつもりではなくて、もっと、何か作ろうとか、やっていこうとかって気分があったんじゃない?」

 と、タミさんは言う。

「音楽が作れる人間も、文章が書ける人間も、プログラムが作れる人間もいるって、そんな話をしてた気がするよ。みんなで集まって、何か生まれるんじゃないかという期待もあったんじゃないかなあ」

 確かに彼の言う通りだったかもしれない。

 具体的にどんなものを作るかを話したこともないし、そういう企画を立てたこともないけれど、空気のなかに期待感のようなものは存在していた。しかし、それは期待だけで終わり、結局無為に日々を過ごすようになってしまっている。

「でも、それっておれたちだけじゃない? U君たちはまだ頑張ってるじゃん」

 と僕は言った。

 隣室のU君と逆野はサークルで自作の音楽をCDなどにして販売している。そして、その関係の友人などをしょっちゅう部屋に招いてもいる。それは今でもかわらない。

「確かに。意欲がなくなったのは、こちらの107号室だけか」

 と、タミさんは苦笑する。

 まったく、僕らは本当に意欲がなくなってしまった。毎日、アルコール、ニコチン、向精神薬などで平常心を喪失し、怪しげなネットの人々と交際し、世の中の全てを見下しながらヘラヘラと遊び暮らしている。

 スタートは同じだったはずなのに、どうしてこのような差が付いてしまったのだろう? 生い立ちが違うのだろうか。血液型が違うのだろうか。それとも、食べるものが違うのだろうか。僕はあまり食べないからなあ。活力というものに自信がない。

 まあ、ただ怠惰なだけならいいんだ。本当のことを言うと、最近僕はアマチュアの創作などという地道で成果のない活動を、みっともないものとしてどことなく見下すようになってしまっている。U君や逆野の精力的な行動を、凄いものだと尊敬はするけれども、一方で、素人のお遊びのようなものを、よくむきになって頑張れるものだなあと、必死だなあと、その真面目さをせせら笑う気分が、ないでもない。

「こりゃあいかんよ。完全に屑だよ」

 僕は笑った。

「ちょっと、何もかも馬鹿にしすぎている。なめている。これは末期的だ。でも、最近わかって来たんだ。きっと、おれらみたいな人間の一生ってこういうことの繰り返しなんだろうよ。生産性もなく時間を食いつぶすだけ。そして自分も他人も、何もかもを軽蔑して嘲笑する」

「そうかもしれない。おれも、どんどん悪くなってる気はするなあ」

 タミさんは真顔で頷いた。

「おれ、子供の時は自分は何でも出来ると思ってたんだよ。でも高校くらいになると、自分は何も特別な才能がない普通の人間だって気がついた。そして今は、普通の人間になることも出来ないって思いはじめている」

「ひどいこと言ってるな」

 僕は笑ってから、

「でも、おれもさ、最近あらゆることに対してやる気が出ないんだ。仕事どころか、遊びに行く気にもなれない。楽しいこともちっともない。この間、苦し紛れに昔好きだった音楽を聴いてみたんだけどね、心が石ころになったように何も感じないんだ。アルコールやらで酩酊しているときだけ、人間らしく呼吸が出来ているような気がする。『普通の人間』にはほど遠いよ。どうしたらもっと世界に愛を持って生きてゆけるのだろうね?」

「あっ、それは鬱病だな。ミズヤグチさんも病んじゃったんだ。ちゃんと病院で相談しよう」

「病院なら行ってる」

「そうだったね。でも、ちゃんと治療を受けたらいいんじゃないか? そうして、健康な精神を手に入れなきゃ」

 タミさんは茶化すように言う。

「あんな、カンペ見ながら診察する医者に何を治療させようっていうのさ」

 僕の言葉はタミさんのツボをついたらしく、彼の笑いが止まらなくなる。

 テレビをつけると夜のニュース番組をやっていた。株価が下がっただの、アメリカでブッシュの息子が大統領になっただの、世間的には重大なのだろうけれど、社会の底辺で暮らす僕にはまるきり身近に感じられない事柄ばかりだ。

 それらの後に、大阪で若い母親が幼い我が子を虐待死させたというニュースが流れた。子供を監禁し、殴る蹴るの暴行を加えた末に死なせたとのこと。それを見ると、僕は自分でも意外なほどに落ち込んだ。

 黙っていると、タミさんも神妙な面持ちでテレビ画面を見つめている。

「こういうニュースきついね」

 と言うと、彼は「うん」と頷いた。僕らは真赤のことを思い出していた。

 僕の電話にかけてきた彼女の話によると、今彼女は栃木の自室に軟禁させられるようなかたちで受験勉強をさせられているらしい。家庭教師が一人雇われ、それに教わっているのだそうだ。

 見知らぬ男が部屋に入って来るのが不本意だった彼女は、はじめはヒステリックに拒否をしていたが、没収されていた携帯電話の返還と引き替えに従うことにしたのだという。そうして無事携帯電話を取り戻し、まっさきに電話をかけた相手が、僕だったらしい。

 その時聞いた彼女の声は、家族に聞かれぬように抑えた、ひそひそ声ではあったけれど、その浮かれた様子は感じ取れ、それが僕と話すためだと思うと、さすがに可愛い。


 テレビ画面が何も映さなくなり、僕とタミさんが解散してそれぞれの部屋に戻ってしばらくすると、僕の携帯電話は真赤からの着信を知らせた。

 久しぶりに連絡がとれたあの日以来、ほぼ毎日のように彼女は電話をかけて来る。それは夜遅くなって、僕がバイトから帰って来るのを狙い澄ましたかのように着信するのだ。今では僕もそれを心待ちにするようになっている。

 僕の部屋だと携帯電話の電波状況が若干悪いので、窓のある空き部屋に移動する。浪人生のT川君が入居を予定しているその六畳の和室にはまだ照明を取り付けておらず、引き戸を閉めると一瞬真っ暗になる。真赤と会話をしながらその場で目が慣れるのを待つと、部屋の風景が暗闇のなかに浮かび上がり、窓から差し込む月明かりが、サッシの枠の影を畳の上に映しだしているのが見えた。

 真赤はいつもどおり、自室のベッドで毛布に潜り込んだままこちらに電話をかけているらしい。

『わかる?』

「うん。時々、布団が携帯電話に擦れるごそごそとした音が聞こえる」

『そうだよ。いまパジャマで横になってるんだ』

 そして耳元でいたずらっぽく笑う声がきこえた。

 毎日のように通話をしていたけれど、話題が途切れることはなかった。その内容は、ごくありふれた日常の雑談から、彼女や僕のパーソナリティの機微に触れる他人にはあまり話さぬような話題まで、多岐に亘った。たとえば、お互いの好きな食べ物や、嫌いな食べ物。それから、好きな音楽や、嫌いな音楽。あるいは、僕がいままで付き合ったことのある相手の話や、彼女の初めての恋人の話。そして、お互いの父親の話と、お互いの母親の話。

 会話が途切れなければなんだって良かった。僕らはどんな深刻な話題でも冗談に変えて話すことが出来たし、相手がどんなにきわどく悪趣味な物言いをしても笑いを返すことが出来た。途中でどちらかの携帯電話の電池が切れかかれば、充電器をつなげたままコンセントの近くに寝転び、話を続けた。

 これは今日に限ったことではなく、毎日、長ければ一時間も二時間も話し込んでいる。いつも向こうからかかって来るものだから、電話代を心配したこともあるけれど、気にしないでよいと言われてしまった。他のことには厳しい親だったが、金銭に関してはルーズで、いくら使っても文句一つ言われないのだそうだ。

 栃木の実家での生活は、とにかく自由がないらしい。食生活は多少改善されたけれども、例のあやしげな薬を全て飲むまで部屋から出て行ってくれないし、また、母親が外出などすると前触れもなく食事抜きになってしまう。

『どうせ、趣味のサークルか、宗教の集まりか、若い浮気相手のところに遊びに行ってるんだわ』

 と真赤はよくこぼす。両親はそれぞれ家の外で不倫をしており、家庭のなかでそれは公然の秘密となっているらしい。

「ひどい家庭だな。それじゃあ子供の頭がおかしくなってもしかたない」

 ある時僕がからかうと、

『それって私の頭がおかしいってこと?』

 言いながら、彼女はいつまでも笑っていた。

 とにかく、部屋から出られないのが辛いと彼女は繰り返し訴えている。そこにはパソコンもなく、僕らの大好きなインターネットを利用することもかなわない。家庭教師はいけ好かないし、親ともまともな話が出来ない。この夜の電話だけが楽しみだと、明るく作りながら言う。

 まったく、いやな言い方をする。そんな台詞を吐かれると、心底頼りにされているような、彼女の心を独占しているような、そんな気分になってしまう。

 今日の彼女は、珍しく受験のことを多く話した。

 彼女の高校受験の日は二月のはじめで、あと三週間ほどに迫っているのだそうだ。志望校は東京の学校で、試験の際には上京することになるが、おそらく親も同伴になるため僕と会うことは出来そうにないと、そのことばかりを残念そうに言う。志望校はそれなりに偏差値の高い学校のようで、彼女は二年も登校拒否をしていたくせに、学力の不安は全く口にしなかった。勉強で苦労した経験は、どうもないらしい。

『せっかく東京に行くのに』

 と真赤は繰り返す。

 元気だったらそのうち会う機会もあるだろうさ、と答えはしたが、僕も不安ではあった。

 そもそも、真赤と僕というのは繋がりの薄い関係だ。たとえば学校の同級生やアルバイトの同僚のように日常生活を送っていれば自然とどこかで顔を合わせるような間柄ではなく、そこではインターネットというものが重要な役割を果たしている。そもそも、ネットがなければ縁もなかったわけだし、現実に出会った回数もたかが知れている。今はそのネットが出来ず、これで携帯電話が取り上げられれば、いやそうでなくとも、お互いが積極的に関係を維持しようとしなければ、簡単に繋がりは消滅してしまうだろう。

 それに何というか、自分の人生を振り返ると、何につけても妙なタイミングの悪さというのがあって、物事が順調に運んだためしがない。望んだことが自然に起きたことがない。

 正直なところ、実家に帰ると最初に告げられた時点でそのまま縁が切れることを覚悟はしていた。だから、久方ぶりに僕の携帯が彼女からの着信で鳴って、消えつつあると思っていた人間関係が蘇ったときは、それだけのことで、これが自分の人生に起きたことだとは信じられず、他人の人生にでも迷い込んでしまったような気分になったものだ。

 そんな僕だから、どうも、こうして毎日電話などで話していても、何か予期しないきっかけで縁が途絶えそうな気がしてならない。むしろそれは真赤が感じているよりも強く感じているかもしれない。実際、今目に見えている不安要素も多い。

 たとえば彼女の家庭環境もそうだし、年齢や置かれた立場の違いもある。今は逆境にあるとはいえ、彼女が基本的には自分の将来に希望を抱く前途有望な学生であるのに対し、僕は酒を飲みながら自分が将来どんなみじめな死に方をするのかということばかり考えている無職である。いずれこの差はもっと大きくなるだろう。

 けれど、今はまだ繋がっている。

 そうして、その夜も、空が白むまで真赤と話し続けた。先のことなど、考えても仕方がない。


 あと一ヶ月で店を辞めたいと告げると、店長は目を丸くして驚いた。

 そんなに不意打ちだったろうか? まあそうかもしれない。だとしたら悪いことをしてしまった。

「やっぱり家が遠過ぎました。最近通勤がつらくなって来たんで、もう少し近くで働こうと思って」

 申し訳なく思いつつ、そう言うと、

「それじゃ仕方ないが。困ったなあ。もう次のバイトは決めたのかい?」

 まだ納得が出来ないというふうに店長は尋ねる。

「まだ決定してはいないですけれど、探してはいます」

 もちろんそれは、嘘である。僕はこれを期に完全に無職になるつもりであった。

 ともかく、そうして僕はその一年半に及ぶアルバイトを辞めることが決定した。それが周知されると、みなが残念がってくれたのがほんの少し嬉しかった。随分いい加減なところも多かったにしろ、僕もそれなりにここで居場所を作れたのだろう。

 決断してしまうと名残惜しい気もないではないが、かといってこれ以上続けたいかと言えば、やはり、もう働きたくはない。これから自由になるのだという喜びの方が強い。僕は朝から晩まで布団にくるまっていたいのだ。店に迷惑をかけるのも申し訳ない気がするが、一ヶ月前から予告して辞めるわけだから、最低限の義理は果たしたと言える筈だ。

 飽きっぽい僕にしては随分長く働いたものだ。けれど、そもそもアルバイト店員などいくら続けたところでどうにかなるものでもない。ここの社員になりたいという目標でもなければ、いつか辞める時は訪れるのだ。そして僕はその進路に魅力を感じてはいなかった。

 最近遅番のタツオ君が社員採用されて、厨房のオグラさんはうらやましがっていたけれど、あれもどうなんだろうな? タツオ君は、ミュージシャンになりたくて上京して来た東北のバンド少年である。それが生活苦のためほとんどバンド活動をしなくなり、かわりにバイト活動ばかりしていたら、そのままカラオケチェーンの社員になってしまった。

 いや、それも悪い人生ではないだろうけれども。少なくとも、あてもないまま仕事を辞めようとしている僕よりはマシなのだろうけれども。しかし、それでいいのだろうか? 何のために東京まで来たのかよくわからない結末である。

 その日僕は新人のタナカさんと二人で働いていた。彼は待望の男性の早番従業員である。

 僕がやめた後は唯一の男性早番として活躍してほしいものだが、しかし、どうも、僕が辞めるのを聞いて遅番に移動しようとしているようだ。理由はまあ、わからなくもない。

 それはごくシンプルで、彼は女性陣に無残なほどに嫌われているのだった。

 まったく、女たちのタナカさんに対するその嫌悪たるや恐ろしい。ここの従業員は、多少の相性はあれどもそれなりにどの男女も仲良くやっているのだけれど、タナカさんだけは例外的に全ての女子従業員に嫌われている。

 それはまったく、例外的に、例外というものがない。優しく穏やかな性格だと僕も少なからず好感を持っていた肉が食べられない女子大生のヨコイさんまでもが彼を無視しているのを見た時は、さすがにショックを受けた。また別の従業員から、「あの人とだけは組みたくない。しいちゃんが全部入ってよ」と直接愚痴をこぼされたことさえある。

 タナカさんはこの状態を冗談めかして、

「ミズヤグチ君以外の人と組んだときは、一日中一言も喋らないんだよ。どうしたらいいかな?」

 などと自嘲気味に笑うのだけれど、僕は笑えない。

 彼がこれほどまでに女受けが悪いのは何故か。本当は面白い人なのに。ここに来る前はタクシードライバーをやっていて、訊けばその時の経験談を饒舌に語ってくれるのに。

 三十がらみの年齢が若者の間で浮いているせいだろうか? それとも、その年齢以上に老けて見えるもっさりとした外見のせいだろうか? 仕事の物覚えがよくないせいだろうか? あるいは、そのぼそぼそとした喋り方などが原因なのかもしれない。

「ミズヤグチ君がいなくなったら、寂しくなっちゃうなあ」

 という彼の言葉には重みがある。

 僕としても、彼を残して辞めてゆくのはつらい。

 その境遇を他人事とは考えられないのだ。今でこそ僕は同年代だから、女子従業員ともやっていけるが、やがて年齢を経て、自分より年下の従業員たちと働くようになれば、否応なく彼のような状況に立たされることになるのだろう。それは非常にリアリティの伴った現実的なイメージとして想像出来る。

 そんな気持ちはもちろん口にはしないが、したら馬鹿にされていると受け取られるだろうが、とにかく、そういうわけで僕はタナカさんには肩入れしていた。

 だから今日も、彼に通常業務をうまくこなすコツや、壊れたマイクをハンダごてを使って簡単に直す方法、パソコンが不調になったときに即座に復旧する方法などを教えていたのである。

 他の従業員があまりやらない仕事を出来るというのは重要だ。僕も、これらの技術があるおかげで女どもから「しいちゃんしいちゃん」と何かと頼りにされて来たのである。これを身につければ、タナカさんの、彼女らと打ち解けるきっかけになるまいか。置き土産というわけでもないけれど、彼が今後の仕事をやりやすくするのが、僕のここでの最後の役割だと考えている。

 フリータイムが終わり、夜の通常営業が始まったばかりの時間帯であった。機械に弱いタナカさんに何度も繰り返し教えていると、階段をのぼって客がやって来る。

「店長はいるかしら?」

 と言った目つきの鋭い中年女は、よく顔を見知った常連客であった。

 肉付きの良い身体に上等そうな黒い毛皮のコートを羽織り、きらきらとしたアクセサリーを耳や首元に光らせていた。いつもやたらとちゃらちゃらとした衣装を身につけた彼女は、この店の常連客のなかで最も気をつけなくてはならない人物であった。

 さきほど出勤したばかりの店長は、東急ハンズに革靴のクリームを買いに行っている。僕はすぐに戻ってくるはずだと客に説明し、レジの近く、普段は満員になっても客を入れない特別な部屋、『201号室』に案内をした。

 この客が来店した場合には、いつもこの部屋で、店長がホストのようにつきっきりで接客をすると決まっている。何故そのようなVIP扱いをされているのかというと、まず一つには羽振りがよく非常に金払いが良いという理由。そして次に、彼女はまっとうな小市民ではなく、さる大物暴力団員の妻であるという重大な理由があった。本来ならもっと高級な店を使うべき人種のように思えるが、妙に店長を気に入っていて、よく店にやって来る。どういった成り行きでこうなったのか、事情がありそうだがそれは知らない。

 とにかく、店長がいなければはじまらない客なのだ。バックルームに設置された電話から彼の携帯電話にかけると、今すぐに戻ると緊張した声で返事が帰って来る。

 とりあえずこれで一安心だ。確かに素性は難しいが、その客は横暴なことをするわけでもない。むしろ店のルールに従い綺麗に金を使ってくれる上客の部類である。だから、いくつかの約束事を守って普通に接客をしてれば問題はないのである。

 その約束事の一つは、飲みものの濃さであった。

 パントリーに入ると、タナカさんが、さっそく彼女が注文したウーロンハイを作っているのだが、案の定普通の分量で作っている。

 彼女には普通より焼酎を薄くしたものを出すように決まっており、それを忘れると機嫌が悪くなるのである。

 他にも細かい決まり事があるのだけれど、タナカさんはそれを把握してはいない。ひとまず彼に受付を任せると、新しいウーロン茶を作り直して常連客の部屋に持って行く。

 201号室では、店長のかわりにシェフがコックコートのまま接客をしていた。常連客の姿をみて、すかさずサポートに入ってくれたのだろう。僕が場を繋がなくてはいけないのかと思ったが、助かった。

 テーブルに飲み物を置き、そそくさと立ち去ろうとしたのだが、客はそれを呼び止めた。

「あらありがとう」

 と穏やかな微笑を浮かべ、

「この間は、ごめんなさいね」

 と言ったのは、つい二週間ほど前のことについてだろう。

 まだ年が明けてほどがないその日、いつも一人で来る彼女は、珍しく別の客を伴って現れた。それは若干派手ではあったが非常に美しい、二十歳になるかならぬかといった年頃の女である。店長がこっそり耳打ちしてくれた話によれば、その女は常連客の一人娘なのだそうだ。

 それはいいのだが、その娘が店にやってきた理由が尋常ではない。いい加減な男に妊娠させられてしまったため、母親である常連客が、これからその相手をここに呼び出して説教をしようとしているのだと言う。

 なぜこんなカラオケハウスでそんな恐ろしい会合を行おうとしているのか。戦々恐々としていると、ほどなくホストのような姿格好の青年が、青ざめた顔でやって来た。彼は、相手の親がどういう人間かわかっているのだろうか? わかったとしたら、どの段階でだろうか? いずれにしろ、彼も、文字通り生きた心地がしなかったろう。

 その部屋でどんなやりとりがあったのかは知らない。終始、至って静かなものだったが、男が来た時よりも青い顔で出て行ったのは確認している。一方常連客はすっきりとした表情をしており、迷惑料と言ってその場にいた従業員に五千円ずつ手渡して帰って行ったのである。もちろん僕も、受け取った。

「その節は、ありがとうございました」

 と五千円の礼を言う僕に、客は容易ならざることを言うのである。

「今日はもう上がりなんですって? タイムカードを押したら、あなたもこの部屋で一緒に飲んでいきなさいよ」

 意外な発言に、くらくらとめまいがした。

 どうして僕が極道の妻と酒を酌み交わさなくてはならないのか? 普段だったら生け贄は店長がひとりで引き受けるはずなのに。そうでなくては困るのに。

 客はどうも冗談で言っている様子でもなく、だとすれば立場の弱いアルバイトとしてはむげに断る事も出来ない。しかし僕はいやだった。早く家に帰って酒を飲んだり真赤と電話をしたりしたかった。

「はあ、それは有り難いですが……」

 と曖昧に追従笑いを浮かべて態度を誤魔化していると、東急ハンズから帰ってきた店長が現れる。

「どうも、今日もご来店、ありがとうございます!」

 彼は部屋に入るなり、満面の営業スマイルと共に声を張った。

「ねえ、この子たち、仕事が終わった後に、ほんのちょっとだけつきあってもらってもいいかしら? 夕食まだでしょうし、シェフの美味しい料理を一緒に食べて欲しいわ」

 ここで店長が巧言を弄して話題をそらしてくれることを期待したのだが、彼は僕らの味方ではなかった。

「よし、しのぴー、中番が来たらそこで仕事は切り上げて、タナカちゃんと一緒にご馳走になっていきなよ」

 と、満面の笑みで客の圧力に屈している。

「まあ、嬉しいわ。でも悪いわねえ」

「いえいえ、どうってことありませんよ。こんな有り難い機会、なかなかないんですから」

 僕が何か言うより先に、店長が了承してしまう。そこには僕らの意志は介在しないようだった。

 フロントに戻ってタナカさんにそのことを伝えると、客の素性を知らない彼は夕食代が浮くことを無邪気に喜んでいる。

 間もなく中番の二人が出勤して、僕たちは彼らに仕事を引き継いだ。タイムカードを押し、私服に着替え、そして201号室で店長と共に常連客の歓待にあたることとなる。

 部屋に入ると既に机の上にはチーズやら生野菜やら生ハムやらの盛り合わせが乗っていたが、客は僕らのためにパスタを追加注文してくれる。おまけに生ビールまでつけて、しかもいくらでもおかわりをして良いというのだから、僕は恐縮してしまう。一方タナカさんは見たことのないほどの素敵な笑顔ではしゃいでいる。彼の酒癖は良いのだろうか? 浮かれ気分に水を差すのが気の毒で、客の素性を伝えておかなかったことをかすかに後悔したけれど、もはや如何ともしがたい。

「美味しいでしょう? ホテルで修業を積んだだけあるわよね」

 パスタを食べる僕たちに、酔いで頬を染めた客はそう訊ねるので、頷きを返す。

 確かに旨いとは思うが、毎日まかないでシェフの手料理を食べており、このパスタも定番メニューなので、正直なところ驚くほどのことはない。第一こんな状況で味わえるはずもない。

 今日はやたらと僕らに興味を持ってしまったようで、

「年は何歳?」「彼女はいるの?」「出身地はどこ?」

 と彼女の口からは矢継ぎ早に質問が繰り返される。僕とタナカさんは、食べながらいちいち返事をした。

 これはいつまで続くのだろう? このパスタを食べ終わったら、用事があるので帰りたいって言おうかしら。いや、それじゃあまりにも見え透いている。

 切り出すタイミングが見つからないが、かといって、店長の助け船も期待出来ない。それではこの場面の唯一の味方であるタナカさんはどうするつもりだろうとその表情を窺うと、たった一杯のビールですっかり出来上がってしまっており、真っ赤な頬でだらしなく笑っている。どうやら僕は孤立無援らしい。

「若いっていいわねえ。あなたたちは何になりたいの?」

 客は上機嫌で僕たちに訊ねた。

「いやあ、とにかく食べて行くのが目標ですよ。でも、結婚などをして、子供が出来れば嬉しいですねえ」

 タナカさんはいつになく饒舌で、我先にと質問に答える。

「じゃあ、こっちのきみは?」

 言われた僕が考えていると、

「彼は、小説家になりたいんですって」

 店長がすかさず言ったのでどきりとした。もちろん僕はそんな話をしたことはない。おそらく、休憩時間などに読書をしているところからでっち上げたのだろう。

「赤川次郎とか、あと西村……なんでしたっけ? あはは、とにかくそういう人たちに憧れてるんだよな?」

 よくこうもすらすらと嘘が出て来るものだと感心する。ここで異を唱えても仕方がないので黙って頷いていると、

「へえ、そうなんだ。凄いなあ」

 と、タナカさんまで素直に信じてしまった。

「二人とも将来に希望があって良いわねえ。やっぱり、若者は夢がなくっちゃいけない。一緒にいると、まぶしくて羨ましくなるわ。……それなら、そうね、夢が叶うように、あなたたちに運をつけてあげるわ」

 と言いながら、その女性客はやにわに上着に手をかけて、脱いでしまったのである。

「あっ、部屋、暑かったですかね?」

 店長が訊ねると客は首を振り、

「馬鹿、違うわ。いいものを見せてあげるだけよ」

 客は僕らの前でくるくるとセーターを脱ぎ、シャツを脱ぎ、シルクのてかてかと光る高そうな下着一枚となった。

 そして身体をひねり、その脂肪のついた背中を僕らに見せる。

「どう、綺麗でしょう?」

 と誇ったのはそのスタイルのことではないだろう。その白い肌の上いっぱいに描かれた、色鮮やかな和彫りの天女のことを言っているのだと思われる。

 脱いでいる途中で予期していた僕と、おそらく同様に心づもりのあった店長は表情を変えなかったが、タナカさんは度肝を抜かれて口をあんぐりと開いている。

「ちょっと、ホック外してよ。色男なんだから、やったことくらいあるでしょう?」

 客はすぐ隣に座っている僕に向かってそう言った。店長の方を見ると、やれと目配せを送って来る。

 そりゃ外した経験がないとは言わないが、こんな状況でやったことはない。緊張しながら外すと、客は乳から下着が落ちぬように押さえつつ言う。

「この吉祥天女を触った男たちはね、みんな運がついて出世したのよ。今日は楽しませてくれたから特別。あなたたちも触っておきなさい」

 なるほど、これが噂に聞く吉祥天女というものか。映画などで名前を聞いたことはあるけれど、実際にあるものなのだなあ。まさか自分の目で見る機会があるとは思わなかった。と、感心している場合でもない。

 どうやら席順からして僕が最初に触らなくてはならないようで、うっかりぼんやりしていると、店長はまた目配せを送った。他人ごとだと思って気楽なものだ。

 躊躇を見せるわけにもいかない。腹を決めてその背中に手を伸ばす。指先で軽く触れると、「もっとしっかり触れなさい」と叱られてしまう。仕方なく、手のひらをべったりとつけて全体をなでるように触った。くそう、こんな模様がついていても、こんな素性の人間のものでも、やはりそれが女の肌であることにはかわりなく、吉祥天女は妙にすべすべとして温かい。

 それから、店長、タナカさんと続く。店長は触る前に両手を合わせて拝むような芝居がかった仕草をし、タナカさんはさっきまでの浮かれようが嘘のようにぎこちなかった。そして全員が触り終えると、また僕が命じられてホックをつける。外したことはあってもつけたことはなかったので手間取った。

「いやあ、実に眼福でした。年のはじめからこんな有り難い機会を頂いて、素晴らしい一年が間違いなしです!」

 最後に店長は抜け目なく世辞を言う。

 それから間もなく僕らはタクシー代と称して前回同様五千円を手渡されて、解放される。その金を受け取る様子だけを見て、中番の学生たちは羨ましそうな顔をしている。

 もっとも、終わってしまえば僕としてもまんざらでもない。酒と食事に五千円がついた上に、普通に生活していたらまず遭遇することのなかったであろう貴重な体験が出来たのだ。しかしタナカさんはそうではなかったようで、一緒に店を出た後も、まだ真っ青な顔をしていた。

「凄かったですね。あんな大きな刺青、タナカさんは見たことありますか?」

 並んで歩きながらそう話しかけると、彼は冴えない顔のまま首を横に振った。

「あとそうだ、触ったら運がつくって言ってましたじゃないですか。どうします、出世したら?」

 落ち込んだタナカさんとは別に、僕は妙に気分が高揚していた。

「出世なんて考えたこともないけど……。本当にこれで運勢が向上するならいいんだけどねえ」

 彼は眉間にしわをよせたままそう答える。

「しますよきっと。僕ら大富豪になって、皆から尊敬され、女どもにちやほやされるんです。楽しみだなあ」

 僕が言うとタナカさんはちょっと笑って、それ以上は何も言わなかった。


 そうして一ヶ月が過ぎると、僕のカラオケ店でのアルバイト生活は終了した。

 最後の日同じシフトに入っていたのはフリーターのタバタさんで、彼女はいつも通りに遅刻して来て、いつも通り恋人への愚痴を語り、僕はそれにいつも通りの相づちを打ちながら、時間を過ごした。そしていつも通りに忙しくなって、いつも通りに暇になる。

 タバタさんはベテランのアルバイトなので気楽な仕事だった。今日は本当はタナカさんのシフトであったのだけれど、彼は今週の頭から無断で欠勤をしており、彼女がかわりに出勤している。新人がこうした休み方をすれば、それはもう二度と来ないことを意味する。店は、既にタナカさんはいないものとして回っていた。

 やはり、耐えきれなかったのだろう。僕より先に居なくなるとは想像していなかった。やっていけるようにいろいろ気を遣ったことを思うと、寂しいような気もしたが、無理もないとは思う。現に、彼がいなくなったばかりなのに、もうだれも話題にすらしない。

 その日はオグラさんも出勤していたので、少し話した。彼は、今度銀座店に異動するのだそうだ。正社員採用へ一歩前進したと、嬉しそうだった。僕はそれはいいですねえと、気のない返事をしていた。

 遅番がやって来ると私服に着替え、帰路につく。階段を降りて店を出て、最後に一度振り返ろうかなとも思ったが、結局そうはしなかった。このまま見ないで帰ろうと、いつもと何の変わりもなく、ネオンの下を歩いた。

 そうしてスケジュールからアルバイトという項目が完全に消えてしまうと、なんとも言えない解放感があった。次の日から僕は、一日中布団の中で酒を飲み、部屋に音楽を流し、向精神薬で精神をとろけさせながらインターネット上の様々な情報をあてどもなく眺め続けたり、日がな一日ICQを使いネットでしか接点のない知人と雑談をしたりするという、きわめて無為なかたちで日々を消費することとなった。

 もちろん真赤とも連絡をとりあっている。高校の入学試験がもう目前に迫っているということで、さすがに頻度は減っていたけれども、時間があればむこうからかけてくれた。

 無為な時間の流れは早く、気がつけば真赤の試験の三日前になっている。そして、彼女はついに東京に戻って来た。

 宿泊先は、あの原宿のマンションではなく、赤坂のホテルだとのこと。そこで最後の追い込みを行っているらしい。朝から晩まで家庭教師がついて、長時間勉強をさせられているのだという。ハードなスケジュールには違いないが、いたれりつくせりではないだろうか。普通の家ではなかなかそこまではしてくれない。

 もちろんその間外出は出来ないわけだから、すぐ近くまで来たとはいえ、会ったりすることは出来ない。

『本当に最悪。どうしたらいいのかわからない』

 ホテルに到着したその初日、彼女は僕にショートメールを送ってよこした。

 てっきり僕は、猛勉強を強制されていることへの不満かと思い、登校拒否児童であった真赤に勉強が不足しているのは当然であるから、ぎりぎりまで死力を尽くし、なんとしてでも娘の試験を成功させようという親の情熱は健全じゃないかと諭すような返事をしたのだけれども、しかし、彼女が最悪と言っているのは、その部分ではないようだった。

 電話が出来ないということでショートメールでのもどかしいやりとりで聞き出したところによると、先日から罹患していた感冒をこじらせて、体調を完全に崩してしまっているのだとわかった。

 今日も、朝から四十度に至るほどの高熱が出ているのだという。にも拘わらず、親に言っても休ませてもらえず、勉強をしいられているのだそうだ。

『大丈夫なの?』

 と問うと、

『わからないけど、めまいがして、ふらふらとする。水しか飲めない。胃の中に何もないのに吐き気がひどい』

 と、どう聞いても重病人でしかない症状を述べる。

『えっ、それはまずいじゃん』

『まずいと思う』

 僕は考え込んでしまった。普段からろくに食事をとらずに青白い顔をしている真赤が、休養をとらず、治療を受けず、そしてこのまま肺炎にでもなれば死んでしまいそうな気がする。僕は、つい先日に都内で親に水を浴びせかけられて放置された小学生が死んでしまったというニュースを見たばかりなのを思い出した。まったく、最近のニュースはそんな話ばかりだ。いや、僕が前よりもその手の話題を気にするようになっただけなのかもしれないが。

 まあそれでも、普通なら心配するような状況でもない。彼女はサービスの行き届いたホテルにいるのであり、監禁されているのとも違う。

 ただ、思い返せば、真赤の親というものは以前からまともに食事をさせなかったり、自由を与えなかったり、わけのわからぬ薬を飲ませていたのだ。あの薬の気色の悪いパッケージや、からっぽの寒々しい部屋を思い出すと、いてもたってもいられなくなってしまった。

『ホテルの正確な名前を教えてくれないか?』

『どうして?』

『良かったら迎えに行こうと思って。もしどうしても無理なら、おれが協力するからどこか別の場所で休みなよ。そこから受験に行けばいいじゃん』

 もっと書きたかったが、ショートメールの文字数制限が気になった。そこで一旦送ると、返事を待たずに次のメールを作成する。

『この際だからさ、児童相談所みたいなところに行ってみない? あとそうだ、うちに来てもいい』

 返事はなかなか来なかった。

 受験を前に、唐突かつ無茶な申し出だから当然だろう。実際僕はどうかしている。これは、未成年者略取とかなんとか呼ばれる行為じゃないだろうか。僕がこんな形で介入するのは正しくはない。

『そうしたいけれど、無理そう。親も近くにいるし。さすがに抜け出せない』

 しばらくたって返って来たメールには、そう書かれていた。

 それを読むと、僕の口からはため息がもれた。それがどういう意味のため息なのかはわからない。ただ、いつの間にか自分がひどく緊張していたということに気づかされた。携帯を握る指先がこわばっていたので、閉じたり開いたりをしてほぐす。

『わかった。本当に無理なようならまた連絡して』

 僕はそうメールを返す。

『ありがとう。大丈夫だから心配しないで。受験が終わったら、また会おうよ。少し寝るね』

 それから、僕は胸のうちの悶々としたわだかまりを悟られぬよう、おやすみと挨拶のメールを交換し、それが終わると、枕に顔を埋めるように突っ伏した。


 真赤との久しぶりの再会は、思いの外に早くやってきた。

 それは、受験の日から一週間後のことである。僕と真赤は、原宿のマクドナルドの二階で小さなテーブルを挟み向かい合っていた。

 無職の僕と登校拒否の彼女には曜日などあってないようなものなのに、その日はうっかり日曜日を選んでしまったせいで、店内が混み合っている。

 場所柄だけあって、客は十代や二十代の若者ばかりだ。せっかくの休日、埼玉や、あるいはもっと遠くから、わざわざ足を伸ばして来るようなやつも多いのだろう。

 だって原宿と言えば、地方の少年少女のあこがれの地だもの。名高い竹下通りなんざ祭りの出店に毛が生えたようなくだらない店ばかり並んでいるし、最近は裏原宿やらなにやら裏通りまでありがたがっているようだ。ともかく、彼らはそうして休日はショッピングやらをこのいかがわしい街で楽しんで、平日は母親にどやされながら目を覚まし、高校やら中学校やらに通っているのだ。

 青春というものは、本来それくらいきらきらしたものじゃないんだろうか? こうして向かい合って飲み物を飲む無職の僕と登校拒否の真赤の青春は、なんだかくすんでいるように思う。

 嫉妬に似た敗北感を覚えつつ、そしてまた、年の離れた自分たち二人の組み合わせが彼らの目にどう映っているのか、なんとなく気にしてもいた。

 真赤は初めて会ったときと同じコートを着て笑っている。一方僕は安物の白いムートンジャケットと、いつもの長いマフラーを身につけていた。薄っぺらいデニムを穿いた下半身が屋内にも拘わらず寒かったが、目の前の真赤は素足にスニーカーを履いており、よくこんな格好で平気なものだと思う。

 彼女の飲み物はコーラだった。他に食べ物も頼めばいいと勧めたが、今日はもうおなかいっぱいだと断られた。

 受験の後一旦栃木に戻り、そしてもう受験は終わったということで親に猛抗議をし、こうして東京に戻ってきたのだが、その電車のなかで、栃木の実家でろくに食べられなかった鬱憤を晴らすかのようにひたすら食べ続けていたらしい。コーラを飲みながら、何度もげっぷをしている。

 一方僕はもとより食欲がなく、やはり紅茶だけを目の前に置いていた。そして、ティーバッグから充分に味がしみ出すのを待っている。

 前に顔を合わせてから実に二ヶ月以上経っていたのだが、毎日のようにその声を聞いていたので懐かしいという気はしなかった。

 真赤は、受験の時に上がっていた熱は下がり、もうすっかり元気になったと上機嫌で言い張っているが、彼女が細くて色白なのは以前からのもので、動作がふにゃふにゃとしているのも本来のものだから、一見しただけでは体調が戻ったのかどうか判然としない。

「本当に治ったのか? そんなに簡単に治るのなら、心配して損したよ。今にも死ぬようなこと言ってたじゃないか」

「ごめんなさい。なんだか悪いことしちゃったね。でもありがとう」

 悪びれもせずに真赤は笑う。僕も仕方なく肩をすくめてから、

「それで、テストはどうだったの?」

「自己採点が間違ってなければ、合格だと思う」

 そう答えたものの、彼女はその件に関してはさほど興味はなさそうで、

「それより、どうして『電気サーカス』を休止しちゃったの? 楽しみにしてたのに。さっき帰ってきて、久しぶりにネットに繋いで、まっさきにミズヤグチさんのサイト見たら、更新がなくてびっくりしちゃった!」

「特に理由はないよ。なんとなく更新がとまっただけ。自分だってサイト休んでたじゃん」

「当たり前でしょ。更新できる環境がなかったんだもん」

「そうだけどさ」

 この新しい話題には、僕の方が興味を持てない。

「大体、毎日更新することを義務みたいに感じてたり、更新頻度がすくなくなるとプレッシャーを覚えるのは、ネット日記書きのよくない病気だよ」

「それはそうかもしれないけどさ。私なんか、さっき、帰ってすぐに自分の日記を書いたんだよ。それで、家を出るギリギリにアップロードして来たの」

「完全に中毒だな。……それよりもさ、受験のことなんだけど」

 僕は、紅茶の蓋をあけて付属のプラスチック製のティースプーンでグルグルとかき回しながら話題を引き戻した。

「こっちに帰ってきたってことは、もう他の学校は受けないってこと? それともここから試験を受けに行くことになったの?」

 またその話か、というふうに彼女はため息をついてから、

「ううん、私の高校受験はもうこれで終わり。多分合格してるし、もう受ける必要ないでしょ? めんどくさい」

 肩をすくめて言う。

「そうか、面倒なら仕方ないなあ」

 簡単に引き下がった姿が滑稽に映ってしまったのか、真赤はくすりと笑う。

「まあ、それはともかくとして、じゃあ、しばらくこっちで暮らすってこと?」

 僕は咳払いをしてからそう言った。

「うん、もう栃木には帰らない」

 真赤はきっぱりと言う。

「でも、どうするんだ? 食費とかをしっかり貰えるようになったのか?」

「決めないまま帰って来ちゃったからわからないけど、多分前と一緒かな。特別な話は何もしていないし」

「そうなのか」

「でも、こっちの方がずっといいよ。もう二度とあんな田舎では暮らしたくない。親もいるし、昔からの知り合いとかもいるし、息が詰まる。それに、高校はこっちだからね。これから試験に合格して、もし通うことになったとしても、東京に住んでた方がいいだろうし」

「それ、『もし』をつける場所が間違ってないか? 試験に合格するって方に『もし』をつけろよ。なんで、そっちは断言して、通うってところに『もし』をつけるんだよ」

 僕は呆れて言った。

「アハハ」

 真赤は誤魔化すように笑って、

「ねえねえ、そう言えば、ミズヤグチさんは一月にあった宇見戸さんのイベントに行ったんでしょ? アレ、楽しかった? いろんな人が来てたらしいけど」

 今の彼女の頭のなかは、これからの東京での生活のことばかりで、他の話が入る余地などないらしい。

「そうだね。来てたみたいだね。でもおれはよくわからなかったよ。喋る相手もいないし、一人でぼうっとしてた」

「そうなんだ。またやらないかな」

「本人はやりたいって言ってるな。それより、お前こそどうするんだよ? 無事高校に入学出来たとしても、四月だろ。それまで、まるっきり何もしないってこと?」

「うん」

 真赤は悪びれもせず頷く。

「食事とかは?」

「まあ、なんとかなるんじゃないかな」

「それならいいけど」

「あ、もしかして、ミズヤグチさんは何か考えてくれたの?」

 真赤はやたらと嬉しそうに僕の顔をのぞき込む。

「少しだけな」

 そして僕は、ここに来るまでに考えていた提案を口にした。

「うちに来たらどうかなと思ってさ」

 真赤は目を丸くして、驚きの表情を浮かべる。

「そんなに悪い話じゃないと思うよ。まだ来てない同居人がいて、部屋が一つ空いてるんだ。タミさがいるからおれと二人きりって訳でもないし。あと、インターネット回線だって用意出来る。……ともかくさ、飯もろくに食えないんじゃまずいだろ?」

「それって、本気?」

「うん。まあ、そりゃいきなり来いって言ったって不安もあるだろうし、信用出来ないかもしれないし、どうしてもいやだって言うのなら、そしたら……」

「いくいく」

 真赤は僕の言葉の終わりも待たず、こちらが拍子抜けするほどに軽く言って、こくこくと頷く。

 すると、言った僕の方がにわかに動揺してしまう。

「そうか。じゃあまあ、明日か明後日に迎えに来るから、服とか身の回りのものとか、必要なものまとめておけよ」

 そして僕は、心の動きを悟られぬように意識しつつ、すっかりぬるくなった紅茶に口をつけた。


一〇


 この花園シャトー107号室のダイニングルームにあるドアは、外観こそ洋式のクローゼット風だが、中身は上下二段の押し入れになっている。その下の段には掃除機や使っていない季節家電などが乱雑に突っ込まれ、そして上の段にはタミさんがセッティングしたLinuxのサーバーが設置されていた。そこから幾本も延びたLANケーブルが、この部屋のみならず、隣の106号室までベランダを伝って張り巡らされており、それぞれの部屋にネット環境を提供している。これがなくては僕らの電脳生活は一日も立ちゆかず、この部屋にやって来て、まず最初にやったのもこの配線だった。

 僕らは、共同生活におけるコミュニケーションの大部分をこのネットワークシステムに依存している。たとえばこのローカルサーバーに設置された電子掲示板も、そのツールの一つであった。

 花園シャトーの共同生活者のみが閲覧出来るその掲示板には、その月の光熱費が書き込まれたり、トイレの切れた電球を交換したとその価格が報告されたりと、主に共益のための経費についてのやりとりがなされている。これを月末にタミさんが集計し、家賃を加えて、みなの分担額を発表するのが毎月のならいとなっていた。

 僕は金銭に関しては最終的な数字以外はさほど関心がなかったのだけれども、たまに冷蔵庫に入っているプリンはお土産だからみなで食べて良い、だとか、駅前のラーメン屋が実に旨かったからおすすめである、などというような僕にとっても有用な書き込みがなされることもあるので、毎日チェックしている。

 今日も、逆野が灯油を買ったとか、タミさんが水道代を支払ったとか書いてあるのだが、僕はそこに、真赤を受け容れることを報告するべきかどうか迷っていた。

 同室のタミさんには既に報告している。経緯を知っている彼は快く受け容れてくれたが、U君と逆野にどう説明をすればいいのか。

 ネットで知り合った十五才の女の子を呼んで住まわせたい。なんて、こう改めて文字にすると自分のしようとしていることながらめまいがする。かといって、彼女をとりまく状況などを細かく説明するのも気が引ける。親とのあれこれとか、そういったことは、あまりぺちゃくちゃと喋るものでもないでしょう?

 結局、今日は報告をしないことに決めた。どうせ、真赤の生活費は全て僕が支払うのだし、隣の部屋の彼らには事後報告でもいいだろう。

 そうして僕は、真赤を迎えに行くために家を出た。

 駅までてくてくと歩いていると、母からの通話を着信したが、僕はそれに出なかった。きっと、顔でも見せに来いと言うのだろう。年が明けてからもうしばらく経つのに、まだ挨拶もしていないことを気にしていたのを知っている。

 真赤には荷造りをしておけよと前もって伝えていたのに、僕が到着したその時になっても、ちっとも出来ていなかった。

「これ、何が入ってるのさ」

 彼女の唯一の準備の成果と思われる歪な形に膨らんだスポーツバッグを指さすと、真赤は、

「CDとか……」

 さすがに悪いと思ったのか、申し訳なさそうな態度を見せつつ言う。

「なんでCDだけ詰め込んでるんだ? それより、身の回りの物をまず用意しろよ。たくもう、どんな音楽を聴いてやがるんだ」

 腹立ち紛れに勝手にファスナーを開いて、スポーツバッグ一杯に詰まったそのプラスチックケースを確認すると、そのほとんどは椎名林檎とロリータ18号のアルバムであった。

「む、昔好きだったの」

 何も言っていないのに、真赤は弁解をするように言う。

 彼女一人に任せておいてはあまりにも心許ないので、二人がかりで荷物を作ることにした。

 まずクローゼットの扉を開くと、コートなどの上着は吊されているのだが、他のスカートやシャツなどの薄手の服は乱雑に積み上げられてしまっている。そして皺くちゃになっている。こいつも随分と基礎的な生活能力に欠けているのだな。これなら、散らかり放題の僕らの107号室でも違和感がなさそうだ。

 そんなことを思いつつ、真赤が用意したバッグに衣服を畳んで詰め込みはじめた。まだ寒い季節であるから、暖かそうなものを多めに。下着なども足りなくならぬように充分に。

 そしていくつかのバッグに分けて衣装を詰め込み、最後に化粧品のポーチを入れる。服と化粧道具の他に、女の生活に必要なものと言えばなんだろう?

「歯ブラシとか、洗面道具とかは?」

 訊ねた僕に、真赤は首をひねりながら言う。

「そういったものは、むこうで新しいのを買うからいいよ」

「じゃあ、どうしよう」

「思いつかないなら、とりあえずこれだけでいいか。もし足りなきゃまたここに取りに来ればいいし。あっ、そういえばうちには布団が足りないから、ここのやつを持って行っていい?」

「うん」

 そうして二人で部屋を出た。

 廊下で他の部屋の住民とすれ違うと、怪訝な顔でジロジロと見られてしまう。大荷物を持った僕と真赤の姿は、よほど不審なのだろう。オートロックの内側で目撃されてしまったから、近所の住民に真赤の怪しげな風評が広まってしまわないだろうかと気にしつつ、マンションを出る。

 早い時間に家を出たので、まだ日は高い。真赤の大きなスポーツバッグはともかく、僕が抱えている布団は、乱雑にビニール紐でくくっただけということもあり、原宿を歩く人々にはやはり異様に見えるのか、よく人が振り返る。歩くこちらとしても、布団という生活の内臓のようなものを晒して歩くのは気まずい。これから山手線に乗り、田園都市線に乗り換え、衆目のなかを延々帰ってゆかねばならぬのだと考えると、何か風呂敷のようなもので包めば良かったと後悔ばかりが心をよぎる。真赤はそんな周囲の目など気にする様子もなく、一人で何か話しかけて来ては、一人で笑っている。

 そうして僕は冷や汗をかきながら電車を乗り継ぎ、そしてこれから一緒に暮らすその街に、辿り着いた。

「結構、綺麗な街だね」

 真赤は煉瓦色のタイルが敷き詰められた路上に立って言う。

 初めてやって来た街をきょろきょろと見回している彼女を促し、花園シャトーに向かって歩きはじめた。

「この鳥居はなに?」

「奥の方に、小さなお稲荷様の社があったような気がする」

「道路の周りにたくさん木が植えてあるんだね。これは桜?」

「そうだよ。あと一ヶ月もすれば、きっと全部ピンク色に染まるよ」

 彼女はスキップするように歩きながら、目につくものについて片っ端から僕に訊ねる。この街に住んでいる僕なら何でも知っているのだと思い込んでいるらしい。知らないことは適当な思いつきで答えつつ、坂だらけの道を進む。

「あとどれくらいで着くの?」

「もうすぐだ。その角を曲がった正面にある、大きな建物がそれだ」

 やがて僕たちは花園シャトーに辿り着いた。

 隣の106号室も僕らの仲間が住んでいるのだ、会ったら挨拶くらいはしたほうがいい。知らない人にも、同じマンションの人ならなるべく挨拶をしたほうがいい。多分、ただでさえ変な連中だと思われているから。

 などと説明しながら僕はノブに手をかける。

「鍵はあけなくていいの?」

「いつもかけてない。ドアの向こうはひどい散らかりようだし、空き巣だってそれを見たら意欲をなくすさ」

 そしてドアを押し開くと、まず僕が先に上がって真赤を招いた。彼女は目を輝かせながら、足を踏み入れた。

 朝に片付けてから家を出てきたので、廊下にすら足の踏み場がない、というほどには散らかってはいないものの、かといって花の匂いが似つかわしいような清潔感溢れる家庭といった具合にもいかない。特に僕の部屋などはあまりにも狭すぎて、収納もなく、片付けても見栄えはほとんど変わらなかった。

「ここがミズヤグチさんの部屋?」

 と玄関を入ってすぐ左手にあるその部屋の惨状を無表情に眺めつつ真赤は言う。

「うん」

 それ以上の感想を言わさぬよう僕は素っ気なく頷きを返し、奥へと彼女を招いた。

 リビングルームのローテーブルの上には、朝にはなかったカップ麺の容器が置かれており、その底の方には僅かなスープが冷えて表面に白いものが浮かんでいる。これはタミさんの生活の残滓だろう。彼は食べ終わった後にまた眠ってしまったらしく、開きっぱなしのドアの向こう、彼のロフトベッドの上の布団が膨らんでいる。

「タミさん、いたのか」

「そうなんだ」

 上の空で相づちを打つ真赤は、それよりもキッチンに置いてある引き伸ばし機に驚いているようだった。

 この部屋を訪れた人間はこのおよそキッチンには相応しくない装置に大抵驚くので、僕は慣れていた。

「タミさんは趣味で写真をやってて、これはフィルムの引き伸ばし機なんだって。ここに暗幕がかかってるでしょ? ときどきこれでキッチンを覆って暗幕作業してるんだ」

「これじゃあ、料理とか出来ないじゃない!」

「一応、引き伸ばし機の隣にガスコンロが置いてあるでしょ? 僕たちはあれで肉を炒めたり魚を焼いたりしているのだ」

「機械なんだから、油なんかがはねたら壊れちゃうでしょう?」

「カバーがあるから大丈夫じゃないかな。よく知らないけど」

「ふうん」

 納得したのかどうか。それから真赤は、壁にかかっている振り子の代わりに永谷園の海苔が揺れている時計のことを気にし、そして壁に貼られたポスターのことを気にした。

 それは薬物濫用をせぬよう訴えるポスターで、地球をマスコット化したキャラクターに『ダメ。ゼッタイ。』というコピーが添えられたありがちな図案である。バイト先で余っていたのを失敬し、ここに貼ったのであった。

 これをこう掲示するのは、向精神薬を濫用している我々に対する矛盾と、その一方で違法とされている薬物には手を出さぬぞという戒めをかけた、僕なりの高度なユーモアがあったのだが、説明が面倒なので黙っていた。

「まるでここ、頭のおかしい人の家みたい」

 一通り部屋を見ると、彼女は堪えきれなくなったらしく、くすくすと笑った。

「うるさいなあ」

 そして僕は最後に、彼女に使わせる予定の空き部屋へ案内した。

 相変わらずがらんとした何もない部屋で、窓から差し込んだ西日を反射して畳が光っている。右手の壁に立てかけてあったマットレスを畳の上に引き倒し、

「今日からここで寝れば良い。寝心地は悪くないと思うよ」

 と真赤に言った。

「なんでマットレスだけなの?」

「おれが前のアパートに住んでいたとき使ってたベッドから、これだけひっぺがして来たんだよ。自分で使おうと思ってたけど、あの狭い部屋じゃ無理だったからここに置いておいた。元々は逆野が、いや、そういうやつが居てね、今も隣に住んでるんだけど、そいつの実家にあったのを譲り受けたんだ。古いけれど作りがしっかりしてて悪くない」

「大きいね」

 マットレスの表面を撫でながら真赤は言う。

「セミダブルだからな」

「ベッド本体はどうしたの?」

「別の友達が使ってる。そいつは埼玉でやっぱり共同生活をしてるよ。芸術の学校に行ってるのかな」

「へえ」

 真赤はそのマットレスの上に腰をおろし、弾力を確かめるように身体を揺すってスプリングをきしませた。

 あははと笑いながら揺れ続ける彼女をよそに、僕は持ってきた真赤の荷物をしまおうと引き出しを開ける。

 しかし、そこにはカラーボックスやら、段ボールやらが詰め込まれ、到底これ以上物を入れられそうにない。おそらくこれらはタミさんのものだろう。彼の部屋には収納がないから、こちらに仕舞っているとか、そんな話をしていたような気がする。

 あきらめて襖を閉めると、すぐ手前の畳に小さなシミがついているのを見つけた。そういや、ここに来たばかりの雨の日、この押し入れの壁を、ひっくり返るほど大きなムカデが這っていたっけ。隣の部屋のU君と逆野まで呼んで、皆でその巨体を鑑賞したあとで、ここで抹殺したのだ。

 死んだムカデに思いをはせ、このことは絶対に真赤に知られないようにしようと考えていると、いつの間にか彼女は揺れるのをやめて僕を見ている。

「カーテンはないの?」

「忘れちゃったな。今度買おう」

「ないならいいよ。高いでしょう?」

「いや、このままってわけにもいかないだろう。一階なんだし、外から丸見えだもの」

「そうかあ」

 と、彼女は頷いたもののどちらでも良さそうだった。

 それよりも必要なのは、インターネットだろう。僕は彼女に貸し与えるつもりのノートパソコンを自分の部屋から持ち出し、iMacしか知らない彼女に、Windows機の使い方を教えていた。Macユーザーらしく、Windowsの悪口ばかり言う真赤に、このシステムの利点を繰り返し説明しているところで、タミさんが起きてきた。彼は寝ぼけた顔で真赤に挨拶をしてから、自分のための紅茶を淹れる。

 そうしているうちに、僕は段々眠くなって来た。何度もあくびをしながら、彼女に必要なソフトをインストールし、それが終わったらあとはタミさんに任せて今日はひとまず眠ろうと思ったのだけれど、しかしそうはいかなかった。

 僕の携帯電話が鳴って、やめたばかりのカラオケ店からの通話を着信したのである。無視をしたら良さそうなものだが、ほとんど条件反射的に出てしまって、すると面倒な用件を申しつけられた。

 電話の相手はタバタさんで、フロントのPCの調子がおかしく、店長にも連絡がつかないので、申し訳ないとは思ったが連絡をしたのだと謝った。僕は電話で対処しようとしたが、機械に弱い彼女にうまく指示を与えることが出来ない。どうやら直接見る必要がありそうで、さすがに辞めた僕がそこまでする必要もないのだが、思い返せば最後の出勤日、暇な時間にPCを業務用途以外のことに使っていた僕には、トラブルの原因に心当たりがないでもない。今になって影響が出たとも思えないが、この際僕が触った痕跡を消しておいた方がいいだろう。

 すぐに行くと申し渡して、電話を切った。

「今から前のバイト先に行かなくちゃならなくなった」

 僕は真赤に簡単に事情を話し、ついでに原宿のマンションに寄って来るからと鍵を借りた。二人そろって間抜けな僕らは、せっかく荷造りしたバッグを一つ部屋に置き忘れてきてしまっていたのである。

 すぐに僕は、さっき真赤と二人でやって来たばかりの道を逆に歩いて、駅へと向かう。相変わらず眠く、何度もまぶたをこすっていた。

 もう二度と足を運ぶこともないと思っていたカラオケ屋に到着して、さっそく状況確認したが、そのトラブルは思ったような複雑なものではなく、また危惧していたような僕に責任のあるものでもない。単にシステムデータの入ったフロッピーディスクの読み込みが悪くなっていたようで、ドライブにエアダスターを吹き込んで何度かメディアを抜き差ししたら元通り動いた。

 一人でどうにも出来ずに四苦八苦していたタバタさんは、見慣れた画面が表示されると、涙ぐみながら僕に頭を下げる。

「今回はいいけど、これが最後。もう二度とおれを呼ばないでよ。従業員じゃないんだからさ」

 と笑いながら言って帰ろうとすると、彼女は呼び止めて、ピンク色のラッピングをされたその小綺麗な小箱を一つ渡してくれる。さほど重いものではない。

 これはどういうことか、と尋ねると、僕がPCを見ている間に、すぐそこのコンビニで買って来たチョコレートだと言う。

「見合っていないかもしれないけれど」

 と前置きをしてから、辞めた後にわざわざ来てくれたその礼だと彼女は言う。

「ありがとう。でも、なんでチョコレート?」

 と言ったあとに思い出した。

 そうだった。僕は失念していたが、今日は二月十四日。世間ではバレンタインデーと呼ばれる日だったのである。


 店を出るともう暗くなっている。

 これから原宿のマンションに寄って、家に帰ればもう夕食の時間も終わっている時刻だ。タミさんと真赤はおそらく食事のために外出するだろうから、その際にコンビニなどによって、今日が何の日であるか気がつかぬだろうか。そうして僕にチョコレートなどくれないだろうか。まあ、そんな陳腐な期待をするものではないか。

 それにしても疲労困憊である。よく考えて見ると、この二日などは一睡もしていないのだな。真赤を受け容れることが決まってから、それについてずっと考えていた。正しいことなのか、間違ったことなのか。そして受け容れるために、どうした準備が必要なのか。

 これだけ長時間起きていて、普段だったらとっくにへたばっているはずなのだが、真赤を花園シャトーへ送り届けるまではほとんど何も感じずに動き続けることが出来た。あれはなんだったのだろう? 寝ても食べてもいないのに、次々と身体のうちに新しい力が涌いてきて、疲労を吹き飛ばしてしまった。

 何か目標を持って行動するということは、これほどの活力を与えるものなのか。僕は今まで夢も希望も持ったことがなかったから、こんな体験は初めてだ。

 とすると、人生にまっとうな夢を持って日を送っている人は、普段からこのようなエネルギーで動いているということなのか? それはずるい、敵うはずがない。

 しかし、さすがにそれも限界が近づいている。足が重い。街のネオンがやたらとまぶしく感じられる。目も疲れているのだろう。

 それでもまだ、一仕事残っている。

 僕は原宿で降り、真赤のマンションに向かった。部屋のドアを開けると、すぐ目の前にスポーツバッグが置いてある。ここで靴を履くために手を離してしゃがみ込み、そのまま置き忘れてしまったのだろう。二人もいてどうして気がつかなかったのか。

 他に何も忘れていないか、そっと奥の方を窺う。前以上にがらんとして何もない。布団も持って行ってしまったし、もう人が住む最低限の設備さえ存在しないのだ。もう僕らは後戻りが出来ないということだ。

 帰り道は、ほとんど歩きながら眠りそうな有様だった。体の中のエネルギーというエネルギーを、全て使い果たしてしまったようだ。一人で荷物を背負って歩く僕を睡魔が狙い撃つ。満員電車の圧迫のなかでも、ともすればそのまま密集に身体を預けて目をつむってしまう。そうして坂を下り、上り、やっと花園シャトーに辿り着くと、ドアを開ける前からタミさんと真赤の笑声が聞こえてくる。

「ただいま」

 つぶやきながらなかに入っても、彼らは僕に気づかない。リビングのドアを開けたところで、やっと「おかえり」とタミさんが顔を上げた。

 二人はやたらヘラヘラと笑っており、身体の動作も緩慢だ。これはあれだな。何か向精神薬でも飲んでしまっているのだな。ローテーブルを向かい合って囲む彼らの間に、僕も腰をおろした。その時、膝の力がうまくはいらずに、フローリングにしたたかに尻を打ち付けてしまう。

「ねえミズヤグチさん、さっきすごくひどかったんだよ」

 真赤はとろけてしまいそうな隙だらけの笑顔を浮かべている。

「本当にろくでもなかった。あれはやばいよ」

 タミさんも同じような顔をしていた。

「何があったの?」

 僕はぶつけた尻を痛がる元気もないままそう訊ねた。

「おなかが空いたから、二人で駅の方まで行って、ご飯を食べてたの」

「二人ともロヒを飲んでさ、ふらふらになりながら、歩いて行ったんだ。それでなんとか店についたんだけど。ほら、知らない? 駅のそばにとんかつ屋があるじゃん」

「わからないな。そんなのあるんだ」

「うん、そこに入って、料理を注文したんだけどさ……」

 タミさんはそこで思い出したのか、くっくっと笑い出すと、かわりに真赤が続ける。

「タタミザワさんがほんとうに酷くってね、こう、身体をゆらゆらと揺らして倒れそうになって、ばんってとんかつの上に手を突いちゃったの」

 その時の状況を再現したのか、彼女は手のひらを広げて、机の上を強く叩いた。ばん、と音が鳴る。

「それがおかしくて、二人でけらけらと笑って、止まらなかったんだ」

「あれは、店内の他の客にはどう映ったろうなあ。絶対おかしいと思ったはずよ」

「そりゃひどいなあ」

 僕が一人でかけずりまわって用事をこなしている間に、二人はラリって、仲良く食事にいって、そんなことをしていたのか。

 楽しそうにその経緯を語って笑う二人に、疲れ果てた僕は付いていけない。やるせないような疎外感を覚えたが、それを表に出さぬように愛想笑いをする。

「アハハ、あそこに居合わせた人は、絶対みんな驚いてたよ。二人とも大きな声で笑ってたもん。あんなにおかしな人っていないよ」

 真赤は体をふわふわとゆらめかせながら笑う。

「そんなになるなんて、一体どれくらい飲んだの?」

 僕は眠気で上半身が倒れそうになるのに逆らいながら、タミさんにそう訊ねる。

「ニ、三錠だと思うけどな。どうだろう、覚えてない」

「それでね、その後コンビニに寄って、そしたらバレンタインデーだってことでチョコが沢山安く売ってたから、買って、二人で食べたの」

「二人で食べたの?」

「うん」

「タミさんと真赤の二人だけでチョコを?」

「うん」

 真赤は頷き、そしてそれ以上僕に対して話すことはなさそうだった。

「そうか」

 僕は言って、ペットボトルのポカリスエットを口に含み、そしてポケットに入っていた錠剤を胃に流し込む。

 それから僕も酒などを飲み、彼ら同様へらへらと笑って、伝線していた真赤の黒いストッキングを履いたまま破ってみたり、タミさんがそれを写真におさめたり。そのあとは記憶が曖昧になって判然としない。

 そして気がつくと、やたらと窮屈なところで布団にくるまっていた。

 どうやら僕の部屋らしいが、何故こんな壁際に押しつけられるようにして横たわっているのか。中央の方に寝返りを打つと、温かいものが肩に触れる。あっ、と思わず声を漏らしたのは、そこに真赤が横たわっていたからだ。

 彼女はタミさんと小声で話している。僕たちは三人で一つ布団に川の字になって寝ているらしい。いつの間にこうなったのか? そのなりゆきを覚えているような気もするが、鮮明には思い出せない。そんな僕に、タミさんが何か声をかける。どうも今まさに三人で話していたところらしい。ということは、僕は寝ていたわけではなかったのかもしれないな。なのに、さっきまでのことを思い出せないというのは整合性に欠ける気がする。目を開きながら記憶喪失になったとでもいうのだろうか。

 一体今は何時なのだろう? 昨夜の続きなのだろうか? 目がかすんで、時計も見えない。携帯電話をどこへやったのかと思い出そうとしていると、隣で衣擦れの音がした。

 そこで、タミさんと真赤が性交をはじめている。いつの間にか全ての衣服を脱いで白い肌を露わにしている真赤に、タミさんがのしかかっている。布団をかぶせたままなのでその部分は見えないが、二人の言葉からすると今まさに肝心な状態にあるようだ。僕がぼんやり見ていると、タミさんは真赤の上から退いて、「ミズヤグチさんもやりなよ」と勧めてくれる。優しい声で言ってくれる。「そうしなよ」と彼女も異存はないようだ。そして手をのばし僕の体に触れる。

 嗚呼、これはひどいものだ。僕は、こんなつもりじゃなかったのだ。こんなことのために、必死の思いをして真赤を連れてきたわけじゃなかったのだ。なのにどうして、こんな、あまりにも通俗的な、動物的な事態になったのだろう? 実に寒々しい話じゃないか。いくらなんでもあまりに俗悪だ。あっ、何故だか知らないが、涙がこぼれてしまいそう。うわあ、みっともない。恥ずかしいので背を向けて、彼らから顔を隠そう。するとタミさんが心配して声をかけてくる。いや、大丈夫、と言おうとしたつもりなのに、こんなのは嫌いだ、と僕ははっきり言ってしまった。しかも涙声というのがいかにも情けない。笑って参加すればいいのだろうが、それが出来ない。自分がして来たことが全て台無しにされたような気がする。いやそんなもの、そもそも僕の思い込みであったのか。落ち着かなければ。平静を取り戻さなければ。苦しい胸をなだめていると、いつの間にか部屋は静寂に包まれていた。もう終わったのかな? やめてくれたのかな? だったら、気が楽なのだけれど。

 今度は確実に眠っていて、僕は目を覚ます。携帯電話は枕元に転がっていた。それを見ると、もう昼が近いのがわかった。タミさんと真赤は隣で静かに寝息を立てている。彼らを起こさぬよう、僕はそっとため息をついた。それから声を立てずに一人笑った。

 意識にはアルコールも薬も影響を残していなかった。この数日で蓄積した疲労も去っていた。すっきりとした肉体と精神で、僕は天井を眺めた。あまりにも小さく、灰色にくすんだ天井。

 それは、この部屋に住んでからもっとも長い時間目にした光景だが、今はひどく白々しく目に映る。