一


 僕らは瓶詰めのピクルスのように電車のなかで押し合いへし合いしている。

 右を向けば目の前のおっさんの吐息が口元に吹き付けられて気分が悪い。左を向けば別のおっさんの整髪料の臭い。顔を背けて別の方向から空気を吸えば、香水やら化粧やらのにおいがする。電車が揺れて、ぎゅっと斜め後ろのおばさんにもたれてしまうと、まるで痴漢を見るような目で振り返られる。ドアが開くと、ホームに出ようとする人間のバッグがひっかかり、力ずくで引き抜いたその肘が僕の胸を直撃する。時に柔らかい感触があって、お、これは若い女の体かなと心ときめかせていたら、太ったお兄さんの背中だと気がついた。気がつかなければ良かったのに。ヘロヘロになって、やっとの思いで目的の駅に辿り着いたら小雨がぱらついていた。

 出発した時は晴れていたというのに、まったくついていない。傘を買おうか? 見ると、売店で売れ残っている傘は五百円のものばかりじゃないか。もっと安い傘があった筈だが、もう全部売り切れていやがる。時給八百円のフリーターに五百円の傘は、高いよ。家に何本も余ってるのを思うと、買い足したくもない。空に手をかざして、これくらいの雨量ならなんとかなるだろうと早足で駅を出た。

 駅はまだ新しく、地面に敷き詰められた朱とベージュのタイルの鮮やかな色彩も施工時のまま損なわれていない。まったく、この街のこういうオシャレっぽさがいちいち僕の気に障るんだ。この間テレビの情報番組でやっていたのだけれど、この辺りの主婦は、なんとかネーゼだとか自称して気取っていやがるらしい。シロガネーゼの二番煎じなんだろうが、そう安易に剽窃をして恥ずかしくないのかね? 剽窃をするなとはいわないが、するならするでもうちょっと言い訳をつくるべきだろう。羞恥心というものの欠けた、意識の低い話だ。

 嗚呼、こう、見るもの何もかもに毒づきたくなるのは悪い兆候なんだろう。アルバイトの帰りで心が荒んでいる。精神がささくれている。こんな生活がいつまで続くのだろうか? 学歴もない。景気も悪い。僕は時給数百円の肉体労働者のまま、悪臭のする年寄りになってしまうのだろうか? 毎日同じことを繰り返して生きてゆくのだろうか? そうして肉体が衰えたらのたれ死ぬのだろうか? 先のことを考えるとぞっとする。出来れば、労働などしないで暮らしてゆきたいものだなあ。

 駅前通りを抜けて、帰路の始めは長くゆるやかな下り坂で、次に急な上り坂になる。この辺りは起伏が多く、平坦な道が少ない。移動にはもっぱら高級車を使うなんとかネーゼさんには関係のない話だろうけれど、徒歩か自転車しか選択肢のない僕にはつらい地形だ。

 濡れたアスファルトを見ながら歩いていると気が滅入るような気がしたので、雨が落ちてくる曇天を見上げる。

 道の左右に立ち並ぶこの樹木は、桜の木なんだろうか? 春になればうっとりするような美しい花を咲かせてくれるこの親しみ深い落葉樹は、今は黒い空に、さらに黒い影をつくって風景を陰々とするのに加担している。

 雨足が段々強くなって来て、傘を買わなかったのを後悔したが、もうここまで来てしまっては濡れながら進むしかない。くよくよするな。なあに大したことじゃない。雨といったって、所詮ただの水じゃないか。

 せめてインナーだけは守ろうと、白いフェイクレザージャケットのファスナーを目一杯上まで上げたら、濡れそぼった襟のフェイクファーがべったりと首筋に張り付いた。

 雨はみるみるうちに土砂降りとなる。稲荷を祀った祠の前を通り過ぎる頃にはズボンもずぶ濡れになって、マウンテンシューズの内側まで入り込んだ水は足指に絡みつき、靴のなかで体温を帯びるにつれて不快に生温かくなる。

 坂をのぼりきると道はまた下り坂になる。降りながら野菜の無人販売所の前を通って、ショウウィンドウに蜘蛛の巣の張った定食屋の角を曲がると、ここで下りは終わり、最後の長い上り坂だ。ここまで来ればもう少し。向かい風の雨に目を細めて顔を上げると坂のてっぺんに壁のように巨大なマンションがあって、暗闇のなかに窓明かりを灯らせているのが見える。このビルには『花園シャトー』というセンスのない名前が付いているのを、知っていた。あれが、今の僕の住まいだ。

 世間は十一月となり、過ごしやすかった秋の風に冷たいものが混ざり始めている。僕は二ヶ月ほど前にこの『花園シャトー』に移り住んだ。それまでは逆野と二人で共同生活をしていた。

 古いつき合いであるし、それはそれで何の不便もなかったのだが、夏頃に逆野の友人たちがアパートを訪れて、彼らもルームシェアをしたいと言い出したのがきっかけだ。それならば全員でどこかに住もうという話になった。

 彼らは逆野とは知り合いではあるけれども、僕とは一度か二度顔をあわせたくらいの間柄で、深いつき合いがあるわけではない。もっとも、彼らの方は僕のサイトを知っていて、一方的に感想などを述べてはいたのだが、だからといって所詮それはネット上での話でしょう? 僕はその場での冗談だと思っていたのだけれど、みな思いの外に本気で、ほどなく具体的な行動となった。サイトを通じてのつき合いというのは、書いた方はさほどでもなくとも、読んだ方は意外に身近に感じているものなのだなと気がついた、これが最初の体験である。

 そして彼らは適当な部屋を見つけ出した。僕は面倒だったので不動産めぐりに参加しなかったのだけれど、逆野の話によると、これには相当苦労したらしい。

 サイズ的に要件を満たすような部屋、或いは一戸建てを見つけても、男だらけでシェアルームをすると説明すると、大抵大家が渋い顔をする。説得をこころみたところで、にべもない。

 話を聞いてみると、どうも、若者の集団生活ということでオウム真理教事件を連想させたようなのだ。実際、定職にもついていない若者ばかり集まって暮らすのだと言われれば、まあ不審なのは間違いない。

 結局、全員が住めるような広い物件は見つからなくて、かわりに、隣接する3DKを二部屋借りることとなった。

 そうして決まったのが、この花園シャトーの106号室と107号室なのである。

 僕と逆野の他に、似たような年頃の若者が三人加わって、計五人で二つの3DKに住むとなると、当然どの部屋を誰が選ぶかの話し合いになるのだが、ここで僕は失敗してしまった。

 106号室も107号室も同じ間取りで、その内訳は、ダイニングキッチンに六畳間が二つ、そして四畳間が一つとなっている。ここに五人で暮らすために僕らが決めた分割方法は、まず合計四つの六畳間を一人ずつ四人で使い、そして残った二つの四畳間を最後の一人が使うというものだった。

 そこで「足して八畳なら得じゃん」と、単純計算に飛びついた僕が浅はかだった。

 106号と107号、隣り合っているとはいえ、一々通路に出て玄関の鍵を使って両方の四畳間を行き来するのは非常に不便だ。仮に片方を物置にしたとしても、四畳もの広さの物置は有効活用できず、そして身の回りに置かなくてはならぬ物は案外多く、居住空間の狭さは解決しない。しかも、物件探しに参加しなかった僕は、狭さの他にも存在する、その部屋の居住性の悪さを全く理解していなかった。

 まず、窓が一つあるのだが、これははめ殺しのため換気が出来ない。さらに空調もないと来たものだから、部屋の空気がすぐに淀んでしまう。そして、この窓のもう一つ役に立たないところは、空気のみならず太陽の光まで入らないということだ。

『花園シャトー』は斜面に立てられているために、一階通路は背後の斜面に埋もれて半地下のようになっている。しかもすぐ裏にある高速道路の高架の影が覆い被さっているため直射日光は全く差し込まない。昼でも薄暗く、常時蛍光灯が灯っている有り様なのだ。

 唯一の窓はこの通路との境の壁に設置されているものだから、二十四時間どの時間帯でも蛍光灯の変わり映えのない青白い光が曇りガラスをぼんやりと明るくしている。だから、この部屋のなかにいると、昼か夜かも、晴れか曇りかも知ることが出来ない。

 光も空気も取り込めない窓を諦めて、じゃあ仕方ないと戸を開けたならば、今度はすぐ目の前にはトイレのドアと風呂へのドアが配置してあるため、開けたまま生活をしていると、まるで利用者を監視しているかのようであるし、その用を足す音がいやでも耳に入ってしまうし、いかにも気まずい。

 空間的にも時間的にも外界から断絶させられて、これじゃまるで棺桶じゃないか。図面でしか部屋を知らなかった僕は、入居してすぐにえらい場所を選んでしまったと後悔したが、気がついた時は何もかもが遅かった。

 つまり、僕は今、ずぶ濡れになりながら、その棺桶に向かって歩いているわけなのである。

 玄関を開けると、ダイニングの方で住人達が賑やかにしているのが聞こえる。帰った家で他人が騒いでいるというのは、未だになんとなく不思議な感じがする。長らく一人で住んでいたし、逆野と二人で暮らしていた時も、さすがにあいつが一人で部屋で笑ったり喋ったりしているなんてことはなく、もしあったら病院へ連れて行かねばならなかったが、幸いにしてなく、ほとんどの場合部屋でパソコンをいじっていたので、いつも至って静かなものだった。

 ちょっと良い匂いがする。鍋でもやっているのだろうか? 空腹でもあるし、すぐに参加したいところだが、体が濡れて冷え切っている。ひとまずそちらの方へは行かず、まず濡れた服を着替えた。そしてドライヤーを使って髪を乾かしはじめると、今度は誰かが音楽を鳴らしはじめたようだ。

 それにしても僕は、酷い髪の色をしている。鏡を見るとつくづくそう思う。

 何度も自分で染め直したせいで、様々な色が混じり、全体の灰色に薄緑色のむらが出来ている。情けない気持ちでドライヤーを当て続け、そして髪が乾きはじめる頃、僕の部屋のドアが外側からノックされた。

「ミズさん、帰って来たなら飲もうよ。日本酒があるんだけど、飲めない人ばっかりだからさ。ミズさんが帰って来るの待ってたんだ」

 ドア越しにそう言ったのは、同居人の一人であるU君だ。

 僕は「ちょっと待ってて」と返し終わった後、ああ、これが多人数で暮らすということなんだなあと、何やらため息が出た。悪くはない。


 その次の日は休日だった。せっかくアルバイトに行かないでよいというのに、僕はその時間を有効活用することも出来ず、ただただ部屋に引きこもってパソコンの前に座っているばかりで、人生の無為性というものを実現していた。

 この部屋が棺桶だというのはまぎれもない事実だが、それでも良いところが一つだけある。

 それは、デジタル環境の充実である。

 まず、回線こそまだISDNであるものの、契約を新しいものにかえて、ついにインターネットが常時接続となった。24時間どれだけインターネットと接続して、データのやりとりをしていても、もう電話料金の恐怖におびやかされることはない。

 そして次に、ダイニングにLINUXマシンでサーバーが立てられ、各部屋にLANケーブルが配線されることによって家庭内ネットワークが構築された。これはもしかしたらわかりにくいかもしれないが、どういうことかというと、住人達は自分の部屋に居ながらにして、ネット上に公開されたさまざまな情報にアクセスしたり、住人同士でファイルやメッセージのやりとりが出来るようになったのである。つまり、僕達は自分の部屋でネットゲームに興じながら、別の部屋で音楽を聴いている同居人に、燃えるゴミが何曜日だったか訊ねたり、自分のハードディスク内の画像を見せたり出来るのだ。大声を出して用件を訊いたり、部屋にわざわざ呼びつけて画像を見せるだなんて、前時代的なことをする必要がなくなったのである。

 キーボードをカタカタとタイプしてすぐ隣室の人間と会話している僕達の姿を目の当たりにしたある知人は「気持ちが悪い」だとか「技術の無駄遣い」だとか散々馬鹿にしてくれたものだけれど、これこそ未来の人間のコミュニケーション方法だと、まあ冗談としてならそんなことも言える。

 という訳で、この部屋が棺桶であるのは揺るぎない事実であるにしろ、ただの棺桶とも言い切れないのはそういった事情による。それは、一本のLANケーブルによって、限りなく広い電脳世界と繋がった、無限の可能性を持つ棺桶なのである。

 というわけで、僕はその無限のインターネット棺桶で、自分の休日とインターネットの可能性を消費して、個人サイトで性欲の強い女の愚痴を読んだり、掲示板の不毛な論争を延々と閲覧し続けていた。別に面白くもない。いま鏡を見たら、きっと僕の目は曇ったガラス玉のように虚ろだろう。

 疲れて、のびをすると肘が傍らのカラーボックスにぶつかって顔をしかめる。

 やはり四畳というのは狭い。狭すぎると言っていい。テレビの載ったローボードを置き、万年床を敷き、CDプレイヤーを設置したらもう床が見えなくなってしまう。すぐに使う見込みのないものは全て106号室の四畳間に置いて来たのにも拘わらず、それでもパソコンを置くスペースが作れなくて、収納の扉を開け放したまま固定し、その中にデスクトップとモニターを置いている。

 僕は今万年床の上にあぐらを掻き、背中を丸めてそのパソコンを操作しているのだが、押し入れのなかからパソコンの発する熱がそよいで来るのが不気味であった。

 一通り掲示板などを閲覧すると、次に僕はディアブロ2という、地底の迷宮に入って魔物を殺し、彼らの宝物を奪うという実に爽快なゲームを遊んだ。

 これは隣室のU君と一緒に遊ぶ予定であったのだけれど、今日になって彼が急に作曲活動をしたいと言い出したのでその予定がなくなっていた。

 彼は逆野の知り合いで、こうやって暮らすまでほとんど面識がなかった人物である。シンセサイザーを弾きこなし、繊細なジャズアレンジを作るということで、会う前は細面の優男を想像していたのだけれど、実物はがっちりとした体躯にあごひげを生やし、短髪をツンツンに立てた男臭い人物であった。今は隣の106号室で逆野と住んでいて、二人で同人の音楽サークルを運営しているようだ。今日の作曲というのも、そのサークルのためのものだろう。

 彼は口を開けば音楽のことばかり話している。僕はあまりその世界に詳しくないが、彼の部屋は窓の前まで音楽機材で埋め尽くされており、その機械だらけの場所でしょっちゅうCDを作っているのは知っている。打ち込むべき創作活動があるというのは、うらやましいものだ。僕にはそんなものはない。唯一それらしいものはネット日記なんだろうけれども、あれは、ただつらつらと思ったことを書いたり、文体をいじくって遊んでいるだけのもので、僕自身が楽しいという他には何の役にも立たぬ代物である。まったくやってられない。

 一人でやるディアブロ2はさほど面白くは思えず、すぐに放り出してごろりと仰向けになる。

 平日の昼下がり。廊下を駆け回る幼児の楽しそうな笑い声が聞こえる。

 あれくらいの年の子供は、毎日がきらきらと輝いて見えるんだろう。それを聞いていると、気持ちが虚しくなってしまう。僕にもそう見えていた時期があった。

 仕方がないのでサイトにアップロードする日記を書こうとしてみたが、そっちもそっちでネタが思い浮かばない。しばらくぼんやり考えてから、諦めた。僕はサイトを毎日更新してはいるけれど、それは好きで勝手にやってるだけのことで、別に書かなくてはならない義務があるわけでもない。書き続けているうちに、なんとなく責任を感じてしまっていたけれど、それは本来おかしなことだ。苦しんでまで書き続けるのは馬鹿げている。今日は久しぶりに更新を休んでやろう。そう決めると、僕は、飲み物を取りに部屋を出た。

 だらしのない男しか住んでいないから、廊下には何に使ったのかわからぬ発泡スチロールや、雑誌のたぐいが散乱している。そしてその脇をLANケーブルが走っている。僕はそれらを蹴散らすようにしてダイニングに足を踏み入れた。

 ダイニングには、誰かが持って来た大きなテレビと、傷だらけのこたつ机があった。壁には僕が持ってきた安物の振り子時計が架かっていたが、引っ越しの際に振り子の部分が折れてうまく揺れなくなってしまったので、かわりに永谷園ののり茶漬けがぶらさがって揺れている。

 キッチンには、ガス台の横に写真の引き伸ばし機が置いてあり、これはこちら107号室の同居人である畳たたみ沢ざわという人物の私物であった。彼はキッチンとダイニングの間を暗幕で仕切れるように改造し、簡易な暗室として、時々ここでポジフィルムを現像している。

 彼はいま部屋に居るらしく、ドアの向こうからゆったりとした音楽が漏れ出している。

 僕は紅茶が飲みたいのだけれど、ティーバッグはどこにあるのだろうか? どこに仕舞ったのか思い出せない。そもそも僕が仕舞ったとも限らない。

 キッチンの棚をあちこち開けていると、ドアが開いて同居人が出て来た。

「タミさん」

 僕は彼をそう呼んでいる。

「何してるの?」

 くしゃくしゃとした金髪の癖っ毛を掻きながら、とろんとした眠そうな目で彼は訊ねる。

「ティーバッグ探してるんだけど」

「ごめん、さっきおれが最後の一つ飲んじゃった」

「ああそっか。じゃあいいや。それよか、なんだかタミさん楽しそうだね。何か薬飲んでる?」

「ああ、うん、レキを飲んでるよ。ミズヤグチさんも、飲む?」

 うんと頷くと、彼は部屋に戻って、錠剤のシートを取って来た。このピンク色の可愛い錠剤はタミさんが一番気に入っている向精神薬で、シートには商品名がレキソタンと印刷されている。

 彼は二週間に一度のペースで心療内科に通い、眠れないだの気分が重いだの、適当な症状を訴えては各種の向精神薬を仕入れていた。そうして手に入れた錠剤を飲みながら音楽を楽しむのが、アルコールが一滴も飲めない彼のリラクゼーションらしい。

 向精神薬と言えば、ネット上に多数生息する少女達が自慢げに自分の処方を晒し出す遠い世界のものとしてしか認知していなかったので、実際目の当たりにすると少し驚いたが、飲んでみれば思ったほど大げさな薬でもなく、僕もすぐに慣れた。

 僕は差し出される彼の手から一錠つまみ上げると、口に含み、水道水で飲み下す。

 既に昼でも肌寒さを覚える季節になっていた。ダイニングの端っこの方にあった石油ファンヒーターの電源を入れて、その前で紅茶のかわりのインスタントコーヒーをすすっていると、タミさんが嬉しそうにエレキギターを持って来た。

「これ、昨日知り合いのスタジオミュージシャンにもらって来たんだ。いま弦を張り直してたんだけれど、まだ全然使えるみたい。ギターは本職じゃないし、おれにはこれで十分だね」

 彼は多趣味な人間で、写真の他にも、ジャズバンドに入って楽器演奏をしたり、システムエンジニアやプログラマーとして仕事を請けたりしている。この部屋のシステムを構築したのも彼だった。

 元々名刺代わりにWEBサイトを作り、そこでプログラムなどを公開していたのだけれど、最近テキストサイトというものを見るようになって、趣味のサイトを別に作り、そこで夢の内容などを記録した文章を時々更新している。

 彼ともU君と同様、あまり口を利いたことはなかったのだけれども、ここで一緒に暮らすようになってからは妙に馬があって、音楽や映画の話や、もう少し立ち入った家族の話などを話すようになった。同い年ということもあるし、親に対する複雑な感情がどこか似ているのも、話しやすかった理由なのだろう。同病相憐れむというけれども、環境が似ているというのはそれだけで親しくなれるものなのだ。

 この107号室には、彼の六畳間と、僕の四畳間の他に、まだ一つ六畳間が空室となっており、そこにはT川君という人物が入ることになっている。

 正確な年齢は聞いていないが、おそらく僕らより二つか三つ年下だったはずだ。彼は東京大学を目指す浪人生で、今年合格したら共同生活への参加は見送ることになるらしいが、この一年、勉強どころか遊びほうけてしまったので受かる見込みはないというのが本人の弁だ。彼の引っ越しは、受験がおわった来年の春を予定している。

 今も戸が開いて、彼の到着を待つガランとした空っぽの部屋が見えていた。

 せめて部屋の主が来るまで、僕は狭苦しい棺桶でなくそちらで生活したかったのだけれど、悪いような気がして控えていた。こうした律儀なところが、僕の人格のもっと人に賞賛されてしかるべき美点だと思う。

 タミさんは嬉しそうにギターを一度かき鳴らすと、それで音が狂っているのに気がつき、チューナーを見ながらつまみをいじり始めた。

 僕は、ふと思い出して彼に訊ねる。

「さっき流しの下にさ、茶色いタンクが二つあったんだけれど、あれ何が入ってるの?」

「うーん、写真につかう現像液かな。劇薬だよ」

 作業を続けながら彼は答えた。

「もし間違えて飲んだらどうなる?」

「死ぬかな」

 こともなげに彼は言う。

「そんなものキッチンに置いたら危ないじゃん」

 僕が笑うと、

「そうだね」

 タミさんも笑った。

 チューニングが終わって、彼はグリーン・デイの曲だったら大体弾けると言うので、僕はリクエストをした。それに頷いたタミさんは、まず控え目の音量で〝Basket Case〟を弾きはじめる。それが終わると、

「これは〝Geek Stink Breath〟。日本語で言うと、〝オタクの臭い息〟だよ」

 嬉しそうに言って、再びギターをつま弾きはじめた。

 ギターは下手と言いながらも、しっかり曲になっている。僕は音楽を聴くのは好きだが演奏方面はてんで駄目で、学生のころに何か一つくらい楽器演奏技術を身につけるためにブルースハープを買ってみたものの、基礎的なところで躓いて放り出した経験がある。

 写真をやって、音楽をやって、最新技術にも精通して、人当たりも良く、その上あちこちで褒められる容姿を持っているだなんて、実にうらやましいものだなあと、ため息をつく。

 やがて僕の脳にコーヒーのカフェインと、レキソタンの主成分のブロマゼパムが、ほんのり作用しはじめる。

 タミさんはこの手の薬の感覚を、「頭を馬鹿にして、余計なことを考えないようにしてくれる」と表現していたっけ。

 僕は体質的に効きにくいのか、そこまでの効果は感じ取れず、ただちょっとふわふわしながら、これから書く日記の内容を考えた。


 もうどれくらいインターネットに文章を流して来ただろう? 何度か名前やスタイルを変えたりしつつも、サイトを開設してからそろそろ一年が過ぎようとしている。

 一年もやっていれば、どんなサイトでもよそのサイトからのリンクが増えて、テキストサイト界とでも言うべきか、そういった文章を書いたり読んだりする層にも少しずつ認知されて来る。何気なく閲覧したサイトに、僕のサイトがリンクされているのを見つけることもあった。ああいうのはそれなりには嬉しいものだけれど、不本意な紹介のされ方をして落ち込むことも多い。

 また、感想のメールが届く機会も増えて来たように思う。わけのわからんOLやら、女子大生やら女子高生からメッセージが届く。女ばかりが送ってよこすのは、話によると男性サイトには女性から、女性のサイトには男性からのメールが多いそうで、つまりそういうものなんだろう。

 書き手も読み手も若者ばかりだから自然なことだとはいえ、浅ましい話だ。虚しい話だ。「ファンです」「好きです」だなんて、そんな言葉がどうしても安っぽく聞こえるのは、失礼なのだろうか。そりゃ、異性からコンタクトがあれば嬉しいことは嬉しいのだけれど、わざわざ僕なんかに目をつけてメールを送る時点でどうかしていると思うよ。そもそも僕は誰かと個人的に知り合いたくて日記を書いているわけじゃない。無視されるのは嫌いだし、貶されるのも嫌いだけれど、褒められるのも嫌いです。

 初めのころはメールを貰うたびに嬉しくて、あんなに無邪気だったのに。今でもそれは基本的にはかわらないとは思うのだけれども、随分すれてしまった。いちいち穿った目で見るようになってしまった。本来の僕の人間性が出てしまった。悲しいことだ。

 全く僕は、「他者を蔑む病」と「自己を蔑む病」という恥ずべき二つの病によって骨髄まで侵食されている。こういう情けない考えは、みっともない考えは、謹んでいかねばならぬ。しかし困ったことに僕には極端な露悪趣味もあるものだから、結局こうしてここに披瀝してしまう。サイトにもそのまま書いてしまう。これはどうした精神の偏りなのだろう?

 とまれ、サイトを長く続けていれば、ネット上の人間との接触も増えてゆくという話であった。コミュニティに取り込まれてゆくという話であった。それが良いのか悪いのかは知らないが、僕も望む望まざるに関わらずそうした輪に近づきつつあった。

 増えるのはリンクや感想メールだけじゃない。ICQというものを知っているだろうか? これは、インターネットに繋いでいる者同士でリアルタイムのメッセージをやりとり出来る非常に便利なコミュニケーションソフトなのだけれども、サイトを通じて知り合った人間を登録したリストが段々長くなって来た。携帯電話のリストは寂しいものなのに、こちらばかり長くなるのは複雑な気分だ。

 そうして登録者が多くなって来ると、何かしら声をかけられて会話をする機会も多くなる。その日も僕のICQはメッセージを受信した。このソフトは受信するときに『アッオー』というコミカルな音が出て、これが気持ち悪くて嫌いだという意見もあるが、僕は結構気に入っている。

『今大丈夫ですか?』

 と送って来たのは『人民遊園地』という下品で露悪的なユーモアばかりを書き綴った悪趣味なサイトの管理人宇う見み戸とであった。この名前が本名なのか、ただのハンドルネームなのかは知らない。興味もない。

 この宇見戸が、僕のサイトが好きだと言って、最近やたらとコンタクトを取って来るのだ。言葉通り特にサイトを気に入ったと受け取るよりも、単に社交的な人物なのだろう。彼が普段からサイト管理人を集めた飲み会などを頻繁に開催し、テキストサイト界の交流に熱心なのを知っている。

 僕は今のところそういった集まりに顔を出したことはなく、ネット以外での宇見戸を知らない。だから彼がどんな容貌を持っているのかも知らない。僕より一つ二つ年上らしいけれども、やたらと腰が低い男であった。

 その彼が、僕のために飲み会を主催したいと申し出て来たのである。

『ミズヤグチさん、オフ会とかに顔出さないでしょう? 一回飲みましょうよ』

 オフ会というのは、普段ネットの上でしか付き合いのない人々が、実際に会合することを呼ぶ言葉で、僕は非常にもっさりとしたその語感が嫌いなのだけれども、みな普通に使っている。

『はあ、オフ会ですか』

 文章だけをネット上に公開し続けて、読者とメールやICQでのやりとりはしても、リアルの世界では馴れ合わないということに硬派めいたものを感じていた僕は、一線を越えてしまうようで気が進まなかったが、宇見戸はやたらと積極的だ。僕が具体的な返事を保留していると、すぐに宇見戸のメッセージが「アッオー」と音を鳴らす。

『いいじゃないですか。来て下さいよ。僕の他にも、会いたいって人もいるし、みんなでどうですか?』

『え、僕に会いたいって人がいるんですか?』

『是非って言ってます』

『気持ち悪いなあ』

 うっかり本音を言ってしまうと、

『そんなこと言わないで来てくださいよ。もちろん、飲み代はおごりますから。今週の土曜なんかいかがですか?』

 そこまで言われれば迷ってしまう。書き手に会いたくなるような文章を書いているつもりもないのだけれど、それでも会いたいという奇特な人間が、どんな顔をしているのか見てみたくもあった。

 あっ、向こうもそういうつもりなのか? あんな文章を書いてる人間がどんな酷い顔をしているのか、見てみたいのか。とすると、僕の顔を見て笑うつもりなのだろう。

 それは嫌だなあ。しかし、他人の金で飲み食い出来る会合であることを考えると、やはりまた迷う。何しろ僕は清く貧しいフリーターなのだ。

 それに、宇見戸はあまりまともな人間のようには思えないが、人を笑いものにしてからかうタイプのようでもない。そのタイプは僕である。

 どうしようかな。行こうかなあ。ああそうだ、僕一人でなければ、まだ気が楽なのだけれど。

 訊いてみると、タミさんも連れて行っても良いということなので、結局僕はその誘いに乗ることにした。

『誰が来るんですか?』

『クサノ君と、あと増岡っていうやつなんだけど、知ってますか? 「水とガジュマル」っていうサイトです』

 クサノは知っている。名前は忘れたけれど、背景が薄水色のテキストサイトをやっていたのじゃなかったっけ。軽い笑いを取るタイプの日記を書いていたような。もう一人の方は知らなかった。聞いたことがない。

 その場で宇見戸からURLを送ってもらうと、容姿に重大な欠陥のある男子大学生が、いかに自分が女性に嫌悪されているか、女性と仲良くなりたいか、そして童貞であるという状況が生み出す夢と絶望について、切々と、そしてメルヘンチックに綴られたサイトが僕のネットスケープに表示される。

『はあ、なるほど』

 と、曖昧な返事をせざるをえない。

 肥満しているだの、家が貧乏だの、心の病気だの、自分のコンプレックスをネタにするのはテキストサイトではよくあるスタイルであり、僕も種類の似た自虐的な文章を書くことも多いけれど、この増岡ってやつはあまりにも童貞と言い過ぎじゃないだろうか? 女性との性交に固執しすぎじゃないだろうか? 気持ちがわからなくもないとは言え、積極的に仲良くなりたくもない類の人物だ。

『彼も、ミズヤグチさんに会いたいそうですよ! 是非来て下さい!』

 全く気持ちの持ち上がらない情報ではあるが、これを聞いてじゃあやめますと言うのも業腹だ。内心の気後れを隠しつつ、行きますと返事をした。


二


 待ち合わせの場所は新宿駅東口のアルタ前だった。

 日が落ちて、行き交う人の顔が服がネオンのどぎつい明かりに濡れている。こういう風景を見ると、僕は椎名林檎を思い出し、そして椎名林檎が大好きだった学生時代の友人のことを思い出す。──あいつは元気でやってるだろうか? 月末になるといつも、二人のポケットの小銭を全部机の上に掴みだし、それで一番安い酒と煙草を買い、分け合ったっけ。僕の数少ない友人だった。多分まだあの街で大学生をやっていて、僕がこんな騒がしい街で、ネットで知り合った相手と酒を飲もうとしているだなんて想像もしていないだろう。

「ファンに会うだなんて、楽しみでしょう」

 人混みに出る時はいつも抗不安剤を飲んで来るタミさんが、うっとりしたような顔で言う。明らかに僕をからかっている様子なので返事はしない。

 新宿駅東口を出てすぐ目の前がアルタビルだ。人混みをかき分けるようにしながら、そのビルの目の前まで行く。さすが待ち合わせ場所のメッカだけあって、その辺りの路上は人待ち顔でぼんやり佇んでいる個人やらグループやらで埋め尽くされていた。

 黒いコートにヒョウ柄のマフラーを巻いた派手な女が深刻な顔で手元の携帯電話をのぞき込んでいる。大学のサークルか何かだろうか、男女の集団が時々はじけるような笑い声を上げている。無精髭の男と、病人のように青白い顔の男がひそひそと囁きあっている。その隣では、えらく若い少女が落ち着きなくキョロキョロと頭を動かして周囲を窺っているのだけれど、あれは家出か何かをして来たのかな? まだほんの子供じゃないか。一人で、こんな繁華街で、誰と待ち合わせているんだ。そう言えば最近やたらと未成年による売春が取りざたされているような気がする。──あまり見ない方が良いのかもしれない。

 僕たちは五分ほど早く到着してしまった。もう宇見戸達は来ているのだろうか? 来ているのだとしても、顔を知らぬ僕は相手を見つけ出すことが出来ない。ただ電話番号は知っている。

 さっそくその番号にダイアルすると、こちらの受話器からコール音が鳴り出すのと同じタイミングで電話を取り出す者が目の前にいた。それは、いまさっき見た髭もじゃの男である。彼はポケットからオレンジ色の携帯を取り出した。あれが宇見戸なのだろうか。

『もしもし』と受話器から流れ出る宇見戸の声と、「もしもし」と髭の男が口を動かすのが同じだった。間違いない。電話を閉じて手を振ってみせると、相手も気がついたようで、いそいそと頭を下げる。

「宇見戸です。はじめまして」

「ミズヤグチです。どうも」

 そう言ってお互い会釈を交わすと、宇見戸は自分の右に立っていた色白で眉毛の薄い青年を紹介する。

「彼がクサノ君です」

「はじめまして、クサノです」

「あ、どうも」

 僕はもう一度会釈を返しながら、あんまりぴょこぴょこと頭を下げる自分の姿が滑稽に感じられて仕方なくなった。

 つい自省的になって黙り込んでしまう僕をよそに、レキソタンで明るくなったタミさんが如才なく彼らに自己紹介をし、雑談をはじめている。僕以上に彼らと接点がない筈なのに、それを感じさせぬにこやかな態度だ。薬の力というものをまざまざと見せつけられる思いである。

「ええと、じゃあ、あとは増岡って人が来ればいいんですか?」

「もう来てますよ」

 宇見戸は素っ気なく言うけれど、それらしい人物が見当たらない。

「どこに?」

「彼が増岡君です」

 思わず聞き返す僕に彼が紹介したのは、彼の背後に隠れるように立っていた、ほっそりとした少女である。

「えっ」

 それはさっき見かけた落ち着きのない少女であった。

 この子は、援助交際の待ち合わせ相手を探している家出少女じゃなかったんだろうか? どうしてこれが増岡なんだ? 驚く僕を、宇見戸はにやにやと笑いながら見ている。

「この子は、飛び入りの参加者かなにかですか?」

「あはは、違いますよ。正真正銘増岡君です。増岡君の正体は女の子なんです。驚いたでしょう? あんなひどいサイトをやってるのに、まさかこんな若くて、しかも女の子だとは思いませんものね。僕もこの間オフ会で会って初めて知ったんですよ! いいでしょう? しかも彼女、女子中学生なんですから。ほら、ミズヤグチさん、日記に女子中学生がどうとか書いてたじゃないですか」

「あ、うん、そういうネタも書いたかもしれないですけど……」

「だから女子中学生を紹介しようと思いまして。ぴちぴちですよ」

 と宇見戸は下品に笑う。

 ああ、困ったなあ。何だよ、ぴちぴちって。紹介って、どういう意味だ。まるで脂ぎった政治家と女衒のような会話でうんざりとする。日記に書いた話なんか、あんなの冗談に決まっているじゃないか。どうして真に受けて本物の女子中学生を紹介してしまうのだろう?

 なんだかそわそわと落ち着かなくなってしまうけれど、そんな無様なところを見せたくはないので、僕は平静を装うよう努力をした。

「ど、ど、どうも、『水とガジュマル』ってサイトをやっている増岡ですっ」

 黙り込んでしまった僕に、少女の方も緊張でこわばったぎこちない動作で会釈をする。

「あ、うん、はじめまして。おれは『電気サーカス』のミズヤグチ」

 ついそう返してしまってから気がついたけれども、お互い名前と共にサイト名を名乗るだなんて、実に恥ずかしい自己紹介だ。これじゃ、なんだか本当にオフ会のようだ。

 僕はいたたまれなくなって、仕方なく頭を掻いた。


 有名な歌舞伎町一番街と書かれたアーチをくぐると、路上を行き交う男女の喧噪で満ちている。手にしたハンバーガーを食べながら歩く若者。すでに出来上がって真っ赤になった酔客。何が目的なのか、鋭い目で行き交う人々を観察しているスーツの男。そして交差点のところに台を置いて突っ立っているのは、あっ、これは最近流行の薬売りか。

 薬売りと言っても富山の行商人のように、熱冷ましや傷薬といった平和な薬品を売ってくれるわけでもない。もっと、どうしようもないものを売っている。

 彼らが扱っているのはスマートドラッグと通称される化学物質で、摂取すると精神に作用を与え幻覚が見えたり性感が高まったりするという触れ込みだった。薬効だけ聞くとLSDやらの違法薬物と変わらぬような印象を受けるが、まだ規制が入っておらず、売り買いしても検挙されないということで、業者は堂々と張り紙を出し、白昼でも街角に立っている。彼らの台から垂れ下がった紙には『いま話題の合法ドラッグ!』と手書きの文字で大書され、その下には『5-MeO-DMT』だの『5-MeO-DIPT』だのといった商品名が書かれていた。

 これが深夜テレビなどでも若者に人気のカジュアルアイテムとして紹介されていたりするのだから、日本はどうかしている。道ばたで買った薬など僕は使う気にはなれないが、どの街にもこうした連中がいるところを見ると、購入者はそれなりにいるのだろう。警戒心の薄いお上りさんや、怖いものしらずの学生が買って行くのだろうか。

 今も台の前に若い男の二人組が立っている。どんなやつが買うのか足を止めてその顔を見ようとしていたら、

「こんなところで買っちゃダメですよ。欲しいなら、もっと安く、信頼出来る場所を教えてあげます」

 宇見戸が小声で囁きかけてきた。

「いや、別に欲しくはないんですが」

「そうなんですか?」

 愛想笑いを浮かべると、宇見戸はまた先頭に立って僕らの案内に戻る。マジックマッシュルームが好きだとは以前から聞いていたが、こういう化学物質にも詳しいのだろうか。

 この宇見戸という人物は普段から新宿に慣れ親しんでいるらしく、いい飲み屋があるんですよと、初対面にもかかわらずICQで話していた時と変わらぬ気さくな口調で言っていた。今日はこれからその店に行くことになっているのだが、どんな場所なのだろう? 怪しい店でなければよいのだが。

 先頭を行く宇見戸の後をクサノとタミさんが肩を並べて雑談をしながら歩き、僕は最後尾でこの集団を追っていた。あまり離れると、人混みに紛れてお互いを見失ってしまうだろう。週末の夜、かき入れ時の新宿歌舞伎町はラッシュアワーのような賑わいを見せている。

 この都会の雑踏を嫌いだと言う人は多い。慣れないうちは体がぶつからぬよう歩くのが大変だとか、人が多くて酔ってしまうだとか。タミさんなどはその最たるもので、とにかく大量の人が歩き回っているのが不快で不快で仕方がなく、目の前を人が行き交うのを眺めているだけで耐え難い精神状態になってしまうと、いつも繊細なことを言っている。だから、街に出る時はいつも普段よりも多めの精神薬をあらかじめ飲んでいる。そうでなければ街に出られないのだそうだ。

 これは極端な例だとしても、この混雑を好きだという話はあまり聞かない。けれど僕はどうも、昔からこれが好きだった。

 そりゃ満員電車みたいに押し合いへし合いは嫌だけれど、こうして流れている限り、他人も自分もややこしい人間などない砂粒になってしまったようで心が落ち着く。静かに考え事が出来る。

 僕は歩きながら、十代の頃、当時の恋人とここに来たのを思い出していた。格好つけたがりだった僕は、ちょっと背伸びがしたくて、わざわざこんなところまで映画を見に来たのである。僕は楽しくて仕方がなかったのに、相手の女は新宿にいる間ずっと街が臭くて仕方がないと言って不機嫌だったっけ。帰りの電車でも二度とここには来たくないと顔をしかめ、せっかく遠くまで足を伸ばしたデートが完全な失敗に終わってしまった。

 一体何が臭かったというのだろう? 当時の僕はそんな悪臭をちっとも感じなかったし、いまもそんなにおいはしないように思うのだけれど。精神的な要因があったのかも知れない。彼女もやっぱりこの都会の人混みに辟易していたんだろうか? それとも、僕に対する抽象的な抗議だったのだろうか?

 クンクンと街のにおいを嗅ぎながら歩く僕の隣を、いつの間にか増岡が歩いていた。

 彼女は普通にしていられない人間らしく、さっきからそわそわとグループの前に行ったり後ろに行ったりしている。今も僕の隣を歩きながら、こちらを見たり、あちらを見たり、ほとんど前を向かないでうろちょろとしていた。子供っぽいというよりも、何か極端に自意識が強いか、羞恥心が強いかで、精神がグルグルとしているように見えた。だとしたら、僕と同じ病気だ。

 年は若かったが、身長はむしろ平均的な成人女性よりも高いくらいである。162センチか、163センチ程度はあるのではないだろうか? ただその身体は、年相応で、思春期の少女らしく、女になりきれていない凹凸の少ない肉付きだ。そして、その顔には未熟な化粧がほどこされていて、ファンデーションは分厚く、マスカラは重そうで、唇は赤すぎた。

 こんな餓鬼がこんな会合に当たり前の顔をして参加しているだなんて、世も末だ。警察に見つかったら、僕らが逮捕されたりしないんだろうか? まあ、この街でこのようなグループをいちいち逮捕していたら、警察はそれだけで忙殺されてしまうのかもしれないが。

 じろじろ見ていると視線が合ってしまった。彼女はどことなくゆるい笑顔を満面に浮かべるのだが、僕は咄嗟に愛想笑いを返すことが出来ず、思わず目をそらしてしまう。そんな自分の態度に軽い敗北感を覚え、苦々しかった。

 宇見戸が案内したのは、ビルの地下へ降りていったところにある居酒屋で、足を踏み入れると店内は薄暗く、テーブルの上にだけ照明がかかり、そのクロスがぼんやりと白く浮かんでいた。これは雰囲気があると言うべきなのだろうか? 大声を上げて騒ぐような客もなく、僕が働いていた居酒屋とは大違いであるし、客としてもなかなか行き付けない大人びた店である。思っていたよりもまともな場所で、宇見戸の薄汚れた風貌にも似合わず、おどろいた。

「高いんじゃないですか」

 宇見戸に囁くと彼は自慢げに鼻を鳴らし、

「そう見えるでしょう? でも、実はそれほどじゃないんです。だから、なかなか使い勝手がいいんですよ。……さあ、ミズヤグチさんは奥の席にどうぞ。主賓なんですから。他のみんなも腰掛けてください」

 彼は椅子を指さして、それぞれに席順の指示をする。仕切りたがりというか、前に出るのが好きな人物なのだろう。

「クサノ君はそこ。あ、増岡はそっちじゃなくて、そこにかけなきゃダメじゃないか。そう、ミズヤグチさんの隣だよ。あとは、タタミザワさんはそっちで、クサノ君はここでいいんじゃないかな」

 一同が席につくと、店員がオーダーを取りに来る。酒が飲めないタミさんと増岡がソフトドリンク、他は生ビールの中ジョッキを注文した。

 こんなセッティングをされてわざわざ少女と隣同士に座らせられると落ち着かないが、あんまりおどおどするのもみっともない。

「あのさ」

 せっかくだし、僕は気になっていたことを訊こうと思って、キラキラとした目で辺りを観察している増岡に声をかける。

「は、はいっ」

 すると、彼女はすぐに振り返ってこちらの目をまっすぐに見た。

 人見知りのようにも見えるのだけれど、正面から視線を合わせるのには抵抗がないようで、不意に合っても怯みさえ見せない。それは最初の時からそうだ。距離の取り方が僕と違いすぎてぎょっとする。

 対人感覚がどこか狂っているのだろうか? こんなに近くでその黒い瞳に見つめられてしまったので、僕はまた視線をそらしそうになったが、今度はかろうじて耐えた。

「あのサイト、本当に君が書いてるの? あんな、童貞がどうとかさ。とても女子中学生が書くようなサイトじゃないよ」

 僕は彼女の態度を観察しつつ、我ながら愛想のない態度でそう言った。

「一応、私が書いてますよ。確かに変なサイトですけど、HTMLもちゃんとテキストエディタで手打ちしてるんです。ドリームウィーバーとか使いにくくって」

「ああ、そうだね。確かに使いにくいな。おれもちょっと使ったけど、結局テキストエディタに戻ったんだよ。もっとバージョンアップしたら、違ってくるのかもしれないけど」

「そうですよねー」

 増岡は嬉しそうに頷く。

 未だにどうも信じられないが、こう話している限り嘘をついているという訳でもなさそうだ。あの冴えない童貞青年の正体が、この女子中学生だというのは間違いがないらしい。

 ネットでは表に伝えている性別や年齢が、必ずしも事実そのものではないというのはもはや常識だけれども、それは普通、男が女と偽ったり、肥満者が平均体重と詐称したり、顔のコンプレックスを修正した写真を掲載したり、自分を良く見せるものではないんだろうか? 古くはパソコン通信の時代から、そういう形の詐称が常識だったと聞く。その逆というのは意外だ。それとも、僕が知らないだけで、テキストサイトの管理人には、こういった例は少なくないのだろうか? 確かに、男性を名乗れば異性目当ての面倒な誘いなどはなくなるだろうが、ネットの女というのはちやほやされたがるものだろうに。

 いずれにしろ、インターネットというのは恐ろしいところだ。これが例外であるにしろ、そうでなかったにしろ、こんな年端もいかぬ少女がネット上の希薄なつながりしかない人間に会うために新宿までやって来て、こうして居酒屋にいるのは事実なのだ。まったく風俗が乱れているなあと、傍観者のように嘆息してしまう。

「増岡は、今日は酒を飲まないのかい?」

 宇見戸がおしぼりで手元を拭いながらテーブル越しに話しかけると、

「のっ、飲みませんよ。お酒なんか」

 増岡が苦い顔で答える。

「この間は飲んでなかったっけ? どうだろう? ……よく覚えてないな。僕もベロベロだったからなあ。しかしあの時は、楽しかったね! ……あのねえ、ミズヤグチさん、前のオフ会の時、この子は僕とキスしちゃったんですよ」

「え、そうなんですか?」

 僕は驚いたが、宇見戸は屈託がない。

「ええ、ええ、そうなんです。ハハ。しかもベロチューなんですよ。増岡も覚えてるだろう? ……なんだ黙っちゃって。ああそうだ、クサノ君もいたな。君は見てたよね?」

「さあ、どうでしたかね」

 クサノが迷惑そうに答えると、宇見戸はニヤニヤしながら、

「とにかく、前回は楽しいオフ会だったんですよ。いやでも、勘違いしないでくださいよ。キスって言っても、別にいかがわしいものじゃないんです。酒の席の盛り上がりというか、流れというか、そういったノリですから。増岡だって楽しそうに笑っていたんですし、誤解しないでくださいよ」

 聞いてもいないのに詳しく解説する。その言い分を増岡は肯定も否定もせず、ただ白い顔に苦笑を浮かべていた。

 そこでドリンクが運ばれて来る。

「じゃあ今日は、ミズヤグチさんを囲む会ということで」

 宇見戸はそう言ってジョッキを手に取るのだが、どうもその僕を囲む会って名前のつけかたが、からかわれているようで内心納得出来ぬのだけれど、僕も自意識の過剰なところがある人間だからただの気のせいかもしれない。不満を内心だけにとどめつつ、宇見戸の音頭にあわせて乾杯をする。

「しかし、こうして好きなサイトの管理人に会うのは楽しいですね」

 それぞれが飲み物に口をつけ、そして最初に話しはじめたのはやはり宇見戸であった。

「今日はあの『電気サーカス』のミズヤグチさんに会えましたし、この間の会では増岡にも会えました。あの時は、『アイソトープ』の人もいたんです。知ってますか? ええ、味醂さんです。うふふ、味醂って名前なのに、体が悪いそうで、青白い顔をしてましたよ。いやあ、あの人も良い文章を書くんですよ。もちろん、ミズヤグチさんも素晴らしいですけれどね。なかなか、ああいう文章は書けないものです。僕はね、本当にあなたのサイトが好きなんですよ!」

 彼は無精髭の間のぬらぬらと光る唇をゆがめて笑う。このナメクジのような唇で、この少女と口づけをしたのだろう。酒に酔っていたとは言え、よくそんなことが出来たものだ。

 僕がずっとその口元を見つめているのにも気づかず、宇見戸は話し続ける。

「テキストサイトっていうのは、みんなそれぞれの部屋から、それぞれの生活や人生で感じたことを、文字にして世の中に公開してるんですよね。それはシリアスで率直な言葉だったり、ユーモアで彩られた日常生活だったり、完全に架空の話をしてみたりもすれば、他のサイトに喧嘩を売ってみるやつもいたり。実にいいじゃないですか。生々しくて、リアリティがあって……そう思いませんか? そう思うでしょう? いや、何も言わなくたってちゃんとわかってます。でなきゃ、みなさんあんな文章を書くわけないですからね」

 へっへっへ、と宇見戸は笑い、

「どんな形であれ、みんな、どっぷりハマってるんですよ。それで何かが得られるというわけでもないってのが素晴らしい。純粋なものです。……実際、すごい熱量だと思いますよ! 僕は普段から仕事で文章を書いてますが、ああいう無償の情熱を見ると、反省することしきりです。これが表現活動の原点だと思うのですよ」

「そういう話になると、熱いですね」

 まだ飲み始めたばかりだというのに、クサノが目尻を赤く染めながら言う。

「知ってますか? 宇見戸さんは編プロでライターしているんですよ。僕、宇見戸さんが記事を書いた雑誌持ってます」

「へえ、どんな雑誌なんですか?」

 タミさんが訊ねると、何故か脇で聞いているだけの増岡がクスクスと笑い出し、宇見戸本人も苦笑する。

「いやあ、なんというか、あまりおおっぴらに人に言えないような雑誌ですよ。男性向けの雑誌なんです」

「ああなるほど、ページに肌色の多いやつですね。何にしろ、文章を仕事にしているのはうらやましいですよ。僕もそれで稼げればいいんですが。……なんかないですか? 小銭稼ぎでも出来そうなバイト」

 僕がそう言うと、

「そうですね。ミズヤグチさんにも仕事をご紹介出来ればいいんですが、どうかな。あなたの文章は好きですけれど、僕が関わっている雑誌向けじゃないんですよねえ。傾向が違うというか……」

 宇見戸は頭を掻いて、それまではやたらと歯切れが良かった言葉を急に濁す。こちらも軽い冗談で言っているだけなのだから、軽く返してくれればそれで終わりなのに、そうあからさまに態度に出されるとこちらも困る。

「やっぱりミズヤグチさんは、将来的には文章でメシを食いたいとか思ってるんですか?」

 きまり悪くなってしまった僕に、とりなすように宇見戸は言った。しかし、その質問もありがたくない。こと労働ということに関しては、フリーターにとってはナイーブな問題であるし、答えにくい。

「いや、そう強く憧れてるってわけでもないです。それに、仕事としてやっていけるとも思えないんですが、なんというか、他にしたいことがなんにもないんで。あの、肉体労働は疲れますし、今やってることが仕事に繋がればいいかなあと……」

 そう言葉を濁すと、

「はあ、なるほど、カラオケ屋でアルバイトしてるんでしたっけ? 日記にはまるで労働意欲がないと書いてありましたけど、やっぱりサイトのまんまですねえ!」

 宇見戸は嬉しそうに笑って、

「まったく、サイトの人達は面白いなあとつくづく思います。会ってみると、みな、若い人ばかりなんですが、年齢は同じようでも、中身は人それぞれで、普段の生活で鬱屈した何かをネットに吐き出している学生もいれば、単に手軽に虚栄心を満たそうとしている若い女の人もいたりして……。まあ、そのうちの全部が好きってわけではないんですが、いろいろいるってこと自体は愉快ですよ」

「宇見戸さんは、どんな人が嫌いなんですか? 会った人でも、サイトで見てるだけの人でもいいですから、教えてくださいよ」

 クサノが端正な面持ちに似合わぬ下品な笑みを唇のあたりに漂わせてそそのかす。こういう場合、まず自分から嫌いな人間を語るべきなのだろうが、全くそうしようとせず、リスクをとらないあたりが腹黒い。

 宇見戸はそれに気づかぬまま、

「いや、正直なところ、僕はアレが嫌いなんですよ。ほら、やたらと気取ってすました感じの、私は女ですよってのを前面に押し出した高慢ちきなテキストで、異性との恋愛の話や、オシャレな自分の生活を、自慢するでもなく自慢する、うすっぺらで中身のない人々がいるじゃないですか? そういうのを、すごく好きな人達もいるじゃないですか?」

「いや、僕に同意を求められてもこまりますが。そういうのもサイトの形として悪くはないんじゃないですか?」

 クサノは苦笑してから、すぐに真顔に戻すと、

「まあでも、本物と偽物ってのは、僕も、確かにある気がしますね」

「というと?」

「やっぱり、本物の何かをもった人間っていうのはいます。そういう人は文章も違うし、会ってみれば目も違う。例えば、増岡の目つきは半端じゃない。こんなおかしな目の人間は初めて見ました」

 そうして感嘆のため息をつく。

 その言葉でみんなが増岡を振り返り、不意に視線を集めてしまった彼女はおかしそうにケタケタと笑った。

「確かにこいつの目つきは変わってるね。ぎらぎらしてる」

 宇見戸が感想を述べると、クサノはうんうんと頷き、

「そうですよね。大体、中学生とは思えない文章を書くじゃないですか。これが成長していったらどうなるかと思うと、末恐ろしいですよ。ミズヤグチさんはそう思いません?」

 僕は言葉ではなく、曖昧に肩をすくめてみせる。おだてあうような場は居心地が悪い。

「いやいや、実際のところクサノ君の言うとおりですよ! 僕も、増岡を初めて見た時は、テキストサイトというものもなかなか馬鹿に出来ないと感じました」

 宇見戸はしみじみとため息をつくと、

「僕もサイトを始めてそろそろ一年が経ちます。確か、ミズヤグチさんもそうでしたよね? 僕達は同じくらいの期間サイトをやってるわけですが、昔に比べて、どうでしょう? いわゆるテキストサイトというものは、大分増えましたが」

「まあ確かに」

 と頷いてはみたけれど、正直僕はコミュニティの批評や分析には興味がない。

「ネットも段々普及して来てますし、母数自体が増えてるんじゃないですかね」

 通り一遍の返答で済ませると、

「いやいや、それだけじゃないですよ。確実に、文化としても発展しています。『Read Me!』だの『日記猿人』だの『日記才人』だののランキングサイトの数も増えて、活気づいて来ましたが、数だけでなく、その質も昔とは変わってきたとは思いませんか?」

「今更ですか? 日記サイトなんて、インターネットの初期の初期からあったじゃないですか。質が変わったような気もしませんが」

 僕の言葉に、宇見戸は首を横に振る。

「昔の日記サイトと、今言われるような『テキストサイト』というのはやっぱり違いますよ。大体、テキストサイトって日記だけではないでしょう? 妄想の垂れ流しでも、笑える小話でも、自分の凄惨な人生体験の告白でも、とにかく文章でもって何かを伝えようとしているサイト全てが、テキストサイトと呼ばれてひとまとめにされているじゃないですか。それだけでも、日記サイトという言葉では収まらなくなってると思いますがねえ」

「はあ、そんなものですか」

「そうですよ。書き手の雰囲気も違うような気がします。たとえば猫ちゃんの自慢日記のようなものは目立たなくなって来て、他人を楽しませようという意志をあちこちから感じるようになりました。これは、ランキングサイトの影響が強いんですよ。何か、面白さを競い合うような雰囲気がありませんか? それぞれ、頼まれもしないのに己の文章芸を磨きあって。そう、まるでこだわりの個人商店が並ぶ商店街みたいな。僕はこういうのは、面白いなあと思うんですよ。ミズヤグチさんはどう思います? あまり興味ありませんか?」

 宇見戸は一人でそう言って、そして笑う。

「まあ、そういう商店のひとつが『電気サーカス』だったり、『水とガジュマル』だったりするわけですよ」

「そんな、サイト名を大声で連呼しないでくださいよ」

 僕の抗議に宇見戸は「ははは、そうですか」一頻り笑うと、次はタミさんとクサノに向かい、具体的なサイト名を挙げながら貶したり褒めたりしはじめる。

 その話題では僕に絡むつもりはないらしく、どうやら、やっと解放されたようだ。

「こんなところでサイト名を呼ばれて、検索でもされたら辛いものがあるよね」

 隣の増岡に小声で感想を漏らすと、彼女もうんうんと頷いた。

 それ以降僕は完全に聞き手にまわり、黙ってテーブルに並んだ料理に手をつけているうちに、何杯かジョッキを空けてしまった。吐いた息がアルコール臭い。ここで一杯ソフトドリンクでも飲んで落ち着けた方がいいかなと、メニューをめくっていたら、増岡がおずおずと話しかけて来る。

「あの、ミズヤグチさんて、サイトと印象が全然かわらないですね」

「そうかな?」

「ええ、そっくりですよお」

「あんなクソみたいな文章と同じって言われてもちっとも嬉しくないんだけど」

「自分の文章なのに、何言ってるんですか」増岡は眉を顰め「文章の感じと、本人の感じがおんなじですよ? そのまま書いてるんじゃないですか?」と拗ねるように言った。

「タミさんにもそんなことをよく言われる。でもどうなんだろう? そもそも、人に読まれることを意識して書いてる以上、そのままなんてありえない。増岡なんか特にそうだろう? ああいう文章書いてれば、わかるはずだ」

「そうかなあ。私のサイトはそんなことないと思いますけど」

「あんな童貞サイトなのに?」

「あははは、そうですよ。あれだって嘘ってわけじゃないんですから」

 そう言って彼女は僕の肩を叩いた。

 その馴れ馴れしい態度に妙な感じがしたので、ふと見ると、彼女の目の前には先ほどまで飲んでいたオレンジジュースではなく、何やら紫色の液体が入ったグラスが置かれている。

 一言断って彼女のドリンクを一口飲むと、案の定その甘ったるい味のなかには確かにアルコールの香りがあった。

「この餓鬼、カシスソーダなんか飲んでやがる」

 顔を顰めて言うと、増岡はえへへと悪びれもせず笑った。

「まったく、一人でこんな繁華街まで来て、そのまま酒まで飲みやがって。前の時もそうだったんだっけ? 夜も遅いってのに、親は何も言わないの?」

 呆れて言うと、

「言わないです。だって、私、一人暮らしですから」

「えっ」

「お父さんが仕事で借りたマンションに、一人で住んでるんです」

「マンションって、どこなんだ。ここから近いの?」

 すると増岡は、山手線で十分もしない、すぐそこの街に住んでいるのだと、若干呂律のあやしくなった口調で言っては、笑う。どうやら酒が入ると笑いが止まらなくなるタイプらしい。

「なんで君くらいの年の子供が、都会で一人暮らしをしているんだよ。訳がわからない。もしかして、私立の学校か何かに通うために、そこに住んでるってこと?」

「いや、まあ、学校は私立ですけど、地元にある学校ですね。こっちからだと遠いです」

 増岡ははぐらかすように笑うが、僕はどうしても腑に落ちない。

「遠いってどれくらい?」

「栃木なんです」

「えっ、それじゃどうやったって学校に行けないでしょう」

「私、今学校に行ってないんですよ。あはは! まあいいじゃないですか、そんな話は。学校なんか行かなくたって、それがなんだっていうんです。そもそも、入学してから数えるほどしか登校してませんよ。友達とかは好きなんですけど、学校はなんだか私にあわないんです。まったく、うるさいなあ! 自分だって、フリーターのくせに。知ってますよ? サイトに書いてあったんですから。似たようなものじゃないですか。ひどい文章ばっかり書いて!」

 増岡は開き直って笑うと、自分のグラスに手を伸ばす。

 その時長袖の端からはみ出た白い手首に、傷痕が見えた。それは猫に引っかかれたような直線が何本も並行する傷ではあるが、しかし猫にやられたにしては重傷だ。

「あっ、それは」

 と僕が言うと、発見されたのに気がついた増岡は、一瞬ばつの悪そうな表情を見せたが、しかし隠しもしないまま動作を続け、唇につけたグラスを傾ける。

 ああ、これは、あれだな。僕だって、ネット日記に公開された写真を何度も見たことがあるぞ。おそらく自分でつけた傷なのだ。カッターナイフか何かで。つまりリストカットというやつに相違ない。実物を見るのは初めてだけれど、うわあ、これが本物なのか。

 驚いている僕の目の前で、増岡はごくごくと喉を鳴らしてカシスソーダを飲み干し、そしてそのグラスを机に戻すと、置かれていた何かにぶつかって、それが足下に落ちる。

 見ると一本鍵のぶら下がった革製のキーホルダーだった。僕が拾って差し出すと、増岡は何故か渋い顔をして受け取ろうとしない。

「いらないです。それ、捨てて下さい」

「何を言ってるんだよ。部屋の鍵じゃないの?」

「違います! それ、私の部屋の鍵じゃないんですよ。……ああもう、本当にいらないのに。もうっ!」

「あっ、お前、人がわざわざ拾ってやったのに、また投げ捨てやがって。何をするんだ」

「本当にいらないんです。だから、拾わないでいいんですってば!」

 再び拾おうと身をかがめる僕に、怒ったように言う。

「何言ってるんだよ。酔いすぎじゃないのか? さっぱり意味がわからない。大体さ、自分の部屋じゃないってことは、誰の部屋なんだよ?」

 訊ねると、増岡は露骨に動揺して、

「……なんというか、あの、知ってる人のアパートの鍵です」

「友達? いや、そうじゃなさそうだな。わかった彼氏か何かだな。だったら、もっと大事にしなくちゃ駄目だろう」

「ち、違います。彼氏じゃないです。あの、年上の、男の人ですけど、でも私はこんなのいらないんです。どうせ行かないし。向こうは勝手に私の部屋に来るけど……ああ、そうじゃなくて! もうっ! どうして、こんなものを持ってなくちゃいけないの!」

 増岡がもう一度投げつけると、キーホルダーは今度はクサノの足下まで転がって、彼が不審げに拾い上げる。

「これ、増岡の鍵? それともミズヤグチさんのですか?」

 そう訊ねられても、増岡はむっつり唇を閉ざしてしまって返事をしない。

「あ、彼女のです。こっちにください」

 かわりに僕が受け取ってはみたものの、また投げ捨てられてはたまらない。今度は手渡すのではなく、彼女のバッグのファスナーを勝手に開けて、そのなかに放り込んだ。そして、元通りファスナーを閉じる僕を増岡は恨めしそうに眺めている。

 午後十一時を過ぎる頃に宴はお開きとなり、僕達は店を出た。会計は前もって宣言していた通り宇見戸が支払ってくれる。何やらいい加減な言葉を喋る人だから、土壇場になって割り勘とでも言い出すのではないかと疑っていたのだけれど、一言もそんなことは言わなかった。

 そして僕らは来た時と同様に人混みを縫うようにして新宿駅まで移動する。

 子供ながらに酒を飲んでいた増岡が心配だったが、後ろからこうして見ていても足取りはしっかりしたもので、むしろその隣を歩いているクサノの方が危なっかしい。彼はしきりと増岡に話しかけ、彼女をケラケラと笑わせている。

「今日はどうでした?」

 宇見戸が僕のそばにやって来て訊ねた。楽しかったですと、他に言いようもないので当たり障りなくそう言うと、彼は嬉しそうに頷き、

「今度、クラブを借り切って大きなイベントをやろうと思ってるんですよ。テキストサイトを作ってる人や、読んでる人を集めて楽しんでもらおうかと。その時は、タタミザワさんとミズヤグチさんも来て頂けますか? お二人はもちろん関係者としてタダで入れるようにしておきますから」

「いいですね」

 とタミさんは言い、

「予定があえば」

 と僕は返した。

「本当ですか? いやあ、嬉しいなあ! 楽しみにしておいてくださいね。面白いイベントにしますから」

 行くと確言したつもりではなかったけれど、宇見戸がそう決めつけて歓喜する。

 駅まで来ると、みな別々の電車に乗るということで、JRの改札の前で解散となった。一人地下鉄を使う宇見戸は改札の外で最後まで僕らを見守る。彼に頭を下げてから構内を進むと最初の四つ辻でクサノが別れた。彼は悪い酔い方をしたのか、若干青くなった顔で中央線のホームへ向かっていった。そして次の四つ辻では増岡が、最初に会った時よりも大分砕けた馴れ馴れしい口調で別れを告げて山手線のホームへと去って行く。そうして、僕とタミさんの二人だけになった。

 僕らの乗り込む電車のホームは遠い。並んで歩き始めると、彼がドグマチールという薬を一錠くれるというのでそれを口に含む。

「これはさあ、元々胃の薬として開発されたんだけど、精神に作用するってことがわかって向精神薬として使われるようになったんだ」

 舌の下で錠剤がゆっくりと溶けてゆくのを感じながら、タミさんの説明を聞く。

 薬の話をする時のタミさんは実に愉しそうだ。

 このドグマチールというのは、女性ホルモンを増やす作用もあって、女性だと乳房が張ったり母乳が出たりするらしい。そうやって女友達が出した母乳を、舐めさせてもらった時の話もした。

「どんな味がしたの?」

「何の味もしなかった。ほんの少しだったからな」

「おれも舐めてみたいな」

「もしかしたら、男でも出るかもしれないよ。そうしたら、自分で舐めてみればいい」

「それは気持ち悪い」

 そして僕らは笑い、それから今日の感想を語り合った。

 店にいる時には気がつかなかったが、僕もずいぶんと飲み過ぎてしまったらしい。風景がグラグラと揺れ、げっぷをすると息が熱い。タミさんが、何か宇見戸を揶揄するようなことを言って笑っていた。よく聞こえないまま僕もそれに何となく同調して笑う。

 通り過ぎる女の香水がきつくて吐きそうになる。頭上の照明がやたらと明るく感じる。家に帰って眠りにつくと、上半身裸の宇見戸が毛むくじゃらの乳首から白い母乳をしたたらせ、これを舐めろと迫って来る夢を見た。


三


 寒い寒い季節である。

 僕の部屋には気温を上げる術がなかったから、夜になると空気が冷たく凍り付いてしまう。万年床の湿っぽい掛け布団だけでは到底体を温めることが出来ず、コートを身につけたまま寝床の中に潜り込む。まったく、ここまで来ても僕はホームレススタイルで寝ることになるのか。

 眠れないままぼんやりと思う。今年も十二月になってしまった。もうすぐこの一年が終わってしまう。早いものだ。一体、この一年はなんだったのだろうか?

 まず、逆野とトラックに乗り込んであの陰気な実家を揚々と脱出したのが始まりだった。

 あの時は少年時代を重苦しく覆っていた家族間の息苦しい問題からようやく離れ、完全に自由になったと晴れやかな気持ちになったものだ。

 逆野と共に移り住んだ街は、関東でも有名な性風俗店の密集地で、安価で質のよい玄人好みの店が多いのだという話をよく聞く。違法カジノなどもあちこちにあったらしい。

 興味があったけれども、結局一度も行かなかったな。そういった悪所に金を使うよりも、その分労働時間を減らす方が僕の好みにあっている。そしてアルバイトが休みの日は、ネット日記を更新し、ゲームをして遊び、酒を飲む。それで結構幸せだった。

 僕は根本的に何もしたくないのだろう。実家にいた頃は、逃げ場のない居酒屋で、否応なく働くしかなかったが、自分一人の身軽になってしまうと、最小限の行動しかしようとしない。なんという無気力だろう。

 そこで僕はくしゃみを一つした。思いの外に大きな音だ。部屋がシンと静まりかえっているせいだ。タミさんはもう眠ったのだろうか? 用がなければお互い部屋に閉じこもっているから、何をしているのかわからない。

 そうして何事もなく、逆野との二人の生活は終わり、そしてこの場所での共同生活が始まった。

 もう二ヶ月ちょっとになるのだろうか? 今のところ、悪くはないな。想像していたような多人数の煩わしさは感じていない。やはり、お互いに干渉というものをほとんどしないせいだろう。みな表面的には違ったりもするが、根本的には内向的なオタクであるから、部屋からあまり出て来ないで勝手にそれぞれのことをやっている。

 かといって全く素っ気ないのかというと、そういう訳でもなく、たまには集まって一緒に食事をしたり、わいわいと騒いだりもするのだ。

 この間は、向こうの部屋でU君がキーボードを弾き、タミさんがギターをあわせていたな。その時、何も出来ない僕と逆野はU君の集めた珍しい楽器を適当にいじっていたっけ。

 あまり面識のなかった相手でも、暮らしてみればなんとかなるものだ。思えば、インターネットがなければ、僕がネット日記など書いていなければ、おそらく彼らとは一緒に住むことなどなかった訳だから、そう考えると不思議な気もする。ただ好き勝手にパソコンに向かって書いているだけで、こんな風に他人と出会うとは、あのひとりぼっちの殺風景な部屋でサイトを立ち上げた当時は想像もしなかった。

 まったく、情報化社会というのは実に恐ろしいものだ。いかがわしいものだ。繋がるはずのない人間をいとも容易く繋げてしまう。多少検索能力があれば数クリックで違法薬物の通信販売サイトにたどり着くことも出来るし、自殺の手伝いをする掲示板などというものもあった。そしてオフ会をやれば、登校拒否の女子中学生まで来てしまうんだ。──そう言えば、あの宇見戸という男はなんなのだろう? ネットのボンクラどもを集めて何かするだなんて、その企み自体が胡乱じゃないか。インターネットは、現代人の心の暗闇を反映した魑魅魍魎の世界なのだな。

 もちろん、そんなことを言っている僕だって、その一員だ。あれからあの女子中学生と連絡を取り合っているし、宇見戸のイベントにもおそらく行くだろう。なんだか流されている。このままいつまでも流され続けるのだろうか? その先には何があるのだろうか?

 やがてうつらうつら、眠りについて、そして朝になり、物音で目が覚める。

 玄関の方から女の声が聞こえた。話しぶりからすると、タミさんの恋人のようだ。そう言えば今日連れて来るって、そんなことを言っていたような気がしたが、まさかこんな朝っぱらからやって来るとは思わなかった。

 考えてみれば今日は土曜日だし、二人で週末を目一杯使って遊ぶつもりなのだろう。僕らのような四六時中暇を持て余している怠惰なフリーターではなく、謹厳に学校に通っている学生らしいから、土曜日は朝から晩まで自由に行動出来る貴重な一日なのだ。

 玄関で出迎えたタミさんが部屋に招き入れようとしているのが聞こえる。僕は換気のために戸を開けっ放しにしていたので、このままでは廊下を通る来客にこの部屋の惨状を見られてしまうが、かといって、ここでぴしゃりと戸を閉めるのもいかにも拒絶的で感じが悪い。というか、こんなに開けっ放しにしていたから昨夜は寒かったのだな。気がつかぬほど、酩酊していたのだろうか。

 彼らが通りかかる前にとりあえず布団からは抜け出したが、戸を閉めて部屋を隠すのはあきらめた。こそこそと情けない。見たいなら、この散らかった無様な部屋をありのまま見ればいい。別段見栄を張る理由があるでもなし。

「あ、こんにちは」

 以前、二、三度挨拶をしたことがあるその恋人は、部屋でパソコンを立ち上げようとしている僕と目が合うと小さく頭を下げた。

「どうも」

 寝起きで頭が重い僕も同じように会釈を返す。

 僕もタミさんも学校を中退し、こんな絵に描いたようなドロップアウト組として荒んだ生活をしている訳だから、彼女がこのまま卒業してしまえば人間として随分と差がついてしまうことになる。そして実際彼女はもう卒業が決まっており、しかも、卒業後の就職先も内定しているのだそうだ。それは世間の誰もが知っているような大企業らしい。

 タミさんがその格差を嘆いていたのを思い出す。僕もこうして面と向かうとなんとはなしに引け目を感じる。この劣等感はこの先増大して行く一方なのだろうなあ。そのうち表を歩く人の顔もまともに見られなくなってしまいそうだ。

「起きてたのか」

 彼女の肩口あたりからタミさんが顔を出してそう言った。

「いま起きた。びっくりしたよ。迎え入れる前に起こしてくれたっていいじゃないか。あやうく部屋で寝てるところを来客に見せるところだった」

 僕が愚痴ると、

「開けたまま寝てる方が悪い」

 タミさんは笑顔で至極もっともなことを言う。

 そのまま二人で通り過ぎてゆくのかと思いきや、恋人は廊下に立ち止まったまま室内の僕に話しかけて来る。

「すみません。ちょっといいですか? 今度ミズヤグチさんに会ったら、何か小説を薦めてもらおうと思ってたんですよ」

 何故僕がこの人に小説を? 意外なことを言う。これまでは本当に挨拶程度の付き合いで、まともに会話したことだってないのだ。そもそも、薦めようにもどういう人間だか知りもしない。

 もしかしたらサイトでも見られたのだろうか? そして向こうの方が一方的に僕を知ったような気になって、こんな質問をして来ているのかもしらん。

 タミさんが「これが同居人の日記だよ。どうだい気持ち悪いだろう。面白可笑しいだろう。本人もこのままなんだぜ」などと言いつつURLを教えたと考えればあり得る話だが、だとしたら相当恥ずかしいのだけれど。

 しかし「僕のサイト見てますか?」「日記読んでますか?」と過剰な自意識を剥き出しにした質問をする訳にもいかない。さすがにそこまで厚顔にはなれない。

「ああ、うん、別にいいですけど」

 困惑しつつ頭を掻くと、壁際に積み上げた文庫本の背表紙を眺め、何か渡せる本がないか探した。

「ちょうど最近読み終わったんで、これ」

 僕は一番上に積んであった新潮文庫を手に取った。ラディゲの『肉体の悪魔』が収録してあるやつだ。コクトーを読むついでに読んだのだけれどちっとも面白くなかった。世間では名作なのだろうが、僕にとっては、ラディゲはやはりあわないという事実を再確認するだけの本だった。

 それを、彼女に手渡したのである。

「ありがとうございます。読むのに少し時間かかっちゃうかもしれませんけど」

「別にいいよ。あわなかったのを処分するだけだから。返してくれなくても大丈夫。気にしないで貰ってよ」

 彼女は冗談と受け取って苦笑しているけれど、僕は真実をありのまま口にしただけだったので、なんとも申し訳ない。

「楽しみだなあ」

 などと言っているが、嘘偽りなく自分にとってのゴミを押しつけただけなので、お薦めでもなんでもない。

「有名な本だし、あうといいね」

 と、僕は当たり障りなく言って笑ったりしている。

 それにしたって、友人の恋人と、こんな、友人の入る余地のない会話をしているのはなんなのだろう? 気まずくて、そわそわと落ち着かない。僕に下心などがある訳でもないし、向こうもごく日常的な会話としてこんな要求をしたのだとは思うが、こういう状況自体が苦手だ。

 立ち去ってくれるのかと期待して本を押しつけたのだけれど、しかし彼女はまだそこに立ったままにこやかに話しかけようとする。僕の方からは特に話題がないので、曖昧に答えるばかりだ。

 しかし、この妙な興味の持たれ方は、やっぱりサイトを見られているからではないだろうか? そうでなければちょっと説明がつかないような気がする。

「ミズヤグチさんて、『罪と罰』に出て来るラスコーリニコフに似てますよね」

 ふと彼女が有名なロシアの小説の登場人物の名前を出して言うと、

「いやそれならむしろ、スヴィドリガイロフだろう」

 タミさんが真顔でそう訂正し、そこでようやく彼女の手を引いて戸口を立ち去った。

 やっと僕は一人になって、寂しいような、ほっとしたような。とりあえずため息をつく。

 彼女が口にしたラスコーリニコフという人物は金貸しを殺して娼婦に恋する病的な主人公で、タミさんが言ったスヴィドリガイロフというのは彼の妹を脅したりすかしたりして手込めにしようとするも失敗して自殺するいやらしい金持ちだ。どちらにしても世間ではほめられるような人間ではないけれど、僕にとっては好ましいキャラクター達なので悪くはない。ただ、どちらかといえばスヴィドリガイロフの方が好きだった。シンパシーも感じる。さすがタミさんはよくわかっている。

 突然の来訪者でうっかり失念しそうになっていたが、今日はアルバイトの出勤日であった。出発の時間が迫っていたので、身支度をして部屋を出る。玄関で靴を履く僕の背中、タミさんの部屋の閉じられたドアの方向から、二人の楽しげな笑声が漏れていた。

 路上に出ると、真冬の青白い空に太陽が控え目に照り輝いている。寒風が吹きすさんで、目の前の一軒家に吊された洗濯物がバタバタとはためいている。僕はポケットに手を突っ込むと、体が冷えぬよう背中を丸めた。そして、ぐねぐねと起伏する道を上がったり下がったりしながら、駅へと向かうのだ。


 池袋駅前の大通りから、蟻の巣の様に入り組んだ路地に足を踏み入れる。

 狭い裏路地であったが様々な店が建ち並び、多くの人が行き交っている。そこを、人の間をすり抜けるように進むと、百円ショップの隣に緑色のシャッターが下りたビルがある。それが、僕の勤務先のカラオケボックスであった。

 鍵をポケットから取り出すと、凍てついて差し込みにくくなった鍵穴に突き刺して解錠する。そして、シャッターの中程にある穴に手をかけて持ち上げると、錆びかけた金属のけたたましい摩擦音が響いて、通行人の視線を集めた。向かいの本屋の親父も怪訝な目でこちらを睨む。バツが悪いが、どうやったって音が立つシャッターなので他に仕様がない。

 背中に視線を感じながら腰くらいの高さまで引き上げて、その隙間を潜るようにして店内に入った。すぐ目の前は上り階段になっており、さらに奥の方で警報音が鳴っている。シャッターを開けたらセキュリティ設備が作動する仕組みになっているので、急がなくてはならない。

 僕は小走りに階段を駆け上がると、フロントの裏のバックルームに入り、キーホルダーにぶら下がるカードキーをさし込んで警報音を止めた。この操作をしないで鳴るがままにしていると、セコムの警備員がやって来てしまうらしい。僕はしくじったことがないが、新人がたまにやらかしている。

 セコムのパネルのすぐ目の前にはタイムレコーダーが置いてあり、僕はその脇のカードホルダーから自分と、それから同僚のタイムカードを選び出し、出勤時間を記録する。これで今日も僕と、それから同僚は遅刻をせずに出勤出来たことになる。

 僕はレジの脇にあるスイッチを操作して有線を普段流しているJポップから、ジャズのチャンネルにした。すると、店内には急に夜のムードが漂い始める。

 ドリンクコーナーで長細いグラスにジントニックを作り、フロントの前に置いてある革張りのソファーに寝転んだ。開店時刻まで残り三十分。十分もあれば開店準備は終わるので、いつも僕はこうやって二十分は寝転がっている。

 照明を消したままの薄暗い店内でうとうとしていると、携帯電話がガラステーブルの上で振動し、音を立てる。

『しいちゃん?』

 受話器越しに僕を呼んだのは、同僚のタバタさんだった。到着が開店間際になりそうだとの話である。既にタイムカードを押してあるから別に焦る必要はないと伝えると、

『ありがとう。今度私が鍵の番になった時は、遅れて来ていいからね』

 と電話は切れた。

 今日はオープンを一人でやらなければいけないということで、普段より少し早めに動き始めることにした。制服に着替えると、ダスターを持って各部屋の清掃をし、それからバケツに水を汲んでフロアにモップをかけ、そして釣り銭の確認をする。これで店内のスタンバイは終わりなので、階段を下りて半開のままにしていたシャッターを完全に開き、スタンド看板を押し、ガラガラとキャスターを走らせて路上に出す。

 夏と兼用の薄っぺらい制服には真冬の外気は冷たかった。白い息を吐きながら、いつもの場所に設置したスタンド看板の前にかがむと、電源コードを入り口の内側にあるコンセントに繋げる。するとそこでタバタさんが出勤して来るのと出くわした。

「おはよう」

 挨拶をするタバタさんは冬だというのに肌を小麦色に焼き、髪を明るく染め、黒いコートとブーツを身につけた当世風の姿格好をしている。僕の目の前にはむきだしの太腿があり、そこに鳥肌が浮いていた。

「おはよう」

 そのぶつぶつとした脚を見ながら返事をすると、

「ごめんね。寝坊しちゃって。昨日オールで飲んじゃってさ」

 彼女は申し訳なさそうに言って、僕が別に気にしていないと返すと、小走りに階段を上って行った。

 看板に明かりがついたのを確認した僕は、立ち上がってのびをする。これから、今日の賃金労働が開始されるのだ。

 このカラオケボックスは、本格的な厨房が併設され専門のシェフもいる、高級志向とは言い過ぎだとしてもこの辺りでは比較的高い価格帯の店だった。しかし、昼間のフリータイムは料金システムが違って近隣の競合店のどこよりも安い。だから開店と共に、金はないのに時間ばかりが余っているような若者がどっと押し寄せて来るので、平日でも休日でも開店直後は受付待ちの列が出来るほど忙しい。

 しかし、一旦満室になってしまえば後は暇なものだ。安価なフリータイムを利用するような客達は時間一杯部屋で粘ろうとするし、追加のドリンクも頼まない。彼らはひたすら歌い続けている。そうした客で部屋がうまれば、あとはバックルームにこもって雑談でもしていればフリータイム終了の時刻まで勝手に時間が過ぎて行く。階段を上がってくる新しい客には、満室ですと答えて帰らせるだけだ。

 この店の早番の仕事とは、まあそういうものだった。あまりにも長い時間二人きりでいるので、同僚とうまくいかないのなら苦しい時間だろう。

 基本的に男の従業員は遅番に振り分けられるのだが、僕はなぜか早番のシフトを組まれることが多かった。そして僕以外の早番は全員若い女なのである。すると、働きに来れば必然的に彼女のうちの誰かと、ほぼ二人きりで一日を過ごすことになる。女同士では色々と好き嫌いがあるらしいが、こういう場合男は得だ。彼女たちの政治闘争の外側に置かれ、緩衝地帯のような扱いになっている。だから割合誰ともうまくやれている。

 人間関係さえクリアしてしまえば、これほど楽なアルバイトはないだろう。若い女の世間話にジュース片手にうんうんと頷いて、それで時給が発生するのだから容易なものだ。ここで働きはじめたのは逆野と二人で暮らしていたころだが、引っ越して通勤時間が長くなった今でもめげることもなく通い続けていられるのは、こうした事情による。

 まったく、大体世の中には良い職場というものは少ない。楽しく平和に過ごせる職場というものは少ない。いや、楽しくないことをするから金を貰えるのだと、それはわかっているのだけれど、しかし理想というものがあるじゃないですか。

 そうそう、今は不況でもあるのだし、かつて好景気だった時代よりも悪い仕事が増えているわけでしょう? だから僕が、ここのアルバイトを見つけるまで、どこにも落ち着かずに職場をとっかえひっかえしていたのも、半分くらいは世の中のせいなのだと思うよ。

 あの頃に挑戦したアルバイトのうち最悪だったのは、地下鉄の工事現場の仕事だった。

 そこは中上健次の小説の主人公が、強姦をする前に働いていそうな現場だった。地下の奥深くで職人がドリルで掘り崩したコンクリートの瓦礫を、ガラ袋一杯に詰めて地上まで担いで登るのだけれど、肉体的に過酷なのはもちろん、空中に舞い上がる粉塵が視界を真っ白に染めて、それを吸い込むとマスク越しでも口元が真っ黒になるのが辛い。おまけにその時僕は感冒にかかっていたので、次第に意識もぼんやりとし、ここが自分の墓場になるのだと確信した。

 もうろうとした意識のまま、僕は子供の頃によく巣から砂粒を運び出している黒蟻の姿を眺めていたのを思い出した。彼らはこんな気分だったのだね。巣穴に水を注ぎ込んだり、つまみ上げて潰したりして悪かった。あの報いをおれはいま受けているのか。おれはこの暗い穴の中で蟻の呪いに殺されるのか。起きながらにして悪夢にうなされ、階段の下でへたり込んでいると、このアルバイトのベテランらしい男が僕のガラ袋を担ぎ上げた。

「初めてだと辛いよね。休んでなよ」

 彼は粉塵と汗で真っ黒になった顔に白い歯をむき出して笑う。年の頃は僕と大差なさそうだし、さほど屈強とも言えぬ身体つきなのに、僕よりはるかにタフだった。あの時僕は、世の中には超人というものがいて、自分は決してそれにはなれないのだと知った。中上健次の小説の主人公のようにはなれないのだと知った。

 あの人間を蟻にしてしまう恐ろしい職場に比べればここはまるで天国だ。繰り返すが、女の世間話にジュース片手にうんうんと頷いて、それだけで時給が発生するのである。金が貰えるのである。まったくいい身分だ。いや、これが本当の人間の生活なのだろう。黒蟻も中上健次も糞食らえ。僕にはこうした筋肉を必要としない繊細な仕事が似合っている。以前実家の居酒屋で働いていた時、女とぺちゃくちゃと話すなと言って板前を辞めさせてしまったのを思い出すと心苦しいが、これも世の定めというものなのだろう。

 さて、そうして今日もいつも通りの仕事が始まった。

 シャッターを開けてフロントに戻って来た僕の後を追うように、続々と若者達が階段を上って来る。開店時間にはまだ早いため、彼らはロビーで待つことになる。開店して入室処理を行っている間にも客は増え続け、しまいには椅子もソファーも足りずに壁際に並ぶような有様となる。これが毎日の光景だ。

 従業員の片方がレジで受付と伝票処理をして、もう片方がひっきりなしに掛かってくる内線をとってドリンクのオーダーを受ける。三十分ほどでめでたく満室となり、それからは二人でドリンクの対応をして、さらに十五分もすれば一段落が付く。僕らはバックルームに引っ込んで一息ついた。

「しいちゃんはジュース何飲む?」

 マイクの修理をするために、机の上に半田ごてや交換パーツを並べている僕に、タバタさんがそう訊ねた。

「じゃあ、コーラを貰える?」

 作業をしながら言うと、彼女はパタパタと足音を立ててバックルームを出て行く。

 今彼女が「しいちゃん」と呼んだのは、それがここでの僕のニックネームだからだ。ここでは僕の名前は『篠塚悟』であり、だからそれをもじってみんな勝手な呼び方をしているのである。

 数ヶ月ほど前に両親の離婚が成立したばかりだった。僕はすでに二十歳を越えているので親が改姓したからといって変更する必要もないし、メリットもなかったのだが、人生に本名が変わる機会などそうあるでもなし、面白そうだったのでこの機会に変更した。

 その結果、僕の名字は『水屋口』になったのだが、家庭の事情を説明するのが面倒臭くて、店ではまだ古い名前で通している。変わったということも店長以外には教えていない。だから、彼らは僕の本当の名前を知らない。ちょっとしたスパイ気分である。

 ただ、本物のスパイならば本名を知っているのは同国の限られた人間だけなのだろうが、僕の場合ネットの人間なら誰でもその本名を知っているという点で違った。それは勿論、サイトを立ち上げた時にハンドルネームとして採用したのがこの『ミズヤグチ』という名前だったからだ。

 当時母の旧姓を用いたのは、もちろん匿名的な意図からである。元々、ネットで本名など公開するつもりはなかったのである。水屋口というのは珍しい名字だから、架空の名前のように受け取られるのも都合が良かった。

 なのに、こうしてそれが本名になってしまった。そしてその結果として、ネットの世界では嘘偽りのない本名で日記を公開し、そして現実世界では、篠塚という、今となっては嘘の名で接するという酷い有様になってしまった。

 テキストサイトを制作している人間は世の中に数多いと思うが、こんな巫山戯た状況で生活しているのは僕くらいのものじゃないだろうか。もちろん普通は、現実では本名を名乗り、ネットでは偽名を使うものである。

 まったく、こうなっては、絶対に店の同僚に本名を教えることなど出来やしない。

 万一何かのはずみで『ミズヤグチ』という言葉をカタカナで検索してしまったならば、僕のサイトが一番上に来てしまうのは確認済みだ。そして同僚がそれをクリックしたとしよう。すると、気色が悪いとインターネットの皆さんにお褒め頂いている、あの珍妙な文章を目にすることになってしまうのだ。僕はサイトの日記に職場における陰口や愚痴などを書いたことはかつて一度もないが、そういう問題ではない。

 あんな、筆者の人間性への疑念しか抱かせぬような、書いた本人さえも読み返すと羞恥のあまり死にたくなるような、恥知らずな文章を同僚に見られてしまったならば僕のこの職場での立場がどうなるか? 僕がこの職場で本性を隠して築き上げた、頼りになる男、役に立つ男、裏表のない親切な男、といったポジティブな虚像が『痴人の愛』の主人公河合譲治の、ナオミに出会ってからの人間性みたいに容易く崩れ去ってしまうに違いない。

 いや、内容以前に、毎日ネットに文章をアップロードしているという行為自体、インターネットと関わりの薄い人間からしたら不気味なものであるはずだ。世間はまだインターネットというものは、芸能人の公式サイトを眺めたり、ニュースを拾ったりする場所としか認識していない。そこに、頼まれもしないのに毎日自意識むき出しの文章を書きまくっている連中がいると知られたらどうなるか。その一人だと知られたらどうなるか。ネット日記を書くような人間の多くは、それを恥部だと考えているはずだ。僕もその一人で、だから、このバイト先ではもう本名は一言も口に出せないと覚悟し、そして今後何があっても秘匿し続けるつもりでいる。テキストサイト管理人というものは、隠れキリシタンのように密やかでなければならないのだ。

 机の上にマイク修理作業の道具をひと通り並べ終わる頃、タバタさんがグラスにコーラを入れて持って来てくれた。僕はそれを一口飲んでため息をつく。

 時計の針はまだ十四時で、フリータイムが終わるのは十八時だった。全てのマイクを修理してしまった僕は、監視カメラのモニターを見ながらタバタさんの話を聞いている。

 最近新しい恋人が出来たそうなのだが、どうもうまく行っていないと彼女は言う。そしてその愚痴を言って同意を求めて来る。至ってどうでも良い話なのだが、面と向かってそう言うのも気の毒なので、ほどほどにタバタさんの話を肯定し、またほどほどに相手の男を擁護したりもして、バランスに気をつけながら聞いていると、彼女は勝手に気を取り直して、今度は逆にその彼氏の美点などを並べてのろけはじめた。結局幸せで仕方がないのだろう。今日遅刻したのだって、飲み会だと言っていたが、本当かどうか。彼氏といたのではないか。それを指摘してみたら、タバタさんは「えへへ」と照れ笑いをする。まったく、僕にはよくわからない。

 やがてフリータイム終了の時刻が訪れた。出勤して来たばかりの店長とタバタさんにレジを任せ、僕はルーム清掃にまわる。

 時にはドリンクをひっくり返してテーブルやソファーがべとべとになっていたり、モニターの裏に何に使ったのかわからないティッシュなどが落ちたりしているものだが、今日はおおむね常識的に使用されていたので清掃も楽だった。トレイに回収したグラスを満載してパントリーに戻って来ると、ゴールデンタイムに備え、厨房にはシェフとオグラさんが出勤している。

「おはようございます」

 僕が挨拶をすると「ああ、おはよう」「おはよう」と声が帰って来る。

 白いコックコートを身につけた二人は、銀色のナイフで野菜を刻んだり、調味料を混ぜて仕込みをしている。居酒屋の厨房で働いていた僕は、彼らがどんなものを作っているのか気にしながら、グラスを洗浄機にかけた。

「しのぴー、ちょっと食べる?」

 見られているのに気がついたシェフが僕にそう声をかける。呼び方についてはもう触れまい。みな統一もせずに随分と好き勝手に僕を呼ぶ。正直なところ、僕という人間は気難しくてとっつきにくい部類に入ると思うのだが、どうしてこんなに馴れ馴れしくされているのか謎である。

「食べます。くれるものなら、なんでも食べます」

 即座に言うとシェフは笑って、白い皿に水にさらした玉葱のスライスを載せ、それに混ぜていた調味料をかけてから僕の前に置いた。それを指でつまんで食べると、オリーブオイルと、胡椒と、あとはなんだろう? 複雑な味のするドレッシングだった。

「ほら、この間二人で飲みに行ったレストランでこんなの出してたじゃん。うちでも、これをカルパッチョにかけて出すつもりなんだ」

 言われてみると、確かにこんな味のものがあったような気がする。

「どう?」

「美味しいです」

「ならよかった。今日の賄いに、一切れだけカルパッチョをつけてあげるよ。あっ、そうだ、あの日終電大丈夫だった?」

「帰れませんでした」

「あはは、だから言ったじゃん。それで、どうしたのよ? 店に泊まったの?」

「仕方ないから新宿の駅前でアスファルトの上に横になってたら、ホームレスのおじさんが急に話しかけて来て、こんなところで寝てたら危ないって忠告してくれました。ああいう生活をしてても、他人に親切に出来るなんてすごいものです。でも面倒だったので忠告を無視して、そのままそこで寝て、始発で帰りました」

 言うと、シェフが声を上げて笑い、それから向こうにいるオグラさんも少し笑ったのが見えた。

 一通りの作業を終えて戻ったバックルームは、これからはじまる週末のゴールデンタイムに向けて出勤して来た大量のスタッフ達で混雑している。彼らは、夕方から夜までの短い時間にホールで働く中なか番ばんと、通りに出て客をつかまえて来るキャッチであった。

 居場所がなかったのでバックルームの入り口の近くで、ドリンクの入った段ボールを椅子がわりに座っていると、店長がやって来て食事休憩をとれと言う。そこで、タバタさんと二人で休憩を取ることとなった。

 オグラさんからきのこのパスタと、さっきシェフが言っていたカルパッチョの小皿を受け取り、フロントのそばの部屋、普段余程のことがなければ客を入れず、従業員の着替えやマイクのテストに使っているその部屋で、二人して食べた。食べ終わると、タバタさんはまた昼に聞いたのと同じ恋愛の話を繰り返し、僕はソファにごろりと横になりながらそれを聞いた。

 食事休憩を終えてフロントに戻ると、中番達が暇そうに立っている。

 元々この店はフリータイムが終わればそう混雑はしないものだが、それにしても客足が鈍いようだ。そろそろ忘年会シーズンであることを考えると、なおさらだ。

 みんなして突っ立っていても仕方ないので、一人ずつ交代でキャッチに出ようということになり、まず僕が店長に指名される。キャッチをするのは好きではないが、やれと言われれば仕方がない。店名の入ったベンチコートを羽織り、自前のマフラーを首に巻き、トランシーバーと割引券を持って往来に出る。

 他のキャッチスタッフと場所がかぶらぬよう、裏路地を抜けて、大通りを横切った、店からは少し離れた場所で客を探すことにした。

 その辺りは有名チェーン店が立ち並ぶカラオケ激戦区で、道のあちこちに、僕と同じように店のベンチコートをまとい、僕と同じようにトランシーバーを手に持ったキャッチが立っている。彼らは寒風に凍えた体を時々揺すり、白い息を吐きながら、通り過ぎる人々に声をかけていた。

 一応ライバルということになるのだろうけれど、違う店のキャッチ同士で雑談をしている姿も見える。毎日この通りで顔をあわせているうちに、知り合いになったのだろうか。普段はホールをやっている僕は路上の事情がよくわからない。

 既に日が落ちており、街のネオンが目にまぶしい。昼間は気がつかなかったが、あちこちにもうクリスマスの飾り付けがなされている。もう十二月だものな。都会のクリスマスは一ヶ月をかけて行われる。僕には無関係な話だ。きっと、イブの日も僕は、この池袋でアルバイトをしているのだろう。

 そんなことを考えてしまうと、道行く人々の、男女ばかりが目に付くようになるのだから、人間の意識というものは浅ましい。

 しゃらくせえなと、僕は半ばやけくそになって、もつれあうようにして歩いているカップルばかり狙って声をかけ、しつこく割引の説明などをした。半分嫌がらせのようなつもりだったのだけれど、すっかり出来上がっている彼らは、嫌な顔一つせず、笑声を残して去って行く。

 結局収穫はゼロのまま、やがてトランシーバーからタバタさんの声が流れ、交代の時間が告げられた。

 店に向かって歩きはじめると、冷たいものが頬に当たる。雨かと見上げてみたものの、空は真っ黒で何も見えない。そのまま黒い空に向かって息を吐くと、立ち上って行く呼気がネオンの光で白く煙った。


四


 タミさんの自室のドアは開け放たれており、そこから、様々な音楽が流れては止まり、流れては止まりを繰り返している。宇見戸のイベントに出るための、準備をしているのだろう。

 つい最近、そのイベントの内容が明らかになった。それはクラブを借り切ってテキスト界隈の人々を集め、そこで皆でアルコールを摂取したり、流れる曲にあわせて踊ったりしようという、なんとも破廉恥なものであるらしい。普段ネットの向こう側に隠れながら、赤裸々な文章をインターネットに流している連中を、クラブという社交的な空間に一挙に集めて踊らせるだなんて、実に面白い企みだと、素晴らしく滑稽な晒しものだと、想像するだけでにやけてしまうが、おそらく宇見戸はそんな悪意的な発想で企画したわけではないだろう。あのヒゲ男は意外に純粋だということに最近気がつきはじめている。ただ人を集めて楽しく騒ぎたいだけなのだろう。

 とまれ、そのイベントではホールで流す曲を選ぶDJとして、テキストサイト管理人が何人か協力しており、その一人として、音楽に詳しいタミさんも参加していた。

 先ほどから何枚ものCDをとっかえひっかえしているのも、そのセットリストを作っているのだと思う。今流れているのは彼の好きな古いディスコだった。

 それにしても、いつの間にかタミさんもテキストサイト界の人間として扱われるようになっている。本人は「おれはテキストサイトとは関係ないから。まともに日本語も使えんし」と頑なに仲間入りすることを拒否しているが、客観的事実は彼の願望を裏切っている。

 僕はその途切れ途切れの音楽を聴きながら、段ボール箱の開封をしていた。それは今日、夜勤明けで白昼の惰眠をむさぼっているところに届いた郵便物である。寝ている僕の代わりにタミさんが受け取ってくれたもので、僕はトイレに行くときにすねをぶつけてその存在に気がついた。

 随分厳重に梱包されているのを、百円ショップで買ったカッターナイフで慎重に開くと、中には食品やら日本酒の瓶やらがぎっしりと詰まっていた。

「タミさん、なんか知らんけどたくさん来たよ。前回より多いみたいだ」

 そう呼びかけると、彼は部屋から出て来て段ボールのなかを覗き込む。

「うわ、すごいじゃん。前よりも金かかってんじゃないの?」

「そうかもなあ。日本酒も前回と同じで二本あるし。酒屋で働いてるから、安く手に入るとは言ってたけれど……」

 僕は二本並んだ瓶の一本を手に取って、緩衝用の新聞紙を剥がすと、ラベルには見たことも聞いたこともない銘柄が印刷されている。

 これを送ってくれたのは、岡山に住んでいる女性である。メールと電話でのやりとりはしたが、会ったこともない相手だ。つまり、ネットでの知り合いなのである。

 僕のサイトをいつも読んでくれているそうで、酒のことばかり書いていたら、そんなに好きならこちらの地酒を送りましょうかと提案されたのだ。酒をくれると言われてしまっては、僕は宿命的に全存在的に断ることが出来ない。問われるままに我らが花園シャトーの住所を書き伝えると、ほどなく、見たことのない酒が二本詰まった段ボールが届いたのが先月のことである。当然僕は一度きりのことだと思っていたのだが、相手はどういう訳か今月も送ってくれると言い出して、そして今回のこの荷物となった。

 酒の周囲を埋め尽くしているのも、やはり当地のスナックや銘菓なのだろう。いずれも、見たことも聞いたこともない商品ばかりである。

「ミズヤグチさんすごいじゃん。この人、大ファンだよ」

 タミさんがにやにやと笑いながら言う。僕はなんと返したらいいかわからぬまま戸惑っている。

 ネットでしか知らぬ、遠く離れた場所に住む人間が、身銭を切って、手間暇かけて、こうご丁寧に送って来てくれるとはどういう気持ちなのだろう。地方の人というものは、ずいぶんと親切なものなのだなあ。いや親切だけでもないのだろうか? そうだとすれば何が楽しくてこんなことをするのか。

 向こうは僕の顔も素性も知らないが、勿論僕も相手のことは何も知らない。知っていることと言えば、その胸がDカップであるということくらいだ。なんだか知らないがそれは知っている。どうして知ったのかは思い出せない。僕のことだから、また酔っぱらって下らぬ質問でもしたのだろう。

「ハザマユキエって書いてあるけど、これ本名かな」

 タミさんは、段ボールに貼られていた伝票を僕の前に示す。

 あっ、そう言えば、胸のサイズだけでなく、本名と住所も知っていたっけ。

「本名だよ。本人はそう言ってた」

 僕が言うと、タミさんは何でか知らぬが感心したように頷く。

 そして、僕らは早速その場でそれを賞味した。もの自体も悪くはなさそうだが、貰い物だと思うと一層旨い。酒の飲めないタミさんも、僕が勧めると一嘗め程度付きあった。

 いい気になって酔っぱらっていると僕の頭もだんだんおかしくなって来る。そして、Dカップのことばかりが気になって仕方がない。

 あっ、そうだ! 僕は思いついて立ち上がる。早足で部屋に戻ってキーボードの前に置かれていたシリコン性のパームレストを持って来ると、タミさんの前にだらりとぶら下げた。

「Dカップってこんな感じ?」

 タミさんに触らせて、その柔らかい感触を確かめてもらう。

「おれ胸のでかい女とつきあったことないからわかんないんだよ。Dカップってこれくらい?」

「体型によると思うけど、大体それくらいじゃないかな?」

「そうか。じゃあこれにユキエと名付けよう」

 そうして口々に、ユキエ、ユキエとその名を連呼しながらシリコンを揉んでいると、だんだん楽しくなって来て、二人とも笑いが止まらない。あんまり笑い過ぎて酸素が足りず、目の前がくらくらとする。

 さて、そんな訳で、僕はそろそろその女について書かなくてはいけなくなった。いや、ユキエのことではない。ユキエは本筋には関係がなく、これっきり二度と登場しないので完全に忘却して頂いて結構です。Dカップは惜しいが仕方がない。

 じゃあ誰のことかというと、それは、例の新宿の飲食会で出会った登校拒否中学生増岡のことであった。

 あれからお互いのICQに登録し、他のネット上での知り合いと同様、オンラインになった時など、時々メッセージのやりとりをしている。学校にも行かずに一日中家にいる彼女と、バイトがない日は特に出かける用事もない僕は、お互いオンラインになっていることが多いのだけれど、あまり積極的に話しかけるのもどうかと挨拶程度にとどめていた。

 けれど、その日は会話が普段よりも長く続き、僕はそこで今まで知らなかった彼女の普段の生活について知ることになった。

『えっ、本当なの?』

 と、僕が最も驚いたのは、彼女の食生活である。

 この飽食の時代に、食事がつねに不足していてろくに腹を満たせない。やせ細るばかりだと彼女は言う。

『本当なんです。お小遣いじゃとても足りないし、お母さんが泊まりに来て食べ物持って来てくれるんですけど、世の中にあふれてる食べ物は体に良くないからって、変な健康食品ばっかり。ものすごく不味いんです。しかも、それも時々で、とても量が足りない』

 それを読みながら返信を考えていると、続けざまにメッセージを受信する。

『そのくせ、おかしな漢方薬だけは大量に飲ませようとするんですよ? 来るたびに、家に何箱も置いていきます。ご飯を食べなくてもそれを飲んでれば大丈夫だって。あの人ちょっとおかしい』

『そんなんでカロリーが足りるわけないでしょ。それって、児童虐待なんじゃないの?』

『そうなのかなあ』

 本人は気がついていないのだろうか。当事者とはそういうものなのかもしれない。僕だって小さな時は殴られるのが当たり前だと思っていたから、その辺りの感情はわかるつもりだ。

 しかし、地元で入学した学校に行かずに都会で一人暮らしをしていると言った時点である程度特殊な境遇を想像していたが、さすがに食事も満足にとれていないというのは驚きだった。親が知っていながらにして十分な保護を与えないだなんて、そうして薬ばかり飲まされているだなんて。

 僕は子供のこういった話が駄目なんだ。自分が子供の時からそうだ。当事者が話しているのを聞くと、胸のあたりがざわざわとして、落ち着かなくなる。

 そして彼女は、昨日もプリン一つを食べただけで、非常に空腹であるのだと言う。

『明日、というか日付がもう変わってるから今日か。時間ある?』

『あ、一日中暇です』

『じゃあ、食事をおごるよ。原宿に行けば近いんだっけ?』

 急な提案を、不審に思われないだろうか? 下心のようなものを、警戒させてしまったかもしれない。

 打ってから、何か言い訳をしたほうが良いのではないかと思い始めたが、それを送るよりも早く増岡からの返事が僕のICQに届いた。

『あ、はい! 嬉しいです!』

 と、モニターにはそう表示されている。


 そして翌日、僕は電車を乗り継いで原宿駅まで行くと、竹下口に出た。

 都会の冬は空気が白く淀んでいて、晴れているのか薄曇りなのか判別がつきにくい。その日の頭上も青とも灰色ともつかぬ曖昧な空が覆っている。

 白昼なのにどこか薄暗く、そして風は冷たかった。僕は内側にフェイクファーがついたいつものジャケットを着て、買ったばかりのおそろしく長いふかふかのマフラーで首をグルグル巻きにしていた。端をたなびかせて歩いていたらアルバイト先の同僚に仮面ライダーのようだと言われたので、普通より一回転多く巻いて短くしている。

 平日だというのに、駅の付近は十代や二十代の若者で満ち溢れていた。ライブハウスから飛び出てきたような反抗的な格好をした一団が通り過ぎたかと思えば、向こうではやたらとフリルのついた黒白の服を着た少女たちが談笑している。もちろんそこまで自己顕示欲の強くない平凡な若者も、多く闊歩している。そして中年や老人もいないわけではない。とにかく人そのものが多いのだ。東京はどこへ行っても同じだ。

 彼女はこの竹下通りの入り口にある牛丼屋の前で待っているという話だったが、その姿が見つからない。時計を見ると約束の時間より五分早かった。そして彼女は時間丁度に現れる。人混みの向こうからやって来るその姿を僕が運良く見つけ、やがて向こうもその視線に気がつくと小さく会釈をし、膝丈のデニムのスカートを蹴飛ばすようにして駆けて来た。

 ぱたぱたと足音を立てて、目の前にたどり着いた彼女は白い息を吐いて笑顔を見せた。

 往来をこんなに元気に駆ける女を見るのは、なんだか久しぶりのような気がする。彼女の足元を見ると、白い素足に真新しいスニーカーを履いていた。そうか、最近僕の接する女はみなヒールの高い靴ばかり履いているから、こうは走らないのか。

 飯を奢ると約束したものの、原宿の飲食店など知らなかった。事前に調べてもいない。本人に食べたいものはないかと尋ねてみると、

「何でもいいです。ミズヤグチさんの食べたいもので」

 と若干緊張した面持ちで愛想笑いをする。

 僕が食べたいものと言われて咄嗟に思い浮かんだのは、昨夜の深夜放送で見たアマゾンの巨大魚の丸焼きだった。しかし、思い浮かんだものの、僕だってそんなものは食いたくない。僕の脳はいつだって状況を精査せずに、直近の記憶でいい加減に間に合わせようとする傾向がある。まるで、店員が客の注文をろくに聞かないレストランのようなものだ。そして、僕の理性の管理も怠慢で、そのままそれを口に出させてしまうことさえあるのだから、始末に負えない。今もうっかり「巨大魚を食いたい」と言いそうになったが、すんでの所で思いとどまった。

 どこへ行こうか? 今日はこの、やせ細った哀れな少女に栄養を摂取させてやるためにやって来たのだ。だから、そこらじゅうに乱立しているジャンクフードのチェーン店ではなく、もう少し青少年の肉体の健全な育成にふさわしいものを与えるべきだろう。栄養のバランスに優れた、僕が普段食っているものとも全然違う、人間らしい食い物だ。

 竹下通りを彼女と二人で歩くと、ほどなく大戸屋が見つかったのでそこに入る。定食ならば、ハンバーガーや牛丼を食わせるよりはましだろう。それにフリーターの僕の懐にも優しい。デートだとすればあまりにも色気のない店ではあるが、僕にはそんなつもりはない筈なのだから、気にするべきではない。

 席に着くと増岡は、はしゃいだような態度を見せて喜んでいる。そうしてお互いに注文を済ませ、僕たちは向かい合った。

「あの、今日私ちょっと変じゃないですか?」

「何が? いつも変だと思うけど」

「いえ、そうじゃなくて」

 と言われても、彼女が何を指して言っているのかが僕にはちっともわからない。

「今日、髪を自分で切ってきたんです」

 答えあぐねて黙っている僕に、彼女の方からそう言った。

「言われてみると、確かに前髪が斜めだな」

 じっと彼女の前髪を見て率直な感想を口にすると、

「えっ、本当ですか?」

 増岡は慌ててバッグから鏡を取り出す。

「あっ、本当だ。恥ずかしいなあ……」

 そう言って左手をあげて額に当て、前髪を隠す。

「眉毛が変な感じになっちゃって、それを隠そうと前髪切ったんですよ。いや、あの、眉毛はもっとひどいんで見せられませんけど。そ、そんなに笑わなくたっていいじゃないですか! ……ほらミズヤグチさん、料理が来ましたよ」

 アルバイトが皿をテーブルに並べるのに、増岡は片手で額を隠したまま目を輝かせる。そしてそのまま片手で食べ始めるのだが、器を持たずに箸だけですべてを行おうとすると、どうもうまい具合に食事をとることが出来ない。その滑稽な様子に、僕はおかしくて仕方ない。

「誰も前髪なんか見てないから、両手で食べなよ」

 苦笑しながら言うと、増岡はおそるおそる額を隠す手を外した。

「この近くに住んでるの?」

 生姜焼き定食に箸をつけ始める増岡に、僕はそう尋ねた。

「歩いて五分くらいです」

 彼女は食べながらそう答える。

 こんな繁華街に一人で住んでいるとは恐れ入った。学校も私立の中学校だと言っていたし、実家は相当に裕福なのだろうか。

「本当に、ご飯もろくに食べられないほどお金がないの?」

 彼女は飯を頬張りながらうんと頷く。

「それで、ご飯のかわりに訳のわからない漢方薬ばっかり飲まされてると」

 彼女はもう一度頷く。

「なんだか複雑な家庭なんだな。兄弟とかはいないの?」

 すると増岡は首を横に振り「一人っ子です」と言った。

 たった一人の娘を、学校にも行かせずに、こんな都会に一人暮らしさせているのか。その時点で、僕にはもう既に理解の及びにくい状況ではあるが、そもそも家族というものは他人には不可解なものでもある。

「その漢方薬ってさ、なんの薬なの? どこか体が悪いとか?」

 尋ねると、彼女は水の入ったグラスに手を伸ばし、一口飲んでから答えた。

「うーん、体は悪くないと思います。薬の効果は……なんだろう? とにかく、すごく臭いやつ。体が強くなるってお母さんは言ってるんですけど」

「食事もしないで薬を飲んでたって健康になるはずないじゃないか」

「そう思うんだけど……飲まないと怒るんです。思い込みが強い人だから」

「思い込みが強いって、それだけで済むような話なのかな。……なんだかえらいことになってるね。たまにそういった健康食品にはまってる人の話を聞くけれど、なんだか宗教じみてるよ」

「うーん、じみてるというか、うちのお母さんは本当に宗教にはまってるんですよ」

「宗教って何?」

「この近くに施設があるらしいんですけれど、そこに行くとき、マンションに泊まって漢方薬を箱で置いてくんです。食べ物を置いていってくれればいいのに。変ですよね」

 増岡は笑うので僕も笑ってみたが、もちろん心中穏やかではない。

「その漢方薬を見せてもらえる? パッケージを見れば、何かわかるかもしれない。マンションに置いてあるのかな? だったら、おれはどこか近くで待ってるから、持って来てよ」

 僕がそう提案すると、

「あ、それならうち来ますか? 何にもないですけれど」

 増岡はそう返す。彼女の家というのは、一人で暮らしているマンションのことだろう。「えっ、いいの?」

 僕が驚いて尋ね返すのに、彼女はこともなげに頷いた。


 僕の母親はカトリックの洗礼を受けている。

 最近はすっかり興味もなくなったようだけれども、僕がまだ小さかった頃は、家に十字架を飾り、洗濯物を畳んだり、皿洗いをする時などには聖歌と思しき歌を口ずさんでいた。物心つく前からそれを聞かされた僕にとって、もしかしたらそれが、生まれて最初に覚えた音楽かもしれない。

 また、僕に与えられた最初の物語も聖書からとられたものだった。いつ頃からか、家にも聖書の逸話をモチーフにしたものがあって、僕はそれで七日間の天地創造の話や、アダムとイブの話、ノアの箱船の話などを覚えた。

 こうして、生まれながらにしてキリスト教的なものが身の回りにあふれており、色々なストーリーや曲は気にいってはいたものの、しかし宗教自体に対しては、僕は決して良い感情は持っていなかった。

 母親が僕の目には見えない、ありがたみもわからないものを信じ、それを大事にしているというのは、幼い僕にとって何か奪われたよう気分がしたものだ。思春期になると、宗教は世の中にはびこる数多の迷信と同様のものに思え、なお一層嫌悪感は増した。その一方で、何か自分にはわからぬ魅力があるのか、あるとしたらそれはどんなものなのかが知りたくて、こっそり母の聖書をめくったりもしていた。宗教は長らく、身近にあって、しかし受け容れがたいものであった。

 父親とは折り合いがつかなかったが、だからといって母とならうまくやっていけたわけでもない。

 小学校から帰ると、母はいつもため息をついていて、心配しても返事をしなかった。僕のことなどまるで眼中にないようだった。

 中学生になると僕の学校での成績は良くなり、それによって外の大人には褒められることの方が多くなったが、母にそれを自慢しようとすると、否定され、悪いところばかりを言った。僕は身の回りを片付けたり、指定された持ち物を忘れずに持参することが苦手で、たとえば定期試験で満点を取っても、学年で十位以内に入っても、ちっとも喜ばず、それら出来ないところばかり指摘して僕を無価値な人間のように言った。

「いいことなんか何もしなくていいから、ただじっと大人しくしていて頂戴」

 それは、石や人形になれと言っているように聞こえ、或いは存在しないでいることを強いられているように聞こえた。自分は親にとって石や人形以下の存在なのだと思った。こっちだって頼んで生まれた訳じゃない。そんなことを言われるのは理解出来なかった。

 そうして僕を無価値なもののように言うくせに、僕のやることを否定するくせに、家庭教師をつけたり、塾に行かせたりして僕の行動を縛ろうとする。

 父親の件があって、今は和解を果たしたと言えるのかもしれないが、僕はあの時代のことを忘れられない。どうしても忘れられない。気にするようなことではないのはわかっているけど、どうしてそんなことをしたのか、今ならその事情や気持ちもわかるけれど、でも、呪いのように心に染みついて忘れられない。

 小説を本格的に読むようになったきっかけが海外文学だったのも、今思えばこれらの母との関係と全く無関係ではなかったのだろう。欧米の小説の多くはキリスト教的なものが下敷きにあり、それを直接題材にしたものも少なくない。

 僕は常日頃、なるべく理性的に振る舞いたいとは思っているのだが、くだらぬ感情的ないきさつに思考をおびやかされたくはないと思っているのだが、それでも、根深く人間性に染みついたものは行動や感情に影響を与えがちで、特に人生の出発の時期に考えさせられ、感じさせられたものは、どうやってもその支配下から抜け出すことが出来ないものなのかもしれない。

 身の回りで似たような話があるたびに無関心ではいられなくなる。他人事ではいられなくなる。惻隠の情といえば聞こえはいいが、人格が不完全だと表現したほうが適切なのだろうか。

 感情的になるのはいやだなあ。けれど、親が宗教にのめりこんでいるとか、そして虐待めいた扱いを受けているとか、目の前で話されてしまえば、やはり自分の思春期時代と重ね合わさないわけにはいかないのだ。そして息苦しくなる。空が低く感じられる。いや、都会の空はいつだって低いものだと相場が決まってはいるのだけれども。

「もうすぐ着くよ」

 と増岡は言った。

 原宿といえども、当世風の店が所狭しと立ち並ぶ華やかな通りしかないという訳でもなく、一つ道を外れれば閑静な住宅街が広がっている。といっても、僕の慣れ親しんだ関東の片田舎のように古くさい一戸建てが並び、生け垣に小学生の子供が放置したまま伸びきったへちまの蔓が巻き付いているという訳でもなく、コンクリートで四角く整形された背の高いビルが隙間なく道の左右に立ち並んでいるのだが。

 やがて増岡が立ち止まって、ここです、と言ったマンションもその一つであった。

 随分高級なところに住んでいるものだ。ガラスで出来た自動ドアを通り抜けると、壁も床もつるつるとしたベージュの大理石が照明を反射している。入ってすぐの壁にはオートロックのパネルがあり、増岡が慣れた手つきでカードキーを差し込むと、奥へ続く扉が音もなく開いた。

 増岡にとっては当たり前の我が家への帰宅なのだろうが、正直なところ僕はこんなに清潔なマンションに足を踏み入れたことがなかったので気後れしてしまう。子供の頃は同級生の生活感に溢れた一軒家、今は自分と似たような経済力しかない連中の住む安アパートが、僕の訪ねる他人の家なのだが、それとはまったく違うじゃないか。

 住む世界が違うのだね、と言いたくなってしまうのは、いかにも小市民的で悔しい。なんだこんなもの。ただの建物じゃないか。

 取り繕ったけれども、一瞬の動揺を見抜かれていないかどうか、ちらと彼女の表情を見ると、向こうは向こうで僕を招き入れることに緊張しているらしく、僕の方など見ずに一方的にまとまりのない話をしている。

 彼女の部屋はアパートで六階まであがった、一番奥の部屋である。

「ここ」と恥ずかしげに示したドアには表札があり、そこにはローマ字で家主の名前が表記されている。もちろんそれは、サイトで使っている『増岡』とは違う。

「これが本名?」

 と問うと、彼女はうんと頷いた。

「下の名前はなんて言うの?」

 重ねて問うと、彼女はためらいもなくそれを口にする。

 この稿では多くの登場人物に仮の名を当てているが、彼女の本名にはここで真赤まっかと当てようと思う。真っ赤っかの真赤ちゃん。手首を切って血がだらだらと、まあそれだけではないのだけれど、彼女の人柄を思い出すたびにその鮮やかな色のイメージが、どうにもついてまわる。

「へえ、真赤って言うんだ」

「ミズヤグチさんの本名は何て言うんですか?」

「おれは一緒だよ。水屋口」

「下の名前は?」

「悟」

 そう返事をしながら、部屋に上がってゆく彼女に続いて玄関で靴を脱ぐ。

 変わった間取りのマンションで、玄関から左右にトイレだのバスルームだのがある廊下を抜けると、二つの部屋を少しずらしてつなげたような形のリビングルームがある。ちょうど角張ったひょうたんのようなその部屋の、くびれにあたる部分には、もう一つの部屋へのドアと、キッチンへの入り口が繋がっている。全体の形状自体は正方形になっているのだろうか?

 まるで引っ越したてのように清潔で、そして物の少ない部屋であった。奥の方にベッドと小さな机が一つ、そして手前には炬燵とテレビ、さらにピンク色のiMacがあって、それがこの部屋の調度の全てである。

 本棚やサイドボードの類もなく、部屋の隅に本が何冊か積み上げてある以外は、生活感らしきものがない。電源とLANのケーブルが、その何もないフローリングの上を這っている。iMacはキャスター付きの椅子の上に載せられて、炬燵のそばに引き寄せられて、キーボードとマウスが炬燵の上に置かれていた。ここでWEBサイトを閲覧したり、自分のサイトに掲載する日記を書いていたのだろう。

「ちょうどいい台がなくて」

 iMacを眺めている僕に、真赤は恥ずかしそうにそう言った。

 そんなことを僕は気にしてはいない。それよりも、これだけ物のない部屋で暮らしているのなら、確かに食べ物もろくに与えられてなさそうだ。いや、ロビーに足を踏み入れた時点で僕は、いかにも地価の高そうな場所の、こんな立派なマンションに一人住まいだなんて、実は恵まれた暮らしをしているのではないかとかすかに疑念がわいていたのだ。けれども、中身がこれほど簡素ならば、そうとも言えなそうだ。最低限の道具もない。僕はよく、立派な水槽などを買って魚を育てたりするが、すぐに飽きて餌を忘れて死なせてしまう。真赤の親が人間でそれをやっているのだとしたら大したものだ。

「薬ってどこにあるの?」

「それは、こっちに……」

 彼女が案内したのはキッチンで、そこもやはり全く使用しているようには見えないほどに清潔で、コンロにヤカンが一つかかっている以外には、調理器具も見あたらない。奥に冷蔵庫があって、その手前にミネラルウォーターの2リットル入りのペットボトルが数本並べられている。

 スノッブどもが好む前衛映画に出て来そうなくらい、殺風景で非人間的なキッチンだな、と思う僕の横をすり抜けて、真赤はその冷蔵庫のドアを開けた。

 漢方薬の箱は冷蔵庫のなかで保管されているらしい。その箱の他には、外に並べられているのと同じミネラルウォーターが数本冷やされているだけで、他に食品は見えない。

「これです」

 箱ごと手渡すのを、僕は受け取った。茶色い箱には中国語でなにやら細かい文字が書かれているが、僕には読めない。ただ製品として売られているものではあるようで、最悪の可能性として想像していた、どこかの誰かが個人的に調合した自家製の薬ではないようだ。蓋を開けると、何とも言えない悪臭がする。僕は彼女に断ってそれを一錠受け取ると、炬燵の上にあったティッシュペーパーにくるんでポケットにいれる。

 これで僕の用件は終わってしまったが、せっかく来たのだし、彼女もすぐに帰れというような態度ではなかったので、二人で炬燵に入りながら話すことにした。

「随分と立派なところに住んでるんだな。一人暮らしのために借りてくれたの?」

 僕が言うと、真赤は首を横に振り、

「元々はお父さんが仕事のために借りた部屋なんです。もうあまり使わなくなったから、私が住まわせてもらってます。ちょっと広すぎるけど……」

「なるほどね」

 何がなるほどなのか、言ってる自分でもよくわからないまま、相づちを打つ。

 そして真赤は自分の家族について話し始めた。母親は昔からいろいろな宗教をつまみぐいをして落ち着かないこと。父親は若いときは小説家志望だったが、果たせずアウトローになり、その時に稼いだ金でいまはまっとうな事業をしているということ。そして時々いたずらのようなことをされたり、させられたりしたのだとも言う。もちろんそのいたずらというのは、くすぐったりお化けの話をして怖がらせる様な罪のないものではなく、通常父親が娘にしてはならぬとされる行為である。

 それを語る真赤の表情に悲壮感はなく、苦笑しながら家庭の事情を告白する。僕はそれに相槌を打ちながら、血の気が引く思いをしていた。

 ああ、だから手首などを切ったりしたのかな? いや、それは安易で薄っぺらい憶測というやつだ。僕がされたらいやなやつだ。すぐそうやって目に見える要素同士を安易に結びつけてしまう、自分に気色悪くなる。

 一通り聞くと気持ちが重くなった僕は炬燵に足を突っ込んだまま、ごろりと仰向けになった。

「そう言えば」

 と、僕は思い出して、

「この間の合い鍵の人は、ご飯食べさせてくれたりしないの? 年上の親しい人なんでしょ」

 軽い話題にかえたつもりだったが、言ってみると思いの外に重かった。

 そこで、それまで何を訊いてもテンポよく返していた真赤の返事が少し遅れる。

「前は時々食べさせてくれてたけど、最近はほとんど会ってないから……」

 言いにくそうに目を伏せる。

「そうなんだ」

「うん」

「どういう人なの?」

「大学に通ってたと思う」

「もしかして、向こうもここの合い鍵を持ってるの?」

「……うん」

「なるほど。それでお互いの家を訪ねあってるのに、彼氏ではないんだ」

「うん」

 最近の中学生はおっとろしいものだなあ! 真赤本人は違うと言うが、赤の他人が合鍵を持ち合うだなんて、それもただれた人間関係であることに違いないじゃないか。やはり荒んだ生い立ちだと早熟になるのだろうか。いや、そんな風に勘ぐる僕の根性が下世話なのか。

 それにしたって、その大学生とやらが、この状況で彼女に食事やらの手助けをしないというのは奇妙だ。あんなに嫌悪感をこめて鍵を投げていたのもパフォーマンスには思えない。何か離れられぬ事情があるのだろうか? この娘の周りの大人は、揃いも揃って一体何をしているのだろう?

 やるせなく、気分の悪い話だ。それについて考えると気持ちが腐ってしまう。まあ、変に猜疑心を振りかざすのはやめよう。僕には関係のない話じゃないか。

 そうして気がつけば、二人ともすっかり黙り込んでしまっている。

「また、飯奢るよ」

 白い天井を眺めながら僕が静寂を破ると「う、うん」と真赤は言った。

 そして「お水とってくる」と若干動揺したような口調で言って、立ち上がる。

 そこからキッチンに向かうには、寝転がっている僕の頭が邪魔だった。彼女は何を思ったのか、それをまたぐ。すると当然、僕にはそのスカートの中身が見えてしまうわけであり、具体的に言うと、クマがプリントされた幼児が穿くようなふかふかの下着がはっきりと見えた。

「あ」

 と僕が思わず言うと、

「あ」

 と真赤も同じように言った。


「すごく憂鬱な話でしょ」

 花園シャトーに帰った僕は、タミさんを捕まえて真赤から聞いた事情を洗いざらい話すと、そう同意を求めた。

「ほんとに憂鬱だ」

 タミさんも暗い顔をする。

「前にタミさんが、あいつは不幸のオーラがあるって言ってて、その時はピンと来なかったけれど、今日はおれもそれを感じたような気がする」

 この部屋にはエアコンというものが設置されていない。唯一存在する暖房器具は逆野が持って来た石油ファンヒーターなのだけれど、これも調子が悪く、ついたり消えたりしてしまうため部屋全体を温めるだけの能力がない。だから僕らはそれぞれの部屋から毛布を持ち出して、それにくるまりながら話をしていた。

 時計は深夜零時を回っている。昼間は生活音によってドアの外に閉め出されている高速道路の走行音が、シンと静まりかえった部屋にひそやかに侵入して来る。

「これを食事代わりに、大量に飲まされてるんだってさ」

 僕は真赤の家から持って来た漢方薬をタミさんに渡す。彼はその黒い丸薬を手のひらにのせると、においを嗅ぎ、くさいという風に顔をしかめる。

「どういう薬かわかる?」

「見ただけじゃわからんね」

 タミさんは言って、元通りティッシュでそれを包んで僕に返した。

「あいつ、なんとかならんかなあ。話を聞いてると、感情移入しちゃって困るよ。家族と行き違ってて、だけど子供だからどうにもならないんだ。こういう言い方は良くないんだろうけど、昔の自分にしてやりたかったことを、あいつにしてやれないかなって思うんだよ。自分の子供時代をやりなおすってわけじゃないけどさ。父親を追い出して、家がなくなって、家族と関係がない場所で暮らしても何も変わらなかった。やっぱり問題そのものを解決しないと駄目なんだ」

「そうか」

 タミさんは一言だけ言って、それ以上は何も口にしなかった。こういう時は、いつも僕がベラベラと喋って、彼は時々相づちをうつだけだ。余計なことを言わないというのは賢明な判断で、僕も見習いたいものだがなかなか出来ない。


五


 年末が近づくとアルバイト先では帰省なりバカンスなりで従業員たちがまとまった休みを取りはじめ、その代わりに用事のない僕のシフトが増えてゆく。昨日などは早番から遅番までの通しのシフトであった。それでも相当疲労したのだけれど、その後遅番の連中と麻雀を打ちに行ってしまったので、帰ってきたのが朝の十時。あまりゆっくりと休むわけにもいかず、一眠りしたら、すぐに次のシフトが待っている。

 出勤直前までゆっくり眠りたかったのだが、昼夜逆転を繰り返す僕は思うように睡眠時間をコントロール出来ない。昼過ぎに目が覚めてしまうと、もう眠れそうになかったのでパソコンの電源を入れ、昨夜間に合わせで買ったショートホープに火をつける。

 立ち上がるのを待つ間、ふと携帯電話の日付を見ると十二月三十一日を示していた。

 大晦日である。しかも、今年はただの大晦日ではない。明日から二〇〇一年である、ということは、つまり今日は二十世紀最後の一日でもあるのだ。今夜は、年だけでなく、世紀までも変わるのである。

 テレビや雑誌は騒いでいるし、なるほど凄いものだなあと、言われてみればそのような気もするが、こう座っていても、別段何か違った感じがするわけでもない。そして何かする予定があるわけでもない。このあともアルバイトである。

 そうして僕は、煙草を吸いながら、最近始めたオンラインゲームの情報を掲示板で調べていたのだけど、するとそこへ母親からの着信があった。

「別に用はないんだけれど、どうしてるかと思って。何にもすることがないから、寂しくて気が狂いそう」

 と母親が訴える。

「へえそうなんだ、趣味でも持った方がいいんじゃない」

 上の空で言いながら、情報収集を続ける。そして気づくと通話は切れている。もしかして、これが今世紀最後の親子の会話なのだろうかと、切ってからそう思ったりもする。

 すると今度は、ICQで真赤がオンラインになって、話しかけて来る。やはりゲームの情報を集めながら、当たり障りのない雑談をする。

 あのマンションで話をして以来、家にいても真赤のことを考えたり、自分の昔のことを思い出したり、何もせずぼうっと天井を眺めたりしていることが多くなった。狭い部屋の小さな天井を眺めて答えのない事柄について考えていると、どこにも出口のない感じが、リアルな実感として心を苛んでくるのであまり良くない。

 妙なのめり込み方をしてしまいそうだから、適切な距離をとるべきなのかもしれない、と僕は思ったりもしている。

 しかし、なかなかそうも行かない。声をかけてくれば返事はする。そして結局、真赤とは頻繁にICQで連絡を取る間柄になってしまった。

 内容はいつもたわいのない雑談ばかりだ。彼女は相変わらず食事には困っているようで、それを自分の日記でもよくネタにしている。日記上では一人暮らしの冴えない男子大学生ということになっているので、彼女の掲示板には母性本能の強いおせっかいな女の書き込みがつく。真赤はもちろん異性に極端な興味と警戒心を持つ童貞大学生を装って、返信を書くのだそうだ。それがとても楽しいと、彼女はよく語っている。やはり変わり者なのだろう。

『ミズヤグチさんって、今日もアルバイトなの?』

『うん、朝までバイト』

『年越しなのに大変だなあ』

『じゃあ、そちらは何か予定がある?』

『私も何もない』

『そうなんだ』

 そう返すと、それまでリズム良くかわされていたメッセージが止まる。すると、ゲームの情報を眺めていた僕も、ふと彼女の返事を待つような具合になる。

 あっ、もしかして、誘ってほしいのだろうか? それは、そうするのが自然な流れなのだろうか?

『それなら、バイト終わったら一緒に初詣いこうか? ちょうど真赤の家からは明治神宮が近いし』

 おそらく死んだ魚のような目をしながら尋ねると、

『うん、わかった』

 彼女はそう答えた。


 カラオケ屋のフロントに置かれている古いパソコンは、てっきり専用のシステムが組み込まれた端末なのかと思っていたが、実際のところは古いMS-DOSマシンにアプリケーションを読み込ませただけのものだった。

 電源スイッチを押すと、通常は入れっぱなしのフロッピーディスクを自動的に読み込んで、そして部屋の利用状況を管理するプログラムが立ち上がるようになっているのだけれど、ここでもしフロッピーディスクを抜いて起動させたならば、MS-DOSの黒い画面が表示される。これは、僕がはじめて手にしたパソコンでよく見た画面と同じで、懐かしい。

 ほんの数年前のあの頃は、今ほどパソコンというものは普及していなくて、僕にとってそれは、ゲルマニウムラジオの電子工作キットのような、子供向け科学雑誌に付いてきた昆虫標本セットのような、どこか秘密めいた機械だった。僕はそのマシンで、ゲームをしてみたり、パソコン通信をしてみたり、絵を描いてみたりしたものだ。

 このパソコンも、やろうと思えばそういった様々な用途に使えるのだけれど、毎日同じプログラムばかりを走らせて、他のことはさせてもらえない。そして、おそらくこの店では、僕しかこのパソコンのそうした多様性を知らないのだ。

 それはなんというか、毎日工事現場で棒を振っている初老の警備員を見ても、彼がサラリーマン時代に部下の責任をとって辞めたことや、初恋の少女と文通をしたことや、少年時代に絵を描いてみんなに褒められたことや、父と母の希望を一身に受けて生まれて来たことなどを誰も想像しないのと似て、寂しいものだと思う。

 このパソコンがこのまま壊れてしまったら、そうした、本来持っている可能性や豊かさを、誰にも知られることなく廃棄されてしまうのだろう。それでは、はじめから豊かさなどなかったのと同じということになってしまう。

 その気になれば、ゲームを動かしたり、音楽を鳴らしたりも出来るのに、今日もひたすら空室状況を表示し続けている。PCの悲哀。

 そんなことをぼんやりと考えてしまうのは、何といっても店が暇だからである。

 今日は大晦日。あと数十分で年が明ける。そんな時間に、こんな裏通りのカラオケボックスで歌おうなんていう人間は、まあ皆無ではないらしいが、そう数多く存在するものでもない。

 その証明として、モニターの上では空室を示す黄色い表示がその大部分を占めている。水色で表示された入室中の部屋は三つしかない。一組は、顔色の悪い熟年カップル。もう一組は同僚同士らしい背広を着た五人のサラリーマン。そして最後の組は、脂ぎった中年男とよそよそしい女子高生の二人組だった。みな歌などは歌ってはいない。ドリンクを届けに行く時に見た限りでは、熟年カップルは歌本をテーブルの上に積んだまま暗い顔でぼそぼそと会話をしており、サラリーマンたちはすでにアルコールをたらふく摂取した後なのか、半分がソファーに横になっており、中年男と女子高生は明かりを落として部屋を真っ暗にしていた。

 彼らはほとんどオーダーをせず、また、新しい客が来る気配もない。ごく平均的な深夜の営業状況である。

 普段だったら、同じシフトに入っている同僚と雑談してやり過ごすところだけれど、今日はみな休みをとってしまったので、店長がかわりに入っている。そしてその店長は、誰かと携帯電話で話し続けたままバックルームから出て来ない。おそらく相手は恋人だろう。この二十五歳の若い店長は、以前ここでアルバイトをしていた、僕の好みではないけれど、一般的には眉目秀麗と呼ばれるであろう女子大生と付き合っている。

 厨房にはオグラさんが出勤していたが、彼は先ほど大清掃をはじめてしまって、こちらも忙しそうだ。結局僕はフロントでなすこともなくうつらうつらする他ないのである。眠気に耐えるのが精一杯のこんな状態で、朝の初詣まで意識がもつのだろうか。

 二十三時も半をまわり、間もなく新年を迎えるというところで、熟年カップルが退室した。その部屋の片付けをして、空きグラスをパントリーに持ち帰って来るとオグラさんは清掃を終えて、退屈そうに腕組みをしている。

「これでお客さんはゼロ?」

「まだ二組います。飲み帰りのサラリーマンと、援交くさいおっさんと女子高生のカップルです」

 僕はグラスを洗いながらそう答えた。

「はあ、こんな日に援助交際か。お盛んなもんだね。おれ、ああいうの許せないんだよな」

「まあ確かに、僕もホテルを使えとは思いますけど」

「この間は使用済みのコンドームが落ちていたんだっけ?」

「ええ、モニターの裏に縛ったやつが隠してあったんです。タニノさんがやりたくないって言うから、僕が片付けたんですよ。高校生かなんかでしょうね。金がないから二人きりになれる場所がないんですよ。仕方ないっちゃ仕方ないとは思いますが、せめてゴミ箱に捨ててくれりゃあいいのに」

「そうか、そっちの仕事は大変だね」

 オグラさんは深々とため息をつく。

「まあ、金貰ってますから。趣味ではやりたくないですけど」

「しのちゃんはえらいなあ」

 グラスを洗い終わると、フロントに戻る前にちらりとバックルームを覗いた。すると、ちょうど店長がスーツの上にコートを羽織るところで、なんと、帰る準備をしていやがるのである。

「もうあがるんですか?」

 あきれて言うと、

「おう、すまんな」

 店長は悪びれもせずに言う。この人は日付変更すら待たずに恋人の許へ向かおうというつもりらしい。

「シノちゃん、ちょっとこっちに来てくれよ!」

 店長に向かって何か皮肉を言ってやろうと考えている僕の耳に、オグラさんの切羽詰まった声が届いた。

 すぐに駆けつけると、狼狽えている彼の足下には金網で出来たねずみ取りが置かれており、そのなかで灰色の獣がうずくまっている。

 これはなんという種類の鼠なのだろう? 昔実家で猫を飼っていた時は、テーブルの下などに狩りの成果を見せつけるかのように鼠の惨殺死体が転がっていることがよくあったが、あれはもっと小さかったような気がする。この鼠はとにかく大きい。兎とまでは行かないが、それに近い。

 その灰色の毛皮は汚水に濡れ、狭い罠の中で完全に興奮しきっており、荒い呼吸で体を膨らませたりしぼませたりしている。そして罠に足を近づけたり、物音などの刺激を与えると、それに反応して突如狂ったように走り回り、檻に体をぶつけ、しぶきが厨房の床のコンクリートに飛び散った。

 これは汚い。近くに立てかけてあったデッキブラシとホースの水で、その雑菌まみれのしぶきを排水溝に流し込もうとすると、その音に反応して鼠はさらに暴れるので、僕は手を止めた。

「これドブネズミってやつですかね」

 鼠が再び落ち着くのを見計らって僕は小声でオグラさんに言う。

「だと思うよ」

 オグラさんは顔をしかめた。その白いコックコートの膝あたりが灰色に汚れている。おそらく鼠にやられたのだろう。

「パスタの袋が囓られてたことが何度かあったからさ、シェフが仕掛けておいたんだ。それを今確認してみたら、こいつが入ってたんだよ」

「そうですか」

 僕は余計な刺激を与えないように、そっとその檻の前にしゃがみ込んだ。すると鼠は動きを止めてじっと僕の顔を見上げる。これがドブネズミというものか。体は汚れているが、目がくりくりとしており、案外可愛い顔をしている。

「どうすっか」

 捕獲してしまったものの、オグラさんは途方に暮れているようだった。

「どうしますかね」

 檻を揺すってみるが、鼠はもう疲れ切ってしまったのか、極度に緊張しているのか、動かない。狭い罠のなかに閉じ込められて、薄汚れていて、おびえていて、その姿になんだか共感してしまう。いや、そんなことはちっとも思いたくはないのだけれど、自然とそう感じてしまうのだからいやになる。いずれにしろ、なんとも憐れなものだ。

「シェフが仕掛けたんだから、シェフが居た時にかかってくれたら良かったのになあ。こんななら、確認しようと思わなければよかった」

 オグラさんはため息をつく。

「それなら、シェフに電話して聞いてみましょうか?」

「きっと家族で過ごしているだろうに、それはまずいよ」

「おれたちにこんなのを押しつけて、一家団欒してるほうが悪いんですよ。ドブネズミの処分の指示をさせて、幸福をぶちこわしてやりましょう」

「ひどいこと言うね」

 オグラさんは乾いた笑い声を上げる。

 鼠を間に置いて二人でああでもないこうでもないと談義していると、帰り支度を終えた店長がやって来て、鼠を見ると目を丸くする。

「お、大物がかかってるじゃん。これが店の食材を荒らしてたやつ?」

「はあ、多分……これ、どうしましょうか?」

 オグラさんが靴の先で罠をつつくと、鼠はまた元気を取り戻したのか、金網の中をぐるぐると走り回る。

「シェフはこれをどうするつもりだったの?」

「何も指示されてないです」

「店長が決めてくださいよ。責任者なんですから」

 僕が言うと、店長は苦い顔をする。

「そりゃ、おれは責任者だけど」

「いやなもんですよね。いっそ、ここで飼いますか? 店のペットとして」

 僕の冗談に店長は苦笑し、

「それは出来ないな。飲食店だし。しのぴーが持ち帰って個人的に飼うって言うなら無理には止めないけど」

「いやですよ」

「だろう? まあ、ここは、相応の処理をするだけだよ」

 つまり殺すということなのだろう。かわいそうだが仕方がない。まったくもって異論もない。だってこの鼠は、何の役にも立たない不潔な害獣なのだから。社会に必要のない生き物なのだから。そんなことは僕だってわかっているのであるし、別段助命嘆願をするつもりもない。

 個人的には僕は出来れば弱くて間違ったものを否定したくはないのだけれど、それは自分が間違っているがゆえの感傷で、人前で言うべきものでもないのはわかっている。

「しのぴー、ゴミ袋の予備を持ってきて」

 言われた通りそれを差し出すと、店長は腕まくりをした手で、三枚ほど重ね合わせる。そして両手で袋の口のところを広げると、罠の横側に付いた取り出し口にかぶせた。

「これどうやって開けるの?」

 店長はオグラさんの顔を見上げてそう訊ねる。

「袋に入れるつもりですか?」

「そう。ちょっと罠を開けてこっちに追い込んでくれよ」

 言われてオグラさんは鼠の動きを警戒しながらおそるおそる罠の扉を開けるが、鼠は片隅にうずくまったまま動こうとしない。困ったオグラさんが僕の顔を見たので、僕は罠の後ろ側を靴の先で小さく蹴った。すると、鼠は弾かれたように罠を飛び出して、うまい具合に店長が取り出し口にかぶせたゴミ袋のなかに飛び込んでゆく。

「よしっ」

 店長は手早く袋の口を縛って、鼠を閉じ込めた。

「捕まえたぞ」

 持ち上げた半透明のゴミ袋の中で、鼠は手足を振り回し、身をよじり、そしてチュウチュウと鳴いている。完全なパニック状態である。これをどうするのかと思って見ていると、驚いたことに店長はそのまま燃えるゴミの箱に放り投げたのである。

 ゴミ箱の中でも鼠はもがき、その鳴き声とゴミ袋がカサカサと鳴る音が聞こえる。僕とオグラさんは呆然とそれを見守っている。次に店長はゴミ袋の脇に畳んで置いてあった段ボールをちぎってその上に投げ入れ、さらにバックルームのくずかごを取って来るとそこから紙くずを振りかけた。相変わらず鼠の声は聞こえるが、その姿は見えなくなった。

「保健所が開くのって、九時だっけ? 十時だっけ? きっと、遅番が終わってもまだ開いてないな」

 店長は真剣な面持ちでしばし考えてから、ゴミ箱の縁を両手でつかんで固定する。そして、そのぴかぴかの革靴でもって紙くずの上から踏みつけた。すると、ゴミが潰れるぐしゃりという音が聞こえる。

 店長はそのまま全体重をかけ、引き抜き、そしてまた踏みつける。それを何度も繰り返すと、ゴミの体積は半分ほどに減っていた。

 店長は動作をやめて、じっとゴミ箱を眺めている。僕らも同じように注視する。いくら待っても、もうゴミ箱は何の音もたてない。

 店長は大きく息を吐いて、汗など出ていないのに額を拭う動作をすると、ニヤリと笑う。

「じゃあおれ、今日はもうあがるわ。しのぴー、あとは頼んだぜ」

「あ、はい」

「オグラさんも、よろしく。二人とも、よく手を洗ってアルコール消毒しとくんだぞ。それじゃあよいお年を……ああ、もう年が明けてるな。新年になっちゃった。じゃあ、新年明けましておめでとう。今年もよろしく頼むぜ」

 そして親指を立てて見せると、店長は小走りに厨房を出て行く。残された僕とオグラさんは、一瞬顔を見合わせてから、仕事に戻った。

 それから朝にかけて何組か初詣帰りの客が来店したが、混雑とまでは至らず、やがて閉店の時刻となる。

 最後の客の会計を終えると、表のシャッターを下ろして鍵をかけた。レジの売上金を袋にいれて金庫に仕舞い、そして一日分のゴミが詰まったゴミ袋を、ドブネズミの死体が入ったその袋を、サンタクロースのように背負って裏口から集積場へと向かう。

 夏だったらもう空が白んでいる時刻で、夜の女たちが仕事を終えて駅へ歩いてゆく風景なども見られるのだが、大晦日の夜は未だ明けず、静まりかえっていた。そして肌を切るような空気の冷たさである。白い息を吐きながら集積場に到着すると、既に近隣の飲食店から出たゴミ袋が山積みになっている。僕は烏避けのネットをめくって、その下に背中のゴミ袋を押し込んだ。

 離れようとしたところで、あっ、と僕は心の中で声をあげた。袋のなかで、何かがガサリと音を立てたような気がしたのである。

 あの鼠が、生きているのか? いや、店長があんなに力を込めて踏みつけたんだ。まさかそんな筈はない。じっと見つめてみても、ほら、もう何の音もしないじゃないか。生きているならもっとガサガサと動くものだろう。音がしたとしても、それは風かなにかの仕業であって、鼠とは関係ないはずだ。そうに決まっている。

 そうは思っても、なかなかその場を離れる事が出来ない。万一生きていて、あとで息を吹き返してしまっては、このゴミを収集する作業者が可哀想だ。それにもし苦痛を感じたままだとしたら、ドブネズミにとっても気の毒だろう。僕には、責任があるんじゃないか?

 恐る恐る片足を上げて、袋の上に靴底を下ろす。そしてゆっくり体重をかけると、どこへ行くにも履いている僕の黄土色の登山靴の分厚い靴底越しに、ぐにゃりと柔らかい何かと、その中でパキパキと固いものが折れる感触が足の裏に伝わって来た。

 これはオグラさんが捨てた生ゴミに、骨付き鶏肉などが混じっていてそれを踏みつぶした感触なのだと信じたい。あの鼠を踏みつぶしているとは思いたくはない。なのに、僕の脳は、考えなくてもいいってのに、それが踏まれる映像を脳裏に映し出してしまう。

 しかしやめるわけにはいかない。完全に、間違いなく息の根を止めなければと続けていると、昔子犬を踏み殺した父のことを思い出した。あの、ぼくのおとうさんは、こんな風に生きた犬を踏みつぶしたのだろうか? そして息子は鼠を踏み殺す。踏みながら、ドブネズミを美しいと歌い上げたロック歌手のことを思い出した。僕はあの音楽が好きなんだ。リンダリンダ。

 通りかかった中年男が怪訝な顔でこちらを見たが、僕と視線が合うと慌てて顔を背ける。一月一日の早朝に、やけになってゴミを踏みつぶす若い男を、彼はどんな風に感じたのか。

 もう十分だろう。鼠も完全に死んだだろう。この一月一日に死んだだろう。僕はお前になんぞ同情しない。誰にも同情なんかするものか。のろわば呪えドブネズミ。僕もいつかお前のように死ぬだろう。


 バックルームで着替えているところに、オグラさんがやって来た。

 彼はすでにコックコートを脱いで、私服姿になっている。どこがどうと正確に指摘は出来ないが、彼の私服は僕や他の学生アルバイトの着る服とはどこか違う。その格好だと、仕事中にはさほど感じない年齢を意識させられる。

「お疲れさん」

「お疲れ様です」

「しのちゃん、今日は一緒に帰るか」

「いいですよ」

「じゃあ外で待ってるから」

 オグラさんが出て行ったので僕は着替えはじめる。もう眠気は消失した。さわやかな朝だ。すっきりした労働の終わりだ。

 着替えを終えると、酒屋の営業が置いていった高級ウイスキーの試供ボトルを一本くすね、瓶から直接飲み干す。喉がアルコールで焼けるのを感じながら、店内の照明を落とし、暗い中でセコムを作動させると、駆け足で裏口から外に出た。外ではオグラさんが煙草を吸いながら僕を待っていて、二人で駅へ向かう。

 大晦日から元旦にかけて、電車が一晩中動いていたことだろう。そのせいか、ホームの雰囲気もいつもと違う。電車が、駅が、これから動き始めるあの新鮮な空気がなく、どこか使い古したような感じがする。

「しのちゃんは、正月の予定なにかあるの?」

 山手線のなか、並んでつり革を掴むと、オグラさんがそう話しかけてきた。

「何もないです」

 僕は咄嗟に嘘をついた。するとオグラさんはため息をつき、自分にも何の予定もなく、この正月はずっと酒を飲んで一人寂しく過ごすのだと語った。

 それは僕の予想していた通りの言葉で、それを事前に察知して嫌味にならぬよう嘘をついたつもりなのだけれど、実際に思った通りになってしまうと、その気遣い自体がいやらしく思え、気まずかった。

 オグラさんがこの店に来たのは半年ほど前のことだ。彼はおそらく三十前後で、店長よりも年上だったから、店ではシェフの次の年長者ということになる。今まで何をしていたのかは知らない。ここに来るまでは調理経験がなかったらしく、はじめの頃はシェフがつきっきりで指導していた。シェフは普段は温厚だけれど厨房の中では厳しい人で、声を荒らげてオグラさんを叱りつけるのを目にしたこともある。いい大人がうなだれて説教されている姿というものは無惨で、見ているこちらの方がいたたまれなくなる。

 最近は調理の腕前も上達して、オーダーの少ない深夜の時間帯などは、今日のように一人で厨房を任されることもある。まだ複雑なメニューは作れないようだが、本人にも自信が付いて来て、気後れすることなく他のバイトと話すようになっていた。別段僕と親しい訳でもなかったけれど、なんとなくこちらもほっとしていた。

「いずれ、社員にしてもらえるといいんだけれどねえ。今年がんばれば、なんとかならないかなあ」

 オグラさんはため息をつく。

 はあと頷いたものの、その心情はよくわからない。こんな、三、四店舗しかない小さなカラオケチェーンでも、社員になりたいものなのだろうか? 僕が言うことではないのかもしれないが、将来性があるとも思えない職場である。それとも、オグラさんと同じくらいの年齢になれば自然とそう思うようになるものなのだろうか。

 その横顔をじっと見ていると、耳の上あたりに白髪が二本ほど混じっているのを見つけた。

「あ、そうだいいものをあげよう」

 そう言って、オグラさんはおもむろに財布を取り出し、そこから五千円札を一枚抜くと僕に手渡そうとする。何かと思って戸惑っていると、

「裸で悪いけど。お年玉」

 と言うのである。

「えっ、お年玉ですか?」

 年は離れているけれど、時給はさほど変わらない。お互い安月給のフリーターじゃないか。むしろここでは僕の方が先に働いている先輩なのである。

「そんな、受け取れませんよ」

 と一応遠慮しても、オグラさんは「受け取ってよ」と譲らない。

 どういう心情なのだろう? 僕がオグラさんの立場だったら、絶対に同僚にお年玉などやったりはしない。何が何だかさっぱり想像がつかないが、くれるというのなら有り難い。黙って受け取ると、オグラさんは満足そうに笑った。

 彼は新宿で降り、僕はそのまま原宿へと向かう。

 窓から見える町並みはまだ暗く、夜とかわらない。街が完全に目を覚ますのには、まだ少し時間がかかるのだろう。ましてや今日は元日だし、年越しのために夜更かしをした人々は、普段より遅く起き出して来るに違いない。こんな時間に活動している方が、世間のサイクルとはちょっとずれた人種なのだ。

 車内にいるのは、ポケットに手を突っ込んで座席に深く座り込んだ労務者。酒を飲んだ帰りらしく顔を真赤にしてドアに寄りかかる若者。ギターケースを背負ってつり革を掴む髪の長い男。赤いコートを着て暗い顔でうつむく年齢不詳の女。さほど混雑してはいなかった。いつもと変わらない。みなむっつりと黙ったまま揺れている。みな疲れ果てているように見える。

 僕は携帯電話を取り出して、メール作成画面を開きもうすぐ到着する旨を真赤に送った。すぐに『駅で待ってるね』と返ってくる。携帯電話の前で待ち構えていたのだろうか。

 電車が揺れた拍子に体がよろけ、隣の人に肩をぶつける。すみませんと謝ったのに、相手は舌打ちをする。顔を見ると三十手前といった風情のスーツ姿の女だ。地肌の色と合わないファンデーションが能面のように顔面を覆い、眉毛もあまりにもくっきりと書きすぎて落書きのようになっている。うっかり目が合うと忌々しげに顔を背けた。

 原宿駅に着くと、改札口が東に向いているらしく、ちょうど正面の空の奥が朝焼けを始めている。改札を出て、僕はぼんやりとそれを見上げた。

「ミズヤグチさん!」

 と、横合いから声をかけられる。真赤の声に間違いがないのだけれど、太陽の光を眺めて瞳孔が開ききってしまった僕の目には、街は灰色く塗りつぶされてしまっており、咄嗟に彼女を見つけられない。

「こっち」

 ぽんと肩を叩かれて、そうして振り返るとすぐ近くで彼女が笑っている。

「うん」

 僕は誤魔化すように目を擦りつつ、

「あけましておめでとう」

 と忘れないうちに言った。

「あけましておめでとうございます」

 と真赤は返す。

 そうして僕たちは肩を並べて明治神宮へと歩き始めた。

 参道の砂利を、係員が大きな箒で掃き清めている。その上をうつむきながら歩く僕は、真赤の言葉に生返事を返しながら、ドブネズミのことを、そしてオグラさんからもらった五千円のことを思い出し、そして、もしこれをネット日記に書くとしたらどんな文章にするのかを考えていた。