序章の前・b
「じゃあね、リリア」
「うん。お先に」
わたしは忙しくクラブ活動をしている友人と別れ、
わたしはこれから駅までのバスに乗って、
自分で選んで入った、そして十分気に入っている上級学校とはいえ、毎日となると少々大変だ。誰かがクルマで迎えに来てくれないだろうかと思うが、以前みたいにママが
「まあ、いいか」
いつものことだから。
また本を読みながら通学時間を
ねえ、どこから来たの? と女子の声。
最上級の女子生徒達に取り囲まれている人は見えなかったが、わたしには関係なかろう。脇を通り過ぎようとしたとき、
「あっ! やっと出てきた」
右後ろ四十五度から、二十個以上の視線が、ずぶずぶずぶと突き刺さった感じがした。
「リリア!」
呼び捨てにするな。
「リリアーヌ・アイカシア・コラソン・ウィッティングトン・シュルツさん!」
フルネームで呼ぶな。
わたしが恐らくは
「久しぶり、リリア。元気だった?」
女子生徒に囲まれていたのは、サイドカーだった。一台のサイドカー。なかなか新しいタイプに、広い
わたしが
「あれ? 俺のこと忘れちゃった?
そやつはいきなり言い放った。同時に先輩達の黄色い歓声が飛ぶ。二、三発ぶん
「この子が、あなたの幼なじみ?」
「そう。だから
「よく言うわね」
そしてその美人先輩は、
「ふーん」
わたしをじろじろと、ほとんど
わたしは笑顔で手を振っていた男に近づくと、
「何しに来たのよ! なんでこんなところにいるのよ!」
二発立て続けに聞いた。
こいつは確かにわたしの幼なじみで、子どもの頃はよく遊んだ
それはさておき、一応彼の名前をいっておくと、トレイズ。
下の名前は知らない。「〝イクストーヴァのトレイズ〟とでも呼んで」、と
トレイズはなんだかお
わたしはこいつが
トレイズがわたしの質問に答える。
「リリアのお母さんに、アリソンさんに頼まれたんだ」
「ママに?」
「そう。首都に着いたから、前にもらっていた空軍の
「…………」
「『リリアちゃんは通学
「……さようですか」
トレイズは乗りなよ、とサイドカーを指し示す。土と
「まさか……、イクス王国の家からサイドカーで来たの?」
わたしが
わたしは
「ホテルに泊まるほどお金もないし、
「バカじゃないの? 列車と飛行機乗り継いでくれば、たった三日じゃない」
今や旅行は飛行機でする時代だ。わたしが言ってやると、トレイズが答える。
「自分で
「う……」
わたしは黙った。その気持ちはよく分かる。
トレイズについて気に入らないこと──それはわたしが他人にちょっと自慢できる、普通の上級学校生にはない特殊技能の二つが、こいつにも備わっていることだ。
一つ目は、飛行機の操縦。
ママは、わたしがまだ幼かった頃、空軍基地にある保育所にわたしを預けていた。天候が悪化して飛べないときなどは、
「じゃあ、リリアちゃんも操縦
「うん、分かった!」
信じられない話だが、わたしはそのころからそうやって飛び方を習った。
法的に決まった空軍の飛行士
意のままに飛行機を飛ばすことがおもしろくなってくると、次は
そしてトレイズもまた、飛行機を飛ばすことができる。
飛行機
二つ目は、ベゼル語。
わたしは、スー・ベー・イルの公用語であるベゼル語を話すことができる。これもまた、ママ
昔とは違い、スー・ベー・イルとの文化・経済交流は盛んで、優秀な学生は
わたしの通う上級学校ではベゼル語の授業も選択可能だが、わたしは取るべきなのか担当の先生に聞きに行って、その場でその授業の単位をもらった。先生
そしてトレイズもまた、ベゼル語を当たり前のように使うことができる。これも詳しくは知らないが、イクス王国には西側からの観光客もそれなりに訪れるようだから、そのへんが理由なのか。
「で、うちに泊まる気なの?」
「アリソンさんの許可はもらったよ。もう一人のは、知らない。──今、〝チッ〟とか言った……?」
耳のいいやつだ。
「いいえ。──まあいいわ。乗せていってくれるんでしょ?」
「もちろん。さあお
わたしは
首都の道は、
わたしが指し示したとおりに、トレイズはすいすいとサイドカーを走らせる。なかなかうまい。しょっちゅう急停車する
これなら、少し寄り道する時間があると思った。わたしはトレイズに、ちょっと寄っていくところがあるからと道を変更させた。
そして着いたのは、首都の真ん中にある公園だった。一区画そのまま森と
「〝ベマーテ公園〟? 変な名前」
トレイズには脇の道にサイドカーを止めさせて、わたしは芝生の中へと入る。そしてそこに、
「あー、きもちいい」
「上級学校生は、寄り道はいけないんじゃなかったの?」
「あなた先生?」
「違うけど」
「じゃあ放っておいて。──もっと離れて座りなさいよ。知らない人が見たら仲がいいと思われるでしょ」
「はいはい」
「〝はい〟は一つで十分」
「はい、お嬢さん」
「何よ
それからわたしは、
わたしは右手で飛行機を作って、
「ぶーん」
急上昇。頂上でひねって、まっすぐ落とす。何度かくり返して遊ぶ。そういえばここしばらく勉強が忙しくて、飛行機に乗っていない。休みに入ったらまたママに頼んでみようか。
休み? わたしはふと思いついて、空を見上げたまま聞いた。
「ちょっとトレイズ」
「なに?」
「二十日も旅していたって……、あなた学校は?」
「行ってないよ。言ってなかったっけ?」
わたしが首を横に向ける。足を伸ばして座っているトレイズが、こっちを見ていた。
「じゃあ、仕事は? 観光飛行機とか飛ばしているんじゃないの?」
「ん? 違うよ……」
「秘密」
なんだそりゃ? あまり見ないまじめな顔をしたトレイズに、さらに質問する。
「家族は何も言わないの?」
「秘密……、だね」
「何よ。人の家のことはよく知っているくせに。少しは教えなさいよ」
わたしがやや強い調子で言うと、トレイズはしばらく空を見上げた。そのままごまかすつもりかと思ったら、トレイズは視線を下げて、胸に右手の
「それは秘密なんだ。それを話すときは、きっと俺がリリアにプロポーズするときだよ」
自分が秘密の王子様とでも思っているのだろうか? とりあえず芝生から起き上がり、背中に軽く
「さて、帰るわよ! 運転手!」
「はいはい……」
「一つでね!」
「はいはい……」
適当な場所にサイドカーを止めさせて、わたしはトレイズの
「ただいま」
重荷のトレイズを玄関に残し、廊下に入ったわたしを出迎えたのは、
「おかえりなさい。──久しぶりですね」
「…………」
ママではなく、〝英雄さん〟、だった。ママの部屋からドアを開けて出てきた。
「こんにちは……」
一応
「こんにちは、リリアーヌさん。私の名前は、覚えてもらっているでしょうか?」
わたしは、
「ええ。トラヴァス
半分は事務的に答える。スー・ベー・イル
「今日はママとデートだったそうで。わざわざ送ってくれたんですか。それはどうもありがとうございます」
「ええ。君のママは疲れたって
「そうですか。それもどうも」
「それでも一応、夕食には誘われています。少し待たせてもらっていいでしょうか?」
「どうぞ」
わたしはそれだけ言って黙った。
トラヴァス少佐は礼を言って、廊下
わたしがママの部屋の前に立ち、閉められなかったドアから中を
「…………」
幸せそうな顔をして寝ていた。あんなママの顔、わたしは今まで何回見たことがあるだろうか?
わたしは、今度はしっかりとドアを閉めた。
リビングに向かおうとして、一人忘れていたことに気がついた。振り返って、頭の中をロクシェ語に戻す。別にベゼル語でもいいのだが、気分的に。
「あなたも上がりなさい。その脇にある
「ああ。──あの人は?」
「ママの
「──しょっちゅう来るのか?」
「ここ最近はなかったんだけどね。別にいいんじゃない」
「いいのか?」
「……本人がいいって言えば、いいのよ」
「そっか……」
トレイズは少し寂しそうな顔をして、それから両手
「ほら、手伝うからその
「ありがとう」
トレイズが、
「……何よ? 何も出ないわよ」
わたしは小さな
「えー、お茶くらいは出してもバチは当たらないだろ?」
返事は相当
しかたがない。
〝二人〟のために、お茶くらいは出してあげるか。
「じゃあ、わたしは制服
リリアーヌ・シュルツがそう言い残して、リビングから出ていく。テーブルには
トレイズの見ている先で、閉じられたガラス戸の向こう、廊下の脇にある部屋へと、リリアが消えた。
「…………」
トレイズは前を向き、自分を静かに見る少佐と目が合う。
「……ん?」
トレイズが小さく声を上げた。
「なんでしょうか?」
トラヴァス
「ん……」
トラヴァス少佐が、自分の分にまったく手をつけていないことに気づいた。
「リリアがいれてくれたお茶に、毒でも入っていると思っているんですか?」
やや
「いいえ。
トレイズはそうですか、と言って、お茶を飲む。半分ほど飲んだとき、
「お久しぶりです。再びお会いできて光栄です」
目の前の男が、トレイズにそう言った。
カップを置いたトレイズが、
「以前会ったことがありますか?」
「ええ。ですが、私はほとんど十年ぶりにお目にかかります。大きくなられた。──
「…………」
トレイズが
「……顔を上げてください。そして、あなたは何者ですか?」
トラヴァス少佐がゆっくりと顔を上げて、
「殿下の思うとおりの人ですよ」
「そうか……。そうか、例の人ですね……。あなたが、父上や母上が
「はい。殿下」
「〝壁画発見の真の英雄〟にして、〝母上を救った魔法
「そこまで言っていましたか?」
「〝リリアのお父さん〟──ヴィルヘルム・シュルツ。……やっぱり、同じ目をしていたのは
「ああ、それでさっき」
「ええ」
「
ヴィルはカップを持ち上げて、何度か吹いて冷ましていく。やっと口に付けて飲んで、
「おいしい。──リリアのいれてくれたお茶を飲むのは、初めてです」
「…………」
トレイズは何も言わず、残り少なくなった自分のカップを
「あなたが来られると聞いて、今日はまいりました。
「……そうですか。あなたの秘密は、死んでも守ります」
「ありがとうございます。でも、
「そして、何ですか?」
「自分の好きな人を守ってください」
「しっかりと、覚えておきます」
トレイズとトラヴァス少佐は、お茶を飲みながら小声で会話を交わした。
トラヴァス少佐はトレイズの家族の
フランチェスカ女王様たる母フィオナと、スー・ベー・イル軍を
「これはもうわたしが頑張らないとダメね」
そういつも言っていること。
「メリエルは自分が姉だと思っていますが、俺は妹だと思っています。会うとそのことで口げんかばかりですよ。
「そうですか」
トラヴァス少佐が、嬉しそうに目を細める。
トレイズは、どうやってヴィルが西側の市民権を手に入れたのか訊ねた。
訊ねた後で、答えてもらえなくてもいっこうに構わないとつけ足したが、トラヴァス少佐は答える。ロクシェの
「〝ヴィルヘルム・シュルツ〟を殺してしまうのは辛かったですが……、何も関係ない人を巻き込みたくなかった」
目を細めてそう言ったトラヴァス少佐に、
「リリアのことですか?」
トレイズが確認するように聞いて、トラヴァス
「いつか……、リリアに本当のことを話すときが来ると思いますか?」
「分かりません。その方がいいのかどうかも。あなたはどうですか?」
トラヴァス少佐の問いに、
「分かりません……」
トレイズが同じように答えたとき、廊下に、着替えを終えて部屋から出てきたリリアが見えた。トラヴァス少佐も気づいた。
二人が、互いの本当の身分で最後の言葉を交わす。
「リリアと、仲良くしてください」
「ええ」
トレイズが胸に手を当てて、静かに、しっかりと頷いた。そして、
「あちらはどう思っているか知りませんが……」
そうつけ足した。