Part 01: 千雨: 美雪……? おい、美雪ッ?! 美雪(私服): っ……?! その声に意識を引き戻されて、ビクン! と身体が跳ねるのを感じる。 顔を上げて視線の先に見えたものは、ガラスの麦茶ポット。続いてそれを片手に持ってこちらを覗き込んでくる、幼馴染みの姿だった。 美雪(私服): 千雨……。 喉から出た声は、自分でもはっきりとわかるほど震えて……情けないものだった。 美雪(私服): (千雨、生きてる……) それだけで思わず目が潤みそうになったが、懸命にこらえて気持ちを奮い立たせる。 そして、千雨が無事であることを確認してから私は、周囲に視線を移して現状の把握に努めた。 美雪(私服): ここ、は……? 千雨: ……は? 社宅の集会所だよ。ガキの頃はここに入り浸りだっただろうが。 美雪(私服): …………。 周囲をゆっくりと見回し、彼女の言う通りここが官舎敷地内の集会所だと確認してから、はぁ……と息を吐く。 ……そこでようやく、自分の全身が震えていることに気がついた。 千雨: 話が長くなりそうだから、麦茶を取って戻ってきたら、お前がテーブルに突っ伏して眠り込んでて……。 千雨: まさか、お前まで『眠り病』にでもなったのかと心配したぞ。 美雪(私服): あ……ご、ごめん、ちょっと……ね。 バクバクと大きな音を立て続ける自分の胸を押さえ、改めて千雨を見る。 保温ポットをテーブルの上に置きながら、彼女は心配そうに私を覗き込んでくる。 と、そこに血を吐いて倒れた記憶の中の顔が重なって見えて……思わずひっ、と出かけた悲鳴を慌てて飲み込んだ。 美雪(私服): ち……千雨、だ、大丈夫? 千雨: いや、美雪……何を言ってるんだ? 千雨: お前こそ、どうしたんだよ。やっぱり昨日の爆発事件で、どこか怪我とかしたんじゃないか? 美雪(私服): ……え? 美雪(私服): (……昨日の、爆発事件?) 美雪(私服): ……今日って、何日? 千雨: はい……? 美雪(私服): お願い、教えて。今日、は、何月……何日? 千雨: …………。 うわごとのように繰り返す私に、千雨は怪訝そうな顔をしながらも日付を口にしてくれた。 でも、その日付は……。 美雪(私服): (高野製薬爆発事件の、翌日……?) でも、なんで私と千雨はこんな時間にこの集会所にいるのだろう。……記憶が引っかかって、思い出せない。 美雪(私服): それで……私たち、なんでここにいるの? 千雨: ……お前、私をからかってるのか? 美雪(私服): 本気で聞いてるんだよ!バカだと思ってくれてもいいから、教えて! 千雨: …………。 千雨は最初、不愉快そうな表情をしていたが……私の真剣な思いが伝わったのか、大きくため息をついてから肩をすくめて話してくれた。 千雨: とりあえず、あの事件が起きたせいで調べられるところもなくなったから……次はどうするか、って私が聞いたよな? 千雨: で、今後のことを話し合おうってことになったのはいいが、あんまり遠いところだと私とお前のお母さんズが心配するし……。 千雨: だったら社宅の集会所がいいんじゃないか、ってお前が言うから、鍵を借りてここに集まることになった……これでいいのか? 美雪(私服): うん……ありがとう、千雨。 ……よし、ようやく記憶が戻ってきた。確かに千雨の言う通り、私たちは話し合いのためにここに来たのだ。 美雪(私服): (爆破事件が起きたのが、昨日。……だとしたら、つじつまが合ってる) ……思い出す。『ツクヤミ』を追いかけて私たちは工場に向かい、そこで南井さんは崩落に巻き込まれて重傷を負ってしまった。 彼女の部下は、私たちのせいじゃないと言ってくれたけど……さすがにそうは思えない。 美雪(私服): (私が工場に行かなければ……怪我をすることなんてなかった) さらに、工場ではどういうわけか川田さんと再会できたけれど……彼女の目的がさらに不明になるだけで、何も実りはなかった。 ……私が動くと、状況が悪化する。 これ以上私が動けば、次は誰がどうなるかわからない……。 だから私は、工場爆破事件の翌日に集会所で話し合いの末……千雨に提案した。 美雪(私服): (しばらく、大人しくしようって……) 千雨も、その提案を受け入れてくれた。あの事件はやはり、彼女にとってもショックが大きかったのだろう。 それ以降は警察の事情聴取に呼ばれたり、菜央のお母さんの様子を見に行ったりして……。 他の用事で私たちは、全くと言っていいほど外出をしなくなってしまったのだ……。 数週間後、ワクチンの接種が始まって菜央のお母さんが目を覚ます目処が立ち、『眠り病』が驚異ではなくなって……。 美雪(私服): (#p田村媛#sたむらひめ#rも出て来ないし、そろそろ調査を再開しようって話になって……) そして……あの惨劇が起こった。 美雪(私服): 南井さんは……? 千雨: 本当にどうした、お前……?まさか、また時間でも飛び越えたとでも言わないだろうな? 美雪(私服): ……っ……。 そんな苦笑まじりの冗談に、私は笑い返さず唇をかんでこぶしをぎゅっ、と握りしめる。 その様子を目ざとく見た千雨は息をはっ、とのみ、表情を一変させると身を乗り出して私に迫っていった。 千雨: ……おい、マジか。こんな一瞬で、また違う「世界」と入れ替わったって言うのか? 美雪(私服): ……正確には、違うと思う。 夢の中で、田村媛から言われた話を思い出す。 美雪(私服): (田村媛は、あれは予知夢だって言ってた……でも……) 今が現実だとすれば、さっきまで私が見ていたのは、夢の映像……つまりは私の頭の中に生み出された「世界」だ。 とはいえ……倒れる人々の喧噪と、千雨を抱き上げた時の重み……そして、ぬるりと手に伝わる血の感触……。 何もかもが、幻とは思えないほど鮮明で……苛烈な印象をまるで爪痕のように私の網膜に刻みつけていた。 美雪(私服): (いや……ちょっと待って。もしさっき見た夢が本当に予知夢だったとしたら、この後は……?) 千雨: おい、美雪……?違うってんなら、いったい何があった?ちゃんと説明してくれよ! 美雪(私服): ……。私、一穂たちに電話は、もうかけた? 千雨: あ……? 美雪(私服): 事情聴取の時にばったり高野さんと再会して、眠り病のワクチンは最近#p雛見沢#sひなみざわ#rで採取されたものから作られたのを聞いて……。 美雪(私服): それをあっちの一穂たちに伝えようって、田村媛に無理を言って繋いでもらったよね?あれ、もうやった? 千雨: ……いや、やってないぞ。つか、事情聴取すらまだだし……高野さんにもあの製薬会社で昨日会ったきりだ。 美雪(私服): …………。 やはりか。高野さんと事情聴取後に再会したのは、事件から2週間ほど後のことだ。 千雨と警察に行って事情聴取を受け、その帰り道に田村媛とやり取りをして……一穂たちと電話で話すことができたのだ。 ……ただ、その後田村媛が私の前に姿を現すことは一度もなかった。 美雪(私服): (あの取り調べどころか……電話したことすら、田村媛が私に見せた予知夢ってこと……?) 美雪(私服): (……もし予知夢だとしたら、一穂と菜央は合流できたって認識でいいの?) 美雪(私服): (でも、その後はどうなったの? その後は?!一穂は?! 菜央は?!) 美雪(私服): (あの2人は……まだ過去の「世界」にいるの?!) わからない……というより何が本当で嘘なのか、区別も判断もできない。 あまりにも処理不可能な情報の錯綜に頭を抱えたその時……私の肩にそっ、と触れる感触。 振り向くと、そこには気遣うように私を覗き込んでくる千雨の顔があった。 千雨: なぁ……お前、本当に別の「世界」から飛んで来たのか? 美雪(私服): ……その前に、ごめん。先に確認させて。南井さんは、どうなった? 千雨: 南井さんは工場施設の爆破に巻き込まれて重体だ。私たちを現場で回収して東京まで送り届けてくれた、あー……秋武って背の高い女の人を覚えてるか? 美雪(私服): うん。警察広報センターで会った人だよね。 千雨: その人が、車の中で教えてくれた。南井さんには別の人が付き添ってるらしい。 美雪(私服): ……夏美さんは? 千雨: 彼女とはあの後玄関ロビーで合流した。……上司の安全確認に行ってたって話だ。 美雪(私服): …………。 それも、全て記憶通りだ。 つまりこのままだと、数週間もしないうちに外資系の製薬会社のワクチンが認可され、都市部を中心に無料接種が行われるようになって――。 美雪(私服): (……そして、みんな死ぬ) ぞわり、と背筋を冷たいものが駆け抜ける。お腹の奥が冷たくなって、息が浅くなる。 美雪(私服): (どういうこと……?何が原因で、あんなことになったのっ?) さらに、これから1ヶ月弱の間で起きる社会的に大きなことと言えば……。 美雪(私服): (そう言えばワクチン、どこで作られたんだっけ。爆破事件からTVや新聞からも距離を置いてたし、私自身は打ってないからよくわからない……) 美雪(私服): ……千雨。外資系の製薬会社で、すぐにでもワクチンの認可が下りそうなところって思い当たらない? 千雨: サメ絡みの研究やってるところはともかく、あんまり医薬業界には詳しくないからな……。 千雨: ……餅は餅屋だ。夏美さんに連絡を取って、話を聞いてみるってのはどうだ? 美雪(私服): そうだね。けど、あの人の連絡先を聞いてたっけ?私は聞いてなかった気が……、っ? そこまで口にして、ふと声が止まる。 美雪(私服): (確か、この後千雨が大丈夫だ、って言って……?) 千雨: 大丈夫だ。この前会った時、念のため名刺をもらっておいた……ほら。 美雪(私服): …………。 千雨が取り出した名刺を見つめる。 美雪(私服): (夢の中と、同じ……) この後、千雨と一緒に私は近くの公衆電話に赴いて電話をかける。 そして、最後にたどり着くのは……。 美雪(私服): (あの惨劇……?) 夢の中の出来事を、現実の私が追いかけているような感覚に陥って……ぶるりと身を震わせる。 今は、現実なのだろうか。それとも、夢の中なのだろうか。 そもそも目が覚めてからずっと、地に足がついていないような感覚がある。 美雪(私服): (今が夢だとしたら、本当の私は夢の中でとっくに死……――) 千雨: おい……本当に大丈夫か?私が代わりに電話してきてもいいんだぞ。 美雪(私服): だ、大丈夫……。 夢の中では、私がまごつかなかったから……2人ですぐに公衆電話に向かった。 でも、今……私が返事をしなかったことで、夢の中にはなかったやりとりが加わった。 美雪(私服): (私が行動を変えれば、変わる……?だとしたら……) 美雪(私服): 電話、私だけで……行ってくるよ。 千雨: は……? 美雪(私服): そこの公衆電話使うから、すぐ戻ってくる。だから……。 千雨: …………。 千雨: ……わかった。私はここで待ってる。 千雨は汗をかく麦茶ポットの中身を、自宅から持ってきたのか見覚えのあるプラスチックコップに注ぎながら言った。 千雨: だから、ちゃんと戻ってこいよ。 美雪(私服): ……うん。 受け取った名刺を片手に立ち上がる。 美雪(私服): ……っ……! 悔しい。この足は、ちゃんと床を踏みしめているのに……。 自分が今ここに存在している実感は、いまだに得られないままだった。 Part 02: 集会所に戻ると、千雨は何食わぬ顔で特に何かをして時間をつぶすわけでもなく、お茶をすすりながら私の戻りを待っていた。 椅子が目の前にあるというのに片膝を立てて床に座り、じっと窓の外を見つめるその目はやけに鋭い。 美雪(私服): (千雨って、警官になるつもりは一切ない、って常々言ってるけど……) 泰然としたその雰囲気は、私なんかよりもはるかに「刑事」の資質を備えているようにも見えるのだから……妙な感じがする。 千雨: 夏美さんと、連絡はついたか? 美雪(私服): あ、うん。一応ね。 そう言って私が電話での内容を話すと、千雨は「そうか」とだけ呟き、湯呑をあおってお茶の残りを飲み干した。 千雨: まぁ……向こうは忙しくて当然だよな。『眠り病』の解決目処も立ってない上、あんな事件があった後だからな。 千雨: 会って話をしてくれるだけでも、御の字か。最初の時はなんとなく気に入らない印象もあったが、あれも真面目ゆえんだったんだって今ならわかるよ。 美雪(私服): うん……。 取り次ぎの人の「少々お待ちください」の台詞を何度か聞いて、なんとか夏美さんにつないでもらうことができた。 おそらく、忙しい合間にもかかわらず無理やり時間を空けてくれたのだろう……話したのは1分ほどで、先方はやや早口。 それでも、「あの夢」の中の私は千雨と同じように約束を取り付けただけでも十分だと思い、その日を待つことにしたのだ。 美雪(私服): (……でも、この約束は果たされない) 約束の日の前日、自宅に夏美さんから謝罪とともに「急用が入った」という電話があり、また後日ということでその機会は流れてしまう。 美雪(私服): (まず夏美さんから話を聞いてから、私たちは次の行動を考えるつもりだった。けど、急な変更でそれもできなくなって……) もちろん、それは責任逃れと言われても仕方のないくらいの取ってつけたような口実だ。私が怠慢だったことに変わりがない。 ただ、あの時の私は色んなことが一度に起こりすぎて……正直、気持ちが後ろ向きになっていた。 だからこそ、外部から動くための動機をもたらしてくれることに期待したのだけど……いや、これも言い訳には違いないか。 美雪(私服): (もっとも、「あの夢」が予知夢だとしても結果が同じものになるとは限らない……) だから、ひょっとするとこの「世界」では夏美さんは約束を守り、ちゃんと私たちに会いに来てくれるのかもしれない。 もしそうなったら、今の私の懸念は全くの杞憂でしかなく……あとで笑い話にでもするしかないような妄想だろう。 美雪(私服): (……でも、そうならなかったら?) 「あの夢」のように、約束が果たされなくて。次の約束を取り付けることもできなくて……。 千雨と「仕方ないね」と苦笑まじりに先送りにしたら……その後は……? 美雪(私服): (あの惨劇が……現実のものになる……?!) ぞっ、と背筋に戦慄が駆け巡り、冷たい汗が耳の後ろを伝ってうなじへと流れていく感覚を覚える。 ダメだ。ここで動かないままだと、取り返しのつかない結果へ向かって一直線だ。 でも、……どう動く?私は今ここで、何をすればいい……?! 千雨: にしても……まさか工場爆発なんてものを、ドラマでもなく生で見ることになるとはな。 千雨: これで怪我人が出てなかったら、後々武勇伝にでもできたかもしれないが……今思い出しても、なかなかヘビーな話だよ。 美雪(私服): ………。 すぐそばで千雨が、何か言っているのがとりあえず音として感じる。 ただ、耳には言葉として入ってこない。……というか、思考がそれどころじゃないと大慌てで回転をしながら弾き飛ばしていた。 美雪(私服): (どうする……?私は、どうすればいい?!) このままだと千雨も、みんな……死ぬ。 それに、あの惨劇が何だったのかを解明しないと一穂や菜央を連れ帰ったところで待っているのは、死が満ちた……血まみれの地獄……? 美雪(私服): ……っ……?! 喉の奥から吐き気がこみ上げてきて、胃の中のものをぶちまけてしまいそうになるのを懸命にこらえる。 とにかく、今は次の行動に移るべきだ。でも……何から始める? いやそもそも、このことを誰に、どうやって説明する……? ――本当に、そんな未来が起こりえるんですか?――未来がそうなる証拠は、あるんですか? はい! 「夢」の中で神様がそうなるという予知夢を見せてくれました! ……ばかげている!そんなの、誰も信じてくれるはずがない! 美雪(私服): (「あの時」と、同じだ……真実だって証拠が、何も提示できない……っ) 千雨: 美雪……おい、美雪っ? 美雪(私服): ……ぁ……っ? 千雨: お前、どうしたんだ。顔が真っ青で、汗びっしょりじゃないか……何か心配事でもあるのか? 美雪(私服): っ……! もう泣き出したいくらいの気持ちで、私は千雨の顔を見る。 真実をまっすぐに見据えようと、暗がりの中でもひときわ目立つ鋭い眼光。……その瞳は、猛禽類のそれを思わせる。 ただ……あの惨劇を迎えることで彼女の目がどんな風に濁っていくのか、私の網膜には……まだ焼き付いていた。 千雨: とりあえず……何があったか、言ってみろ。ひとりで抱え込むのはよせ。 美雪(私服): ……。言っても、信じてもらえる自信がないよ。本当に、全然……笑えない話だからさ。 千雨: はっ……何を今さら。10年前の「世界」に行ってきたって話自体、十分すぎるくらいに信じられん内容だろうが。 千雨: 今さら何が出てきたところで、驚きはしても疑ったりはしないさ。……だから、心配はいらんぞ。 美雪(私服): ……違うんだ。今までとは、種類が違うんだよ……。 そう……これまでのことは、悔しいけれどもう終わったことだ。 私が過去の#p雛見沢#sひなみざわ#rに行ったこと、違う平成のここにやって来たこと……。 私と千雨のお父さんが死んだことさえ、どうしようもない過去の出来事だ。ただそれだけに「あった」という証拠が存在する。 美雪(私服): (でも、これは違う……これからの出来事で、起こるかどうかもわからないのに……) 美雪(私服): ……心配っていうより、怖いんだ。もしかしたら私、いい加減な情報を出して千雨を混乱させるだけかもしれない……。 美雪(私服): 自分でも、確証が持てないんだよ。ただ疲れてる時に見た妄想を、真実みたいに思い込んでた可能性もあるし……だから……。 千雨: だったら、なおさらだ。さっさと話して、楽になれよ。 美雪(私服): えっ……? 千雨: お前の話を信じるか信じないかは、私が決めることだ。お前が気にすることじゃない。 千雨: それに……美雪。お前は普段へらへら笑って何も考えてないように振る舞ってても、本当は色んなことを考えてるって、私は知ってる。 千雨: 他人どころか、お前自身でさえ気づいてないかもしれないが……私はわかってる。 千雨: だから、肝心な時に考えすぎてヘタレる傾向もあったりするけどな。 美雪(私服): …………。 千雨: 相手の気持ちなんて、いちいち考えなくていい。 千雨: 私や世の中の大半の人間は、お前ほど相手のことを考えて喋っちゃいないんだよ。 美雪(私服): 千雨……。 ……つまり、喋りたいように喋れ。千雨が言いたいのは、そういうことだろう。 乱暴で、わかりにくい……でも、とても優しい。それが私の、大事な親友だった。 美雪(私服): (……だからこそ、あんなふうに死なせたくないんだよ……) 去来するのは、千雨の亡骸を抱きかかえた記憶。……あの時の絶望は、言葉では言い表せない。 あんな光景……もう二度と見たくない。というより、絶対に現実にはしたくなかった。 千雨: ? なんだよ……黙り込んで。ひょっとしてお前、泣いてるのか? 美雪(私服): な……泣いてないよっ……! 怪訝そうに覗き込んでくる千雨に、私は溢れそうな涙を堪えて笑顔を返す。 美雪(私服): 千雨って……北風と太陽だと、北風だね。お前が話してくれるまで待つ、なんてことは考えたりしないの? 千雨: いや、全く。そもそも悩みってのは、誰かに打ち明けられないから悩みなんだよ。 千雨: 日本人ってのはひとりで考え込みすぎると、どんどん悪いほうに向かう民族らしいからな。手段はどうあれ、話を引き出してこそだろ。 美雪(私服): 手段って……具体的には? 千雨: そうだな……よし、殴り合いでもするか。最後まで立っていた方が勝ち、だったらシンプルでいいだろ? 千雨: 安心しろ、私は足技を封印する。それくらいのハンデはないとな。 美雪(私服): …………。 千雨: なんだ、そのびっくりした顔は。 美雪(私服): いや……千雨が喧嘩っ早い性格だってことを忘れてたよ。 というより……久しぶりに千雨の口からそういう台詞を聞いたような気がする。 美雪(私服): (千雨のお父さんが亡くなって……いや、その少し前からかな。彼女は暴力的な話題を、あまりしなくなったんだ) まだ、半年も経っていないのに……あの日から本当に色々なことがあった。お互いに変化があって、当然のことかもしれない。 美雪(私服): 千雨って、急に大人になったよね。なんか私だけ、置いていかれた気分だよ。 千雨: ……14、15で大人だの子どもだのって、ただの誤差だろうが。変な言い方をするなよ、ったく。 千雨: で……美雪。少しは話す気になったか? 美雪(私服): ……うん。 まだ残る恐怖をなんとか抑え込んで、私は顔をあげる。 千雨が話を聞いて、どう思うかはもう考えないようにしよう。 まだ、彼女は生きている。この話を聞いてどう思うか、何を感じたか。 今ならまだ、直接その口から聞くことができるんだから……。 美雪(私服): ……夢を、見たんだ。これから1ヶ月、7月末頃までの夢を。 美雪(私服): その夢の終わりに……私や、千雨……たくさんの人が死んだ。 美雪(私服): #p田村媛#sたむらひめ#rは、これを予知夢だって――。 Part 03: 一通り「あの夢」の内容を話し終えると、外はすっかり暗くなっていた。 かいつまんだとはいえ、1ヶ月に及ぶものだ。2週間程度の#p雛見沢#sひなみざわ#rでの出来事を語るよりも時間が必要になるのは、当然のことだろう。 美雪(私服): …………。 千雨: ……なるほど。 全て語り終えた私から視線を外し、両腕を組んだまま天井を仰いでそう呟いてから千雨は大きくため息をつく。 そして、目を閉じてしばらく黙り込み……やおら顔を戻すと私に向かって肩をすくめて苦笑まじりに口を開いていった。 千雨: ……まぁ、なんだ。ずいぶんとえげつない「夢」を見たもんだな。 千雨: バタバタと人が血を吐きながら倒れて、私とお前もその死者の中に加わる「夢」か。想像するだけで、ぞっとする話だよ。 美雪(私服): 夢か妄想であれば、笑い話なんだけどね。でも……。 千雨: 予知夢ってその神様が明言したからには、そうとも言ってられないわけか。 千雨: ……で、このままだとそれが現実になってこの先の「世界」で起こりえるんだな? 美雪(私服): うん……。その『采』ってやつを見つけて何かの対処をしないと、そうなる……って。 千雨: お前が話すのを渋った理由がよくわかったよ。確かに、悪い夢の中の妄想と思っても当然……いやむしろ、思いたいってのが正直な感想だ。 美雪(私服): …………。 千雨: けど……その『采』ってのはなんなんだ?そいつの素性と狙いは一切わからないのか? 美雪(私服): ……わからない。それを言う前に、#p田村媛#sたむらひめ#rが消えちゃったからね。 千雨: 頼りになるのは、お前が「夢」で見た記憶だけってわけか……ふーむ。 千雨: 茫洋と曖昧、って言葉が真っ先に浮かぶな。サハラ砂漠で落としたビーズを見つける方が、見つかる確率はまだ上かもしれない。 美雪(私服): ……ううん。一応、私なりにわかってることはあるよ。 千雨: ? 何か、確かなものでも覚えてるのか? 美雪(私服): うん。要するにその「夢」で、私が何もしなかったから「世界」が滅んだ……。 美雪(私服): 田村媛が予知夢を見せたのは、つまるところそういう意図があってのことだと思うんだ。 だから……とにかく今から調べて動いて、『采』につながる要素を探すしかない。それが私に課せられた役目だろう。 ……ただ、その手がかりについてはゼロ。今まで以上に考えて考えて、色んな方面に手あたり次第でぶつかっていくことになる。 正直言って、ひとりでどれだけのことができるか全然自信はない。それに加えて……これは一回勝負だ。 やり直しはできず、失敗は「死」に直結。その対象は自分だけじゃなく、千雨たち他の人たちにも派生する……。 美雪(私服): ……っ……! なんで私が、という泣き言も頭に浮かんでくる。……だけど、逃げるわけにはいかない。私しか、その事実を知らないのだから。 この先の、悲劇の未来を知っていて……それを変えるための行動ができる人間は、今のところ……私だけ。 私しか……いないんだ……。 美雪(私服): …………。 私は顔を上げ、目の前でこちらの言葉を待ってくれている千雨をじっと見つめる。 ……息を殺すような、沈黙。それを打ち破って私はわずかに視線を逸らし、努めて震えをこらえながら口を開いていった。 美雪(私服): 千雨……今まで手伝ってくれて、ありがとう。 美雪(私服): ……ここから先は、私ひとりで動くことにする。キミはもう、これ以上は関わらないほうがいい。 千雨: ――――。 千雨: はぁ?! 絶句したように息をのむ様子が伝わってきた次の瞬間、まさに「激高」を感じられるほどの怒声が千雨からこちらに向けて吐き出される。 ……彼女の表情は、見なくてもわかる。その怒りの激しさに、夢の中とは異なる恐怖でさすがに怯みそうになったけれど……。 この先に待ち構えている困難と危険を思えば、引き下がるわけにはいかない。だから私は、心を奮い立たせて言葉を続けた。 美雪(私服): 私がひとりでやる、って言ったんだよ。これ以上は本当に、シャレにならないほど危険すぎる。……でも、本当に助かったよ。 千雨: …………。 ……遠くの方から、車のエンジン音。きっと社宅に住む誰かのお父さんが帰ってきたのだろう。 だけど……私のお父さんはもう、帰ってこない。千雨のお父さんもだ。 美雪(私服): (私がいなくなったら、お母さんはきっと泣くと思うけど……ここまで来た以上、乗りかかった船を降りることはできない……) だけど、千雨は今なら間に合う。勝算の低すぎる戦いにかかる犠牲は、少ないほうがいい……。 美雪(私服): 「世界」が終わらないように、私なりになんとか頑張ってみるつもりだよ。……ただ正直言って、うまくいく自信はない。 美雪(私服): だから、千雨はみんなと一緒にどこかへ逃げて。キミのお母さんと、他の人……私のお母さんも一緒に連れてってくれると嬉しいな。 美雪(私服): もし「あの未来」が、何かのウィルスによって引き起こされたものだったとしたら……人の少ない場所に避難すれば、助かるかもしれない。 千雨: ……だから、もうお前は降りろってか? 唸るような、呻くような……感情に任せて手を出したいのを理性で抑えている。今の千雨は、そんな感じだ。 ……うん、わかる。私の知る彼女だったら、こんなことを言えば当然怒るであろうことは容易に想像ができる。 でも、……私だって引き下がれない。たとえエゴイストと言われても、この状況下では最悪の事態を想定した対処を考えるべきだからだ。 美雪(私服): ……そうだよ。合理的に考えても全員死ぬより、少しでも生き残る方法を選んだほうがいい。 美雪(私服): あと……そうだね。「あの夢」の中の話で悪いけど、一穂たちに電話した後……千雨は「一緒に地獄に落ちてやる」って言ってくれたんだ。 美雪(私服): 嬉しかったよ……すごく嬉しくて、心強かった。心が折れかけてたけど、千雨と一緒だったらもう少し頑張ってみようかなって本気で思った……。 千雨: ……。現実のここでも言ってやるよ。お前と一緒に、地獄に落ちる覚悟はできてる。……だから、今さら変な気遣いはするなよ。 美雪(私服): あはは……やっぱり千雨は、そうだよねー。その気持ちはすっごく嬉しいし、一緒にいてくれたらどんなに心強いかって思うよ。 美雪(私服): でも、でもね……! もう……無理だ。自分を取り繕おうと必死に感情を押さえ込んでいたつもりだけど……。 もう、限界だった。 美雪(私服): 千雨は見てないから、そんなことが言えるんだよッッ!!! 千雨: っ……?! 美雪(私服): 私が進んだ先は、本物の地獄だった!たくさんの人が血を吐いて、悲鳴をあげながらバタバタと死んでいってっ!! 美雪(私服): 千雨は冷たい地面に転がりながら、死んだんだ!いろんな人に踏まれて、ボロボロになって!あれが地獄じゃないなら、なんだって言うのさ?! 美雪(私服): あんな未来は見たくないって思うの、当然でしょ?!せめて、最悪の可能性だけは避けておきたいって考えるのってそんなにダメなのッ? ねぇっ!! 千雨: 美雪……お前っ……。 美雪(私服): わかってよ……つーか、わかれよっ!私に付き合えば、千雨は酷い目に遭うんだ!私はキミに、死んでもらいたくないんだよッッ!! 美雪(私服): ……いやっ! その結末以外にだって、この先ずっと色んな嫌な思いをするに決まってる!私のために動いて、千雨が得したことってあった?! 美雪(私服): もうこれ以上、私は千雨を苦しめたくないんだよ!私なんかに関わったりしたら、キミはまた……またっ……!! 千雨: また……って、なんだそりゃ。どういう意味だ? 千雨: あ……いや、それってまさか、私が格闘技をやめた時の話か?あれはお前のせいじゃないって、何度言ったら……。 美雪(私服): 違う! 私のせいだ!私が無関係な千雨を巻き込んだから……! ぐっ、と息を飲んで――叫ぶ。 ここでも否定される……私を気遣って必ず「そうじゃない」と答えるってわかっていたから、今までずっと言えなかった。 心の奥底にこびりついていた、疑惑。ほとんど確信に近いわだかまりを……。 美雪(私服): そのせいで、キミはお父さんと最悪の形で死に別れたんじゃないかッッ!!! Part 04: ……結局のところ、それは何が原因だったのかは今思い返してもよくわからない。 でも、転機になった出来事は「あれ」しかないと断言だけはできる。……実に、つまらないことだ。        ――男の子に、告白をされた。 それも、友達になれる……やっと仲良くなれると思いかけていた女の子が告白をするつもりでいた、その相手の男の子から……。 色々と過去が改変されてしまったので、とりあえず覚えている記憶の通りだと私が5歳になる、少し前……。 #p雛見沢#sひなみざわ#r大災害が発生し、現場で捜査を行っていたお父さんが巻き込まれた。 遺体は、見つからなかったそうだ。……ただ、現場の惨状から考えて死んだことは疑いようもないというのが大方の認識だ。 名目上、雛見沢には休暇を取って訪れたそうだ。……ただ、そこで捜査を行った経緯や災害などさまざまなことが考慮されて、殉職扱いになった。 殉職した警官の遺族は、希望すれば社宅……もとい、警察官舎に住み続けることができる。 その制度がなければ、私たちは社宅を出て暮らさなければいけなかったので……とてもありがたかったと母は話していた。 父の同僚たちは私を『赤坂衛』の忘れ形見だと呼んで、可愛がって……不自由はないかと常に何かと気を遣ってくれていた。 ……千雨のお父さんは、その筆頭だった。 自宅で行う同僚を集めた飲み会の場に私を呼んでは、父の話をたくさん聞かせてくれた。 いつも同席させられていた千雨は、退屈に感じていたのかもしれないけれど……私にとっては亡くなった父のことを知る、貴重な時間だった。 立派な人だった。いい奴だった。酒が強かった。奥さんには頭が上がらなかった。麻雀の腕はすさまじかった……。 他にも、お母さんさえあまり知らない父の「仕事」のこともこっそり、教えてくれた。 そのついでに競馬をはじめとした賭博のやり方、最新の犯罪事情や警察の裏事情なども色々と……。 ……それは教える必要なかっただろうと、あとで奥さん連合に怒られていたそうだが。 でも、自分の知らないことを教えてもらえるのはとてもありがたかったし、楽しかった。 彼らの奥さんである、社宅のママさんたち。年上のお兄さんお姉さん、同年代の子たち……。 みんな、とても優しかった。そのおかげで、社宅のみんなと通う学校もすごく楽しくて充実していた。 それもこれも、私が赤坂衛の娘だからだ。 父が生前に積み重ねてきた実績と評判が、私に価値と居場所……たくさんのものを与えてくれている。 私の毎日は、父が残してくれたお金ではない財産によって堅実に、そして豊かに守られていた。 ただ、その反動もあったせいか幼い頃の私はとても人見知りで……おとなしいというより、内向的な性格だった。 学校には社宅の子がたくさんいたので、孤立せずには済んでいたけれど……そのおかげで行動範囲は社宅と学校のみ。 ……そんな狭い世界に閉じこもっている私を、おそらく母は心配したのだと思う。 小学3年生になって少し過ぎた頃、私はあることを提案された。 雪絵: ねぇ、美雪。ガールスカウトに入ってみない? 美雪(幼少期): ガールスカウト……って、何? 初めて聞く単語に私が戸惑っていると、定期的に集まって自然の勉強やキャンプをしたりするものだと母は教えてくれた。 主な活動場所がバスを乗り継いだところにあるので、社宅の誰も参加していなかった。正直私は、乗り気ではなかったけれど……。 ちょうどその頃、私は仲良しの千雨と遊ぶ機会が極度に減っていた。彼女が道場に通い、格闘技を始めたからだ。 いや……始めたというよりもあれは、無理矢理やらされた、と言うべきかもしれない。 あの頃から千雨は、どういうわけかサメの魅力に取りつかれていて……暇さえあればサメの図鑑や資料などを眺める生活を送っていた。 私とは違う意味で、内向的だったと思う。だから、とても格闘技に興味があるようには見えなかったのだけど……。 元々、その素質があったのだろう。千雨は入門するやめきめきと頭角を現し、全国レベルの腕を身につけるようになった。 ……あとで聞いたところによると、格闘技を身につけさせようというのは彼女のお父さんの強い意向だったらしい。 千雨の両親は、お母さんが男に付きまとわれて困っていたところをお父さんが助けたことから交際が始まったそうだ。 実際、千雨はお母さんにとてもよく似ていた。娘を心配し、多少無理矢理でも自衛の方法を身につけさせたいという親心は理解できなくもない。 そんなわけで千雨は、稽古や試合のために週末の予定の大半が埋まり……。 逆にいつも一緒に遊んでいた私は、週末の時間を持て余すことになっていた。 雪絵: 千雨ちゃん、最近格闘技のお稽古で忙しいって言っていたでしょ。だから美雪も、何か始めてみたら? 雪絵: 前に子ども会で行ったキャンプ、楽しかったって喜んでいたから……どう? 美雪(幼少期): …………。 キャンプは、確かに楽しかった。けど、それは千雨や社宅のみんなが一緒だったからだ。 瞬間的に、嫌だと感じた。知らない人ばかりの場所に行って、楽しめるとは到底思えなかったからだ。 でも、正直にそう言ったら母を悲しませそうな、そんな気がして……どうしても、言えなかった。 雪絵: それとも、他にやってみたいことがあったりする?もしそうなら、そっちでもいいけど。 美雪(幼少期): ううん……ない……。 雪絵: じゃあ、一度やってみたら?合わないと思ったら、やめてもいいからね。 美雪(幼少期): ……うん。 それが、ガールスカウトに入団した経緯。 年度の途中で入団したこともあり、入りたての頃は見知らぬ人ばかりですごく緊張しながら過ごしていたけれど……。 みんなでご飯を作って食べたりするうちに……私は彼らと打ち解けていた。私には、意外に社交的な面があったようだ。 年上の人たちから、色々なことを教わった。 テントの立て方。調理一式。火起こしからの野外炊事。地図の読み方。木材の扱い方。 手旗信号やモールス信号は、道場通いの合間に遊びに来た千雨と一緒に勉強した。 なんでも、海で研究するならモールス信号は絶対覚えないといけないものらしく……熱心な彼女につられて、必死に覚えた。 おかげで、同年代の中で一番速くモールス信号をマスターできて褒められた時は、喜んでいいものか複雑な心境だったと思う。 転校を機に入団してきた経験者によると、ガールスカウトは団……所属している地域によってかなり毛色が違うとのことだった。 私が所属している団はかなり緩いところらしく、人数も少なくて活動日数が多くないこともあってのんびりとして、とても楽しいと言っていた。 正直、ガールスカウトに入ったら今までと全く違う生活になるのでは、と身構えていたが……始まってみれば、そうでもなく。 頻度は減ったけれど、普通に千雨や他の社宅の子と放課後や空いた休日に遊んだりしたし、社宅の人たちと麻雀を打つことだってあった。 ……ただ、それ以外の場所ができたことで少しだけ、自分の世界が広がった気がしたのも確かなことだった。 もし、父のことを知らない人たちの中でこんな感じにうまくやっていけるのなら……。 赤坂衛の娘ではなく、赤坂美雪というひとりの人間としていつか、何かを成し遂げられるかもしれない。 それまでは、なりたいけど甘えん坊の私には無理だなー、と思いかけていた警察官の夢にもひょっとしたら、届くかもしれない。 たとえば、社宅のおじさんたちのような……そしてお父さんのような、立派な警察官に。 私を助けてくれた、優しい人たちのようになりたい、ではなく……なれるかも、と。 そんな、自信と呼んでいいのかわからない手応えを……私はおぼろげに感じていた。 ……風向きが変わったのは、小学校を卒業して中学に進学した頃。 夏休み前、私の所属するガールスカウトに新規入団者がたくさんやってきた。 中学に入ってからは、諸々の事情で辞めていく子が結構いて……顔触れが変わったことにかなり面食らった。 なんでも、活動場所の近くに新興住宅街ができたことで……新たにその住宅地へと引っ越して来た子たちだったらしい。 突然、人数が倍以上に膨れあがったことで団員はもちろん、指導員すら戸惑っていた。 それでも、なんとか上手くやっていこうと同年代でそれぞれ班を組み、活動を始めた。 ……でも。 女の子A: もう、こんなのできなーい。 女の子B: 無理無理! 虫とか気持ち悪いって! 女の子C: なんでこんなことしなくちゃいけないの?こんなの覚えたって将来役に立たないじゃん。 何をしても、彼女たちからは文句しか出なかった。 友人A: ちょっと聞いてみたんだけど……どうも入ってきた子たちってみんな、親に無理矢理入団させられたんだって。 友人A: だから不満タラタラで、ぶーたれてるけど……パパやママと喧嘩する勇気まではないっぽいよ。 友人B: だからって、こっちに八つ当たりすんなっての!サイッアク! 美雪: ……なんで親は、ここに入れようと思ったんだろう。 友人A: まぁキャンプって、基本泊まりがけじゃない? 友人A: 休みの日に悪い友達と夜中に遊び歩くくらいなら、月に何日かだけでも山の中に放り込んでおけば悪さもできない、って考えた家があったらしくてさ。 友人A: じゃあうちも、うちもそうしようって言い合って大量に入ってきたっぽいよ。 友人B: なにそれ? うちは託児所じゃないっつーの! そう吐き捨てる友人をたしなめる気になれなかったのは、彼女たちの態度から薄々感じる学習意欲のなさと、傲慢な態度……。 私自身がそれらに、あまりいい感情を抱いてなかったからだと思う。 それでも、最初の頃はまだ私にも希望があった。 ――引っ越したばかりで、新しい生活が不安なんだろう。 ――悪さをするんじゃないかと親から疑われたら、悲しいだろう。 ――やりたくないことを無理矢理させられても、やる気なんて出ないだろう。 それでも……過ごしているうちに、楽しいことも見つかるかもしれない。私がそうであったように。 初めは不本意な入団だったけれど、やってみたら結構楽しかった。 それに一人ずつと話せばみんなそれなりに話題を返してくれた。 みんな悪い子じゃないのだ。だからきっと、大丈夫。 …………。 ……でも。 女の子A: ……ねぇ。あんたの家って、特別ショウジュツ金……? ってのを国からもらって生活してるんだって? 女の子A: あっちこっちで景気が悪くなってきてるのに、いいご身分だよねぇ。それって、私たちの親の税金から支払われてるんでしょー? ほんの少し前まで、私とくだらない冗談で笑い合って作業に戻っていったはずの女の子がいきなり前触れもなく、そう言ってきて……。 その背後には、私が紐の結び方を教えて感謝していた子が同意するように、友人たちと一緒にクスクスと笑っていた。 美雪: ――――。 そう言えば最近、区切りの10年ということで雛見沢の特集がどこかの雑誌で組まれていた。 さらに、その場所で東京の某刑事が行方不明になったという話も載っていたが……。 彼女たちの親の誰かに、マスコミ関係者がいたらしい。それで『アカサカ マモル』の名にあっさりとたどり着き、私が身内と知ったようだ。 それから……ことあるごとに、彼女たちは妙な質問を投げかけてくるようになった。 ――お父さんが雛見沢に行ったのは、どうして?現地に愛人でもいたの? ――もしかして、どっかで生きてるんじゃない?だって、死体出てないんだよね。死んだってことにして、お金もらってるとか? ――官舎って、家賃がすごく安いんだよねー?うちのお父さん会社員だから、その倍くらいの家賃を払って大変だって言ってたよ。 ――官舎って、お父さんが働いてる人しか住めないんでしょ?他に入りたい人とかいたらメーワクじゃん? ――税金泥棒って知ってる?会社員だとどんどん給料が下がってるのに、公務員っていいご身分だよねぇ。 色んなこと……特にお金周りのことを聞かれても、私には答えられない。答えようがない。 さぁねぇ。どうだろうねぇ。わかんないなぁ。なんでかなぁ。どうしてかなぁ。わかんないねぇ。 いつも苦笑いと、曖昧な言葉で受け流していた。 ……ただ、順繰りに違う班員が日にちを空けて似たような質問を投げてくるから、対処に困った。 他の班員……新興住宅の子たちは、困った私を見てひそひそクスクス笑うだけ。 さすがに、悪意がないとは思えなかったけど……素直に怒るにはどうにも決定打が足りない気がした。 指導員の先生は、他の子の相手に追われてそれどころじゃない様子だったから……わざわざ相談するのは気が引けた。 また、どの班員とも一対一で話せば普通に話せる相手であったことも、人前で怒るという選択肢をためらわせた。 ひとりひとりは、まぁいい子なのに。集団になると、意地の悪い問いかけをしてくる。 どうしてそんな質問をするのか、何人かに聞いてみたけれど……。判を押したように、同じ答えが返ってきた。 ――えー? ただ聞きたかっただけ。 聞きたかっただけ。知りたかっただけ。 でも、聞きたいのは私もだ。知りたいのは私の方だ。 そもそもお父さんは、どうして雛見沢に向かったのか。そして何を知ったことで、「行方不明」になったのか……。 ……もしかすると、マスコミ関係の親とやらはそれを知りたくて子ども同士のつてを使い、私から情報を引き出そうとしたのかもしれない。 いや、もしかしたら子どもの方から自発的に親の役に立とうとでも考えたのか……その真相は今も、闇の中だ。 ……とはいえ、一応は自分でも調べようと思った。質問に答えるかどうかはさて置いても、答えくらいは知っておいて損はない、と。 答えられないから、気まずさを覚えるのだ。知っておいてあえて答えなければ、もう少し余裕を持って応対ができるはず……。 だから、すぐに私は行動に起こした。お母さんには聞いても無駄だと思い、お父さんたち――警察関係者に直接聞きこんで……。 ……そして、千雨のお父さんが酔った勢いで教えてくれたのだ。 お母さんが危うく階段で足を踏み外して、怪我をしていたかもしれない……それを救ってくれた人がいることを。 父に不思議な予言を告げた、当時はまだ幼い女の子……古手梨花。 お母さんと、私の命の恩人。生きていたら、二十代前半のお姉さんだ。 美雪: 古手梨花さんって……どんな女の子だったのかな? ただ……そこに踏み込む直前。雛見沢について調べていることが、お母さんにバレた。 口止めしながら調べていたのだけれど、やはり誰かから情報が洩れて知ったらしい。……お母さんは、目に涙を浮かべて言った。 雪絵: 『……これ以上は、もうやめて。お願いだから、お父さんの後を追いかけないで』 雪絵: 『警察のまねごとをして、もしものことがあったら私はお父さんに謝っても謝り切れない……だから……!』 美雪: 『……うん、わかった』 それ以降、私は調べることをやめた。これ以上、お母さんを悲しませたくなかったから。 私のせいで色々と苦労してきたあの人に、もう迷惑をかけてはいけないと思って……。 仕方なく私は、時折ぶつけられる悪意の質問に苦笑いを返しながら流すことを選んだ。 面倒だけど、辛くはなかった。お母さんを泣かせるくらいなら、その方がずっとマシだと思ったからだ。 そんな生活が1年ぐらい続いた、ある日……。 例の新興住宅に住む同じ班員のひとりが、珍しく自分の方からこっそり声をかけてきた。 友団関係にあるボーイスカウトに所属して、この前一緒に工作をしたある男の子のことを教えてほしい……と。 どうやら、彼のことが気になっているらしい。 彼と同じ中学に通っていたガールスカウトの団員が高校受験に備えて先々月に辞めてしまっていたから、悩んだ末に代わりとして私に声をかけたようだった。 ……代わりであっても、素直に嬉しいと思った。 彼女と仲良くなれたら、それをきっかけにして他の新興住宅の子たちとも仲良くなれるかもしれないと。 だから頼まれるまま、彼と話をしてみることにした。 相手とは、合同活動の時に少し話す程度で仲良しとは言えなかったけれど……顔見知りだったから、話をするのは簡単だった。 聞いた話をそのまま伝えたら、その子にはとても感謝された。 「ありがとう。彼と仲良くなれるように頑張る」と。 ほっとした。だから私も「頑張って」と言った。「応援してる」とも。 ――その、翌月。まさかその男の子から、告白されるなんて想像もしてなかった。 告白された瞬間、頭の中が真っ白になった。 何も考えられなくなって、何も考えたくなかった。 そもそも、相手が私を好きになる理由がわからない! 確かに顔見知りだったけど、そんな素振りなんてなかったのに? なんで?! どうして?!よりにもよってこのタイミングで?! 頭の中がぐちゃぐちゃになって、野犬に出くわしたウサギのように逃げ出した。 ……その場に、相手の男の子を置き去りにして。 ガールスカウトに戻った後も、社宅に帰ってからも……誰にも、何も言えなかった。 Q・恋愛相談を受けた友人が片思いしてる男の子に告白されました。どうしますか?なお、自分は告白されたこと自体が初めてです。 ……問題は、はっきりしている。自分にその気がない以上は断って、女の子には事情を話すしかない。 ……でも、そこに踏み切ることができない。どう伝えたらいいのか、傷つけないためにはどうすればいいのか、わからなくて。 だけど……それでも私は、何かしら対応をするべきだったのだ。 その結果、告白劇の翌々週――。 キャンプ場で昼食の支度をしている時、別の班の子も含めた新興住宅の子たちにぐるりと囲まれた。 その中心では、私に恋愛相談をしてきた女の子が顔を真っ赤にしながら泣きじゃくっていて……。 周囲の子たちから、怒りと憎しみがありありと伝わってきたことで私は、先々週のことがバレたのだとすぐに理解した。 ……どう言い訳するべきだろうか。相手の好きな人が自分だなんて知らなかったと素直に白状するべきだろうか。 ひたすらに悩む私の目の前に、集団のひとりが鬼の形相で私に一歩近づいて。 女の子B: ―――あんたさぁ、この子の好きな男の子に「あいつはやめとけ」とかなんとか言って悪口を吹き込んだんだって?! 全く想定していなかった言葉に、私は何も返せなかった。 Part 05: ……友達の好きな男の子に、その子の悪口を吹き込むような子を他人はどう思うだろうか。 しかも悪口を吹き込んだ相手は、男の子との関係を応援すると言っていたのに。 信頼して相談したのに、それを悪用されたのだ!酷い! 最低な人間だ! 信頼するべきじゃない!裏切り物! 最低! 生きている資格がない! そう、彼女たちの怒るのも当然だ……悪口云々が、そもそも思い込みでなければ。 慌てて否定した。そんなことはしてないと。 女の子A: 嘘つかないで! あんたと彼がこそこそと炊事場の裏に行くのを、見た子がいるのよ! それはたぶん、私が告白された時のことだろう。 ……言えなかった。相手が好きなのは、その子じゃなくて私だったと。 何があったかはわからないが、すすり泣いている彼女はきっと振られたのだろう。 どんな言葉で断られたのかは、知らない。他に好きな子がいる、とでも言われて謝られたのかもしれない。 ……でも、どんな言葉だったとしても彼女が傷ついたことは間違いのない事実だ。 そんな彼女に、キミが恋愛相談した相手が好きな人の好きな人ですと教えて、何になる? いや……そもそも真実を話したところで、信じなかったら? 気がついて、愕然とした。 私はもう、どうやっても身の潔白なんて証明できないのだと。 炊事場の裏で何をしていたのかと具体的に問われれば答えられないのだから、不審に思うのも無理はないかもしれない。 よしんば拝み込んでボーイスカウトの彼を連れてきて証言してもらったとしても、彼女たちはそれで納得する? ……するはずがない。彼はうまく言いくるめられて、騙されていると思うだけだ。 彼女たちの間で、赤坂美雪は黒で決まった。 どんなに真実を告げても、彼女たちが信じなければそれは「嘘」になる。 でも、素直に事実を口にすることもできず私はただ、それは違うと否定するしかできなかった。 誰にも相談できなかった。 それができそうな子たちは、みんなもうガールスカウトをやめていた。 その日は針のむしろような気分で、ただ時間が経つのを待っていた……。 翌日……電車を乗り継いで最寄り駅に戻ったけれど、いつものようにまっすぐ家には帰れなかった。 自分が酷い顔をしていることがわかったから。 せめて、笑顔くらいは取り繕えるようにしないとお母さんが心配する。 夜、お母さんが帰ってくるまでに笑顔を作れるようになっておかないと。 でも……笑って今日を乗り切って、それで? その後は、どうすればいいのだろう。これから、どうすれば……どうすれば。 もう、なにをどうすればわからなくて……ただひたすらに、移り変わる空を眺めていた。 ……だから。 千雨: よぉ。 いるはずのない人が目の前に立っていることに気がつくのが……少しだけ、遅れた。 美雪(私服): 千雨……? 千雨: ……何があった。 最初は、問いかけに「なんでもない」と答えようとして……。 美雪(私服): ……。なんか、上手くいかなくてね……。 上手く、嘘がつけなかった。 それから私たちは、公園のベンチに並んで何があったのかを話した。 そして、一通りの内容を聞いてから千雨が深呼吸し、大きく組んだ両手を頭上高く掲げてから……。 千雨: お前、もうガールスカウトやめちまえよ。 美雪(私服): えっ……? あっさりと言い放ったその一言に、私は驚いて目を見開き、彼女に顔を向けた。 千雨: 男の話をさっ引いて色々考えてみたけど……そいつらって結局、お前のことが嫌いなんだよ。 美雪(私服): でも……一対一なら、普通に話してくれるんだよ。冗談も言うし、頼んだら動いてくれて……。 千雨: 集団になると、途端に話ができなくなるんだろ?それはどう説明するんだよ。 千雨: 一対一だと、お前には勝てないって理解してるから……うまく合わせて、ごまかしてる。徒党を組んで見せてくるのが、そいつらの本性だ。 美雪(私服): …………。 千雨: 別に、嫌いになるのに理由なんていらないだろ。好きになるのに、理由がいらないのと同じだ。 千雨: お前の何が、どういうところがそいつらのお気に召さなかったのかは知らない。興味もない。 千雨: 喋り方、笑い方、歩き方、メシの食い方、下手すりゃ存在そのもの……あぁ、警官の娘ってもあるかもな。 美雪(私服): ……それは、さすがにどうしようもないよ。 千雨: そうだ、どうしようもない。でも、やつらにそんなことは関係ない。 千雨: 世の中には、他人を何の理由もなしに嫌うことができるヤツがいる。 千雨: そいつらにお前は嫌われた……それだけの話だ。 美雪(私服): …………。 本当に、それだけなのだろうか。 彼女たちひとりひとりとそれぞれ話せば、みんな悪い子ではないのは知っていた。 そうでなければ、一年も同じ時間を過ごせなかったと思う。 だから……もう少し、何かができたんじゃないだろうか。 ……そもそも、私がうまく立ち回っていれば何も問題は起こらなかったんじゃないだろうか? …………。 でも……その「うまくやる方法」が思いつかなかった以上、どうすることもできなかったのも確かだった。 千雨: 香芝ん家の……二番目の妹が、ウチに電話をかけてきたんだよ。 美雪(私服): ……二番目の妹と言うと、香織ちゃん? 千雨: あぁ。お前が公園で1人でいるところを見たけど、すごく落ち込んでるみたいだから見に行ってあげて、ってさ。 美雪(私服): そっか……心配かけちゃったな。 千雨: そうだ。あんな小さい子にお前は心配かけたんだ。 千雨: で、お前は香織や私より、そんなクズみたいなヤツらの方が大事なのか? 美雪(私服): …………。 千雨: 違うなら、ガールスカウトなんてやめちまえ。お前の友達も大半がやめちまったんだから、別にお前だけ残る必要もないだろうが。 千雨: お前が好きだったガールスカウトは、もう……名前が同じだけの、別の場所になっちまったんだよ。 美雪(私服): ……逃げてもいいのかな。問題、何も解決してないのに。 千雨: 逃げろよ。解決に必要な労力と、そこから得るものが釣り合わないだろ。 千雨: 滝沢さん家の親父さんの死因、覚えてるだろ……酔っ払いの喧嘩の仲裁に入って殴り飛ばされて、打ちどころが悪くてそのまま亡くなった。 千雨: あの人は警察で、仕事上での仲裁だったが……お前の方は仕事でもなんでもない。解決する義務なんざ、どこにあるんだよ。 美雪(私服): …………。 千雨: だいたい、お前を大事にするつもりがないやつを大事にしたって、時間も金も無駄でしかないだろ。 千雨: キャンプだってタダじゃないんだぞ。お前、苦しむためにおばさんの給料を無駄遣いする気か? 美雪(私服): ……耳が痛いなぁ。 やはり第三者から見れば、私のしていることは無駄でしかないのだろう。 次の集まりが憂鬱で仕方がないと感じている以上……私もやめたいと心の奥底で思っていることを意識せざるを得なかった。 でも……。 美雪(私服): ……告白の返事、ちゃんとしてない。 千雨: あ? 美雪(私服): あの時は、びっくりして……まともに返事もせずに、言い訳して逃げてきちゃった。 美雪(私服): あの子には、……申し訳ないよ。 千雨: はッ。それこそ放置していい話だろうが。あっちから勝手にお前を好きになって、勝手に告ってきたってだけだろ? 千雨: 私がサメに好きって告白したら、サメには私の好意に応える義務があると思うか? 美雪(私服): ……人間とサメじゃ、違うと思うけど。 千雨: 同じだ、同じ。せっかく告白してやったのに返事がないって腹立ててるようなクソ男なら、付き合ってもロクなことにならないぞ。 千雨: お前が誰と付き合おうが自由だけどな……せめて幸せにしてくれそうな男を選べっての。 美雪(私服): ……小宮さん家のお姉ちゃんと似たようなこと言うんだね。 千雨: あ? 真由姉ちゃん、またお前に彼氏のグチを吹き込んだのか? 千雨: 他にグチ聞いてくれる人いないのか……?まぁいないだろうな、あの人の愚痴長いし。あれだけ文句言うなら、別れりゃいいのに。 美雪(私服): ……きっと悪いところ以上に、いいところがある彼氏さんなんだよ。 千雨: 間違った母性本能の典型例だな。……で、お前の方はどうやっておばさんにやめるって伝えるつもりだ? 美雪(私服): やめる前提で話を進めないでよ……。 千雨: やめないなら、何か代案を出してみろ。そいつらの誤解だってちゃんと理解させて、仲直りできる魔法みたいな解決策をな。 美雪(私服): …………。 残念ながら、思いつかない。……いや、わからないというより「ない」と言い切ってしまったほうが、むしろ適切だ。 いくら言葉を尽くして説明したところで、そもそも相手は話を聞いていないし……聞くつもりだってないのだから。 千雨: そうだな……だったら、私と塾に行くって口実はどうだ? これなら忙しくなって、ガールスカウトは辞めるしかなくなるしな。 美雪(私服): 塾……って、えっ?千雨は、部活と道場をどうするの? 千雨: そろそろやめようと思ってたんだよ。今の成績のままじゃ、サメの研究をしてる大学に入るのはかなり難しいみたいだしな。 千雨: お前だって、大学入試に備える必要があるだろ?高校に入ったら3年間なんて、あっという間だぞ。 美雪(私服): ……私は、大学なんて行く気はないよ。高校を出たら、すぐ警察官の採用試験を受けるつもりだしね。 千雨: おばさんにこれ以上負担をかけられないってか。成績がよければ返済不要の奨学金もあるんだし、それを狙うって手もあるじゃないか。 千雨: それに、うちの親父たちも……ほら、前に麻雀をやってる時に言ってただろ? 千雨: 美雪の場合、大学に行ってエリートコースに乗った方が早く親父さんに近づける……ってさ。 美雪(私服): …………。 千雨: とにかく、この路線で相談してみろよ。おばさんに断られたら、別の方法を探せばいい。まずは面倒事を各個撃破……ってな。 美雪(私服): ……うん。 千雨の提案に頷いたのは、もう本心ではやめたいという思いが勝っていたからだろう。 未解決の問題から逃げる罪悪感よりも、千雨たちに心配をかける申し訳なさの方がはるかに大きくて……比べるまでもない。 …………。 それでも、実際に「やめたい」とお母さんに伝えるまでに数日を要した。 ガールスカウトの組織内で何かあったのか、と聞かれたら、どう答えるべきだろうか。 そして、何かを察したお母さんが問い合わせて連中とトラブルになったことが露見したら……? 美雪(私服): ……っ……。 お母さんは優しいが、筋の通らないことは嫌いだ。そんな厳しい人が、娘がトラブルを解決しないまま逃げることを許してくれるだろうか……。 そんな怯えに何度も身をすくめて……ようやく話を切り出せたのは、事件から1週間後の夕飯の時間だった。 なんてこともないさりげなさを装って、胸の中では心臓が握りつぶされるような思いで「やめたい」と打ち明けて……。 雪絵: そう、わかったわ。 美雪(私服): えっ……? あまりにもあっさりとした返事に、私はあっけにとられて言葉を失い……頭の中が真っ白になってしまった。 雪絵: やめるって連絡は、どうすればいいの?本部の電話番号、どこに書いてあったかしら。 美雪(私服): い……いやその、お母さん……? 雪絵: ? どうしたの美雪、まだ何かあるの? 美雪(私服): い……いいの?ガールスカウト、やめちゃっても……。 雪絵: だって、塾に通うんでしょう?2つも3つも習い事を同時にするのは、なかなか大変だってわかるもの。 美雪(私服): …………。 雪絵: それにね、お母さんが美雪に勉強を教えるのもそろそろ限界かな、って思ってたのよ。 雪絵: 私たちの時代と比べると、勉強範囲も難易度もかなり違っているみたいだしね。 美雪(私服): でも、塾代は……。 雪絵: 家庭教師は難しいけど、学習塾なら大丈夫よ。それで、どこの塾がいいのかもう決めたの? 美雪(私服): ううん、まだ……これから、千雨と一緒に色々探すつもり。 雪絵: そう。見学に行っていいなって思ったら、入塾の書類と資料を忘れずに貰ってきてね。 美雪(私服): ……うん。 その日……母の目を盗んで千雨に報告すると、電話の向こうで笑い声が聞こえてきた。 千雨: 『だから言っただろ。大丈夫だって』 ……一方で千雨は、道場は辞めたものの部活は団体戦の人数合わせでどうしても、と拝み倒されたらしい。 一応定期的に顔を出していたようだが、練習時間が大幅に減ったおかげで……月に何日かの休日や、塾に通う時間ができた。 お互いに時間ができたので、塾以外で遊びに行くことも増えた。 遊ぶためのお金が足りなくなると、革細工のアクセサリーとかを作ってフリマで売ったりもした。 千雨に付き合って、海洋系大学の中学生向けイベントにも参加した。 どうやら千雨は先生方に気に入られたらしく、イベントが無い時も「遊びにおいで」と誘われ……目標を定めた千雨の成績は、少しずつ伸びていった。 私も……ふいに気を抜くと置き去りにした例の問題が思考を占拠しそうになったので、罪悪感を振り払うつもりで勉強に逃避した。 これでよかったのだろうか、と疑問が頭をよぎることもあったけれど……お母さんがテストの点で喜んでくれたのは、素直に嬉しかった。 でも、その半年後……。 千雨が道場をやめたことが、彼女のお父さんにバレた。 ……そもそも、千雨は格闘技をやめたことをお父さんに言っていなかったらしい。 それがなぜ、半年もバレなかったのか。それは刑事の特殊な勤務形態が影響していた。 なにしろ、刑事は捜査の担当になると月単位で休みが取れないこともザラだ。 ちょうど、大きな事件があったらしく……ろくに家にすら帰ることができない時期と、私たちが塾に行き始めた時期が重なったのだ。 ただ、それがついに発覚して大喧嘩になった……らしい。 「らしい」と言うのは、私は伝聞でしか知らないからだ。千雨に聞いても、詳しい経緯は頑として語ってくれなかった。 千雨のお父さんから家に電話があり、お母さんが黒沢家に呼び出された。 雪絵: 本当に塾に通っているのか、確認したかっただけみたいね。……すぐに失礼させてもらってきたわ。 1時間もせずに戻ってきたお母さんは、そう言って悲しそうに首を振りながら淡々と語ってくれた。 ……どうやら千雨のお父さんは、格闘技で活躍している彼女のことを誇りに思っていたそうだ。 雪絵: 千雨ちゃん、道場だとかなり将来を期待されていたみたいね。このままいけば、オリンピック代表も夢じゃないって。 雪絵: 千雨ちゃんのお母さんは、「やめるのはいいけどまずはお父さんに相談してからにしなさい」って言っていたそうなんだけど……。 雪絵: 「それだと反対されて、うやむやになるから」……そう言って、千雨ちゃんが押し切ったみたいよ。 元々、千雨のお父さんはサメにのめり込む娘をあまりよく思っていなかった節がある。 サメの研究は有用性から考えても、儲かる職には就けないと彼女本人でさえ言っていたほどだ。 だったら格闘技で成績を残して、それを武器にいい仕事につけばいいと思うのは父親としての愛情だろう。 ただ……やりたいことと、将来性。この場合はどちらも、譲れなかったのだ。 ……翌朝。千雨の隣に住んでいる小学生の男の子が、私を見つけて駆け寄ってきた。 千雨: 『とっとと死ね、クソジジイ!!』 深夜まで怒鳴り声が続き……早朝になってもそんな言葉が聞こえてきたと、怯えたような顔で教えてくれた。 ……それから3ヶ月後。 千雨のお父さんが、バラバラ遺体で見つかった。 最後に二人が顔を合わせたのは、大喧嘩したあの日。だから、最後の親子の会話は……。 美雪(私服): 嫌なんだよ……もう、嫌なんだよッッ!! 美雪(私服): 千雨だって、お父さんへの最後の言葉が「クソジジイ」だったってこと……すっごいすっごい、後悔してたじゃんか! 美雪(私服): あの時、自分がどうなったのか忘れたの?!どんどんどんどん、ボロボロになってっ! 美雪(私服): 私がお父さんの事件を調べようって言うまで、好きだったサメの話も全然しなくなって……! 千雨: それは……お前のせいじゃないだろ。 美雪(私服): 私に合わせてあのタイミングでやめなければ、千雨はもっと格闘技を続けてたでしょ?! 美雪(私服): あんな中途半端な時期にやめることになったの、元はと言えば私のせいでっ……! 千雨: ……おい、落ち着け。 美雪(私服): やめるにしてもあのタイミングじゃなければ、最後の会話が喧嘩になんてならなかった! 千雨: 美雪……。 美雪(私服): 私のせいだ! 私が、全部、全部ッ……! 千雨: ――うるせぇェッッ!!! 美雪(私服): ッ……?! 大声に跳ねた私の肩を、千雨が掴む。そして顔を鼻先まで寄せると、鋭い眼光を私の瞳に近づけていった。 千雨: いいか、よく聞け……美雪。 千雨: お前は今、完全に混乱してる。……でも、当然だ。短期間で、色々とありすぎたからな。 千雨: 私の親父の、バラバラ殺人事件。その後すぐ神様って名乗るやつに会って、10年前の違う過去へ吹っ飛ばされて……。 千雨: バケモノの出るイカれた土地に行かされて、死んだ父親とその恩人に会って……おかしな事件に巻き込まれて、殺されかけて……。 千雨: ようやくこの「世界」に戻って来たら、災害のあった村にダムができて水の底。出会った一穂ちゃんとも離れ離れ。 千雨: 菜央ちゃんの母親が『眠り病』で昏倒。それでも#p雛見沢#sひなみざわ#rのことを調べようと思ったら、刑事さんが爆破事件に巻き込まれて重傷! 千雨: トドメに「世界」が終わる、予知夢か。……なぁ、冷静に数え始めたら……なんだこれ。不幸の重なり方、イカれてんな。 千雨: だから、わかるさ。これだけわけわからない事件が続いてれば、まともな奴なら心がぶっ壊れて当然だよ。 千雨: 冷静になれって言うほうがムチャクチャだ。平然としてる方がおかしい。……使命? ありえないだろこんな状況で。 美雪(私服): 千雨……っ……。 千雨: つまり、今……お前は冷静じゃない。それは認めろ。でもそうなっても当然だって、とにかく納得しろ。 千雨: ……この不幸は全部お前のせいか?お前が望んだことか? 違うだろ?そうじゃないだろ? 千雨: だったら……お前のせいじゃない。なのに混乱した思考のまま、間違ったことで自分を納得させようとするなよ。 美雪(私服): …………。 千雨: ……そもそも、親父の件については私の自業自得だとは思わないのか? 美雪(私服): 自業自得……? 千雨: だーかーら……親父と馬鹿みたいな死に別れ方をしたのは私の自業自得だって思わないのか? 美雪(私服): ……っ……? 千雨: はぁ……お前って、人のことは信じるのに自分のことは全然信じないよな。 美雪(私服): だって……自分の何を信じればいいのか、わからなくなっちゃったんだもん……。 美雪(私服): 私が何もしなかったから、みんな死んだんだよ。血を吐きながら、千雨も、私も……。 千雨: それこそ、知るかって話だ。赤坂美雪が何もしなかったから、世界が滅ぶ? 千雨: 正直私は、#p田村媛#sたむらひめ#rに怒鳴りつけてやりたいよ。混乱を残して自分だけ退散とか、無責任の極みだ。 千雨: 自分が何もできないなら、いっそ黙って消えりゃよかったんだよ。その方がよっぽど誠実だし、親切ってもんだ。 美雪(私服): 田村媛も、私に託したかったわけじゃないと思う。私しか、いなかったから……。 千雨: それが押しつけがましいって言ってんだよ。拒否権もなしに無理矢理ってのが気に食わない。 千雨: 私に言わせれば……女子中学生が何もしなければ滅ぶ程度の世界なんざ、とっとと滅べばいい。何をやってんだ政治家、あと軍隊ってやつだろ? 美雪(私服): ……苛烈だね。 千雨: お前が落ち込みすぎて、弱腰になってるからだよ。……いや、ここまで色々なことが山盛り起きたらそりゃ自信も無くしても当然か。 千雨: 逆にこの状況で、「自分の力なら、世界の滅亡を阻止できるんだ!」とか言い出す方がヤバいな。掛け値なしで、そいつは頭がおかしいと思う。 千雨: ま……それを思えば、お前はまだ冷静な方なんだろうな。 美雪(私服): ……。そう、なのかなぁ……。 乱暴すぎるし、強引すぎる論法だ。録音でもして聞き直せば、きっと論理なんてあったものじゃない内容だろう。 だけど……いや、だからこそありがたい。そして、救われる思いだった。 千雨: ……なぁ、美雪。1ヶ月後に、本当に世界が滅ぶとしてだ。 千雨: お前の心残りは、なんだ?死ぬ前にやっておきたいことって、なんだ? 美雪(私服): 心残り……? その言葉にふっと浮かんだのは、雛見沢の景色だった。 本当に……わけがわからなかった。バケモノは出るし、殺されかけるし……理不尽を煮詰めて濃縮したような世界だった。 ……。でも、あの#p綿流#sわたなが#rしの夜が来るまでみんなと過ごした時間は辛いだけではなく、楽しくて嬉しいこともたくさんあった。 やっぱり、筆頭はレナかな。私が自分で生活できるようになるまで、お弁当や漬物を色々と差し入れしてくれた。 ……最初に雛見沢でまともな食事を食べたのは、レナが差し入れしてくれたお弁当だったような……気がする。 ただ実のところ、あの時は勇気が必要だった。あの世のものを食べたら現世に戻れなくなると、昔読んだ本に書いてあったのを思い出して……。 でも、食べた。空腹で死にそうという現実的な問題を天秤にかけた結果として。 おいしかったことを覚えている。特に、ちょっと甘めの卵焼きは涙が出るほどおいしかった。 食べながら……腹をくくった。 人を、信じようと。他人を信じなければ、自分も信じて貰えないと。 恐怖を、心の奥底に押し込んで……必死に自分を励まして言い聞かせて、人を信じるようにした。 ……そうしたら、レナがたくさんの人との縁を繋いでくれた。 魅音は明るくて、優しくて……だから、彼女の実家が何をやっているかを知った時は……さすがに身構えた。 でも、私が警察の娘ってさりげなく教えても、「そうなんだ」と軽く受け流してくれた。 だから私も、なるべく魅音の家業に関係しそうな会話は極力避けた。……少なくとも、本人の前では。 ショバ代問題とか風俗業だとか、そもそも暴力団の存在そのものが個人的には肯定できないけど……。 そんなことを魅音に言ったところで、どうしようもない。親の仕事は、子どもには選べないからだ。 気をつけたつもりだったけど……大丈夫だったかな? もし知らないうちに傷つけていたら、本当に申し訳ない……。 沙都子はやんちゃでイタズラ好きだけど、自分の中に哲学というか、一本筋の通った「美学」があった。 年相応に生意気で、人を罠にかけるのが上手くて……でも、憎めない可愛さがあった。 羽入ちゃんは……ちょっとよくわからない。 もっと長い間一緒に過ごしていれば、色々と話してくれたのかもしれないけど……突然現れた時の衝撃が強すぎた。 『昭和A』での顛末を思うと、もっと早く彼女の素性を調べるべきだったと思う。 ただ……最初に一穂が羽入ちゃんのツノの話に触れた時の空気は、明らかに異様過ぎた。 菜央が来る前後の段階で、羽入ちゃんの素性に踏み込むことは今考えても無謀だ。少なくとも、あの段階では無理だった。 梨花……梨花お姉ちゃんは、もっとわからない。 「赤坂」の名前を出しても平然としていたし、この村に同じ名前の刑事が来たことはあるかと尋ねたら、「ない」とハッキリ断言された。 だから私は、この「世界」のお父さんはそもそも雛見沢に来なくて、私は生まれる前に死んだのだと納得して……。 でも、お父さんは雛見沢に現れた。2人は、以前に出会っていたのだ。 彼女が知らないと答えた理由はわからない。いや……私が赤坂衛の娘だなんて、さすがに信じられなかっただけかもしれない。 彼女から信頼を得ることに成功していれば、未来は変わっていたかもという悔いがある……。 前原くんと詩音には、助けられた。 それぞれの#p思惑#sおもわく#rはあったけど……あの二人に出会えなかったら、綿流しの日に私たちはわけもわからず死んでいただろう。 お父さんとは……会えてよかった。あの人の娘でよかったと、心から思えた。 菜央が一緒にいてくれて、心強かった。 もし彼女がいなければ、私は自分の記憶をなにもかも疑わなければいけないところだった。 あの中の誰ひとりが欠けても、私は今……ここにいなかった。 でも、一番大きかったのは……。              ……一穂。 あの「世界」で出会ってからずっと私の後をついてきてくれた……臆病でふわふわした髪が可愛い女の子。 でもあの子は本当に、公由一穂なのか。もし違うのだとしたら、いったい誰なのか。 正直、今もよくわかっていない……でも私にとっては、あまり関係のないことだ。 肝心なのは、あの子がずっと私のことを信じてくれたこと……。 10年前の雛見沢。バケモノが跋扈する過去の「世界」で、彼女は怯えながらも私の側にいてくれた。 人を信じようと頑張ったけれど、精神的に限界が近かった私を頼って……どこまでもついてきてくれた。 人を疑わない無防備さについ心配になって、世話焼きを越えて子ども扱いしてしまったのはちょっと後悔している。 ……本人が嫌がらず受け入れるから、ついやり過ぎてしまった。でも、その無防備さがありがたかった。 私のことを疑っていない素直さに、救われた。疑わなくていい存在がいてくれることが、私にとって何よりの支えだった。 美雪(私服): ……一穂に、会いたい。 気がつけば私の両目からは、ぼろぼろと涙があふれていた。 美雪(私服): たくさん、助けてもらったのに……助けてもらうばかりで、何も返せなかった。 美雪(私服): 死ぬ前に、一穂にお礼を言いたい……助けてくれて、ありがとうって。 美雪(私服): 側にいてくれて、ありがとうって……私を信じてくれて、ありがとうって……! 一穂は、今……どうしているのだろう。 田村媛の予知夢が、真実だとしたら……今頃『昭和B』で前原くんや菜央と合流して、一緒に頑張っていると信じていいのだろうか? だとしたら、望みはあると……また会えると、希望を持ってもいいのだろうか? 千雨: ……やっと素直になったな。じゃあ、一穂ちゃんに会いに行くか。 千雨の指が、私の頬を拭う。 ずっと格闘技をしてきたせいで、彼女の指の皮膚は皮むけと治癒を繰り返して……とても固い。 千雨は強い。私なんかより、ずっと。でも……。 美雪(私服): ……っ……。 血を吐いて死んだ千雨の亡骸を抱きかかえた記憶が、重くのし掛かってくる。 怖い。あんな思いは、夢だけで十分だ。だったら、わずかな可能性に賭けるよりも……。 美雪(私服): ……ごめん。やっぱり、千雨は連れて行けないよ。 このまま私と一緒にいると、予知夢と同じことになる。 美雪(私服): 私と離れた方が、生き延びられる可能性だってあるし……だから……。 千雨: ……そうか。私を置いて行くのか。 呟いた声の低さが、ひやりとした恐怖を呼び起こす。 まぁ、怒って当然だろう。でも、そうでもしなければ……。 千雨: なら、私は……家の金を全ッ部持ち出して、明日から全国の水族館に片っ端から侵入していろんなサメと一緒に泳ぐ夢を叶えてやるよ! 美雪(私服): ……ぁ……? 空気が凍った。いや、凍ったのは私の方だ。その証拠に、千雨は平然としている。 千雨: だから、死ぬ前に水族館に不法侵入してサメと泳ぐ夢を叶えるんだよ。 話聞いてたか? と言わんばかりに不思議そうな顔をしてるけど……! 美雪(私服): (い、いや……いやいやいやッ?!) 美雪(私服): は……話聞いてた?!1ヶ月も経たずに世界が滅ぶんだよ?!なのにキミ、何をやろうとしてるのさ?? 千雨: 1ヶ月足らずで世界が滅ぶなら、その前に夢を叶えて死ぬことを選ぶ。……何かおかしいこと言ってるか? 美雪(私服): ……ぁ、ぉ……ご、ぁ……! 何か言い返したかったけど、なんとか喉の奥から絞り出たのは声にならない声。 美雪(私服): (なんで……なんで?!) 千雨のことは、よく知っていると思っていた。でも、私にはもう彼女のことがわからない! 美雪(私服): (普通、世界が滅ぶと知ってそっちに行く?!) と、ぐらぐらと揺れる世界でなんとか己を保とうとする私に向き合うと……千雨はニヤリと笑ってみせた。 千雨: だから、私を連れて行け。じゃなきゃ、お前のせいで黒沢千雨は水族館及びサメ水槽への不法侵入で逮捕だ。 千雨: 前科持ちが、研究者になんてなれるはずがないもんな……。お前のおかげで、私は将来真っ暗だ。 千雨: その落とし前は、どうつけてくれるんだ?ここで言ってくれよ、おい。 美雪(私服): きょっ……きょ、脅迫だ!そんなの、脅迫だよ! 千雨: 当たり前だろ。脅迫してんだよ、私は。 悲鳴のような非難の言葉も、さらりと受け流されてしまう。 認めたくないが……役者が違う、違いすぎる。同い年のはずなのに、この差はいったいなに? 美雪(私服): ……なんで千雨は、そういう発想ができるのか不思議だよ。キミ、死ぬのが怖くないの? 千雨: 恐竜が滅んでほ乳類、人類の時代が来たからな。私の時代で人類が滅ぶってだけ……流行と同じ。繰り返しだ。 千雨: それに、私は確信しているんだ。 千雨: 人間がいなくなったら、間違いなくサメがこの星の頂点に立つと! 美雪(私服): ……サメが空飛んで、サメが地上を歩くの? 千雨: そうだ。私は見られないのが悔しいが、いつかきっとそんな時代が必ず来る!んー、想像しただけでワクワクするな! 美雪(私服): する……? 千雨: する! うんうんと千雨は嬉しそうに何度も頷く。 私を励ますための冗談と考えるにはあまりにも楽しそうな顔をしている。 美雪(私服): (本気だ。この女は本気だ……!) 死の恐怖を、目の前の幼馴染みへの恐怖が上回る。 でも……だからこそ、励まされる。変に同情されるよりも、ずっと。 たぶん、私はこの子に一生勝てないと思う。それがあと残り数十年続くのか、あるいは1ヶ月足らずで終わるのかはわからないけど……。 千雨: だから……私としては人間が滅んでも滅ばなくても、どっちでもいい。長生きできるなら、サメの研究をするだけだ。 呆れる私をよそに、千雨はごく自然な態度を崩さない。それどころか、小テストについて話す時と同じようにつらつらと語っていった。 千雨: そういや1999年の7月、恐怖の大王がやってくる……ノストラダムスの予言って、お前の予知夢と同じなのか? 美雪(私服): ……6年くらい早いけど、そんなわけがないって言うには月が合致してて、嫌な話だね。 ノストラダムスの大予言と、田村媛命が御子に与えた予知夢……胡散臭さだけは、いい勝負かもしれない。 千雨: もしかしたら筆記か翻訳か、どこかのタイミングで計算間違えちまって本当は1993年だったのかもしれないな。 そこまで言って、千雨は私と目を合わせる。 脅迫、軽口、冗談――よくもまぁこれだけ、会話が色んな方向に脱線したものだ。でも……。 最初から最後まで一貫しているのは、千雨が本気で覚悟してくれているというありがたくて、頼もしい事実だった。 千雨: で、私を連れて行くのか? 行かないか? 美雪(私服): …………。 ダメだ、降参だ。本気にしても冗談にしても、ここまで腹をくくっている人間を説得なんてできない。いや、できるわけがない。 それに……なんだろう、この感覚は。さっきまで恐ろしさが心を支配していたのに、今は少し、可笑しささえ感じている。 美雪(私服): (誰に言われても動じない趣味を持ってる人は、どんな逆境でも笑い話に変えてしまう、って何かの本に書いてあったけど……) まさに千雨は、その典型だろう。……その意味では、雛見沢の魅音や沙都子と同じ系列に入るのかもしれない。 美雪(私服): ……わかった、連れて行くよ。世界より先に、千雨の人生を終わらせるわけにはいかないしね。 千雨: あぁ。世界が滅んでもお前のせいじゃないが、私が犯罪者になったらお前のせいだからな。 美雪(私服): ……卑怯だよ、その言い方。がちがちの体育会系のくせに、キミって本当に正々堂々って言葉と無縁な考え方だよね。 千雨: スポーツマンシップってのは、体育会系の連中が実はいらねぇって思ってる要素だから宣誓させるんだ。持ってて当然だったら、言う必要なんてないだろ? 美雪(私服): ……スポーツマンに謝りなよ。 文句を言いながらも、自分の口元が緩んでいくのがわかる。 それまで揺れてぼやけて曇っていた視界が、焦点を合わせる対象を見つけて、少しずつ鮮明になっていく。 世界が云々なんてスケールの大きい話は、規模が大きすぎて全然見えてこない。 でも、ただ友達に会いに行くだけ……それだったら目標として頑張れるし、重荷にも感じることなく素直に動ける。 美雪(私服): 千雨の言う通り……世界がどうとか、たかが中学生になんとかできる話じゃない。 美雪(私服): けど……私の命は、みんなに助けてもらったものだから。時間切れでただ失うのだけは、嫌だ。 美雪(私服): どうあっても負け戦だとしても……せめて自分が納得できるように、全力で戦いたい。 千雨: 勝利条件は、一穂ちゃんを連れ戻すことか? 美雪(私服): うん……でも、一穂に会うためには『采』とやらを探さないと駄目だと思う。 千雨: ……確かに。田村媛がダメなら、そうなるな。 美雪(私服): だから結局、一穂に会いたいなら『眠り病』を追わないとだね。 千雨: なら、追うか。世界なんざどうでもいいが、友達に会うために必要なら仕方ない。いくらでも調べるのを手伝ってやるよ。 美雪(私服): ありがとう。……でも『眠り病』の方だって、手がかりなんてほとんどないよ。 美雪(私服): このまま無駄に時間を過ごすだけかもしれない。私の予知夢以上に、酷い死に方をするかもしれない。 美雪(私服): それでも……一緒に、行ってくれる? 千雨: しつこいぞ。最初から連れて行けって言ってるだろ。 そう言って千雨は腕を伸ばして、私の頭を掴むとそのまま引き寄せる。 ……意外でもなんでもなく、彼女の握力は強い。だけどそれ以上に、私にあたたかい想いを伝えてくれていた。 千雨: お前が多少ワガママを言ったところで、今さら失望したりするかよ。……見くびるな、腐れ縁を。 美雪(私服): ……うん。 再び溢れそうになった涙を、今度は意思の力でぐっと堪える。 美雪(私服): ……行こう、一穂に会いに! そう意気込んで、座り込んでいた床を勢いよく立ち上がった――その時だった。 雪絵: …………。 突然、集会所の扉が開いて……その向こうから人の姿が現れる。 ……一瞬見ただけで、全身を駆け巡る戦慄。盛り上がって熱くなった思いが、急激に冷えていくのを感じた。 美雪(私服): お……お母さん……?! 雪絵: …………。 そこに立っていたのは、私のお母さん……赤坂雪絵その人だった。