例年よりも、春の訪れは早かった。
四月になったとたんに気温はぐんと上がり、人々は慌ててコートを脱ぎ捨て、新しい上着を用意しなくてはいけなかった。
「はぁ、美味しい……やっぱ起きたら朝メシ用意されてるのって最高だね」
「おまえ、なんだかんだいっつも食ってんな」
そんな春の朝、桜羽家のリビング。
春太は、晶穂と向き合って座っている。
まだ春休みなので、晶穂はいつものごとくパーカー一枚だけの格好だ。
ローテーブルには、焼いたトーストにバターをたっぷり塗ったもの、ハムエッグに焼いたソーセージ、サラダ、スープまでついている。
春太はもちろん、晶穂も旺盛な食欲を見せ、ぱくぱくと勢いよく食べているところだ。
「最近、忙しいからね。たくさん食べて、体力つけないと」
「U Cubeもまだ伸びてるもんなあ。今、畳みかけずにいつ畳みかけるのかって話か」
「今はなにをやっても視聴者に褒められるからね。再生数もグングン伸びるし、笑いが止まんないね。キラさんもニッコリだし、美波マネさんも臨時ボーナスが出たとかで喜んでたよ」
「それでか、昨日のバイト、美波さんが馬鹿に機嫌がいいと思った」
その臨時ボーナスとやらは、ゲーム代に消えることは間違いないが。
晶穂がU Cubeで利益を出して、スタッフにも還元されているのはいいことだ。
「ただ、今はボーナスタイム中でも、それだけにこのタイミングで炎上とかしたらヤバいぞ」
「ハルと別れておいてよかったかもね。あたし、アイドル的な人気もあるからね」
「……同居がバレないように気をつけないといけないのか」
家族で暮らしているのだから、批判されるいわれもないが、対策は必要だろう。
春太は美波と相談しておこうと決める。
実際に、美波はマネージャーとして有能で晶穂はなんの不安もないようだ。
有能で信頼できる美波には、晶穂の心臓のことも既に話してある──
「晶穂、病院のほうは……昨日も行ったんだよな?」
「今回も異常なし。ま、しばらくはくたばらないよ」
「お、おまえなあ……言い方ってもんが」
春太はパリッとソーセージを嚙みながら絶句してしまう。
「人間、いつかは死ぬ。そんなのが怖くて弱気になるのは、ロックじゃないよ」
「出たな、ロック。まあでも……晶穂にはロックを貫き通してもらわないとな」
「もちろん、死ぬまでロックだよ、あたしは」
晶穂は、ニヤッと笑う。
彼女の身体のことは決して楽観してはいけない。
心臓の病気で世を去った母親の遺伝子を継ぎ、一度は倒れたことは事実なのだ。
だが、ロックの魂を持って攻めていく晶穂を誰が止められるだろうか。
「強気強気でガンガンいくから、よろしくね、お兄ちゃん」
「お兄ちゃんヤメロ。兄貴でいいが、おまえにそう呼ばれるとなんか怖いんだよ」
「照れちゃってもう。あ、そうだ。昨日、帰りが遅かったからまだこれ見せてなかったね」
「うん? なんだ?」
晶穂は、パーカーのポケットからスマホを取り出して操作し、ローテーブルに置いた。
そこには、写真が表示されていて──
「これ、もしかしてCDのジャケットか?」
「そう、まだテストバージョンだけどチェックしてくれってさ」
晶穂こそ、少し顔が赤くて照れているようだ。
ジャケットには大きく晶穂の顔が写っている。
「ちょっと恥ずいけどさ、U Cubeでずっと顔を隠してきたから、逆に今度は顔を大きく出そうってコンセプトでさ」
「ああ、いいんじゃないか。これが恥ずかしくて、昨夜は見せられなかったんだな」
「うっさいな。でもこれ、ハルだからね」
「うっ……もしかしてと思ってたが、やっぱそうなのか」
晶穂の左右にシルエットの人物が二人いる。
明らかにベースとドラムの二人で、謎のベーシスト〝ハウル〟とモデルの青葉キラだろう。
U CubeでAKIHOチャンネルを見ている人なら、誰でも気づくのではないか。
「俺も青葉さんもあくまでお手伝いなのに、ジャケットに出るのか……あれ、この二人は?」
よく見ると、晶穂と春太に重なるように、うっすらとしたシルエットが浮かんでいる。
そちらも二人分のシルエットのようだ。
「これ、『Lost Spring』のジャケだよ。オリジナルのメンバーに敬意を表さないとね」
「……ありがとな」
「ま、こんなのあたしの自己満だけどさ。やっても、誰も損はしないでしょ」
晶穂は素っ気なく言った。
つまり、月夜見秋葉と山吹翠璃の写真から加工したシルエットらしい。
CDを買うファンにはなんだかさっぱりわからないだろうが、それでも晶穂は曲をつくった二人の女性をジャケットに載せた──
「ハル、これでいい? ご本人たちの許可はもらえないから、翠璃さんの代理としてあんたの許可をもらわないとね。お母さんの代理のあたしはもちろんオッケー。ハルは?」
「答えはわかってるだろ」
春太は笑って頷いた。
LAST LEAFの二人が叶えられなかった夢であるCDデビュー。
今、その夢を叶えようとしている晶穂のCDで二人への敬意を表するという話に、文句があるはずもない。
「じゃ、これでOK出しとくね」
「また墓参りに行かないとな。俺の母親の墓前にも、CDを供えておこう」
「お買い上げありがとうございます」
「俺、自腹で買うのかよ!」
雪季にはプレゼントするという話だったはずなのだが。
「まあ、それはそれとして」
「さらっと流そうとすんなよ」
「雪季ちゃん、なにしてんの? 朝ご飯用意して、二階に行っちゃったけど」
「今さら訊くなよ。雪季は身支度があるんだろ。今日はあそこに行くんだよ。挨拶のために」
「ああ、今日だっけ。ハルもついていくの?」
「玄関までだけどな」
春太は苦笑しつつ頷いた。
CDデビューも重要だが、他にも大事なことがある。
「はー、今年は美少女が二人も入ってくる予定でウキウキしてたのに。ウチの期待、裏切られちゃったなあ」
「わ、悪かったって、つららさん」
春太は、雪風荘の玄関前で冬野つららに詰められていた。
つららは今日は学校に用事があるらしく、水流川女子のベージュのセーラー服姿だ。
玄関で立ち話をしているのは、雪風荘が男子禁制で基本的に肉親であろうと中に入れないからだ。
「ははっ、冗談、冗談。たまに入居辞退する人はいるからね。たぶん、空き部屋も募集かければすぐに埋まるんじゃない?」
「そうか、それならよかった……」
「誰かミナジョの新入生の美少女、知らない? 桜羽くん、美少女の知り合い、いっぱいいるんでしょ? アッキーが言ってた」
「……晶穂はあとでドツくとして。協力できることがあったらするよ……」
「女の子絡みだと頼りになるね、桜羽くん! おおっと、もう行かなきゃ。雪風荘、女の子のいい匂いするけど、フラフラ中に入らないようにね!」
「俺をなんだと思ってんだ?」
つららは、ポンと春太の肩を叩くと元気よく出かけていった。
雪風荘からミナジョまでは徒歩ですぐの距離だ。
「お兄さん」
「おっ、透子」
つららと入れ替わりのように、透子が雪風荘の玄関に出てきた。
こちらはなぜか、以前に旅館〝そうげつ〟で着ていた着物姿だった。
「なんだ、その格好?」
「いえ、どうしても朝の五時には起きて掃除しないと落ち着かなくて。この格好だと気合いが入るんです」
「気合いって……共有スペースまで掃除してるのか、透子?」
「雪風荘は広いので、掃除のし甲斐があって助かりました」
「おまえ、もっと気楽に暮らしていいんだぞ……?」
幼い頃から旅館の娘として働いてきた透子は、労働しないと気が済まないらしい。
雪風荘の清掃を住人がやっているのか業者を呼んでいるのか春太は知らないが、透子が一人で掃除する必要はないだろう。
「働くのは大好きですから。雪風荘も趣のあるいい建物で掃除したくなるんですよね」
「そ、そうなのか」
本人がやりたいなら、春太が文句を言うことでもないが……。
「それより、透子……その、悪かったな。本当におまえが一人で雪風荘に入ることになって」
「え? いえ、一人じゃないですよ。先輩方もみなさん優しいですし、周りにお店も多くて便利ですし、理不尽なクレームをつけてくるお客様もいませんし、天国ですよ」
「さらっと愚痴が漏れてるぞ」
「あ」
透子は、はっとなって手で口元を押さえた。
この若さで将来の女将候補として働くのは、やはり苦労が多いらしい。
「でも、本当に大丈夫ですよ。雪季ちゃん、時々雪風荘に泊まりにきてくれるらしいですし、他にも新入生がいて仲良くなってますから」
「そうか、さすがだな」
透子は雪季よりもはるかにコミュ力が高い。
早くも雪風荘での生活に慣れているようだ。
「それで、そういえばその雪季は?」
「他の住人のみなさんにご挨拶してるはずですが……ずいぶん長いですね。今からでもいいからやっぱり引っ越しておいで、ってススメられてましたけど」
「おいおい」
春太が一世一代の決意をして、雪季を引き留めたのに、雪風荘に引っ張り込まれては困る。
「ふふ、雪季ちゃんが雪風荘に入るなら、私が代わりに桜羽家にお世話になりましょうか。そうなったら、お兄さんとのチャンスも生まれますから」
「おいおいっ!」
「冗談です。ですが、私のほうも……お兄さんのお家に〝遊びに〟行っていいですか?」
「……遊び、を意味深に言うのをやめたらな」
春太がそう答えると、透子はくすくすと笑った。
ある意味で、初対面のときの生意気さが多少戻ってきているようだ。
あのオラオラだった透子も、彼女の一面ではあるのだろう。
「ま、いつでも遊びにこい。また透子のメシも食いたいしな」
「はい、そうげつの自慢のレシピ、たくさん教わってきたので!」
「ああ、楽しみだ」
春太は、透子の頭を軽く撫でる。
トレードマークのポニーテールが、ふわふわと揺れる。
「相変わらず、透子ちゃんは油断できませんね……」
「わっ、雪季!?」
「ふ、雪季ちゃん! 誤解だよ、まだなにもしてないから!」
いつの間にか雪季が雪風荘の玄関に現れていて、じとっとした目を春太と透子に向けていた。
今日は、こちらで通っていた中学の制服、白いブレザー姿だ。
住人たちへの挨拶なので中学制服の着納めを兼ねて、正装したらしい。
「いいですよ、ライバルは多いほうが楽しいですから。私、ゲームも難易度高いほうが好きですからね」
「そ、そうなの? 本心じゃなさそうで怖い……」
「ウチの妹、けっこう怖いトコあるからな……」
透子も田舎の中学でのゴタゴタでは、春太が駆けつけて邪魔をしなければ、いずれ雪季からの逆襲を受けていた可能性も高い。
「もうー、私は穏やかな妹ですよ。挨拶は一通り終わりました。みなさん、笑って許してくれました。でも今度、お詫びにお料理をつくりにくるつもりです」
「いいね、雪風荘ではみなさんでパーティすることも多いから。お鍋とか、みんなで食べられるものを一緒につくろう、雪季ちゃん」
雪季の宣言に、透子が笑って頷いた。
このよく似た従姉妹たちの料理は、雪風荘の人たちの舌を楽しませることだろう。
「あ、そうです、そうです。聞いてください、透子ちゃん。私、青葉キラさんの事務所でモデルを始めるんです。ほら」
「わっ、凄い。プロが撮った写真みたい」
雪季がスマホを掲げて見せたのは、つい先日、ネイビーリーフのスタジオで撮ってもらった〝宣材写真〟だった。
雪季がオシャレな服装をして、背筋を伸ばしてポーズを取った写真だ。
「プロが撮ってくれたんですよ。透子ちゃんも一緒にモデルしませんか? キラお姉さんは、可愛いJKがもっとほしいそうです。実は、つららちゃん先輩にも声をかけておきました」
「意外なコミュ力発揮してるね、雪季ちゃん……ちょ、ちょっとやってみようかな」
「是非! 透子ちゃんが一緒なら私も心強いです!」
「ちゃっかり仲間を増やす気だな、雪季」
なんだかんだでモデルの仕事に不安がある雪季は、仲間を増やして安心したいようだ。
まだ危なっかしいのか、しっかりしているのかわからない。
ただ、雪季は確実に変わっていっている──
それは春太の妹に戻り、カノジョになった今は歓迎するべきことだった。
春休みは短い。
あっという間に過ぎ去って、今日からは高校二年生の一学期が始まる。
「ん……」
春太は、カーテンの隙間から差し込んでくる光に顔をしかめた。
春休みもいろいろあったせいか、身体が疲れていて、毎日寝起きはよくない。
だが今日からはもう、朝寝というわけにはいかない。
仕方なく、春太がゆっくり目を開けると──
「え……?」
「あっ」
「わっ」
「「きゃああああああああっ!」」
春太が声を漏らしたのに続いて、二人分のきょとんとした声が聞こえて。
さらに続けて、二人分の悲鳴が響いた。
「はー、びっくりしました。お兄ちゃん、思ったより早く起きましたね」
「ハル、ちゃんと起きるじゃん。びっくりした」
「……なにしてんだ、雪季、晶穂」
春太のベッドのそばに──
雪季と晶穂の二人がいて、二人とも今まさに制服に着替えている最中だった。
雪季はベージュのセーラー服に、薄いブラウンのミニスカートで、そのスカートをはいている最中だった。
はきかけのスカートから、白いパンツがちらっと見えている。
晶穂はチェックのミニスカートをはき、おなじみのパーカーを着ようとしているところで。
黒いブラジャーに包まれた大きい胸の谷間が、くっきりと見えている。
「雪季ちゃんが、着替えをするならハルの部屋じゃないと落ち着かないっていうから。じゃあ、あたしも付き合おうかなって」
「いや、おまえら絶対俺が目覚めるタイミングで着替え始めただろ……」
「そんなことないよ、お兄ちゃん」
「お兄ちゃんヤメロって言ってんだろ、晶穂……」
晶穂の場合、学校でもその呼び方をやりかねない。
いくら晶穂を妹だと認めたといっても、学校で公表するつもりはない。
誰に対しても、なにもかも明らかにする必要はないだろう。
「私はもう、晶穂さんがお兄ちゃん呼びしても怒りませんよ? あんまり」
「あんまりってなんだ!?」
「透子ちゃんや冬舞ちゃんのお兄さん呼びもギリ認めてるくらいですから、寛大です」
「ギリだったのか!?」
春太は驚きのあまり、眠気が吹き飛んでいく。
雪季は、従姉妹にも実の妹にも容赦しないようだ。
もとから仲が良い従姉妹はもちろん、実の妹のほうも姉に懐いてくれているのに。
「冗談です。私は妹としてもカノジョとしても心が広いんですよ」
「よかったね、ハル。二人続けてカノジョの心が広くて」
「……本当、よかった」
頷く春太の前で、二人が着替えを終えた。
雪季は水流川女子の制服姿、晶穂は悠凜館の制服姿だ。
「毎朝、妹の着替えを見てきたが、これからは二人になるのか……」
「ハルも一緒に着替える? なんなら着せ替えてあげようか?」
「私は着替えさせてもらっても、全然かまいませんよ」
「おい、ガチっぽくてやべぇよ」
同じ部屋で着替えてもらうだけで、かなりどうかしている。
お互いに着替えをさせるのは、間違いなくアウトだろう。
「つーか、あたしは毎日は無理。マジ眠い……ちょっと二度寝しようかな」
「朝ご飯の支度をしますから、晶穂さんは寝ててもいいですよ。ちゃんと起こしますから」
「おお、デキた妹だ……おやすみー」
「って、俺のベッドで寝るのかよ!」
晶穂は本気で寝るつもりらしく、春太の布団に潜り込んですぐに寝息を立て始めた。
制服がシワになるのでは、と春太は変なことが気になった。
「晶穂さん、妹になって余計にお兄ちゃんと仲良くなったような……距離、間違いなく近づいてますよね」
「そうかな……元からこんなもんだったぞ、晶穂は」
晶穂との距離が近いのは大歓迎だ。
春太は秋葉の遺言を受け入れた上で、晶穂は本当の妹だと確信している。
晶穂を守るためにも、常に彼女のそばにいてやりたい──
「同じ部屋で暮らしてますからね。私、晶穂さんのことはちゃんと見てますから」
「ああ、そこまで心配しなくていいが……よろしくな」
戻ってきた雪季は、晶穂と同室になっている。
さすがに雪季か晶穂、どちらかが春太と同室というわけにもいかない。
春太は雪季と晶穂の荷物を一部、自分の部屋に置かせてやるくらいしかできていない。
父はどうやら、本気で自宅の増築を検討しているようだ。
春太はバイトを頑張って、ほんの少しでも増築の足しにできないかと考えている。
「あっ、朝ご飯つくらないと。お兄ちゃんも、少し待ってくださいね」
雪季は春太に軽く抱きつき、ちゅっとキスしてくる。
妹としてのキスなのか、カノジョとしてのキスなのか。
既に〝両方〟だと割り切った今、迷わずに雪季のキスを受け入れられている。
春太は雪季の細い腰を抱きしめて、もう一度キスしてから。
「ふふ、ちょっと照れますね」
「そうだな、でも雪季は妹でカノジョだからな」
春太は、さらにもう一度キスしてじっくりと唇を重ねて──
「ふぁ……ええ、あと三年はそうですね」
「三年か。けっこう長いよな」
「その三年、私は楽しみますよ」
雪季は春太から離れると、にっこりと笑った。
はっきりと約束を交わしたわけではない。
だが、春太と雪季は〝妹でカノジョ〟という関係は三年で終えるつもりでいる。
三年後、雪季が十八歳になったら──カノジョという肩書きが別のものに変わる予定だ。
おそらく、二人の気持ちは三年経っても変わらない。
すぐそこで寝ている晶穂も、きっと祝福してくれるだろう。
『雪季ちゃんはねー、おにいちゃんとけっこんするんですよ』
いつだったか、幼い雪季が語っていた夢。
実の兄妹でなくなり、失われたものもあったが、今はその夢が夢でなくなっている。
「あと三年は、私は妹でカノジョでいられるんですから。長くても楽しみですよ」
「ああ、俺の妹でカノジョだな」
妹はカノジョにできない。
だが、春太と雪季は結ばれ、いつか永遠の誓いを交わすことになる。
春太は朝から世界一幸せな兄だった。
これからもずっと、世界一幸せであり続ける。