雪季が無事に中学の卒業式を終え、春太と二人で桜羽家に戻り──
さらにそれから数日、年度の終わりと新年度の始まりも目前に迫ってきた。
「いよいよ明日なんですねえ……」
「明日引っ越しとは思えないくつろぎっぷりだけどね、雪季ちゃん」
春太の部屋には、二人の女子が集まっている。
もちろん、雪季と晶穂の二人だ。
既に夕食を終え、風呂も済ませている。
雪季はいつものモコモコしたピンクのパジャマ姿、晶穂は紺のパーカー姿で、下は二人揃って太もも剝き出しのショートパンツだ。
「あ、やられた! 雪季ちゃん、ズルい! 話しかけた隙をついて吹っ飛ばすなんて!」
「そ、そんな盤外戦術はやってませんよ。しなくても晶穂さんには勝てますし」
「めっちゃ煽られてる、あたし!」
春太の部屋のモニターに、古き良きゲーム機Vii Vが繫がれている。
立ち上げているゲームは、もちろん初代『ストバス』だ。
雪季の桜羽家での最後の夜ということで、記念すべきゲームで遊んでいるわけだ。
ストバスを見たこともないという晶穂に、雪季が実際に対戦しつつ遊び方を教えているところだ。
春太はベッドに座って、後ろからその二人を眺めている。
「晶穂、そこ! アイテム取れ!」
「え? アイテムってなに! どれ、どれ取るの!?」
「あ、私がいただきです」
初心者にも容赦しない雪季だった。
実際、雪季はストバスに関してはかなり強いほうで、格闘ゲームも得意な春太でもなかなか勝てないレベルだ。
ストバスどころかゲーム初心者の晶穂では、勝ち目はない。
「くっそー。負けると腹立つし、接待されたらムカつくし!」
「大丈夫です、私はゲームのときは兄だろうと親友だろうと木っ端微塵になるまで攻めます」
「けっこう怖いね、雪季ちゃん……」
晶穂は、割と本気で怯えている。
とはいえ、雪季も多少の手加減はしているようで、本来なら一瞬で晶穂など吹っ飛ばしているだろう。
「あ、でもこのBGMいいね。ノリがよくて、かっこいい」
「わかりますか、晶穂さん! ですよね、ストバスはBGMがかっこいいんですよ! 実はサントラも持ってますから今すぐ持ってきま──って、雪風荘に送ったんでした! 明日、持ってきます!」
「明日は引っ越しだろ」
一度引っ越しておいて、サントラを届けにまた戻ってこられては拍子抜けしてしまう。
「うっ、そうでした……そうです、このステージのBGMもいいですけど、もっと熱い曲のステージが──すぐ終わらせてそっちに移りましょう」
「わあああっ! 強っ!」
雪季は手加減モードを解除して、晶穂を瞬殺してしまう。
それから善意しかない笑みを浮かべて、ステージ選択画面で新たなステージを選んだ。
「確かに、いい曲だね……熱い」
「ですよね」
雪季はニコニコしながらも、コントローラーを操作する手は止めない。
もちろん、晶穂がボコボコにやられている。
「つーか、熱いBGMで雪季ちゃんがさらに強くなってんじゃん!」
「そ、そうですか?」

「こんなもん勝てない、勝てない。ハル、交代」
「はいはい」
春太はベッドから下りて、晶穂とポジションを交代する。
「ふふふ、お兄ちゃんが相手でも舐めプはしませんからね」
「言っとくが、ストバス始めたのは俺が先だからな。今夜は勝ち越させてもらうぞ」
春太はコントローラーを握って、ギラリと鋭い目でモニターを睨む。
彼は本気だった。
「あ、くそっ、いきなりそんな小技で攻めてくんのか!」
「確実に削っていくのが賢いやり方ですよ」
雪季はゲームで遊ぶときはIQが上がるようだ。
「でも、雪季。桜羽家での最後の夜なのに、ゲームで遊んでていいのか?」
「これが一番私たちらしいじゃないですか。晶穂さんも一緒に遊んでくれますし、文句ないですよ」
雪季は雑談をしつつも、ゲーム操作はまったくミスらない。
こうやって幼い頃から、話しながらゲームをしてきたのでマルチタスクでも混乱することはないのだ。
「あたしは、カモられてるだけじゃない? 今度、もっと練習してリベンジしに行くから」
「いつでも大歓迎です。雪風荘は女子なら出入り自由ですからね。つららちゃん先輩も、晶穂さんには来てほしいみたいでした」
「人気者はつらいね」
晶穂はチャンネル登録数もまだまだ伸びているので、人気者なのは本当だ。
「学校でも、ヨソのクラスの連中も晶穂の顔を見るためにウチの教室まで来てたからな」
「あたし、天狗になっちゃいそうだね。CDデビューしたらどうなっちゃうんだろ?」
「あ、それで思い出しました、晶穂さん」
雪季はゲーム操作をしつつ、晶穂に笑顔を向ける。
「CD発売したら買うので、サインしてくださいね」
「買わなくていいよ。雪季ちゃんには何枚でもプレゼントするから」
俺には? と訊きそうになる春太だった。
「売り上げがあんま悪いと、ネイビーリーフが自腹切って大量購入してくれるだろうしね」
「な、なんて自虐的な。そんなマネしねぇだろ、青葉さんも」
「U Cubeでちょっとバズった程度の新人のCDがいきなり売れるわけないよ」
「あのなあ……あっ、やられた!」
「FOOO! 私の勝ちでーす!」
ゲームのときは、若干キャラの変わる雪季だった。
「ちょっと待て、キャラ変えるから。どれでいくか……」
「はい、ゆっくり選んでいいですよ、お兄ちゃん」
春太はキャラクター選択画面を睨み、雪季が使っているキャラとの相性も考慮しつつ、真剣に考える。
「ハルも大人げないなあ。こいつ、割とすぐに意地になるっていうか」
「本気になってくれるから、楽しいんですよ」
「ふーん、ゲームはそんなガチでやるもんでもないと思ってたけど。そういや、雪季ちゃん。このゲーム機は持っていかないの?」
「元々、お兄ちゃんのですから。お兄ちゃんと一緒に遊べないなら、雪風荘に持っていっても仕方ないですね」
「俺も、もうストバス以外じゃVii Vはさすがに動かさないんだよな」
「ふーん……あ、マネさんによるとVii Vって中古でもけっこういい値段がつくって」
「さっそく美波さんに問い合わせんな」
春太はまだ真剣にキャラを選びつつ、ツッコむ。
「雪風荘の部屋、あまり広くないからな。少しでも荷物は減らしたほうがいいだろ」
「そうなんですよね……今後、大型のゲーム機が発売されないことを祈ります」
発売されたら買わないという選択肢は、雪季にはないらしい。春太にもないが。
「そういえば、晶穂さんは本当に荷物少ないですよね。私の部屋、私のものがなくなったら、もの凄くがらんとしちゃいました」
雪季の引っ越しは明日──
といっても、荷物の大半は既に引っ越し業者によって雪風荘に運ばれている。
雪季は明日は、リュック一つで雪風荘に行く。
「アパートに残してきた荷物もあるし、レンタル倉庫にぶち込んだのもあるけど、少ないね。あたしの人生は、ギターとパーカーがあればいいのさ」
「ミニマリストにもほどがあるな」
秋葉の位牌と遺骨は、父が自分の部屋に置くと主張したため、そのとおりにしている。
晶穂の希望どおり、山吹医師に翠璃の写真をもらい、秋葉の遺影と並べて飾った。
秋葉の遺影は彼女自身が最後に自撮りした写真だったが、翠璃の写真も彼女が最後に入院する前に自宅で撮ったものらしい。
長い髪を三つ編みにして、上品なセーターとロングスカートという服装で、お気に入りだったらしいグランドピアノの前に座っている写真だった。
春太は、自分が生まれた頃の母の写真しか見たことがなかった。
五年前、亡くなる直前の母の姿は新鮮で──前に見た写真から十一年も経っている割には若々しく、瘦せているようにも見えなかったため、ほっとしたものだ。
実母、翠璃の写真は春太の机にも置いている。
写真は今も春太たちのすぐそばにあり、ゲームに興じている息子を微笑ましく見ているか呆れているか、気になるところだった。
「晶穂さん、本当に遠慮せずに荷物を置いていいですよ? 私が使ってた部屋、そんなに広くはないですけど……」
「別にあたしはなんもいらないよ。音楽があればいいから」
「おまえ、そんな刹那的な……」
「言っとくけど、ヤケになってるわけじゃないから。前より念入りに検査してもらってるし。この前、山吹先生に言われたけど、今はこれといって大きな異常はないらしいよ」
「そ、そうなのか」
晶穂が以前より通院を増やしていることは、もちろん春太も知っているが……。
「もちろん、なにかが起きる可能性は他の人より高いし、注意はしなくちゃダメ。でも、お母さんより症状はずっと軽いんじゃないかって。この前倒れたのは、お母さんのことで心労が重なったせいもあるみたい」
「よかったです、晶穂さん……!」
雪季はコントローラーを床に置くと。
後ろでベッドに座っていた晶穂に、がばっと抱きついた。
「わっ、雪季ちゃん。そんな感激するほどのことでもないって」
「感激するほどのことですよ。ずっと元気でいてくれないと……その、イヤです。すみません、語彙力がなくて……」
雪季は晶穂に抱きついたまま、真剣な顔で言った。
晶穂が雪季を妹のように思っているように、雪季もおそらく──
「いいよ、ハルは素直じゃないからストレートに感激してくれないもんね。雪季ちゃんみたいに素直に言ってくれるの、マジ嬉しい」
「は、はい」
雪季は照れくさいのか、真っ赤になっている。
それから、はっとなって晶穂から離れると。
「の、飲み物ないですね。あったかいお茶、淹れてきます。お兄ちゃん、その間にキャラ決めておいてくださいね」
「ああ、じゃあ頼む」
雪季はこくりと頷くと、全員のカップを回収して部屋を出て行った。
「今日の雪季ちゃん、いつもより明るいくらいだね。明日引っ越すとは思えない。というか、あたし、ここにいていいの?」
「いいに決まってるだろ。遠慮なんかするな。晶穂らしくもない」
「あたしだって空気くらい読むのに。でも、そっか。二人きりだと逆に気まずい?」
「空気を読め」
晶穂にズバリと言い当てられている。
春太は、長年一緒に暮らしてきた妹が、妹でなくなって明日にはこの家からいなくなるという現実をまだ受け入れられていない。
もしかすると、雪季のほうも同じかもしれない。
二人きりでいると、おそらく気まずくて話もできないだろう。
正直、晶穂の存在がありがたかった。
「ゲームでもやってないと、間が持たないのは確かだな……」
「そういえば、ハルって……結局、雪季ちゃんの引っ越しって認めてないんじゃないの?」
「……そんなことはない。わかった、とは言っただろ」
「言ったっけ……って、三人で一緒に寝たときのこと?」
雪季が桜羽家を出て、雪風荘に引っ越すとあらためて宣言して。
春太は、それを認めたつもり──だった。
「あたしは、そうは思わなかったな。少なくとも、気持ちよく送り出すって感じじゃなかったでしょ」
「…………」
春太は、雪季の引っ越しに反対はしていないし、荷物の運び出しも手伝った──というより、力仕事は春太が一人でやったようなものだ。
松風が部活で手伝えなかったのもあるが、雪季の荷物は春太が運んでやりたかった。
ただ、そこまでやっているのに、確かにはっきりと雪季の引っ越しを認めてはいない。
今まで気づかなかった──いや、気づかないフリをしていたのかもしれない。
「別に……俺がなにか言っても引っ越しはもう終わってるんだからな」
「そうだけどさ。やっぱハルは意地っ張りだなあと思って」
「我ながらガキだなと思ってる。雪季を気持ちよく見送らなきゃいけないって、とっくに気づいてんのにな」
「まあ、それでいいんじゃない?」
晶穂は、後ろからぽんと春太の両肩に手を置いた。
「雪季ちゃんも、ハルに爽やかに見送られたら、それはそれで嫌だと思うよ。未練があるくらいの態度のほうが、雪季ちゃんも実は嬉しいんじゃない?」
「……いろいろ複雑だな」
春太の煮え切らない態度が正解だとは、思いもしなかった。
ただ、雪季の性格を考えれば、充分にありえることではあった。
自称姉の晶穂のほうが、雪季のことを理解しているのかもしれない。
「ゲームをやって最後の夜を過ごすのが、俺と雪季らしい……けど、本当にこれでいいのか」
「最後の最後まで悩みが絶えないね、ハル」
「まったく……よし、キャラは決めた。こいつで雪季を叩きのめす」
春太は十字キーを操作して、目当てのキャラにカーソルを合わせた。
初代ストバスを始めて、最初に愛用していたキャラだ。
一番使い込んだキャラこそ、雪季と戦うのにふさわしい。
「あ…………」
「ん?」
ドアが開いて、雪季が入ってきた。
トレイに湯気を立てるカップを三つ載せている。
「ああ、ありがとうな、雪季……って、どうした?」
雪季はドアのところに立ったまま、ぼんやりと春太のほうを見ている。
「お兄ちゃん、雪季ちゃんもゲーム遊びたい……」
「…………っ!」
春太は、コントローラーを取り落としそうになった。
まったく同じ台詞を、夢の中でついこの前聞いたばかりだ。
正確には、もっと甘ったるい声で──
『お兄ちゃあーん、雪季ちゃんもゲームあそびたい』
そう、そんな声だったが、今の雪季はもちろんそこまで甘えたしゃべり方はしない。
「急に思い出しました……私、あのとき本当に嬉しかった……」
「なに……?」
「お兄ちゃん、いっつも外に遊びに行っちゃうから、私も追いかけてお外に行って。でも、お兄ちゃんどこにいるかわからなくて。だから、一人で公園で遊んだりもして」
「…………」
そうだった、雪季は小さい頃はいつも春太の後ろをトコトコとついてくるような妹だった。
だが春太は、一人で行きたいところに行くことも多かったのだ。
「お兄ちゃんがゲームをするようになって、お家にいてくれたから。私、いつでもお兄ちゃんと一緒に遊べたから嬉しかったんです……」
「俺も、雪季と遊ぶのは楽しかったよ」
春太は、コントローラーを床に置いた。
晶穂がベッドから下りて、雪季の手からトレイを受け取って──そのまま部屋を出て行く。
ドアを閉じる前に、一度だけちらりと春太のほうに目を向けた。
「晶穂め……」
気まずくても、やるべきことをやれ──妹は煮え切らない兄にそう言いたいらしい。
春太は、床に座ったまま雪季のほうに向き直った。
「雪季、来い」
「お兄ちゃん……!」
たちまち、雪季の目から涙がぽろぽろとこぼれ出した。
そのまま、床に両膝をついたかと思うと──春太にぎゅっと抱きついてきた。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん……! 私、あの頃からずっと、お兄ちゃんと一緒にいるのが嬉しくて楽しくて……! ずっと離れたくなくて……!」
「ああ、俺も雪季と一緒にいる時間がなにより大事だった、ずっと」
春太は答えて、雪季の背中を抱きしめる。
なぜ雪季が泣き出したのか、春太にもはっきりとした理由はわからない。
ただ──ここで雪季が泣くのは当たり前だ、と感じていた。
妹でなくなり、カノジョになりたいと願い、明日には住み慣れた家を離れて引っ越して、今夜のようにゲームを遊ぶことも簡単にはできなくなる。
強いて理由を挙げればそんなところだろうが──
雪季には言語化できないだろうし、春太も理由をすべて推測することなどできない。
「うっ、ううっ……お兄ちゃん、お兄ちゃん……私、私っ……!」
「もうなにも言わなくていい、雪季。好きなだけ泣いていい」
「甘やかしすぎですよ、最後まで……お兄ちゃんは、私のこと大事にしすぎなんです……!」
雪季は春太の胸に顔を埋めて、泣き続けている。
痙攣しているのではと疑うくらいに、激しく身体を震わせて。
「ごめんなさい、お兄ちゃん。もう明日からはお兄ちゃんの服もお洗濯できないのに、汚しちゃって……!」
「そんなこといいんだ、雪季」
洗濯くらい、春太は自分でできる。
明日は、自分で今着ているこの服を洗濯機に放り込み、ベランダに干して乾かすことになる。
それだけの想像が──春太にはひどく寂しかった。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん……!」
「…………」
春太はもうなにも言わず、黙って雪季の身体を抱きしめていた。
最後の夜はゲームを遊んで、泣く雪季を抱きしめて。
ゲームで遊ぶのも、雪季を甘やかすのも、春太がずっと続けてきたことだ。
それも今夜で、もう終わってしまう。
雪季と──妹と過ごした時間は今ここで終わる。
抱きしめているこの手を離したその瞬間に、終わるのだ──
朝から空は明るく、三月の終わりにしてはぽかぽかとあたたかい。
今日の桜羽家の朝は──
珍しく父が出勤を遅らせ、家族四人で揃って朝食をとった。
もちろん、料理は雪季が腕を振るってくれた。
ご飯と味噌汁、焼き魚に野菜の煮物、玉子焼きに漬物。
雪季は朝から手の込んだ料理を見事に仕上げ、父と春太と晶穂の三人は素直にその美味しさを褒めた。
雪季は照れて真っ赤になりつつも、嬉しそうだった。
父は満足して出勤していき、そして午前九時──
「じゃあ行きますね、お兄ちゃん、晶穂さん」
雪季は玄関のドアを開け、外に出た。
今日の雪季は、白いコートにクリーム色のセーター、黒のタイトなミニスカート、タイツという格好で、マフラーは着けていない。
茶色の髪は、いつもより少し凝った編み込みにしている。
じっくり時間をかけて朝食をつくった上に、身支度でも手を抜かなかったようだ。
「ああ、行ってこい」
春太は頷き、雪季に続いて外に出る。
晶穂は黙ったまま、春太の後ろをついてきた。
「でも雪季、本当に雪風荘まで送らなくていいのか?」
「自立の第一歩ですよ。一人で行かないと」
「……そうか」
負うた子に教えられ、とはまさにこのことだった。
雪季は引っ越しの荷物は雪風荘に送っているし、今日の荷物はリュック一つだけだ。
春太が持ってやるほどのこともないだろう。
「この辺りの景色を眺めながら、ゆっくり歩いていきます。あ、ちゃんと車にも気をつけますから」
「もうそんな心配はしてないよ。子供じゃないんだからな、雪季は」
「はい、子供じゃありません、私は」
雪季は笑って、こくりと頷いた。
そのとき──
「わぁっ……!」
薄いピンク色の花びらが、ひらひらと桜羽家の玄関に舞い込んでくる。
春太の目にはそれが一瞬、天使の羽根のように見えて──
「そうでした、もう桜が咲いてるんでしたね。ウチは桜羽なんて名前なのに、桜の木は一本もないですけど」
雪季は、それこそ天使のように、くすくすと笑っている。
すぐ向かいの家には大きな桜の木があり、この時期は桜の花びらが舞い込んでくるのだ。
「桜が舞う中の旅立ちか。出来すぎてるくらいだけど、悪くないね」
「はい、晶穂さん。私、桜は好きなので。嬉しいですね、祝福されてるみたいで」
「今度、このテーマで曲をつくるよ。桜が舞う中を巣立っていく可愛い女の子の曲を」
「楽しみにしてます。カラオケに入ったら歌いますね」
「普通にCD化すると思われてる……? 期待が重い」
「晶穂さんの曲、好きですよ。CDになってカラオケに入って、たくさんの人に聴いてもらいたいですね」
「が、頑張るよ」
マイペースな晶穂も、〝妹みたいな〟相手からの期待には弱いようだ。
「って、話してたらいつまで経っても出発できませんね。じゃあ……」
雪季は明るく笑っていて、昨夜あんなにも泣いたのが噓のようだ。
今泣いた烏がもう笑う──いや、子供の感情がコロコロ変わるということわざだったか、と春太は思い直す。
もう雪季は子供ではない。
数日後には高校に入学するのだから、子供などと言っては雪季に悪い。
「行ってきます!」
雪季は宣言するように言うと、手を振ってから──
小走りに家の門を出た。
雪季が、もう二度と戻ってこないわけではない。
早ければ一ヶ月後──GWには里帰りしてくるだろう。
引っ越し先の雪風荘は、電車を使えば簡単に行き来できる距離にある。
もっと頻繁に帰ってくるかもしれない。
だが帰ってくるのは、〝この家を出た雪季〟なのだ。
春太とは血が繫がっていなくて、妹ではなくて、住んでいる家も別々。
それではもう、まるっきりの他人だ──
「ハル」
「ん、ああ。ぼーっとしてても仕方ないな。そうだ、洗濯をしないといけないんだった」
「しゃーない。それはあたしがやってあげよう」
「え? 晶穂が? 料理どころか掃除もなにもしないおまえが? 手を大事にしないといけないとか、そんな理由で徹底的に家事を避けてる晶穂が?」
「あたしに言いたいことが相当たまってるみたいだね。洗濯くらいできるっつーの。そんなことよりさ──」
晶穂は、春太の横に並んだ。
今朝の晶穂はいつものようにパーカー姿で、下は太もももあらわなホットパンツ。
いつもどおりで、だが表情は──いつもと違う。
じぃっと春太の目を覗き込み、本気で歌っているときと同じ真剣な表情を浮かべている。
「あたしはさ、ただハルの妹になるんじゃなくて。ちゃんと、雪季ちゃんのお姉ちゃんになりたいんだよね」
「ちゃんとって……おまえだって雪季と血は繫がってないぞ」
まさか、晶穂の父親が春太の父ではなく、雪季の実父──などというオチはないだろう。
「あたしが言うのもなんだけど、血の繫がりってそこまで重要かな?」
「おまえ……」
「あたしはハルの妹になって、そのあたしに可愛い妹もできる。なにこれ、最高? あたし、U Cubeでバズって、CDデビューも決まって、お兄ちゃんがいて、妹もできるなんて。すっげー幸せじゃん」
晶穂は不意にニヤッと笑うと。
突然、バン! と春太の背中を息が止まるほどの強さで叩いた。
「…………っ! な、なんだよ、晶穂!」
「行きなよ、ハル。雪季ちゃんのトコへ。あたしの幸せのために」
「すげーことを臆面もなく言うな……」
「あたし、嫌なことも続いたけど、泣きたくなることもたくさんあったけど、ハッピーなことがあってもいいでしょ。幸せはきっと、あたしの心臓の治療にはよく効くよ」
「凄い新説を提唱してきたな……」
だが、細々とツッコミを入れている場合でもない。
「晶穂、おまえにはずっと驚かされてきたな」
「そうだっけ?」
「トボけんな。ここだけの話で、本当のことを言おう。雪季と兄妹じゃないってわかったときより、おまえに『はじめまして、お兄ちゃん』って言われたときのほうが驚いた」
「危うく、あたしより先にハルの心臓が止まるトコだったんだね」
「おい」
ボケが重すぎて、春太といえどもツッコミを入れられない。
「でも、今日の、今の晶穂の話が一番驚いたかもしれない。おまえはいつだって、俺の想像を越えていくよな」
春太の周りに深い亀裂を刻み込んでいったのは、いつも晶穂だったが──
その亀裂を飛び越せるように春太の背中を押すのも、晶穂だけなのかもしれない。
「これからもあたしは、ハルを驚かせていくよ。それが一番楽しいから。だから、これからもずっとね」
これからも、ずっと──
そうだ、晶穂との時間もまだまだずっと続いていく。
晶穂はその時間に、雪季の存在を必要としているのだ──
「行って、ハル──ううん、お兄ちゃん」
「……今後は、その呼び方でいくつもりか?」
「今だけだよ、もちろん。ハルがその呼び方を許すのは、一人だけでしょ?」
「ああ、そうだ」
春太は迷うことなく頷いた。
この家で「はじめまして、お兄ちゃん」と真実を明らかにした少女は、今はもう本当に妹になった。
春太は晶穂を妹として認め、受け入れると決めた。
だが、それだけでは春太と晶穂、雪季の三人の物語は終わらない。
「ここで走り出さなきゃ、ロックじゃねぇよな」
「わかってんじゃん。ロックでいこうよ」
ここから新たに始めなければならないのだ。
春太と晶穂の幸せのため──
なにより、雪季を幸せにするために──
「雪季!」
「わっ?」
雪季が、ぴょんと跳び上がって驚いている。
春太は全力疾走し、雪季はのんびり歩いていたおかげか、すぐに追いつけた。
雪季がいたのは、例のなにかと因縁がある児童公園だった。
ほんの一ヶ月ほど前に、ここで倒れている晶穂を発見したばかりだ。
雪季はその公園内で、ブランコにスマホを向けて写真を撮っていた。
まだ朝早いからか、他に人影はない。
「……雪季、なんで写真なんか撮ってるんだ?」
「き、記念といいますか。この公園の遊具も古いですし、いつなくなるかわかりませんし」
「なるほどな」
このブランコは、春太と雪季が初めてキスした場所でもある。
雪季が記念に写真を残しておきたいと思うのは、自然なことだ。
「あの、お兄ちゃん? 私、なにか忘れ物しましたか?」
「いや、全部雪風荘に持っていったと思う。俺もチェックを手伝っただろ」
「はい、そうでしたね。えーと、それなら……」
雪季は、こくこくと頷き、口元に手を当てて考え込む。
「あ、お昼はオムライスをつくって冷蔵庫に入れておいたのでチンしてくださいね」
「聞いたよ」
「晩ご飯は昨夜のカレーが残ってるので、あたため直して食べてください。けっこう時間がかかるので、かきまぜながらコトコトあっためないとダメですよ?」
「わかってる」
「あっ、一つ言い忘れてました! リビングの加湿器、フィルターの交換が必要なので、新しいのを買っておいてください。型番はリビングの棚のマニュアルを見て確認して──」
「それは知らなかったが、ちゃんとやっておく」
家族の健康のためにも、冬の加湿は重要だ。
もう春だが、まだしばらく加湿器には活躍してもらわなけばならない。
ただ、それは緊急の課題ではない。
「オムライスもレンチンできるし、カレーもあたためられる。加湿器のフィルター交換だってできる。雪季の涙で濡れた服も洗濯できる。俺だって子供じゃないからな」
「そ、そうですよね」
「でも、俺は雪季の料理が好きだ。母さんが職場復帰してから、ずっと雪季にメシをつくってもらってきたんだからな」
「え、はい。その……ありがとうございます。お兄ちゃんがいつも美味しそうに食べてくれるから、私も頑張ってつくろうと思って……って、なんのお話なんですか?」
雪季は完全に戸惑っているようで、オロオロと視線をさまよわせている。
春太もなにを言うべきか決めてこなかったので、上手く話ができないが──
「そうだな、上手く話そうとか小賢しい。まったく俺は優柔不断で、いろいろ先送りにして、雪季のこともずっと迷わせてきたよな」
「そ、そんなことは……私たちみたいな状況で迷わないほうが変ですよ。お兄ちゃんは真面目で、私のことを思ってくれるから迷ったんです。迷ってくれて嬉しいくらいです」
「……なんだかなあ。雪季のほうこそ、俺を甘やかしてるよな。なあ、雪季。俺もおまえにゲームとか勉強とかいろいろ教えてきたけど、もう一つだけ教えていいか?」
「お兄ちゃん……?」
雪季はまだ戸惑いつつも、小さく頷いた。
「俺に洗濯くらいさせろ。加湿器のことくらい自分で気づかせろ。メシくらいたまには自分で用意させろ」
「え……? 一つじゃなくて、たくさん言ってませんか?」
「大事なことは一つだ。つまりな……兄を甘やかすな」
「兄……?」
雪季は、びくりと反応する。
大きな目を見開き、吸い込まれたかのように春太の顔を見つめてくる。
春太はその視線に怯まず、まっすぐに見つめ返して──
「雪季、おまえは俺の妹だ」
「えっ!?」
雪季は短い悲鳴を上げ、また跳び上がりそうなほど驚いた。
というより、言った春太自身が驚いている。
ここまではっきり言うつもりはなかった──だが、自分を止められなかったのだ。
「あ、あの、お兄ちゃん? 私、もう妹じゃないってことで話はまとまりましたよね……?」
「そうだな、血の繫がりはないし、雪季自身ももう俺の妹でいたくない。それはよくわかってる。わかっているが……俺にとって雪季は妹なんだよ」
「お、お兄ちゃん……」
雪季はふらついて、ブランコの鎖を摑んだ。
「ちょ、ちょっと待ってください。話が去年の春まで戻ってませんか?」
「戻っちゃいけない理由はないだろ」
幸せだった過去を取り戻して、なにが悪いというのか──
春太は開き直っていることは自覚しつつ、まだ止まれなかった。
「この数ヶ月、俺と雪季と晶穂、それにみんなでぶつかったり、わかり合ったりしたことは無駄じゃないと思う。それで、最後に辿り着いた結論がそれなんだよ」
「そ、そんなこと……言われても……」
雪季は、ブランコの鎖をぎゅっと摑んでいる。
摑んでいないと倒れてしまうのかもしれない。
「お兄ちゃんを甘やかすとか……そんなの考えたこともないですし……」
「だったら俺のことは置いといてくれ。雪季、おまえはどうしても桜羽の家を出たいのか?」
「ほ、本当に話が戻ってます。そんなこと……だって……」
雪季は、明らかに足元がふらついている。
今にも地面に膝をついてしまいそうだ。
「私は、桜羽の家にいたらずっとお兄ちゃんの妹のまま……お兄ちゃんに甘えちゃうんです。だから、家を出て雪風荘に……」
「ああ、雪季の決意もよくわかってる。その上で、雪季には桜羽の家にいてほしい」
春太は前に出て、雪季の手を摑む。
しがみつくなら、ブランコの鎖ではなく自分に摑まってほしい。
「俺は、とっくにわかっていたはずなんだ。俺は、妹の雪季が好きなんだよ」
「…………っ」
摑んだ雪季の手から、震えが伝わってくる。
その震えは大きく、まるで春太の手を振り払おうとしているかのようだ。
「お、お兄ちゃん、なにを……」
「昨夜のゲームも楽しかったな。やっと受験も終わって、雪季も遊んでいい時期なんだ。俺だって、まだ大学受験でガツガツするには早いだろ」
「兄妹みたいに遊びたいってことですか……?」
「みたいに、じゃない。兄妹として遊びたいんだよ」
「…………っ」
春太が摑んだ雪季の手が、びくんと震える。
さっきからあまりにも彼女を動揺させてしまっているが、春太は伝えるべきことをここで言い切るつもりだった。
「雪季は嫌か? 父さんと母さんが離婚する前みたいに、兄妹でゲームして、買い物行って、一緒にメシを食うのは」
「で、でも……私たち、あんなこともあったのに」
雪季は、かぁっと顔を赤くする。
もちろん、受験前夜に春太と雪季が一線を越えたことを言っているのだろう。
そうだ、あんなことをした以上、春太と雪季は兄妹と言えないかもしれない──
「ただ、俺は雪季が好きで──妹だから雪季が好きなんだよ。それはもう間違いない。常識とか倫理とか、その感情の前ではなにも関係ないんだ」
「お、お兄ちゃん……本気で言ってるんですか?」
激しくまばたきして動揺を示す雪季に、春太は黙って頷いてみせる。
自分でも、とんでもないことを言っているのは理解している。
ただ、ごまかしたり、取り繕ったりしていては、雪季の心を動かすことはできない──
「雪季のことは妹として好きで、女の子としても好きだ。これが俺の本当の気持ち、素直な気持ちなんだよ」
「ほ、本気なんですか……」
雪季は、さっとうつむいてしまう。
うつむき、肩を震わせ、膝もガクガクと震えて──
「なあ、雪季。俺は──」
「待って!」
春太がさらに言葉を続けようとしたところで。
雪季が顔を上げ、睨むような視線を向けてきた。
「ずるい……ずるいです、お兄ちゃん!」
「え?」
「私だって、妹だけどお兄ちゃんが好きに決まってるじゃないですか! でも、そんなの変だからずっと我慢してきたんです! なのに、お兄ちゃんだけ……お兄ちゃんだけ、それを認めてはっきり言っちゃうなんて……!」
「雪季、今まで言ったことなかったか? 態度にはだいぶ出てた気がするが……」
「少なくとも、私自身は我慢してたつもりでした!」
雪季は、拳を握り締めて春太の胸にドンと叩きつけてきた。
パワーに欠けているので、春太の胸板にはほとんどダメージはない。
「……私だって」
「え?」
「私だって、お兄ちゃんのお兄ちゃんが好きです」
「……ややこしいが、言いたいことはわかる」
「わかってもらわないと困ります……」
雪季は春太の胸に拳を当てたまま、再びうつむいてしまう。
「……でも、ダメです。雪風荘には透子ちゃんも入るんです。明日には来るはずです」
「この前、卒業式で透子に会っただろ。あのとき、あいつ、自分は一人でも雪風荘で上手くやっていけるみたいな話をしてた。なにを言ってんだろと思ったが、要するに……雪季を引き留めてもいいって言ってくれてたんだな」
透子は、短い間とはいえ、春太と雪季を間近で見ていた。
だから、この展開を予想していたのかもしれない。
「でも、つららちゃん先輩も……雪風荘に入るって言ったら喜んでくれて、歓迎会の準備もしてくれてると思います」
「歓迎会には出ればいい。でも、だからといって入居しなくちゃいけないとは限らない」
「限りますよ! 歓迎会に出て、入居しないなんて図々しすぎます!」
「そんなことは問題じゃないのは、雪季もわかってるだろ」
歓迎会は、少なくとも透子は入居するのだから開催されるはずだ。
春太もつららには多少悪いとは思うが、だからといって雪季を行かせる理由にはならない。
「……いいんですか?」
「ああ」
「冬舞ちゃんと会ったときにも言いましたよね……妹はカノジョにしちゃいけないのに」
「俺は、妹だからカノジョにしたいんだよ。もう一度、俺と雪季で兄妹の関係を始めよう。好きだってことを認めて、その上でもう一度兄妹になろう」
「お兄ちゃん……メチャクチャです」
「だけど、これが俺の望みだ。悩んで迷って、辿り着いた最後の答えだ」
そうだ、もう迷いも先延ばしもできない。
両親の離婚から始まり、晶穂が明かした衝撃の事実を経て、ここまで来た──
今、目の前にいる女の子は妹で。
決して手放したくない、好きな女の子でもある。
「私、お兄ちゃんのマネをしてゲームを始めました」
「うん?」
「私、いくつになってもお兄ちゃんのマネをしちゃうみたいです。そうです、私もお兄ちゃんと同じ……兄妹の関係をもう一度始めたいです。私は妹で、お兄ちゃんのことが好きな女の子なんです」
「ああ、雪季……」
春太は、雪季の手を摑んだまま引き寄せて、抱きしめた。
「お兄ちゃんっ……!」
雪季も逆らわずに春太に抱きついてくる。
今の雪季は、昨夜のように泣いていない。
嬉しさが溢れて、輝くような笑みを浮かべて。
ぎゅっと春太に抱きついている。
迷いに迷い、ようやく辿り着いた、二人でいられる場所。
今、春太と雪季に芽生えている確かな気持ちは、長い回り道をした上で手に入れたもの。
兄と妹として積み上げてきた時間があっても、二人は恋をすることが許される。
そう、恋ができる──
この答えは、誰にも崩せない。
冬野雪季は、妹でありカノジョでもある。
春太は、ここでやっと妹の雪季とカノジョの雪季をこの腕に抱くことができたのだ──