陽向美波のマネージャー就任から三日後。
早くも、晶穂は桜羽家に引っ越すことになった。
荷物を運び込むことを考えれば、雪季と入れ違いに引っ越すのが一番なのだが、そう上手くタイミングを合わせられない。
ただ、晶穂には身体のことがあるので、急ぐ必要がある。
雪季の引っ越しは新学期ギリギリになる予定で、それを待っていられない。
一時的に、晶穂の荷物は春太の部屋や廊下などに置くことになった。
「つっても、運び出す荷物は少ねぇな」
春太は動きやすいジャージ姿で、今日は朝から月夜見家に来ている。
「晶穂の荷物だけじゃなくて、秋葉さんの部屋も片付けていいんだな?」
「あたしは元々ものが少ないし、いい機会だから家のものまとめて断捨離するよ」
晶穂も上はいつものパーカーだが、下はハーフパンツという軽快な格好だ。
「お母さんの家具も置いといても仕方ないしね。お母さん、帰って寝るだけで家具とかほとんど使ってなかったから、思い出の品でもなんでもないし」
「ドライだな。晶穂がいいなら、いいんだが……」
そういうわけで、秋葉の部屋も整理してしまうことになっている。
このアパートはしばらく契約しておくので、秋葉の部屋をそのままにしておいても問題ないのだが、せっかく労働力を確保できたので、この機会に片付けるらしい。
晶穂は放置しておくよりは片付けて、気持ちの上で区切りをつけたいようだ。
むしろ春太のほうが、秋葉の遺品の処分にためらいがあるが、反対もしづらい。
「おーい、このデカいラックはアパートの下に運んじゃっていいのか?」
その秋葉の部屋から出てきたのは、松風陽司だ。
もちろんジャージ姿だが、ジャージは下だけで上はTシャツという三月とは思えない格好だ。
いくら引っ越し作業で暑くなるといっても、寒がりの春太から見れば信じがたい。
「ありがと。あとで業者さん来るから、運んじゃって大丈夫だよ。悪いね、松風くん」
「今日は部活休みだし、ちょうど身体を動かしたかったところだ。いくらでも働くぞ。もっと重い物とかないか?」
「松風くん、ハルとは違う意味でマゾいね」
「別に、俺は好きで修羅場に飛び込んでいるわけでは……」
春太は憮然として言う。
晶穂は別に、修羅場がどうこうとまでは言っていないが。
「あと、お母さんが溜め込んでたCDとかDVDとかがどっさりあるんだよね」
「仕事柄、そうなるか」
春太も秋葉の部屋を覗いてみる。
デスクとベッド、白のシャレたドレッサー、それに壁際に大きな棚がある。
棚にはギッシリとCDやDVDのパッケージが詰め込まれているようだ。
秋葉はイベント会社に勤めていて、ミュージシャンとの仕事が多かった。
資料としてCDやライブの映像ディスクは必要だっただろうし、貰い物なども多いのだろう。
「つーか秋葉さん、ウチの父親よりよっぽどCD持ってるじゃないか」
「お母さんの趣味で集めたディスクじゃないよ。仕事上の付き合いがあったアーティストのばっかりだし、あんまあたしの趣味に合うのもないんだよね」
「ふーん……」
春太は、いつだったか、晶穂が春太父のCDコレクションを見て目をキラキラさせていたのを思い出す。
春太父とは音楽の趣味が合うようだった。
「服よりディスクのほうが多いくらいでさ。貴重なディスクもあるらしいから、一度レンタル倉庫に送るんだよね。これもアパートの下に置いといて、あとで業者さんが取りにくる予定なんだけど」
「おっ、それも俺が運ぼうか?」
ラックをアパートの下まで運んでいた松風が、もう戻ってきた。仕事が早い。
「月夜見さん、箱詰めはまだ? 特に詰め方とかないなら、そこからやろう」
「松風くん、マジ有能。とりあえず分類とか適当でいいから、詰めてもらえる?」
「任せてくれ。いやー、労働って素晴らしい!」
松風はニヤリと笑うと、秋葉の部屋へと入っていった。
もちろん、晶穂から自由に出入りする許可は出ている。
松風たちが来る前に、春太と晶穂で手分けして秋葉の部屋は整理してある。
秋葉の大事なものは別にしてまとめてあるので、うっかり捨てることもない。
「俺の友達、ブラック企業で嬉々として働きそうだな」
「でもマジ助かる。ハル、友達は大事にしなよ?」
「労働力としてか?」
「お母さんの机とベッドは処分するつもりなんだよね。松風くんがいれば楽勝だ」
「晶穂、マジでそんなに思い切って処分していいのか……?」
「いいよ。置いといても誰も使わないしね。あのドレッサーだけはあたしがいつかもらう約束になってたから、ありがたくいただくけど」
「ちゃっかりしてんなあ……」
ただ、確かに机とベッドはかなり年代物のようだ。
もしかすると、秋葉の独身時代から使っていたのかもしれない。
ドレッサーも新しくはなさそうだが、凝ったデザインでこれを捨てるのはもったいない。
晶穂が受け継いで使えば秋葉も喜ぶだろう。
「とりあえず、重い物はあの未来の社畜が全部なんとかするとして。晶穂、台所も整理するんだったよな?」
「そっちは──」
晶穂が言いかけたところで、まさにその台所からひょこっと顔を出した人物がいた。
「なぁなぁ、このカップ、ええ模様やん。ウチの店に置きたいくらいや」
「そんなカップなら他にもたくさんあるよ。ウチの母、お土産に買うだけ買って配りもせずに自分ちに積み上げてたんだよね。よかったら、あげるよ」
「ええっ! ホンマに!?」
驚きつつも嬉しそうな顔をしたのは、氷川涼風だった。
今日もお馴染みのメイド服姿だが、カフェRULUのウェイトレス時に着用しているものとは別物で、スカート丈が短い。
動きやすさのためか、春太を挑発するためか、そこは永遠の謎にしておきたい。
本人に言わせると、〝汚れてもいいメイド服〟らしい。
「このコーヒーカップが特にええなあ。二客あるから一客は私のプライベート用にして、もう一客はサクラくんがお店に来たとき用にするわ」
「特別感を出すな!」
「あ、今カノちゃん、他のカップも見せてくれん?」
「いいよ、台所のものならなんでも持ってって。元カノさんには軽トラ出してもらうんだしね。お礼代わりにどうぞ」
そう、涼風の家には軽トラックがあり、晶穂のわずかな荷物はそれに載せて桜羽家に運んでもらえることになっている。
結局、引っ越し業者の手配は失敗したので、ありがたい話だった。
「おー、マジで嬉しいわー。ありがと、今カノちゃん!」
「あ、そうだ。実はあたしももう元カノちゃんだから」
「へぇー、サクラくん、こんな可愛い子までフッたんや? 贅沢なヤツやねえ」
「おまえらな……」
春太と晶穂の関係が終わったのは事実だが、涼風のほうは元カノではない。
「元カノちゃん、もうちょっと詳しい話、聞かせてもらおかな?」
「じゃあ、台所を整理しながら話そうか。氷川さんが知らないハルの身体のことまで教えられるね」
「うわぁっ、私には刺激強すぎや!」
「…………」
本当に、晶穂と涼風は二人でワイワイ騒ぎながら台所の整理を始めてしまった。
春太にはいろいろな意味で邪魔がしづらい。
「……涼風のヤツ、引っ越しの手伝いに呼びつけて悪い気もしてたが、全然悪く思わなくてよさそうだな」
「春太郎は、相変わらず氷川には厳しいな」
ハハハ、と松風が笑いながら大きな段ボールを廊下に置いている。
早くも段ボール一箱分、ディスクの整理を終えたらしい。
「そんなことはいいんだよ。松風、仕事早いな」
「俺、引っ越しのバイトでもしようかな。向いてるかもしれない」
「間違いなく向いてるよ、おまえは」
「今日は180センチ超えのデカいのが二人にメイドが一人だからな。大豪邸の引っ越しでも楽勝だ」
「俺なんて去年の夏休みは引っ越しバイトしてたしなあ」
ただし、かなりキツかったので、今年の夏もやるかは怪しいものだ。
春太は松風と違って、自分の肉体をイジめることに快感を覚えない。
「というか、松風は二年になったらもっとバスケ漬けだろ。バイトしてる暇なんてないんじゃないか」
「さすがに部活とバイトの両立は物理的に難しいか。残念だ」
「今でも練習しすぎなくらいだろうに、まだ頑張る気だよな、おまえは」
「もちろん。一年の夏と冬の大会はけっこういいトコまでいったからな。今年の春は、期待できそうな一年生も入ってくるらしいんだよ」
「へぇ、ガチで全国目指す気か?」
「俺は最初から常にガチだよ、春太郎。優勝目指さなかったことなんて一度もねぇよ」
松風はシュートを打つマネをしてみせる。
なにしろ長身で身体のバネも凄いので、アパートの天井に軽く手が届きそうだ。
「高校の間はバスケに打ち込むよ。氷川のヤツのことは……ま、春太郎は気にすんな」
「……涼風はいい友達だよ。本人には絶っっっ対に言わないけどな」
「ハハハ」
松風は笑い、また秋葉の部屋に戻っていく。
春太は松風の言葉の端々に感じることがあった。
高校の間はバスケ──つまり、バスケのことがなければ、氷川涼風への気持ちを明かすこともあったということだろうか。
この親友は不器用で、バスケに打ち込んでいる間はバイトも本気の恋愛もできないようだ。
「そうだ、春太郎」
「わっ」
ひょこっと松風がまた廊下に顔を出した。
「友達で思い出した。前から春太郎に言っておこうと思ってたこと、あるんだよ」
「な、なんだ? あらたまって、なんか怖ぇな」
「春太郎、俺といつ仲良くなったか覚えてるか?」
「……いつの間にか、じゃないか? 家も近いし、同じ公園でよく遊んでたしな」
おそらく、春太が松風と仲良くなったのは小学校に入るより前だ。
幼稚園にすら通っていなかった頃だろうから、記憶になくて当然だろう。
「俺さ、ガキの頃から身体デカかったし、力もあったからな。いい気になってたんだよ」
「は? 松風、なに言ってんだ?」
「それでさ、ガキ大将っつーの? そういうの気取って子分引き連れてたとき、たまたま公園で一人で遊んでる女の子見つけてさ」
「…………ん?」
「それで、〝あの女、邪魔だから追い払おう〟って話になって。その子がすっげー可愛くて、みんな逆に……なんというか、意地悪したくなったんだよな」
「おい、それって……」
「そしたら、その女の子の兄貴がいきなり現れて殴りかかってきて。俺も子分たちも瞬殺で、逆に俺たちが追い払われたんだよ」
「あれ、松風だったのか!?」
「やっぱ、春太郎は忘れてたか。瞬殺されたほうは忘れねぇもんだよ」
「ま、まったく気づいてなかった……」
そもそも春太は、幼い頃に公園で雪季を助けたことも忘れていた。
ましてや、ケンカの相手のことなど覚えているはずもない。
「そのあと、俺一人でおまえにリベンジしてやろうって何度も公園に行ったけど、おまえも女の子もまったく現れなくてな」
「確か、ケンカが親にバレて家で謹慎させられてたんだよ」
その記憶も、春太は最近思い出したばかりだ。
謹慎のおかげでゲームの面白さに気づけたという思い出だ。
「そうだったのか。ま、それで時間が経ってリベンジしようって気もなくなって……でも、おまえのことは気になってたからな。確かに、〝気がつけば〟友達になってたのかもしれない。でも、そもそものきっかけはあったんだよ」
「……ケンカして友達になるとか、昔の漫画みたいだな」
「まったくだ、恥ずかしい」
ははは、と春太は松風と顔を見合わせて笑う。
幼い頃の雪季をイジめたことは気になるが、さすがに復讐しようなどとは思わない。
というより、春太に瞬殺されたのだから、松風が少し気の毒なくらいだ。
「おーい、男子ども。仲良うしてるトコ悪いけど、こっちちょっと手伝うて」
涼風がすたすたと歩いてきて、春太と松風に手招きしてみせた。
「はいはい、なんでも手伝いますよ、氷川さま」
「なあ、松風くん。あんた、ウチの妹とも仲良うしてくれてんやろ。私は涼風、妹は流琉って呼んでやってや」
「……流琉はいいが、おまえは氷川のままにしとこう」
「なんや、照れて。可愛いトコあるやん、松風くん」
涼風がニヤッと笑って台所に戻り、松風もついていく。
「よかったな、氷川。姉貴が余計な気を回してくれたぞ」
春太は、ここにはいない後輩の氷川流琉に呼びかける。
氷川流琉は、あきらめることなく松風のことを想い続けるだろう。
姉の気遣いは余計かもしれないが、あのお人好しな氷川流琉ならありがたく受け取るのではないか。
春太と雪季、晶穂の関係が変わっていくように。
氷川姉妹、松風との関係も少しずつでも変わっていくのかもしれない。
それは決して悪い変化にはならないと春太は確信している。
氷川流琉は松風を想い、松風は氷川涼風を想い、そして氷川涼風は──
なかなかにややこしい関係ではあるが、修羅場になることもないだろう。
なにしろ、松風陽司も氷川涼風も妹の流琉も、同じ中学で同じ時を過ごし、今も親しく付き合っているのだ。
この三人が気の良い連中であることは、春太が誰よりも知っている──
「ほら、サクラくん、なにをニヤニヤしてんねん」
涼風が台所から顔を出して、じろっと春太を睨んできた。
「ああ、俺も手伝うんだったな」
「ハル、あんたはこっちはいいよ。台所の食器棚、前から位置を変えたかったけど、か弱い娘と母じゃ重くて無理だったんだよね」
ひょこっと晶穂も台所から顔を出してきて──その後ろで松風が棚に手をかけている。
「任せろ、月夜見さん。この棚くらいなら、俺一人で持ち上げられる」
「俺も手伝ったほうが確実だろ」
「いいから、ハルは氷川さんと別の仕事やって」
「そういうことらしいわ。せっかくパワー型が二人おるんやからな。サクラくん、仕事は効率よく分担するのがコツやで」
「そうっすか」
松風がすぐ近くにいるのに、涼風と二人きりになるのは気が進まないが……。
春太は深く考えないことにする。
がっちりとヒモで縛り上げた雑誌の束を両手に持ち、春太はアパートの外まで出てきた。
裏手に、月夜見家が不要品を出すための簡単な囲いがつくられている。
管理人に許可をもらい、業者が回収に来るまで不要品を外に置いていいことになっているらしい。
「ふう、紙類ってけっこう重いんだよなあ」
「サクラくん、家事は全部ふーちゃん任せやっていうけど、ゴミ捨てはしてるんやな」
「それくらいはな。今日も、さすがに涼風に力仕事はさせられないし」
「あら、優しいやん。その優しさが中学時代にもあったらなあ。私ももっとグイグイ攻めてたかもしれんわ」
「優しさにつけ込むのかよ。そりゃ危ないトコだったな……」
春太は積み上げられたゴミ類を整理しつつ、苦笑する。
「でもサクラくん、中学の頃より優しくなった気がするわ。今カノちゃんのおかげやろか?」
「さあな……特別に晶穂に優しくしてるつもりもないが」
「ふーちゃんへの優しさだけが特別な感じやったなあ。今は今カノちゃんも特別で、私や流琉、冷泉ちゃんにもその優しさがお裾分けされてるんやろか」
「俺に聞かれても」
春太の周りは思わせぶりな話をする女子が多いが、涼風も相当だ。
涼風も、中学時代からの複雑な事情があるので話がややこしくなってしまう。
「あ、もう今カノちゃんやないんか。サクラくんにカノジョができたのも意外やけど、別れたのも意外やわ」
「……高校生のカップルなら珍しいことじゃないだろ?」
「サクラくんが誰かと付き合い始めたら、一気に結婚までいくかと思うとったわ」
「俺、そんな勢い任せで生きてねぇよ」
どちらかというと、春太は何事にも迷ってしまうタイプだ。
「サクラくんは一途やからねえ。子供の頃からずっとふーちゃん可愛がってきて、中学でも全然変わってないし」
「妹と……付き合う相手はまた別だろ」
個人的には別とは言えなくなっているが、春太は一般論を口に出してしまう。
「それより、もっとゴミも来るだろうし整理してスペース広げないと……うっ、まだ寒いなあ」
吹いてきた風に、春太は身をすくめる。
ジャージの上下を着ていて、作業で身体はあたたまっているが、風は冷たい。
「サクラくん、寒がりは相変わらずなんやなあ」
「治るもんでもねぇだろ」
「中学んとき、冬に空気の入れ換えで窓開けてたら怒られたん覚えてるわ。理不尽やったわ」
「そ、そんなことあったっけか。わ、悪かったな」
「でも、あとで他の子に聞いたわ。松風くんが練習試合控えてんのに風邪気味で、サクラくんがピリピリしてたって。えらい友達思いやん?」
「……それも……覚えてないな」
それは噓で、春太はしっかり覚えていた。
バスケ部が強豪校との練習試合を控えていて、松風もスタメンで出る予定なのに体調を崩していたことがあった。
「妹思いで友達思い。単純なことやけど、ええヤツやと思ったんよね。私もチョロいわ」
「俺にとっては普通のことだな……よし、整理はこんなもんだろ。さっさと戻ろう。おまえが風邪引くぞ」
「君が寒そうやん。デカいくせに寒がりっていうのが、なんか可愛らしくてええわ」
「身体のサイズと耐寒性能は関係ねぇよ」
春太も雪季も身長は平均よりずっと高いが、寒さには弱いのでその説は実証されている。
「確かに風強いなあ……きゃっ!」
「…………っ」
ビュウッとひときわ強い風が吹き、涼風の短いスカートがひらっと揺れた。
「可愛い悲鳴、出てもうたわ。サクラくんを誘惑したと思われてまう」
「そのくらいのことで誘惑されたりは……」
「RULUの看板娘のパンチラやで? 常連さんたちなら、万札出しても見たがるわ」
「だから、おまえんトコの常連、出禁にしたほうがいいぞ」
カフェRULUの常連たちは看板娘を怪しい目で見ているらしい。
メイドカフェでもないのにメイド服を着ている涼風にも、若干の問題はあるが。
「ま、そうやね。今カノちゃんにフられたからって、パンチラ程度でサクラくんを誘惑できるわけもないか」
「俺がフラれたって決めつけてやがるな」
「どっちでもええから、おもろいほうを真実にしただけや。私はそこまで君に未練があるわけでもないしな、実際んトコ」

涼風は微笑んで、先を歩いてアパートのほうへと向かう。
春太も涼風の後ろをついていく。
「私はRULUを継いで、サクラくんは地元におって、たまに『よう』って店にコーヒー飲みにくる……そんな関係もええと思わん?」
「俺がずっと地元にいるとは……まあ、悪くないかもな」
「そうそう、〝悪くない〟くらいがちょうどええんよ」
涼風が春太に背中を向けたまま言い、また風が吹いてスカートの中がちらりと見えた。
危うく、つまらないことを言うところだった。
春太はかろうじて軌道修正できて、ほっとする。
氷川涼風は中学の同級生で、かつて告白してきた女子で、今はいい友達。
そして、なにより美味しいコーヒーと軽食とスイーツのカフェの看板娘。
春太は、たまにその店に現れる客。
そんな関係でいいのだろう、と春太は思った。
引っ越しの作業は終わり、夕方になると松風と涼風は帰っていった。
晶穂の荷物は、涼風の父親に軽トラックで桜羽家に運んでもらい──
春太と晶穂は二人で月夜見家に戻って、一通りの掃除を済ませた。
「ふー、終わった終わった。松風くんと涼ちゃんのおかげでなんとか夜までに終わってよかったよ」
「涼風とも仲が良くなったようでなによりだ」
いつの間にか、晶穂は涼風を〝涼ちゃん〟と呼んでいる。
「今度、二人にはお礼しないとね。ハルをバスケ部の助っ人に出して、ハルにRULUの皿洗いをさせるか」
「どっちも俺かよ!」
「冗談、冗談。やっぱ、ご飯おごるくらいがいいかな。なにか考えといて、ハル」
「あの二人、どっちもなんでも食うけどな。まあ、考えとく」
店を選ぶなら、松風と涼風、どちらもよく知っている春太が適任ではある。
「よろしく。でも、荷物少ないからすぐに終わると思ったのに、意外にかかったね」
「けっこう働いたな。ところで、なんで晶穂もメイド服姿になってんだよ」
いつの間にか、晶穂が胸元を強調したミニスカメイド服に着替えている。
「ちょっとパーカーが汚れちゃったからさ。汚れたままで触りたくない荷物もあったから、着替えようとしたら、涼ちゃんがこのメイド服をプレゼントしてくれたんだよ」
「涼風のヤツ、なにしてんだ。引っ越しで物を捨ててるのに、わざわざ増やしてどうすんだ」
「このメイド服は、大事に桜羽家でも着るよ?」
「出禁にするぞ」
「あたし、家なき子になるじゃん!」
だったら余計なイヤガラセをするな、と春太は言いたかった。
晶穂の場合、本気でメイド服姿で家の中をウロウロしそうなのが怖いところだ。
「出禁が嫌なら、パーカーでもジャージでもいいから着替えろ。その格好で桜羽家に来られちゃ困る」
「困らせるのがいいのに……しゃーないな」
晶穂は一旦、物がほとんどなくなった自室に戻り、別のパーカーとホットパンツという格好で戻ってきた。
やはり寒そうな格好だが、本人がいいなら別にかまわないだろう。
「あとは、お母さんだけだね」
「そうだな……」
秋葉の遺骨を置いていた〝後飾り〟は一度片付け、これも桜羽家に運び込んだ。
今、アパートには遺影と位牌だけが残されている。
晶穂が自分の手で運びたい、とこれらだけ残しておいたのだ。
「お母さん、今から引っ越しだよ。長いこと暮らしたこのアパートともお別れだからね」
晶穂は、居間に残してあるローテーブルに置いた遺影と位牌に語りかけている。
春太もそちらに向き直る。
「……秋葉さんは、ウチに引っ越して文句は言わないかな」
「可愛い娘がそばにいれば文句ないんじゃない? あ、そうだ。山吹先生って、ハルの実のお母さんの写真とか手に入れられないかな?」
「俺の母親の……写真?」
桜羽家にも、山吹翠璃の写真が一枚だけある。
まだ生まれたばかりの春太を抱いて微笑んでいた母の写真だ。
「大きく引き伸ばしたヤツがいいな。お母さん、ハルのお母さんのことがホントに好きだったみたいだからさ。写真を並べて飾ってあげたら喜ぶんじゃないかと思って」
「そうか、それは思いつかなかった。山吹先生にいい写真がないか訊いてみよう」
星河総合病院の山吹医師は、春太の祖父母との親戚付き合いもあるようだ。
翠璃の写真の一枚や二枚は、簡単に手に入るだろう。
「それなら、お母さんも文句ないでしょ。あたしが桜羽家に保護されるなら、ここにお母さんを置いとくって選択肢は最初からないしね」
「そうだな……あれで秋葉さんは晶穂に甘かったしな」
「あたしに好きにギターを弾かせる甘さもほしかったね」
「ウチも、いつでもご自由に弾いてくださいとは言わないぞ」
桜羽家がご近所に騒音で迷惑をかけることになってはまずい。
「ちぇっ。ま、そろそろ行こうか」
「ちょっと待った」
「ん?」
春太は、立ち上がろうとした晶穂を制する。
晶穂が桜羽家に引っ越す前に、この月夜見家のアパートでやっておきたいことがあった。
今ももしかしたら、月夜見秋葉の魂があるかもしれないこの場所で。
「晶穂、これを見てくれ」
「スマホ? なに、なんかエロい写真?」
「この流れでそんなもん見せるか! 秋葉さんのご霊前だぞ、ここ!」
後飾りが移動されても、遺影も位牌もあるのにそんな失礼なマネはできない。
「晶穂、落ち着いて聞いてほしい。その……亡くなる直前の秋葉さんから送られてきたファイルがあるんだ」
春太は、晶穂にはまだ、生前の秋葉からもらった謎のファイルの話をしていなかった。
ファイルにはなにが入っているか見当もつかず、パスワードがかかっていて中を見られるかどうかすらわからない。
母親の死で不安定になっていた晶穂には、希望になるか絶望になるか定かでなく、特に意味のないものが入っている可能性もあった。
だから春太は、晶穂にファイルの存在を教えられなかったのだ。
「お母さんから? イタズラとかじゃなくて?」
「真っ先にイタズラを疑うのかよ。まあ、やりそうな人ではあったけど」
実は春太も、その可能性を捨て切れていない。
「そのファイルは圧縮フォルダで鍵がかかってたんだが、パスワードがわからなかった」
「あー、あたしもそういうことやりそう」
「おまえと秋葉さんはよく似てるよ。でも、この前解けた。『Lost Spring』のサビのコード進行、あれがパスワードになってたんだよ」
それから、春太はパスを解いてみたものの、中にあったフォルダは見ていないと説明する。
見るなら、晶穂と一緒でなければいけない気がしたからだ。
「そのパスワードもお母さんらしいね。ふーん、だったら見てみたら?」
「軽いな……もっと驚くかと思ってた」
「お母さんが死んだばっかの頃なら驚いたかもね。けど、あたしだってさすがにもう気持ちの整理はついてるからさ」
晶穂は、淡々とそう言って。
「それ、ハルに送られてきたんでしょ? だったら、ハルが見るべきだよ」
「え? 晶穂は見ないってことか?」
春太が訊くと、晶穂は迷わず頷いた。
「い、いや、でもおまえの母親の……結果的には、遺言みたいなもんで……」
「わかんないじゃん。ひょっとしたら、お母さんがハルに告ってるメッセージが入ってるかも。そしたら、娘としては気まずいなんてもんじゃないよ?」
「ないない、それはないって!」
冗談にしても恐ろしすぎる。
ただ、まずは春太が見るべきというのはそのとおりかもしれない。
晶穂の母親が最後に送ったファイルだということばかり考えていた。
亡くなった人にも、もちろんプライバシーはある。
「じゃー、あたしは我が家で最後のライブをやっとこうかな。家で弾くな、ってうるさかったお母さんに捧げるよ」
「おまえ、ギター持ってきてると思ったらそのために……」
晶穂は荷物が増えるのに、わざわざ愛用のギターを持ち込んでいた。
「可愛い娘の歌声を聴かせて、お母さんのご機嫌を取ってから連れて行くよ」
「秋葉さん、おまえのギター、うるさいって言ってなかったか?」
「お母さん、昔の人だからツンデレなんだよ」
「その理屈、よくわからんが……」
確かにツンデレが漫画やアニメで流行したのは昔の話らしいが。
晶穂はギターをアンプに繫がず、そのまま奏で始めた。
珍しく、しっとりとしたバラードを弾いている。
春太もその様子を見つつ、スマホを操作した。
「……フォルダに入ってたの、音声ファイルだ」
まさか、本当に俺への告白では──
春太は一瞬馬鹿なことを考えてしまい、慌ててその考えを振り払った。
「えーと、画像ファイルも一つ。番号が振ってあって、音声ファイルのほうが01だな」
「そっちを先に聴けってことだよね。遠慮せず聴いて」
春太はワイヤレスイヤホンを取り出して、耳につける。
最近は出先で動画を観たり音楽を聴くことも増えたので、奮発して購入したものだ。
晶穂の演奏もかすかに聞こえる中、「あー、あー」とマイクテストが耳に届いてきた。
『まずはこれを、春太くん一人で聞いてることを祈ります。もし晶穂も聞いてたら、どっかにどかせといてくれる?』
「…………」
晶穂の判断が正解だったようだ。
『最初に言っておきますが、私にとって春太くんは本当に大切な子だから。翠璃先輩のたった一人の子供で、真太郎さんの息子でもある。晶穂は別格として、君のためなら臓器の一つ二つはあげられるくらい、大事ですから』
「…………」
カノジョの母親からの愛が重い。
いや、晶穂は今はもうカノジョではないのだが──
『こういうの、少し照れます。大人になると恥ずかしいことって増えるのよね。恥ずかしいついでに、誰にも──翠璃先輩にも言えなかったことを、大切な君に告白します』
敬語が多いのは、照れているかららしい。
『変なこと聞かせてごめんなさい。私、月夜見秋葉には荒れてた時代がありました』
「え?」
春太は思わずつぶやいてしまったが、晶穂の演奏は止まっていない。
母が驚くような話をすることは、晶穂も予想済みなのだろう。
さらに、秋葉の話は続く。
『私が荒れたのは学生時代じゃなくて、大人になってからです。その頃には、翠璃先輩は結婚してました』
荒れていたというのは、春太にも事情は予想がつく。
自分の身体のこと、心臓のこと。
それに、親友である山吹──いや、その当時は〝桜羽翠璃〟だった人のこと。
その親友は結婚したあとも、病気で先がどうなるかわからない状態だった。
不安が山積みで、自分も親友も将来があるかすら定かではない──これで情緒不安定にならないほうがおかしい。
大人になったからといって、安定するとは限らないだろう。
『荒れてた私は、恥ずかしながら──いろんな男の人と付き合ってました。その経験から言わせてもらうと、春太くんは付き合う相手は一人にしたほうがいいわ』
「…………」
ごもっともです、と春太は頷く。
どうも周りに誘惑が多すぎるが、春太は交際相手を一人に絞ることに異論はない。
『その時期に、なんとなくだけれど──君のお父さんとも変なことになってしまいました。翠璃先輩にはっきり言ったことはないけど、あの人は気づいてたと思う。こういうのもなんだけど、翠璃さんがけしかけてくるところもあったくらいです。真太郎さんは人に言ったことはないけど、子供をほしがってたから。身体が弱くて、子供を産めない──そう思い込んでた翠璃先輩は他の人が産んでもいいから、真太郎さんの子供がほしいとまで思い詰めてたんです』
おそらく、このくだりは秋葉も相当に言いにくかったのだろう。
一気にまくし立てられて、春太はすぐには理解が追いつかなかった。
『私はその頃、体調は割と安定してて、だから荒れてたのかもしれません。荒れるのも体力がいるからね。だから、子供を産むこともできたのよ』
「おーおー、ウチの母ってばなにを語っちゃってるのかな? ハル、すんごい顔してるよ」
「……今からでも一緒に聞くか?」
春太は、茶々を入れてきた晶穂に心にもないことを言う。
晶穂は笑って首を横に振り、また演奏を再開する。
『ああ、前置きが長くなりました。結論から言います。晶穂が真太郎さんの娘なのか──実のところ、私にも確信がありません』
「…………っ!」
春太は思わず立ち上がりそうになって、かろうじて自制した。
それは話が違う──違いすぎる!
叫び出しそうになるのを、必死に抑え込まなければならなかった。
『といっても、もっとも可能性が高いのが真太郎さんであることも事実です。どういうことかまでは言いませんが、おそらく九割以上の確率で晶穂の父親は真太郎さんです』
「…………」
続けての説明で、春太はなんとか落ち着きを取り戻した。
俺と晶穂が実の兄妹じゃない可能性が、一割は存在する──
逆に言えばそういうことで、とんでもない話だ。
これまでのすべての話がひっくり返りかねない。
なにが、自分にとっての〝すべて〟なのか春太にも説明しきれないが……。
当時の秋葉の異性関係について詳しく解説されても困っていただろうから、この程度の説明で済ませてもらって、よかったのかもしれない。
『私にも真実はわかりません。真実を確かめる勇気がありませんでした。だけど、以前に約束したとおり、春太くんがDNA鑑定をするなら費用は私が出します』
そういえばそんな話も聞いた、と春太は思い出した。
DNA鑑定はけっこうな費用がかかるらしく、高校生がポンと出せる金額ではない。
考えてみれば、普通なら子供の父親が誰なのか母親は誰よりもよく知っている。
それでも、秋葉がDNA鑑定の話を持ち出してきたのは──春太に納得させるためでなく、自分でも真実がわからなかったからなのだ。
『私の部屋のドレッサーの一番下の引き出し。その上側にお金が入った封筒を貼りつけてあります。私がいないときにでも、勝手に持ち出してくれてかまいません』
「スパイじゃねぇんだから……」
隠し場所が意外すぎて、思わず春太はつぶやいてしまった。
『もし鑑定しないなら、そのお金で美味しい焼き肉でも食べてください』
「…………」
その封筒には、かなり豪華な焼き肉が楽しめる金額が入ってるだろう。
『それと、もう一つ画像があります。そちらも見てください』
春太は音声ファイルを再生させたまま、02の画像ファイルを開いた。
「お、おい……」
「ん?」
今度は、晶穂が反応した。
ギターを弾きながらも、きょとんとして春太を見ている。
『見てのとおり、赤ん坊の頃の春太くんと晶穂です』
そう──そこには、生後数ヶ月くらいの赤ん坊が二人写っていた。
『ご存じのとおり、結局は翠璃先輩も無事に子供を産むことができました。私より二ヶ月ほど早かったくらいです。翠璃先輩から春太くんが引き離されたのも知ってのとおりだけど……その前に、私たちはお互いの宝物を連れて会っていました』
そのときに撮った写真、ということらしい。
春太は青、晶穂は赤の肌着を着て、奇跡的なタイミングなのか──
顔を見合わせて、お互いに笑っていた。
まるで、自分たちが兄妹だとわかっているかのように。
『私も翠璃先輩も、君たちのその姿を見て本当の兄妹だって確信しました。君たちがどう思うかは──君たちに任せます。この写真は、晶穂に見せてもいいよ』
俺の母親も、晶穂の存在を認めていた──
いや、晶穂を可愛がってくれてたんだっけな。
春太は実の母のことを思い出し、ずっと幼い頃、物心がつくずっと前のことまで思い出しそうだった。
もちろん、生後数ヶ月の時期のことを思い出せるはずもないが──
赤ん坊の頃の晶穂との思い出が存在することは事実で、この写真が証明してくれている。
『以上です。春太くん、ここまで聴いてくれてありがとう。ついでに、この話は私の前では聴かなかったことにしてくださいね』
「…………」
このボイスを吹き込んだ時点では、秋葉はまだ自分が死ぬとは思っていなかった──
できることなら、春太は聴いたことを忘れられず、秋葉の前で不審な態度を取りたかった。
だが、それはもう決して叶わない願いだ──
「晶穂、ほら」
「なに、あたしに見せていいの──って、これもしかして?」
晶穂はギターを弾いていた手を止め、春太が掲げたスマホの画面を食い入るように見始めた。
すぐに、写っている赤ん坊が誰と誰なのか気づいたらしい。
「えー、あたしって赤ちゃんの頃から可愛すぎじゃん。ハルは赤子なのに小生意気さが隠しきれないね」
「小生意気な赤ん坊ってなんだよ……」
生意気さでは、春太は晶穂の足元にも及ばない。
「あたしが公園でハルを見かける前に、こっそり逢引きしてたわけか」
「逢引きする赤ん坊って相当イヤだな……」
「この頃から、ハルはお兄ちゃんだったってわけだね。ああ、雪季ちゃんにバレたら、なんだかんだで殺されそう」
「雪季をなんだと思ってるんだよ」
だが、春太と晶穂は雪季が生まれる前から兄妹だった──
「いや、翠璃さんは俺と雪季も本当の兄妹だって思ってたんだっけか」
「ふーん、ハルと雪季ちゃん、ハルとあたし、両方ともハル母公認の兄妹ってわけだね」
「変な話だが……そういうことだな」
山吹翠璃──いや、桜羽翠璃はふところが深い女性だったらしい。
自分が産んだ息子と、自分が産んだわけではない二人の女の子を兄妹だと認めていた──
そんな女性だからこそ、秋葉も親友として付き合っていたのかもしれない。
「ん? でもハル、お母さん、この写真を見せてなんだって?」
「…………」
秋葉の決して長くはないが、これまでのドタバタをすべてひっくり返す可能性すらある話。
これは晶穂にとっても重要な話だが、彼女が知るべきなのかどうか。
秋葉はその判断を春太に委ねた──いや、任せてくれたのだ。
少なくとも秋葉は春太を〝晶穂の兄〟だと思っていて、あとのことを託してくれたのだ。
まだ自分が間もなく世を去るとは思っていなかった頃の秋葉が、自分に託してくれた──
ならば、この答えだけは先延ばしにすることなく、秋葉のためにも今ここで決めなければならない。
「要するに、俺たちは生まれた頃からの兄妹だってことだ」
「……ふぅん。ま、確かにそうみたいだね」
春太は晶穂が頷いたのを見ると、スマホの画面を消してポケットにしまった。
「晶穂、焼き肉を食いに行こう」
「は? なにそれ、引っ越し祝い?」
「そんなトコだ。遠慮しなくていいぞ、晶穂」
「あたしが遠慮なんてするわけないじゃん。でも、急にどうしたわけ?」
「ああ、そうだ。秋葉さんのドレッサーって向こうに運んだよな?」
「え? あたしが使うって言ったじゃん。もし使わなくても、あれは持っていくよ。お母さんのお気に入りだったから」
「そうか」
だからこそ、秋葉はそのドレッサーをDNA鑑定の費用の隠し場所に選んだのだろう。
もしも自分の身になにかが起きても、晶穂が受け継いでくれるものだから。
春太は秋葉の遺志を知り、心を決めた。
秋葉の告白は、晶穂には隠したまま墓まで持っていくと。
俺は、晶穂を妹として守っていく──
その決意を翻すような〝可能性〟を信じる必要はないし、晶穂に伝える必要もない。
春太は覚悟とともに決意して──ふと、思いついた。
「〝harutahimitu〟か……」
「え? さっきからなに? なんか怪しいな、ハル」
「文句があるなら、思わせぶりなメッセージを遺した秋葉さんに言ってくれ」
「それはあたしも文句は言えないね。思わせぶりなトコこそ、お母さんから遺伝してるから」
「まったくだ」
散々、晶穂の思わせぶりなところに振り回された春太には、思うことがたくさんある。
秋葉が、圧縮フォルダにつけた名前──〝harutahimitu〟。
確かに、晶穂の出生の秘密は春太にとっての秘密でもあると言えなくもない。
春太と晶穂が実の兄妹なのか、という秘密に関わる話でもあるからだ。
ただ、このフォルダ名は──「春太くん、この話は秘密にしてね」という秋葉からのメッセージでもあったのではないか?
秋葉は春太に判断を委ねつつも、本当は──晶穂に黙っていてほしかったのではないか。
考えすぎかもしれないが、春太はそう思えてならなかった。
だったら、DNA鑑定の費用は焼き肉代にでもすればいいのだ。
そのほうが、春太も晶穂も幸せになれる。
秋葉も最愛の娘を兄である春太に託し、安心して眠れるだろう。
それは、疑いようのない真実だった──