「はー、やっぱシャバの空気はいいね。あたし、もう悪いことしないよ」
「ムショにいたのか、おまえは」
一週間後──
春太は晶穂とともに、星河総合病院の門を出て、道を歩き出した。
晶穂はおなじみのスカジャンにホットパンツ、厚手のストッキングという普段とまるで変わらない格好だ。
その晶穂の横を歩く春太は、彼女の大きなボストンバッグを持たされている。
「そこは〝お務めご苦労さまでした、姐さん〟じゃないの?」
「姐さんじゃなくて妹だろ」
野暮なツッコミだとわかってはいるが、春太はボケに付き合いきれない。
まだ、そんなに吞気でいられないのだ。
「もうー、ハルはノリ悪いなあ。それであたしと一緒にロックで世界に羽ばたけるの?」
「いつ世界進出が決まったんだ!?」
春太は晶穂のU Cube活動を手伝い、今は謎の長身ベーシスト〝ハウル〟として演奏にまで参加している。
ただ、一時的なサブメンバーであって、あくまでメインのメンバーは晶穂だったはずだ。
「ほら、あたしって身体弱いから。常に支えてくれる頼りになるお兄ちゃんがそばにいないと。ごほっごほっ」
「わざとらしく咳すんな」
晶穂の身体が弱いのは事実なので、強くツッコミづらい。
「いやでも、マジで外の空気は美味いわ。あたし、病院ってやっぱ苦手だって実感したよ」
「まあ、それはわかるが……ちゃんと通院はしろよ。俺も付き添うから」
「はいはい、あたしも死にたくないからね。やることはやるって」
晶穂は苦笑して、ひらひらと手を振っている。
あの山吹医師の言うとおり、晶穂の発作はごく軽いものだった。
本来なら、もっと早くに退院しても問題なかったらしい。
一週間の入院も、念には念を入れて長めに様子見をしてもらったのだ。
それが、春太からの山吹医師への頼み事──その一つだ。
「せっかく、U Cubeのチャンネル登録も伸びてきたんだし、ここで長期休業とかなったら最悪だからね」
「マジで伸びたな……しかも特になにもしてねぇタイミングで」
AKIHOチャンネルの登録者数は、先日までは一万をやっと超えたところだったが──
現在、既に三万を超えている。
「まあ、そういうもんだよ。いつどこで誰が伸びるか、誰にも予想できないんだよね。だから面白いんだけどさ」
「面白いが、先が読めないのは厄介だな。ただ、ここは間違いなくチャンスだ」
「そう、次の曲が一番大事だからね。『Lost Spring』、行くよ、ハル」
「あれ、やっぱやるんだな」
晶穂が入院する寸前に、完成した曲データを聴かせてもらっている。
元々は、春太の母と晶穂の母で組んでいた音楽ユニット〝LAST LEAF〟の曲で、晶穂がかなりのアレンジを加えている。
春太は初めて聴いたときに、この曲は大きくハネるだろうと予感した。
まだ仮で演奏したデータを聴いただけでもそう思えたのだから、晶穂が本気で演奏し、歌ったらどれほどの衝撃を生むことになるか……。
「あの曲の発表は小細工一切無し。ライブ演奏形式でアップするから」
「マジかよ。それって俺は……」
「もちろん、頑張ってね、お兄ちゃん」
「……都合のいいときだけ兄として頼ろうとしてないか、おまえ?」
春太が嫌そうに言うと、晶穂はニヤリと笑うだけでなにも答えなかった。
ただ、『Lost Spring』は二人の母が生み出した曲だ。
晶穂は、娘と息子である二人で演奏しなければならないと考えているし、春太も頷くしかなかった。
「っと、そろそろタクシー呼ぶか」
「え? ハル、タクシー使うつもりなの?」
「おまえ、病み上がりだろ。歩きたがると思ったから、少し散歩をサービスしただけだ」
春太は答えて、スマホアプリでタクシーを呼ぶ。
普段タクシーなど贅沢なものは使わないが、今日のためにアプリを入れておいたのだ。
「タクシーなんか使ったら、ハルのゲームショップでの一日のバイト料が吹き飛ぶんじゃない?」
「人のバイト先の安月給を把握すんな。心配いらない、父さんからタクシー代もらってる」
「えっ! ハルパパこそ安月給じゃないの!?」
「失礼だな! そのとおりだが!」
桜羽家はたいして裕福とは言えない。
持ち家である一軒家もごく慎ましいが、父にとっての精一杯なのだ。
「でもおっかしいな。ハルのお父さん、頭いいって聞いたのになんで稼ぎよくないの?」
「知らねぇよ。頭よけりゃいい仕事に就けるってもんでもないだろ」
そういえば、と春太は思い出す。
亡くなった晶穂の母が、春太の父は頭がキレると言っていたことを。
「まあ、ウチの父さんの頭のデキはともかく、気は遣うんだよ。ありがたくタクシー乗っとけ」
「はぁーい。ま、ハルには助けてもらったからね。しばらくは良い子にしてるよ」
「ずっと良い子にしててくれ」
「良い子ちゃんなあたしなんて、魅力もなんもないでしょ」
晶穂は思わせぶりに笑って、肘で春太の脇腹をつついてくる。
春太は不満げな顔をしてみせたが、実際に晶穂の言うとおりではあった。
素直で人に気を遣って、おとなしくしている晶穂など晶穂ではない。
「しばらくといえば、晶穂。おまえ、またしばらくウチに住まわせるからな」
「えっ」
晶穂は母を失ってから、一ヶ月近く桜羽家に居候していた。
だが、雪季の受験直前に晶穂は「曲作り」の名目で自宅アパートに戻ってしまい、流れでそのまま居候が解消されていた。
とはいえ、発作を起こして倒れ、入院までしてしまった今、晶穂をアパートに戻らせるわけにはいかない。
晶穂の義父は仕事の都合で海外にいることが多く、ほぼ一人暮らし状態になってしまう。
退院したばかりの晶穂を一人にできるはずがない。
「文句はナシだ、晶穂。良い子にしてるんだろ?」
「ちぇっ、余計なこと言ったかな」
晶穂は口を尖らせているが、逆らう気はないようだ。
とりあえず──
春太は、晶穂が一度は倒れたあとでも精神的には参っていないことを確認できただけでもよかった。
雪季の受験が終わり、春太の周囲も落ち着いてきている。
今は晶穂の世話を優先するべきだろう。
二〇分ほどでタクシーは桜羽家に到着。
「ただいまー」
と、晶穂が臆面もなく言って玄関のドアを開けるとともに。
「おかえりなさい、晶穂さぁーんっ!」
「うわっ!」
突然、晶穂に何者かが飛びつき、春太が倒れかけた晶穂を後ろで受け止めた。
「ふ、雪季ちゃん? びっくりした……!」
「あ、すみません、つい……」
雪季は、はっとなって晶穂から離れる。
厚手のセーターに膝丈のスカートという格好で、雪季にしては地味なコーディネートだ。
「私もお迎えに行くって言ったんですけど、お兄ちゃんが一人で充分だからって」
「そのとおりじゃない? 雪季ちゃんに荷物持ちはさせられないし」
「俺ならいいのかよ。いいけどな」
春太は苦笑して、とりあえず二人の背中を押して家の中に入る。
寒いので、早く室内であたたまりたかった。
「はー、やっぱ我が家はいいね」
「おまえん家だっけ?」
「第二の我が家だね。あ、雪季ちゃん。あったかいココアが飲みたいかも」
「お任せください!」
雪季は張り切って返事をすると、キッチンへと小走りに向かう。
「晶穂、人の妹をいいように使うなよ……」
「あたし、雪季ちゃんを妹みたいに感じてるって言ったじゃん。つか、ハル、やっぱ雪季ちゃんは妹でいいの?」
「……習慣っていうのはなかなか抜けないもんでな」
今でも時々、春太は普通に雪季を妹として扱ってしまう。
しかも、雪季のほうも気にしないので、余計に習慣があらたまりそうにない。
「でも、ずいぶん歓迎してくれたね。あたし、あの子のライバルじゃないの?」
「たぶん、そんなこと忘れてるんじゃないか?」
雪季が春太の妹になろうとしているのか、カノジョになろうとしているのか。
今は確実に後者に傾いていて、晶穂をライバル視してもおかしくはない。
未だに、晶穂は春太のカノジョであることは間違いないのだから。
「雪季はお人好しなんだよ」
「そうだったね。あたしも今はのんびりしとくか。怒ったら心臓によくないからね」
「……そうしてくれ」
晶穂は、春太と雪季が一線を越えたことを知って──
見たこともないほどの怒りを見せていた。
晶穂はクールで、怒りに限らず激しい感情を表すタイプでもないのに。
雪季が晶穂をライバル視することを忘れているように、晶穂も今はその一件は棚上げにしてくれているらしい。
「まあ、晶穂をウチで引き取るっつっても、世話をするのは雪季になるんだよな」
「あー、子供が犬とか猫とか飼いたいーっつっても、結局世話をするのはママ、みたいな?」
「自分を犬猫扱いすんな」
だが、実際そういう話でもある。
春太は家事が苦手だし、身内とはいえ異性の世話はやりづらい。
「別にいいんだよ、ハルは。いてくれるだけで」
「無能だってあきらめられてるみたいだな」
「動画編集やって、ベースの練習を毎日八時間やってくれたら文句はないよ」
「そりゃ文句ないだろうな!」
自由時間が根こそぎ奪われるほどの物量だ。
ただでさえ、春太はここしばらく愛するゲームをまったく遊べていないのに。
「お兄ちゃん、あまり大声出しちゃダメですよ。晶穂さんは病み上がりなんですから」
「……わかってるよ」
雪季がカップを三つ載せたトレイを手にリビングに戻ってきた。
「はい、どうぞ、晶穂さん」
「ありがと、雪季ちゃん。はー……美味しい。病院じゃ水かお茶しか飲めなくてさ。これこそ人間の飲み物だよ」
「あっ、いいんですか? ココアなんて飲んで?」
「いいから退院してきたんだよ。あ、でも、胃がちょっと小さくなってるから、食べ物は優しい味のものがいいかも」
「任せてください。薄味でどれだけ美味しくできるか──ふふ、燃えますね」
「…………」
春太は雪季がいいように使われていても、気にしないことにした。
雪季が本気で、料理に生き甲斐を感じているのも事実なのだから。
「冷蔵庫の中身、見てきますね。なにをつくりましょうか」
雪季はすぐにまたキッチンに戻り、冷蔵庫を開けてぶつぶつつぶやいている。
「ずいぶん張り切ってんな、雪季。晶穂が戻ってきたのが、よっぽど嬉しいのか」
「ハルはいいの?」
「ん? 雪季は料理好きだしな。いつもと違うメニューを考えるのが楽しいんじゃないか?」
「そうじゃなくてさ。もう、雪季ちゃんが雪風荘に引っ越すまで一ヶ月くらいでしょ?」
「……ああ」
雪季は無事に志望校に合格し、来たる春から高校に進学する。
ただ高校に進学するだけでなく、〝雪風荘〟という進学先の女子高の生徒たちが集まっているアパートに引っ越すのだ。
春太が認めたわけではないが、その話はもう動いているし、引っ越し業者の手配もしている。
「雪季ちゃんに家でご飯をつくってもらえるの、もう回数限られてんじゃん。あたしのメシなんかつくらせてていいの?」
「そんなケチくさいこと言うわけないだろ」
確かに、雪季とともにこの家で過ごせる時間はもう残り少ない。
だが、晶穂の世話より自分のことを優先するつもりは、春太にはなかった。
「変なこと心配してないで、晶穂にはやることがあるだろうが」
「あるね。『Lost Spring』の練習が最優先で、アレンジの詰めもしたいし、復帰配信もしないと。あ、ネイビーリーフでモデルもやらなきゃいけないんだっけ」
「ふざけんな、わかってんだろ」
春太は一度リビングを出て、自室へ行ってからまたリビングに戻ってきた。
「どうしたんです、お兄ちゃん?」
「どうしたの、お兄ちゃん?」
雪季も既にリビングに戻っていて、晶穂と並んで座っていた。
晶穂のお兄ちゃん呼ばわりはともかく──
「もう二月も下旬。晶穂、なにがあるか、わかってるな?」
「あ、バレンタインか! ごめん、ハルにチョコ渡せなかったね!」
「違ぇよ! 学年末試験だ!」
「ちぇっ」
やはり、晶穂もわかっていたらしく、つまらなそうに舌打ちする。
春太と晶穂が通う悠凜館高校は三学期制で、二月の終わりに学年末試験が行われる。
「あたしだけ免除にならないかな。病弱な薄幸の美少女だし。ごほっごほっ」
「だから、わざと咳すんな。義務教育じゃなくて、高校だぞ。テスト受けなかったら、事情があっても留年くらうからな?」
「血も涙もないね。昔は、もっと人情ってもんがあったよ。お醬油を切らしたらご近所に借りに行ったりしてね」
「いくつだ、おまえは。人情、関係ねぇし。とにかく、これを使って勉強しろ」
春太は、リビングのテーブルにノートを数冊どさどさと積んだ。
晶穂はそのうちの一冊を手に取る。
「うわ、テスト範囲の内容、全部まとまってるじゃん。これ、ハルがまとめてくれたの?」
「どうせ暇だからな。自分にも使えるんだから、まとめて損はないしな」
晶穂が入院していた一週間は、実際やることがなかった。
雪季の受験は落ち着いたし、動画編集したくても素材がない。
楽器の練習をするような気分でもなかった。
ならば、確実に晶穂の役に立つことをやろうと、必死に試験範囲の授業の内容をまとめていたのだ。
「うう……高校ってこんな難しいことするんですか。JKになりたいですけど、JKの勉強は嫌です……」
「おーい雪季、はっきり嫌って言うなよ」
雪季もノートをぺらぺらとめくりつつ、本気でうんざりした顔をしている。
彼女は大の勉強嫌いで、受験をなんとかクリアした今、勉強から遠ざかりたくて仕方ないらしい。
「大丈夫だよ、雪季ちゃん。悠凜館は小賢しい進学校だから難しいんだって」
「小賢しいって、おい」
「水流川女子は、悠凜館と比べればずっとレベル低いですもんね! 勉強しなくても卒業までこぎ着けられますか?」
「雪季もまだ入学もしてないのに、楽することばっか考えないように!」
「はぁい……」
素直な妹だが、勉強のことになると兄の言いつけでも若干逆らってくる。
「それに、ミナジョだってそんなレベル低くないだろ。ミナジョ卒業生の進学先見てみたが、ランク高い大学に進んでる人もいるぞ」
「……お兄ちゃん、私よりミナジョのこと知ってますね?」
「そ、そりゃ、雪季も透子も進むんだからな。つららさんにもちょっと聞いたし」
「ほー、この男、理由をつけて美少女と仲良くなるのが上手いんだからなー」
「お兄ちゃん、私を踏み台につららさんとお近づきに……?」
「違う違う! 面倒見がいいとか言ってくれ!」
本当に、春太は冬野つららに下心はない。
つららは派手なギャルで美人ではあるが、今さら周りに親しすぎる女子を増やすつもりはなかった。
「いいから勉強だ! 雪季、おまえも付き合うか? 勉強しとけば、ミナジョに入学してから楽になるぞ」
「あっ、ひーちゃんれーちゃんと遊ぶ予定が急にできました! 晶穂さん、晩ご飯は楽しみにしててくださいね!」
運動神経が悪いはずの雪季が、信じられない素早さでリビングから出て行った。
「先が思いやられるね。ハル、雪季ちゃんが引っ越したってあんたが面倒見なきゃダメなんじゃない?」
「……雪風荘は男子禁制だからな。家庭教師は無理そうだ」
雪季が引っ越すとして、その後の自分と雪季の関係がどうなるのか?
春太はまだ予想できていない。
そもそも、雪季がこの家を出て行くという話が、引っ越しが迫りつつある今でも現実だと思えていないのだ。
「でも、あたしも勉強は嫌だなあ。留年はロックだし、憧れるよね」
「憧れるなよ」
「冗談だよ。さすがに留年はかっこ悪い。このノート、ありがと。助かる」
「……有効活用してくれ」
晶穂に素直に礼を言われると、戸惑ってしまう。
クリスマスに晶穂の母が倒れて以来、彼女には立て続けに大きな事件が起きすぎている。
気弱になっているのでなければいいが、と春太は心配だった。
「勉強するなら、桜羽家にお世話になるのはいいかもね。それに……」
「ん? なんだ?」
「入院する前、ハルに『Lost Spring』の音源送ったよね? まだ持ってる?」
「ああ、もちろん」
その送られてきた『Lost Spring』の音源を聞いて、とある問題が解決されたことはまだ晶穂には言っていないが。
退院して生活が落ち着いてからでなければ、話せることではない。
「あの音源、聴かせたい人がいるんだけど。ハル、ちょっと頼まれてくれないかな?」
「…………?」
春太の父は、相変わらず帰りが遅い。
今日も帰宅は午後十一時を過ぎていた。ちなみに、出勤していったのは午前七時だ。
「お? なんだ、春太か」
リビングに入ってきた父は、ソファに座っている春太を見て軽く驚いている。
桜羽家の子供たちは、夜には自室に戻ることが多く、あまりリビングにはいない。
「雪季と晶穂はもう寝たよ。晶穂はずっと病院で早寝早起きだったから、眠いらしい。雪季も付き合って早寝だ」
「そうか、晶穂ちゃんはウチに来てくれたんだな。よかった」
父は一度リビングを出て一階の自室に行き、着ていたコートとスーツの上着だけ脱いでまた戻ってきた。
まだネクタイすら締めたままだ。
「父さん、メシは? 雪季がシャケ雑炊つくったんだけど、まだ残ってるぞ」
「ほう、それはいいな」
父が本気で嬉しそうな顔をする。
春太は、雪季がラップで封をしておいた丼をレンジであたためる。
そこに生卵を落とせば完成だ。
さすがに春太と雪季はそれだけでは足りなかったので、冷凍の餃子も食べたが、父は雑炊だけで充分らしい。
「いただきます。ん、美味い……薄味だがイケるな。雪季はなにをつくっても上手いな」
「晶穂も喜んで食ってたよ。病院食も美味いけど、アブラも塩も足りなかったってさ」
「その二つが満ち足りてたら病人にはよくないだろう。雪季の料理で喜んでくれたなら、よかったな」
そういう父も、嬉しそうに雑炊をぱくぱく食べている。
雪季の愛情が籠もった料理は、仕事で疲れた父の胃にも優しいようだ。
「俺の母親も──翠璃さんもよく入院してたんだろ? 酒が好きだったらしいが、病院じゃ吞めなくて辛かったんじゃないか?」
「なんだ、秋葉ちゃんから聞いたのか」
「……ああ」
春太は実の母を翠璃さんと呼ぶ。
「母さん」と呼ぶのは、育ての母である冬野白音だけだ。
そして春太の父は、秋葉をちゃん付けで呼んでいたらしい。
「そうだな、翠璃は酒が好きで、ビールでも日本酒でもワインでもウィスキーでもなんでも吞んでた。ただ、酒量は少なくて、ビールは缶一本、他の酒はナメる程度だったな。ツマミも豆腐やチーズ、野菜スティックなんかで塩辛いものは極力避けてた。あんな酒吞みは、後にも先にも見たことがないな」
「……大変だったんだな、翠璃さんは」
好きな酒も量は吞めず、ツマミも限られている。
春太は実の母の人生を垣間見てしまい、ぎゅっと胸が痛くなるのを感じた。
自分は健康にはまったく問題なく、頑丈すぎるくらいだ。
こんな自分に産んでくれたことを感謝するとともに、母に申し訳ないとも思う。
まるで、母の生命力を自分が吸い上げてしまったかのような──
「翠璃は、おまえと酒を吞む日を楽しみにしてたよ。まだ春太が赤ん坊だった頃の話だから、気が早すぎると思ったが……」
「……今度、翠璃さんの墓参りに行くときは酒を供えるよ。好きだった銘柄とか教えてくれ」
春太の言葉に、父は黙って頷いた。
いつか、自分が酒を吞める歳になったら母の写真の前で一杯吞もう。
春太は、そう決めつつ──本題を切り出すことにした。
「父さん。LAST LEAFの曲を晶穂に教えたのって、父さんだったんだな?」
「若い頃の記憶力というのはたいしたものだ」
父は、雑炊の最後の一口をぱくりと食べてから。
「あの頃、翠璃たちの演奏を耳で聴いただけなのに、今でもしっかり自分で演奏できたよ」
「まったく、いつの間に……」
「一月の終わりくらいだったかな。晶穂ちゃんが初めて私の部屋に来て、翠璃たちの曲を知っていたら教えてほしいと頼んできたんだ。頼まれなかったら、私もいつか忘れていたかもしれないな。彼女に受け継いでもらえて、秋葉ちゃんも喜んでいるんじゃないか」
「……父さん、これ聴いてくれ」
春太はポケットからスマホを取り出し、操作してテーブルの上に置く。
スマホのスピーカーから流れ出したのは、もちろん──『Lost Spring』。
父は無言のまま、目を閉じて曲を聴いていて──
「なるほど、晶穂ちゃんがアレンジするとこうなるのか。私がどうイジり回しても、こんな良い曲には仕上げられないだろうな」
「そりゃあ、おっさんとはセンスが違うだろ」
「言ってくれるな、春太」
はは、と父は苦笑して──
「やっぱり、晶穂ちゃんは秋葉ちゃんの娘だな。秋葉ちゃんはボーカルだったが、翠璃に習ってキーボードも弾けたんだ。晶穂ちゃんのギターはどことなく母親の演奏を感じさせるよ。ガムシャラで勢いがあって、それでいて繊細で──」
「…………」
春太は、父の肩がわずかに震えていることに気づいた。
未だに、春太は父と秋葉の間になにがあったのか知らない。
だが、浅からぬ関係であったことだけは間違いないだろう。
その秋葉は世を去り、ともに『Lost Spring』を奏でていた妻もとっくに亡くなっている。
この曲は、父にとってあまりに思い出が多すぎるのだろう──
「父さん。俺は、晶穂をこの家に引き取りたい。一時的な居候じゃなくて」
「……なんだ、唐突に」
「晶穂は元のアパートを離れたがらないが、一人にはしておけない。多少嫌がっても、あいつを引っ張ってこようと思ってる」
「だが、彼女の身体に問題があるからこそ、簡単に引き取るとは言えないぞ」
父の言うことは正論だった。
だからこそ、春太もできる手は打ってある。
「俺の──翠璃さんの親戚で医者がいる。星河病院で会ったんだよ」
「ああ……碧梧か?」
父も、元から親しかった山吹医師が星河総合病院に勤務していることは知っていたらしい。
「あいつとも長く会っていないがな。碧梧がどうかしたのか?」
「お願いして、晶穂のことでは特別に便宜を図ってもらえることになった。なにかあれば即入院できて、二十四時間いつでも相談に乗ってくれるらしい。連絡先も交換してきたよ」
そう、春太は晶穂のことでは母方の実家に全力で頼ることにしたのだ。
あくまで母は冬野白音と口で言っておきながら、実の母の家に頼るなど図々しいにもほどがある。
それがわかっていても、春太は晶穂のためにプライドや恥など捨てることに決めた。
「……甘いな、碧梧も。あいつは、翠璃のことを実の姉のように思ってたからな」
「そこにどっかりと乗っかることにした。晶穂を守れる態勢は固めておく。だから──」
晶穂を引き取るかどうか、決めるのは春太ではない。
大人で家主である、桜羽真太郎が決めることだ。
実の兄であろうと、口でなにを言おうと、春太はまだ未成年であり、社会的には晶穂の親族ですらない。
もしも晶穂になにか起きたら、責任を取るのは大人である父なのだ。
だから、春太はできる限りのことをして、あとは父の決断に委ねるほかない。
「そうだな、碧梧や山吹家の人たちは春太を特別扱いするだろう。おまえは、ただ一人の翠璃の忘れ形見だからな」
父も、山吹家の人たちのことは知っているらしい。
山吹翠璃とは幼なじみでもあったそうだから、当然のことではある。
「本来なら私からも山吹家に挨拶するべきだろうが、翠璃との離婚のときにいろいろあってな。私が間に入らないほうがいいだろう。春太、山吹家との交渉はできるか?」
「交渉ってほどのことができるかは……ただ、山吹先生と祖父祖母って人たちにお願いするしかない」
「ああ、それでいいだろう。碧梧も山吹の人たちも優しい。晶穂ちゃんのことは、あの人たちになら任せられる」
「そうか」
春太は、ぐっと拳を握り締めた。
もちろん、自分が血縁を利用して無理を通していることは理解している。
「こんなのズルいやり方なんだろうが、俺には他に晶穂のためにできることは……」
「ズルいこともやれるようになったのは、悪いことじゃない。おまえも大人になってるんだ、春太」
父は、うっすらと笑って──
「春太、他にもなにか言いたいこと、訊きたいことはあるか? こんなのは私も照れくさいんだが、せっかくの機会だ。父と息子の語らいというヤツを済ませておこう」
「…………」
春太は、こくりと頷く。
はっきり言われるまでもなく、父が言いたいことはわかった。
父は今夜、春太が言うことは受け入れると言ってくれたのだ。
もちろん、父と話しておきたいことなどいくらでもある。
ずっと先送りにしてきたことがいくつも──
ただし、今夜ここで語り合ったことは、古めかしいが〝男同士の秘密〟になるだろう。