第三章 捕らわれのオーフェン
闇の中にたったひとり。彼は浮かんでいた。
立っているのか座っているのかも自覚できない──体に感覚がない。指先になにかを感じているようでもあるし、背中がなにか生暖かいような気もする。かと思えば、たまらない寒さに震えたりもした。
と、目の前に、ぽうっと明かりが灯る──自分の身体は見えないというのに、その光の中に浮かぶ人影は、はっきりと認識できた。ひらひらと光になびく薄絹の衣装を着た、まだ子供と言って差し支えない少女──
彼女は、唐突に口を開いた。
《あなたがオーフェン、ですね……?》
…………
返事は、声に出せなかった。だが彼はこんな事態でも、ひどく落ち着いていた。
彼女が続ける。
《ごめんなさい……謝りたくて、あなたの心に語りかけています》
彼女の表情が、卑屈に歪む。それを見て、彼はいらだったが、なにも言い返すこともできなかった。
《ごめんなさい、ごめんなさい──わたし、あなたを襲わせてしまった……》
……よく分からない。自分は襲われたのだろうか。なにも覚えていない─というより、思い出すという行為ができなくなってしまったようだ。自分の名前さえ、分からない。思い出したいという欲求すら起こらない。
だが彼女は、それについてなにも説明してくれそうにはない。
《あなたがマジクを連れもどそうとしているのが分かったから、ドラゴンにあなたを襲わせてしまった……わたしには、誰も頼れる人がいないから》
…………
《彼をつれ去って欲しくなかった。それとも嫉妬したのかも。彼には助けが来たんだもの》
彼女の声は明瞭だったが、言っていることの意味はよく分からなかった。
《でもドラゴンが、あなたを廃人にしてしまうなんて思わなかったんです……》
ドラゴン──その言葉は、なんとなく煩わしい印象を自分に与えてくる。聞いただけで逃げ出したくなる。そんな感触だ。
《わたしにできる限りの力で、あなたを癒します。少し時間はかかるかもしれないけれど》
その言葉とともに、周囲の闇が少しずつ薄くなっていく。
《あと、マクドガルには逆らわないで。彼を殺さないで。彼がいるから、この村は──》
そのあとのせりふは、闇を壊していく光に紛れ、なにも聞こえなかった。
(……なんだ?)
ふと気が付くと、箱をひっくりかえしたみたいに大量の疑問が襲いかかってきた──質問する主は自分だし、自分に問いかけている。だから順番にあわてず答えればいいだろうとは思うのだが、質問は一向にとどまろうとしない。
ここはどこだ──?
俺は誰だ──?
痛むのはどこだ──?
息をしているのは、身体のどの部分だ──?
(くそっ……)
彼は、寝返りを打った。それだけの動作なのに、全身の力を振り絞らなければ動けない。左肩が痛むんだ、と彼は自覚した。負傷している。
(なにも思い出せない……いや?)
覚えていることもある。闇の中に現れた少女の姿──
なにかを恐れて卑屈になっているその眼差し──
彼は、目を開いた。暗い──が、光はある。うすぼんやりとした明かりは、どうやら彼の背後から射してきているらしい。彼は横向きに、壁に向かって寝ていた。壁は土壁で、彼が寝転んでいるのも地べたである。一瞬彼は、自分が洞窟かなにかに埋められたのかと思った。が──
「目覚めたようだな、魔術士」
声……が、自分を呼んでいる。ぼんやりとした記憶の中に、その声の主の顔が浮かんだ。自分に向かって発砲したマクドガルとかいう男だ。教祖とか名乗っていた。
彼は、また逆方向に寝返りを打った。
最初に視界に入ったのは、靴だった──マクドガルとかいう男の銃が、寝転ぶ彼の目の前にある。その汚れた登山靴の向こうには、またもう一組の靴がある。どうやら連れがいるらしい。靴のさらに向こうには、鉄格子が見えた──そして、うっすらと光の射す、曲がった階段。
それでだいたい、自分の置かれている状況が分かった。地下牢に閉じ込められているのだ。鉄格子の扉はわずかに開いて、その前に、マクドガルと、もうひとりの男がいる。ちらりと見上げて、その連れが、例の、自分にナイフを投げ付けた男だと分かった。帯剣しているのは相変わらずで、例のナイフも隠しているだろう──彼の左肩の傷には、もうナイフは刺さっていない。血を含んだ服が皮膚に張り付いて包帯の役目を果たしてくれていたようだが、それがなかったら失血死していたかもしれない。
(立てるか?)
彼は、自問した。多分、立てるだろう。が、今はそんな体力が残っていることは隠しておいたほうがいい。
マクドガルが、冷淡な目でこちらを見下ろしながら、口を開いた。
「名前を聞いておこうか、魔術士」
「…………」
彼は、なにも答えなかった──というより、答えられなかった。
(名前?)
思い出せない──頭が混乱して、なにひとつ。夢を見ていたんだ──
と、なにも言えずにいると、やがてマクドガルが嘆息した。
「だんまりか」
「そりゃ、進んで答えたくはないでしょうねえ」
顔の通り、にやけた返事をしたのは、剣を下げた男である。昨夜と同じ、ひどく乱雑なふうにレンジャージャケットを着ている。マクドガルが、そちらに聞いた。
「どういう意味だ? サルア」
どうやら、レンジャージャケットの男の名前らしい──サルア、と彼は胸に刻み付けた。
サルアとやらは、軽く肩をすくめて答えた。
「この男は《牙の塔》の紋章をつけています。黒魔術の最エリートですよ。それが無様に捕らわれたとあっちゃ、そりゃ名乗れんでしょう」
「ふん……しょせん魔術士だ」
マクドガルは、鼻で笑った。が──
(──《牙の塔》……)
その単語には、彼も胸に響くものがあった──そう。彼は人生のほとんどをそこで過ごしたのだ。
と──マクドガルが続ける。
「多少痛め付ければ、しゃべらんではいられんさ」
「拷問ですか? 魔術士に? 耐拷問の訓練も受けている連中ですよ」
サルアが言いながら、かぶりを振る。じろりと、マクドガルがにらみやった。
「誰がボスか、忘れたのではあるまいな?」
「まさか」
へっへっと笑いながら、サルア。
「あなたが心臓ですよ、この村のね──」
それを聞いて、マクドガルは満足したらしかった。うなずいて、こちらを向く。
「聞きたいのは、名前だけではないぞ、魔術士──お前を出迎えにいった村人は、どうなった? お前が殺したのか?」
殺す? その単語は馬鹿馬鹿しい。彼は思わず微苦笑をもらした。
──が、それは、マクドガルの気には召さなかったらしい。ほんの一瞬で、マクドガルの顔面がこわばるのが見えた。
「なにがおかしいっ!」
同時に、教祖の靴が、彼の顔面を打つ。
反撃しようと思えば、いくらでもできた──それこそ、足首を取って靱帯をねじ切ることだってできただろう。倒れた教祖の眼窩をかかとの角で踏み砕き、眼球ごと脳を破壊する。わざわざそんなことをしなくても、一言叫べば済むことだ──魔術の一撃で、この教祖はおろか、後ろに立っている男もこの世から抹消できる。
彼が師から教わった技術でならば、それはできたはずだ。が──
彼は地面の上から、黙ってマクドガルを見上げた。
マクドガルは、その沈黙を服従の意ととったらしい。静かな喜悦の光を双眸にたたえ、満足げな口調で言ってきた。
「わたしはマクドガル──そしてここは《偉大なる心臓》の聖地だ。世界の真理──心臓を探求する者たちの都だ。お前たちまがいものとは違う、真に強き力、本物の魔術を持つドラゴンに仕える戦士たちの故郷だ」
「…………」
彼はなにも言わない。サルアが、マクドガルの背後で肩をすくめるのが見えた。マクドガルは、ひとりで続けた。
「この場でお前を処刑するのはたやすい──が、それはしない。なぜ《牙の塔》の魔術士がこの村に現れたか、お前から聞き出さなければならない。お前の生徒も捕らえてある。どちらかが逃げ出せば、残ったほうを殺すぞ」
生徒?──思い出せない。が、そんなものもいたのかもしれない。
「今は休め──体力を回復させたら、それを後悔させてやる。麻酔なしで歯を抜かれたことがあるか?」
どうやら、それが捨てぜりふであるらしかった。勝ち誇った笑みを浮かべ、マクドガルはこちらに背を向けた。
マクドガルとサルアは出ていく。もうなにも言い残していかない。がちゃり、と扉に鍵がかかる。
彼は魔術で肩の創傷を癒し、再びそのまま眠りについた。小一時間ほど経ち、眠りから覚めたときには、もう記憶は回復していた。
「……なんでこんな部屋でひとりで暮らしてんの?」
その問いかけは、彼女を苦しめたようだった──窓から外を眺めていたフィエナの横顔に、小さな感情の皺が寄るのが見える。それそのものは一瞬で消えたが、その印象は、しばらく記憶に残りそうだった。
(今の彼女は巫女じゃない)
と、マジクは思った。
その彼女が、こちらを向く。着ているのはただの部屋着、白っぽい麻の上下である。彼女は、どこか恥じるように、
「わたしは、あまり人前に姿を見せてはいけないの……ぼろが出るといけないから」
「ぼろ?」
マジクが聞き返すと、フィエナは笑った──自嘲するように。
「わたしは、道具なのよ──この村の人たちをまとめるための。大事な儀式にだけ顔を出して、決められたとおりのことを言って、それで……奇跡を起こすの」
「奇跡……ぼくのケガを癒したみたいな?」
フィエナは答えなかった。そのまま、なにかを探すように部屋の中を見回す。
マジクもつられて、あたりを見回した──村の中心に建っている、教団の塔の最上階に、唯一ある部屋。地上十メートルの高さにあるだけあって、さほど広くはない。せいぜい、数歩で端から端までたどり着ける程度だ。塔そのものが木造のため、部屋の壁もすべてむき出しの板になっている。部屋の中には、集会場に声を伝える伝声管の据えられた台と、小さな丸テーブルに、たった一個の椅子、そして今マジクが横になっている簡素なベッドがあるだけだった。
マジク自身は、女物の寝間着を着せられて、ベッドの上で身動きとれずにいる──寝間着の下は、胴体に包帯を巻いてあった。マクドガルに撃たれた傷は、なぜか痛まないものの、まだふさがってはいない。彼女の話では、もう立って歩くくらいのことはできるだろうが、あまり無理はしないほうがいいとのことだった。
彼女が探していたものは、テーブルの上にあったらしい──彼女は木の丸テーブルに歩いていくと、その上に置いてある水差しとコップを取り上げた。コップの中に水を注ぎながら、口を開く。
「傷は痛まない?」
「え? うん……全然。身体を動かそうとすると、なんか筋肉が突っ張る感じだけど」
「まだ皮膚がつながってないからだと思うわ。お医者じゃないから、よく分からないけど。でも、やっぱり魔術士って身体が丈夫なのね」
「そうかな。まあ、お師様はむやみに頑丈だけどね……」
と言いかけて、ふと、その弟子である自分も、いずれあの人のようになるのだろうかと思いついてしまう──良いところも、悪いところも。マジクは身震いしてから、その危惧を忘れることにした。
「にしても、なんでぼく、こんなの着てるの?」
と、自分が着ている、だぶだぶのネグリジェのようなものを示す。コップの縁に口をつけながら、フィエナが、ようやくおもしろそうに笑うのが見えた。
「だって、あなたが女の子だってことにしておかないと、わたしの部屋で世話なんかできないじゃない」
「うう……まあ、そーいやそーだけど」
つぶやくように言いながら、マジクは胸中でうめいた。
(こんな格好、お師様に見られたら、どんなことになるやら……ましてや、クリーオウなら──)
そこまで考えて、蒼白になる。考えたくもない。
「それはそうと、この寝間着さ、誰のものなのかな」
マジクが聞くと、フィエナはあっさりと、
「食堂のラーザおばさんの」
「……まあ、世の中そんなもんだよな」
なんとなく悟った声で、口の中でマジクはつぶやいた。
と──
ばたんっ!
唐突に扉が開く。扉を開けたのは、厳しい顔をしたマクドガルだった。取り巻きも、サルアとかいう用心棒も連れていない。ひとりである。彼を見て、フィエナがびくりと身をすくませるのが見えた。
マクドガルが現れたのも唐突なら、口を開くのも唐突だった。ちらとこちらを見やってから、魔術士などまるっきり一顧だにしないという態度で、
「まだ準備をしていないのか、フィエナ」
「なにを……ですか?」
フィエナが、いつの間にか〝巫女〟の顔になっている──マジクは、ふと気づいた。これは、彼女の防御態勢なのだ。
マクドガルが、いらだたしげにほおを上げる。
「言っておいたはずだ──出立は近いとな」
「……はい」
フィエナがうなずく。マクドガルは、辛抱強く息をつきながら、
「昨日も言ったはずだ、お前には。一昨日もだ」
「わたしは──……です」
つぶやいた彼女のせりふは、マジクにはほとんど聞き取れなかった。だが、マクドガルには聞こえたのか──あるいは、最初から予想していたのか、眼差しに理解の色を浮かべている。