第一章 《森》の巫女
「ほい──これでラストだ」
そう言いながら無造作に彼が放った一撃を、ぺしんと鼻先に食らって、クリーオウが小さく悲鳴をあげてしりもちをつく。木漏れ日が細く差し込む、森の中である。数メートルはある巨木が頭を並べる足元──街道からさほど離れてはいないが、旅人に気取られる距離でもない。真夏も近づいてきた森の匂いは心地いいが、転んだことでクリーオウの表情に険しいものが走るのが見えた──確か、今彼女が着ている深紫のスエットも、丈が短いアスリートスパッツも、この前立ち寄った街で買ったばかりのものだ。
新品のスパッツが土で汚れたことに舌打ちしながら、クリーオウがこちらをにらみつけてくる──
だがオーフェンは軽く笑ってその視線を受け流した。年の頃二十歳ほどの、皮肉っぽい造作の黒魔術士である。黒髪、黒目、中肉中背と、ぱっと見たかぎりではさしたる特徴もない。全身、ほぼ黒ずくめという格好で、胸元には剣にからみついた一本脚のドラゴンの紋章が、銀製のペンダントになってかかっている。目付きは鋭い──というか、鋭い以上に険しくなっていて、やぶにらみと言っても差し支えない。
彼は手にした細い木の枝をぱちんとやりながら、得意げに続けた。
「賭けは俺の勝ちだったな──文句あるか?」
「ない……わよ」
クリーオウが苦々しく、喉の奥で同意してくる。十七歳。陽に映える金髪を腰まで伸ばした少女である。そのブロンドも、空の色を映したようなブルーの双眸も、大陸では最も一般的な貴族の特徴なのだが、彼女は別に貴族ではない。ただ、数代前の祖先の血に、貴族のものが混じったことがあるということを彼女は言っていたが。
刃にカバーを被せた細身の剣を鞘に収めて、スパッツの土を落としながら立ち上がる。クリーオウは、いらいらと口をとがらせた。
「もう、なんだってのよ! 納得いかないわ──」
「納得いかねえ、ってもよ」
彼は木の枝を適当に背後へ放り捨てながら、バンダナをしているこめかみのあたりをぐりぐりと手でこすった。
「勝負は勝負だぜ? 条件通りにな。十本勝負で、得物を相手の身体に触れさせたら一本──負けたほうは一回だけ、勝ったほうの言うことをなんでも聞く」
「ええ、そうよ──忘れてるわけないでしょ? たった今ストレート負けさせられたばかりなんだから!」
クリーオウが、じだんだ踏むようにスニーカーのつま先で地面を蹴った。
「わたしが言いたいのはね、実力が違いすぎるってこと! なんかヘンよ。一本くらい、わたしが取っても良さそうなもんじゃない?」
言いながら、彼女はこっちをにらみつけた。続ける。
「ねえ、オーフェン。わたし、これでもけっこう剣の扱いには自信がある──」
が、オーフェンはそれを遮って口を開いた。
「あのなあ」
と、呆れながら答える。
「学生レベルの剣術といっしょにするなよ。俺はこれでも《塔》の魔術士なんだぜ?」
言って彼は、胸元のペンダントを掲げてみせた。この翼を広げたドラゴンの紋章は、大陸魔術の最高峰《牙の塔》で黒魔術を学んだ者の証しである。言うなれば、最高の魔術士の証明だった。
「武器を用いた戦闘訓練から、逆に武器を持った相手に対しての護身法、反射的な状況判断の学習──ま、ほかにもあるが、だてに何年も勉強してたわけじゃねえんだ」
「ふうん……つまり、純心なわたしに対し、甘言を弄して負けるわけのない勝負に引きずり込み、不当な約束を盾に卑劣な目論みを達しようというわけね」
「なんか口のきき方があのボルカンの野郎に似てきたな、お前……」
オーフェンが半眼でつぶやくのを、クリーオウが舌を出して応えてくる。
嘆息しつつ、彼は続けた。
「だいたい、勝負をふっかけてきたのはそっちのほうだろ」
「分かったわよ」
クリーオウは吐き捨てた。スエットの胸を張って挑むように続ける。
「さあ──草むしりでも皿洗いでもやってあげるから、なんか言ってみなさい!」
「いや……別に、取り立てて用はねえけどよ。お前には」
というか、オーフェンにしてみれば、この少女に頼み事をするのは、どんな種類のものであれ乗り気ではなかった。その気配を感じ取ったのだろう──ぴくり、と少女の眉が疑わしげに動くのがうかがえた。
「なんか言い方が引っ掛かるわね。わたしにはなんも頼めない、って言いたいの?」
「ありていに言えば、そんなもんだ」
オーフェンはあっさり答えて、街道わきに停めておいた馬車のほうへと、きびすを返しかけた。と──素早く彼の行く手に、クリーオウが回り込んでくる。彼女はこちらの胸に細い指を突き付けて、非難するように口を開いた。
「どーいう意味!?」
聞かれて、ひくり、とほおの筋肉が引きつるのを、オーフェンは自覚した。
「どーいうもこーいうも、その通りだよ! ったく──まさか、この前、破れた俺のシャツ直しといてくれと頼んだときのこと、忘れたわけじゃねえだろうな!」
「な──なによ! あれは別にわたしが悪いわけじゃないでしょ──だいたい馬鹿にしてるわよ、女だから裁縫やらせとこうなんていう貧弱な男根支配的腐敗思想の──」
「ンな単語、どこで覚えてくるんだ! あれはお前が馬車ん中ですることなくて暇だとか騒いでたから、雑用頼んだだけだろ!? 議論をすり替えるなよ!」
「すり替えるつもりなんてないわよ!」
「ほぉう! じゃあ、とくと答えてもらおうか──なんでわざわざ服の当て布に、俺が一番大事に荷物の奥にしまっといたハンカチ使ったんだよ!」
それを聞いた瞬間、ぎくりとした表情でクリーオウが指を引っ込める。彼女はわずかに顔色を変えながら答えた。
「たまたま見つけたのよ!」
「嘘こけ!」
オーフェンは即座に叫んだ。当て布にされたのは手縫いのハンカチで、少年時代、姉のように慕っていた女魔術士から誕生日にもらったものである。ほかにいらない布切れならいくらでもあったというのに、わざわざ小ぎれいなハンカチを選んだことについては、クリーオウになんらかの底意があったに違いないとオーフェンはにらんでいた。
「ほかにも、風邪ひいて寝込んだマジクの看病頼んどいたら、枕元で水タライひっくりかえして毛布とシュラフ水浸しにしやがったろ! 図書館で本探しを頼んだ時には、いきなり『見つけた!』とか叫んだ次の瞬間にそのページ破って持ってきやがって!」
「ウチの学校の図書館じゃ、みんなそうしてたのよ! 悪い!?」
「きっぱりと悪いわっ! そうそう──食料の買い出しを頼んだときが一番ひどかったな! なんも買わんとわけの分からん行商人連れて帰ってきやがって、『このお嬢さんがお買い上げくださった品物の代金をお受け取りしたいのですが』──いったい全体なんのつもりで魔よけの便器なんて買ったんだよ!」
「あ──あれは一生に一度の過ちよ!」
「なにが一度だけだ! まだまだ似たようなストックは山ほどあるんだぞ! なあ──」
と、オーフェンは急にトーンを落として、クリーオウの肩をつかんだ。
「本当のことを言ってくれよ──わざとやってるんだろ? な?」
クリーオウがうろたえたような声を出す。
「そ、そんな目に涙まで浮かべて言わなくたって……」
「泣きたくもなるわい。なんで毎日毎日、こんなことで怒鳴りあわなけりゃならねえんだか……」
嘆息混じりに彼が言うと、クリーオウは悪びれた様子もなく、碧眼を閃かせた。ぴっと指を立てて、
「お互いを正しく理解しようとする者どうしは、しばしば正面衝突するもんだって、昔お父様が言ってたわ♥」
「そんな美しいものかっ! これがっ!」
と、両手をわななかせる。が、クリーオウはなんとかごまかそうとしているつもりか、目をそらしてぽんと手を打ってみせる。
「あ──そうそう。楽しい人生っていうのは、つまるところ楽しいやっかいごとのことだ、とも言ってたかな」
「俺は平穏な生活でそこそこ楽しむほうがいい……」
オーフェンは苦々しくつぶやいた。いつもの仕草で、クリーオウの金髪の頭にぺんと手を置く。こちらを見上げて、クリーオウが言った。
「まあまあ、そんな疲れた声を出さないでよ」
「誰のせいだ、誰の……」
「人の咎を証明するのには一生かかる──証明した瞬間、その相手に殺されることもしばしばあるしな、て言った三週間後に、お父様は死んじゃったのよね」
「もぉいい……お前の親父が生きているときに会えなかったのが心底残念だ」
オーフェンはほとんど毒づくようにして言い、クリーオウの頭からすとんと手を落とした。少女の背中を押しながら、街道のほうへとぼちぼち歩きだす。赦免の雰囲気を(勝手に)察したか、クリーオウがやけに機嫌のいい声を出した。
「落ち込まないでよ。最近、疲れがたまってるんじゃない?──そうだ! 賭けに負けたから、マッサージしてあげる」
「……お前が?」
「なによ。出血大サービスじゃない。嬉しくないの?」
「出血……今までのお前のパターンだと針でも使うとか……」
「う・れ・し・く・な・い・の!?」
双眸の光をすごませて、クリーオウが肩越しに振り返ってくる。オーフェンは彼女の顔を手で押しやった。
「あーはいはい。嬉しい嬉しい」
投げやりな口調で言ってから、ふと疑問に思う。彼はそこはかとなく不安を感じながら、少し前を歩く少女に聞いてみた。
「ところで……お前が勝ったら、俺になにを命令するつもりだったんだ?」
「ん? 別に、たいしたことじゃないんだけどね。わたしたちの馬車の中ってさ、ほら、殺風景でしょ? ぶっ潰し獣の頭の剥製とか作って飾れば、けっこーインテリアだな、とか思ったから。一頭ばかり獲ってきてもらおうと思って」
「……それでお前はマッサージか?──なぁんかギャップがねーか、それ……」
オーフェンはぐったりと声に出した。が、クリーオウは、そぉ? と、あっけらかんと言い返してくるだけである。なんにしろ、それ以上の自覚を彼女に求めるのは無駄なことだと、オーフェンははっきり悟っていた。
大陸最後の秘境──戦士たちの故郷《フェンリルの森》に、彼らはいる。