プロローグ
『強くなりなさい』
というのが、母親の遺言だった。
彼女が独りぼっちになったとき、贈られた言葉だった。
贈られたところで嬉しくもなかったし、その強くなる方法も、見当がつかなかった。
それが三年前のことだ。三年が過ぎて、彼女は森を走っていた。
森の中を走るのには根気がいる。そしてセンスを要する。
そのどちらも持っていないのならば、傷だらけになって走るしかない。彼女はほとんど喉を絞られるようにあえぎつつ、闇雲に前方へとひた走った。少し森の中にキノコ探しに立ち入るだけのつもりだったので、グリーンの開襟シャツとショートパンツという無防備な格好だったのだが、これがいけなかった。既に下草にひっかかれて、すねは血まみれになっているし、靴にも何本か木の枝が刺さり、そのうちのいくつかは足の皮を突き破っていた。真夏の森は草いきれに満ちて、あえぐ一呼吸にいちいちむせ返ってしまう。踏み潰した草の汁が噴き上がり、夏の木漏れ日に混じって輝いた──
見たかぎりではまだハイスクールにも達していないような少女で、森そのものには慣れていなくとも、辺境の農村で育った独自の野性味が感じられた。まだ子供じみた長さの手足は朴訥としていながら伸びやかで、競走馬というよりは農耕馬の輪郭だが、これを嫌うかどうかは見る者の趣味の問題だろう。ポニーテイルの黒髪を汗で湿らせて、ブラウンの双眸で前を見据えて走りつづける。瞬間──足がもつれた。が──
(止まれない──)
立ち止まりたくないわけではない。さっきから感じられる激しい動悸は、自分の身体の限界を伝えてきている。まぶたが腫れぼったく、眠気を覚えている。できればこのまま倒れたいくらいだ。
(止まれない──)
彼女はくりかえした。背後を振り返ってみるまでもなく、さっきから自分を追いかけてきている足音が聞こえている。いつも村の隅で三人でかたまっている。妙に背の高い少年たち──彼女を追いかけてきているのは、彼らだった。彼女が村の外れを歩いていたら、いつの間にか、後をつけられていた。こちらが走りはじめたら、走って追いかけてきた──
彼らに追いつかれたら具体的にどうなる、ということをはっきりと自覚していたわけではないのだが、男三人で少女ひとりを追い回す、という状況に潜む危険性は本能的に察していた。彼らは、なにも大声をあげて『止まれ』だの『待て』だのとは言わない。ただ、あきらめずに追いかけてくる。
ただどこか頭の隅っこ、冷静な一部分では、完全に理解しているところもあった──このまま走りつづけても、いつかは追いつかれる。追いつかれれば力つきて、もう抗えない。
走らなければならない──それは分かっている──が──
(もう駄目──)
彼女は胸中で悲鳴をあげた。
足は走りつづけているつもりだったのだが、突然、身体が地面に触れる。転んだらしい、と気づいたのは、顔面を木の根っこで痛打した瞬間だった。そのまま一回転するように、森の中を背中から転がる。
転んだ一瞬、どういった角度になったのか、追いかけてくる男の姿が見えたような気がした。猛烈な嫌悪感が身体を走るが、一度止まってしまうと、疲労しきった身体は動いてはくれない。肺が震える。痛みを覚えるほど。
(立ち上がらないと駄目──)
恐々と喉の奥でつぶやいて、彼女は地面になんとか肘を突こうとした──が、それすらもできない。
(逃げないと駄目だ──)
身体を引きずるようにして、少しでも前進しようとはした──が、それすらもできない──
その瞬間、彼女は足首をつかまれた。
「…………!」
振り仰ぐと、少年のひとりが、すぐそこにいる。彼女は反射的に右手の爪を少年の顔面に突き立てた。指先が、わずかならぬ強さで少年のにきび面をえぐる。が、痛みが走ったのは、むしろ少女の指先のほうだった。爪が折れたのだ。
少年はほとんど意に介さずに腕を伸ばしてきた。馬乗りに近い格好で、彼女のシャツの奥襟のあたりをつかむ。シャツのボタンのいくつかが弾ける音が聞こえた。
「母さん……!」
後々思ったところによれば月並みにも思える悲鳴をあげて、彼女は少年の腕に噛み付いた。ぎゃっと声をあげて、少年が腕を引っ込める。その隙に彼女は逃げ出そうとしたが、結局は、体重の勝る相手の下から抜け出すことはできなかった。
視界が涙でかすんだ──ふと見上げると、もうふたりの少年も、もうこちらに追いついてきている。彼女を見下ろして、肩で息を切らしていた。彼女に馬乗りになっている少年が、噛み付かれた痛みで癇癪を起こして、殴りつけようと拳を振り上げるのが見えた──
『強くなりなさい』
虚しいせりふが、遠くから聞こえる。死んだ母親の声で。
『ひとりで生きていかなければならないのだから──』
(無理よ!)
恐怖心から、彼女はそう叫びかえしていた。振り上げられた拳が視界の真ん中にそびえている。あれから逃れる手段はなにもない──
それでも彼女はその拳から逃れようと、頭を浮かした──そして、視界が真っ黒になる。
痛みは感じなかった。ただ一瞬の衝突に目を閉じて、浮かした頭が後頭部から地面に激突するのを最後に、彼女の意識は途切れた。頭の中がどうしようもなく、しびれてうずく。少年たちの悲鳴を、彼女は聞かなかった。割れた頭蓋から救いようのない出血をしながら、彼女は、そのまま呼吸を止め、身体を痙攣させた。
時間は、それほどかからなかったろうと思う。彼女は目を覚ました。
「…………?」
鈍い痛みが、脳髄に響く。起き上がって彼女は、自分の髪に触れた──頭も顔も服も、血でめちゃくちゃに汚れている。少年たちの姿はなかった。森の中に、ひとりで倒れていた。
がさ……
背後から、草の踏み分けられる音。ぎょっとして、彼女は振り向いた。そこには──森をふたつに分けるようにして、巨大な影がそびえ立っている。
少女は瞬間、それが神であると思った。
黒々とした毛並みは、艶やかに輝いて美しい。体線の描く滑らかな曲線は、なにやら女性的なものを少女に連想させた。
それは実のところ、獣だった。頭までの高さが三、四メートルはあるであろう、漆黒の毛並みを持った巨大な狼──あまりにも荘厳なその姿は、誰であろうと人間を魅了せずにはいない。そして厳かにすべてを見据える緑色の双眸。
少女はその獣の名前を知っていた。
「深淵の森狼──」
大陸最後の秘境──つまりこの森──キエサルヒマ大陸の二割を占める巨大な樹海に棲む、ドラゴン種族のひとつ……
《汝が名は?》
唐突に、彼女の頭の中にその問いかけは響いた。見上げると、ドラゴンがじっとこちらを見ている。我知らず、彼女は即答していた。
「フ──フィエナ。ソリチアン・ビレッジの……」
ドラゴンは構わずに続ける。
《汝は死んだ》
「え…………?」
フィエナは、聞き返した。だがドラゴンは気にもせず続ける。
《が、我が蘇生させた──》
「あなたが……助けてくれたの? わたしを──」
フィエナは、血で固まった襟元を手で押さえながら叫んだ。
《我は戦士の種族……大陸を護るために在る。そのためなら汝を生かしもするし、殺しもする》
「あの……わたし、ありがとうって言おうと──」
思ったのだが、どうも相手がそういった言葉を欲していそうには見えなかったので、彼女は言葉を飲み込んだ。ドラゴンは、ゆっくりと続ける。
《小さき頭の持ち主よ──我らは説明できぬ。理解せよ……生命を救うことには代償を求められる》
「…………」
《我は汝を必要としている。我の目となり、耳となることが、汝の義務となった。あまり時間は与えてやれぬ。迅速に理解せよ……》
フィエナには理解できなかった。だがドラゴンはもうそれ以上はなにも言わずに、その巨体で素早くきびすを返す。
ドラゴンは優美な姿を見せつけながら、ゆっくりとした足取りで去っていく。木漏れ日をかき分けながら、足音もなく進む姿は、伝説で言われているような戦士のドラゴンというよりは、死神のような印象のほうが強いと彼女は思った。漆黒の狼の姿が見えなくなっても、フィエナはまだ、ドラゴンの去ったほうを見つめていた。