「でも──」

 と、なにやら圧倒されたように少し退いていたヒリエッタが聞いてくる。

「なんでそんなことで、この娘もとにもどったわけ?」

「ああ。ま、あくまでただのすいそくだったんだが──」

 オーフェンは髪をき上げた。

「さっき、こいつの攻撃に俺が対応できなかったのは、なにも俺が勘を鈍らせてたってだけじゃねくてね。こいつ、呼吸をしてなかったんだ」

 と、しりもちをついた格好できょとんとこちらを見上げている少女を示す。オーフェンは肩をすくめて続けた。

「だから、なんて言うか……タイミングがつかめなくて、危うくやられるところだった。で、俺も昨夜、サミイの奴に取りかれかけてね──意識がもうろうとして、息ができなくなったのさ。多分サミイは、人間の肺の中に入り込んで、そこから脳を支配するんだ。奴の身体は気体──それも、ひようされる人間がちつそくしないところを見ると、酸素に近い物質なんだろうよ。かなり高密度の」

 彼がめくくると、床の上からクリーオウが険悪な声を発した。

「つまり推測で、わたしのこと殴ったわけ?」

 オーフェンは彼女をじろりとにらみやった。

「どうしろってんだよ。あのままほっとけってのか? クリーチャーが肺の中に取りいてたんだから、人工呼吸程度で吸い出してもらちがあかねえだろ。俺だってほかに方法があるんなら、そっちを試したよ。だから、ンなにムクれるなって」

 クリーオウは、しばしに落ちない表情を見せていたが、やがて思いついたように悪戯いたずらっぽい笑みを浮かべてみせた。

「後で、あざになったトコ見てくれるって約束したら、許してあげる」

「……お前な、五歳いつつ六歳むつつのガキじゃねえんだから……」

「でも──」

 と、割り込むようにヒリエッタが言った。

「サミイの正体が気体……酸素? だったとして、どうやって戦うつもりなの?」

「……簡単だよ。正体さえ分かっちまえば、奴を始末スタツブするのはひどく簡単だ」

 オーフェンはものげにぼやいた。ヒリエッタに向き直り、

「フォノゴロスはそれを知っていたから、助手だけじゃき足らず、自分──だか、自分のむすだか──までクリーチャーに改造したんだよ。サミイは失敗作だったんだ」

「…………」

 ヒリエッタは無言になり、深く吐息してあたりを見回した。なにかを探すように。

 オーフェンも同じように、嘆息した。

「さて、と──屋敷を出ようぜ。サミイを倒すのに、ちと準備が必要だ」

 言いながらオーフェンはクリーオウが起き上がるのに手を貸すと、ほこりだらけの彼女の背中をはたいてやった。クリーオウがる。

「そーよね。この家、埃っぽくて、やんなっちゃう」

「……ふたりとも、出ていくなら先に行っていてくれる?」

 ──というヒリエッタのせりふは、オーフェンはなかば予想していたから、驚かなかった。クリーオウはびっくりしているようだったが。オーフェンは、ああいいよ、とやすけ合いすると、クリーオウの肩に手を置いた。

「なあ、クリーオウ、頼みがあるんだが」

「……なあに?」

 クリーオウが、血のついたオーフェンの手から、少し嫌そうに身を退いているようだったが、オーフェンは気づかないふりをした。

「お前だけ先に行って、マジクを見つけて伝言して欲しいんだ」

「先に行って──って、オーフェンはどうするの?」

 クリーオウの問いに、彼は事もなげにヒリエッタのほうを示した。

「この屋敷にまだ、クリーチャー──ええと──ほれ、例のバケモンがまだ一体、残ってるんだ。そんな中を、ヒリエッタひとりでいさせたら危険だろ」

「…………」

 クリーオウが半眼でにらむのを、オーフェンは少し視線をそらして後を続けた。

「マジクを見つけたら、あいつに、この屋敷の周辺に油をまいて火をかけろっつってくれ。そんだけでいいから」

「火?」

 少女はすっとんきょうな声を張り上げた。

「この家を燃やしちゃったら、中にいるオーフェンたちはどうなっちゃうのよ」

「ちゃんと逃げるよ。心配すんなって」

 オーフェンは答えると、クリーオウの肩から手を放し、彼女の額をぽんと押した。クリーオウが面食らっているうちに、うながすように少女の細い肩をつかんで回れ右させる。向かせた先には、玄関出口があった。

「いいけど──」

 と、背中越しにクリーオウは恩着せがましい声を出した。

「あんまり不自然に遅いようだと、逃げ道がないくらい本格的に火をかけちゃうからね」

「なんなんだそりゃ……」

 オーフェンはうめきながら、彼女の背中を押した。一歩出て、そして立ち止まり──クリーオウはぽつりとした口調で聞いてきた。肩越しに振り向いて、

「ねえオーフェン、わたしって足手まといなのかな」

「まあ……おおむね足手まといだが……」

 オーフェンは、それを聞いた瞬間傷ついたようにゆがんだクリーオウの顔を見返しながら、

「いいんだよ。足手まといでな。俺みたいな奴は、お前とかマジクみたいな足手まとい……つうか、重しみたいなのがいねえと、どこに流されちまうか知れたもんじゃねえからな」

「…………?」

 クリーオウはどうも分からなかったらしく、へきがんに不理解の色を浮かべて見返してきている。やがて彼女は口を開いた。

「わたし、どうしても魔術士になれない? 絶対に無理?」

「無理だし、ならないほうがいい」

「……なんで?」

「どうも最近、俺は魔術士が嫌いになってきたみたいだ」

 クリーオウはそのあとは、なにも言わなかった。とっとっと、やや速足でホールを歩いていく少女の背中を見送りながら、オーフェンは、妙な気分でひとりごちていた。

「現金なもんだな」

「……そうね。あなたに『いいんだよ』って言われると、たいていなつとくしちゃうみたい」

 ヒリエッタが、からかうように同意する。オーフェンは、あえて彼女の勘違いを正しはしなかった。

 彼が言ったのは、クリーオウのことではなかった。自分のことだった。

(俺はキリランシェロに──戦闘芸術品と呼ばれた黒魔術士にもどったつもりだった。なのにクリーオウが生きていると知れば、いつの間にか、もとの金貸し魔術士になってたな)

 ま、そんなもんなんだろうけどな、と思いながら。

 

「……ここか?」

 と、オーフェンは腕組みして聞いた。二階の、少し奥まったところにある一室である。少々ぜまで、屋敷のほかの部分と同じく十年もの無人の扱いがうずたかくほこりを積もらせてはいたが、配置そのものはきちんと整えられているので息苦しさは感じない。窓はやはり内側から打ち付けられて真っ暗だったが、オーフェンの鬼火の光が中を照らし出していた。ほんだなに並んでいるのは、この郊外では手に入れるのに骨が折れただろう古い小説のたぐいと、空っぽのびん。机の上にはスタンドに入ったモノクロの写真がこちらを向いている。ベッドの上には、じんされたくまいぐるみが、まくらと並んで置いてあった。

「ええ。忘れ物があるのよ」

 ヒリエッタが、うなずいてすたすたと入っていく。彼女に続いて部屋に足を踏み入れながら、オーフェンは続けて聞いた。

「ここは、君の部屋か?」

「そうよ。ここに……ほら、あった」

 彼女が取り上げたのは、机の上に置いてあった、それなりに高価そうな日記帳ダイアリーだった。表紙からぱたぱたと埃を払いつつ、彼女はそのダイアリーを大事そうに胸にかかえた。

 オーフェンが興味を持ったのは、そのダイアリーの横に置いてあった、スタンドのほうだった──モノクロの古びた写真の中から、背の高い気の良さそうな若者と、心持ち緊張ぎみの少女がこちらを見つめてきている。少女は──一見して知れた。ヒリエッタだった。特に外見にさほどの変化があるわけでもないのに、今のはすっぱな印象が、写真のほうにはほとんど感じられない。どちらかというと、少々ヒネたごれいじようというところか。多分、それほど長くない髪をまとめた部分に花をえている、大きなリボンのせいだろうが。

 彼女と並んでいる若者は、少女の肩に手を載せて気楽に笑っていた。こちらも、外観はさほど変化していないというのに、今の印象からは掛け離れている──サミイだ、とオーフェンは気づいた。

「こっちの写真はいらないのか?」

「……いらないわ」

 ヒリエッタはあっさり言って、くるり──とこちらに顔を向けた。身体の線をぴったりとなぞるボディスーツの身体が、挑発するようにふらふら揺れている。

 彼女は一度皮肉るように唇をゆがめてから、言った。

「聞きたいことがあるんでしょう? わたしに」

「いや、別に」

 オーフェンはあっさりと肩をすくめた。体力が回復してから、左腕のケガもりようしてある。体調は万全というわけではないが、おおむね落ち着いていた。

「俺は、ようするに、君を見張りについてきたんだよ。なんとなく……ほっとくと、君は、この屋敷から出てこないんじゃねえかと思ってな」

「……どうして、そう思うわけ?」

「全焼するこの屋敷に居残って、サミイと心中するつもりなんじゃないか?」

 オーフェンの一言で、わずか──ほんのわずかだけ、彼女はほおをぴくりとさせた。

「別にそんなつもりはないわ。確かに、屋敷に火がかけられるまではここにいようと思ってたけど。でもそれは、彼の死にぎわを見送るのはわたしの義務だからよ」

「それは、彼を愛していたから?」

「……ええ」

「当時、たった十五だった少女が?」

「少女だったからこそ、かもね」

 彼女はダイアリーの表紙をなでて──そして、座るところを探すように視線をあちこちに投げると、ほこりだらけのベッドに腰を下ろした。そして、続ける。

「彼は、サミイは、わたしによくしてくれたわ──じようの知れない家出少女のわたしにね。このダイアリーは、わたしのたんじように彼がくれたものよ。それだけじゃないわ──この部屋にあるものはね、全部サミイが用意してくれたものなの。病死した妹の持ち物だったんだって、ちょっと無神経だな、とは思ったけど、妹さんのかただと思えばそれほど気にはならなかったわ。彼はわたしに読み書きも教えてくれたし──後見人になることを、フォノゴロスに頼みさえしてくれた。この屋敷に住まわせることもね。フォノゴロスは、それをしようだくしたわ……」

「サミイのがどうあれ、フォノゴロスにはフォノゴロスなりの意図があったんだろうよ」

 オーフェンは、多少の下心を込めてそう言った──ヒリエッタは案の定乗ってきた。いや、もともと自分から話したかったのかもしれない。彼女はそうぼうにそのまま怒りを見せて、言った。

「でなけりゃ、あのケチ野郎が縁もない人間を衣食住つきで世話してくれるもんですか」

「やっぱり、フォノゴロスは、サミイではなく君をクリーチャーの試験体にするつもりだったんだな?」

 それを聞いても、ヒリエッタは皮肉げな笑みを浮かべるだけだった。彼女はあいするようにダイアリーの表紙を指ででた。

「そうよ。常識で言って、いきなり自分の助手をせいにしようなんて考える奴はいないでしょうよ。その分だけ、自分の負担が増えるんだもの。もっとも、あのフォノゴロスに常識なんてものがあったかどうか知らないけど。なんだか分からないものにおびえて、ふるえて……そして、狂ってた。このスーツはね──」

 と、くろかわのスーツを手で示して、

「フォノゴロスの奴が、わたしのクリーチャーとしての表皮にするために造ったものなのよ。十五のときの身体に合わせてあるから、かなりサイズがきついけどね。これを見たとき、わたしは思ったわ。これを使えば魔術士を……フォノゴロスを殺せるって」

(まさかフォノゴロスをクリーチャーに改造したのは、ヒリエッタなんじゃねえだろな)

 オーフェンは思いついたが、聞かないことにした。代わりに、別なことを聞いた。

「君は結局、クリーチャーに改造されたのか?」

 彼の問いに、彼女は吹き出した。

「いいえ──ばいようそうにほうり込まれるってときに、すんでのところでサミイが救い出してくれたのよ。でもその代わり、わたしの身代わりになって、彼がその培養槽──って、さっきのとは別の地下室にあるんだけど──の中に入ってしまった。フォノゴロスはため息ひとつついて、予定が変わったとか言いながら、そのまま彼を改造したのよ」

 彼女は顔を上気させて、ベッドの縁をたたいた。

「わたしには、なにもできなかった──毎日毎日、培養槽の中でサミイがクリーチャーに変化していくのをながめるくらいしかね。彼が最後、人間でなくなる瞬間──彼はわたしに言ったのよ。ぼくを殺してくれって。その瞬間から──」

 と、彼女は薄寒い笑みを口の端に凍りつかせた。

「その瞬間から、彼は〝けん〟ヒリエッタのスポンサーになったのよ。わたしの、最初にして最後、ゆいいつのね」

「少し……思いめすぎなんじゃねえのか?」

 オーフェンが言うと、彼女は鼻で笑った。

「わたしを馬鹿にしないでちょうだい──ねんねじゃないのよ。そりゃね、サミイのことは、わたしにとってはしょせんはただの──そうね。初恋の思い出ってやつに過ぎないのよ。ただ、ちょっとばかりばつな方法で別離したってだけでね。この八年間で、ほかの男にれもしたわよ。でも、それでもわたしには、彼との約束を守る義務があると思ってるわ。彼は行き倒れになったわたしを助けてくれたし、わたしの命も救ってくれた。だからわたしは、何度も何度もサミイを殺してあげようとしたわ──でも、わたしにはどうしようもない。だから、この八年間ずっと、彼を殺せるほどの力を持った魔術士を探してまわったの。あなたが《塔》からしつそうしたとうわさで聞いたとき、思わずかんせいをあげちゃったわよ。あなたをさがし当てれば、必ずサミイにとどめをさしてくれると思った。その予想は外れてなかったわね。オストワルドなんて妙な奴まで利用してあなたを捜し当てて、それがぼねに終わったら笑えもしなかったでしょうけど」

「俺には……理解できかねるね」

 と、オーフェンは表情をきびしくしてうそをついた。そして聞いた。

「気になってるんだが……君を逃がしてから、サミイの姿が見えなくなってるんだ。クリーオウに取りいたのを別とすればね。奴は今どこにいるんだ? 君なら知ってるんじゃないか?」

「彼はこの屋敷にいるわよ。用がないときは、いつだってここのどこかにいるわ。もっとも、彼がどこかに隠れるつもりになったら、わたしたちには絶対に探し出せっこないけどね。どんなすきにだってもぐりこめるんだから」

「どうして、俺を襲いにこないんだろうな」

ごまだったクリーチャーをすべてあなたにつぶされて、混乱してるのよ。そんなことができる人間がいるわけないって思ってるから。さて、屋敷に火をかけるって言ってたわね。それでサミイが殺せるわけ? オーフェン」

 まるで、かたきにでも言うような調ちようだなと思いつつ、オーフェンは答えた。

「奴が屋敷中にひろがっているんなら、こうごうだよ」

 つぶやきながら、部屋の中の、内側から木板で打ち付けられた窓へと歩み寄り──こぶしで一撃して、窓をたたき開ける。ばんっ! と板がくだける音とともに、まぶしい光が暗い部屋の中にし込んできた。まだ昼下がりの、夕刻まで間を持つ刻限──

 そして開いた窓から、黒い煙が入り込んできた。

 煙を手で払いながら、オーフェンは言った。

「始まってるようだな。おっと──クリーオウの奴、マジクやボルカンにも頼んでたみたいだな。ボルカンの奴が火だるまになっているように見えるが……まあ毎度のことか」

「火で、サミイが殺せるの?」

 ヒリエッタが聞いてくる。オーフェンは、当たり前だろ、と答えた。

「奴の身体は気体で出来てるんだ。しかも性質が酸素に近い。モノが燃えるってーのは、ようするに酸素がほかの物質に化合する反応だからな。この屋敷は木造だし……熱せられれば、サミイはそこらの可燃性の物質に化合して封じ込められることになる。まんべんなくな。で、いずれは土にかえるだろ」

「…………」

 ヒリエッタは、ごくりとつばんだようだった。オーフェンは彼女に向き直り、告げた。

「屋敷の外へは、俺の魔術で脱出できる。サミイのさいを見届けたいってんなら止めないが、このままここに残れば、あと十分以内に君も死ぬぞ。言っとくが、俺まで付き合うつもりはねえからな」

 挑発のつもりで言ったのだが、ヒリエッタは小さくうなずいただけだった──そのまま、なにも答えてこない。もしかしたら、本当にこの場にとどまるつもりなのかもしれないと、なかば信じられない思いでオーフェンは悟った。

「ヒリエッタ──サミイは八年前に死んだんだよ。それをなつとくできないってんなら、百歩ゆずって、俺が殺すんだってことにしてもいい。君が負い目に感じる必要はないだろ」

「止めないんじゃなかったの? ああ、そうだ」

「……なんだよ」

「お礼を言おうと思っていたのよ」

「なんのだよ」

 オーフェンが聞くと、ヒリエッタは達観したようなしぐさで肩をすくめた。

「フォノゴロスからサミイのことを聞いたとき、あなた、怒ってくれたでしょう? すごくうれしかった」

「……あのなあ……」

 オーフェンは、ぐっとこぶしを握りながら、

「どうしてもここに残るってんなら──本当に止めねえからな。死にたがりにつける薬はねえんだよ──かける言葉も魔術もない。が、あくまで個人的な意見を言わせてもらうなら──」

「言わせてもらうなら?」

 聞き返されて、オーフェンは一瞬だけ言葉につまった。なにを言えばいいのか──

「あんたみたいなひとには、死んでもらいたくない」

 思わず真顔で、そう言っていた。と──

 ヒリエッタはのけぞり、大爆笑を始めた。仕方なくオーフェンは、ぜんとしたおもちで、えらくクサいことを言ってしまった自分を自責しつづけた。


 ◆◇◆◇◆


「はぁーっはっはっはあっ!」

 無意味に腕組みして、ボルカンのこうしようが燃え上がる屋敷を前に響き渡る。肩にかついだ旗には、やはりシーツにでかでかと書いたペンキの文字で『ボルカン商会のけんらんたる第三回大会──あさましい借金取りをかいぶつもろとも火責めにして幸せになろうね!』とある。

 得意げに、ボルカンは叫びつづけた。

「これだ! この瞬間を待っていたのだ、俺はっ!」

「…………」

 あからさまに『だいじようなのかコイツ』という表情で、コーゼンとかいう殺し屋がボルカンを見ている。ドーチンはたんそくまじりに兄を無視して、向こうで屋敷の周りを囲うように油をいているマジクや『商会』の子供たちのほうへ駆け寄っていった。

「ほらそこ! 火に近づいちゃって言ったでしょ! ロイド!」

 妙にぎわよく子供たちに指示を出しているクリーオウの後ろで、マジクがぼんやりしている。ドーチンは、くいくいと彼のシャツのすそをひっぱった。と、金髪の少年はくるりとしたひとみをこちらに向けた。

「なに?」

 ドーチンは、不安げに言った。

「いや……ええと、その……いーのかな、と思って。村の人たちに勝手に、こんな、家燃やしちゃったりして……」

「いいわけないと思うけど……」

 言いつつも、そうは思っていないようなあっけらかんとした表情で、マジクが答える。ドーチンはうめいた。

「どうしよう。兄さんじゃないけど、ここであの借金取りも燃やしておいて、全部の責任をひっかぶってもらおうか」

「こっそりと、けっこうひどいこと言うんだね……」

 マジクも少し手を休めて、ちらり、と火の手が回ってきた屋敷の屋根のほうを見上げた。

「おさまもなんか考えがあるんだろうし……ないかもしんないけど。ま、責任はとってくれるでしょ」

「無責任だなあ」

 とドーチンが言うと、マジクは心外だというように顔をしかめた。

「なに言ってるのさ。無責任なんじゃなくて、そーゆうのはすべてお師様に任せておこうという、実にリーズナブルかつフレキシブルな態度なんじゃないか」

「フレキシブル……?」

 疑わしげに聞き返すと、突然、背後で悲鳴があがった。兄の声である。

「うわぉぉぉぉぉぉっ?」

 ふりかえって見ると、さっき追いかけ回された報復か、子供たちが背中からボルカンに油をぶっかけたところだった。火の粉が飛んで、引火する──

「火だるまだねえ」

「だねえ」

 山火事から焼き出されたタヌキそのままの姿で、背中で燃える火から逃げようと無駄な努力をしているボルカンを見ながら、ドーチンとマジクはぼんやりとつぶやいた。

 なんだか、クリーオウもそれを見て騒いでいる。

「ああ! カウフマン、水持ってきて!」

「はい、姉ちゃん」

「えい! って、ああ! これは油じゃないのっ!」

 と──さらに火だるまになって狂乱状態のボルカンのわきを通り抜けて、コーゼンがこちらへと近づいてくる。殺し屋は戦闘服にあちこち血のあとをつけていたが、深手ではないようだった。コーゼンは、ドーチンにともマジクにともつかないあやふやな視線をこちらに投げ、話しかけてきた。

「もういいだろう。帰らせてもらうぞ」

「は、はあ……」

 と、マジク。そうに、

「でも、そもそもなんであなたが手伝ってくれたりしたんです?」

「…………」

 コーゼンは、一瞬無視したかに見えた。が、しばらくしてから口を開いた。

「いや、別にな」

 視線が、ちらりとクリーオウのほうをさまよっている。

 げ、とマジクがうめくのが聞こえた。

「あ、あの──クリーオウに気があるっていうんなら、やめたほうがいいですよ。断言しますけど、ロクなことありませんって」

「べ──別に、も近いのにあんなちちくさむすめに血迷う趣味はないっ!」

 りながらもえらくどうようした様子で、殺し屋が叫ぶ。ひょっとしたら、本当にぼしなのかもしれない──珍しいものでも見る心持ちで、ドーチンはそう思った。

 ドーチンはコーゼンを見上げて、言った。

「まあなんにしろ、行くんでしたらごきげんよう。ミスター・ウァイセツ」

せきえいのコーゼン、だ」

「そうだよ」

 と、マジクが横から口をはさむ。

「たとえ、なんの特技も特徴もないかげものの殺し屋にだって、さもしい自己主張くらいはあるんだから」

「……誰もそこまでは言ってないけど……」

 横目で恐る恐るコーゼンを見上げながら、ドーチンはマジクに言った。コーゼンは、もはやあきらめたのか、嘆息するとそのまま無言できびすを返していった。黙々と、燃える屋敷を後にする……

「ひょっとして……」

 マジクがぼやくのが聞こえる。

「あの人、影が薄いもんだから世をねて殺し屋になんかなったのかなあ」

(そんなわきゃないと思うけど)

 だがドーチンは答えずに、コーゼンの後ろ姿を見送った。本格的に燃えはじめた屋敷のくずれる音と、まだ火が消えずに暴れている兄のせいを後ろ耳にしながら。


 ◆◇◆◇◆


 彼に、人間としての感覚が残っていたわけではない──

 だから、苦痛というのは、別に感じなかった。思いつきすらしなかったほどだ。

 ただあるのは、自分が『はく』になっていくという感覚だった。彼のまわりでえたける炎が、彼の身体をうばっていく。

 奪われた彼の身体が、いったいどこに行ってしまうのか──それは分からない。

 ただ分かるのは、このままであれば彼のすべてが、どこかに行ってしまうということだった。自分の『すべて』がどこかに行ってしまえば、最期に残るのはなんなのだろうというばくぜんとした疑問が、彼の思考を支配していた。ひょっとして、残ったものこそ本当の『自分』だけなのでは。なにも残らないというのは、非現実的であるような気がしていた。なんにせよ炎は一時間ほどかけて木造の館を全焼させ、消えた。

 彼の身体は大部分が『どこかに行ってしまった』ようだったが、意識は消えていなかった。

 …………

「長い一日だったな。この村に来てから」

 というつぶやきが、聞こえてきた。何度か聞いた覚えのある声。そのうちの何度かは、彼に絶望的な恐怖すら与えたこともある声のような気がするのだが、よく覚えていない。なんだろう。フォノゴロスだろうか。フォノゴロスは、いったい何人いるのだろう、この世の中に。

「お礼はするつもりよ、オーフェン」

 こちらの声にも、聞き覚えはある──なぜだか、聞くと猛烈な悲しみに襲われる声。

「別に、ンなことを期待してたわけじゃねえさ」

えんりよすることはないんじゃない? にしても……あとかたもなく燃えたわね、この建物」

「古くてかんそうしてただろうしな……おっと」

「……どうしたの?」

「ほれ、あれさ」

「…………」

 声はどうやら、驚いて絶句したらしい──

「燃え残っちまったみたいだな、サミイ」

「でも……ほんのちょっとよ」

「再生する可能性がある……にしても、もうこの辺に可燃性のものなんざ残ってねえよな。みんな燃えちまった」

「いいえ……残っているわよ」

「って、おい? ヒリエッタ──」

 彼女は背中のファスナーを器用に下ろし、ボディスーツを一気にはだけさせると、空中をみじめにただよっている、ほんの一握りの黒い霧──彼の燃え残りを胸元に抱き寄せた。そしてそのまま、足元から、まだ真っ赤に焼けたままの金属の棒(元は火かき棒だったのだろう)を取り上げて、ためらいもせずに胸の谷間に押し付けた。

「ヒリエッタ!」

 と、彼女の後ろから悲鳴じみた声があがる。

 だが彼女には、それにかまっている余裕はなかった──彼には、自分がどうなっているのかすら自覚できなかったが、ともかくも、急速に自分と彼女の思考がごっちゃになりつつあるのだけは感じていた。彼の『視界』に、彼女の見ている光景がダブって混在する。その新たな視界の中で、燃える鉄棒が、彼女のを思い切りがしつけるのが見えた。全身からあぶらあせき出すのを感じた──彼女の感覚の中で。内臓にまで達する激痛で、もんぜつしそうになる。が、それよりも、ひどく単純なことしか彼──そして彼女は考えていなかった。

(これであなたのことは忘れない──)