◆◇◆◇◆


「……本当にここか? 商会員A」

「ハーシェルなんだけどな」

「なに?」

「だから、ぼくの名前。ハーシェル・ルイス」

 自分のことを指さしながらそう名乗る宿屋の子供──まあどうせ兄の頭の中では永遠に『商会員A』のままなのだろうが──を見返し、ボルカンはあんじよう、ふんと鼻を鳴らした。

「戦士に過去なぞいらん! 名前は捨てろ!」

(またいいかげんなことを……)

 ドーチンは嘆息まじりに考えたが、なにも言わなかった。無言のまま、兄の背負っているシーツのはたをちらと見やる。どこから調達してきたか知らないが、兄はまた新しいシーツにペンキで『ボルカン商会のちんをかけた第二回大会──な借金取りにあやまってみてだったらとにかく逃げようね!』とか書いて、それを肩に載せるようにかついでいる。と、ハーシェルが反論した。

「名前を捨てたら、なんて自己紹介すればいいのさ」

「当然、商会員Aだ」

 前に並ぶ五人の子供のひとりを、ぴしと指さして、ボルカンは言い切った。指さされた子供が、きょとんと言い返す。

「ぼくはウェスだよ。ハーシェルは──」

「あ、こっちか」

「ぼくはミケーレ……」

「じゃ、こっち」

「ランベルトだってば。覚えてよ」

「お前は?」

「トビー」

「ええい、ややこしい! なら、お前だっ!」

「ぼくだってカウフマンって立派な名前があるんだぞ」

「こなくそ──」

 意地になってまたほかの子供を目で探す兄のマントを、後ろからドーチンは、くいとひっぱった。

「なんだ?」

 ボルカンがふりかえる。ドーチンはつぶやくように言った。

「兄さん、名前の数、もう人数を越えてる」

「…………」

 兄はそれを聞いて、くうを見上げて少し考え込んだ──昼下がりから夕刻に近づきつつある空は、れいみ渡っている。風はここよく吹き抜け、鳥の声が響いていた。しばし待ってから、ようやく兄は気づいたようだった。子供たちに向き直り、

「お前ら! おちょくってやがんなっ!」

 ボルカンがなぐり掛かるように旗を振り上げると、ひゃーとか悲鳴をあげながら子供たちが四方へ逃げ出す。それを追い回す兄の背中を冷たい視線だけで追い、その場でとどまってドーチンは、彼ら『商会』を見下ろすようにたたずんでいる大きなしきを見上げた──

 眼前にあるのは、宿屋の子供ハーシェル──だかトビーだかカウフマンだか──がとして案内してくれた『幽霊屋敷』だった。まあ、少なくとも名前負けだけはしていないはいおくで、窓も内側から打ち付けられ、外から内部をうかがうこともできない。

 あの後、幽霊がじろとしているのはこの屋敷だという情報を兄が手に入れ(わざわざ聞き込まなくても見当がつきそうなものだろうとドーチンは思ったのだが、例によって口には出さないでおいた)、とりこになったクリーオウたちを幽霊からとりもどせば借金取りの怒りを招かずにすむはずと、ここまでやってきたのである。

 と──

「お前ら、たいがいにしとかんと、人生でさとり殺すぞ!」

 見ると、兄が商会員の最後のひとりを捕まえてあしにしているところだった(弱い者には強い兄だ)。ボルカンが、ぶんぶかと旗を振り回しながら続ける。

「いいか! この大会ミツシヨンには、俺の命運がかかってると言っても過言ではないんだぞ! あのクソ借金取りの怒りなんぞ、バーゲンセールしてよーが買うもんじゃねえんだ! あの非道野郎、いつだったか俺がちょいと肩をぶつけただけで時計塔から逆さ吊りにしやがったんだからな!」

 まあそれは本当だけど、とドーチンは胸中でつぶやいた。あれは実験助手のバイトをしていたときのことで、のうりゆうさんがなみなみ入ったタライなんぞ持ってるところを背中から押されたんだから、普通そのくらいは怒るだろうと思うんだけどな。

 そんなことを考えていると、突然、げんかんが開いた。幽霊屋敷の中から、ばたばたとあわただしく金髪の見習い魔術士──マジクが飛び出してくる。

「あれえ?」

 と、少年はこちらを見て声をあげた。

「なにやってんのさ。こんなところで」

「いや……なにって──」

 ドーチンは言葉をにごして、やはりきょとんと少年を見ている兄のほうを指さした。その指の先で、はたはたとシーツに書かれた青ペンキの文字がはためいている。

「ふうん……まあいいけど」

 はあはあと息を切らしながら、マジクはなつとくしたようだった。と、真っすぐにこちらに向き直り、

「ところでさ、ほら、ぼくより早く、例の女の人がここから出てこなかった?」

「女の人?」

「ええと……ヒリエッタとかいう、やたらアブない感じの。途中ではぐれちゃったんだ」

「さ、さあ……だれも出てきませんでしたけど」

 ドーチンがかぶりを振ると、マジクは目をくもらせた。

「参ったなあ……お師様にどやされるかも」

「あ。僕らと立場がおんなじですね」

 と、そんなことを言っていると──

 がしゃああああん!

 頭上から──窓ガラスと、そこにはめ込まれている木板がくだける音が響いた。見上げると、二階の窓が内側からたたきこわされたところだった。と、破られた窓の中からなにかが宙に身をおどらせ──

 そのまま落下してきた。ぼすん、とまるで捨てられたように無気力に、ひとりの人間が地面に激突する。けっこう体重がありそうなその身体は、いったんバウンドしてから、おそまきながら受け身を取って動きを止めた。

「あ──さっきの殺し屋!」

 ドーチンは指さして声をあげた。殺し屋──コーゼンとかいっていたその男は、顔面を恐怖にひきつらせ、ケガをした左肩を押さえてうずくまっている。ドーチンはあわててマジクのほうを見上げた。多分、今ここにいる中ではまだしも戦闘能力を持っているであろう少年は、なんとかじように身構えてはいる。子供たち──いや商会員たちか、まあどっちでもいい──は、五人集まって硬直している。兄はそもそも問題外だから見もしなかった。

 コーゼンはゆっくりと声を出した──文字通り、き出すように。

「なにモンだ、あの女……」

「へ?」

 ドーチンが声を発するが、コーゼンはそれきり、いきなりばたんと地面に倒れてしまった。倒れたまま動かない殺し屋を全員で見下ろして、ボルカン商会(プラス一)は、いつまでもそこにたたずんでいた。


 ◆◇◆◇◆


 ホールまで走る間にも、背後から次々とむちは放たれてきた──それを本能的にかわしながらオーフェンは、ただひたすら足だけは止めないよう走りつづけた。立ち止まれば──今もろうの左右で爆音にも近い破壊音をき散らしている鞭に捕らえられることになる。そうなれば、もう命はない。

 ホールへの入口にたどり着く──ホールの中は、二時間ほど前にこのやかたに入ってきたときと同じく、何事もなくたたずんでいた。もっとも、廊下から絶え間なく響いてくる『よろい』の足音は完全にせいじやくを壊していたが。オーフェンはホールを横切るように走ると、向こう傷の女神像の足元へと身を隠した。『鎧』の鞭を防げるほどの障害物はこれしかなかったし、それに──高さ四メートル近くある白亜の彫像は、なんとなく自分を守ってくれそうな気がしたのだ。

 女神像の陰から通路をじっと見て──ホールへと最初に飛び込んできたのは、『鎧』ではなく『蛇』だった。移動速度ではあの重そうなかつちゆうより勝るのだろう。ひようひようとした表情で、半蛇半人のクリーチャーはホールへと踏み込んで、キイと鳴き声をあげた。そして──迷いもせずにこちらへと向かってくる。

(くそ──きゆうかくまで蛇並かよ!)

 オーフェンは彫像の陰から跳び退くと、床に転がりながらじゆもんを叫んだ。

「我は見るこんとんの姫!」

 あたかも黒いドレスをまとった貴婦人が抱き着くように、影のような重力うずが『蛇』を打ち倒す。外傷を与えられない以上は、ごく純粋なパワーのほうが有効だった。『蛇』が吐き出すつもりだったらしい毒液が、射線をそらされてむなしく宙に散る。オーフェンはかんはつ入れず、倒れた『蛇』へと駆け寄っていった。

 クリーチャーに馬乗りになるようにして、蛇ののどもとに手を当てる。

「我は裂く大空の壁!」

 ずん! と、かまいたちが『蛇』の首を打った。悲鳴をあげて、『蛇』があぎとを開く──オーフェンはちゆうちよせず、そのこうがいに左こぶしを突っ込んだ。

「あばよ」

 つぶやいてから、さらに、叫ぶ。

「我は呼ぶ破裂の姉妹!」

 ──ほんの一瞬の出来事だった。『蛇』の身体がふくれ上がるようにねて、次いで、がんと言わずこうと言わず、身体中の穴という穴から体液と肉片がはじけ飛ぶ。衝撃波が、蛇の内臓をあらかた吹き飛ばしたのである。飛び散った返り血を右手で払いながら、彼は左拳を引っこ抜いた。いつもはめているかわグローブが、毒液のせいでぼろぼろに溶けている。毒がに回らないうちに、オーフェンはグローブを外して床に捨てた。

「まずは一匹──」

 もう動かない『蛇』から視線を外して、彼は通路の入口へと向き直った。ちょうど『鎧』がそこに姿を現している。黒の甲冑は、恋人を待ち受けるように両腕を広げて──

「なに?」

 オーフェンはうめいた。『鎧』の身体が、甲冑の真正面が、ばくんと音を立ててふたを開けたのだ。

 甲冑の中には、ただはがねつむいだものらしい黒いなわいくじようも、無数にからまりあって、人型のかたまりのように収まっている。ほかにはなにもない。そして──

 あっと思ったときには、その何十本もの鞭がすべて、こちらに向かって飛んでくる!

「くそっ!」

 オーフェンはするように言うと、『蛇』の死体を引っつかんで『鎧』のほうに放り投げた。無数の鞭が、内臓を失い軽くなった『蛇』の死体をばちばちと打つ。がんきような蛇の皮膚は裂けはしなかったが、死体は跳ね飛ばされてホールの向こうまで弾き飛ばされていった。

 だがそのすきに、オーフェンもその場から移動している。甲冑をはだけた『鎧』の上半身に向けて右手を突き出し、

「我は放つ光の白刃!」

 放たれた光熱波が『鎧』を打ちすえる。装甲のない、鞭だけの胸をねらったのだが、どのみち同じことのようだった──『鎧』は何事もなかったように、また起き上がろうとしている。『蛇』にはまだしも内臓があったが、こちらの甲冑には中身すらがない。

(となると、あいつを倒すには甲冑そのものを徹底的にたたきつぶすしかねえってのかよ)

 それは必ずしも不可能なことではなかったが──

 どうの収まろうとしない心臓を抱えるようにして、オーフェンは再び女神像の陰にもぐりこんだ。上気した顔を、とめどない汗がしたたる。息も完全にあがっていた。

(体力がもう限界だ──こんなに立て続けに魔術を使ったことなんかねえからな)

 こうなると、もうこれ以上な攻撃などできない。あと一撃か二撃で確実に倒さなければ、こちらの体力がきてしまう。

 息を切らせてそうつぶやき、オーフェンは女神像の、純白なローブのすそあたりに手をついた。と──

「──しまった!」

 女神像の中からとうとつに現れたケンクリムの『手』が、女神像にれていたオーフェンの左腕をしっかりとつかんでいる。むっちりとした指に何本もくくりつけられたナイフの刃が、ぶつりと彼の肉に食い込んだ。見る見るうちに傷口から血がき出し、腕中を真っ赤にめる。『手』は意外とも思える怪力で、彼の腕を引っ張った──まるで、像の中に引きずり込もうとするように。

 オーフェンは激痛はとりあえず無視して、空いている右手で『手』の指をつかんだ。左腕をもぎ取られまいと必死に抵抗するのだが、『手』は決して力をゆるめようとはしないし、いくらこっちが力を入れてもびくともしない。それに──

 と、オーフェンは横目で『鎧』のほうを見やってしようそうにかられた。『鎧』はもうすでに起き上がって、こちらに向き直ろうとしている。この状態では、あの鞭はかわせない。

(やるしかねえ──)

 オーフェンは決断すると『手』の指をしっかりと握りなおし、絶叫にも近い声を張り上げた。

「我は踊る──」

『鎧』の胸が、また開く。

「我は踊る天のろうかく!」

 視界が、ゆがむ──

 転移の魔術が発動し、次の瞬間にはオーフェンはホールの天井近くへと出現していた。ここまでの長距離──十メートル近い距離を転移することは容易ではない。実際オーフェンも、今まで成功した覚えがなかった。床まで数メートル見下ろして、不安定な落下感にえながら、ともに転移したはずの『手』を見やる。

『手』はまだ彼の左腕にがっしと食い込んでいた。やたら毛深い人間の手首──あるいは、毛をカットされたるいじんえんの手首のようにも見えるそれは、二の腕のあたりでぶつ切りにされている。切られたところから三本ほどの太いチューブが五十センチほど伸びており、それが、空中でぶらぶらと揺れている拳大の『脳』のイミテーションに直結している。それが、この『手』──ケンクリムのすべてだった。

 恐らくは転移の魔術の応用で、壁や地面から突如として出現してくるのだろうが……

 だが、この空中でならば逃げ道はない。オーフェンは落下する中で『手』の『脳』をわしづかみにし、それをチューブから引っこ抜いた。ごくんと一度だけけいれんし、『手』から力が抜ける。その『手』の指はそのまますっぽ抜けて、オーフェンの左腕から外れた。

 そうしているうちにも、落下は続く──およそ、天井に出現してから一秒とってはいなかったろうが、真下には女神像の頭と、その足元できょろきょろしている『鎧』が見えた。落下しながら女神像の頭に飛びつき、オーフェンは身体の中に残った活力のすべてをふりしぼり、叫んだ。

いてくれよ──)

「我は放つ光の白刃!」

 光を放つ光熱波は、『鎧』ではなく女神像の足元へと突き刺さった──同時、彫像の足元が爆裂し、静かなる女神、沈黙の女神がゆっくりとかたむきはじめる──

 オーフェンは女神像の頭につかまったまま、ふりこのように身体を震わせて、像がそのまま『鎧』の真上に倒れるようにと勢いをつけた。あまり意味はなかったろうが──女神像は三トン近くはあるだろうから──、どちらにしろ、彫像はいまだこちらの姿を探しているしつこくかつちゆうの上に落下していった。

 オーフェンも投げ出されるように床に落下して、ひどく咳き込んだ。衝撃でろつこつくらいは折れたかもしれない。だが、見上げるに『鎧』は、床に横倒しになった女神像の下で、もう姿も見えなくなっていた。もうもうと舞い上がったほこりの中で、オーフェンは肩で息をしながら、胸中でつぶやいた。

(これで──あと一匹──いや、ひとり、か……)

 だがサミイは、さっきから姿を見せていない。サミイが姿を現していて、四対一であったなら、こちらに勝機はなかっただろう。

(なにかねらいでもあんのか……まともな思考力もねえくせに……?)

 もっとも、フォロノゴスは戦闘生物としてクリーチャーを造り出したのだ──戦闘に関することならば、案外とりんおうへんな対応をこなせる可能性はある。

 しばらくして、なんとかどうもおさまると、オーフェンは立ち上がった。女神像も倒壊し、見るべきところはなにもなくなってしまったホールを見回す。

 と──

 ホールの隅の暗がりから、そっと足を踏み出してくる人影があるのに気づいた。その向こうにはオーフェンが駆け込んできたのとは別の通路が続いている。どうやら人影はずっと、その通路の入口のところで身をひそめていたらしかった。ほっそりとした長身の人影は、長い黒髪をぱらぱらと揺らしながら、ぱちぱちと気のないはくしゆをこちらに送ってきた。

 オーフェンはつぶやくように声に出した。

「……マジクの奴はどうした?」

「外に逃がしておいたわよ。その後わたしが引き返してきたのは、わたしの勝手でしょ?」

 人影──ヒリエッタが、うすい笑みを浮かべてそう答える。

「ま、そりゃ勝手だがね」

 オーフェンはいらだたしげに額の汗をぬぐった。

「それで、ものかげに隠れて高みの見物か?」

「いよいよ危なくなったらすけしようと思っていたんだけど──」

 と、彼女は横倒しになった女神像に視線をやって、くすっと笑った。

「その必要もなかったみたいだし」

「ずいぶんとごげんだな」

 オーフェンは傷ついた左腕をかばうように右手で触れながら、血の感触にぞっとしていた。傷は思ったより深くはないのだが、出血のせいで感覚がマヒしはじめている。できれば魔術でさせてしまいたいところだったが、まだそれほどには体力が回復していない。

 ヒリエッタはこちらに近寄りながら、肩をすくめた。

「読みが当たったから……ね」

「読み?」

 オーフェンが聞き返すと彼女は、

「ええ。やっぱりあなたは最高の魔術士だわ。大陸でも有数の」

「……だから、なんだってんだ」

 オーフェンはき捨てた。

「第一、クリーチャーはまだ全部処理できたわけじゃねえんだぞ。さっきからサミイの奴の姿がないってのに、俺はもうほとんど力を使い果たして──」

 と、言いかけた瞬間……

 キイ、と小さな音が聞こえた。

 扉がきしみながら開く音──そして再び、ばたんと閉じる。コツ、コツ……と軽い足音が続き──オーフェンは黙して耳をそばだてた。音は、ホールのすぐ上、二階のテラスから聞こえてくる、鬼火の明かりは、そこまではとどいていない。彼はちらり、とヒリエッタの姿を見やった。彼女もその音には気づいているようだが、動じずじように腕組みなどしている。

 オーフェンはうめくように聞いた。

「サミイなら……足音なんて立てるわけねえな。ほかにもまだクリーチャーがいるのか?」

 だとしたら、もう勝てない──とオーフェンは胸中で付け足した。

 ヒリエッタはかぶりを振った。そして、しごく落ち着いた様子で口を開いた。

「サミイが最高のクリーチャーである理由が分かる?」

「……なんだと?」

 オーフェンは聞き返したが、彼女は気にもせずに勝手に答えた。

「どこにでも突然出現して、しかもこちらからの攻撃は一切効かない……でもこんな程度のことならね、アクセルやキキュイーム、それにケンクリムにだってできることなの。サミイの本当の能力はね、本来ならせいぎよ不能だったクリーチャーをすべて支配下に置けること……」

「つまり──」

 オーフェンはがくぜんとしながらうながした。彼女はこくんとうなずいて、ももさやから短剣を抜いた。

「サミイは──どんな方法か知らないけど──いかなる生物にもひようして、支配することができるわけ。あの子──マジクとかいう子は、なんて言ったかしら。あのおじようちゃんが死んだ、だったっけ?」

 その瞬間、足音が止まった。

 見上げる──と、鬼火の明かりにぎりぎり入るところ──テラスへと続く階段の一番上のところに、金髪の小柄な少女が棒立ちになっている。

 オーフェンは、意識が、ぐらりと揺れるのを感じた。

「クリーオウ?」

 階段の上からこちらを見下ろしているのは、まぎれもないクリーオウだった、右手には、どこで見つけたのか、細身の軍刀を下げている。少女の金髪は細やかに揺れていた。風のないおくないだが、さっきまでオーフェンがさんざ魔術を連発したせいで空気が熱され、軽い気流が起こっているのだ。貴族の血が混じった線の細い造作は、ひどく静かにこおりついていた。目の中の光も消えている。起きながら眠っているように、彼女はうつろに視線をこちらまで伸ばしていた。彼女の着ているシャツにも、オーフェンは見覚えがあった。確か、前にマジクが着ていたやつだ。

 間違いない──間違いなくクリーオウ本人だが──

 ヒリエッタが、ぽつりとつぶやく。

「言うまでもないことだと思うけど──彼女は生きてるわよ。勢いあまって傷つけたりしないほうがいいでしょうね」

「当たり前だ──」

 オーフェンはヒリエッタのほうに顔を向けて言いかけた。そして──

 とんっ、と軽い音を立てて着地してきた気配にりつぜんとした。ぱっと向き直ると、ほんの数センチほどしかない目の前に、抜き身の剣を片手にしているクリーオウが立っている。

(階段の上から──飛び降りてきただと?)

 反射的に後ろに跳んで逃げようとする──クリーオウの振り上げた剣が、恐ろしく素早く、銀のこうせきを残しながらこちらの後を追ってきた。切っ先は空を切り、オーフェンはぎりぎりかわしたものの、クリーオウはすぐさま下段から剣を跳ね上げ、今度は耳のつけねあたりをねらってくる。

 身をかがめて──というよりはほとんどつまずくようにして、オーフェンはけた。耳の近くをかすめた風切り音が、まくに鈍い痛みを残す。熱に浮かされた夢の視界のように、妙にゆったりとした光景の中で、クリーオウがすきなくまた刃をひらめかせるのが見えた──

られる!)

 オーフェンは悲鳴をあげるように胸中で叫んだ。これで相手がクリーオウでなければ、右手で敵の眼球でも突いていただろうが──

 と、その瞬間、クリーオウが消えた。

 気が付くと、少し離れたところで少女は横倒しになっている。見ると、ヒリエッタが横から少女をたおしたらしい。

だいじよう?」

 ヒリエッタが聞いてくる。オーフェンは倒れたまま動こうとしないクリーオウをこわごわとのぞき込みながら答えた。

「ああ。助かった。すまない」

 と、クリーオウの手から剣を取り上げる。クリーオウの手は冷たかった。

 ヒリエッタが、ため息まじりに言った。短剣をさやに収めながら、

「あんたってのもおひとしね。自分が殺されそうになっても反撃できないわけ?」

「たまに、反射的な行動を忘れるんだ」

 オーフェンは毒づくように言って、剣を二階のテラスの上まで放り投げた。

「《塔》にいた頃と違って、毎日毎日戦闘訓練しているわけじゃねえし……それに、そもそも基本的にはそんなもの──対人の戦闘法なんてものは必要のない生活をしているわけだからな。どうしたってかんにぶる。五年前は伝説のキリランシェロだったかもしれんが、今じゃホントにただの金貸しに過ぎないのさ」

 からあん、と、剣がテラスの床に跳ねる音が響く。オーフェンはにやりとした。

「終了のゴングだ……ところで、ヒリエッタ」

「なに?」

「サミイの正体が分かったぞ」

「え?」

 驚いたように声をあげるヒリエッタを無視して、オーフェンはクリーオウの身体を起き上がらせた。医者がするように、軽くしゆとうで試すようにぽんぽんと彼女の腹をたたいていき──動きを止める。

「ここか」

 オーフェンはつぶやくと、大きく腕をふりあげ、見当をつけた位置にたたきつける!

「────!」

 声にならない悲鳴をあげたのは、当のクリーオウだった。それまでぐったりとしていた身体を二つ折りにして、ぐるんと横転し、オーフェンの腕の中から転げ落ちる──とたん、彼女はき込みはじめた。大きく息をつこうとしながら、息ができず、あえぐように転げ回る。オーフェンは実験者のまなしで彼女を見下ろしながら、冷や汗をかいた。ちょっと強く打ち過ぎたかもしれない。

 咳き込むクリーオウの顔のあたりから、黒っぽいきりただよいでてきた──サミイと同じ、やみそのもののようなうずく霧。霧はすぐ空気にまぎれ、薄れて消えたが、オーフェンは、その霧のいくらかが逃げるようにホールから出ていくのを見ていた。恐らくは──本体のところへもどっているのだろうが……

 やがて、クリーオウが咳を止めた。そのままうずくまるようにほこりだらけの床に顔をめている。オーフェンはふと不安になって、そろりと彼女をのぞき込んだ。

「おい……クリーオウ?」

「なんてコトすんのよっ!」

 クリーオウがいきなり起き上がりざま、オーフェンの顔面に張り手を飛ばす。いきなりの打撃に、彼は二、三歩後ろによろめいて転倒した。

「うおおっ?」

 彼自身には知るよしもないが、コーゼンと似たようなしぐさで顔を押さえて起き上がる。オーフェンは、びしとクリーオウに指を突き付け、わめくように叫んだ。

「て、てめえ! それが命の恩人にすることかっ!」

「なにが命の恩人よ! 思いっきり咳き込んだじゃない! お花畑でお父様がまねきしてるのが見えたわよ!」

「あ、あのなあ、俺は──」

 だが、手で制しながら言ってもクリーオウは聞かず、ふんぜんとこちらに指先を返し、

「だいたい、女の子のお腹たたくなんて、どういうつもりなのよっ! もしものことがあったらどーするつもり? オーフェンだって困るでしょ!」

 なんで俺が困るんだ、と思いつつ、オーフェンは弱々しく手を振った。

「いや、だから俺は──」

「常識ってもんがないの? あんな思いきりたたいて、なぐられたトコ、絶対あざになってるわよ!」

「だから殴ったのは──」

「わたし昔から、あざとかなかなか消えないんだから! こー見えても、階段から落ちたときについた額のあざが半年ほど消えなくて、しゆうどういんに入ろうか、とか本気で考えたこともあるのよ! パンフまで取り寄せたんだから!」

「その、つまり──」

もうちようの手術跡も、なんだか妙に目立つような気がするしっ! つめれいに切りそろえるのもにがだしっ! どうしてくれんのよ!」

「うるせい」

 オーフェンはいいかげんにんたいきたように言うと、め寄ってきたクリーオウに真正面から足払いをかけた。なすすべもなく、ころんとクリーオウが転倒する。

「だ・か・ら、俺がいま打ったのはおうかくまく──一応説明しといてやるが、呼吸するための筋肉だ。だからその筋肉がけいれんして咳き込んだんだよ。俺が本気で胃やらきゆうやら打ってれば、お前、咳き込むどころかけつしてもんぜつしてっぞ」