◆◇◆◇◆
「……本当にここか? 商会員A」
「ハーシェルなんだけどな」
「なに?」
「だから、ぼくの名前。ハーシェル・ルイス」
自分のことを指さしながらそう名乗る宿屋の子供──まあどうせ兄の頭の中では永遠に『商会員A』のままなのだろうが──を見返し、ボルカンは
「戦士に過去なぞいらん! 名前は捨てろ!」
(またいいかげんなことを……)
ドーチンは嘆息まじりに考えたが、なにも言わなかった。無言のまま、兄の背負っているシーツの
「名前を捨てたら、なんて自己紹介すればいいのさ」
「当然、商会員Aだ」
前に並ぶ五人の子供のひとりを、ぴしと指さして、ボルカンは言い切った。指さされた子供が、きょとんと言い返す。
「ぼくはウェスだよ。ハーシェルは──」
「あ、こっちか」
「ぼくはミケーレ……」
「じゃ、こっち」
「ランベルトだってば。覚えてよ」
「お前は?」
「トビー」
「ええい、ややこしい! なら、お前だっ!」
「ぼくだってカウフマンって立派な名前があるんだぞ」
「こなくそ──」
意地になってまたほかの子供を目で探す兄のマントを、後ろからドーチンは、くいとひっぱった。
「なんだ?」
ボルカンがふりかえる。ドーチンはつぶやくように言った。
「兄さん、名前の数、もう人数を越えてる」
「…………」
兄はそれを聞いて、
「お前ら! おちょくってやがんなっ!」
ボルカンが
眼前にあるのは、宿屋の子供ハーシェル──だかトビーだかカウフマンだか──が
あの後、幽霊が
と──
「お前ら、たいがいにしとかんと、人生で
見ると、兄が商会員の最後のひとりを捕まえて
「いいか! この
まあそれは本当だけど、とドーチンは胸中でつぶやいた。あれは実験助手のバイトをしていたときのことで、
そんなことを考えていると、突然、
「あれえ?」
と、少年はこちらを見て声をあげた。
「なにやってんのさ。こんなところで」
「いや……なにって──」
ドーチンは言葉を
「ふうん……まあいいけど」
はあはあと息を切らしながら、マジクは
「ところでさ、ほら、ぼくより早く、例の女の人がここから出てこなかった?」
「女の人?」
「ええと……ヒリエッタとかいう、やたらアブない感じの。途中ではぐれちゃったんだ」
「さ、さあ……
ドーチンがかぶりを振ると、マジクは目を
「参ったなあ……お師様にどやされるかも」
「あ。僕らと立場がおんなじですね」
と、そんなことを言っていると──
がしゃああああん!
頭上から──窓ガラスと、そこにはめ込まれている木板が
そのまま落下してきた。ぼすん、とまるで捨てられたように無気力に、ひとりの人間が地面に激突する。けっこう体重がありそうなその身体は、いったんバウンドしてから、おそまきながら受け身を取って動きを止めた。
「あ──さっきの殺し屋!」
ドーチンは指さして声をあげた。殺し屋──コーゼンとかいっていたその男は、顔面を恐怖にひきつらせ、ケガをした左肩を押さえてうずくまっている。ドーチンはあわててマジクのほうを見上げた。多分、今ここにいる中ではまだしも戦闘能力を持っているであろう少年は、なんとか
コーゼンはゆっくりと声を出した──文字通り、
「なにモンだ、あの女……」
「へ?」
ドーチンが声を発するが、コーゼンはそれきり、いきなりばたんと地面に倒れてしまった。倒れたまま動かない殺し屋を全員で見下ろして、ボルカン商会(プラス一)は、いつまでもそこにたたずんでいた。
◆◇◆◇◆
ホールまで走る間にも、背後から次々と
ホールへの入口にたどり着く──ホールの中は、二時間ほど前にこの
女神像の陰から通路をじっと見て──ホールへと最初に飛び込んできたのは、『鎧』ではなく『蛇』だった。移動速度ではあの重そうな
(くそ──
オーフェンは彫像の陰から跳び退くと、床に転がりながら
「我は見る
あたかも黒いドレスをまとった貴婦人が抱き着くように、影のような重力
クリーチャーに馬乗りになるようにして、蛇の
「我は裂く大空の壁!」
ずん! と、かまいたちが『蛇』の首を打った。悲鳴をあげて、『蛇』があぎとを開く──オーフェンは
「あばよ」
つぶやいてから、さらに、叫ぶ。
「我は呼ぶ破裂の姉妹!」
──ほんの一瞬の出来事だった。『蛇』の身体が
「まずは一匹──」
もう動かない『蛇』から視線を外して、彼は通路の入口へと向き直った。ちょうど『鎧』がそこに姿を現している。黒の甲冑は、恋人を待ち受けるように両腕を広げて──
「なに?」
オーフェンはうめいた。『鎧』の身体が、甲冑の真正面が、ばくんと音を立てて
甲冑の中には、ただ
あっと思ったときには、その何十本もの鞭がすべて、こちらに向かって飛んでくる!
「くそっ!」
オーフェンは
だがその
「我は放つ光の白刃!」
放たれた光熱波が『鎧』を打ちすえる。装甲のない、鞭だけの胸を
(となると、あいつを倒すには甲冑そのものを徹底的にたたきつぶすしかねえってのかよ)
それは必ずしも不可能なことではなかったが──
(体力がもう限界だ──こんなに立て続けに魔術を使ったことなんかねえからな)
こうなると、もうこれ以上
息を切らせてそうつぶやき、オーフェンは女神像の、純白なローブの
「──しまった!」
女神像の中から
オーフェンは激痛はとりあえず無視して、空いている右手で『手』の指をつかんだ。左腕をもぎ取られまいと必死に抵抗するのだが、『手』は決して力をゆるめようとはしないし、いくらこっちが力を入れてもびくともしない。それに──
と、オーフェンは横目で『鎧』のほうを見やって
(やるしかねえ──)
オーフェンは決断すると『手』の指をしっかりと握りなおし、絶叫にも近い声を張り上げた。
「我は踊る──」
『鎧』の胸が、また開く。
「我は踊る天の
視界が、
転移の魔術が発動し、次の瞬間にはオーフェンはホールの天井近くへと出現していた。ここまでの長距離──十メートル近い距離を転移することは容易ではない。実際オーフェンも、今まで成功した覚えがなかった。床まで数メートル見下ろして、不安定な落下感に
『手』はまだ彼の左腕にがっしと食い込んでいた。やたら毛深い人間の手首──あるいは、毛をカットされた
恐らくは転移の魔術の応用で、壁や地面から突如として出現してくるのだろうが……
だが、この空中でならば逃げ道はない。オーフェンは落下する中で『手』の『脳』をわしづかみにし、それをチューブから引っこ抜いた。ごくんと一度だけ
そうしているうちにも、落下は続く──およそ、天井に出現してから一秒と
(
「我は放つ光の白刃!」
光を放つ光熱波は、『鎧』ではなく女神像の足元へと突き刺さった──同時、彫像の足元が爆裂し、静かなる女神、沈黙の女神がゆっくりと
オーフェンは女神像の頭につかまったまま、ふりこのように身体を震わせて、像がそのまま『鎧』の真上に倒れるようにと勢いをつけた。あまり意味はなかったろうが──女神像は三トン近くはあるだろうから──、どちらにしろ、彫像はいまだこちらの姿を探している
オーフェンも投げ出されるように床に落下して、ひどく咳き込んだ。衝撃で
(これで──あと一匹──いや、ひとり、か……)
だがサミイは、さっきから姿を見せていない。サミイが姿を現していて、四対一であったなら、こちらに勝機はなかっただろう。
(なにか
もっとも、フォロノゴスは戦闘生物としてクリーチャーを造り出したのだ──戦闘に関することならば、案外と
しばらくして、なんとか
と──
ホールの隅の暗がりから、そっと足を踏み出してくる人影があるのに気づいた。その向こうにはオーフェンが駆け込んできたのとは別の通路が続いている。どうやら人影はずっと、その通路の入口のところで身を
オーフェンはつぶやくように声に出した。
「……マジクの奴はどうした?」
「外に逃がしておいたわよ。その後わたしが引き返してきたのは、わたしの勝手でしょ?」
人影──ヒリエッタが、
「ま、そりゃ勝手だがね」
オーフェンはいらだたしげに額の汗をぬぐった。
「それで、
「いよいよ危なくなったら
と、彼女は横倒しになった女神像に視線をやって、くすっと笑った。
「その必要もなかったみたいだし」
「ずいぶんとご
オーフェンは傷ついた左腕をかばうように右手で触れながら、血の感触にぞっとしていた。傷は思ったより深くはないのだが、出血のせいで感覚がマヒしはじめている。できれば魔術で
ヒリエッタはこちらに近寄りながら、肩をすくめた。
「読みが当たったから……ね」
「読み?」
オーフェンが聞き返すと彼女は、
「ええ。やっぱりあなたは最高の魔術士だわ。大陸でも有数の」
「……だから、なんだってんだ」
オーフェンは
「第一、クリーチャーはまだ全部処理できたわけじゃねえんだぞ。さっきからサミイの奴の姿がないってのに、俺はもうほとんど力を使い果たして──」
と、言いかけた瞬間……
キイ、と小さな音が聞こえた。
扉がきしみながら開く音──そして再び、ばたんと閉じる。コツ、コツ……と軽い足音が続き──オーフェンは黙して耳をそばだてた。音は、ホールのすぐ上、二階のテラスから聞こえてくる、鬼火の明かりは、そこまではとどいていない。彼はちらり、とヒリエッタの姿を見やった。彼女もその音には気づいているようだが、動じず
オーフェンはうめくように聞いた。
「サミイなら……足音なんて立てるわけねえな。ほかにもまだクリーチャーがいるのか?」
だとしたら、もう勝てない──とオーフェンは胸中で付け足した。
ヒリエッタはかぶりを振った。そして、しごく落ち着いた様子で口を開いた。
「サミイが最高のクリーチャーである理由が分かる?」
「……なんだと?」
オーフェンは聞き返したが、彼女は気にもせずに勝手に答えた。
「どこにでも突然出現して、しかもこちらからの攻撃は一切効かない……でもこんな程度のことならね、アクセルやキキュイーム、それにケンクリムにだってできることなの。サミイの本当の能力はね、本来なら
「つまり──」
オーフェンは
「サミイは──どんな方法か知らないけど──いかなる生物にも
その瞬間、足音が止まった。
見上げる──と、鬼火の明かりにぎりぎり入るところ──テラスへと続く階段の一番上のところに、金髪の小柄な少女が棒立ちになっている。
オーフェンは、意識が、ぐらりと揺れるのを感じた。
「クリーオウ?」
階段の上からこちらを見下ろしているのは、
間違いない──間違いなくクリーオウ本人だが──
ヒリエッタが、ぽつりとつぶやく。
「言うまでもないことだと思うけど──彼女は生きてるわよ。勢いあまって傷つけたりしないほうがいいでしょうね」
「当たり前だ──」
オーフェンはヒリエッタのほうに顔を向けて言いかけた。そして──
とんっ、と軽い音を立てて着地してきた気配に
(階段の上から──飛び降りてきただと?)
反射的に後ろに跳んで逃げようとする──クリーオウの振り上げた剣が、恐ろしく素早く、銀の
身をかがめて──というよりはほとんどつまずくようにして、オーフェンは
(
オーフェンは悲鳴をあげるように胸中で叫んだ。これで相手がクリーオウでなければ、右手で敵の眼球でも突いていただろうが──
と、その瞬間、クリーオウが消えた。
気が付くと、少し離れたところで少女は横倒しになっている。見ると、ヒリエッタが横から少女を
「
ヒリエッタが聞いてくる。オーフェンは倒れたまま動こうとしないクリーオウを
「ああ。助かった。すまない」
と、クリーオウの手から剣を取り上げる。クリーオウの手は冷たかった。
ヒリエッタが、ため息まじりに言った。短剣を
「あんたってのもお
「たまに、反射的な行動を忘れるんだ」
オーフェンは毒づくように言って、剣を二階のテラスの上まで放り投げた。
「《塔》にいた頃と違って、毎日毎日戦闘訓練しているわけじゃねえし……それに、そもそも基本的にはそんなもの──対人の戦闘法なんてものは必要のない生活をしているわけだからな。どうしたって
からあん、と、剣がテラスの床に跳ねる音が響く。オーフェンはにやりとした。
「終了のゴングだ……ところで、ヒリエッタ」
「なに?」
「サミイの正体が分かったぞ」
「え?」
驚いたように声をあげるヒリエッタを無視して、オーフェンはクリーオウの身体を起き上がらせた。医者がするように、軽く
「ここか」
オーフェンはつぶやくと、大きく腕をふりあげ、見当をつけた位置にたたきつける!
「────!」
声にならない悲鳴をあげたのは、当のクリーオウだった。それまでぐったりとしていた身体を二つ折りにして、ぐるんと横転し、オーフェンの腕の中から転げ落ちる──とたん、彼女は
咳き込むクリーオウの顔のあたりから、黒っぽい
やがて、クリーオウが咳を止めた。そのままうずくまるように
「おい……クリーオウ?」
「なんてコトすんのよっ!」
クリーオウがいきなり起き上がりざま、オーフェンの顔面に張り手を飛ばす。いきなりの打撃に、彼は二、三歩後ろによろめいて転倒した。
「うおおっ?」
彼自身には知る
「て、てめえ! それが命の恩人にすることかっ!」
「なにが命の恩人よ! 思いっきり咳き込んだじゃない! お花畑でお父様が
「あ、あのなあ、俺は──」
だが、手で制しながら言ってもクリーオウは聞かず、
「だいたい、女の子のお腹たたくなんて、どういうつもりなのよっ! もしものことがあったらどーするつもり? オーフェンだって困るでしょ!」
なんで俺が困るんだ、と思いつつ、オーフェンは弱々しく手を振った。
「いや、だから俺は──」
「常識ってもんがないの? あんな思いきりたたいて、
「だから殴ったのは──」
「わたし昔から、あざとかなかなか消えないんだから! こー見えても、階段から落ちたときについた額のあざが半年ほど消えなくて、
「その、つまり──」
「
「うるせい」
オーフェンはいいかげん
「だ・か・ら、俺がいま打ったのは